京都・醍醐道

2012年11月16日

京阪東福寺駅から北、東海道本線との交差~醍醐寺

京阪淀屋橋に出て平版で東福寺駅へ、
7時55分スタート、前回歩いている滑石越街道を一部重複して、行きたかった山科の大石内蔵助寓居地をやっとこの街道歩きで実現。随心院門前を通り醍醐寺へ。更に上醍醐まで約1時間かけて急峻な山道を上り、再び醍醐寺に下山。
        東福寺駅  7時55分 スタート
        醍醐寺   13時45分 完歩

この日、引き続き歩いた勧修寺越街道を歩く
        醍醐寺   13時45分  スタート
        深草駅着、 16時30分  勧修寺越街道完歩
         2街道トータル   45.859歩  27.51km

滑石越え道・醍醐道のスタート起点は、これからスタートする起点と、今熊野観音寺からの帰り道に歩いて、三十三間堂に着いた道。どちらが正しいか分からないが。今回は東海道本線と京阪本線の交差する南側からスタートする。 

京阪本線東福寺駅で降りて、駅の東側の旧道に出る醍醐道・滑石越え道の起点まで移動する

東福寺駅前

旧道を北に進む

右に 瀧尾神社

神社の前、街道を挟んだ左側には 浄土宗清涼山寶樹寺

本堂には本尊の阿弥陀如来立像及び薬師如来坐像が安置されており。この薬師如来坐像は「子そだて常盤薬師」と呼ばれ、今若、乙若、牛若の三児の成長を祈願した像と伝わる。また、境内には「常盤御前雪除けの松」と呼ばれる残株があり、常盤御前が大和へ逃れる際、この地の老松の下でしばし雪の降るのを避けたと伝えられている

その前の旧道右に 祠

その先信号に出るので左に折れて

 踏切の手前で線路に沿って右に折れる

右に折れる手前左に 

その先で、前方に東海道本線の高架が見える

ここを 醍醐道、滑石越え道の起点 とするがやはり本来の起点は、三十三間堂の前が正しいような気がする。

京阪本線を背に、左に東海道本線の高架に沿ったこれから歩く東への道

京阪本線に沿って今歩いてきた道

 すぐ先で、東福寺駅からの街道と交差して、その街道は北へ東海道線の歩道橋を渡り進む

歩道橋からスタート起点方向を見る

暫く東海道線に沿って進む

その先で三十三間堂の西側の道、大和大路通りと交差する、少し左にズレて真っ直ぐ進む

暫く進むと、東大路通りの今熊野交差点と交差する

交差点の左方向は東山市街地方向へ

交差点を右に折れて少し先に 新熊野神社

熊野信仰の盛んであった平安後期の永暦元年(1160)、後白河上皇が勧請して創建。社域は宏大で社殿は荘厳を極めたが応仁の乱で荒廃した、現本殿は寛文十三年(1673)に再建された

樟大権現と樟龍弁財天樹齢九百年と推定、当社創建のおり、後白河法皇が紀州熊野より運ばれ植えたといわれている

かなり離れてやっと全容が写せる樟東大路通り沿い

東大路通りの今熊野交差点に戻り横断した右角に 道標 「鳥戸野陵 中尾陵 参道」

その先道は、右に少し折れすぐ左に折れる

右角自販機の傍に 道標 があるが読めない

左に折れた旧道右に  

すぐ右に 道標「中尾陵 鳥戸野陵 泉山御陵」

右に 中尾陵 仁明天皇女御贈皇太后澤子

少し進んだ左に  さすが京都だ、祠や陵、道標がやたらと多い

祠の所で少し右に入っていくと 剣神社

剣神社から街道に戻る右に 天道大日如来

祠のすぐの道を左に、今熊野小学校の東側の道を入ると 即成寺

東向かいに 徳善寺

街道に戻ったすぐ先左に 

京都らしい街道を進む

左に 正法寺

左、乾米穀店の辻で分岐しているので、左の真っ直ぐな道を進む

少し先で、すでに歩いたもう一つの滑石越え道の十字路に交差する。左に行くと三十三間堂へ出る。ここで右に折れて、すでに歩いた滑石越え道・醍醐道を重複して歩く。真っ直ぐの新道ではない

右角に 道標と祠

左の滑石越え道(蛇ヶ谷道)

右に折れる十字路の先を見る

雨がやんでいるが地面は濡れている、でも旧道らしい雰囲気が残り快適

右からの道が合流してくる

左に、立ち寄った延仁寺が見える

今熊野観音寺への道は少し違ったが新道を歩いた。この道は短いが旧道のようだ

細い道を進み新道に合流する

新道と合流して坂を下っていく

下ってきたところ

右に 大石内蔵助一服石 右の角にある、街道は真っ直ぐ下る

GCの敷地となっているが、かつての今熊野観音寺への旧道であったのではないか、先で道は消失。前回歩いた

左ブロックに組み込まれた お地蔵さん

左に急カーブして下り その先で、又右に急カーブする左の藪の入り口にこの付近 西野山古墓跡

中世頃には一帯広い墓であったらしい

更に坂を下っていく

この辺りへ左から、今熊野観音寺道が上ってきていたが今は消失、

今熊野観音寺街道は、左からここへ坂を上ってきて、醍醐道と合流した。今熊野観音寺は左鋭角に、醍醐道・滑石越えは右にカーブ

すでに歩いた今熊野観音寺道と別れる

右にカーブしてすぐ先右奥に 道標 と荒れているが 愛宕神社の鳥居

道標だが読みづらい

 があるのみで引き返す

西野山岩ヶ谷町 その先左に 

祠の先で左から道が合流する桜の馬場町

左から合流してきた辻、左に可愛い顔の お地蔵さん

更にその先左からの新道が斜め左から合流

その合流交差点を振り返る。正面から来た合流して右に進む

右に進むとすぐ、山科出入り口信号交差点に出る

交差点に出て、醍醐道は左(東)に曲り新十条通りを進むが、交差点右は阪神高速8号京都線のトンネルに入る。
ここで⦅寄り道⦆、交差点を真っ直ぐ南へ

すぐ右に 浄土宗福王寺

その西側に 浄土宗極楽寺

極楽寺からの山科方面を見る

更に背後の山手には 大徳寺

元の交差点から南に進で行くと大石神社の前に 二基の道標 「岩屋寺 義士大石良雄寓居跡」 「左 大し・・・・」   

大石神社を後で回るとして、更に南へ100mほど先、右に 「本尊大聖不動明王岩屋寺」 道標

道標の所を右に折れる 「大石太夫閉居址」

道標 「右 ・・・・・・・岩屋寺」

坂を上っていくと右に 大石良雄閉居址の案内板

大石良雄遺髪塚

大石神社の南に 曹洞宗神遊山岩屋寺
創建時は天台宗に属し、比叡山三千坊の一つであったが、現在は曹洞宗永平寺派天寧寺の末寺で、神遊山金地院と号す。古来は隣接する山科神社の神宮寺であったと伝わる。赤穂義士・大石良雄の隠棲地として有名で、大石寺とも呼ばれる。
本堂に安置する本尊、大聖不動明王は智証大師の作といわれる。この立札の右手奥は、遺髪塚及び寓居址である。事成功した後、邸宅、田畑等一切を岩屋寺に寄進した。その後、荒廃したが嘉永年間(1848~1854)に京都町奉行浅野氏の寄付を受け再興した。境内に木像堂があり、浅野内匠頭公の位牌をはじめ、四十七士の木像や位牌、大石良雄の遺品等が安置されている。十二月十四日には義士忌が行われ、「山科義士まつり」で知られる討ち入り当時を再現する行列が模様される。(京都市)

岩屋寺の石段の脇に 稲荷神社

神社の隣に 

岩屋寺の南に 山科神社

境内の大石良雄手植えの梅

紅葉が綺麗

大石神社への参道

大石神社は、昭和十年創建された新しい神社

本堂

大石内蔵助良雄の坐像

さてかなり寄道に時間をとったが、是非行ってみたいところであったので大満足
交差点に戻り西側を見ると、トンネル口が二本見える

醍醐道(新十条通り)を東へ進む

少し進んだ右側に 道標「右 京都一番三十三間堂」 「左 大石良雄旧跡

先ほどはい行ったとこ

旧安祥寺川に架かるいばのうえ橋を渡る

橋から進んだ先で、折上神社前交差点で右の旧道に入る

旧道は、右に大きくカーブしながら進む

右にカーブする途中左に、坂上田村麻呂墓の石碑が立つ

左に入っていきます

坂上田村麻呂の墓 平安前期の武将

もう少し大きいのかと思ったら、案外質素であった

そのすぐ先右にセブンイレブン、左は勧修小学校。この付近に 中臣遺跡の石碑

セブンイレブンの先左にローソン

ローソンのすぐ先の交差点で左から新道が合流してくる。その交差点を左に折れる

左に折れた右手前方に、公園の森が見える

公園が切れたところで、山科川に架かる新金ヶ埼橋を渡る。渡ったところから振り返る

 山科川を渡り、川沿い右に折れるそして二筋目を左に曲がる

左に曲がった道、右は勧修中学校

中学校が切れる所で右に折れる

更に左二筋目を左に折れると

地下鉄東西線が走る、117号線に出るので、右に折れる。右に折れると前方に、名神高速道路の高架が見える。高架を潜り

高架の先の歩道橋の過ぎたところで、分岐を左斜めの道に入る

醍醐街道の標示がある

すぐ中川に架かる中川小橋を渡る

街道右に 葛籠尻の小町カヤ 樹高 12.0m 幹回り 4.3m平安時代、深草少将が小野小町のもとに「百夜通い」伝説に縁のカヤの古木。小町はカヤの実を糸に綴ってその日を数えていましたが、最後の一夜を前に少将が世を去ったので、菩提を弔うために小野の里にそのカヤの実を播いたと伝えられている

その先で、京街道が左から合流する交差点に出る。醍醐道も京街道と合流して信号を右に折れる

交差点からの醍醐道を振り返る

交差点から京街道、左(北)の道筋

右(南)に折れて京街道と少し重複して歩く

100mほど先で、小さな橋のある交差点を真っ直ぐ進む。京街道は右に折れて、地下鉄東西線小野駅方向へ進む

すぐ先で、小野御霊町交差点を横断して南へ

真っ直ぐ進む 

少し歩いて街道を振り返る

右の鉄板焼きの提灯の所に出てくる 勸修寺越街道

街道が出てきた正面T字路の向かいはそば処萬壽亭橘

勸修寺越街道の道筋

広大な敷地の 随心院
春のウメ、秋の紅葉が綺麗で、小野小町ゆかりの寺で真言宗のお寺。小野小町の屋敷跡と伝わる

随心院の前を通り更に南へ進む

矢田川に架かる橋を渡り、そこから街道を振り返る。右の杜が随心院

醍醐上ノ山交差点にでる右からの道と合流して真っ直ぐ

交差点の左の道筋

100mほど先で道は分岐する、左の細い旧道を進む

分岐する辻の右手に小さな多数の お地蔵さんと弘法大師濁鈷水の石碑

左の旧道の道を少し進んだところで、再び右からの新道に合流する

合流する右角に、多数の 石仏のお地蔵さん が並ぶ

振り返ったところ、全て東向きだから間違いなく今歩いたのは旧道

すぐ右に 浄鏡の池

醍醐新町交差点に出る

交差点手前右に 西方寺

交差点を横断して新道を右に、鋭角に南へ進む

交差点より旧道に進んだところ

左に 

左に醍醐寺三宝院の広大な杜を見ながら南に進む

暫く進むと左に 総門 が見えるので醍醐寺の中の道を通る。真っ直ぐ進むのが醍醐道だが
醍醐寺 
千年の聖域に最晩年の太閤秀吉が花見の宴を催した。上醍醐、下醍醐の広大な領域には多くの伽藍とともに、国宝・重文を寺有古刹。とても回り切れなかった。

総門を潜ると正面に 仁王門 が見える 桜の馬場

右(西)の方向境内の桜道

左(北)三宝院方向への門

三宝院の唐門(国宝) 五七の桐・菊花紋が浮き彫り

仁王門 慶長10年に再建、門を守る二体の金剛力士像(重文)平安後期の作

金堂(国宝) 紀州の満願寺本堂を移築、慶長五年完成

五重塔(国宝)

不動堂 
柴灯護摩道場・本尊 五大明王堂の前に、不動明王の石像

祖師堂 
弘法大師・理源大師を祀る

桜や紅葉は綺麗だろうな

大講堂
林泉の西岸の建つ宝形造の堂

弁天堂
林泉の北東岸の建立された、周囲には楓が多く紅葉には池に溶け込み綺麗

まだまだ沢山の建物があるが時間的に無リなようです。ゆっくり一日かけて見見学の価値が十分あります

これから一時間かけて(2.6㎞)かねてから一度行ってみたかった、上醍醐の山道へ入る。

たくさんの人が登っているようで、道はしっかりついている

左に 横峯峠 の お地蔵さん

どちらの道でもいいが、左の木組みの階段を上る

上醍醐に到着、背後の醍醐山は標高454m

如意輪堂(重文) 慶長11年(1606)に豊臣秀頼により再建された

・・・・大権現の石柱

白山大権現 開山堂(重文)
慶長十一年に再建された堂。内陣厨子に理源大師の彩色坐像(重文)が安置

上醍醐陵

五大堂
理源大師聖宝が開いた国家鎮護の祈願道場

薬師堂(国宝
現在の堂は保安二年(1121)に再建されたもので、山上伽藍では最古の建造物。平安時代の貴重な遺構。堂内には、本尊薬師如来坐像は脇侍の日光・月光の両菩薩があり、共に(国宝)に指定されている

清滝宮拝殿(国宝) 
永享十一年(1439)頃の再建 

醍醐水 今も水が湧き出ている

上醍醐よりの眺望

上醍醐に上り満足、まだまだ沢山のこされているありますが山より下りていきます

再び上醍醐から下る

十八丁石が立っている

十七丁石

十六丁石


道標 「右 ・・・・ すく・・・・」

十四丁石

階段の途中に 

十二丁石

十一丁石

途中に 祠と灯籠

かなり降りて来た

八丁石

七丁石

刻字が読めない

五丁石

指さし道標 「上のたい六屋茶屋があったのか

四丁石

もう間もなく下です

史蹟 醍醐寺境内の 石碑と燈籠二基

上り道では入山料いらなかったが、帰り道入山料を払った道が登りと下り違う道であったようで、帰りが表参道のようです
古い 宝篋印塔

もう少し下るようです

朱雀天皇御陵の道標

醍醐寺で終了とする醍醐への街道は幾筋もあって、今歩いたのはそのうちの一つ

醍醐道 完歩

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