2011年11月4日
原田~中原
鳥栖駅近くのトスステーションホテルを出て7時30分発で原田駅へ昨日の起点8時30分スタート
今日は昨日来の峠越え以降に少し足に痛みがあり注意。今日はゆっくりと無理しないように歩こう、ここで1日予定遅れとなりそうです。やはり足の痛みがあり思う様に歩けなかった、中原駅近くで終わりとします。
途中轟木宿で地元のおじさんに話しかけられ宿場の中を約30分余り案内説明していただき有り難かった。旅の途中での心の安らぎを覚える時間であった。
殆どの時間は孤独であるから。もう少し長居したかったが時間も無くお礼をいってお別れした。
中原近くまで歩き中原駅から佐賀駅へ移動、駅近くの佐賀シティホテルに今晩の宿泊。
昨日の起点 8時30分スタート
中原着 16時30分着
歩いた距離 25km とは本日は短い
【原田宿】
福岡藩内の長崎街道は筑前六宿街道(黒崎~原田:十四里十六丁・約五十八㎞)とも呼ばれ、その六宿の一つ原田宿は、筑後・肥前と接する国境の宿場です。宿の形成は隣の山家宿が慶長十六年(1611)頃なので、ほぼ同時期と考えられています。原田宿の東構口・西構口は取り壊され遺構は全く残っていません
昨日の起点、筑紫神社の南側参道の鳥居より出発

ここの辻はかつての追分で、鳥居から見て左(東)長崎街道で山家へ、右(西北)は大宰府天満宮への参詣道で博多街道とも呼ばれた。追分にあった道標は道路整備により別途保管されているそうです。
この辻は原田宿の東構口であったが、道路整備により遺構は全く残っていない。代官所跡は東構口を西北へ博多街道を少し行ったところにあったが、所在地跡は確定できない
東構口を南に進む原田宿の街並み。東構口跡を入った右手に、代官所役人の下代屋敷が三軒並んでいたそうです

少し歩いた先から街並みを振り返ると、殆んど新しく建て替えられており旧家は残っていないが、綺麗に建ち並んでいて宿場の雰囲気が漂う

200m程進むと宿場の中央辺り左に 浄土真宗本願寺派日東山伯東寺

伯東寺の西側前の街道を進みます、お寺の向かいは 郡屋跡

お寺に並んだ南隣に 長崎屋 でした伯東寺の前から振り返ったところ

道標 「筑前六宿 原田宿場跡」
原田宿の旅籠数は享和二年(1802)頃には長崎屋はじめ8軒程通りに建ち並んでいるのが確認されています。


お寺から80m程先の十字路左に西本内科医院が立っています、その先50m程先で突当り真っ直ぐ進み原田駅入口信号交差点に出ていましたが50m程の間は街道消失しています

かつて伯東寺から原田駅信号交差点までの間に、旅籠・商家、左には御茶屋跡、右には祇園社・関番所跡がありました。
また原田駅入口信号交差点あたりはかつての、西構口跡ですがここも全く面影はないです。
さらに原田駅入口交差点から先の旧道は、新しい道路や住宅地に変わり消失しているようです。止む無く信号交差点から車道を進みます。左にマルキョウ、右におだ歯科医院を見て、駅前バス停を過ぎると左に緩やかにカーブしています。原田駅入口交差点から150m程です。かつての消失した旧道はこの辺り、右にダイソーを斜めに横切り原田6の住宅地を西に200m程進み、原田5でJR鹿児島本線を高架道路橋で渡る踏切に出ていたようです。その先改修された新道を左に緩やかにカーブを描き200m程進みます、新道の左に沿って旧道らしき道があります。少し複雑な辻に出て、街道は左(南)への細い道を進みます。
150m程すこし蛇行しながら進むと再び鹿児島本線に突き当ります、小川がガード橋の下を流れ旧道も同じように潜り、数十m線路に沿って右に折れて、左に折れますと新道の十字路に出ます、その先はコート美しが丘アイランドで道は消失している、迂回して南側の筑紫野バイパスの東側、積文館書店・エディオンの前に出て側道を筑紫野バイパス南に進みます。
旧道が消失しているので、私は前述の駅前バス停の南の十字路から100m程進み、左に自動車販売はるだがある左T字路を右に折れて、200m程進んだ原田5のJR鹿児島線の高架道路に出ました。高架道路の東詰辺りに消失した旧道が通ってきていました

高架道路上から先を見たところで、そのまま新道は左にカーブしている所で、手前は消失しているが旧道跡の様です


200m程進んだ先で左に入る旧道

緩やかに蛇行しながら150m程南へ

鹿児島本線のガード下を小川と共に再び潜ります

鹿児島本線の高架下の旧道

右に折れて数十m線路の側道を進むところ正面突当りを左に折れます

すぐ新道に出ますが、コート美しが丘アイランドの建物でこの先消失旧道はズタズタです

止む得なくそのまま新道を右に進み迂回します

150m程新道を右のJR線に沿って進むと、左手の筑紫野バイパス道路と右手先の17号線と繋ぐ高架道路を潜ります

高架道路の下から130m程で左からの筑紫野バイパス南信号交差点に出ます。広い道路です

広い3号バイパス道路の左側道を暫く進んでいきます
国境石
肥前国(佐賀県)と筑前国(福岡県)の境界を示すもので、文化四年(1807)に対馬藩と黒田藩とによって建てられた。元はここより東側約十五mのところに建っていた。三号バイパス工事で移設された。国境石を建てる位置については往時それぞれの藩の言い分もありかなりもめたようです。
筑紫野バイパス南信号より、左にヤマダ電機を見ながら国道3号線沿いの緑地帯を300m程進むと、三国境信号交差点に出ます、更に120m程先に三国信号交差点があります。3号線に沿った側道の左側緑地帯の間にある国境石
国境石の道標

一番手前の 国境石 「従是東筑前国」

背中合わせの 国境石「従是東筑前国」「従是西肥前国対州領」

一番向こうの3つ目の 国境石「従是東筑前国」


佐賀県への表示

左、温泉施設アクアフォーレに入る道

すぐ先に 国境石 「従是北筑前国」

基壇を加えると高さ4.5mを越える福岡藩内最大の国境石

かつてはアクアフォーレの裏側(東)に小山があって、その坂道越えを「三国坂」と呼ばれる険しい坂道で、丁度その頂上が筑前・筑後・肥前三国の境となっていた旧道で、頂上には境界を示す「三国境石」が残っているそうで、その道筋にも国境石が残っていて「従是東筑後国」と刻まれているそうです。その三国坂のあった峠も明治十年代に入り、国道建設・鉄道の敷設により開削されて今はその跡をわずかだが見ることができるが、坂道は消失しています

上 三国境石 筑前、筑後、肥前三国の境に立っていた 下 国境石 「従是東南筑後国」 資料整理の時追加したものです

3号バイパス道路より左に入る所三国信号交差点の手前で、3号線に平行した道で、長崎街道の案内石標が建っています

長崎街道の石碑 の旧道を進みます

右手の3号線の車の騒音に比べると少し入っただけで静かで旧道の面影が残ります

暫く歩くと旧道は雑木林で消失しています。三国境石のある三国坂はもう少し左のようです。場所のよく知っている人でなければ三国境石や国境石へは行くのが難しい

止む得ず右に下りて3号線沿側道を、関屋川に沿った道を進みます。振り返ったところです

やがて旧道も無くなり3号線の歩道を進みます。旧道は左の関屋川のさらに左(東)側を通っていましたが今は消失しています

九州自動車道の高架を潜ります。旧道は左の高台を通っていました

高架を潜った先でJR鹿児島線けやき台駅を過ぎていきます。右手の高台にはけやき台の住宅地が広がります

けやき台駅の3号線を跨いでいる連絡橋から歩いてきた道の右斜めを見る。関屋川とその右手前方向辺りがかつての旧道が通っていた三国国境の三国坂付近振り返ったところ


けやき台駅の連絡橋からこの先の街道(南)は3号線の左の建物の敷地内を進み、3号線 に沿ってけやき台駅から200m程先のドライビングスクールの前あたりで、右斜めに3号線とJR線を横切り130m程南西に進んでいたが、今はそこまでの道は無くなっていますのでバイパスを進みます
迂回するために3号線をそのまま進みます。やがて歩道橋白坂信号交差点に出ます、3号線の左(東)側を歩いてきたので、白坂信号交差点に架かる歩道橋で西側に渡ります

歩道橋からの右(北)の3号線と歩いてきた道

左(南)側のこの先の街道

長い歩道橋を渡ります、JR線も跨いでいます

西側で歩道橋を降ります歩道橋を下ると降りたところが旧道ですが、少し真っ直ぐ行く道を進んで、先ほど消失した先の所に行って確認してみます。これは地図上で見たのであっているか分かりませんが

これが街道歩きの一つの楽しみなのです
真っ直ぐの旧道(結果的に旧道)を入り右に弓なりにカーブしながら100m進むと分岐があり右の道を進むと、更に100m程右にカーブしながら進むと、左は集落内からけやき台駅の方向に進む道で、右はやや深い草地になっていますが旧道跡の様です。草地を100m程進むとまさしく前述のJR線・3号線のすぐ先東側にスクールが見えます。旧道跡と確信、この瞬間がたまらなく嬉しい、その先の旧道は消失してます

そこから再び戻ります、この写真は分岐したところを映したものです

もう一度分岐したところから見たところです

前述の歩道橋の袂に戻ってきました歩道橋を下り左に折れます

歩道橋の下った正面に大きな石碑が建っています

石碑二基とお堂
白坂の街並みでかつて茶屋もあったそうです

石碑の前を西南に白坂集落を進みます白坂は肥前国対州領で 白坂の陣屋跡 がありました



180m程先でT字路に出ます、正面にセブンイレブンがあります

T字路を左に折れるところに、石柱があるがチョット読めません

左に折れたすこし先で、JR線の踏切に出ます

踏切を渡ると右にJR線に沿って進む道があります。真っ直ぐ先の信号は基山登山口信号交差点。先ほどにT字路を右に行くと基山(標高404.5)があります

R鹿児島線を右に沿い暫く南に進みます

少し進んだ先で右に踏み切りを見て細い道を進みます

やがて高原川の関屋上橋を渡ります関屋川は左(3号線の西)側に南東に流れます。旧道は3号線の東側に出て、川に沿った道を150m進み左にルミエールのある十字路を右の関屋川に架かる橋を再び渡り3号線の上町信号交差点に出ていましたその旧道が残っているようですが、上町の交差点に来なければ対岸に行けなかった

止む得ず左の3号線の側道に沿って180m程進み上町信号交差点の西詰に出ます

橋を渡った左側道沿いに 長崎街道の道標

関屋土塁
関屋土塁は、663年に日本の百済救援軍が唐・新羅の軍に敗北した白村江の戦いの後、665年に築かれた基山山頂近くに築かれた基肄城(きいじょう)古代の山城の関連施設と伝わり。西側の千塔山丘陵と向平原丘陵間の「とうれぎ土塁」を経て基肄城への防衛ラインで、大宰府の守りを目的として築かれた。現在は、道路・線路・住宅等により破壊が進み殆んど残っていない


上町交差点の西側T字路の辻を右に折れるとすぐJR鹿児島線の踏切を渡ります。左を見ると上町信号交差点で関屋川を渡ってきた旧道がここで合流します

JR踏切を渡ったところから振り返る

踏切りから左を見ると基山駅が見えます

踏切りを越えると道なりに左にカーブして進みます

すぐ右に 若宮八幡宮

石段の近くに 猿田彦大神

若宮八幡宮の 拝殿

すぐ先右手に 松巌山青龍寺

そしてその先の十字路で左はすぐ基山駅です。街道は真っ直ぐ進む

左の基山駅

交差点から蛇行して200m程進みます

交差する道路が低くなっているので、少し右に迂回して前方の旧道に入る

基山駅前の通りより300m程南下したところで右から小川が接近します。接近した右手に長崎街道の道標が立っています。川の右手対岸に清酒基峰鶴の旧家が建っています
清酒基峰鶴
この辺りはかつての木山口(基山)です
右手清酒基峰鶴のところで川に架かる橋があります。橋を渡らず右の川に沿って250m程南下するのが旧道か、右に橋を渡り左に折れて川を左に沿って250m程南下するのが旧道か分かりませんが、一応後者の道を進みました。
どちらの道でも南下した川が東西に流れる秋光川の手前の道に突当り、秋光川で旧道は渡れません。
T字路を右に折れて、前者は川を渡り後者の道と合流して数十mで車道に出ます。 かつての旧道は真っ直ぐ川を渡っていたのだろう、今は川の対岸には、ドラッグコスモス・コメリがあり道は消失しています

川の東側から見た写真で、手前の道が前者、対岸の道が後者です

車道を左に折れて秋光川に架かる高島橋を渡ります

橋のすぐ先右に 長崎街道の説明と道標

左のマックスバリュー・ダイソーを見ながら車道を南下します

その先で山下川に架かる橋を渡ると150m程で左にドラッグストアアモリがあるところで、広い車道は直角に右(西)に折れていきますが、旧道は急に狭くなり真っ直ぐ進んでいきます

暫く方向を南西に変え今町の広大な東公園に向かって進む途中、街道沿いの 祠

公園の東側に出て街道は南に方向を変えます、その丁度左側に高い石段の神社があります

石段を上ると鳥居と拝殿がたっています 天満神社

天満神社の大黒像

街道に戻り今町に入りますすぐ右に 庚申尊天

長崎街道の今町は、北の木山口から南の田代宿間の街並みで街並みに茶屋が三軒並び家並みが続いていた。現在も家並みが残り街道情緒が残る


今町の街並みの 祠

祠の前からの今町の街並み

左に今町公民館を見て進みます


田代宿への長崎街道の案内がたつ、暫く進むと弥生が丘駅前信号交差点に出ます。
交差点左100m程先で弥生が駅があります。街道は交差点を真っ直ぐ

交差点から150m程進むと山下川に架かる高見橋を渡ります赤坂町は道が改修されて面影は失われた

暫く新興住宅地を南下します

34号線の田代昌町信号交差点に出て横断します。交差点の右は長崎自動車道の鳥栖ICです。横断した先100m程で長崎自動車道の高架下トンネルを潜り南側に出ます

南側に出て田代本町を200m程左斜め(南東)に進むと、正面にJA福祉デイサービスセンターがあります。そこの交叉点は五差路で福祉センターを左に見て右(南)に進みます

五差路の左の角に
田代昌町(現:昌町)の追分石 「左こくら・はかた 右ひこ山」右 ひこ山道は「日田道」と呼ばれ、東へ姫方村、幡崎村を経て、秋月街道と薩摩街道が交差する筑後国松崎(現:小郡市松崎)へと通じていた




追分石の辻から今通ってきた旧道を振り返ると、正面奥に高速道の高架下トンネルが見えます

追分石の辻を右(南)に折れた昌元寺町の宿場街道で130m程進みます

【田代宿】
長崎街道の田代宿は肥前国に入った最初の宿場です。小倉の城下町より南西に約84㎞のところです。田代は玄界灘に浮かぶ朝鮮との国境の島、対馬の領主対馬藩が九州に飛び地として与えられていた貴重な“米蔵”であった。慶長四年(1599)田代を飛び地領として与えられた。しかし水害も多く米の収穫も上がらず農民は苦しい生活苦に悩まされていた。
八代将軍吉宗の頃売薬業が盛んになり、対馬藩による朝鮮との交易において薬の原料の輸入が可能となり、田代売薬の行商、特に置き薬の商法で九州・中国地方への販路を広げ、結果江戸中期以降、富山・大和・近江と並ぶ四大売薬として名をはせた。「千金丹」と名付けられた代表的な名薬も誕生して宿は繁盛した。
明治維新後、対馬は長崎県に田代は佐賀県に編入された。今もその名残を留めています。
田代町は「田代五町」といわれ、北から入ると昌元寺町(現:昌町)~先で右(西)に鉤形に曲り新町・上町・下町(現:大官町)と東西に続いている~更に左(南)に鉤形に曲り外町と続く宿場の街並みであった。街並みの長さは十町一間半、町の周囲に堀を巡らし、その土手には松が植えられていたそうです。
対馬藩の代官所が置かれ小さな城下町の様相をしていた。
昌元寺町を南に進む、当時の町並みの長さ九九間半と記録されている。旧家の建物の角で右に鍵形に曲がります

右(西)に曲がった東西の宿場の街並みで昌元寺町から新町に入ります

新町を少し進むと右手に伝:代官所通用門があります

伝:代官所通用門

代官所通用門跡のすぐ先右に田代新町の 八坂神社
元は祭神牛頭天主の祇園社八坂神社の前は田代新町の右T字路の信号交差点、左角に鳥栖田代郵便局があります


八坂神社の 拝殿 境内には銀杏や欅の老木が立っています

八坂神社の前辺り、新町と上町との境には 東構口 があったそうで、五段ほどの石段を上って上町に入っていたとのことです

八坂神社のすぐの上町に入った右手奥に立派な門を持つ

天台宗光林山昌元寺 通称:肥前薬師 本尊:阿弥陀如来

境内の 六体地蔵尊

昌元寺に入っていく途中左に 一向宗・浄土真宗本願寺派浄覚寺


街道に戻って左(南)手に 浄土宗西清寺

街道に再び戻り上町の街並みを見たところ右に健栄会・門司歯科医院があります

健栄会のすぐ先右に 太田山観世音道の石柱 が立っています

この道を北に、左に田代小学校を見て800m程入っていくと、太田山安生寺 があります。角にその 案内道標

また上町の田代小学校が、かつては対馬藩田代領の政治の中心地で 田代代官所跡 が置かれていた







田代代官所跡前の上町の街道を振り返る代官所跡からの西側は下町となります

すぐ西側の下町に建つ 藩校:東明館跡碑
下町には 上使屋(御茶屋) が代官所の西側に隣接していた。



少し先、右T字路で左に折れる辻があります。その右手は 高札場跡と一里塚跡 でした。
また左角は 問屋場跡 ここで東西の宿場街並みは左に折れます、昌元寺町の辻から下町の辻までの東西は321間

ここを左に折れて南へ

右の 高札場・一里塚跡の祠


T字路の少し西から南に入る街道を見る

左に折れて振り返り、問屋場跡や高札場・一里塚跡を見る

左(南)に折れた外町の街並み。外町は長さ130間続きます。左に久光製薬の鳥栖工場が広がります

この街並みにはかつて多くの 旅籠が軒を連ねていたそうです。途中右に 祠

左に田代外町の 天満宮

天満宮の斜め向かいに 荒木家の脇本陣(町茶屋) がありました


天満宮の前からの街並み

その先右にある 祠と外町の街並みを振り返る。この辺りで宿場の南端となり 南構口 があったのだろう

暫く進むと 田代外町の追分石とお堂があります、街道は分岐し左の旧道は 筑後有馬藩の久留米道 右へ

田代外町の追分石 「右さか 左くるめ」

ビックリ非常に苦しそうだがしっかりガードしていただいている

お堂の中の お地蔵さん

分岐から150m程進みますとT字路に出ますので右に折れます。左に行くとJR田代駅に出ます

右に折れたすぐ先で十字路を越えます

十字路から100m程先で分岐を左に進む

少し先で雨迄川(尼川)に架かる橋を渡ります

さらにその先150m程で大木川に架かるかわはらだ橋を渡ります。その先暫く南西方向に進みます

かわはらだ橋から330m程先、左にコーポスワンのあるところの左T字路を右に折れます

右に折れる左手に 水影天神社

境内の名木 タブの木:樹齢150年


境内の 八龍大神

石堂神

街道に戻り鳥栖村(現:本鳥栖町)を西に進みます鳥栖村のはずれには 代官所の晒し場 があったと伝わります

西に折れてから本鳥栖町を330m程進むと鳥栖高校南信号交差点に出ます。古野町に入り交差点を横断して、古野町筋を100m西に進むと古野町信号交差点に出ますので、交差点を左(南)に折れます

古野町交差点の左角に

真言宗醍醐派大昭寺

古野町交差点を左に折れて進むと、瓜生野町(現:本町)へ入りますこの瓜生野の町並みは約1㎞南北に続きます。宿場町でないが江戸期に入り、その間、200軒近くの人家が並んでいました

古野町交差点を左に折れて150m程先左に
鳥栖八坂神社(祇園社)
正安元年(1299)山城国東山八坂の祇園宮からの勧請となる。境内には生目八幡宮も鎮座しています


その先本町北信号交差点を横断した右に 浄土真宗本願寺派本照寺


本町北信号交差点の先の瓜生野(本町)の町並み。本町北交差からさらに400m程南に真っ直ぐ進むと本町交差点に出て横断します

本町交差点を左に行くとJR鳥栖駅に出ます。本町交差点の先は瓜生野今町(現:秋葉町の町並みに入ります。ところどころに旧家が残っています

本町交差点のすぐ先で小さな側溝を渡りますやがて300m程進むと秋葉町1で左T字路の辻、右角に桜井接骨院があり左に保育園、その鉤形の角を右(西)におれる町の南端です


辻の左手奥に 秋葉神社

左T字路を右に折れる 鈎形の辻

右に折れて、瓜生野村(現:元町)を西進します

400m程緩やかに左にカーブしますと、JR線の高架が見えてきたところで振り返った町並み

JR長崎本線が鳥栖駅で鹿児島本線と分岐して西に走る高架下を潜ります、潜った先から振り返ったところ

高架を潜ったすぐ左手に小さな杜があります

菅公史跡 姿見の池並び腰掛け石の碑


姿見の池と腰掛の石 菅原道真公の伝説の地



すぐ先の信号交差点で轟木川に架かる境橋(対馬藩側では西郷川、佐賀藩側では番所川と呼んだ)を渡ります
境界の驫木川 です川の東側が肥前国対馬藩領・田代、西側が肥前国鍋島藩領・驫木、


境橋を渡るが、かつて橋は架かっていなく飛び石で川を渡っていました。肥前鍋島藩最初の宿に入ります。番所川を渡りそれに平行するように側溝(濠があった)を渡ります

【驫木宿】
驫木の名前が出てくるのは、鎌倉時代より肥前の地頭土々呂木氏が所領であったころからと伝わる。驫木宿の東には番所川、西には薬師川があり宿の外堀の役目を果たしていた。
宿は番所川を入ると西に上町を150m程進むと、右奥の日子神社の南側の右T字路で,鉤形に左(南)に折れます。中町・下町と真っ直ぐな町筋を300m程進みますが、この筋が宿の旅籠等中心的な町筋であった。下町の南端で街道は右(西)に鉤形に折れます。西に折れて新町の街筋を250m程進むと、薬師川に至り驫木宿はここで終わります
濠の左側に 番所跡 があった上町の街筋を150m程進みます

ここの宿でうろうろと見学していると、親切なおじさんと会って、宿内をわだわだ案内をして頂いた
上町を進んだ右T字路を左に折れ中町に入り南に方向を変える鈎形になります。その右手(北)奥に
日子神社
境内には肥前特有の鳥居の形で肥前鳥居と呼ばれる、狛犬の一対

また、上町で左に折れる西側辺りに 制札場(高札場)がありました。中町筋には旅籠が並んでいた。その一角に
御茶屋の表門があり、奥の方(東)にかつて濠に囲まれていたところに御茶屋がありました
驫木宿御茶屋跡

御茶屋跡の生垣

案内していただいているおじさんの少しですが背中



宿場内地図

轟木で宿場内を見学していると、宿場内をよく知っている地元のおじさんに話しかけられ、宿場内をわざわざ案内していただいた、もっとゆっくり話をしたかったが時間がないので小一時間で終わったが親切がうれしかった一日でした、ありがとうございました
左に折れる辻より上町の宿場中心の街並みを振り返る

左に折れる辻から中町の街並みかつての旅籠が建ち並ぶ様子は偲べない

左に折れて少し進んだ先から振りかえり、日子神社を見る。この右辺り奥に入っていくと御茶屋があった

御茶屋の傍に広場があり、供侍が勢揃いする場所 勢屯り(せいだまり)跡

勢屯り跡の先(東)には 浄土真宗本願寺派妙覚寺 この付近民家の一帯が広場であった

中町で左に、いとうクリニックがある先の十字路を越すと下町に入り少し進んだ突当り鉤形の辻を右に折れます
この辻でおじさんとお礼を言っておわかれました

右に折れた先、新町の街並み新町は大工・鍛冶屋などの職人町でした。新町宿の西にこんもりとした朝日山(標高132.9m)山城跡が見えます

新町を250m程進むと、轟木宿の西端で薬師川に架かる薬師橋。その傍にかつて薬師堂が建っていたのでその名がついた

薬師橋から新町の町並みを振り返るかつて東の番所川と同じように薬師川と濠の間に土塁が築かれ宿の防備としていたそうです

すぐ先で側溝を渡ると道は分岐しています、左にレンゴー鳥栖工場があります

右側の道を進みます、案内標柱が建っています。250m程先で再び左の道と合流します

合流した先、左に鳥栖環境開発総合センターがあります。この付近は開発され工場が立ち並んでいます、その間を街道は進む。右に九州サンベンドのある前で道は分岐していますので右を進みました

すぐ先で348号線の鳥栖西中学校南信号交差点を横断して、九州新幹線の高架を潜ります

高架の袂に大きな 碑 が立っています

高架の右斜めに、新町通りから見えていた朝日山です。筑紫一族の朝日山城址で明治七年(1874)佐賀の乱で佐賀軍が立て籠もった朝日山です、激戦のあと佐賀軍が敗れ長崎街道を西に敗走しました

朝日山を見ながら安良川に架かる安良川橋を渡りますと
【安良宿】
佐賀の鍋島藩は他藩と違って、領内に沢山の分家や親族が小さな領主となって形成していた。よって街道筋もそれぞれの支配者が思い思いの村や宿場を造り、それぞれ侍が住み肥前路には、筑前六宿のような統一された宿場町でなく、小さな宿場が沢山ある面白い街道です。
この安良宿も小さな宿で今は新しい道路がひかれ宿場の面影がありません。
安良は朝日山南麓に広がる古くからの集落で、朝日山は建武元年(1334)朝日一族によって山城が築かれ、以来250年間城主は変わっても山城として存在していた。
江戸時代に入り長崎街道沿いに、人家四十軒余り茶屋もあった、旅籠はなかったようですが、鍋島藩主の参勤交代時に轟木宿に宿泊できない供のものは、ここ安良宿にも分宿したようです。
轟木宿を出てから1㎞程の安良川を渡ったあたりです。右手に朝日山を見ながら安良公民館の前を通っていきます

公民館の手前で右手の石段の上に お堂


石段の上の広場には 石碑 が並んでいます

境内には歴史を感じる安良の大楠二本

やがて街道はブリジストンGCの中の 安良峠を越えていきますが、今は峠の雰囲気はありませんが、かつてはきつい坂道の峠越えであったようで、峠には茶店もあったと伝わります
峠から下り村田に入ります。34号線の信号交差点を横断します。横断した先はかつて村田鍋島家の城下町村田宿に入ります


【村田宿】
安良宿から峠一つ越した短い区間です。村田宿は佐賀藩の一族、村田鍋島六千石の領地であった
横断したすぐ先左、村田宿の東口に 村田の六地蔵と延命地藏 が並ぶ六地蔵は文化五年(1808)の銘があります


街道はすぐ先で右(西)にカーブして小さな川を渡り、西に村田宿の街並みが続いています

落ち着いた静かな街並み暫く西に進み信号交差点を渡り交差点を右(北)に300m程行くと 村田八幡宮があります(寄れなかった)


さらに西に進んでいくと、沼川に架かる橋を渡ります

川を渡ったすぐ先で、右からの国道34号線に合流しますが、車に注意しながら横断して、斜め左の旧道に入ります。左に江島町バス停があります

斜め左の旧道に入った筋

右に東邦生コン

250m程進んで再び左からの34号線の合流します

長崎まで130㎞

700m程国道34号線を西に進みます、途中右手に松岡病院・ひまわりケアセンターが建っています
やがて佐賀競馬場前信号交差点に出ます。すぐ先に歩道橋が架かっています。歩道橋の上から国道34号線の今歩いてきた東を見た眺め

西側を見たこの先の眺め、競馬場前バス停の先、右にパナソニックの工場、左にGSが見えるところを左に入ります

左手に佐賀競馬場その手前駐車場なのか大広場となっています

GSの手前左に入りますが、廃業しているようで、また景色が変わることでしょう。村田町五反三歩地区この左斜め奥には大きな 五反三歩池 が広がります、池は浅いので普段は水がなく草の生える地帯に変わります

村田町五反三歩の集落をぬけていきます

集落の途中左に お堂

450m程進むと再び右からの34号線に合流します。合流後、国道を白石東・みやき町白石の信号交差点を越えて、すぐ左のビーエス物流センターを見て進むと、道は分岐しますので左の旧道に入ります

この辺りはかつて 大刀洗峠 であったが今はその面影は全くない。峠は養父郡と三根郡の境界であった。
緩やかな坂を下っていきます正面角にGS、北茂安町白石信号交差点 分岐は左の道

【中原宿】
村田宿から中原宿までもそれほどの距離が離れていない。宿には旅籠が六軒ほどあった、東の木戸から西の木戸迄600m程です。ほとんど宿場の遺構は残っていません
分岐道を左に入り集落を進む

長崎街道の道標が立っています

左に 祠

続いて左に 祠

続いて中原川の手前左に、辻の恵比須像


さらに続いて左に 白石神社参道の石灯籠 左の道を数百m入っていくと があります

中原川手前左に 馬頭観世音と山神社
馬頭観世音は安永四年(1775)、山神社には文政十一年(1828)と刻まれてます

中原川を渡りますとそのあたりに 東の木戸跡 がありました。すぐ右手に祇園宮があります

祇園宮(社)

鍋島藩の土木の神様といわれた成富兵庫茂安を祀っています

祇園社に続いて、右に旅籠、泉屋長崎屋・桜屋、左に松坂屋・大坂屋・岡崎屋と続いていました。石碑 があるが読めない 「…上原郵便局・・・」


左に赤いトタン葺きの屋根が 旅籠岡崎屋跡

街道を挟んだ向かいの 造り酒屋跡に 陰陽石

中原宿の街並み


街道沿いにある 祠

途中宿場内の十字路があります、その先300m程進むと

西の木戸跡
付近ですかつてはこの前辺りで街道は左斜めに入り200m程先で、この道と合流して寒水川を渡っていました



畦道のような旧道跡が残っています

畦道の先で十字路に出てその先舗装道になっています

中島集落です、かつては 茶店が当たようです少し先で右からの道に合流します


合流して50m程進むと寒水(しょうず)川に架かる橋を渡ります、昔は飛び石で渡ったようです

川を渡って数十m先で、右に入る旧道跡が残っています

しっかりとした草地ですがよく残っていたものです


距離にして200m程ですが大満足です、管理していただき地元の方々にお礼を言わなくては
あるいていてこのような旧道跡が残っていると嬉しいですね


左から前述の分岐した道が合流します

合流したところから、素晴らしい旧道跡を振り返る

ここの入り口にはちゃんと、長崎街道の道案内板が立っています

合流したすぐ右に 祇園神社


祇園神社から100m程先に東寒水信号交差点があります。これから先は寒水宿に入ります佐賀は前述のとおり、宿との境は殆どわかりません
本日はこの交差点で終了、交差点を右に折れ600m程北に行くとJR中原駅へでます。佐賀駅までJRで移動してサガシティ―ホテルに宿泊、16時30分着


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