【1日目】 2012年1月9日
加太淡島神社~紀の川市井田で大和街道に合流
JR高野口駅5時35分にのり和歌山駅から和歌山市駅にでて加太駅へ。朝から大チョンボ、和歌山市駅で和歌山港行に乗ってしまい1時間余りロスとなる。加太駅8時に着き20分ほどかけて起点まで移動する。
加太淡島神社 8時20分 スタート
粉河駅 17時20分 着
57.708歩 34.62㎞
粉河駅近くであたりが暗くなってきたので、もう少しという所で、結局ロス時間が響いて終着点まで行けなかった。
【2日目】 2012年1月11日 前回1月19日に続いて歩きました。
粉河駅 12時50分 スタート
大和街道との合流点 14時50分 着
9.594歩 5.75㎞
【3日目】 2016年12月10日
一部補足のため歩く
根来寺・紀伊国分寺跡・粉河駅東の踏切から上淡路街道と大和街道の合流点。
【4日目】 2017年5月4日
整理していたところ街道に納得できない部分があり、追加のためもう少し補充する。
南海加太線の磯ノ浦駅まで行って、そこからJR粉河駅の東迄歩きました。
磯ノ浦駅 8時00分 スタート
粉河駅の東へ 18時00分 着
60.237歩 36.14㎞
おはよう
南海加太線の終点加太駅
以前、紀州街道の脇街道の大川峠越を歩いたとき、加太の町に入り淡嶋神社まで歩いて、和歌山城まで完歩しています。駅は明治45年に建てられた木造の駅舎です。
加太駅前の7号線を横断して南に100m程進みます、前回大川峠越え道で歩いた道に出ます。
この道が加太春日神社の道標の辻で、淡嶋神社を起点とした上淡路街道(淡嶋街道)と北から下ってきた大川峠越えと分岐してきた道で上淡路街道ですが、すでに歩いているので、淡嶋神社からそれ以前の道かもしれない上淡路街道を今回歩きます。
加太駅の南100mほどのところの旧道です。東へ進むと和歌山方向で、西に行くと淡嶋神社方向です。東に進むと、加太中学校のグランドで旧道は消失します。おそらく旧道はここから右斜めに進み、学校の西側に出て7号線が右にカーブし、旧道が真っ直ぐ進む分岐の道標手前辺りに出ていたと思います。グランドに突当りますので右に折れて、加太中学校を左に沿って100m程先で、7号線に出て迂回します。
その前に突き当たった、左に折れるとすぐ左に佐谷医院があり船井電機があります。その角にも東西に真っ直ぐの道が並行して突き当たっています。どちらが旧道なのか少しわかりませんが、
一本南側の道です、どちらも旧道に見えます。
とにかく突当りを北に進み7号線に出て左に折れます。向かってこの辺り手前に学校の中を通って旧道は出ていたと思います。7号線は右にカーブして折れていきます。
旧道は真っ直ぐです。その分岐する角に 道標 があります。
道標 「右 わか山道 左 あわしま道」
道標を右に見て100m程進みますとT字路に出ますので左に折れると、突当り右斜め前に宮崎医院があります。
右から紀州街道の脇街道大川峠越え道が町筋を南下してきてこの辻で左(東)に折れます。しかし、ここを南下してきた殆んどの旅人は淡嶋神社への参詣が目的と思われる。突当りを左に折れます。
突当りを30m程左に進むと、加太春日神社の北東角の左T字路に出るので左に折れます。さらに20m程で十字路に出ます、そこの辻を左に折れます。十字路右角に 道標 が立っています。
道標 「右 わか山 左 阿王し満(あわしま)道」
左に折れた道で、加太春日神社 の正面に出ます。
加太春日神社
神社の南側街道沿いに 西山浄土宗宝号山 稱念寺
南に進むと堤川に架かる橋を渡ります、すぐ右に折れて対岸を川に沿って500m程進むと淡嶋神社です。橋を渡って左に阿弥陀寺 があります。
橋から西方向を見ると、正面山の右端が淡嶋神社です。淡嶋神社まで上淡路街道を進み、またこの橋に戻ってきます。
右の堤川に沿って進み、同じ道を戻ってくるのも能がないので、150m程先の橋を右に渡り対岸を走る65号線に出て左に折れ、左は堤川の河口、右は加太港をまたがる橋を進みました。
加太港
すぐ正面に 淡嶋神社 女性の神様といわれている。
文政十一年の 常夜灯
2月8日 針供養、 3月3日 ひな流し、が有名。
境内所狭しとばかりに、奉納された数万体の人形。壮観でもあるが薄暗い部屋に置かれた人形を見ると一面いいしれない思いが感じる。
沖には「友が島」がよく見えています。
神社の鳥居・常夜灯の前から上淡路街道(淡嶋神社~粉河)、淡嶋街道(淡嶋神社~和歌山城)への道を進み。すぐ正面の旧道を東に進みます。
門前町の旧道を進みますが。木造建築が多いですがほとんど建て替えられています。
暫く進むと右に急な石段があります、途中に観音堂があります。さらに上ると行者堂があり、ここから友ヶ島がよく見えます。友ヶ島には葛城二十八宿の行場の一番宿があります。
左に堤川で、じんざいの波止跡、橋の対岸は 二分口役所跡
橋の手前右に 祠
先ほど渡った橋手前対岸に歴史を感じさせる旧家が残っています。
橋を左に渡ると、大川峠越え道・上淡路街道・淡路街道 ですが、わかりませんが同じ道でなくこれからの道も一度検証してみます。でもあくまで資料では橋を左に折れるのが本街道です。
阿弥陀寺 の堤川沿いを進みます。
川沿いを進んでいくと、緩やかにか左にカーブします、そこの橋を左に渡り、対岸の川沿いを右に進みます。
橋から堤川の河口を見たところ。
堤川を右に沿って進み、200m程先で川と共に右大きくカーブします。
右にカーブするところで真っ直ぐの道があります、150m程で7号線に出ますが新しい道のようです、川沿いの右へ進みます。
右に折れて川沿いに150m程進むと小さな川を渡ると、左斜めに7号線に通じて道があります。少し入っていくと右に、ことぬか地蔵と錫杖の井 があります。
ことぬか地蔵の道もこの先通れなく、川沿いの道に戻り、150mほど先で小さな川の手前を左に折れました。川沿いの道は400mほど堤川に沿って左にカーブしながら進んでいますが、やがて南海加太線で越えれなくなっています。
小さな川沿いの道を左に折れて150m弱先で小さな踏切を渡りくの字に曲り7号線に出ます。
7号線を進むと信号交差点で左斜めに進みます、7号線は広い道に代わり、加太線は右に離れていきます。
暫く左に入った道を進みますが、新しい住宅地の道です。右に沿っている広い道はバイパス道で右から合流します。
合流した7号線を100m程進みますと右にローソンがあります。この道は後から分かったのですが、もしかして旧道の痕跡かとも思います。(2017年5月4日)に補充で歩きましたので後で紹介します。
ローソンで曲がらず7号線を250m程進むと、写真のように左に入る道を進みます。
ローソンで曲がらず7号線を250m程進むと、写真のように左に入る道を進みます。池の間を300m程進み7号線の三ッ池南側信号交差点に出ます、7号線を横断して南に100m程入ると、射箭頭八幡神社 に出ます。
くの字に回り込む、両側に池があります。
池の手前左に 本脇糸切地蔵 沢山の地蔵が祀られています。
坂を下っていくと、三ッ池南側信号交差点に出ます。
7号線の交差点を横断します。
正面に射箭頭八幡神社の杜が見えます横断して真直ぐ進む。
T字路右手前に 本脇の道標と地蔵堂。
射箭頭八幡神社
神社の辻を東に進み少し先で振り返ったところで向かって左辺りにあった。 糸切餅茶店跡
〖別コース道〗
ここで街道を中断して、前述の旧道でないか迷った道を、(2017年5月4日)に歩きましたので記載します。
加太からの広い道で、右にローソンがあります。
ローソンの手前の狭い道を右に入ります。
道は狭いがガードされているがチョットした峠道です。でも夜は真っ黒になり歩くには危険だろう。
右に池がありその東渕に沿って歩きます。
池が終わり坂を下りながら蛇行して進むと、左に 磯脇八幡神社 があります。
磯脇八幡神社、左の道を下ってきました。
参道を数十m下ると道は分岐しますので左に進みます。
(寄り道)
分岐の道を少し右に入ってみます、突当りを右に折れてすぐ又左に折れると十字路に出ます、左への道は和歌山城下への旧道でもあります。
十字路を真っ直ぐ進むとすぐ南海加太線のふみきりで、右を見れば磯ノ浦駅で朝ここまで来てローソンまで同じ道を進み引き返してきたことになります。一駅で加太駅です。
元の十字路に戻ります、少し東の左奥に、浄土真宗本願寺派 安楽寺
すこし屈曲していますが道なりに進みます。
小さな川を渡ります。
突当りを右にお折れてすぐ左に折れます。
すぐ先で左に。
左に折れた道の真直ぐ前方に、射箭頭八幡神社の森が見えます。
左に本脇の地蔵堂と道標があります。ここで左から合流してくる道が 前述の道との合流点です。
合流点の右に射箭頭八幡神社鳥居の前の街道。
少し先右に 糸切餅茶店跡。東への真っ直ぐな道を進む、途中街道右に200m程入ると二里ヶ浜駅があります。
左のビルの手前の細い道を左に入る。
すぐ右にカーブします、右にカーブした先の道。
右に西念寺があります、その先は突き当たります。
右の 佛国山 西念寺 綺麗に整備された境内です。
T字路で左に折れます。
右への道は、和歌山城下への淡嶋街道(大川越え街道)で分岐します。
右に折れた和歌山城下への旧道を見る。この地区一帯は旧家が残り旧道の名残が至る所にありますが。その分道は狭いが歩くには最高です。
左に100m程旧道を行くと7号線の西ノ庄バス停に出ます。
広い西之庄バス停交差点を横断、右に松源スーパーがあります。
松源の先で右に少し方向を変えて曲がる、右に新日鉄住金の住宅のすぐ先で道は分岐しますが左の道を進みます。100m弱先の十字路を右に折れます。
左角にある 祠
300m程道なりに進むと信号交差点に出ますので横断します。
この分岐は、泉南市岬町の多奈川駅西の紀州脇街道、西畑越え街道(歩き済み)が左に分岐します。交差点を左に進むと西脇中・八幡台小が左にあります。
左の西畑越え街道の道。
さらに300m程進んだ木ノ本の信号交差点で、左に分かれる道を進みます。角に木ノ本八幡宮の看板が立っています。
左の道を進み右に大きくカーブすると左に、木本八幡宮参道の 常夜灯 があります。木本八幡宮
参道右に大きな 鳥居 と広場があります。その広場の奥に 鳥居と権殿 があります。
左の長い参道を進むと途中右に 稲荷神社と水分神社 が建つ。その先の参道終わり前面に樫の古木の森が覆っています。高い石段の上に拝殿。
木本八幡宮と拝拝殿
もとの街道に戻りすぐ先左に 応神天皇頓宮故蹟碑
左に 西山浄土宗願玉山 本誓寺
街道を進みますと左に 浄土真宗本願寺派船津山 西勝寺
街道に戻りすぐ先右T字路に出ます。その左に 浄土真宗本願寺派谷河山 長楽寺
長楽寺の東側が右T字路となっています、左から合流する道は、ここの辻を起点とする、泉南市多奈川谷川への東畑越え街道です(歩き済み)。
街道を進みます。
その先信号交差点で右から道が合流、交差点のすぐ左に新しい建物の 日蓮正宗顕正山 教妙寺。
信号交差点手前左に木ノ本石橋郵便局があり、交差点を越えて東へ小さな橋を渡ると。左奥に古墳公園が見えてきます
釜山古墳
直径約40m、高さ約7mの大型円墳 釜山古墳の西側には、車駕之古址古墳(前方後円墳)があり、木ノ本古墳群と呼ばれている。ともに五世紀代(古墳時代中期)の古墳です。
釜山古墳の西北に最近綺麗に整備された 車駕之古古墳公園 があります。段丘上に築かれた古墳時代中期の(五世紀)の前方後円墳で墓は当時紀ノ川北岸を支配していた豪族の首長と考えられている。古墳の大きさは全長八十六m高さ八m、さらに周囲には濠が彫られています。濠を含めると総延長は120mあり県下最大級の古墳です。
梅原地区を進みます。
大年神社の鳥居と常夜灯 が二基参道入り口に立っています。参道の100m程の桜並木を進みます、春に桜の咲く季節はいいだろうと思います。和歌山城の北西にあり「乾の宮」として紀州藩の崇敬が篤かった神社です。大年神社の背後は宮山(標高57m)。
神社を左に見ながら土入川を渡り東に進み、国道26号線と交差する梅原交差点に出るので横断します。
交差点左の道は国道26号線で紀州浜街道孝子峠越えへの道。
梅原の交差点を横断して200m程進むと、左に貴志歯科医院があります、そこの左への道を入ります。
左に入っていくと大きな旧家があります。長屋門、土塀、蔵と見ごたえがあります。
左に見て前の駐車場の手前を右に進みます。
すぐ先でT字路となります、左から 紀州街道の孝子峠越道(歩き済み)が交差してきます。
T字路を右に折れてすぐの信号手前の道を左に折れますが。真っすぐの道は孝子越え街道で歩道橋を渡り南への道で和歌山城に通じます。
信号点前(歩道橋)左に折れる上淡路街道。
歩道橋より西北の上淡路街道と孝子越え街道の合流する方向です。
街道を進むと左に貴志小学校の前を通ります。
貴志小学校の先、左に 安高大神。
貴志小学校から200m程先で右斜めにみかど(帝)橋を渡り左に進みますが、絵になるような風景で街道と大木、左角に大きな旧家がマッチしています。
その先で南海本線の踏切を渡ると栄谷地区です。
街道より200m程左(北)に入っていった細い道の奥に 栄谷諏訪神社 当社は昔、信濃の国諏訪神社から勧請された村社であったが。明治43年に大年神社に合祀され廃社されていた。昭和57年私財を投じて有志により再建された。
街道に戻り小さな川を渡った左に 祠。
祠と街道を挟んだ南側奥に。善性寺 が見えます。
祠の前からこの先の街道筋。
左に栄谷郵便局を見て進みます。その先左に 賽の神地蔵尊。
西川橋を渡り少し北に入りますと 浄土真宗本願寺派宝榮 改定寺。
その北、愛宕山の山裾に 曹洞宗 観音寺
東側、打手川の手前に 浄土真宗本願寺派金蓮山 善教寺。
街道に戻り、その先で信号を越えると平井地区に入ります。打手川に架かる西川橋を渡ります。
西川橋を渡りすぐ左(北)に曲がった右に 乗雲山 教願寺。
東側には 浄土宗西山派池鏡山 浄蓮寺。
西川橋より200m程先で右から県道が合流する信号交差点に出ます。さらに100m程進みの二つ目の信号交差点に出るので、すぐ左に入る細い道を入ると突当りにあるのが
浄土真宗本願寺派葛嶺山 蓮乗寺
戦国時代に雑賀の門徒集団を率いた鈴木孫一の守り本尊と伝えられる握り仏が伝わる。「紀伊続風土記」によると、孫一の居宅は近くの「政所ノ坪」にあったと伝わる。天正五年(1577)の織田信長の紀州攻めのとき雑賀衆の武将として活躍した。
境内の 五輪塔は雑賀孫一の墓 と伝わる、天正十七年(1589)建立し、その後、天保三年(1832)に建てけられたと刻まれています。
少し先で右にパチンコスーパーフジがあります、すぐ先の大谷交差点で、26号線のバイパス第二阪和の広い道路に交差しますので高架道路を斜めに潜ります。
信号交差点を横断したすぐ右に入る旧道らしき道がありますが、少し入ると左に折れます。
左に折れる道です、正面に楠見小学校が見えます。
楠見小学校で行きどまりになっています。かつてはこのまま真っ直ぐ進んでいたと思われます。突き当りを左にでて、分岐した道の信号交差点を右に折れます。右に楠見東郵便局があります。
郵便局の先で右に入る道を進む右に西洋食房があります。
すぐ先で行きどまりになりますので左に折れて粉河加太線に出て右に折れます。この道等旧道であったかどうか私が勝手に判断し不確定です。
一般的には大谷交差点から粉河加太線を歩くのが無難かもしれません。粉河加太線に出て右に折れて進みます。
右に共石のGSがあります。
その先で右に入る旧道がありますので右斜めへ。
暫く車の走らない道でファミリーマートの裏側を通る。
左にかぜのこ保育園があり、すぐ先の一つ目の十字路を左に折れますが、かつての旧道は、今は消失していますが真直ぐ鳴滝川に突き当たり左に折れていたと思う。
保育園の辻で左に折れて粉河加太線の交差点を横断します。
100m余り先の分岐を右に折れます。
右に折れてすぐまた左の道を進みます。その先、山型に300mほど道なりに進み、何本か枝道がありますが東方向に進むと
右に 浄土真宗本願寺派三ッ石山 善明寺。
その先で鳴滝川の堤防に出て聖護院橋を渡ります。
橋を渡り左に川沿いに曲り、すぐ右の下る道を進みます。
すぐ先で道は分岐しますので左への道を取ります。
さらに100m弱進むと分岐しますので右の道を進みます。
東への真っ直ぐの道です。
街道より十字路を左に150m程入ると 西山浄土宗受光山 一楽寺。
一楽寺の北東に園部公園があります。園部城跡 という説があります。
街道に戻り少し進むと左T字路に出ます。T字路左に伊達神社の鳥居があります。
伊達神社の鳥居と参道 樹木のトンネルの参道を進むと 拝殿 です。
鳥居のすぐ先で右に折れる道が街道です。
曲がらず少し行くと左に有功小学校です。この真っ直ぐの道はさらに古い 古代の南海道 だそうです。
鳥居の少し先を右に折れて、左にカーブしながら右からの道と合流します。さらに左斜めに進んでいくと、右から中央分離帯のある広い道路に合流して真直ぐ進みます。
1回目(2012年)に歩いたときとはすっかり道が変わっています。(今は2017年の4回目と重複して歩いています)
(2012年の歩いた時の写真)
JR六十谷駅前の手前左に射矢止神社が見えてきます。
射矢止神社(いやと)
2012年当時の神社前(左下の写真)
境内には聳え立つ楠木の巨木が数本圧巻
神社だけでなく周辺の道路も含め、いかに時代の変換が早いか痛感させられる。JR阪和線の高架を潜ります左にJR六十谷駅があります。
ガードを潜りすぐ左の側道のような道に入ります。数十mで千手川に架かる直川橋を渡ります。
千手川の上流(左)をみる、川沿いに泉南市尾崎への紀州街道の脇街道で紀州浜街道へ通じている、
井関越え街道の起点 です(歩いてます)。
橋を渡った左角に 石碑と地蔵堂 石碑には南無阿弥陀仏と大きく刻まれています。
地藏堂を左に見て東に進みます。案内板に 直川名号石・大福地蔵菩薩・難除地蔵菩薩・地蔵菩薩御真言 の説明が書れています。
直川地区の旧道を進みます。
この先の辻で左に少し入りますと。
白塀のに 祠
街道より少し北へ進んだところ右に 明光寺。
寺の北側に村社 丹生神社。
粉河加太線のすぐ北側を合流せず並行して進みます。
やがて右からの粉河加太線に合流します。合流したすぐ左に坂を上る旧道らしい道があります。
間違っているかもしれませんが、坂を上ると分岐道となり右に進みました。
高台に建つ住宅道で、旧道かどうかわからないので右に下り粉河加太線に出ます。
すぐ先で信号手前の左コンクリート擁壁の道に入ります。山型に粉河加太線を迂回することになります。
左に入ると100m弱で右T字路を真っ直ぐ進みます。数十mで十字路を越えます。
さらに数十mで分岐しますので右に折れますが。左に折れるとすぐ右に浄永寺があります。
立派な門の 浄土真宗本願寺派遍照山 浄永寺
境内の 板碑 元亀二年(1571)の銘。
境内の ビャクシンの老木。
元の浄永寺の下の分岐を右に折れてその先の分岐を左に進みます。
左に折れて100m程先でT字路に出ますので左に折れますが、
T字路を右に折れると左に鳥居郵便局があり、すぐ先で粉河加太線の信号交差点に出ますので、この道でもいいかもしれません。
私は右T字路を左に折れました、左に折れてすぐ右に曲がります。50m程進んで右にカーブしました。そして
150m程進むと、右からの粉河加太線に出ます。
左に折れて粉河加太線を150m程進むと、V字に分岐を左に入ります。
右角に 八幡宮の石碑
左に折れます。
左に折れた道筋。
(2012年)当時には弥生の郷の住宅地で灯籠二基土手土手にあったのですが、何処へ移したのでしょう。付近は見る影もありません、5年の歳月。
その先で民家を挟んで左右に分岐しますが、右の民家と民家の間の路地に入ります。
民家の間の道。
右に阪和自動車道が見えてきます。
路地を出ると右からの粉河加太線に合流し、直ぐ先で阪和自動車道の高架を潜ります。
高架を潜りすぐの信号交差点を左へ、すぐ先、左に分岐する旧道があります。100m程高速の側道を進みますと、一筋目の右に曲がる道を折れます。
右に折れると、すぐ粉河加太線に交差して横断します。
正面の細い道に入りすぐ左にカーブしています。
横断した先の和歌山市府中の旧道を進んでいきます、右に会田内科医院があります。
信号交差点に出たところ、交差点左を見ると、粉河加太線の向こう側に鳥居と灯籠が見えます。
府守神社 875年紀伊国府の守護神として鬼門にあたる北東に鎮座した。
交差点より少し進んだ左に 八幡宮の石碑。
東に真直ぐ進んで行くと、左に市立紀伊小学校、街道沿いには紀伊幼稚園があります。
左に 地蔵堂
右には 正恩寺本堂
すぐ先十字路を左に進みます。
すぐまた分岐を右に折れます。正面に三階建てのアパートが建っています、その前を右です。
変則十字路を越えます。
その先の突当りを左に折れると、右になかお眼科医院があり、少し先で粉河加太線の信号交差点を横断します。
北野地区を進みます。
左の阪和線の北側に 若宮神社の鳥居 が見えます。
やがて進んでいくと、紀伊駅手前で右からの粉河加太線に合流します。
JR阪和線紀伊駅前の街道。
紀伊駅前の少し先で右に入る旧道があります。
右に入って細い旧道。
少し歩くと左からの道路に合流します。
合流して50m余り先で、再び右に入る旧道があります。
十字路を横断して右の川に沿って進みます。そして右の川が左の粉河加太線にカーブしますそして。
旧道も少し左にカーブしてその先で、右の橋を渡ります。左にカーブする左角に 祠。
橋の先を進むと道は分岐します、左の道に入ると、すぐ粉河加太線に合流して右に進む。
左に お大師さんの地蔵尊 があります。
その向かい道を挟んで、右に入る細い道が 熊野街道(歩き済み)です。暫く熊野街道と重複して進む。
少し進むと左に入る旧道がありますが短い区間です。
左に入り右にカーブする左角に道標かお地蔵さんかわからないが、花を供えているのを見ると お地蔵さん のよう
右にカーブしていく山口西の集落。
街道沿い左に 覚善寺
北隣に 斜陽山 西方寺。
集落を出て右からの粉河加太線に合流します。
左に折れるとすぐ 長屋門の旧家 があります。
ここから一直線に東の谷交差点まで600m程進みますが、歩道がなく車も多く注意が必要です。
真直ぐ600m程進むと谷交差点があります。その手前を左に折れます。田畑の間の道を北に進むと、正面に山口神社参道入り口の 鳥居 が建っています。
鳥居の前を右に折れますが、左角に 谷の地蔵。
山口神社 この鳥居から参道を経て拝殿まで結構道のりがあります。熊野街道で寄っていますので省略します。
右に折れて少し進むと十字路がありますが横断して旧道を進んでいく。
十字路の先右に 役の行者の祠・中筋日延の地蔵。
すぐ先で突当りです、上淡路街道、熊野街道 は左に折れます。左右の道は 紀州街道 です。
突当り右手前角ブロック塀のお墓の一角に
道標 「右 加太淡嶋神社道 左 和歌山及熊野・・」
正面の道から歩いてきました。紀州街道に出たところです。角のブロック塀の中に頭部だけ道標が見えている。
T字路を右に進むと、紀州街道で山口宿 に入る。紀州街道で歩いているので寄るのは省略します。
T字路南側から見た辻、左から出てきてT字路を左に折れる。
左の折れるとすぐ左に、山口宿本陣門 を移築した旧家があります。中筋日延地区
すぐ先の左T字路を右に折れます。この辻で、熊野街道・紀州街道 は真っ直ぐ進み雄ノ山峠を越えて、山中宿を抜け和泉鳥取で両街道は分岐します。
少し先、自治会館前に 祠二つ
暫く東に真っ直ぐ進み岩出市に入ります。
谷交差点からの新道が交差点で右から合流します。
合流した交差点から200m程先で左に入る旧道があります。
左に入った先で道は分岐しますので右へ。
右に折れると左に 祠。
右にカーブする左にも 祠。
粉河加太線の信号交差点に出ます。
この交差点を後で地図を見て、交差点を横断して真っ直ぐ進む道があり、そして左にカーブして再び左の粉河加太線にでる旧道か、あったようですが逸しました。
左に折れて少し先を進むと、左に入る旧道があります。
左に進んだすぐ先で小川を渡ります。
交差点に出て真っ直ぐ横断します。右にファミリーマートがあります。
その先150m程で、右からの道と合流して左にーブしその先の分岐で右にカーブします。
右に折れて小さな川を渡り進むと十字路に出て真っ直ぐ進みます。
交差点に出ますが横断します。交差点手前左に、沢山の地蔵が祀られています。
沢山集められた 地蔵。
岩出市安上で信号交差点に出ます。
右からの粉河加太線に合流して左に折れすぐ尾家川橋を渡ります。続いて住吉橋を渡ります。
暫く粉河加太線の車の多い道を進み。右角にセブンイレブンのある広いバイパス道路の根来西交差点に出て横断します。
根来西交差点より200m程先、十字路に出ます。この交差点は阪南市の紀州脇街道孝子越えの樽井から岩出駅近くの大和街道との分岐までの、 根来街道または三畑越え街道(歩きました)との交差する辻です。
街道は真直ぐ進む、根来街道の南への旧道とかつては根来寺門前町の旅籠であったのだろうか。
左北への根来寺への旧道。
上淡路街道は一旦中断して、根来街道を北へ(寄り道)根来寺へ。
(3回目として2016年12月10日)に補充として歩きました。
左に入り門前町を北に進みますが、往時を偲ぶような旧家は少なく新しく建て替えられていますので、門前町としての雰囲気はないです。
門前町西坂本を北に進んでいくと右に、海鼠壁の 金田家長屋門 が残っています。
長屋門を過ぎた角を右に折れて、
金田家を裏側に回り見ると、重厚な蔵が並んでいる、大きな屋敷であったようです。
そのまま進み根来川を渡ると63号線に出ます、その向かいに智光山 誠證寺。
門前を右に折れて上っていくとすぐ 浄土寺 蓮経寺 が並んでいる。
もとの門前町の通りに戻り左に入ると、醫王山智福院 薬師寺。宝篋印塔や石仏がたくさん置かれている、古いお寺を表している。
街並みを進む街道が少し狭くなります。
根来川に架かる観音橋を渡ります。橋を渡って振り返った左側にも大きな旧家。
すぐ先で信号交差点にでて根来街道はこの交差点を左に分岐していきます。根来寺へ真っ直ぐ進み正面左に岩出図書館と左右挟んで大門池と新池があります。
交差点を渡った左角に沢山の 石仏や地蔵・題目石碑 が並ぶ。
参道を進んでいきます蓮花谷川に架かる天真橋を渡ると左に、重厚で壮大な 大門 正面側根来寺一山の総門で、両脇に仁王像、上層に釈迦如来を中心に十六羅漢像を安置している嘉永五年(1852)再建。
大門の先の参道(車道)。
参道が少し左にカーブしている左手に 蓮花院。 左にカーブしてまた右に曲がる左の雑木林を上がると 三部権現。
その右カーブの道沿い左に、鳥羽上皇御駐輦所の標柱。右に折れて少し進むと大谷川に突き当たるので左に折れますおれる右に 祠 。左に折れたすぐ先左手奥に 律乗院。すぐ先で左右からの車道の十字路に出ますので、左に曲がっていくと林の中に 円明寺。
もとの十字路に戻り右に進むと堀のような深い大谷川が
大谷川に沿って東側を上ると 鐘楼門。
常光明真言殿
文化元年(1804)、紀州徳川家8代藩主重倫公の御母堂・清信院の発願により建立された。堂内に重倫公はじめ紀州徳川家ゆかりの人々の尊牌がおさめられている。
向かって光明殿の左に聖天池を前にして 聖天堂・行者堂 聖天堂は享保21年(1736)建立、行者堂は江戸時代。
池の西側を回り込んで入っていくと 九社明神。
光明殿に戻り中に入ることとしました。名勝庭園(国指定名勝)紀州徳川家の別邸を移築した「名草御殿」に面する書院庭園と聖天池で構成される庭園。
光明殿を出て、本坊寺務所。
寺務所の東側の川を渡り左(北)に入っていきますと奥の院への参道。興教大師の御廟所への参道です。
現在修復中 奥の院、新義真言宗の宗祖 覚鑁上人の御廟所。上人は康治2年(1143)12月12日に境内にある円明寺で入寂されこの場所に埋葬された。
新義真言宗 総本山 根来寺
平安時代末真言宗を中興した覚鑁上人(興教大師)が高野山に開創した大伝法堂と密厳院を起源としています。根来寺は鎌倉~室町時代に興隆し、中世においては一大勢力を成した寺院。天正13年(1585)羽柴秀吉による紀州攻めの時、大塔や大師堂など一部を除いて全山消失しました。
江戸時代に入り徳川家の外護のもと、復興への道を歩み続けた。現在の境内は36万坪、最盛時の大伽藍に及ぶべくもないが、夢の跡が随所にみられます。
奥の院参道の東側に 大師堂(重文)
明徳2年(1391)弘法大師像を安置し、須弥壇と共に昭和16年重文に指定されている。
大塔
根来寺の中心となる建物で、全山の宗教的心髄といわれている。明応五年(1496)の建立で多宝塔としての規模も大きく、わが国唯一の木造大塔で明治32年以来国宝に指定されている。
大伝法堂
大塔の東隣に根来寺を総括した本堂で、中央に大日如来、左脇に金剛薩唾、右脇に尊勝仏頂尊を安置しています。現在のお堂は享和元年(1801)に再建された。
正面の石段を下っていきます。
大谷川に架かる朱色の橋を渡ります。
橋から見たもみじ谷公園、12月で季節が少し遅いが今でも素晴らしく綺麗です。
南に進み車道に出て南側に渡ると、
身代不動尊参道と掲げられた提灯の下を潜ります。
高台に 不動堂
大聖不動明王を本尊とし、四大明王・文殊菩薩・愛染明王を祀られています。覚鑁上人が高野山で危難にあった折、身代わりになってお守りくださった故事から「身代り不動」「きりもみ不動」と呼ばれ信仰を集められています。
正面向かって左手の石段を上ると 大聖不動明王の社。
不動堂から南に石段を下り菩提川を渡り突当りを右に折れて、再び菩提川を渡ると資料館や大きな駐車場に出ます。
手前左に 根来寺塔頭菩提院の 石柱碑 が立っています。上から下ってきた左
菩提院旧跡
覚鑁上人の荼毘所跡とされ御堂には阿弥陀如来立像及び興教大師覚鑁上人の木像を安置している。
かつては寺領がどれほど広大であったか想像できない。
一応根来寺の広大な境内を見て回り、最後に車道を西に進み蓮花谷川を渡り行くと、整備された広場があり、旧和歌山県議会議事堂が移築されている明治31年(1898)和歌山市一番丁に建設され、昭和13年(1938)役目を終え、昭和37年根来寺境内に移築され寺の大客殿として利用されてきたが、保存のため平成26年解体により現地に移転改装により現在の姿になっている。
根来寺の見学も終わり再び街道よりスタートします。
門前町通りをすぎ、根来川を渡ると63号線の根来交差点に出ますので横断して真っ直ぐ進みます。
根来交差点を越えます。
右に吉田歯科クリニックを見てすぐ左の擁壁の下に 祠。
その先で根来東交差点を渡ります根来東交差点のすぐ先右にローソンがあります。小さな川を渡り右の上岩出内科脳神経外科医院の前を進む。150m程先で、旧道でないかと思う道を発見、間違っていたらすみません。
通り過ぎてその先の左の広場で見つけた。この写真は広場から西の畦道に残る旧道らしき残骸。
広場に出て東端から再び畦道がつながっている。
畦道を進んでいくと左からの道が合流して右に折れます。
合流する手前左溝の傍に用水路改修工事碑が立っています。
畦道の旧道を振り返る、旧道であれば大発見。この後の旧道の流れからして決して間違っているといえないです。
右にカーブして信号に出ますが、信号で横断して今度は反対側(南側)を迂回することになります。
今度も距離は短いですが、弓型に迂回しています。分岐は左への道。
県道の南側を迂回する旧道県道に出ると左道沿いに、みたに整形外科医院が見えます。注意して県道を渡り北側斜め右に進みます、道は分岐しますが道なりに右にカーブして東へ。
少し先で右にカーブします。
左に 上岩出神社御旅所御旅所 のすぐ先の十字路を横断します。
十字路の200m程先で右からの県道(粉河加太線)に合流して。
県道を数十m先で再び右の旧道に入ります。
東坂本から新田広芝地区です。右に入った少し先の分岐は左に進みます。
左に入るとすぐ先で、隠れるように左に 常夜灯。
静かな街道です。
新田広芝を南東に400m程真っ直ぐ進みます。
やがて右からの道と合流します、街道は左に折れます。
その右に 供養塔と文化三年の銘がある新田広芝の 道標。
左に折れてすぐ先で十字路を横断します。十字路を越えてすぐの木積川の橋を渡り東に進みます。
その先で、木積川を渡ります。
西三谷集落の街道右に、地蔵堂と地蔵 があります。堂内には厨子と薬師如来像が祀られている。堂の脇には 板碑や 供養塔が立てられていますが刻字は風化しています。
街道らしい雰囲気の旧道を進んでいきます。左から新道が突き当たります。
その先300mほど集落を進むと南北の道の交差点に出ます、街道は真っ直ぐ進みます。
交差点右(南)に500m程行くと紀伊国分寺跡があり、さらに西に500m程行くと国分尼寺があります。
交差点右手前角に 地蔵堂と道標 堂内には木彫り如来像と石造地藏像が祀られている。堂の袂に折れた北春日神社道、西根来へ三十丁の銘を刻まれた大正六年の 道標 が倒れている。
この交差点で街道歩きを中断してまた【寄り道】します。交差点を右(南)に500m程歩きますと紀伊国分寺跡に出ます。
東国分に 紀伊国分寺跡と歴史民俗資料館 綺麗に整備されています、塔礎石が整然と並び金堂や講堂跡が発掘されています。
ここより西500m程の西国分に 国分尼寺跡 の史跡塔心礎があるようですが、時間の関係でまたの機会にします。
もとの交差点に戻り東に進みます。
南斜め前方には紀州富士といわれる龍門山(756m)が見えます。
左に 春日遥拝所 春日大明神と刻まれた板碑・灯籠二基があります。
春日神社遥拝所の 道標 境内の西端にある北春日神社道と銘のある道標ここが真北の山麓にある春日神社の遥拝所です。
遥拝所の先の街道でその先旧道はS字型にカーブしています。
春日川に架かる七板橋を渡ります。
150m程先で十字路を越える。左に池があります。池の先、左に池田小学校があります。
小学校を過ぎて真っ直ぐ東に進みます。
左にすぐ近くの海神川の上流(北)海神池の南側にある海神社の、海神社遥拝所 鳥居と石碑 があります。
すぐの海神川を渡ります。
その先集落内左に珍しい建物二軒続いてます。
蓮池と新池の間の旧道を進みます。この地域の南側一帯に沢山の池が散在しています。
南勢田地区の県道泉佐野打田線の信号交差点を越えます。交差点の先すぐで、佐川に架かる橋を渡ります。
南勢田地区の街道を進んでいきます素晴らしい集落内の道です。
右に梅田内科医院を見て進むと交差点に出ます。
交差点右手前角に 智足院。 境内右の金網の傍に橋の柱のようなのが碑建っています、かつての鳥子川の橋柱か院から100m程先で、鳥子川に架かる橋を渡ります。
川を渡った先、左に松尾池、右に上ノ池の間の旧道に入ります。左側池の土手に草で隠れてしまいそうな埋れた
松尾池の 道標。刻まれている文字はわかりません。
両池の間の旧道を進み、池を過ぎて300m程先で五差路に出ますほぼ真っ直ぐの道(車の後方)を進みま
ここもまっすぐです。
左にカーブします、右から道が合流してきます。
左にカーブするとすぐ左は北に長い池です長田中地区で、池の過ぎた右に永田小学校があります。
やがて集落内で左からの道が合流します。左から合流する道は、粉河街道(歩きました)です。犬鳴峠越えをして貝塚、脇浜の紀州街道に合流します。右への道は永田観音寺から大和街道へ通じています。
左に大きな旧家の建物。
そのすぐ先で新しい道の十字路に出ます、真っ直ぐ進みます。
この十字路が粉河街道との交差か迷ったが道が広く新しい、北(左)へかなり進んでいくと前述の道と北志野神社で合流します。
交差点を真っ直ぐ進み緩やかに右にカーブしながら下っていくと、左に 地藏・常夜灯兼道標。
坂の下る途中分岐しますので左を進みます。
坂を下っていくと、松井川に架かる橋を渡ります。
橋の先で坂を上ります、坂を上りきったところ左に、新しく建て替えられているが、大きな屋敷があります。
中山の集落に入ります左一帯の集落は「中山」といって、粉河寺方衆の子孫の人たちが児玉姓を名乗って二十数軒住んでおられる。
左前に地藏寺が見える、右の街道を進みます。
少し先左奥に見える大きな 長屋門の旧家 があります。明治九年地租改正反対運動の指導者児玉仲児の生家。
左に 阿弥陀山 地蔵寺
街道から左斜一帯が、粉河寺方衆の子孫の人たちが児玉姓で20件ほど在住している「中山」集落。
続いて左に新しく建て替えられている 真言宗醍醐派修験道場明王山 空海院
坂道を下ります、この道は 根来小路 と呼ばれていた。
坂道の途中に今は使われていない 古い井戸跡。
坂を下ると左 に伽羅陀山 地蔵寺。三国伝来子安地蔵尊の額がかかっている。
緩やかな坂を下ります。
右に豪壮な建物。幕末粉河組 大庄屋の伊藤修次郎宅跡。
続いて肥料酒類販売 鳴尾屋
根来小路の出入口、突き当りを左に行けば粉河寺。街道は右に折れます。
(1日目2012年1月9日)の時は、この時点で薄暗くなってしまった。もう少しで完歩だったが、ここで本日終了します。右に折れてJR粉河駅へ
jR粉河駅
1日目 2012年1月9日、4日目2017年5月4日は粉河駅で終了します。起点までは残り5㎞ほどの距離で歩けないことはないが、暗くて写真が撮れないので諦めます。
2日目 2012年1月11日
JR粉河駅~紀の川市井田の大和街道との合流点
9594歩 5.75㎞
1日目4日目はここで終わっています。
2016年12月10日、上淡路街道では欠かすことができないので、粉河寺に行ったので、順序として掲載します。
辻より左に粉河寺方向へ本町通りを進む。かつて私が憶えている若いころのこの本町筋は、道幅ももう少し狭く、粉河寺の門前町としての風情ある建物が沢山あったが、道の整備と共に古い建物も建て替えられ、時代の変換がよくわかる。
粉河寺への門前町を進みます。
旧家が残っています。
粉河寺の入り口、朱塗りの大門橋。
御神木が聳えている樹齢 1千年余、胴回り15m、高さ25m、大神社のクスノキ。
大門(重文) 宝永四年(1707)の創建の楼門。
粉河観音宗 粉河寺
西国三十三ヶ所観音霊場第3番札所として古くからの古刹。宝亀元年(770)創建と記載されている。大門を入ると東西約1㎞、南北約0.7㎞の広大な寺域。隆盛時には堂塔・院坊数百といわれたが、天正13年(1585)、羽柴秀吉の紀州攻めで堂塔を失った。その後再建されたが度々の火災に見回れた。現在の建造物群の大半は、1713年以降順次整備されたもの。大門は唯一1713年以前の建物。
蛭子社
参道左に 不動堂 弘法大師の爪刻不動尊を安置する。
参道を進んでいきます。
粉河寺童男堂 童男大士を祀る。
仏足石 お釈迦さんの足跡がきざまれ。
出現池 本尊の千手観音の化身、童男大士が柳の枝を手に白馬に乗ってこの池より出現したと伝わる。
念佛堂 光明殿ともいい、阿弥陀如来を安置する。
阿弥陀如来坐像(露座仏) 文久二年(1862)の銘。御池坊庭園(非公開)江戸初期。
太子堂 聖徳太子を祀る。
大畑才蔵翁彰功乃碑 江戸時代前期の郷土が生んだ偉人。和歌山北部に小田井・藤崎井を初めとして水路を造り、水田地帯を開発した。その功績を後世に伝える碑文。
盥漱盤(かんそうばん) 安永四年(1775)の銘。江戸時代全国に知られた粉河鋳物の代表的な作品。
一段高い 中門(重文)天保三年(1832)再建された楼門。門の扁額「風猛山」は紀州藩主10代の治宝の真筆。
中門を入ります 身代地蔵尊
本堂(重文) 西国三十三ヶ所霊場札所寺院中最大の堂で、一重屋根の札堂と二重屋根の正堂が結合した珍しい複合仏堂。本地仏の千手千眼観世音菩薩(非公開)を祀る享保五年(1720)。
国指定名勝 庭園
桃山時代の枯山水の石庭で本堂前の左右の崖地に築造され、日本の庭園の中でも先例がない様式。巨石を利用した豪快な造形の名園。石は、紀州石は雑賀崎の青石、琴浦の紫石、竜門山の竜門石の名石を使っている。
本堂西隣 千手堂(重文)。
地藏堂
地蔵堂の前に芭蕉句碑 「ひとつぬきて うしろにおひぬ ころもがへ」
地藏堂の横に 水向地藏
丈六堂 文化三年(1806)の再建。一丈六尺・阿弥陀如来を安置。
桃山時代の石庭(国指定)
クスノキの大木。
本堂右手前に巡礼の納札所 六角堂 享保五年(1720)建立。西国三十三観音を安置。六角堂の前に、湯浅桜。
本堂裏手右に、紀州徳川家が建立した 天台宗安楽派 十禅律院。
枯山水の庭園「洗心庭」名園。
十禅院のイブキ(別名ビャクシン)
稲荷神社 本堂裏手左側の産土神社は、粉河寺の守護神。享保十二年(1727)頃の創建、さすが紀州家立派な神社。
千手堂(重文) 宝暦十年(1760)建立、正面に千手観世音菩薩、両側の祭壇には紀州歴代藩主とそのゆかりある人々の位牌を安置。
行者堂 役行者を安置
本堂前の 灯籠
神社裏手の風猛山に 経塚 天治二年(1125)法華経の写経埋納されていた。
中門より参道
参道入り口近くの 道標
山門より境内
山門を出て門前町方向。
山門を出て右(西側)に出る浄土宗 運行寺
粉河寺の見学も終わり、本町通りの辻よりスタートします。
(根来小路の入り口)、再スタート地点です。
根来小路を出てきて右(粉河駅方向)に本町通りを曲り100m程進みます。
100m程先の左への道を左に折れます。
左に折れた道筋。
右に 真言宗 福生寺
すぐ右にどっしりした旧家が残っています。
すぐ先で、中津川に架かる這上り橋を渡ります。
橋から120m程進むと7号線の県道に出ます右に折れます。
右に折れてすぐ左の坂道を100m程上ると粉河高校の正門に出ます。
粉河高校正門
正門の前で右に折れます。左に粉河高校のグランドを見ながら坂を下り南に進みます。
グランドのフエンスの横の細い道を進んでいくと十字路に出ますので真っ直ぐ進みます。
00m程でJR和歌山線の線路が見えてきます。旧道は線路を越えて進んでいたが消失しています。
線路の手前を右に100m程進むと左に踏切に出ますので迂回して線路の向こう側に回ります。
線路を渡ったすぐ左への道を入ります。
100m程で右に 祠 があり、線路の向側の消失した旧道の延長がこの祠の辺りに出てきていました。
祠の前の街道。
左に木村接骨院、右から新道が合流します、真っ直ぐ進みます。
真直ぐ進進むとT字路に突き当たる、左右の道が 大和街道 で、上淡路街道 が合流します。ここの辻が上淡路街道の起点です。
右角に、常夜灯と自然石の道標 「右 こかわ 左 わか山」
辻の右、大和街道の和歌山側の道。大和街道は数十mで左に折れます。
辻から大和街道、東への道詳細は大和街道を見てください。
辻から、上淡路街道の旧道を見る。
部分的に4回にかけて歩きましたが、便利上通しとしました。
上淡路街道完歩
コメント