2012年11月3日
随心院・醍醐~宇治平等院
午前中の小栗栖街道に引き続き頼政道を歩く
後白河法皇の第二皇子以仁王に従って源頼政が平氏と戦って逃走に使った道、平等院まで
随心院前 11時30分 スタート。
平等院 17時 着
頼政自刃の地扇の芝・墓所にて完歩
源頼政の名をとって街道とした「頼政道」
特にどこが起点とわからないが、午前中歩いた、小栗栖街道に続いて頼政道を歩くため、勧修寺の南、宮道神社の東側の、南から進んできた小栗栖街道起点の交差点から、西から来て交差点に合流した京街道を暫く歩き移動。京街道は醍醐道と重複して東に進み、山科川の東出橋を渡り、地下鉄東西線の交差点に出る。京街道はこの交差点を左に折れて北へ、すぐ先信号一つ目の地下鉄小野駅の交差点を右に折れる。東へ約150m進んだ十字路で京街道は左へ分岐して大津へ、醍醐道は右に折れる。
約50mほど先で、小野御霊町交差点に出る。交差点を真っ直ぐ南に進むと、すぐ左に随心院があり、やがて醍醐寺に進む醍醐道が分岐する。
頼政道の起点が何処であるかははっきり分からないが、丁度、京街道や醍醐道との分岐であり、此処の交差点を頼政道分岐として、交差点を左に折れて進む、やや緩やかな坂道である。右には随心院の塀が続く。
小野御霊町交差点を東に真っ直ぐ進む、

その先で36号線と交差する信号交差点を横断して、その先3つめの十字路で左に折れて、さらに3筋の十字路を越え突当りの辻を再度スタート地点とした。その辻の北側に川があり行き止まりとなっている。ある資料によると、この川の北にある大宅勧喜光寺・大宅中学方向に旧道があったようでその先で京街道に合流するが、京街道の方が新しい道で平安当時はまだなかった。
そこまでの写真は一部あるが、ハッキリ説明できないので掲載だけする。この辺りは古い民家の建物は無く開発された醍醐北住宅地に変わっている



ここ醍醐柿原町の辻を スタート起点 とする、住宅の裏(北側)に川があり、その先大宅中学あたりへ行くが、道は無い

南への住宅道を緩やかに下る、先ほどの4筋目の十字路に出るので真っ直ぐ下る

左のバス停が過ぎたところで、やや広い道が左より鋭角に交差してくる左角に 五輪塔とお地蔵さん が並んでいる。
この五輪塔は元後山科陵(醍醐天皇陵)の東側にあったがここに移す。平安時代の西暦二年(991)に仁海僧正がこの地に建立した曼荼羅寺の跡を示すために建てた残存石と云われている。現在の五輪塔は御陵周辺の農民が虫供養のため「鐘講」を作りその古塔の残存石の一部に新しい石を使って慶長二十年(1615)に再建したと文献に載る。
(五輪塔愛護会の説明より)

その十字路を右少し入った右側にある 醍醐帝陵 住宅地の中にあります


十字路を南に真直ぐ進んでいく

小さな川を渡った右に 鳥居と祠 と広場今日は祭りであったので子供達が沢山出ている

すぐ先右に 佛智山一音寺

お寺の前から街道を振り返る

その先、左に 朱雀天皇陵


その先で醍醐寺の北の門に突き当たるので、左に折れる

左に折れた門前の角に 道標「薬師如来 威獨鈷木 赤間薬師・・」

左に折れた街道筋

山門の突当り右側の筋、左は広大な境内の醍醐寺

醍醐寺北門の中

左に折れて進んだ先、左に 赤間薬師堂


赤間薬師堂の前の少し先二筋目で、右の細い道を右に折れる。祠の前の道でない、その先

左に 祠

赤間薬師堂の前の街道を振り返る

緩やかな坂を上っていった先に長尾天満宮の立て看板が右にあるのでそこを右に入る

長尾天満宮の裏参道 を右に折れる


右に折れた筋

左に お稲荷さん

更に進んでいくと、鬱蒼とした樹林の中の細い道を上る

長尾天満宮の裏に出ます

長尾天満宮


長尾天満宮と並んで南側に 皇大神宮

境内にある 衣裳塚
菅公此の地(醍醐)に遊覧の折り聖宝尊師に曰く「吾蒙する後墓を此処に築くべし」と其の後延喜三年(903)二月二十五日太宰府に於いて死去せられた後使者を遣わし菅公の衣装や遺物等を持ち帰り、醍醐寺第一代座主主観賢僧正は先師の約束を違えず墓を此の地築かれた。今此の墓の上には宝篋印塔が置かれ、俗に衣装塚という。
傍の碑に 「東風吹かば匂いおこせよ梅の花主なしとて春なわすれそ」 の歌が刻まれている

長い石段を下り醍醐寺の三宝院のところに出ます

石段途中にある 鳥居

長尾天満宮の正面参道

醍醐寺の広い境内に出ます

長い塀にて囲まれている静かな間所



仁王門

醍醐寺の境内を南に進み 南門 に出る

醍醐寺の境内見学は 別途 醍醐道 で参照してください
南門を出て西に下る 醍醐道
醍醐寺の南門を出て、左の万千代川に沿って進む

一つ目の橋を見て川に沿って進みます

左に万千代川を沿ってきた道を更に進み、二つ目の石橋を左に見て右にカーブしながら、左の万千代川を進む

二つ目の石橋から次の橋までの間は、畦道のような細い道である


次の三つ目の橋で万千代川を左に渡り、橋を渡って右に折れ対岸の舗装された道を川沿いに進む

次の橋で万千代川は西に分かれて、街道は左斜め(南)に進む。後方には上醍醐寺がある、醍醐山が眺望できる

街道は南に、醍醐中学を目指して進む


醍醐中学校の所で、街道はT字路となるので右に折れて、すぐまた左に折れて、右の醍醐中学校に沿って南へ

T字路で少し左に寄り道すると、醍醐寺の塔頭の一つで、信西入道の娘阿波内侍やかりの一言寺に突き当たる
真言宗醍醐派金剛王院通称一言寺



元のT字路に戻り、醍醐中学の東側の道を南へ

その先で小さな橋を渡る、両側には市営住宅棟が並ぶ

その先四辻の右の道路わきに 従三位平重衡卿墓の石碑

そばの公園内に 平重衡の墓

この地は、平重衡の北の方大納言佐局が平家没落後、身を寄せていたところと伝えられる。一ノ谷の合戦で捕えられ、鎌倉に送られた平重衡は、南都大衆お訴えによって前年の南都焼き討ちの責を問われ、文治元年(1185)鎌倉から奈良に引き渡されたが、途中この地に立ち寄って大納言佐局と別れを惜しんだ。
その情景は、付近の合場川・琴弾山の名とともに平家物語に美しく語られている。木津河原において首を刎ねられた重衡の遺骸は、すぐさま引き取られ火葬後、この地に埋葬されたといわれる。(京都市)

新しく建ち並ぶ住宅内の街道を南へ進む

左奥に日野小学校を見て、合場川に突き当たるので、少し左にズレて川を渡る


合場川に架かる橋 合場川の橋から左(東)の景色、前方には京都薬科大学付属薬用植物園の建物

その先十字路を少し右斜めに進む

左に 愛宕常夜灯

左の常夜灯の先の街道

すぐ先で 日野道 との交差点に交差する

交差する左前の角に 二基の道標 一基は親鸞聖人日野誕生院

道標の一基は「右 ひのやくし」

十字路を左に曲がった右側に 浄土宗恵福寺

日野道の西への道

十字路を約1㎞東に進み坂を上っていくと、鴨長明閉居の跡方丈石と詩碑があるので少し遠いが
⦅寄り道⦆をして行ってみる。この先の右の恵福寺を過ぎたところで右に曲がる

街道は十字路を真っ直ぐ南に進む

恵福寺を過ぎ右に曲がり一つ目の十字路のところで左に折れるが、その南東角に道標
すぐ先の左の角に 鴨長明方丈石の道標

向って右から左に来たところ、右角の道標

真っ直ぐ東に進んでいくと右手に菅尾神社

菅尾神社 日野村の産土神として祀られてきた。またここより南西にある法界寺の鎮守社でもあった。現在の本殿は慶安五年(1652)に再建された。


神社から約900m山道を蛇行しながら上っていく、かなり息も切れ山中に入ったところで
鴨長明閑居の跡方丈石 がある
「谷しげけれど、西は晴れたり。観念のたより、なきにしもあらず」 方丈記
洛南の風景は今は樹木が生い茂り想像もできない



説明文があるが読みづらい



再び山道を下り日野の里へ戻る



萱尾神社の前の道に戻り、道標を左にみて最初の街道に戻る

旧道を南に下ると左に法界寺

東光山真言宗醍醐派法界寺
日野薬師と呼ばれ親しまれている。平安後期の永承六年(1051)に日野資業が日野家の山荘を寺に改めたことに始まる日野富子らを輩出した名家。現在本堂(重文)と阿弥陀堂(国宝)が残るのみとなっている。

本堂(重文)

右から川が接近してくるところで、右に橋を見て、左の誕生院保育園の所で川は南へ、街道は左(東)へ進む


左の法界寺を巻いたことになる。左に法界寺を見る 親鸞聖人御生家・日野家菩提寺


すぐ先で右に折れるが左斜めに 誕生院

本願寺別堂誕生院
親鸞聖人は日野氏一族で、日野有範を父に母は源八幡太郎義家の孫娘吉光女と伝えられ、承安三年(1173)ここ日野の里に生まれた。なお、境内地西側には聖人誕生の際の、産湯の井戸と聖人のへそ緒を納めた「胞衣塚(えなづか)」がある。




誕生地の碑と産湯の井戸跡

親鸞聖人像

日野誕生院の所で右(南)に曲がり進む

暫く進み川に少し沿った先で、分岐を左に進む

新しい住宅の道であるが、静かでゆっくり歩ける


その先で公園に突当り自動車道となり左右に分岐するので、公園に沿って右に進むこの辺り平尾台を中心に新しい住宅が建つ

左の公園が切れたところで信号交差点、右角にローソンがあり交差点を真っ直ぐ進む。

広い新道の交差点を横断して真っ直ぐの旧道を進む


交差点野先で右手に、京都医療少年院を見て真っ直ぐ進み


再び自動車道の交差点と交差する。交差点右が頼政道バス停がある。真っ直ぐ横断する

交差点を横断して南に真っ直ぐ進むが、古の大路のような大通りが南に走る。街道沿い右に、「頼政道」の名を刻む自然石がどっしりと置かれている


緩やかな上り坂が続くが、あまり長くは続かない
信号の交差点で、左斜めに広い頼政道は進むやがて上り坂は終わり

下り坂となる、正面には新道の宇治GCの地下を抜ける黄檗トンネルが見える

下り坂の途中の信号交差点で右に折れる。この交差点を左に進む道は、長坂峠への女巡礼道
交差点から長坂峠への女巡礼道の道を見る

交差点右に折れて黄檗へ進む

左に 祠

この辺り一帯も京都の市街地に比べ新しい住宅地に変わっている

左に 浄土真宗紫雲山西方寺

西方寺の先で、弥陀次郎川の巡礼橋を渡り、川に沿って西に下る

川幅は狭いが、結構深い谷となっている

暫く進むと、小弥陀次郎川を渡ります

右の先で弥陀次郎川と小弥陀次郎川が合流するところに頼政橋が架かる

橋を渡り右の頼政橋の方向にいかず、真っ直ぐの民家の間の人一人歩くのがせい一杯の細い道を入る

少し右に⦅寄り道⦆して頼政橋に行く


両川の合流点の頼政橋から

元に旧道に戻り幅1mぐらいの細い道を入っていく

宇治小学校に突き当たるので、左に曲がり、すぐまた左に曲がる学校の敷地に沿って学校が切れる所で、左側に東宇治コミュニ―テーセンターがあるところで真っ直ぐ進まず、右に折れる。要は学校の敷地に沿って南東の角に出ると、T字路に出るので左に曲がる。左に進むと黄檗山万福寺方向となる



右に宇治小学校、T字路を左に

左に折れた旧道を進むと

すぐ左に 千支の寺

西側に 宝蔵院 鉄眼版一切経版木収蔵庫(重文)


その西側に並ぶ 龍興院

境内の 出世地蔵尊

更にその西側には 萬松院 京都指定文化財の 天光塔表門


更にその西側には 万寿院


この街道筋には萬福寺を中心にさすが沢山のお寺が並ぶが、まだまだお寺があるが回り切れないやがて明風建築に異国情緒ただよう


万福寺の門前に出る 明よりの渡来僧、隠元禅師が築いた、日本の中の中国、臨済宗・曹洞宗と並ぶ日本三禅宗のひとつ
黄檗宗大本山 萬福寺
承応三年(1654)徳川家綱から寺地を与えられ、寛文元年(1661)に創建。
朱塗りの総門(重文)主屋根の上に小屋根を載せた中国風の門


参道を辿ると二層の屋根を載せた巨大な 三門(重文)

天王殿 境内が広すぎて途中だが時間的にも、回り切れない、また何時かの機会にゆっくり来たい


萬福寺を後にして、街道は右に入るとJR奈良線京阪宇治線の黄檗駅
新旧おりまぜた民家の間の街道を進む

左、浄土宗源信山蔵林寺 お寺の門前、街道沿いに 祠


その先の信号交差点を越える

交差点右角に 道標


暫く旧家の残る街筋を南に進むと、小さな川を渡る

坂を下ったところで自動車道にでるので左に折れる

左に折れて150m程先で右に(二筋目の道)を上る

坂を上ったところで京滋バイパスの高架道を越える

高架橋より左(東)

高架橋を渡りT字路となるので、左斜めに進む


右から小さな川がせまり、少し沿って進み橋を渡り、川は左へ離れ、街道は右へカーブする


カーブしたすぐ先左に、安養寺がある

浄土宗羽戸山安養寺

旧大鳳寺村と安養寺
大鳳寺村の名称は、この地にあった古代寺院にちなむもので寺の名を大鳳寺と伝わっている。古代寺院の創建は白鳳期、中世を迎えて衰退の一途を辿り滅び去ったと考えられる。村の集落が営まれたのはそれ以後のこと。安養寺前の辺りの街並は暫く旧道の面影を色よく残す、風情と大きな旧家が残る


安養寺の南側の奥まったところに 厳嶋神社



街道筋に戻ると、武家屋敷風の長屋門を持つ重厚な建物が残る


タイムスリップした様な街並み、緩やかな坂を下る

更に立派な塀の旧家の所の十字路で左に折れる所から振り返る

十字路の右南西角にある 道標「右 上のだいご道」 「左 うじ みむろどう 道」
正面の三室戸寺への道を進む


道標の十字路で東に進んだ先で右に折れる

右に折れた先の街道


その先小さな川を2つ渡る

川を渡った先で正面に蔵がある変則四辻に出るので、街道は少し右にズレて真っ直ぐ進む

この辻を左に歩いていくと三室戸寺への旧道で 三室道

辻の左手前角に 祠と道標

三室戸寺への三室道への旧道

少し四辻で右にズレ街道は進むがすぐ道が分岐する。その分岐する右に、地蔵が六体並ぶところを左り斜めに入る
六体の地蔵尊


その先、交差点に出て横断して川を渡る

源氏物語 宇治十帖 蜻蛉史跡

川を渡り少し歩いた右に 線刻阿弥陀三尊仏 平安時代後期物で自然石に三尊仏が彫られている


蜻蛉遺跡を振り返る、後ろは京都翔英高校

その先のT字路を左に折れる

左に曲がり真っ直ぐ南へ進む、左に都倉病院

祠

正面向かって左から歩いてきて、鋭角に左に折れる鋭角の角に 道標 がある

鋭角に折れた道左に さわらびの道の石標 が立つ

そのすぐ先で、右に旧道は曲がる

さわらびの道を下っていく

宇治川に向かって下っていく途中には源氏物語の碑等が沢山ある





左に 宇治上神社



境内の 桐原水

本殿(国宝)
平安時代後期の創建 覆屋(桁行五間 梁行三間流造檜皮葺)内殿三社(神神社建築として日本最古)



宇治上神社から緩やかに坂を下っていく

旧道が右に大きく円を描きながらカーブする左に 宇治神社
鳥居の傍の狛犬は珍しい 木造狛犬(宇治市指定文化財)

神社の上から鳥居の参道を見る、その先は宇治川

右にカーブして下っていった宇治川が左に見える右側に 末多武利神社


宇治は無常を意味する「憂し(うし)」に通ずるとみいわれ、藤原一族の栄華の舞台となる一方、この宇治の地は失意にうちひしがれた人々も受け入れてきた。宇治民部卿と呼ばれた藤原忠文もその一人で、天慶二年(940)に参議となり、翌年征夷大将軍として関東の平将門の乱の平定に向かいましたが、到着以前に将門は討たれ、事件は解決していた。大納言藤原実頼によって恩賞の対象から外された忠文は実頼を深く恨み、死後もその一族にとりついて祟ったといわれます。その忠文の怨霊を鎮魂する祠といわれている。(説明文より)
下ってきた道、神社の前から振り返る さわらびの道の石標

少し先の右に 開運不動尊 正覚院

左の宇治川に沿って西北に街筋を進む

右に 橘寺放生院

すぐ先で宇治橋東詰に着く、日もかなり陰ってきた。もう少しで平等院頑張ろう

橋の袂の店の軒下に 道標

宇治橋を渡るがさすがに観光客も少なくなっている

宇治橋からの風景、かなり日も暗くなったので写りにくい。別途街道歩きでまた来ることになる


宇治神社方向

宇治橋の中央で頼政道は終了するが、やはり街道でないが平等院まで何とか行きたい。暗くなるまでもう少し時間がありそうなので急ぎ平等院へ
頼政道は終了だが、やはり頼政道は平等院


宇治橋東詰から再び同じ道を戻り、此処ではみぎのみちを宇治川沿いに進む
先ほど向かって左の道を下ってきた

右前方に赤い 宇治川に架かる朝露橋 が見えてきた

川沿い宇治神社の手前右に 清少納言の像

宇治川

宇治神社の宇治川沿いまで戻り、朱色の歩行者専用の朝露橋を渡り平等院へ
左斜め前方に、塔の島に立つ 十三重石塔

宇治橋方向の景色



塔の島の十三重石塔

宇治橋方向


あじろぎの道 を進み平等院へ




表門 何とかぎりぎり入場出来た

とにかく表門を入って真っ直ぐ進み、観音堂の横にある、頼政道の最終目的地へ行きたい
扇の芝
頼政無念の最後の地を見届けることができた。治承四年(1180)五月二十六日高倉宮以仁王を奉じて平家打倒のため挙兵した、しかし、宇治川にて平知盛の大軍に追撃され流れ矢に傷ついた頼政は軍扇を開き、
「埋もれ木の花咲くこともなかりしに身のなる果てぞ悲しかりける」 と辞世の句を残し
この地で自刃したと伝わる

鳳凰堂の北側にある 源三位頼政公の墓


平等院の塔頭 浄土院


通園家 初代太敬庵通園の墓
頼政の家臣で宇治橋の合戦で平家と戦い打ち死を遂げた

阿字池と鳳凰堂と結ぶ赤い橋

鳳凰堂は改修工事でシートがかぶせられいる

頼政道の最終目的地、平等院境内の「扇の芝」・頼政の墓も行くことができた、何度か平等院に来ているが見ていなかったので満足。平等院を後にして、宇治橋西詰に進む
宇治橋の西詰宇治川を背にして 紫式部の座像



宇治橋

宇治橋西詰の賑わい


間もなく暗くなる、ぎりぎり間に合ってよかった、大満足。
頼政道 完歩


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