紀州徳川家江戸中期までの参勤交代の道
大和街道~伊勢南街道~和歌山街道
【行程表】
(1日目) 2008年1月27日
和歌山城大手門前京橋口~岩出市打田町の東田中神社
(2日目) 2008年1月30日
東田中神社~橋本市JR高野口駅東側の踏切
(3日目) 2008年2月11日
高野口駅東側踏切~吉野郡下市口駅南側
(4日目) 2008年3月2日
下市口南側~吉野町三茶屋
途中 1ルート 吉野町役場近くから千股川に沿って分岐した道
2ルート 吉野町を大名持神社までいって左に折れた道
(5日目) 2008年3月12日3月12日
三茶屋~小名峠越え鷲家~高見山登山口
(6日目) 2008年4月4日4月4日(1泊2日)
高見山登山口~高見山小峠大峠越え~松阪市飯高町森
(7日目) 2008年4月5日4月5日
飯高町森~松阪市伊勢街道との合流辻
紀州徳川家の参勤交代の道(江戸時代初期~中期)
今回の和歌山城から五條駅までは、「大和てまり街道とその周辺」と題され何度もその区間を観て歩かれ2001年9月20日に著書を発行されました、橋本市にご在住の山本克己先生の
著書を基本に歩いたもので、その大部分を参考資料とさせていただいたことをお許し願いま
す。その詳細の記載は素晴らしく、私の歩く上で非常に参考になりました。
また、参考資料として、歴史の道調査報告書(和歌山県・三重県)・東吉野の旧街道(東吉
野村教育委員会)・和歌山街道(三重県)・三重県みえ歴史街道ウオーキングマップ(三重県)・
週刊日本の街道(講談社)使用させていただきました。
記
大和街道は和歌山城下を起点に紀ノ川に沿って紀伊の国と大和の国を結ぶ主要幹線であった。古くは、「南海道」が基本となっていた。
更に大和街道と平行して、「河南大和街道」(吉野往来歩・歩き済み)が、岩出の渡しで分岐して紀ノ川の南岸の山裾近くを吉野方面へ進んでいるが、一般的にはあまり知られていないようだが、歴史の道調査報告書にも和歌山県ないは載っている。高野参りや吉野への道として大和街道の脇街道として利用されたのだろう。特に紀州藩主の参勤交代時には多くの人に利用されたと思う。
また、「上淡路街道」(淡嶋街道・歩き済み)加太の淡嶋神社から現在の粉川加太線近くを平行して、根来寺・粉河寺への参詣道あるは四国への参詣路として、加太から現在の24号線粉河橋付近で大和街道に合流している。大和街道は途中、麻生津道・三谷坂・町石道・学文路不動坂口道・黒河道(いずれも歩き済み)と高野山への分岐路があります。
また熊野街道・紀州街道・根来街道・粉河街道・父鬼街道(いずれも歩き済み)等々和泉の国への分岐路として重要な街道となっていた。特に江戸時代は、親藩紀州徳川家の参勤交代の道として、初代頼宣から6代宗直までの参勤交代は松阪まわりが主要道路で、7代以降は田井瀬、現在田井ノ瀬橋近くで紀ノ川を渡し船で渡り分岐して雄ノ山峠を越す紀州街道に変わった。
大和街道は紀ノ川に沿って東へ、大和の国五條まで。五條から吉野の越部宿を通り・東吉野の鷲家・高見山の小峠、大峠・三重の飯高・松坂から海路熱田または豊橋へ船でいって東海道を江戸まで進んだ。あるは松阪から陸路、伊勢街道を進み東海道のルートが利用された。
伊勢地方には和歌山領の飛び地領があったから、そこから船に乗船したのが多かったのだろうか、海路を利用した場合は13日間。陸路を利用した場合14日間要した。また途中、飯南にて和歌山別街道で伊勢神宮へ参拝した場合はもっと日数がかかった。
資料では初代から6代までの間で、海路 松阪大口浦~熱田、~15回吉田、~14回、~白子4回、 陸路 伊勢街道14回となっている。
参勤交代の行列は御三家の威信を保つため厳然としたものであったという。随従の藩士4百余人以上、人夫、従僕合わせて約3200人が街道を練り歩いたといわれる。当然、正副の駕籠・馬・鷹・犬にいたるまで、藩主が利用する膳具・寝具・浴槽浴具・便器にいたるまでなど、当然、半月間の旅費も莫大なもので持ち込まれた。また特筆すべきものに、約3m余りの鉄の延べ板がある宿舎において藩主のふとんの下に敷かれ、床下からの刺客にそなえたものといわれた。通常初日は朝5時城下を出発して、名手で休憩し夕方7時頃橋本泊まりであったという。余談だが、これだけの距離を歩いたとは驚くしかない。
私も実際、街道歩きを始めようと思って、大和街道を定年前年6月にどれだけ歩けるか試してみようと歩いた時はカメラもリュックもなく手ぶらで歩いたのだが、和歌山の京橋を8時半にスタートして食事なしで休憩なしで飲料水ばかりのみ、喘ぎながら自宅の高野口に着いたのが夜の8時、橋本まであと4kmはある。翌日身体、足が痛くてとても2日目は歩ける状態でなかった。それを3200人整然と歩いたのだから想像を絶する。
7代、宗将以降(1757年~)は、参勤交代の出府ルートも変わり大和街道から田井瀬で当時は地元では大阪街道と呼ばれた(紀州街道雄の山越え)から京街道~東海道(2回)、または中山道(11回)を利用した。また、京街道~中山道~美濃路~東海道のルート(14回)が利用された。
和歌山城下から松阪までの街道の呼び方は場所によってさまざまであるが、和歌山城下から大和五條までは紀州から大和へのみちであったから大和街道といわれ、その先は地域によって、大和街道・伊勢南街道・伊勢街道・川俣街道と、どの街道もその地元によっては各々呼び方が変わります。紀州藩が伊勢に飛び地があったので、一部和歌山街道と呼ばれた。「大和てまり街道」の名称は山本先生のつけられた名前であるが素晴らしい名前なので、私も使用させていただいた。
和歌山京橋から松阪までの約165kmの間、出来る限り忠実に昔の街道を歩ける範囲で歩いたが、道路の改修や、廃道により道が失われたり、危険な場所、橋が新しく変わったり、五條以遠の詳細な地図を持ち合わせていなく想定の部分も多々多い。ただこの付近を通ったであろう街道・風景を思い描きながら歩くのもまた楽しいものでであった。奈良と三重の県境、高見山(標高1249m)の7合目高見峠を行列が越えて行ったと思うと、
本当に昔の人は強かったと思った。でも退職前に歩いたことで、苦しかったことよりこれが退職後の趣味だという強い喜びが湧きこの年まで気力・体力とも衰えることなく、体が動くときまで歩こうといまわおもっています。
「毬と殿様」の唄の一部 西条八十作詞 中山晋平作曲
てんてんてんまり てんてまり
てんてんてまりの 手がそれて
どこからどこまで とんでった
垣根を越えて やね越えて
表の通りへ とんでった
とんでった
表の行列なんじゃいな
紀州の殿様おくに入り
金紋さきばこ 供ぞろい
おかごのそばには ひげ奴
毛やりをふりふり
やっこらさの
やっこらさ
大和てまり街道スタート
数年まえ街道歩きを始めるまだ仕事の現役の時に、何も準備せず6月の暑い時に喘ぎあえぎ歩いた街道である。今は街道歩きにも慣れて準備も怠らなく無理もしなく楽しんでいるので大丈夫。でもここから松阪まで165kmの長い道のり、先には高見山越えという未知の峠越え特に熊もいるだろうし不安もあるがまずはスタート。今回は今までのように1街道通しで歩かず、何回かに分けて歩くまずはスタート。
第1日目 2008年1月27日 薄晴れ
和歌山城大手門前~岩出市の東田中神社
自宅6;30分JRで和歌山駅へ和歌山城大手門まで歩き京橋口にでる。出発前の朝食モーニングを近くの喫茶店に入る。8時30分に京橋門跡を出発。以前の経験を生かし今日は準備万端である、前回のように歩くだけでなく今回は、写真も撮り寄り道もするので進むのは遅いのは仕方ない。
和歌山城大手門から本町通りを北に300mほど進むと京橋。和歌山城大手門をみる。和歌山城が力強く見送ってくれている。
京橋門址
和歌山城内郭の正門で北詰に番所があって、札の辻と呼ばれ、諸街道の起点であった。
京橋の袂にある京橋門(高麗門)址の標柱
市堀川に架かる京橋のウイングの一角より「毬と殿様」の音楽が聞こえてくる。橋の上には、毬をつく少女やひょっとこの毛槍についで駕籠の中から殿様が顔を出しているモニュメントがある。ここを起点にして、上方街道(紀州街道)・大和街道です。
橋を渡ると納屋河岸で様々な品の荷揚げ場であった、その先は問屋やその倉庫で活況を賑わした所であったが、今はその面影を偲ぶことはできない。また武家屋敷も並んでいた。
明治時代になると大和街道の道筋が一部変ったようで、本町2丁目の北ぶらくり町から東に入り、真田堀川の甫斎橋、大川に架かる鈴丸橋、伊勢橋、北大通り志磨神社南、中之島、地蔵の辻に進んでいたようです。本町通りが続く、城北通り交差点を過ぎて、国道24号線の本町4交差点を横断する。街道の両側にイチョウ並木が続く、この付近には和傘屋さんが軒を並べていたようです。今も何軒か残っています。
やがてJR和歌山線の高架下を潜る。昔はこの辺りには一面傘が干していたそうだ。
JR線を潜り100m弱の一筋目を右(東)に折れ、直ぐの突き当たりを左に折れる、また直ぐ右前喫茶店の角を右におれる。築地通りの24号線に直ぐ出るので左に折れる。
喫茶店の角辺りに、本町御門(扉は明け六つから暮れ六つまでの開閉)があり城の北東の入り口であった。こう見ると和歌山城も大変大きな城郭であった。
築地通りにでて左に折れると、高架道路となり北の紀ノ川を渡っているが、街道は24号線で嘉家作交差点で高架を潜り右(東)に進む。交差点の突き当たりは紀の川の堤防となる。昔の 宇治の渡し場址。
交差点を右に折れて進み真田堀川を渡った街道右側一帯が嘉家作丁(かけづくりちょう)で、橋の辺りに春泉堂といって御成屋敷があり藩主の休憩所となっていた。
右手一帯が嘉家作丁、道は国道24号線かつては国道辺りが紀ノ川の堤防 春泉堂(嘉ヶ作り御成屋敷)藩政時代萬町の青物卸納屋、通称おん善ころ村橋善平の別邸であった。藩公が岩出や粉河の別邸に御成の途中度々休息された、また本願寺門跡や堂上公卿や諸侯が紀府、出向の際、立ち寄られたところである。分かりにくいが春泉堂の立て案内板があります。
嘉家作り丁一文字の軒の石標
この軒先が揃っていた通路になっていて、藩士たの待機場所でもあった。
嘉家作り丁;平時は家の裏に農地を持ち農業をし、非常時には武士となる。半農半士を住まわせ城下の北東の防御に務めた。幸い戦時の空襲を免れ一部残っている。昔は前の国道24号線は紀の川の堤防を兼ねており。堤防の片側の、のり面を利用した片町家で独特の建築様式であった。
その先右手の天王新地の所に 福寿延命地蔵 があります。
その先の交差点が、地蔵の辻。
交差点北東角に石道標・地蔵堂・お別れ地蔵・手洗い鉢があったが道路整備により300mほど南のJR線の近くに移転されている。 地蔵の辻より移転された 地蔵堂。
お別れ地蔵は八軒家の処刑場へ送られる罪人が、ここで親族・縁者と最後の別れをした後お参りをしたといわれている。地藏の辻は藩政時代賑わった 地藏堂・お別れ地蔵の台石に 「右ハこかわみち 左ハ直川くわんおん道」
道標 南面「従是北直川観音道」 北面「南無妙法蓮華経」
地藏の辻から八軒家までの大和街道は、紀ノ川の堤防上を進み、その両側に松林の並木道が続いていたそうです。
暫く国道24号を進むと、前方にJR阪和線。高架の手前左手に松原地蔵尊がある。松原地蔵尊 昭和43年の台風で紀の川増水で、六十谷橋下流に流れ着いた地蔵をここに祀った。
JRの高架を潜り有松地区の一軒家・六軒家に入る、四ヶ郷バス停のところに京橋から最初に通る一里松が国道の両側に新しい松が植えられています。
四箇郷一里塚跡
上の写真は現代の四箇郷一里塚、中の写真は第11代藩主徳川斉順の行列、下の写真は昭和40年頃の四箇郷一里塚
国道24号線(旧街道)の両側に塚と新しく植え替えられた松が残っている貴重な史跡、車も多いし排気でも頑張っている松。何時までも残してほしい。塚の大きさは、北・南塚とも直径約10m、高さ北塚は2.5m、南塚は2.2m。 藩主の参勤交代時には藩士はこの四箇郷一里塚で送迎したといわれています。
暫く先右の和歌山刑務所前を通ります。その先四ヶ郷交番傍に 成田不動尊
左に松島浄水場をみて、阪和自動車道を潜りますが。阪和自動車道の手前で、国道24号を右に分け左に斜め道の街道に入る。
斜め100mほど先右手に 道標 道標の旧道を挟んだ北側に松本リッカーズ、元旅籠
道標には 西面「高野山 すぐ こかわ寺 大坂道」
北面「和歌山 加太阿わし満 道 是ヨリ四国江船渡・・」
東面「紀三井寺ヨリ和歌山十八丁 西国三十三所道 熊野日前宮」
八軒家の街並みを進むと街道左側に 元庄屋松本園住宅 があり、地元のひとは「もとじゃ」と呼ぶ。その手前の細い道を左に入っていけば四国への舟渡しがあった(紀州街道の時寄っています)。そこが八軒家といった。寛永14年(1637)に藩命令で8軒の家を建てたのが謂れ。
大和街道沿い八軒家に残る長屋門のある旧家。
八軒家の街並みを暫く進むと、国道24号線の高架バイパスを潜ります。すぐ道は二股に分かれます。
正面角に大きな 道標 があります。
西面「新義本山 根来寺不動明王 世云三国一 錐鑚不動」
北面「是より十二丁所田井能瀬わたし 左へ王多り夫よ里祢ごろへ二里十三丁 根来よ利粉河へ二里半すぐ辻なり
東面「是よ里岩出へ弐里半 岩出より粉河へ二里半」
この先、大和街道ルートについては三つのルートがあげられる。
① 左の道を進み田井ノ瀬橋へ出て紀の川の堤防に沿って千旦北口まで進む大和街道。
② 田井ノ瀬橋まで同じで、紀ノ川を渡河する大坂道(紀州街道)。
③ この辻を右に折れてその先で24号線を横断して進む大和街道。
今回は紀ノ川の堤防は車も多く危険であり、河原の道も廃道化しているので、辻を右に折れる大和街道を進みます。
(なおここまでの街道は、紀州街道の資料とも重複しており、詳細は紀州街道の最終で参照してください)
右に進んで直ぐ左広場に 宝筐印塔・延命地蔵 この地で1786年入滅した 喜善上人の地蔵堂
直ぐ先で国道24号の交差点を横断して真っ直ぐ進む。信号を渡った左角に交通安全地蔵。
信号を左に曲がりすぐ左側のガソリンスタンドの一角に(24号線沿い)八軒家の 処刑場跡
細い道を進むと、東面地蔵群・六地蔵 のほか沢山の地蔵が祀られている。街道右手すぐそばに四箇井川が流れている。
暫く進んでいくと交差点に出る、左手斜め角に花き流通センター、その前の道を東に進む。
広い道を少し進むと、五差路に出る、一番右側の道で右に折れ、直ぐ四箇井川を渡ると突き当たるのでそこを左に折れると直ぐ右手にJR和歌山線の田井の瀬駅の北前を通る。
田井の瀬駅の北側の街道。
田井の瀬駅を過ぎ100m程進むと、県道岩橋栗栖線に出るが、その手前の細い道を直角に左に曲がる。
左に曲がり道なりに右にカーブする。県道岩橋栗栖線に出る。県道を横断真っ直ぐ進み、右マンションの前を通ります。この辺りは岩橋出島地区。
マンションの先で少し右にカーブしたところで二股に出る、街道は左へ。その先で右に折れたすぐ右手にJR線の線路沿いに お伊勢さん 地元の伊勢講で祀られている。
二股のところから先を見た街道。
(寄り道)前の写真の電信柱の所の細い道を左にはいり200m程直線に北に進むと、正面国道24号の堤防道に突き当たる。
灯籠 があります。
堤の上が国道でその先、直ぐ紀の川河川敷で河川に 水神さんが祭られている、灯籠はその参道であったのか、前述の①の街道がここにきている。②の街道は河川の水神さんのところを通っていた。
堤防上に24号線、西を見る大和街道①のルート。②のルートは右の紀ノ川の河川敷を通るルート。
堤防上の道、東を見る。次の信号千旦北口で①②が合流して堤防上から南に下って③のルートと合流する。
堤防より紀ノ川河川敷をみる、水神さんの鳥居と祠が残っているようだが、道もなく分からない。
寄り道で別ルートの旧道を探り、先ほどの電柱の街道まで戻ります。
集落を抜けその先、田畑の間の道を真っ直ぐ進む。その先で突き当たるので左に曲がり、四箇井川を渡ると直ぐ右に折れる。
川を渡ると直ぐ右の川に沿って畔道のような細い地道を300mほど進む。この付近は和佐中地区。
その先左側にタヒラ工業所他小さな工場が3社程あり十字路に出る、十字路を横断する。十字路から今来た道を振りかえる。十字路を横切り少し進む。
T字路を右(写真手前)に行くとJR千旦駅へ。T字路を左に曲がるとすぐ信号交差点に出るので、交差点を右に曲がる。ここで左から来る道は、①②の八軒家で分かれたルート道で合流している。右に折れます。
T字路の四箇井川の橋から写す。
交差点を右に折れた先の道筋。
交差点を振りかえる、信号を左から出てきた正面①②の道。
信号交差点の付近「紀伊続風土記」によると松並木が続き、京橋から二里目の一里塚があったらしいが全く痕跡無い。布施屋の町並みを進むっと工場が多い。
右に高積山が見えます(235m)
その先で左の国道24号に近づいていく所で四箇井川を渡ると、右に緩やかにカーブする。カーブする所、左からの道と合流する辻右手にライオンズマンション。左手から来る道が熊野古道で紀の川で川辺の渡し(現在川辺橋)を進んできた道と合流。少しの間、熊野古道と重複して歩く。マンションの東側の道を右に下っていくとJR布施屋駅。(熊野古道紀伊路歩きました)
熊野古道を左に(寄り道)をして国道に出ると、川辺橋が見える、熊野古道の 川辺の渡し は橋の上流(東側)を舟渡ししていた。
国道沿いに建っている 熊野古道迂廻路標識
熊野古道との合流点に戻り、ライオンズマンションの前を右に大きくカーブする。少し進んだ先で、大きな木が街道を覆っている場所があり、木の袂は 三昧(墓)で、この付近は非常に寂しいところであったという。地蔵もあります。
すぐ先で宮井川を渡り少し進んでいきます。右に熊野古道標識がある辻に出ます、ここで大和街道と熊野古道が分岐します。大和街道は真っ直ぐ、熊野街道は右に折れ踏切を渡る。
左に 馬次の地蔵三体
向かって右のお堂の中の地蔵は昔からあった、馬次の子安地蔵で宝暦14年(1764)の銘。中央の立地蔵尊は身代わり地藏、左は薬師さんで2体は最近持ち込まれたもの。左の常夜燈は1798年の年号。
(寄り道)馬次地蔵の少し先で右に折れる道をJR踏切越えて約500m行くと。
浄土宗 光恩寺京都知恩院の末寺、天正18年信誉上人の開基。本尊は阿弥陀仏明治初年の廃城例令で和歌山城の台所を一部当寺に移設された。
徳川家康第三女振姫(正清院)の墓 紀州徳川初代頼宣の妹で紀州藩と深い縁の寺。
和歌山城の御殿の庫裏を移した建物。
境内の池
街道に戻る。馬次の集落内の四辻の右手角に元旅籠屋号 「小倉屋」があった。
またそのすぐ先右斜めに入る道の手前、今は新しく建て替えられているが、昭和の初め頃まで営業をしていた、
元旅籠屋号 「たいこばた」 がありました。
萬屋の集落、右手、紀伊小倉駅付近を見る。この付近に茶店があり、通称「茶藪」と呼ばれた。背景の山は、船戸の御茶屋御殿山。
街道左側、田の中の一角に 巡礼の墓跡 宝永年間(1705)の6月16日、岩出の横渡し(現在の上新出一本松辺り)で根来寺に向かう40余名の乗った船が転覆、内15名が残りは遭難、その中には巡礼者が多く、当地、萬屋地区の人々が手厚くここに葬った。その後、萬屋自治会の人々が祀り、法要も彼岸やお盆に行われていたが今は近くのお寺に移しているとのこと。
この右辺りに 京橋より三里の一里松があった。
小倉地区に入る手前の街並み
その先右手街道沿いに 九頭大明神常夜燈
現小倉の町並み、その先左に、上新出自治会館と小さな公園ここに永代常夜灯・八坂神社・九頭大明神があるのだが見当たらない。
国道24号が左から堤防道路で合流する。上三毛地区、昔はこの辺り一帯松並木が続いていたそうです。
国道に合流したところ、国道沿いにマンションが建っているあたりが上神出で、前述の船が向かいの紀ノ川で遭難した当たり。この辺りから岩出橋まで竹藪が続いていた。向かって左の道をきた、右の道は堤防道路。
岩出市に入ります国道が続き見通しがいいが、船戸の大藪といわれ竹藪が続いていた。今は全くその面影を偲ぶことができない、当然大和街道の道筋の景色も想像できないが、寂しい道であったことはわかる。
岩出市に入り、旧道は岩出橋南側の信号交差点を横断する。左に国道24号線が折れて岩出橋を渡。旧道は真っ直ぐ坂を下るりすぐ右手、元、筏宿「イズヨ」があった。
左T手前右に入ればJR船戸駅、紀の川の南岸を東に進む街道、高野山や吉野山への 河南大和街道(歩き済み)の起点すこし進むと左に常夜灯がある。
駅の方に曲り少し右に入ったところに「ふなどころ」と呼ばれる渡津集落があった。岩出の渡しの乗降客で酒店。茶店・旅籠並び活況であった。また川年貢や運送の口分をとる刀禰(ねぎ)の役所があった所という。
JR船戸駅前の道路、東側にもと旅籠「船松」、向かい西側には「えびすや」があった、駅の筋を下りてきてT字路を右に曲がると左に常夜灯がある。
永代常夜燈、大宮御神前ここから川原におりて立ち舟にのった。船戸の渡し跡。ここで、東への河南大和街道と大和街道が分岐した。石積みの土手が少し残る。
渡し跡から紀の川の対岸岩出の渡し跡を見る。南岸に岩出伝番所があり番人がいた
渡し跡からの岩出大橋
岩出大橋から西の和歌山市方面。
岩出大橋から東の竜門山(紀州富士)を望む。
岩出大橋を渡りすぐ堤防を右折れするが。右折れせず真っ直ぐ50mほどの左下にある。
大宮神社 熱田大明神、和銅5年(712)日本武尊を尾張より勧請した岩出の郷社。総社権現、康治元年(1142)根来寺の鎮護を神とするため建てられた。大宮祭り(斎刺まつり)は有名。
大宮神社の門前
神社の南側の紀ノ川の堤防はかつて岩出舞子と呼ばれ、松林が続き景勝地であったが堤防の改修により昭和初期に伐採された。
元に戻り右に折れて堤防を進むと間もなく左に下る道がある。そして旧道はビルの手前の道を左に入ります。
その前に、堤防を少し歩いていくと、堤防上左に 二基の祠 向かって右が川原大師さん、左側には10体の地蔵さんが祀られている元線路下の川原にあったのを移した。
岩出の渡し跡より船戸方面の対岸を見る。渡しは河川敷きにあり立ち船であった、近くに岩出伝馬所があり番人が常駐していた。川に面して茶店があり、豆の粉をふりかけた「岩出のしんこ餅」が有名であったという。
岩出渡し跡の堤防より左に折れたビルの手前の道を北への旧道。
少し先で右手に重厚な旧家があります。
その前を進み二つ目の交差点、右の駐車場角を右折れする。右折れせず真直ぐ進む道は根来寺への旧道。
この交差点の北東角に道標があったが、150m程北の国道24号線の五差路に移設されている。
交叉点を左に進み突当り右にある、観音院 根来寺の末寺でかつては七堂伽藍であったが秀吉の根来攻めで灰燼に喫した。境内に建つ仏像組の大きな塔、その下に組み込まれた一願如来塔の仏さん。
先ほどの交叉点から移設された
道標 西面「右 こかわ 高野 伊勢」 北面「左 祢(ね)ころ 大坂」 南面「左 きみゐ寺 和歌山」
元の交叉点に戻り、右に折れて細い町筋を進む古い商家が散見できる。
暫く真っ直ぐ進んだ変速交差点で右の線路方向にいったところに、阿伽井寺 空海が勤操僧都に従って「求聞持の法」を受け修行中、自ら阿伽井を掘って法水とした。
元の街道に戻り、真っ直ぐ少し進むと、正面コミュニケーションセンター、左角ダラ尼助のマークの薬局のところを左へ曲がり、一つ目の交差点左角にフードショップインべのところを右へ曲がるとJRの踏切が見えます。大和街道踏切手前に「大和街道踏み切り」の標識があるので踏切を越える。左にJR岩出駅。
その先三叉路に出るので左に折れるのが街道であるが、少しここで【寄り道】をする。右に折れてすぐのT字路の道を右に進み紀ノ川の堤防に出る。右手には岩出小学校がある。その左角の公園付近にかつて岩出御殿が建っていた。
岩出小学校と紀ノ川の堤防。
紀ノ川の堤防からの東、紀ノ川の上流の眺め。この辺り一帯かつては田園であったが、紀ノ川の氾濫時にいつも冠水していたが、今は堤防の改修により冠水が無くなった。
紀ノ川の対岸(南)、箱山根来寺の覚鑁上人が母公・姉君を弔うため法華経の経箱を収めたといわれる山。
岩出小学校の東側にある 岩出御殿跡
御殿跡の公園に建つ石碑 勤操(ごんぞう)塚跡の碑
昔からこのあたりは風光明媚な小山があり景勝地として親しまれてきた。慶安二年(1649)に紀州初代藩主徳川頼宣がここに別荘を築きその建物を岩出御殿と呼ばれ歴代藩主がよく利用した。5代頼方(後の八代将軍吉宗)も幼少のころはほとんどここで過ごしたといわれている。この地からの景色が格別であった。
宝暦14年(1764)に取り壊された、その一部の建物が大阪移築後さらに横浜に移され現在横浜市の三渓園に「臨春閣」と名前を変えて国の重文に指定され当時の姿を残している。
現在では紀ノ川の改修が進みその面影を偲ぶ様子もない。
御殿跡と紀ノ川の間を流れる春日川と御殿跡からの眺望。
岩出御殿跡の建物。
元の三叉路に戻る。更にその先三叉路に出るので右に折れる。右手の角に新しい道標がある。左に向井商店があるところの辻。塀の角にもと道標があったが、大冠橋のたもとに移設された。
その先春日川の堤防に突き当たる。街道は真っ直ぐ進んで川を渡り左に折れていたが、今は堤防を左に折れて迂回する。
突当りの旧道を左に曲がる手前左に入ると、新義真言宗清浄山 正覚寺 当山より東に龍門山(紀州富士)を眺める景色が素晴らしかったという。約900年前に創建された。当寺に伝わる不動明王に由来した母子の話が伝わる。
本来の旧道は春日川の対岸に続いていたが氾濫が多いので春日川の改修により氾濫が無くなった。止む無く迂回路の春日川に架かる大冠橋を渡る橋の向こう側の右堤防に消失した旧道。
春日川に架かる新大冠橋を渡る前に、右に堤防に沿ってしばらく進む【寄り道】と新大冠橋の次の橋の左に
舩津八幡神社
元の、新大冠橋に戻り春日川を渡り真っ直ぐ進む、左に大きくカーブしながら進んでいくと、旧春日川に架かる旧大冠橋(現在は埋め立てられている)を渡る左角に、岡田の石仏道標 その前の道が埋め立て改修前の旧春日川であり、旧大冠橋があった。この道標が前述の三叉路にあった道標でここに移設された。
「石仏 左 紀見井寺 わか山 道」 「右 こか王(わ)二里 いせこうや 道」
裏面 「南無阿弥陀佛 為先祖代々一切 左り祢(ね)ごろ 大坂 道」
その先交差点があり右手に鉄塔がある、その隣に 一里松(京橋から四里)があったらしい。
鉄塔の先真っ直ぐ進んでいくと道は鋭角に右に折れすぐ古戸川に架かる橋を渡り、分岐している道を再び鋭角に左に折れて左右の田んぼを見て真っ直ぐ東に進む。
往時は今でもこの様な状況だから広々とし田畑や荒野であったことだろう。
左に折れて数十mで右T字路で左古戸川を渡った先に、小さな荒れた小山がある。かつての
三昧(埋葬地)と極楽寺(廃寺)の跡。
極楽寺の建物が一部残る。建物の中に一体の仏像がある。埋葬時の祭壇跡だろう。
石碑が散在して荒れています。
極楽寺跡の碑 付近は住宅地であり、理由はわからないが綺麗に整備されたらと思う。
境内跡に立つくろがねもちの木。
西に綺麗な田園風景を見ながら打田町に入る。この先でT字路にでるので左に折れ、折れた先の坂を弘法大師が花の井の開削の際、袈裟を架けた木があったところから袈裟坂と地元では呼ぶ。打田町下井阪地区
更にその先で二股に分かれるので右の広い方の道を進む。
信号交差点を街道は横断する、左に進むと24号線に出ます。
信号交差点を左に折れたすぐ左に、下井阪会館の建物がありその敷地内に 住吉大神
信号を渡り集落を進むと右の民家玄関横に 牛神社を祀っている、牛馬の健康を守る神、農村地帯によくみられる。
その先、左側奥に 真言宗 実報寺 京都東寺の末寺。子安地蔵・大日如来・弁財天が祀られている。秀吉の根来寺の焼き討ちで殆ど焼けたが、2仏は難を逃れた。
実報寺を左に見て進むとすぐ突き当たるので左に曲がり。
、更に実報寺の北東角で突き当るので右に曲がる。
右手の塀のある大きな旧家が、もと田中荘の 大庄屋
中井阪地区の狭い街道
その先、右に中井阪会館を見て左に道なりに進み、国道24号線に出る。国道の向こう側にガソリンスタンドがある。国道を右に折れる。写真は旧道を出てきたところを振り返る。
国道直ぐ左手に 西田中神社 羊宮(向かって左側)室町時代末期の創建と推定される、八幡宮(右側)寛永12年(1635)からなる。華麗な装飾の本殿。
神社の前の224号線を進むと、国道24号と長屋門の間に細い道がかつての大和街道。旧家は築後100から200年、もと地頭。屋敷の中の井戸は冷たく旅人に喜ばれたという。
その先、尾崎のバス停の左に覚法寺を見て信号の手前で左に国道をわけ右に下る。打田町尾崎地区
旧道の道を振りかえか
海神川に架かる明神橋を渡ります。
右前方に町民体育館が見えてきます。
その先十字路を過ぎると左街道袂に 足神さんがある。古い双体地蔵で草履を履いた坐像といわれる。安政四年(1857)の銘。人々には足神さんと親しまれ、お供えの線香の灰を足に塗ると足痛が治るといわれている。
足神さんを過ぎると河岸段丘の南端を通り南側は崖となる。道の北側を流れる藤崎井に沿って進む。
その途中右に、上野妙見神社
その先で国道にでて右折れするが、出てきたところを振り返る。
国道に出る手前で右、国道の段下の道を、右に上野会館。
上野会館はもと田中村役場その裏に 妙見神社、上野の鎮守社がある。
国道の少し下に、地蔵祠がある。地蔵さんは、溝の中に長い間転がっていたのを拾い上げられ祀られたので、居眠り地蔵と呼ばれるが、願いごとは何でも聞いてくれる有り難いお地蔵さん。
国道右に田中小学校をみて、その先喫茶ローランドのところを街道は左斜めの道に入る。
直ぐ先で佐川に架かる橋を渡りジグザグのみちを暫く進み、右に打田児童館をみてその先の分岐道の左に法音寺がある。街道はこの分岐を右斜めに進みます。
真言宗東寺派實光山 法音寺
入り口に恩徳碑と古い井戸がある。碑は内田馬之丞の碑で代々中の宮の神司、1648年粉河寺参詣の藩主頼宣公に農民の苦しみを直訴し成功する。明治43年建立。
直ぐ先で、国道24号に合流して左に曲がるが、すぐの信号手前に郵便局があるのでその手前を左に入ります。
その先直ぐに右にカーブしながら広い交差点にでるのでそこを横断するが、信号がないので注意しながら。前方に森に見えるのが東田中神社。
東田中神社 もともと山王権現があった。戦後、上の宮(八幡宮)、中の宮、鎮守社とともに合祀され東田中神社となった。
室町時代末期の古社
東田中神社の前の田んぼの中(今は住宅)に戦前まで一里塚(京橋まで5里)と樹木があった。「五里ところ払い」の罪人がここで解放され、この地の庄屋が身元を引き受け使役させたという。
東田中神社にきた所、デジカメのメモリーが切れてしまって、ここで中断しなくてはいけなくなった。時間はまだ3時なのであと1時間半ほど歩けるのに残念だが仕方ない。これ以降は予備を必ず持つようになった。JR打田駅まで距離があるが歩く。和歌山線で帰宅の途につく。
コメント