京 街道 1日目

2012年  2月1日 
【1日目】 大坂高麗橋~枚方市宗左の辻
自宅5時40分に出て、JR高野口駅5時48分で乗り、難波から淀屋橋にでてそこから少し歩き、北浜の高麗橋のスタート地点。
7時20分出発。スタート時雨のため1時間余り待機する。17時枚方市駅近くの、宗左の辻で1日目は終わり。
          45.920歩 27.55km 1898kl

2012年 3月11日 
【2日目】  宗左の辻から大津市追分町の東海道の分岐点
自宅4時40分車で林間駅に預け、難波にでて京阪淀屋橋から枚方市駅まで行って、前回起点の宗左の辻、7時15分スタート。追分17時50分に完歩。
この先、大阪峠を越えた大津市街地の追分までは東海道・中山道で二回歩いているのでここまでとする。
15時ごろまでよい天気であったが、急に小雨が終わりまで降り続いた。京街道はスタート時と終わり時に雨が降った。
          60.050歩 36.03km 2.674kl
久し振りによく歩いた、完歩したときは薄暗くなっていた。追分駅より京都三条にでて帰宅 に着く、自宅に着いた時は21時であった。

東海道は当初、江戸日本橋から京の三条大橋まで宿駅が五十三次であったが、その後大坂まで延長され宿駅も五十七次となった。江戸幕府も定着して西国大名の京都を通る、つまり朝廷との接触を回避させるため京都市街地を外れ、道筋は新たに大津の追分から山科を通り伏見を迂回、大阪京橋(後に高麗橋)まで四宿を設けた。つまり、伏見・淀・枚方・守口宿を設け五十七次宿としたことを元和二年(1616)のことであったと文書に残る。街道名は大坂からは「京街道」「伏見道」、京からは「大坂街道」「河内街道」とも呼ばれた。

2012年2月1日)冬の七時はようやく明るくなってきたところで、寒い
大阪中央区の高麗橋起点を出発

明治時代に、高麗橋東詰に里程元標がおかれ、西日本主要道路の距離計算はここを起点います

高麗橋西詰と東横堀川

高麗橋の東詰から北に出て土佐堀通りに出るのが本来かもわからないが。私は西詰から西に進む

高麗橋通りを西に進む堺筋との交差点に出るので、その交差点を右(北)に折れる。左(南)へ進むのが、
紀州街道

紀州街道、左に進む道。紀州徳川家は参勤交代で大和街道を進んでいたが、江戸時代中期から紀州街道が参勤交代道となった。

少し北に進むと、土佐堀通りの今橋の交差点に出るので右に折れる。

右に折れて北浜東を東へ阪神高速環状線を潜り、右に東横堀川に架かる高麗橋を見て東に進む

高速道路の高架を潜り左の旧淀川、天神橋を見る。

土佐堀通りと松屋町筋と交差する天神橋交差点を越えると、左に八軒家の船着場跡が残り、その交差点を右に進む街道が 熊野街道で起点を示す案内板が立つ

大坂と京都を結ぶ淀川客船の船着場として交通の要衝として大いに賑わった   
八軒家船着場

江戸時代、天神橋と天満橋に挟まれた大川(旧淀川)南岸が八軒家と呼ばれた。八軒家には京都と大坂を結ぶ三十石船が発着する船着場があり、淀川における貨客輸送のターミナルであった。道沿いには旅籠や問屋が並び、船着場は旅人や運送にかかわる人々、客を呼び込む人たちの喧騒に包まれていた。その様子は落語「三十石」や十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にいきいきと描かれている。
この地域は八軒家と呼ばれる以前には渡辺と呼ばれ、渡辺津を中心に平安時代から瀬戸内と淀川を結ぶ水上交通の拠点として栄えた。また、熊野三山への参詣道である熊野街道の起点でもあり、交通の要衝として古くから賑わいをみせるところであった。現在も船着場が整備され、「みち」と「かわ」を繋ぐ、水の都大阪の拠点として、賑わいを見せている。 (八軒家の説明碑より)

船着場跡から南の筋が 熊野街道

船着場を後に土佐堀通りを東に少し進むと、左に京阪天満橋駅

天満橋交差点を越えたところで、土佐堀通りが少し左にカーブする。旧道は当時は真っ直ぐ進んでいたが、今はビルが立ち並び完全に消失しているので、そのまま進む。右方向は大坂城

その先の京阪東口交差点で右に折れてすぐの左への道を曲がるが、この辺りもう少し南寄りに旧道は右から出ていたようだ。
左に曲がる右側に古い石垣跡
豊臣時代大坂城三の丸北端の石垣(移築復元)

この石垣は、大坂城三の丸の石垣の一部をここに移築し、発見されたままの姿に復元された。豊臣時代の大坂城三の丸は、秀吉の晩年にあたる慶長三年(1598)に大坂城の防御強化のために造られた、しかし、慶長19年(1614)に大坂冬の陣の講和条件として家康によって取り壊され、地中深く埋もれてしまいました。
平成元年の大阪府立女性総合センターの建設に伴う発掘調査で再び姿を現しました。地表下約2mのところに東西21mにわたって発見されたこの石垣は、上部は崩されていましたが、いままでみつかった豊臣時代の石垣のなかでもっとも残存状態のよいもので、当時の大坂城の面影を今に伝えています。 (石垣説明版より)

左に折れて進んでいくと、左に日本経済新聞社大阪支社の南側の道、左に復元石垣

左に折れてすぐ寝屋川に架かる京橋を渡る。橋から東方向を遠望。橋の南には大坂城の京橋口の石垣が重厚に構えている。また橋から東を望むと、JRと京阪の京橋駅

京橋から右後方、大坂城北外堀方向でこの付近は大坂城の前身である石山御坊の門前市が立っていた。江戸初期までは、青物市場・川魚市場・木綿市場も立って賑わいは大変なものであったという。

京橋
京橋といえば、いまではJR、京阪、地下鉄などの集まる繁華街として知られていますが、その名は、大坂城の北側の寝屋川にかかる小さな橋「京橋」に由来します。京街道の起点にあたり、京都へ通じる橋という意味から名付けられ、その街道は徳川時代を通じて野崎参りの人々で賑わいました。この橋の誕生は秀吉の時代といわれ、徳川時代には天満橋・天神橋などとともに公儀橋として重要視され、高欄擬宝珠つきの立派な橋でした。(旧跡案内板より)

京橋を渡り、土佐堀通りの寝屋川橋東詰交差点を渡ると、京阪本線に突き当たるので、京阪本線の南側を沿って北東に進む。京街道の旧道はスタート起点から全く面影はないし消失しており仕方ないことである。京阪電車の線路の向こうは、近松門左衛門の「心中天網島」で有名な都島区網島町、小春と治兵衛は、大長寺境内で心中する悲しい道行の舞台。

寝屋川橋東詰より南西方向を見る。かつての旧道は、京橋の北端から南西に寝屋川を渡り、日経新聞社を通り、南側の復元石垣辺りに出ていたと思われる。
今はそれを想像することしかできないが、これもまたいろいろ想像しながら歩くのもまた楽しい。車では絶対考えられないことである。

左の京阪本線に沿って進む、京阪本線で旧道は消失。京阪電車の軌道は元、鯰江川が流れていた。片町1丁目はこの鯰江川と寝屋川に挟まれた東西に長い中洲であった

片町交差点の手前、土佐堀通りと街道の間に、お寺と思えない 徳龍寺

その先で片町の広い道路を横断したところの分岐する道の角に、 のだばし址の石碑

鯰江川の架かっていた 野田橋址の碑が、三叉路を京阪の高架に沿って曲がりすぐ右側の植え込みの中にある

野田橋址の三叉路 スタート時点ではまだ雨も降っていなかったが、ここにきて少し落ちてきた

左に京阪本線、右に寝屋川に架かる片町橋を見て進むと、右にJR東西線が地下に入っていく上を左に緩やかにカーブしながら京阪京橋駅の南口に進む。この辺りも市街化に相変わらず開発されて旧道の痕跡は全くなし。
多分この辺りから京阪京橋駅構内を旧道は抜けていたのだろうと推測する。京阪駅構内を通り北側に出る。

駅前の右側のホテル京阪京橋の前の道を北に進み国道1号線に出る京阪京橋駅前は、京街道と野崎・奈良へ向かう 古堤街道との分岐点でもある。

この先で1号線に出て、右に折れ大阪環状線のガードを潜る

1号線手前から駅前の道を振り返る、正面京橋駅とホテル

JRのガードを潜ったところで左側に、新京橋商店街のアーケードの道を入る

アーケード入り口手前JRガードには京街道と大きく書かれている

商店街の中の街道当時は東側に榎並水道の水路で堤道であった

街道より左に一筋入ったところに、光信寺 この辺りは戦災で焼けたため新しいお寺に建て替えられている

徳龍寺の向かい街道右に「京かいどう」の金文字の立派な 石碑

引き続き京橋中央商店街のアーケードを進む

都島中通り3丁目に入る。この辺りはかつて 野江刑場跡

右に 道標

左に 榎並地蔵

地蔵の先で道は分岐するが右側の道を進む。都島本通五丁目4

その先、野江3の交差点に出る手前の分岐を右に折れる

少し東側の市道大阪環状線の道路に出る。右に折れる

右に折れ、野江4の広い交差点に出たところで、左90度に曲がる(北へ)

交差点を左に折れず、少し真っ直ぐ横断した左に 野江水神社 かつて南北朝時代から記録されている、榎並城址水神社 はその城内に当たる

水波女大神が祭神水道工事やお風呂屋さんなど水に関係する人の参拝が多い

横に 水流地蔵尊

奥左に、野江稲荷大明神、大きな日露戦勝記念碑

野江4の交差点に戻り北に少し進み、一つ目の信号手前を右斜めに入るこの辺り野江榎並にはかつて榎並猿楽座跡榎並城跡である

信号手前、内代町を右に入る

右にカーブして都島通りに出る

都島通りにでて左に折れ城東貨物線の高架を潜る

貨物線を潜り少し歩いたところで、旭国道筋商店街の看板が上がっている

そのすぐ先で国道を右に分け左に入る。この先かつては 七曲り街道跡 である

高殿4で分岐を左に進むが、右に折れ都島通りの信号交差点を横断した左に

関目神社

元の街道に戻り進む、右へカーブして都島通りに出て横断(左の信号を迂回し向こう側へ)

迂回して向こう側の細い道を入る

道なりに左にカーブして北西に進み、国道1号線に出て左に折れる

左に折れると、国道1号線と都島通りが交差する、関目5交差点に出るので、1号線を真っ直ぐ行かずに交差点の斜め右(東北)の161号線を進む

関目5交差点で右斜めに入るところ、よさこい寿司の向こう側

高殿7付近を進む

森小路1に入るところで、高速道路守口線の高架を潜る。高架の下は古市橋

古市橋のかかるこの道筋は、その昔文禄年間(1592~1597)に秀吉の命により淀川の堤防を整備して造られた京街道の跡と言われている。当時は、大坂城の京橋口を起点として、片町・蒲生・関目・今市、そして守口・枚方・橋本・伏見を経て京に至るのが経路であった。江戸時代には、諸大名の参勤交代にも利用されるようになり、天下の台所、大阪の発展とともに街道筋の宿場町も大いに栄えたといわれる。
古市橋が架設されたのは比較的新しく、工業用の船運を目的として昭和10~15年にかけて大阪市により城北運河が開削された。今の橋は昭和12年11月に初めて架設したものである。

古市橋を渡った左に 道標

森小路1を進む、右の近畿大阪銀行の前に 

街道沿い四辻の左角にビルの 大道寺

森小路2の右に 道標

その先、街道は千林1で千林商店街のアーケードに入る。スーパーダイエーの発祥地として有名

商店街の中を進む

商店街のアーケードが切れた右に 祠とその前の街道 

今市1で左からの京阪国道に合流するが、歩道橋で国道を渡る。

歩道橋を渡る手前左に 道標と京かいどうの地図を表示した石

正面左の道を歩いてきた

歩道橋より京阪国道と街道ガソリンスタンドの左側から右にカーブしてローソンの所で京阪国道に合流

合流する所を歩道橋よりみる

京阪国道を進んだ先の、京阪本通1交差点に出るので真っ直ぐ横断して渡る

交差点のすぐ先の一筋目で街道は右に折れる。曲がる左側角は損保ジャパン守口ビル

右に折れた左に 景星地蔵尊

地蔵を左に見て、三筋目商店街を左に入る左に温泉(銭湯

右に 土居坊・清沢寺開基 実悟上人荼毘所旧蹟
実悟上人は、明応元年(1492)に本願寺第八世法皇・蓮如上人の息男として生まれ、永禄年中に河内国茨田郡に土居坊(現清沢寺)を開き、のちに世木坊、古橋の坊を創し、布教・著作に為法精進され、天正十二年(1584)十一月二十五日に九十三歳で円寂された。
ここは、実悟上人の御遺体を荼毘に付した地で、墳墓は清沢寺(土居町11)に安置されている。

京阪商店街アーケードを左に入る

商店街右側奥に、 守居神社

ここの商店街は活気があるようです

商店街を抜け東北に真っ直ぐ進む

やがて左に日吉公園がありその交差点から振り返る。向って右が日吉公園。この交差点で向かって右から中高野街道が合流してきて少し重複して進む。

公園を左にすぎ、次の交差点を右に折れる

右に折れすぐ左に街道はカーブする

更に北東に進む

左側に 本門佛立宗鶴林山 義天寺

この辺りから守口宿に入る。守口宿下見付跡

【守口宿】東海道57番目の最終宿

守居橋の右は京阪守口駅の南端

守居橋

守居橋を渡ったすぐ街道右手に 

すぐまた、本町橋

右に守口駅

文禄堤
この堤は、豊臣秀吉が伏見城と大坂城を結ぶ最短距離の道として、文禄五年(1596)に毛利輝元・小早川隆景・吉川広家の三家に命じて淀川左岸の堤防を改修・整備したもので、のちに、東海道守口宿の一部が築かれた。堤防上の道は、京へ向かうときは京街道、大坂へ向かうときは大坂街道と呼ばれました。堤の長さは、約27㎞あったといわれていますが、度重なる淀川の改修工事でそのほとんどは姿を消しており、現在ではここ、本町の一部のみが江戸時代の宿場町の面影をしのぶことができる貴重な文化財です。(守口市教委)

守口宿の宿場の街並み

本町橋を渡り少し進んだところで、右に鋭角に下る道がある。この右への道が、守口駅前正面から南側のガードを潜って進む、中高野街道 が分岐していく

中高野街道との分岐点

宿場の中ほど古民家が残る

殆ど車も通らない快適な宿場街並この道筋には江戸の頃の家々も立ち並んでいる。宇建があがった本瓦葺の古い家。

宿場内で右の黄色みかかった電柱の所を細い道の下りが、奈良守口街道の起点

守口街道への入り口の 来迎坂
左角に 道標 「右 なら のざきみち」

京街道が出来る以前の守口では最も古い街道

その先左に、江戸川乱歩居住跡 の案内碑があるが分からなかった

右の守口街道の起点を見て通り真っ直ぐ東へ進む。この辺りから八島町交差点までには、札ノ町と呼ばれ、左に魚万楼、茶屋・旅籠が並んでいた。八島町への緩やかな下り坂は札場坂で交差点の所には高札場があった。交差点で文禄堤は分かれ、京街道は右折れする。市場ノ町から問屋場や本陣があった浜町へと通っていた。文禄堤は1号線を横断して京阪北本通りから淀川筋へと向かっていた。

左に、川東かさと丁ちん店 の老舗の建物。
この辺りがかつての、魚万楼 交差点の所に 高札場 があった

その先で国道1号線の八島交差点が左に接触するが、右へ鋭角に158号線を曲がる、左にマクドナルドがある。

右に折れた筋を少し進んで振り返る正面の左右の道が1号線で、文禄堤は1号線を渡り右へ造られていたがこの先は痕跡がなくなっている。前の白いワゴン車の左前から京街道は出てきて手前に歩いてくる。

白井家 大塩平八郎ゆかりの書院跡  
最近まで旧家が残っていたが取り壊され、現在その跡にはマクドナルドが建っている。江戸時代に豪農白井家の邸宅があり、その一角にたつ書院を「大塩平八郎ゆかりの書院」と呼んでいた。天保八年2月19日飢饉の救済を訴えた大塩の乱をおこすが失敗、捕縛寸前に自ら命を絶った。ここでの書院が陽明学の講義や挙兵の相談の書院となった。現在は取り壊された後に、 が立てられている。
白井家跡と碑

街道右側には 守口宿本陣跡
この通りを竜田通りで、市が開かれたり問屋場や今は駐車場になっているが本陣跡であった。この付近が守口宿の中心地といえる。

本陣跡を振り返る、南大門の手前付近

すぐ先、四辻の右に難宗寺がある、蓮如上人が守口坊として創建。京街道はこの辻を左に折れて、浜ノ町に入る

真宗 難宗寺
蓮如上人が文明九年(1477)に創建、西御坊と呼ばれる。名刹

境内のいちょう 本堂西側に立ち、樹高25m超、目通り直径1,5m、樹齢4~500年の巨木で圧倒される

境内には明治天皇の玉座も保存されている

竜田通りを左に折れる、右の角(難宗寺の角)に、道標二基「すぐ守口街道」「すぐ京街道」
明治天皇の行幸時の「御行在所」、皇太子(後の大正天皇)の「御仮泊所」の 標石二基

難宗寺のまえは、来迎寺 があり中世の環濠集落跡で、守口宿が成立する以前より古い街として環濠集落があった。

左に折れて、浜ノ町の筋

右角に来迎寺と刻まれた 石標

浜ノ町を北に進んでいく

西御坊にたいし、右に東御坊と呼ばれる盛泉寺当坊は東本願寺末寺で 守口御坊盛泉寺 と称し、
真宗大谷派宗祖親鸞聖人 本尊阿弥陀如来で慶長十一年教如上人創建。 

浜町1の街筋

その先で、国道1号線を渡る手前右に 瓶橋跡の石柱

国道1号線を横断して浜町二丁目に入る

瓶橋跡、左角

その先街道は左に緩やかにカーブしている

カーブを曲がる途中左に、守口一里塚跡記念碑ここには榎が植えられていた。そして守口宿の北の端「上見附跡」であった。結構長い宿場

守口一里塚跡・上見附跡

八雲中町の信号交差点の155号線を横断

左奥に 専教寺 西本願寺の末寺

右にカーブして横断した、155号線に合流左に折れて府道を進む

右に守口東高校を見て進む

守口東高校を過ぎた一つ目の信号の道が分岐する交差点で府道155号線を右に分け、左の旧道に入る

街道は右側の、八雲公園・八雲小学校の西側を通り、高速道路の高架下を潜る

高架下を潜った先の道

街道は、浄土真宗法谷山正迎寺 に突き当たるので右に折れる創建は観応元年(1350)

京街道は守口宿の上の見附あたりから、ここまでかなり蛇行した街道となっているが、これは宿場を守るためのわだと蛇行させたもの

右に折れる手前左に 智眼地蔵尊

右に折れてすぐ先で、八雲北公園に突き当たるので、左に折れる。左に折れて北公園の北側を巻き乍ら東へ

左側に守口市の浄水場の南側を進み、浄水場の東で少し広い道に出て左に折れる。(大庭町2)

左に折れた道筋、左にふれあいセンターを見て淀川の堤防道路を進む

堤の道から右下方向に、八坂瓊神社・長教寺・正覚寺 が大庭町2にかたまってある

その前方に淀川に架かる鳥飼大橋と新鳥飼大橋

かつて淀川の堤防に上がった辺りに「七番の渡し」の船着場があった。対岸の一津屋や鳥飼へ渡ったところで、現在は鳥飼大橋と新鳥飼大橋がともに淀川を越えている。
ここから枚方市出口までの約3.5㎞の淀川堤は文禄堤で、枚方宿を目指す。往時の土手はもっと低く、街道は川筋に沿ってもっと蛇行していた。その旧道跡が庭窪浄水場を過ぎたあたりの堤防下に一部のこっているようだが確認ができない。街道のほとんどは河川敷公園内に埋没してしまった。

七番の渡し がこの辺りにあった

鳥飼大橋の高架下を潜る

左に淀川、かつての文禄堤跡がほぼ真っ直ぐ延びている

右には1号線の寝屋川バイパス(京阪国道)が並行して走る

左には佐太西町からの河川敷公園が続く右手京阪国道の向こうに、大日の町・佐太の町が見え。専隆寺・本性寺 が遠望できる

佐太中町5、左堤防沿い下に大木と古民家が建つ。多分旧道沿いの名残だろう

やがて佐太中町7ふきんに来ると、かつての 佐太渡し場跡 がこの辺りにあった

⦅寄り道⦆その先で堤を右に下りて行くと、用水路に架かる天神橋の手前右に 淀川佐太の渡し跡の碑

天神橋から京阪国道の1号線を越えるとその先に、佐太大神宮の鳥居 が見える

1号線の歩道橋より 佐太大神宮 を見る

歩道橋より1号線の北東(京側)佐太は、守口宿と枚方宿の「間の宿」であった

鳥居からの佐太大神宮の参道

佐太天神宮

豪商淀屋寄進の石井筒 慶安3年(1650)二月二十五日淀屋四代目三郎右衛門重富によって寄進された。

来迎寺 浄土宗知恩院の末寺となっているが、かつては大念仏宗佐多派の大本山で、末寺六十三ヶ寺もあり、正平二年(1347)現在の来迎町に創建されましたが、以来この地に定着する1678年までの、332年の間に二十五回も移動しました。当寺に多数の文化財が伝わっていますが、中でも「絹本着色八幡曼荼羅図」は国の重文に指定されている。

庭園内にある 来迎寺石造十三重塔

菊と桐の紋章を浮き彫りにした 勅使門

来迎寺と正面奥、佐太天神宮 来迎寺と手前駐車場の境の、竹藪が陣屋跡と石垣

佐太陣屋跡
佐太地区は、京都・大阪間の交通・軍事上の要地であったことから、美濃国加納藩32.000石の永井氏が貞享年間(1684~1688)に渚(現枚方市御殿山)からこの地に陣屋を移し、摂津・河内の12.000石を領有し、約5.000㎡の敷地に屋敷・蔵・牢屋敷等を建てた。この陣屋は、加納藩の大坂における蔵屋敷の役目を果たし、年貢米の納入、加納藩の特産物の提灯・傘等も集積して大阪商人に売りさばいた。
来迎寺のすぐ南の老人福祉センターの傍に「佐太陣屋跡」の立札がある。いまは来迎寺との境界の竹藪と石垣がわずかに陣屋跡の遺構を残すのみ。

近くに大きな建物がある

菅相寺
来迎寺の東側に曹洞宗宇治興聖寺の末寺で、木造十一面観音立像を本尊としている。像は平安時代の作。当初は真言宗に属し、薬師如来を祀っていたが正保元年(1644)永井信濃守尚政が萬安禅師をまねいて中興、開山させてから曹洞宗に転じている。境内には、本堂・地蔵堂・庫裡・石製露盤・永井伊賀守尚庸の碑がある。往時は七堂伽藍がならぶ広大な境内地であったと記載されている。

佐太の渡し跡を後にして仁和寺本町の堤を東北に進む。右手1号線の向こうに、仁和寺氏神社・常楽寺が望める

仁和寺本町北の左右を望む

この辺りもかつての旧道は完全に河川敷に埋没している

やがて前方に鳥飼仁和寺大橋(有料)が見える鳥飼大橋をます

点野に入る

前方に淀川新橋が見えてくる

淀川新橋の手前堤を下に降りると、茨田樋遺跡

茨田樋遺跡水辺公園 日本書紀に登場する、日本最初の堤 お鍋茶屋跡

淀川堤防に建つ、茨田樋之跡碑

淀川新橋、その高架を潜り進む

堤より少し右に下りたところに、真宗退魔山 西正寺

お寺の隣には 太間天満宮

更に少し東に入った国道1号線手前には、古びた石造りの用水路に架かる絶間橋
絶間橋と1号線の高架仁徳天皇の茨田堤はここ太間で難渋したところ。1号線交差点は絶間橋南

絶間橋が架かる用水路、水が満々と流れている

文禄堤に戻り再び進むが、堤右下に 

文禄堤の右下に細い道が並行しているので、気分を変えるため下の道を歩く

とにかく文禄堤は長い延々と続く。振り返ったところ

茨田堤碑 左の河川敷は太間公園、堤に碑が建つ。 日本書紀には茨田堤の築造は仁徳天皇十一年とあり河川堤として最初。難工事で、強頸絶間、衫子絶間伝説があらわしている。

河川敷の太間公園を見下ろす堤上に「茨田堤」碑を振り返る

寝屋川導水路の太間排水機場

左(西側)には太間公園が広がる。この河川敷公園は本当に広くて綺麗

文禄堤より1号線の向こう側にある、本信寺と鞆呂岐神社 があるが寄れなかった

堤から何かわからないが高い石碑が見える

出口に入るとにかく単調で長い、同期の友達らと歩いた時この道が苦しかったと今でも言っている

出口6の辺りで堤下に旧道が残る

その先でかつて対岸の三島江へ渡る、渡し跡 でそこを右に曲がる

右に折れた先の街道沿いの右に  があり、そこで堤を左にして、右に曲がる

用水路を渡るが、橋の袂に 一里塚跡 があり、「右 出口・光善寺・三島江・わたしば左 大坂道」の道標があったようだが見落とした

道標から街道は東へ進み、右手に蹉咜小学校をみて街道は北にカーブし、出口の集落に入る。街道風情の残る建物と街並み。

集落内右に 蹉咜神社遥拝所  出口5丁目5

趣きのある街道風景

小さな橋の手前に石の玉垣をめぐらした一角があり、蓮如上人御遺跡 と平べったい楕円形の石が台石に載せられている。蓮如上人腰掛石 がありこの石の上に座り村人に法を説いたという

遺跡から200mほど進むと街道が右に折れるが、その左にある光善寺

出口御坊 渕埋山光善寺
蓮如上人が開基といわれる。建立にまつわる龍女の伝説が残る。左には、石柱「蓮如上人御腰掛石霊跡 是より二丁」重厚かつ風格のある建物

光善寺の東側の旧道を進む、街道情緒があって素晴らしい

蓮如上人御腰掛石をすこし進んだところで道は突当り、左に光善寺を見て右に折れ、更に左(北)に曲がり、伊加賀小学校手前の交差点をやや右斜めに真っ直ぐ進む。更に北へ進んでいくと、伊加賀スポーツセンターに突当り、この辺りで旧道は真っ直ぐ行っていたが消失しているので、東側の道に迂回する。

伊加賀スポーツセンターの所で右にカーブしてすぐ先で左に折れる。そして迂回道は13号線に出て少し右に13号線を歩くと、信号交差点にでるので、直角に左(北)に曲がり進む

その先伊加賀西町の突当りで右に折れる。突き当たりの所この辺り左に先ほどの迂回前の旧道がでてきていた。

右に折れてほぼ真っ直ぐの旧道を東に進み、左枚方大橋南詰の170号線との交差点を横断する。

交差点を横断したところで左右の道が分かれるが、左斜めの細い旧道に入る。

交差点を横断した、左がわに 水・面・廻・廊

水と歴史のふれあい広場 水面回廊

交差点のすぐの分岐、左の細い道

宿に入る手前、伊加賀本町を右・左と蛇行しながら細い旧道を進む 右に折れる

左に折れて坂を上る  

坂を上って所、桜町で左からの道に合流

街道は向かって左の道を坂を上って出てきた 右に進めば明治に入って花街として賑わった桜町

右の道、街筋の桜町は、明治四十二年に、旧堤防沿いに枚方宿の旅籠20戸が移転してきて「桜新地」と呼ばれる町を形成した。移転当初は貸座敷20軒、芸妓20人、娼妓33人で、その後広がり、花街は昭和33年の公娼制度廃止まで続いた。現在、町の中を流れる用水路が「水面回廊」として公園整備され、川べりに三十石船を型どった小さな船が昔日を偲ぶ。街筋には檽子格子や高欄などを配した建物が当時を伝えていた。

【枚方宿】西方、東海道56番目の宿、大きな長い街並み

その先でT字路となり左に折れると、すぐ十字路で宿場は右に折れて進むが、右に折れず少し真っ直ぐ坂道を上ると、13号線桜町の交差点で淀川に突き当たる。

桜町の交差点、前方は淀川の「鍵屋浦」が広々と広がる雄大な景色だ。

郵便屋の渡し跡

交差点手前右角の一角にある郵便屋の渡し跡碑

鍵屋浦 
枚方宿の西見附宿近くの街道筋の船宿「鍵屋」の淀川舟着き場に通じる所から「鍵屋浦」と呼ばれた。淀川三十石舟唄にも、ここはどこじゃと船頭衆に問えば、ここは枚方鍵屋浦 鍵屋浦には掟はいらぬ 三味や太鼓で船止める と歌われたほど賑わったという。

宿の案内マップが詳細に立てられている。(宿場町枚方を考える会)が中心になって、早い時期から公民一体となって整備事業が行われたので、街筋は整備され素晴らしい。

桜町交差点から10mほど坂を下ると、先ほどの十字路となり宿の入り口桜町の東端で、西見附跡ここを東北に宿場が延びている。

交差点を少し真っ直ぐ進むと(先ほどのT字路)の南側にある 誓願寺 向って左の道が 河内街道

右に曲がった左に 

再び西見附の交差点に戻る。正面が桜町交差点  【枚方宿の西見附

枚方宿は桜町西見附~堤町~三矢町~岡本町を横切り~枚方市駅前を東に~鵲(かささぎ) 橋手前で東見附となり宿場は終わる

堤町の宿場の街並を進む

鍵屋資料館前の街道

江戸時代の町家の特徴と船宿の構造を残す貴重な歴史遺産。平成十三年鍵屋資料館としてオープン。創業は天正年間織田信長時代で老舗船宿。現在の主屋は江戸時代の十八世紀末頃の建物で街道に面した表は格子戸を配し、二階は立派な定紋入りの宇建がある豪壮な民家。
近年まで枚方の代表する料理屋として「くらわんか料理」を供して営業していたが、平成九年に閉店した。
その後、枚方市が譲り受け資料館として公開している。裏手は淀川を進んできた、三十石船から大勢の客を曳き舟で招き入れた船着場があった。
街道筋には沢山の、料理屋や旅籠があり。また淀川の川向かいには、高槻城が見える景観であった。

鍵屋資料館(元鍵屋)

鍵屋の前を通って京街道を暫く歩く宿場の面影を残す素晴らしい建物が並ぶ

宿場内の街道は緩やかに右にカーブする、街道は真っ直ぐで、辻を左に行くと 番匠浦 と呼ばれた船着場跡で角には立派な構えの、「田葉粉屋」 の屋号を持つ江戸末期の民家がある。この辺り昔は泥町村といった。

淀川舟運・枚方浜(問屋浜)跡
過書船と伏見船の船番所通行手形を持つ特権川船のことを過書船と称し、享保初年(1716)には、乗客を主とした三十石船671艘、貨物運送を主とした二十石船507艘が、大坂と京・伏見の間を航行していました。一方、過書船の営業独占に対抗して、元禄11年(1698)に伏見船の営業が認められたため、両者は激しく競合しました。泥町村には過書船・伏見船の船番所がそれぞれ設置され、淀川を上下する船を監視しました。
三十石船とくらわんか舟
三十石船は船頭4人、乗客定員28人で、伏見から大坂への下りは半日か半夜、上りは竿をさしたり、綱を引いて船を曳きあげるため、一日か一晩要した。船客相手に飲食物を商う煮売茶舟は、「餅くらわんか、酒くらわんか」という売り言葉から俗に「くらわんか舟」と呼ばれた。
枚方宿の問屋役人を兼ねていた、この地域は泥町村で、屋号「田葉粉屋」の店を構えていた木南家は楠木一族の末裔と考えられる。江戸初期から庄屋・問屋役人を兼ねて、幕末期には農業経営を発展させ金融業も営んでいた。またくらわんか船の茶船鑑札を所持し宿駅と村の運営に大きな影響を行使した。

道は番所浦で堤付近、当時は淀川船着場などで賑わったところ。

堤町から三矢町に入る、街並は右にカーブしたところで交差点に出る。左角に新しい 道標 がありそこを左に折れる

左に折れた先の宿場の街並み

その先進むと、浄土真宗 浄念寺 に突当り右にカーブしてすぐ左に折れる、宿場独特の 鍵の辻 になっている。

浄土真宗と枚方寺内町
枚方は浄土真宗とゆかりの深いところで、戦国時代の順興寺の建立に遡る。永禄二年(1559)に、蓮如第27子の実従がここに入寺し、一家衆(本願寺宗主の一族)寺院として栄える。順興寺を中心に蔵谷・上町・下町の町場が形成されます。このような真宗寺院を中心とした集落を地内町といいます。枚方地内町は現在の枚方上之町を中心に台地上にありましたが、本願寺勢力の低下とともに順興寺は廃され寺内町は衰退した。
江戸時代になると、淀川沿いに枚方宿が形成され、台地上にあった都市機能も宿へ移ってきた。その後、本願寺は東西に分裂し、天和二年(1682)に東本願寺は、枚方に再興した寺院に願生坊の名を与え、また、西本願寺も浄念寺を本山直轄の寺院として特別に扱った。地域の人々は願生坊を東御坊、浄念寺を西御坊と呼んだ。

浄念寺から少し先で右に折れ、街道を少しはずれ⦅寄り道⦆の為、京阪本線をの線路を渡り東側に出るとすぐ右がわにある。 
浄念寺の西御坊にたいし東御坊の 願生寺浄土真宗大谷派香雲台 願生坊
永正十一年(1514)に蓮如の子で本願寺第九世実如光兼が開基。慶長十六年(1611)、教如が再興して本山別院に、その後、現寺名の願生坊となって現在に至る。

この辺りも、願生坊を中心に寺内町として賑わった
願生坊のまえ道を挟んだ北側に 大隆寺

寺を後に東に入ると、蔵の谷の上り坂と呼ばれる坂道が続く。右手は谷、左が森の万年寺山で丘陵が広がる。まず最初に台地上に鎮座する。意賀美神社

万年寺山
小高い丘で、意賀美神社から背後一帯の丘で、明治37年枚方小学校運動場拡張工事中に発見された、万年寺山古墳が、四世紀頃と推定されている。またこの地には、奈良時代創建の密教系寺院の万年寺があったが、明治三年の廃仏毀釈によって廃寺になり、本尊は三矢町の浄念寺に預けられた、神社はその跡地である。「万年寺山の緑陰」は、枚方ハ景の一つで、なかでも意賀美神社の梅林の美しさは名高く、豊臣秀吉が建てたという御茶屋御殿跡は展望が美しい。

神社の客殿の横の道を東へ、府指定の「ムクの木」を目指し、立派な邸宅の角を回り路地のような細い道を北に入る、その屋敷はかつての森繁久彌の生家だった。今は別の人の邸宅になっている。ムクの木は急峻な谷の崖緑に聳えている。樹齢500年から600年、幹回り5m、高さ30m。
ムクの木の傍には、鋳物師がいるといわれていた、ここにもかつて田中家が屋号を「金星」といい、禁裏御用師として朝廷ともつながり深くかかわったが、今は空き地となっている。
その後、御茶屋御殿跡 に出る。鉄の綱格子に囲まれた空き地が広がっているのみである。ここに、豊臣秀吉の愛妾乙御前が住む御殿であった。

御茶屋御殿跡広場

御茶屋御殿広場からの淀川・枚方等の遠望

万年寺山遺跡1号石棺の説明
寄り道も終わり再び京阪電車の線路を渡り、元の街道に出る。

線路わきに 蓮如上人の遺跡碑

道標

街道にでて願生坊へ行く曲がり角辺りが少し道幅も広くなっている。左側に問屋場があった、人馬の継ぎ立や荷継ぎのため混雑したため道うを広くしてある。さらに問屋場の裏はくらわんか船に発着場でよけい賑わった。かつて淀川は大きく蛇行して接近し川底も深く船着場として最良であった。問屋場の裏手は問屋浜(鶴屋浜)で、少し先の本陣の裏手は枚方浜であった。

宿場街道の面影を残す民家が並び素晴らしい

その先交差点の左が 本陣跡 本陣跡の先一つ目の左角に「銭屋」という脇本陣 があった。その先、「札の辻」と呼ばれる高札場 があった。その角向かいに、もう一軒の 脇本陣「河内屋」があった。この辺りは旧三矢村で宿の中心付近。

街道脇に立つ 枚方宿高札場跡

枚方宿本陣
旧三矢村に建っており、池尻善兵衛家が代々世襲した。間口約20間、奥行約24間の敷地に建て坪約215坪の立派な建物が建てられていた。
本陣跡

街道を進むと左に、妙見宮・開運講の常夜灯 が立つ。ここから旧岡村

宿場はだんだんとあたらしい町並に変化してくるところで、黒壁に白漆喰の虫籠窓を配した往時を偲ばせる味噌屋の「北村本家」、その数軒先には枚方名物の菓子「あかつき」で有名な「呼人堂」が老舗を守っている。

その先で一気に街の様相が変わり、ビオルネ枚方とビブレ枚方の近代的ビルに出る。旧岡村は商人や職人の街であったのを受け継いでいる。人どおりも多く賑やかである。

その一角には西見附跡碑と枚方宿のマップが立っている。宿場町枚方を考える会の人々の努力が偲ばれる
道標 「西見附 東見附」

繁華街は駅前まで続く、枚方・富田林・泉佐野線の20号線を横断するとすぐ、宗左の辻に出る。正面の奥に見える建物が京阪本線枚方市駅

駅舎手前の四辻、宗左の辻
右に曲がる街道は、磐船街道の起点
京街道は辻を左に曲がる

右手前角に大きな 道標
「右 大坂みち」 「右 くら・・・・ 左 京・・・・」 

左向かい角に 道標
「宗左の辻」「東 見附 かささぎ橋」

宗左の辻から今来た街道(西)筋

2012年2月1日 1目はここ宗左の辻で終了
大坂高麗橋スタート 7時20分~宗左の辻17時着  
    45,920歩 27,55㎞  1時間雨のため中断したがも目標地まで着くことができた

                             次の日はコチラ

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