吉野路 2

2日目2011年4月4日
近鉄吉野線上市駅から宮滝へ万葉の道を経由し吉野山へ七曲がりを下り吉野駅へ
6時47分で上市駅へ、ここから国道169号に沿って宮滝へ進む

近鉄上市駅より坂を下ると旧道に突き当たるので左に進む。その向こう側に吉野川との間を走っているのは国道169号線

立野地区を通り東熊野街道と重なって進むと前方に見える山が妹山、大名持神社

吉野川に流れる支流立野口で橋を渡る、左から先日多武峰街道を歩いてきた県道が国道169号に突き当たる。また県道左に行くのは伊勢南街道(大和街道の続き)の一つの旧道でもある

国道左手に妹山、大名持神社

一つ目の信号は真直ぐ左への道は津風呂川に沿って進んでいくと津風呂湖に至る。津風呂川を堰き止めて造られた人道湖。

この国道は歩道が殆どい所に大型車が多く歩くのには危険な道である。川向かいにも道があるがこちらを歩く。暫く歩くと左斜めに坂を上る細い道がかつての旧道、左の山麓にある集落に進む。この辺りは河原屋地区

途中左に がある

右下を国道が走っているのでこれが旧道と確信する。

民家が並んでいる調査不足であった。車の喧騒から外れた素晴らしい北樽井集落で街道風景が残る

川沿いの高台にあり後で169号がつけられたようだ。この道は東熊野街道でもあり静かな山村の風景

集落中程左手にお寺が名前を逸した

お寺の前旧道を挟んだ向かいに 村社八幡宮

集落の街並みをゆっくり進む、この辺りよく知っているつもりであったが、このような素晴らしい集落と旧街道があったことは知らなかった。右下の国道と違って街道らしき雰囲気が感じられる

結構長い集落下の国道ばかり走っていたので大発見朝から気持ちがいい

右手に茅葺の民家を見つけたいつもながら子供の頃の原風景を見ているようでホットする

何時までも夢は続かない右に曲がり右からの国道に合流するところ

向かって右の道を下ってきた、右に中荘温ります

中荘温泉の先で国道右下に下る道がありこれも旧道だろう

間違いなく旧道で細い道が続いている

その先で旧道が民家で消滅していて左に上り国道に出る

国道に出た左少し高台に 薬師寺が見える

本堂

境内に自然石の石仏か祀られている

その先、国道を進むと宮滝地区に入る左にカーブする国道と分かれ右の旧道に入る

数10m先右手に、宮滝遺跡の石碑が立っている

宮滝の集落入り口で国道は左側を平行して走っている

右手金網でフェンスしているところに 遺蹟案内道標フェンスの途切れたところを少し入ると

広々とした遺蹟跡であるが近くの人に聞いてみると、ここだけでなく宮滝地区そのものが遺蹟跡とのことであった。宮滝遺跡  吉野川の両岸には巨岩・奇岩で水も綺麗で付近からは縄文時代以降の遺蹟が出土している。天武・持統天皇がよく訪れた吉野の宮跡といわれている。

その先の宮滝集落を進む、左の国道は大型車で車が多く危険だが一筋横の街並みに入るだけでこんなに静かで街道の面影が残っている。

街並み中程の交差点で、吉野路・万葉のみちはここを右折れする。東熊野街道は真っ直ぐ進む

交差点を左に曲がり少し(寄り道)をする左に曲がるとすぐ国道169号と合流、熊野への道でいつかこの道を歩き熊野へ行きたい。国道の向かい側に吉野離宮顕彰碑の石碑が立っている

少し北側の山裾に吉野歴史資料館がある時間が早くまだ閉まっていた

資料館の西隣にある 神社

その西側にある 浄土真宗本願寺派長鳴山 蓉生寺 桜が満開だ

元に戻る国道沿いの宮滝醤油醸造店

     いよいよ、万葉の道・吉野路を歩く

宮滝河川交流センターを左に見て吉野川に架かる柴橋を渡り突き当たりを右に進む

交流センター前向かいの学校前にも史跡 宮滝遺蹟跡の石碑が立っている

柴橋からの展望  昔の柴橋は木や柴で作られここから500mほど上流に架かっていた。上流正面の山は「舟張山」といいふもとの里は「菜摘」ですぐ右手に迫る山は「三舟山」という。川幅の最も狭いところの岩の間に昔の柴橋があった。
下流左手の山が「象の中山」といい、その山裾を流れる渓流が「象の小川」で吉野川に注ぐ所を「夢の和田」という。直ぐ右手松の生い茂る岩山を「中岩の松」というが余りの美しさに吉野山に南朝の皇居があった時に、長慶天皇が幼い時狩りに来られこの松を時の後村上天皇に奉じようと岩ごと松を皇居に持ち帰れといった程美しかったと説明されている。

上流を遠望かつてはこの500m程先に柴橋が架かっていた

下流の遠望で正面の山を越えたあたりが吉野山

ということは橋の手前の交差点を右に曲がるのではなく、そのまま国道に沿って500m程東熊野街道と重なって進み、その先の菜摘地区で左に行けば370号線東吉野方面から松阪、右に行けば169号線の東熊野街道で大台ヶ原、熊野へと行く道が分かれる。右へ進むと菜摘大橋が架かっており多分その辺りに往時の柴橋があり、橋を渡りそこで東熊野街道と分岐し吉野川に沿って現在の新柴橋へきていたのだろう。確かに今の柴橋のところでは川が深く険しく対岸に橋を架けたり徒歩渡りは不可能であっただろうと想像できる。

柴橋の対岸からみる、遠望に歴史資料館が見える

夢の和田と吉野川と柴橋

夢の和田の先100m程で民家の先の分岐を左の山道に入る右の道は川沿いに進みます

分岐の先の山への道

左に曲がる角下に橋跡の案内がある、昔橋があったのだろうかここから本格的に万葉の道に入る吉野山と宮滝を結ぶおよそ5kmの古道象川に沿ってせせらぎの音を聞きながら杉木立の古道をたどる万葉人の道。2時間近くかけてゆっくり山の中を吉野山に向かう。

暫く進むと左手鬱蒼とした樹林の中、象川(きさのおがわ)に架かる屋根のある木橋を渡ると 桜木神社

立派な石垣の上に建つ 拝殿

御神木大杉 樹齢約7-800年、高さ35-40m、直径17-20m、幹回り約6.5ー7m

古道に沿って流れる渓流で大和の水31選の一つ、吉野山の青根ヶ峰や水分神社の山あいに水源をもち吉野川に流れている。万葉の歌人大伴旅人も歌を詠んでいる。

桜木神社を後に上流に進むこの辺りは車も殆ど走らなくゆっくりと歩ける。道は舗装されているし上流に集落がある

暫くは杉木立の中などを独り舞台で歩く

里が見えてきた、右手にそば畑、ほたるの里の案内が立っている。道はこの辺り平坦で日浦橋を渡り、川が左から右に変わる

喜佐谷の集落の入り口集落の背後の山に入るようです

左に 大善寺

長閑な山間の喜佐谷集落

集落の終わりで少し広場になっており自動車もここまで来れるが、シーズン以外は地元の人以外は殆ど通らないだろう。

突き当たりの右手に お地蔵さんが並んでいる

ここで川は左に喜佐谷川、右に象の小川に分かれる
万葉の象の小川の案内板のところを右に上がっていく。ここからは車も通れないし地道となるのでいよいよ本格的に吉野山への登り道

登り口、左手に埋もれるように自然石へ歌が刻まれている
        皆人の 恋ふるみよしの今日見れば うへも恋ひけり 山川 清み

登り口の象の川

登り始めて喜佐谷集落の一番端の民家を振りかえる

伐採し整備された杉と檜の木立を上っていく素晴らしい古道です

急坂を上っていくと右手の谷に少し降りると 高滝がみえる

滝を上から見たところ

古道を進んでいきます

滝から少し上ると広場がありそこには が祀られている。また吉野宮滝万葉の道・高滝の説明案内がある

少し道は荒れているがかえってこれぐらいの方が古道らしい

でもせっかくの素晴らしい古道が残っているのだからある程度整備しなければ廃道化していくだろう。吉野山の表参道だけでなくもっと宣伝して歩いてもらったらいいが多分あまり知らないのかも私もそうでした。

説明はなくてもいい

何か年季が入っているように感じる

左下から上ってきた道で、ここに案内標示がありかなり上った

木立ちの中を下っていく所々左手に石垣の残骸がある、坂を下る本当に素晴らしい

道標と石標がある左へのみちを下る道案内看板では宮瀧から3.7㎞も歩いてきました

坂を更に下ると左に 稚児松地蔵

傍に 道標

地蔵の少し下ったところが分岐、どちらを行ってもよいが私は如意輪寺に行きたかったので右の古道をとる

分岐に 右 如意輪寺 左 上千本 と刻まれた 道標

直ぐ先で木組みの階段を下ると如意輪寺の前の自動車道にでる。階段の下にも道標があるこの先も万葉の道が続くが史跡を見ながら万葉の道・吉野路をきままに歩きます

正面の木立ちの中から下ってきたところです

観光車道を越して如意輪寺への階段道を下っていく

如意輪寺山門

如意輪寺
905年日蔵上人の開基で本尊は如意輪観世音菩薩。楠木正成の子正行が1346年四条畷の戦いに向かう時、如意輪寺本堂の扉に辞世の歌を書き残したことは有名でその扉は宝物殿で拝観できる。境内を少し上ると第96代後醍醐天皇の円憤の御陵がある。天皇陵は普通南向きであるがこの陵は北向きです。  

後醍醐天皇陵 直径約27mの円憤の小さな陵

後醍醐陵の下に 世泰親王の墓

天皇・新王陵への石段

御陵の上る石段の左手に 正行公のもとどり塚

北条幕府を倒し建武中興を成し遂げた後醍醐天皇は、足利氏との戦いで京都をのがれここ吉野山の行宮に過ごされ、1339年病気で崩御された。「身は仮へ南山の苔に埋まるとも魂しいは常に北けつ(京都)の天を望まん」と都をあこがれた。
天皇の遺骸をそのまま北向きに葬ったのが塔尾陵です。次帝後村上天皇の1347年12月楠木正行公の一族郎党143人が四条畷で高師直との戦いに向かうにあたり、吉野の皇居にいる天皇に今生の別れを告げ先帝の御陵に参拝のあと如意輪堂に詣で、もよどりを切って仏前に奉納、過去帳に姓名を記し最後に正行公は御堂の扉に辞世の句を残し四条畷に向いましたが衆寡敵せず弟正時とともに最後を遂げました。現在の建物は約350年前の再建で正行公の歌をとどめた扉は寺宝として宝物殿に保存されている。
正行公辞世の句       「帰らじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞとどむる」

如意輪寺本殿

左本殿と正行もとどり塚、正面、後醍醐天皇・親王陵

境内の 難切不動尊

如意輪寺をでて吉野山の街並みに向かう

まだ少し桜が早くつぼみです

本日の目標は奥千本へ行くので右に行く

奥千本まで3.3km

上千本への道左に道標の石碑が何本か立っている

大塔宮仰徳碑・宗信法印之墓 一丁の道標

この上り坂を猿引坂と呼ぶ

暫く坂を上ると右 大塔宮仰徳碑の道標

大塔宮仰徳碑と火の見櫓址後ろの小高いところに展望台が建っている。ここが大塔の宮護良親王吉野古城跡の火の見櫓

その先左手に が祀られている

祠のすぐ上の石段を上った小高い丘に、吉水院の住職で南朝の傑僧宗信の墓

御幸の芝と雨師

更に急坂を上っていくと左手に芳山展望台があり、そこの小さな鳥居のあるお堂が祀られているこの辺り右手一帯が上千本

その先に大きな民家だろうか真っ直ぐ進む吉野山に上ってくる時、稚児地蔵のところで二股に分かれた左の道がこの辺りに出てくる近道

この道はまた 大峯奥駆道で重なっている

木の階段道が左の車道と別に古道らしく造られている

階段坂を上る途中に 

横川の覚範の首塚がある

更に木組みの階段道を上っていく

佐藤忠信花矢倉 義経を逃がすため忠信がここでふみとどまり敵を防いだ場所。後、忠信は京都で潜入しているところを見つかり自殺する。享年28歳

傍に 石碑

坂を上りきると車の通れる道に出るのでそこを右に進む

その先少し右にカーブして進むと右手に広くなっており茶店があるが閉まっていた。ここからの展望も素晴らしい。
佐藤忠信花矢倉の石碑が左に

一角にある ぜんそく地蔵尊 

そこは世尊寺跡でもあった

世尊寺跡からの眺望は素晴らしい 

三郎鐘(重文)展望台の一角に平忠盛が寄進した名鐘で俗に言う三郎鐘(吉野三郎)といい、奈良太郎、高野二郎と合わせて日本三古鐘

三郎鐘の後方に 人丸塚

吉野水分神社(重文)華麗な本殿がある現在改修工事中。水の神を祀っている、地元では子宝安産の神様として親しまれています 正面は山門

山門を入った左側のたてものの内部

本殿は現在改修工事中で見れなかった 山門を入ってきた右側にある内部

正面建物内に飾られている 豊臣秀頼寄進の御興

神社山門の前にある 石碑

神社正面の朱色の鳥居と山門

神社を後に緩やかな坂を上っていくと、吉野三橋の一つ 丈之橋跡がある

更に木立ちの中を進んでいきます

牛頭天王社跡の石碑

左に 正頭行水闇伽井がある

その先左側に石碑が並ぶ

その先で鳥居がありその下を潜り坂道を上っていくかなり上ってきました

金峯神社ももうすぐ、坂の入り口に 修行門跡の石碑

金峯神社 に着きました。吉野ロープウエイ駅からここまで通常徒歩で1時間40分

吉野奥千本の入り口辺りにある杉や桜の老樹に覆われて鎮座する古社。吉野山の総地主の神、金山彦命を祀る。大峯修行者の行場の一つこの社から荒行に入る。

金峯 というのはこの辺りから大峯山へかけての総称で古来地下に黄金の鉱脈があると信じられてきた、宇治拾遺物語にもこの山に登って黄金を得たという話があります。これは仏教説話として金峯山は黄金浄土であるという観念から生まれている。
正面鳥居の左側の小道を下ったところにある建物は 隠れ堂といって、ここは大峯修行場の一つでこの塔に入って扉を閉じると中は真っ暗になります。そこで神官の先導に従って 吉野なる深山の奥の隠れ塔本来空のすみかなりと唱えながら境内を巡る。
また源義経がこの塔に隠れ頼朝の追捕から逃れるため屋根を蹴破って外へ出たため、「義経の隠れ塔、蹴抜けの塔」とも言われている。

鳥居の手前左の道を下りていく

役行者修行場・義経隠れ塔

金峯神社から先は本格的な修験行者の山岳道に入っていく。この先に西行庵があるのでもう少し脚を伸ばす。西行庵はいいが山上ヶ岳へは本格的な登山装備が必要です

深い山に入っていくでも時折観光客とも会う

途中にある お地蔵さん

分岐になっているが結果的にどちらを行っても同じ西行庵に出る。奥駆道の左を進む

分かれ道の角にある 道標

左の山道を進んでいくと少し広場の休憩場所に出ると 
道標が立っている  「右 金峯神社 左 山上が岳 左西行庵・苔清水

この広場一帯を宝塔院跡とよんでいるが、かつてどこにあったかは定かでない。明治の廃仏毀釈まではこの付近に
多宝塔、四方正面堂、安禅寺蔵王堂など大小の寺院が点在していたようでここから西行庵へ下る途中にその屋敷跡を思わせる平坦なところがある。
ここから奥へと続く山道は大峯山への修験の道で、1km程行くと1865年建立の女人結界碑があり、またその背後の山が吉野山で一番高い万葉集にも歌われている、標高858mの青根が峰が見える。

安禅寺の宝塔は、報恩大師の建立との説明板が同じく裁っている

奥駆道を左に分かれ右の西行庵への道を下る

暫くこの様な杉林のみちをすすむと説明板に屋敷跡と書いてあった広場にでた

私の母が明治37年生まれで一昨年(平成21年)102歳でなくなったが、思えば明治の時代はこんなに遠くなってしまったのかと思う。このように街道歩きをしているとよく思うことである。100年ほどで様相が一変してしまっている。さらに山道を下っていくと

奥千本の苔清水に出る石碑が苔むして建っている

     「とくとくと落つる岩間の苔清水汲みほすまでもなき住居かな」
と西行が詠み、芭蕉が句に詠じた苔清水はいまも清らかな澄んだ水だ。大和31選の一つ
この方は女性です一人で思いリュックを背負って歩いているみたいです、凄い

苔清水を右にみて左に急な坂を更に下ると広場に出るそこが西行庵鎌倉時代の初めころ西行が3年間過ごした小さな庵で。苔むした杉皮葺きのたたずまいは詫び住まいの風情がある。またこの辺りを奥の千本という。

西行庵  これだけの山深い庵で住んでいたとは信じられない。私なら一晩も持たない

庵の中に西行の像が安置されている

西行庵と前の広場

西行庵から再び坂を上り引き返す、苔清水のところで右からの道を下りてきたが帰りは左に進み急な坂道を上っていく

坂道を上り詰めたところその左角にある 道標  「右 金峯神社 0.3k 左 西行庵 0.2k」

この先道は下りで暫くすると先ほど分かれて左に進んだところに出る。再び金峯神社の前を通り同じ道を引き返し街並み間で降りる

かなり山深く登っている三角形の山は 大峯山

ようやく上千本の辺りの民家まで降りてきた

左手に 竹林院の門 大和三庭園の一つに数えられる群芳園があり、池泉回遊式の借景庭園で千利休が作庭し細川幽斎が改修した

竹林院玄関 宿坊施設もあり宿泊できる

その直ぐ下ったところに 桜本坊

境内に樹齢350年のキンモクセイの巨木がある

更に坂を下る両側に古いお店が並ぶ

その先右手 喜蔵院

井光神社八幡宮

その先、宮坂を下り左勝手神社のところに出て街通りとなる

宮坂を下ったところのT字路を振りかえる。下りて左に進む右手角に 後醍醐天皇陵への道標

左角が 勝手神社であるが完全に立ち入り禁止になっている。勝負の神、芸能の神として信仰を集めた神社。境内に義経と別れる時に静御前が舞いを演じたという伝説の地・舞塚がある。社殿は平成13年に焼失

神社の前の細い道を下りて行ったところに 大日寺

奥が大日寺、道の途中にある 

街並みのお店が並ぶ

右手に 吉水神社の鳥居神社入り口は少し奥まったところ元吉水院といった

傑僧宗信の神社、後醍醐天皇の一時行宮でもあった。義経と静御前太閤秀吉の花見の本陣。といった初期書院造りの傑作建物といわれている。(書院重文)

山門

義経蟄居の間・後醍醐天皇玉座の間・太閤秀吉花見の間がある

書院造りの建物

神社からの桜が一目千本といわれて桜の時期には沢山の人が訪れる

更に街並みを進むと 東南院

多宝塔

その先蔵王堂の少し南の小高い所に 祠が祀られている

長い街並みが続く

吉野金峯山寺修験道の総本山、本堂である蔵王堂は高さ約34mで役行者が開き蔵王権現を祀ったのが始まり。木道建築では東大寺大仏殿に次ぐスケール
正面の石段を上ると左手に 村上義光公忠死之所の石碑 青銅の灯籠(重文)

四本桜・銅灯籠
蔵王堂正面の右の囲いの中に桜の木が4本植えられている、1333年大塔の宮が北条幕府に攻められた時、吉野山落城最後として4本桜のある前庭で酒宴を開いたところ。後世ここに桜を植え大塔の宮御陣地として残されている。
柵の中に青銅の灯籠がある、1471年妙久禅尼という尼さんが寄進したもので、室町時代の秀作として重文に指定されている。

前庭は現在工事中 大塔の宮御陣地址の碑は柵で囲まれている

蔵王堂より 金輪王寺・吉野朝皇居跡をみる蔵王堂の西側の低い所にある1336年吉水院に難を避けられた後醍醐天皇は、次に蔵王堂の西にあった実城寺を皇居とされ金輪王寺と改め、天皇はここで生涯を閉じられた。その後南朝3代の歴史が続く。徳川時代になり寺号を没収。元の実城寺とし明治になり廃仏毀釈で廃寺となった。

現在当時の面影は全くないが、吉野朝宮址の石碑が建っている

後方仏舎利殿

この後(寄り道)、皇居跡仏舎利殿のところの石灯籠の沿って長い石段を下りていく。果たして何段あったのか読めないぐらい長く急である脳天大神への道

前回柳の渡しのところに下りたちかくでその奥にある

脳天大神  谷底にあるといった感じで頭脳の神様として有名吉野山に登る前後にここに参っていったことだろう。朱色は綺麗だ

薄暗くより神秘的

正面の鳥居

再び階段を上り戻る石段の途中には沢山祀られている

急な石段

もとの皇居址に戻ってきたまた蔵王堂・仁王門を後に黒門を越えて街筋を歩き、右にケーブルカーの駅を見てその先で前回は真っ直ぐおりたが、今日は右の下千本のなかの七曲がり道を下る

急な坂道を曲がりながら下っていくが桜はまだまだつぼみで吉野山は遅い。また下・上・奥千本とあり長い期間桜が楽しめる七曲坂 

吉野路ももう終わりだ。吉野駅近くの 弊掛神社

                      吉野路完歩

桜はつぼみで残念であったがゆっくりと吉野路を回ることができた。でももっともっと観るところが多いが目的が街道歩きなのであまり時間的余裕がないのでこれで十分満足をしなければいけない。
           45.826歩  27.49km  1.172kl

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