京 街道 2日目

2012年3月11日

枚方の宗左の辻~樟葉~石清水八幡宮~淀~伏見~墨染駅~勸修寺~山科~大津市追分で東海道と合流

2012年2月1日に続いて、自宅早朝に出て前回の起点、枚方の宗左の辻へ。
7時15分スタート追分町の終点までは距離も長く何とか完歩したい。

枚方市駅西口の駅前を100mほど西へ細い道を入ると宗左の辻に出る

宗左の辻より北へスタート

宗左の辻まで、枚方宿の遊女達は夜を共にした客を見送ってきたらしい、「送りましょうか、送られましょうか、せめて宗左の辻までも」という俗謡が残されている。白粉に紅を引き、髪にに結わえた緋緬縮を垂らした遊女が、愛しい客を襟をはだけさせて見送っている、そんな光景を思わせてくれる 宗左の辻の道標。遊女たちのか細い声が聞こえてきそうな辻から北へ進む。

左手には当時を彷彿させる商家が近代的ビルの中に混じって残っている。何時までも残してほしい建物だ。明治11年の建物

すぐ先、現在はないがかつては、安居川(中川)に架かる枚方橋があったが、今は「ひらかたはし」と刻まれた橋柱のみが残されている。

岡村新町に入る。右斜めの道を進むと枚方市駅前からの広い道の交差点に出て横断する

左に新しい 道標

交差点から右方向の枚方市駅を見る

少し進んでいくと右に 浄土真宗 浄行寺 モダンなお寺となっている、樹齢470年という大イチョウが立つ

浄行寺の横の細い道の奥の行く会館横に枚方橋から移された 地蔵堂

この辺り左に紀州家家老の専用脇本陣 中島九右衛門宅 があった

枚方宿も東端となり天野川の堤に突き当たる、東見附跡 枚方宿の長い宿場街道もようやく終わり
かつて松と土塁があった、枚方宿も西見附から東見附までの間は結構長い距離

東見附の手前右に旧家が残る。幕末ごろの建物で、屋号は「八幡屋」でその筋向いに茶店があった.

東見附
天野川に接する枚方宿の東端で、道の両側に柵で囲われた松が植えられてた。「河内名所図会」(享保元年1801)には、淀・伏見方面に向かう大名行列が天野川の橋に差し掛かり、見送りに出た宿役人が東見附で待ち受ける光景が描かれている。元分2年(1737)の「岡新町村明細帳」によると、天野川には長さ17間、幅3間1尺の板橋が架かっていて、岡・岡新町両村が共同管理していたが、修繕・架け替えの費用は幕府が負担していた。
紀伊徳川家は、参勤交代の際枚方宿に宿泊しましたが、天野川渡河にあたっては、既設橋の上流に専用の仮橋を架けさせました。(東見附説明版より)

現在は板橋がないので、左の橋に迂回する。かつてここに、鵲(かささぎ)橋の跡

鵲橋跡より左の新しい鵲橋を渡る

橋からの13号線(旧1号線)

新鵲橋から右(東)を見る、京阪の陸橋との間が旧橋跡

新かささぎ橋を渡ったところですぐ右に曲がり、先ほどの対岸の突当り東見附の延長線上にある旧道に出る。

延長線上の旧道に入るのに、左に曲がったところから振り返る。この角辺りに、かつての 一里塚跡

左に折れて、ここから天之川町の街並を進む。京阪電車は右側に並行する

左側にある 延命地蔵大菩薩 沢山の小さな お地蔵さん が並んでいる

天之川町から磯島茶屋町までの間、茶屋や茶店が沢山並んでいたという。

京阪電車の線路が右に接近するところで、日野橋を渡る

街道は、左からの府道13号線・京都守口線の磯島交差点でで合流して、暫く府道に沿い、右に京阪本線を見ながら、交通量の多い府道を北に進む。昔は両側に松並木が続く道であったそうだ

暫く進むと、京阪御殿山駅の西側の御殿山駅前交差点を通るが。ここで少し駅手前の道を右に⦅寄り道⦆をする。

右(東)に入っていくと、

御殿山神社
御殿山神社は、渚院跡の観音寺境内に隣接して設けられた粟倉神社(現小倉町)の御旅所を起源とする。のち、江戸期文政年間に八幡大神を勧請し西粟倉神社と称した、明治に入り御殿山に社殿を造営、御殿山神社と改称した。
御殿山の名称は惟喬親王の渚院のあずまやに起源とするが、江戸初期に淀藩主永井家系統の永井伊賀守が領地支配の陣屋を建てたためとも言われる。
市立御殿山美術センター建設時の発掘調査で、弥生時代から平安時代にかけての住居・建物 跡や中世の大溝が検出され、また江戸時代の建物跡など陣屋に関する遺構も見つかった。

近くに 浄土宗 白雲寺 
渚院跡に建てられた観音寺が廃寺となり、その時、本尊十一面観音像はこの寺に移されている。

渚院跡
紀貫之の「土佐日記」に出てくる文徳天皇の第一皇子、惟喬親王の離宮渚院が小高い丘の上にあった。親王は鷹狩りや紅葉狩り、桜見物などにしばしば訪れ、在原業平や紀有常と親交を深めていた。御殿山公園の北、枚方市立渚保育園と渚之院会館の間の小さな公園の脇に、「渚院跡」の石碑。また会館の裏手に鐘楼が一基、梵鐘とともに忘れられたようにある。鐘楼は、渚院跡にたてられた観音寺という真言宗の鐘で、お寺は明治三年の神仏分離で廃寺となり、鐘楼と梵鐘がここに残った。

渚院跡の石碑はここ、市立保育園と渚之院会館の間の小さな公園の脇にあるは入口に説明があるので何とかわかる

渚院跡石碑
折角の史跡碑、もう少し何とか整備できないのかと思った

会館裏の元観音寺の 鐘楼と梵鐘

寄道を終わり、御殿山駅前の元の府道13号線に戻り、北に進むと三栗南交差点

三栗南交差点で街道は、府道を右に分け左の細い旧道に入る

三栗の集落を抜け、再び府道の三栗交差点で府道を横断する

横断したすぐ先左に、浄土真宗 清傳寺

京阪の踏切を渡る

街道は踏切の先で、緩やかに左にカーブしたところで街道両側に 二基の常夜灯

三栗2を抜け、左に京阪電車の線路が近づいたところで、正面に5階建てのマンションがあり、その手前で右の公園に上る細い道があるのでそこを右に上る

上に上ると阪今井公園が左に沿う。公園から上ってきたところを振り返る

公園の途切れたところで右に穂谷川が東から接近、堤防を沿って進む。右に防垣内橋を見て真っ直ぐ

更に少し進んだ穂谷川に架かる明治橋を右に渡る。橋を渡らず真っ直ぐ堤を進むとすぐ牧野駅

橋を渡り街道は左に折れ堤に沿って進みますが。橋を渡り少し真っ直ぐ⦅寄り道⦆をします。

伝 阿弖流為(アテルイ)母(モ)レ之塚
約1200年前、時の朝廷の国土統治にあたり、東北地方には蝦夷と呼ばれる人々がいてその支配を拒否していました。このため朝廷は、彼らを辺境の人々として征討部隊を派遣しましたが、人々はこれに対し、激しい抵抗を繰り返し容易には属しませんでした。延暦二十一年(802)四月、征夷大将軍坂上田村麻呂は、蝦夷の酋長アルテイと副将モレが同族五百余人を引き連れてようやく降伏したことを朝廷に報告し、七月、二人を伴なって帰京しました。二人の処遇について田村麻呂は強く助命を嘆願しましたが、八月、二人は河内国で処罰されました。この地がアルテイとモレのゆかりの地とされています。(説明版より)

大木の根元にあるアルテイ・モレの塚  公園となっている塚のすぐ西側に、片埜神社が建つ

片埜神社  この神社の創建は四世紀の垂仁天皇の頃というから古い神社

本殿は慶長七年(1602)、豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建、檜皮葺き三間社流造りで(重要文化財)

明治橋を渡り川に沿って右岸を歩く、昔は明治橋を渡らず左岸を歩き線路が川を跨ぐところで右に徒歩で渡っていた。踏切の川左は牧野駅

そして牧野駅の北側の踏切を越えて、線路沿いに右に折れて進む

上島町に入り真っ直ぐ線路を右に進む

右に 浄土宗 成雲寺と門前の祠

やがて船橋川の堤に突き当たる、橋が無いので左に迂回し府道の楠葉橋を渡る

突当り堤の下に 地蔵と道標

歩いてきた街道を堤より振り返る

かつては真っ直ぐ渡っていた

左の府道の楠葉橋を渡る

楠葉橋を渡り右に折れ対岸の堤を少し進み、旧道の延長の道を左に堤を下る

堤より左に降りて北に進む街道

その左角に 

細い集落の街道を少し進むやがて樋之上町の交差点で左からの府道13号線に合流右は京阪本線が並行してある

左は淀川、右は京阪線の間の府道を暫く進みます左は河川敷のくずはゴルフ場が広がる右には京阪樟葉駅

右に樟葉駅の所で、13号線を左に分け、楠葉交差点を右にカーブしながら下る

下って右にカーブする左の広場には、ゴルフ場への車が沢山駐車している

京阪の高架下を潜ると、様相は様変わりする。駅の東側一帯は近代的ビルや高層住宅が立ち並ぶ。現在の道は一つ目の信号交差点を左に曲がり線路に接近したところで右にカーブする道であるが、旧道を追ってみる。

昔は信号の数m先を左斜めに折れていたが、今は完全に畑とビルで街道は失われているので、その間は止む無く近くを迂回し、斜め左の先に回ってみることとした。

斜め左の先、旧道らしい道を見つけたので、北へ進む

民家の軒を通り少し坂の上の道に出る、左からの道は、先ほど信号交差点を左に曲がり線路に近づき、右にカーブする道がここで合流する。

坂を上って合流したところから、振り返るもちろんこの道は無理な旧道で、この付近を通っていたと仮定

合流した後の真っ直ぐ北への細い旧道

右角に 「旧京街道」の新しい 道標 が建つ

道標の先の旧道を進む

蔵のよう建物に突き当たるが、少し右によってまた北に進む

少し右の奥に 浄土宗 建長寺

静かな町樟葉2丁目付近の街並み綺麗な町並みだ

この辺りに 楠葉砲台跡、幕末に幕府が京都防衛のため築造した、今は何もない

京街道で、建長寺から光明院にかけての町樟葉という町名一帯は、幕末の鳥羽伏見の戦いでの戦役の跡。民家や寺に火がはなたれたが、兵火を免れた屋敷が所々に残り、新旧入り混じった街並だが、街道の雰囲気が残り素晴らしい。

左に 祠

祠の隣に 光明院

光明院の先を歩くと、左に京阪本線の線路が接近する。京街道は線路をまたぎ、淀川の現堤防の道を通っていた。右に大阪市水道局樟葉収水場と線路の間の道を進む。樟葉中之芝1丁目線路を潜り左に出て、淀川堤防が旧街道の跡であるが、車が多く危険で真っ直ぐ進む

正面森、久親恩寺で道は右に緩やかにカーブするが、かつては線路を越えた京街道沿いまで境内で、京街道沿いに山門をもつ大寺であった。今は縮小したお寺となっている。

曹洞宗大孝山 久親恩寺
境内には桜の木や樹齢600年という楠の老木が立つ。建物は新しく変わっていて、大寺の面影を偲ことができない。

樟葉中之芝、この先で堤に上る

堤の左に、戊辰役橋本砲台跡の石碑 が建つ楠葉砲台と同じ時期に築造された。

楠葉台場(砲台)跡
慶応元年(1865)5月、江戸幕府は会津藩の建白を受け、大阪湾から京都に侵入する外国船に備えるという名目で、淀川左岸のここ楠葉に台場(砲台)を築いた。この台場は長州藩士など尊皇攘夷派の入京を阻止するという関門の機能も備えた。設計の総責任者には勝海舟があたり、築造には北河内の大工職人が動員された。
当時の設計図では、土塁と堀で囲まれた約三万平方メートルの台場内には、カノン砲三問・番所・火薬庫を備え、新しく造りかえられた京街道が通っていた。平成19~20年にかけての発掘調査では入り口の石垣の一部や土橋などが確認され、日本で唯一残る河川台場の輪郭や規模が明らかになった。  (枚方市教育委員会)

台場跡より街道は田園の中の旧道を北に進む

緩やかに右にカーブした先に久修園院の伽藍が見えてくる

真言律宗天王山木津寺 久修園院
本尊は釈迦如来。行基が開いた49院の一宇で、神亀二年(725)創建の古刹。全盛時の寺領は、北は橋本の変電所辺りから、南は旧楠葉駅付近にかけての七堂伽藍と多くの塔頭を持つ広大な寺院であったという。大阪夏の陣元和元年(1615)の兵火で大半を消失した。のち、江戸時代の延宝年間に、宗覚律師が再建した。

そのすぐ先で道はT字路にでて左に曲がる

すぐ先で、小さな川を渡り京阪本線の踏切を渡る。T字路となり左へ、かつての文禄堤を踏襲した淀川の堤防を進んできて、楠葉中之芝2丁目交差点で堤防より右に下り、T字路で合流する。

合流して右に折れた街道、京都府八幡市橋本に入る。

街道らしい雰囲気の残る橋本の集落を進んでいく

街道は集落の橋本中ノ町で突き当たり右に曲がるが。

左に曲がりすぐ傍の大谷川を渡ると淀川の堤に出る。
大谷川に架かる小さな橋と淀川の堤、旧橋本の渡し跡

橋本の渡しの碑  
大谷川の橋の袂に、道標 「山さき あたご わたし場」

淀川の橋本の渡し跡より淀川の下流をみる。旧文禄の堤跡 非常に長い堤で 約27㎞あった

橋本の渡し跡より淀川の対岸、西国街道が通る大山崎で山は古戦場の天王山渡しは、途中中洲になっていて少し中洲を歩き、再び渡しにのり対岸の山崎に渡っていた

淀川に沿って堤の東側を流れる大谷川、川に沿って街道雰囲気の漂う建物が建つ

街道のT字路に戻り右に折れる、正面は京阪橋本駅

橋本駅まで行かず手前、道標のある所で左に折れる橋本はかつて遊女の一大歓楽街で賑わった京街道筋に面した家並みは、その当時の繁栄を誇らしげに語っているようである。

左に折れる右角にある 道標 「左 八幡宮 いせ 京伏見」

左に折れた辻よりの橋本北之町の街並み

道標の所で少し⦅寄り道⦆橋本駅へ進み、駅の南側のガードを潜ると、
浄土宗 橋本寺西遊寺の石碑

門前に 道標  「橋本渡舟場三丁 山崎停車跡十丁 柳谷観音一里七丁」

浄土宗 橋本寺西遊寺

橋本中廼町の辻にある道標まで戻り、橋本北之町の街筋を進みます

橋本北之町の右に 稲荷神社

橋本西山本に入り右に 道標 「右 八まん・・・」

橋本尻江で大谷川を渡る、3号線の旧京阪国道の淀川堤に上がらず、右の道を進みます。

橋より右の大谷川

淀川の堤に上ったところ、この辺り昔は淀川を左斜めに対岸に川を渡っていたようです

橋本奥ノ町に入るところ右に 八幡宮常夜灯

そのすぐ先、淀川堤とその堤下の旧道の間に立つ巨大な楠木、樹齢1000年気の遠くなるような1000年の間行き交どう旅人たちや戦役を見守ってきた生証木だ。

かつては楠木辺りから左斜めに堤が延びて、木津川・宇治川を斜めに渡り真っ直ぐ淀城下に入っていた。川の氾濫で地形が変わってしまったので、往時の地形が想像でしかできないない。ここで「三川合流」している、一番南から木津川、東南から宇治川、東から桂川、が合流して淀川となって大阪湾に流れています。

楠の大木の左斜めから左対岸に進んでいたところです。対岸の遥か先には、淀新城址があります。今は地形が変わり、この先、男山の裾を通って左に進み、木津川、宇治川を渡り、北側の桂川との間の旧道を進んでいきます

堤の下の街道、左に 祠 があります

この辺りの地形を少し整理すると(京街道、横井三保著参考)
淀城下(豊臣秀吉時代の古淀城・更にその西に江戸時代の淀城)は対岸の東に位置します。城下の北側を桂川が西へ流れ、宇治川は城下の南側を西にながれて現御幸橋で木津川と並行し、さらに下流で桂川が並行してやがて三川が橋本駅の西で合流して淀川と現在はなっていますが、かつては、京都観月橋手前に広大な巨椋池があり宇治川が注ぎ込み、再び池から宇治川が流れ出ていました、(秀吉は伏見桃山城築城と並行してここから巨椋堤を建設、文禄堤へと継承した、そういう意味では文禄堤は大阪までもあり凄い工事で周辺の人たちは水の氾濫に助けられたことだろうと思います)。現京都競馬場辺りで木津川に合流し、そして合流した二川も淀城址の西南の美豆町、淀大橋北詰の先で桂川と合流していた。全く現在の地形図と様相は異なっています。
現在に近い地形は明治に入り大改修しているのでそれに近い。京街道は、楠木のところから左の旧淀川・旧桂川に沿って淀に向かい、堤の右手は陸地だった。今では川の中を見ながら想像するほかない。
現在の御幸橋を渡り切った辺りに向かって、この楠木の堤あたりから京街道の堤道は延びていた。平安時代の中頃からこの楠木はその変遷の歴史をずっと見つめてきたことだろう。今は、街道は堤に沿って右に大きくカーブして橋本奥ノ町へ、右の男山の裾野をまわる、山上には石清水八幡宮が鎮座する。
八幡市駅を右に見て、左に折れて御幸橋で木津川と宇治川を渡り、淀城下へ入ります。淀城も豊臣時代の淀古城と江戸時代の淀城は少し場所が違って、淀古城址は、新淀城より東に進む鳥羽街道沿いの妙教寺の境内に碑が建っているのみです。

街道右手、大谷川・京阪本線の向こう男山の裾野にみえる 常温寺

右手に男山の遠望

橋本奥ノ町の街並と右手に 

その先で街道は広い道路に出ます。京街道は左に折れますが右に曲がれば、京阪八幡市駅があります。
右への道は、東高野街道の起点です

右に折れた辻から高東野街道の道と男山男山山上には石清水八幡宮が鎮座します

右に折れて東高野街道を少し右に進むと、大谷川に架かる橋、橋の右は八幡市駅

左に折れた街道、正面は木津川御幸橋淀川御幸橋と続きます

御幸橋からの東高野街道の方向を見る。此の付近の詳細は、東高野街道を歩いた時、石清水八幡宮 に行きましたので今回は寄りません。

御幸橋より男山の中腹にある、石清水八幡宮 の遠望下からケーブルカーも出ています

八幡から木津川に架かる御幸橋を渡ります

御幸橋左手下に昔を偲ぶ橋を造っているのかな。今歩いてきた京街道の遠望

御幸橋と読みがちですが「ごかうばし」と読む

木津川の御幸橋を渡ると中洲となっており、信号交差点もあります

中洲は1.4㎞の背割堤の桜並木が続いています。桜の季節はまたいいかも

橋本の渡しはこの中洲に渡し船で渡り、中洲を歩き再び宇治川を渡し船で渡った、この中洲の先端で左から木津川、右から宇治川が合流し淀川となる。そして右手を流れる桂川がその先で淀川に合流吸収されます。三川合流地点です。中州から再び宇治川を渡り、二つ目の御幸橋の北詰め辺りに旧道は来ていたようです

13号線で、木津川・宇治川に架かる御幸橋を渡り、街道は緩やかに右にカーブし、京守の信号交差点で京滋バイパスと478号線を潜り、その先左にあるホテルデイアラの手前を右に折れて、左の京阪電車停車場を越えたところで左に折れる。この道が京街道なのか新道であるので少し疑問に感じたので、私は御幸橋を渡り堤沿いに右に折れ、京滋バイパス手前で堤より左下におりて京慈高架を潜りました。

橋を渡り終え右に折れて、宇治川の堤を少し進むと、左に下る道があります。そして高架を潜ります

左に下るところより男山の遠望と宇治川に架かる御幸橋

高速道を潜った所で堤より左に下ります

その先で京阪本線の高架を潜っていきます

左に京阪の広い停車場を見ながら、真っ直ぐな旧道を進んでいきます

右に松ヶ埼記念病院

記念病院の過ぎたすぐ先で、街道よりすこし右に入ると、こんもりとした森が見えます

涼森神社と美豆城跡の碑
京都市に二条城・淀城・伏見城の代表的な城があったが。その他、約山城等50ほどの城(砦)があったがその一つです

静かな淀美豆町の町並を進みます

集落内右に 浄土宗 円通寺

その先進んでいくとT字路となり右に折れます

右に折れたところで、また数十メートルで左に曲がります

左に曲がった雰囲気のいい街道筋

左 西岸寺とお堂

⦅淀宿⦆東海道五十五次淀城下の城下町で宿には本陣や脇本陣はなく、旅籠が16軒あったのみと記載されています

その先で信号交差点を越えると淀城下にはいります。江戸時代の淀宿の中心街

交差点を越えた先右に 淀町道路元標 下半分が埋もれている

小さな川の手前右に 八大竜王弁財天と銀杏の大木

橋の手前を少し右に入ると、お寺が集中している

浄土宗 高福寺

浄土宗壽豊山観音院 長圓寺

門前に戊辰戦役東軍戦死者の碑

曹洞宗 東雲寺

他にも川沿いに並んでいます

街道に戻り橋を渡る橋から川沿いに並ぶお寺を見る

左側の京阪本線の北に 淀新城、その北側にもお寺が多い、そしてここ南側のお寺と城の守りも兼ねていたのだろう。
川を渡り城下町の情緒が漂う淀新町の城下の街並みを進みます

右新町クラブの隣に 天満宮

天満宮の先の街道、淀競馬の開催日かガードマンが交通整理をしています

淀下津町に入り、右角にある 浄土真宗本願寺派文相寺 の手前で左に折ます

左に折れたところの街道

左の牟禮歯科医院の前を右にカーブする

右にカーブして、次の四辻の左前の角にJA京都中央淀支店のところで右に折れます

四辻を右に折れた町筋

その先で変則の交差点に出るこの道はこの字型に屈折している、城下町の鍵の辻だろう

変則交差点で街道は左に折れるが、正面道を真っ直ぐ越えたところにある 伊勢向神社

この辺りは下津町で旅籠、朝鮮通信使の館があり、淀宿の中心地であった。

隣に 真宗大谷派 大専寺

門前の 祠

元の道ローソンの辻に戻り、左に折れて、右につくだ医院の前を通り京街道を進みます

その先で、右に淀競馬場の出入り口の所で左に曲がり、淀駅のガード下を潜る道は新しい競馬場に伴ない造られた道です。
旧道は、少し手前の左毎日新聞販売店の所辺りから左斜め道に進み、淀駅前で線路を越え、与杼神社前で右折れしてバス道に合流していた。そして街道は分岐し、一つは鳥羽街道、一つは京街道でどちらも京の中心地に向かう道であったと資料に記載されています。

旧道は消失しているので新しく造られた、淀競馬場の前にでて突当り左に折れ新道を進み京阪の高架下を潜る

高架を潜り真っ直ぐ自動車道を進みます

高架から200mほど歩いたところで、納所の六差路信号機交差点に出ます。

交差点を左に200mほど行くと、江戸時代の 新淀城跡(鳥羽街道を歩いた時散策しているので今回寄りません)。
交差点を真っ直ぐ進むと桂川に架かる宮前橋を渡りますが。交差点を起点に桂川沿いに旧道を進む道が鳥羽街道で、すぐ先に室町時代に築かれた淀古城址が妙教寺の境内に碑があります。そして秀吉が淀殿のために改修築城した淀古城跡を通る。
また、東北に通る自動車道は旧京阪国道。京街道は納所交差点で分岐する124号線で交差点に出てほぼ鋭角に右に折れる道です、右角にセブンイレブンがありその北側の道、納所交差点の周辺史跡も鳥羽街道で詳細に資料撮っているので省略します。京街道は宇治川沿いです

右鋭角に曲がりすぐ先左に、 淀小橋旧址碑と淀宿案内図

右に京都競馬場をみながら真っ直ぐ進みます。納所町の旧城下町・宿場跡の面影は全く無くなっています

暫く東に進むと京阪本線に接する所右に 

北に、桂川・旧京阪国道・街道・街道に接するように、京阪本線・京都競馬場・そしてその南に宇治川が並ぶ。
その先、競馬場と駐車場を結ぶ陸橋

陸橋を越えた左に 戊辰役東軍西軍激戦の址碑

右の競馬場も終わり伏見区横大路に入り、左に横大路運動公園を見て、右に宇治川が接近すします

左の公園が切れる手前で、京阪本線の踏切を渡り東側に出ます。右がすぐ宇治川で平行に沿ってみます  

踏切を越えて京阪本線と宇治川の間の堤道を暫く歩きます。車もよく走るし注意が必要

京阪国道1号線と宇治川大橋交差点を横断するが車多く橋の下を通りました

阪神高速京都線の高架下を潜り伏見に入ります

その先暫く堤を歩くと、新高瀬川の所で堤が緩やかに左にカーブしています、三栖関門

真っ直ぐ渡れないので、堤に沿って宇治川に流れ込む新高瀬川沿いを左にカーブします

左にカーブした先で新高瀬川に架かる細い橋を右に渡ります

橋から右を見る、宇治川に流れ込んでいる新高瀬川

橋の左側新高瀬川の上流の遠望

橋を渡り宇治川の堤を緩やかに左にカーブしていきます。三栖町5

街道(堤)は左にカーブしてその先で京都外環状線の高架を潜ります

高架を越えるとすぐ右に広がるのが 伏見港公園 かつては三十石舟や高瀬舟が往来した港町として栄えた伏見、今は公園として整備されています

公園の東側は京阪中書島駅

【伏見宿】東海道五十四次
京都への伏見街道、奈良への大和街道、大坂・大津への東海道、竹田街道が通る、水陸交通の要衝として栄えました
伏見の町は河港を中心に形成され、慶長十六年(1611)に開墾された高瀬川の舟運が活況を呈し、江戸中期には町数263町に及び商家が立ち並んだ。伏見の酒造りもはじまり、明暦三年(1657)には酒造家83戸、伊丹・灘にならぶ酒どころの町として発展する。ここ伏見港はその舟運の入口

三栖町4で京阪本線の踏切を越える。右が中書島駅

踏切を越えた先から振り返る右に高瀬川に沿いながら、趣のある街道をみます

高瀬川沿いの道

左に 地蔵

右、高瀬川向に 金井戸神社

右の橋から高瀬川の下流と上流を見る

左に街道沿いに 浄土真宗本願寺派 長光寺

お寺の先すぐ左に 

その先すぐに、三栖町1丁目の 

高瀬川が右にカーブし、右正面に見える赤い「であい橋」の所で分流、綺麗な川岸の公園になっている。

伏見港と水路の変還
江戸時代の伏見港は水路沿いに問屋や旅籠が建ち並び、三十石舟が出入りして大変賑わった。その後、明治に入り巨椋池と港の水路が切り離されました。大正六年の大洪水により三川合流点付近の改修が行われ、伏見港が堤内に引き入れられるとともに宇治川の派流が本川から分離されました。同じころ市内では新高瀬川が開削され、その後、昭和22年には水運機能の向上を目指して舟溜まりは竣工しましたが、昭和30年代にはいると、交通運送の主力は川から陸に移りました。やがて泊地の埋め立てなどが行われ、次第に今日の様子に変わっていきました

高瀬川沿いに歩いてきた街道を振り返る

右下川岸の公園に降りると

角倉了以翁水利紀功碑 が建っています

街道に戻ると左に 真宗 光徳寺

お寺のすぐ先で、高瀬川に流れている角倉橋を渡り右に曲がります

角倉橋の傍に、旧橋柱 が残されている

角倉橋を渡り右に折れると、すぐT字路となり左に折れます

左に折れると一筋目の魚屋通りに出るので右に折れます

右に折れると、すぐに濠川に架かる阿波橋を渡ります三栖半町地区

阿波橋から右、角倉橋方向を見る

魚屋通りを東へ進むと左に 浄土真宗 興禅寺

左に  交差点の南北に通る街道が、竹田街道

その先交差点を越した左に、駿河屋本店 交差点を右に進めばすぐ左に、坂本龍馬で知られる、お登勢さんの寺田屋がある、竹田街道時等で何度か見学してるので今回寄りません

その先左に、油懸地蔵尊で知られる、浄土宗 西岸寺 

油懸山地蔵院西岸寺と号する浄土宗の寺で、天正十八年(1590)雲海上人によって創建されました。地蔵堂には、俗に油懸地蔵と呼ばれる石仏の地蔵尊が安置されています。寺伝によれば、昔、山崎(乙訓郡)の油商人が門前で転び、この地蔵尊にこぼした油の残りを濯いで供養し行商に出たところ、商売が大いに栄えたといわれ、以後、この地蔵尊に油をかけて祈願すれば願いがかなうとして、人々の信仰を集めています。
境内には 「我衣にふしみの桃のしづくせよ」 芭蕉と自然石に刻まれた句碑があります。これは貞享二年(1685)、当寺の第三世住職任口(宝誉)上人を訪ねた芭蕉が、上人の高徳を当時の伏見の名物であった桃に事寄せて、その徳に欲したいと願って詠じたもので、碑は文化二年(1805)に建設された。
地蔵堂は、明治伏見の戦いで類焼、明治二十七年に再建され、その後、昭和五十三年に再び建立されました。(京都市)

境内の芭蕉句碑

境内左に、油掛地蔵尊

西岸寺の少し先を右に入る細い路地、竜馬通りを右に見て進みます

魚屋通りの下・中油掛町を東に進み、信号交差点(右寺田屋へ曲がるところ)より二つ目の交差点を街道は左(北)に曲がります。

ここを左に折れるのが京街道ですが真っ直ぐ進み⦅寄り道⦆をします。

重厚な古民家がのこる街並み

魚屋通りはやがて突き当たるので左に折れます 突き当たった正面右に 

左に曲がりまたすぐ先で再び突き当たります。この辻が 伏見宿の四辻の四つ当り
正面が 真宗大谷派伏見別院の門前で東西南北どこからきてもここに突き当たる辻。
秀吉時代の伏見宿の町割りの時に考えられた攻防のためのものです。

蓮池御坊(伏見御坊)

幕末には 会津藩駐屯地跡 でもあった門前左にが建っています。右には、伏見御坊の大きなも建つ

御坊の前を右に折れた魚屋通り

東に真っ直ぐ進み、京阪伏見桃山駅の南側の踏切を越えるとすぐ、京町通りに出ます南北に通る街道が 伏見街道。左に折れると両側に、駿河屋・料理屋魚三楼の老舗が並ぶ。伏見街道の通りを越えて、近鉄京都線の桃山御陵前駅の南側の踏切を渡り、少し上り坂を進むと御香宮前交差点に出ます。右に 大和街道が観月橋 を渡り奈良への街道が続いています。
交差点左に入ると、御香宮 があります。(それぞれの街道歩きで詳細に見学しているので今回は寄りません)

少し戻り、魚屋通りが突当り祠の辻の右への道筋で、この通りは酒蔵や酒造元が軒を連ねる。(伏見街道で見学しているので今回寄りません) 祠の前から南の筋を見る

すぐ左に 白菊水
創業延宝5年(1677)の清酒神聖・山本本家の酒造りに使われ、香りのよい飲み口の淡麗な日本酒を醸し出す水。全国名水百選に選ばれた御香水の水脈と同じくしています。「白菊水」の伝説は、その昔、稲の豊作を願い白菊を愛でる翁が「この地に日照りが続き、稲が枯れるようなとき、私の愛でた白菊の露の一雫より清水が湧き出す」と告げたとされています。その白菊の翁が姿を変えたといわれる「白菊石」は御香宮の境内に祀られています。(説明文より)

寄り道を終わり、街道に戻り、交差点を左に曲がり北に進む街道筋

150mほど進んだところで、伏見の町を東西に横切る、アーケードのある大手筋を越えます

大手筋のアーケード通り右(東筋)を見る、先は近鉄桃山御陵前駅に出る

大手筋を越えて真っ直ぐ進んでいきます

大手筋の西側には、太閤遺愛の牡丹があるので牡丹寺、または、大手筋の妙見さんといわれる本教寺。その西には、お薬師さんを祀る大光寺。北側には秀吉の持念仏であった朝日大黒天が安置されている源空寺がある。(この辺りも先の街道歩きで見学しているので寄りません)

北に進み、毛利橋通りを越える右に伏見区役所を見て北へ進みます

右に、金礼宮
社伝によれば天平勝宝二年(750)の創建と伝えられ、伏見区で最も古い神社の一つ。

境内にひときわ目立つ金礼宮のクロガネモチ。秀麗な樹形を持つ古木

 金礼宮の北側には 曹洞宗 喜運寺

街道を挟んだ向かい側に 真言宗円通山 大黒寺

宝形造りの本堂内には、秘仏大黒天を収めた厨子を中心に、両脇に不動明王と毘沙門天が安置されています。
本堂背後の墓地に、西郷隆盛が建てたという、有馬新七ら寺田屋事件で犠牲となった薩摩藩勤王党九烈士の墓があります。文久二年(1862)4月23日藩主島津久光の上意討ちで犠牲となった。 
薩摩藩九烈士の墓

平田靱負の墓
またその近くに、宝暦二年(1752)12月25日徳川家重の命によって、薩摩藩主島津重年に、木曽・長柄・揖斐3川の治水工事を命じられた。薩摩藩の家老平田靱負が難工事の末莫大な費用を要して堤を完成(今も堤として残る)するが、幕府の検分も終わったのち、静かに堤に坐し、西(薩摩)に向かって切腹して果てた。その時の介錯人の十蔵も返す刀で切腹して果てた。のち、伊勢桑名の西田芝寿・美濃大垣の金森吉次郎らが靱負らの功績を讃え、油島千本松原に宝暦治水碑を建てました。

伏見義民一揆遺髪塔
もう一つ境内の墓地に、伏見義民一揆による七名の遺髪塔があり、今も線香が絶えない。
時の伏見奉行小堀政方にたいして天明義民と称される7名は、天明5年(1785)7月26日、文珠九助・麵屋伝兵衛・丸屋九兵衛の三名が直訴に及んだ。伝兵衛は病死。願書は却下されたが、小堀政方は伏見奉行を罷免された。その後、京都町奉行所のもとで再吟味されたが、疲労が重なり、権兵衛・伊兵衛・市右衛門・清左衛門の4名は牢死した。松平定信が老中首座となり、江戸で再吟味となり、政方は領地没収、吟味引き伸ばしの責任を問われ、京都所司代・同町奉行・伏見奉行は謹慎の処分を下され、義民7名にはお構いなしが申し渡されたが、すでに残りの2名もこの世になく、いかにも悔しい思いであったことだろう。

大黒寺を入った本堂前左に 金運清水

すぐ北に進むと右手に 浄土宗 松林寺

境内に、女傑寺田屋お登勢の墓と隣に夫、伊助の墓が並んでいます

更に少し北に進むと、左に京都駕篭局の過ぎたところの御駕籠町の信号交差点を右に折れる。正面は伏見中学・伏見板橋小学校。右に折れる通りは下板橋通り

右に折れる左角に 道標 「南 右 京大津みち」「東 左 ・・・・・」

右に折れて、一つ目の信号を左に曲がります

左に折れたすぐ右に 浄土宗 玄忠寺 門前に、伏見義民小林勘次の碑

玄忠寺の前の街道を北に進む、左は伏見板橋小学校

左奥に 松山酒造の建物

その先で、丹波橋通りが東西に通る交差点に出ますその信号交差点を右(東)に折れます

交差点を右に折れた丹波橋通りの街筋

信号交差点を右に折れたすぐ左にある 法華宗妙栄山 本成寺 慶長二年(1597)創建

街道を挟んだ向かい(右)に 浄土宗 勝念寺
門前の 天明義民栄屋伊兵衛門の墓所碑

丹波橋通りを東へ進み、右に松永歯科医院の過ぎたところの交差点、両替町通り(南北)を左に折れます

左に折れた両替町通り

交差点東南角の 

両替町を北に進んでいくと左に 真宗 受泉寺

両替町12丁目で上板橋通りの交差点を横断しますその少し先で近鉄線の高架がみえます

高架の手前を右少し奥に 真宗大谷派 本浄寺

 本浄寺の西側、街道沿いの 祠 さすが京都の街道、祠が沢山あります近鉄京都線の高架下を潜ります

高架を潜り70m程進み、24号線の手前60mほどの辻、両替町15丁目の左T字路を右に折れます

右に折れて50mほど先の四辻で左に折れ、国道24号線の信号交差点に出ますので横断します

24号線の信号交差点

右手に、橦木町廓への石柱が二本立っています。忠臣蔵で大石内蔵助がここの廓町で遊んだ、今は全くその面影を残すものはない住宅地。

橦木町廓跡 唯一この碑によって確認できるのみ、道を入っていったところ右に、「大石良雄遊興・・よろづや」の碑

新しい住宅の中に埋もれるように碑が建っています

街道に戻り北に真っ直ぐな道を進みます

右奥に 曹洞宗清涼山 欣浄寺

その先、信号交差点で右に折れます、折れた左に伏見墨染局があります

右に折れた先の街道

すぐ右側に 日蓮宗深草山 墨染寺

墨染桜でも知られているお寺で、寛平三年(891)、太政大臣・藤原基経が亡くなった時、死を悲しみ上野岑雄が桜にむかって歌を詠んだところ、花が薄墨色に染まったといわれ、その話を聞いた秀吉が、日蓮宗墨染桜寺として再興しました。

その先で、橋を渡りすぐ左に京阪墨染駅の南側の踏切を渡ります

一つ目の信号墨染交差点を左に折れる。交差点を右に折れると宇治街道の古道が少し残る

交差点を左に曲がったところすぐ左に 

左に墨染駅を見て過ぎたところの次の信号交差点を右に折れます

右に折れると右手には藤ノ森小学校、緩やかな坂を上りながら西へ進みます

坂を上る途中左に、藤森神社 の長い参道が続いてます 石造鳥居 正徳元年(1711)の銘があり、この鳥居には額がないが、むかし御水尾天皇宸筆の額を掲げられていたが、江戸時代以前の古道が西国大名参勤交代の道筋にあたっていたので各大名は神社前を通る時駕籠から降りて拝礼をして槍などをたおして通行しなければならなかった。しかし幕末動乱の時代に入り、そのような悠長なことでは時代に即しないと新撰組の近藤勇が外したといわれている。(社務所)

平安期以前からの古社で、神功皇后が軍旗や武具をこの地に埋め、神にいのったのが始まりといわれています。

長い参道

また、菖蒲の節旬の発祥地ともして知られている。

その先左に、京都教育大学を過ぎた左に 浄土宗如意山光厳院 西福寺

お寺のすぐ先、JR奈良線藤森駅手前で突当り左に折れます線路を右に沿って下っていきます

左に折れて少し先の左民家の塀際に一つの景色として残されている 道標 「みぎふしみ・・」

その先緩やかに右にカーブしながら、JR線の高架を越える

高架を越えて線路の左に沿って、北へ街道を進む

街道は突き当たるので右に折れる

突き当たった左角に 

右に折れて40mほどの辻で左90度に曲がる道を北に折れる

左(北)に折れた先の街道、静かな古い建物はないが街道情緒が感じられる

途中右に 

重厚な古民家が残っている

その先右にカーブする手前右にも 

緩やかに右にカーブして小さな川の橋を渡りすぐ35号線の自動車道に出るので右に折れます

右に折れ小さな川との間右に交通安全地蔵 

すぐ先京阪バス深草谷口町バス停

バス停の先で、深草谷口町交差点にでます、左斜めの細い町筋に入ります

交差点の左斜めに入る右に 道標「深草毘沙門天 是より北東・・・」

街道を挟んだ左には 仁明天王御陵への石碑

更にその先右に 道標 仁明天皇・宇多天皇陵への

進んでいくと右に、昔懐かしい旧家

素晴らしい京街道深草の街道街並み

街道左に、 祠と宇多天皇陵

街道は緩やかに右にカーブして先ほど深草谷口町交差点で分岐した、35号線が右から合流します。信号交差点を横断します

その先で、左に入りすぐまた合流する旧道が残っているのでそちらを歩く、すぐ35号線に再び合流します

その先、左からの名神高速道路の南側を通る35号線を暫く進みます

右に観光農園がある、その左側名神高速の高架を潜り北側にでると、
醍醐天皇御母小野陵 があります

勸修寺南谷町で名神を左に分けて進みます

次の勸修寺下ノ茶屋町信号交差点を横断して東へ進みます。交差点を左に行くと、勸修寺

この辺りは、小栗栖街道で見学しているので素通りします

左に 宮道神社

宮道神社のすぐ先右に 八幡宮の参道鳥居

八幡宮全景

八幡宮本殿
仁寿三年(853)の創建と伝えられる、現本殿は元禄八年(1695)の建築

境内に天満宮の 安産の神 が祀られています

神社の隣には、浄土宗佛頂山 西向寺

八幡神社を右に見てそのすぐ先の交差点を左に折れます

街道は左に折れた道を少し進み、一つ目の信号を右に折れますが。
⦅寄り道⦆のため左に入っていきます

大本山勧修寺・佛光院への道

綺麗な両側の長い塀

勧修寺
昌泰三年(900)醍醐天皇の勅願により、天皇の母、藤原胤子の追善のために創建された寺。境内には池泉庭園「氷池園」や重文の書院・書院の前庭には水戸光圀が寄進したといわれる石灯籠があります。

夕暮れの時間が迫っているのでゆっくり出来なう
元の交差点に戻り真っ直ぐ広い道を北に進むと右に、 真宗大谷派 西念寺

再び元の交差点に戻り、北西角に 祠・道標三基・愛宕常夜灯一基
「右 醍醐大津方面」「右 坂上田村麻呂・・・・ 左 深草・・・」「南 右 大津 左 京道 是より・・・」

寄り道終わり、交差点を右に折れて街道を進む。右に折れた町筋

山科川に架かる勧修寺橋を渡り西へ真っ直ぐ進みます

地下鉄東西線の小野駅の外環小野交差点に出るので、更に右小川沿いに真っ直ぐ進む

右小川沿いに、凄い大木が年輪を重ね栄枯盛衰を見守ってきた

大木の先、更に小川沿いに沿って進むと交差点があります、交差点を左に折れるのが京街道右に折れて随身院の前を抜けていくのが頼政道です

ここの交差点で再び⦅寄り道⦆交差点を右に折れ小川を渡り、小野御霊町交差点を越えた左に
真言宗 随身院 小野小町ゆかりの寺として知られ、小町が化粧につかった化粧井戸や貴公子たちから寄せられた手紙を埋めた文塚、手紙の下張りにつかった、文張地蔵などがある。本堂には本尊如意輪観世音菩薩坐像、阿弥陀如来像などが安置されています

 随心院北側隣の、大乗院

大乗院門前の 道標 チョット意味が分からない奈良街道の標識随心院の前の街道は 頼政道

境内の 仁海僧正供養塔

元の交差点に戻り、街道は左に折れて北に進む、左に折れる交差点からの京街道を見たところです。交差点から随身院の前を南に進む道は、頼政道・醍醐道(両街道も歩いているので詳細はそちら)

北への街道を暫く進みます

落ち着いた静かな街道筋を進む

このすぐ先の信号交差点で右からの35号線が合流します交差点少し左に山科署が見える

35号線と合流して暫く歩くと、前方に大宅鳥居脇町の交差点のところで名神高速道路の高架を潜ります

高架を潜り更に街道は北に延びます

右に 

高速道の高架を越えてすぐ先には 大宅の一里塚跡

一里塚跡の先左に 岩屋神社御旅所跡碑

その先右に、岩屋神社参道 入り口の赤い鳥居時間的にも無理なので寄れないが、東に進み、名神高速の東にあります

その先真っ直ぐ北に街道は進む

右に大宅小学校をすぎ,大宅打明町信号交差点を越えて進んでいく

左に 浄土宗 宝迎寺

南大塚の信号交差点の近く左の旧家の塀際に、愛宕山常夜灯

更にその先右に、 妙見宮の道標

妙見宮前の街道

北大塚信号交差点のすぐ先で、東海道新幹線の高架を潜ります

新幹線の高架を潜る手前左に、大木の切った根元が保存されている、説明版がないが凄い大木であったのだろう

新幹線高架のすぐ先の、山科大塚の信号交差点を横断します

分岐している街道の右側の方を進むかなり日が陰ってきた少し急がなければ

そして山科川に架かる音羽橋を渡ります

その先進んでいくと右に、 道標

道標の前から音羽の街道を振り返る

すぐ先右に、 

少し先で国道1号線に交差するので、地下道で東側に渡る。日もくれてきてもう少し頑張らないと

国道1号線を地下道で渡って、1号線を左にみて斜めへの旧道を入ります

街道は音羽病院の前で右にカーブして、病院が過ぎたところで、左にカーブする

病院の前を通り左にカーブして信号交差点を横断

横断した先で、名神高速道路の名神東ICの高架下を潜り北側に出ます

高架を潜ると左に、立派な旧家の建物

右に 

右側には、牛尾山道の道標

その先左に、常夜灯や道標 が並びます「左 船岡山 右 大・・・・」

「右 伏見」

更にその先左に、

この先で東海道と追分で合流すします。暗くなって追分に着いた時には情況が分からなくなってしまいました。合流したところで、左に進むと京都三条大橋で旧東海道53次の終点。だがその後、幕府が朝廷との西国大名が接触することを嫌ったので、追分で右の道を通って京都市街地に入ることを外して、今歩いてきた京街道を通って大阪に出ることになった。東海道は53次といわれるが、実際は57次でである

東海道と合流するところだが暗くなってしまった

追分に建つ 祠と道標

合流した大坂山(逢坂越)への東海道

京街道完歩

 追分駅の前とかく追分から先は東海道と重複して、名神高速に沿って逢坂山を越えて、大津の追分に出ます

     今日一日よく歩きました
      60.050歩  36.03㎞  1898kl

 

  

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