【11月30日】
13時50分の大阪行き高速バスの時刻まで市内の史跡を回る
高知駅より北東1.5㎞程のJR線西側の比島町にある
清川神社
長宗我部元親・野中兼山・薫的和尚を祭る


神社より300m程南西の天台宗 龍乗寺山門は板垣退助の生家の門を移築したもの


北へ久万川を渡りJR薊野駅西にある 掛川神社 陽貴山に鎮座する神社、

さらに北の高速道路のインター近く薊野北町の 黙堂寺板垣退助の墓を捜したが見つからなかった。
再度次の時探したら、黙堂寺の背後の山にあった


更に西に1.5㎞ほど西に行った薊野北部の真宗寺山にある、是非行きたかった
「人斬り以蔵」こと岡田以蔵宜振(よしふる)の墓
幕末武市瑞山に心酔、命じられるままに暗殺を繰り返した以蔵、龍馬にも可愛がられ何か憎めないところがありファンも多い。最後は捕らわれ雁切の河原で斬首晒された。27歳
おまんよう来てくれたのう 我しやうれしいぜよ


この山には著名な墓も多いがかなりあれていている。以蔵の墓は山の頂上辺りにあるが、上り口がわからず迷ったが、近くで作業していたおじさんに聞きようやくたどり着いた。一族の墓もきっちり祀られていた。
以蔵の墓に参られて満足、境遇が悪かったのかな可哀そうな人でもある


墓域は山全体で広く迷いそう以蔵の墓から下る細い道

下から見た上り口で、石垣と石垣の間を上がる

この左の道を20m程進むと、石垣の間を上る道に出る

高知城の北側大川筋にある 寺田寅彦邸跡と居室



高知城跡西側 致道館跡
高知城の北西側に位置する、城西公園の一角にある高知県立武道館の門は、藩校致道館の正門である。



高知市枡形 国道の北側 福岡孝弟誕生地の石柱
土佐藩の重役、大政奉還を慶喜に勧告、新政府の参与となって、「五箇条の誓文」の起草にも参画高知城のみなみの城内に位置する



百々越前邸跡 高知市越前町
高知城築城総奉行、越前は近江の人で築城の名手と言われ、現在の地名越前町も名にちなんだもの。知行7000石の大身。



谷恒守・真瀬邸跡の石柱 南学の学聖谷泰山の子と孫で南学を土佐藩教学の中心とした功労者


植木枝盛邸跡の石柱 谷邸跡の南の路地西に入ると行動する思想家



山内大膳邸跡 大膳町4
土佐藩支藩の中村藩山内家3代藩主、徳川綱吉に気に入られ若年寄りを命じられたが固辞したため、綱吉の忌諱にふれ中村3万石の所領を没収された。のち許され帰国この地に居住し、今に大膳の地名が残る


楠山塾跡 大膳町

大膳町第4小学校の門前に、3つの石碑

嶽洋社跡・河野敏鎌誕生地の碑・婦人参政権発祥の地碑

河野敏鎌:土佐勤皇王員、8月18日の政変で土佐勤王党は壊滅、獄舎に捕らわれる。その後新政府に入り各大臣を歴任、激動の人生を送り明治26年没。婦人参政権発祥の地民権政社嶽洋社跡 等三つの石標がたつ

細木病院正門の脇に 孝子広井磐之助邸跡の碑
父の仇、土佐藩士棚橋三郎が紀州藩に潜入しているのを知った、広井磐之介が旧知の坂本龍馬、その師勝海舟の計らいで、紀州藩に働きかけ、棚橋を領外に追放した大阪との境界、山中渓で父の仇を討つ。その2年後1864年27歳で没。墓は坂本家の近くの墓地にある。

南側に 若一王子

若一王子の西江ノ口川に架かる車瀬橋から川を見る。上町3丁目電停から北に進み車瀬橋を渡ったすぐ先のT字路、左手すぐ先の左手が望月亀弥太邸跡。右手すぐ右が池内蔵太邸跡

望月亀弥太邸名は義澄跡
高知市西町 新選組池田屋襲撃により土佐の、石川潤次郎、北添佶麿とともに奮戦したが重傷を負い自刃。27歳


池内蔵太邸跡付近の筋
池内蔵太:土佐勤王党員、土佐脱藩大和天誅組挙兵に参加。その後、禁門の変にも参加。龍馬と亀山社中を設立、ワイルウエフ号で鹿児島に航行中漂流転覆、池は船内で自刃し船とともに命を絶った。26歳の若さであった


高知市上町3丁目、坂本龍馬の本家豪商「才谷屋」跡地。5年前来た時喫茶店をしていたが現在やめて塾をしているようです


午前中 24.620歩 16㎞
11月30日 2回目脱藩の道終わり。午前中市内の史跡を回り、13時50分のバスで午後帰宅
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