2017年3月19日
吉野町立野大名持神社~窪垣内~鷲家口~鷲家
大和街道~伊勢南街道と続いてきた道で、ここ吉野町立野の妹山林叢で分岐する。突当り左に進む道が本道で、峯寺~佐々羅~龍門~柳~三茶屋~小名~小名峠~鷲家への道、途中、小名から日の森峠越で鷲家へ至った道もあった。小名峠越は紀州藩主の参勤交代の道でもあり六代藩主まで続いた、以後は紀州街道で大坂に変わったが、以後も重要な街道として地元の人たちには昭和に至るまで生活道路として利用されていた旧道です。この道を北回り道とすると、
今回歩く道は南ルート道ですが、宮滝までは東熊野街道と重複し、その後は、菜摘~矢治~窪垣内~新子~栗栖~(吉野川はこの先高見川に名前が変わる)~鷲家口(東吉野村役場)~(高見川と分流して鷲家川を上る)~三茶屋から小名峠または日の森峠を越えてきた街道と鷲家で合流する道。
しかし吉野川・高見川に沿う道は川の濁流により危険が伴い道幅も狭く、加えて蛇行を繰り返す遠回り道で街道として発展しなかったようです。近年に入り道路も整備された。
平成23年(2011)4月4日に吉野路で上市~宮滝~吉野山への万葉の道を歩いているので、今回、宮滝から歩きます。宮滝の歴史資料館に車を預け8時20分出発するが、日曜日で新子より先はバスの便がないので、鷲家口辺りまでとなり鷲家までは次の機会になりそう。
宮滝 8時20分 スタート
鷲家口 16時10分 着
44.187歩 26.51㎞
やはり鷲家までは無理で、鷲家までの分は残した、いきは本道の川の右岸(西)側を進み、帰りは左岸を下ってきました。
ただこの道は、近年開発された道で、鷲家までの道は大半かつての古道を辿っていないのをご了承ください。
宮滝までは2011年の写真です
大名持神社の起点
鳥居の左を入ったところでT字路になっている、正面の道で国道169号線で宮滝を通り熊野へ通じる 東熊野街道 と鷲家に通じる伊勢街道南回り
T字路を左に折れる道は 伊勢南街道の本道 で佐々羅で多武峰街道が分岐する道。

169号線一つ目の信号を右に行けば、吉野川に架かる妹背大橋で目の前に背山がせまる

また左、津風呂川に沿って河原屋を進んでいくと、津風呂湖にでる。津風呂川を堰き止めて造られた人道湖。真っ直ぐ169号線を進む

この国道は歩道が殆どない所に、大型車が多く歩くのには危険な道である。川向かいに道があるが古道ではないのでこちらを歩く。暫く歩くと、左斜めに坂を上る細い道が左の山麓にむかっているので一か八かその道を進む。ダメなら戻るだけである

左に 祠

右下を国道が走っているのでこれが旧道と確信しました。東熊野街道の古道です(大発見)

集落が並んでいる、調査不足であった。北樽井集落でした。昔は吉野川は急流で水も豊富で危険なため高台に道も民家もあったのだろう

東熊野街道が重複している旧道で、静かな山村といった風景 北樽井の集落


集落中程左手にお寺が名前を逸した

お寺の前旧道を挟んだ向かいに 八幡神社


神社が左、お寺が右にあるところを振り返る

集落の街並みをゆっくり進む、右下の国道と違って街道らしき雰囲気が感じられる

結構長い集落が続いています

右手に茅葺の民家を見つけた、いつもながら子供の頃の原風景を見ているようでホットする

右に曲がり国道に合流するところ

向かって右の道を下ってきた、右に中荘温泉があります

中荘温泉の先で国道右下に下りる道があり、この道も旧道だろう

間違いなく旧道で細い道が続いているだが国道より川寄りの段下に民家と道があるので当時としては危険であると思うが

その先で、道が民家で消滅しており左に曲がり国道に上り合流する

国道に出た左少し高台に 薬師寺 が見える

薬師寺

境内に 自然石の石仏 だろうか祀られている

その先、国道は右に大きくカーブして宮滝地区に入ると左にカーブするところ右に入る旧道があり右に入ります

少し先右手に 宮滝遺跡の石碑 が立っています

宮滝の集落入り口。国道は左側を平行して走っています

右手金網でフェンスしているところに 遺蹟案内道標 フェンスの途切れたところを少し入ると


広々とした 遺蹟跡であるが近くの人に聞いてみると、ここだけでなく宮滝地区そのものが遺蹟跡とのことでした
宮滝遺跡
吉野川の両岸には巨岩・奇岩で水も綺麗で付近からは縄文時代以降の遺蹟が出土している。天武・持統天皇がよく訪れた吉野の宮跡といわれている

その先も宮滝集落を進む。左の国道は大型車で車が多く危険だが、一筋街並みに入るだけでこんなに静かで街道の面影が残っている

街並みが中程で十字路にでます 吉野路・万葉のみち はここを右折れして吉野川に架かる柴橋を渡ります。
東熊野街道・伊勢南街道南ルートは真っ直ぐ進みます

十字路を左に曲がり少し【寄り道】をする、左に曲がると、すぐ国道169号線の交差点にでます。左角に宮滝郵便局があります。東熊野街道はかつてはこの辺りから吉野川を渡り対岸に出ていたと思われます。現代はこの先の吉野広域消防本部で右に進んでいます。
十字路を左に折れた国道169号線の交差点です

北側の山裾に吉野歴史資料館がある時間が早くまだ閉まっていた

資料館の隣にある 十三社神社 境内に聳える背の高い杉カメラに収まらない

その西側にある 浄土真宗本願寺派善生寺 桜が満開に咲いている

国道に下ってきたところ国道沿いに 宮滝醤油醸造店


もとの信号交差点に戻り、少し(寄り道)します。右側の道を入り郵便局の前を右に折れると十字路に出ます

吉野川に架かる柴橋が架かっています。かつてはもう少し左(上流に)で吉野川を渡っていたようです。
万葉の道・吉野路を歩く古道で ここから対岸を右に折れて吉野山への古道、東熊野街道 もかつてはこの先、川を渡り左に分岐して山越えで進んだ

左に史跡 宮滝遺蹟跡の石碑 が立っています

柴橋からの展望
昔の柴橋は木や柴で作られ、ここから500mほど上流に架かっていた。上流正面の山は「舟張山」といい、ふもとの里は「菜摘」で、すぐ右手に迫る山は「三舟山」という。川幅の最も狭いところの岩の間に昔の柴橋があった。
下流左手の山が「象の中山」といい、その山裾を流れる渓流が「象の小川」で、吉野川に注ぐ所を「夢の和田」という。直ぐ右手松の生い茂る岩山を「中岩の松」というが余りの美しさに、吉野山に南朝の皇居があった時に、長慶天皇が幼い時狩りに来られこの松を時の後村上天皇に奉じようと岩ごと松を皇居に持ち帰れといった程美しかったと説明されている。
上流を遠望
かつてはこの500m程先に柴橋が架かっていた東熊野街道もその橋を渡り進んでいた

下流の展望
正面集落の見える辺りから左へ南西に山に入って吉野山へは裏側から上っている

かつての旧道は推測するに、そのまま国道に沿って500m程進み、東熊野街道と重なって進み、その先の菜摘地区で、左に行けば370号線の伊勢南街道南ルート、右に行けば169号線の東熊野街道で熊野へと行く道が分かれる、右へ進むと菜摘大橋が現在架かっており、多分その辺りに往時の柴橋があり、橋を渡りそこで東熊野街道と分岐し吉野川に沿って現在の新柴橋へきていたのだろう。確かに今の柴橋のところでは川が深く険しく対岸に橋を架けることも徒歩渡りは不可能であっただろうと想像できる。
元の十字路に戻り、左斜めの細い道を進むと国道169号線に出ます

国道の向かい側に前述の 吉野離宮顕彰碑の石碑 が立っています

また交差点の三角点のところに、上代人のふるさと吉野宮滝の説明板があります

十字路を真っ直ぐ進み、吉野離宮顕彰碑の横を入る

少し先で右にカーブして右からの国道に合流します

少し先で道は分岐します、正面の建物は吉野広域消防総合本部です。169号線は右に進み熊野へ

分岐を右に行く道は現在の熊野への国道、右の道すぐ先、現在の宮滝大橋で、かつての旧柴橋はもう少し右の川幅が狭くなったところにあったとのことです

街道は、右に消防本部を見て県道370号線吉野川を右に見て進みます。菜摘地区

菜摘ふれあいセンターを左に見て菜摘の集落を進みます。建物はほとんど新しい物です

左に 八王子神社 があります

吉野川に架かる菜摘大橋がすぐ先右に見えます

菜摘大橋を右に見て、北菜摘から下矢治にかけて吉野川と共に道は大きく右にカーブします


歩いてきた菜摘地区を振り返る

梅の花がほぼ満開です、下矢治集落の道

左、矢治峠から津風呂湖の案内板があります、山を越えるとすぐ津風呂湖です


矢治地区に入り左に道はカーブします、右に五社大橋が見えます


五社大橋からの下流吉野川

五社大橋からの上流

橋を過ぎた道路右下に 樫高稲荷大明神

そこから200m程先左の山裾に岩上神社があります

岩上神社
矢治の氏神で祭神は、岩穂押開神社殿の背後には巨岩が聳え威容を誇っている

社殿よりはるかに大きな岩です

神社のすぐ先左にお寺がありますが名前がわかりません

このすぐ先で道は左に急カーブします
左にカーブして進みます、南大野地区に入ります。吉野川の西側山裾に長く結構多くの民家が並んでいます

左に 六地蔵 が台地の上に並んでいます


左に 祠

祠の近くに立つ看板


石材店の前の くすの里碑

右に吉野渡波大橋を見て

橋より歩いてきた下流を見る

南大野集落に入異って行く

この先の上流を見る、今でこそ道路改修でよくなったが、かつては山が両側に迫り吉野川の水の豊富な急流が流れその間に細い道がついていたのだろう想像ができる。
とても参勤交代などで歩ける状態でなかったこの道は地元の里の生活道路であったと想像します

南大野地区を進む

左高台に 八坂神社 天保七年申九月吉日銘の 常夜灯

急で高い石段、神社の隣り高台に 不遠山浄土寺


少し先左高台には 浄土宗石見山東林寺

道は右に大きくカーブして進む

カーブの途中左道路わきに 手水鉢と自然石の道標?

背後の石垣上に 両谷山浄覚寺 その少し先で窪垣内に入ります、左に 榛原~大宇陀~三茶屋を通ってきた
大宇陀街道の旧道 が入野トンネルを抜けてくる

以前歩いた時、入野トンネルの上の旧道は、窪垣内側が廃道化して藪で旧道を越えられなかった

左山中腹に見える 林泉寺

窪垣内信号の辻に出ます、この辻で左から下ってきた大宇陀街道の旧道が合流しますが、今は新道です

紙漉きの里
この辺りが吉野の紙を漉く里です。谷崎潤一郎がこの地で取材して書いた小説「吉野葛」の一節に軒下に乾している紙であった、昭和の初めごろまでは数十軒も紙を漉く家がありましたが、今は植和紙工房他数軒だけとなり、紙から割り箸づくりに変わった
合流する辻を振り返る。正面の道はいま歩いてきた道で、向かって右が大宇陀街道でこの交差点が起点

窪垣内の町並み

右道路の下に、大きな煙出しのある旧家の廃家が荒れている

情緒のある窪垣内を振り返る

新子地区に入るところで、道は左(東)に90度曲がる、その左角の高台を見上げるほどの急な石段
御霊神社 下から参拝しておきます

神社のすぐ先右に新子郵便局その前左奥に 浄土宗達中寺

さらにすぐ東の左奥の山腹に 厳嶋神社 文化元年の石灯籠が登り口に建っている


石段から左に達中寺が見えます

神社の石段を下りてきた旧道右に


新子から国栖に入ります

栖の町中で分岐する表示がありますが真っ直ぐ進みます。右に行くと東熊野街道に合流します


左に 菅原神社

神社の東側に 龍泉寺

国道がかさ上げされたのか、民家が一段低くなっています、屋根に煙り出しのある旧家

新子で吉野川が高見川に名前が変わったが右に沿います

吉野町から東吉野村中黒に入る境界のすぐ先、右に高見川に架かる鳥居田橋、渡った先の高台に東吉野村運動公園が見える


鳥居田橋より下流の景色左に大きくカーブして北に進みます
吉野川から高見川に変わっています

上流の景色、正面右方向の最奥の三角の山が高見山で、伊勢南街道は鷲家からあの7合目に上り街道は大峠・小峠を越えていきます

大きく蛇行を重ねながら奥地に入っていきます

さすが材木の産地だけあって、何処も綺麗に伐採され真っ直ぐ伸びています


中黒地区に入ります

左に 曹洞宗興善寺 本尊の薬師如来像(重文)

興善寺下の街道からの集落

左には過疎が進んでいるのだろう廃校の校舎

右に 市呂橋

500m程進むと滝の瀬橋が見える、右の川向の建物は東吉野中学校道は大きく右にカーブ

左、石垣の高台に 興禅寺

学校を右に見て南にカーブしながら小来栖中出集落を真っ直ぐ南に進む

真っ直ぐの中出集落を振り返ったところ

真っ直ぐ200m程先で、右に愛宕橋を見て、左にU字形に急カーブして北に進みます

すぐ左に入る坂道があり、自然石の道標 その先に 灯籠

奥の山に神社があるようです


左に 民宿 「ますもと」


右の御幸橋を渡ると東吉野村役場へ、丹生川上神社、七滝八壺12.5㎞

右に御幸橋、街道は橋を渡らず真っ直ぐ進みます。小川(旧鷲家口)地区に入る
鷲家口から鷲家までの近辺は、天誅組壊滅の地でもあり史跡が多い


前方に東吉野村の中心町である小川鷲家の町が見えてきました

左街道沿いに 天皇陛行幸跡碑

傍に碑
狼は亡び 木霊ハ 存ふる
(オオカミはほろび こだまは ながらふる)


ニホンオオカミ像について
明治の初めまで、本州・四国などにかなりの数が生息していたようですが、明治33年(1905)東吉野村で捕獲された若雄のニホンオオカミが日本で最後の記録となりました。
当時ここ鷲家口の宿屋芳月楼で地元の猟師から、英国より派遣された東亜動物学探検隊員米人に買い取られ大英博物館の標本となっています。この標本には、採集地二ホン・ホンド・ワシカグチと記録され動物学上の貴重な資料として永く保存されるところとなった。
かつて台高の山野を咆哮したニホンオオカミの生存にかすかな夢を託して、雄姿を像にとどめ、ひろく自然の愛護を希い、村の文化史を彩る貴重な遺産としたい。(東吉野村)

オオカミ像前から高見川の下流を見る

鷲家口方向を見る

まもなく鷲家口の交差点

交差点の手前右のGSの街道を挟んだ向かいに

金比羅神社・新弁天神社・愛宕神社

高台の神社からの四郷川を見る。この鷲家口で高見川が四郷川として東へ、北へは鷲家川となって鷲家への旧道に沿って流れる

鷲家口の交差点、鷲家は左側の鷲家川に沿って道を進む。交差点に千代橋が架かっている、その左側に

天誅組遺跡 宍戸弥四郎先生戦死之地碑 が立っている (三州産31歳)


千代橋の上に立つ碑

千代橋からの鷲家川

川の奥に建つ 九重の塔


鷲家への旧道

本日はここで一旦終了し引き返します(鷲家まで行く時間は十分あるが、鷲家からのバスの便がないので)
今日の歩きはここ鷲家口で終了しなければいけない。鷲家で伊勢南街道の三茶屋からの本道と合流するところまでは、ここからあまり時間はかからないと思うが次回に残します。平日でも少ないバスの便が今日は日曜日で走っていなく、新子バス停まで歩いて戻らなければいけないので、今1時半、新子バス停が3時35分丁度引き返す時間となる。
同じ道を戻らず、帰りは対岸の道を歩くこととします。また鷲家口や鷲家は、「維新の魁天誅組」の遺跡が至る所にあり、よく案内文や遺跡碑が大切に保存されている。
交差点を右に入ります、旧家が並んでいますが、この辺りで天誅組の遺跡が多くあります。右に折れるT字路辺りで
彦根藩士大館孫左衛門が那須慎吾の槍で戦死跡、文久三年旧九月24日午後7時~8時

すぐ右に 天誅組山下佐吉先生戦死の地碑 和州産34歳、同年九月26日午前7時~8時



さらに進んで右にカーブする左角に 天誅組志士 那須慎吾先生戦死の地碑 土州産35歳
同年九月二十四日、午後7時~8時



彦根藩陣所 碇屋跡

いかり屋前を右にカーブした先左に
天保高殿 水戸脱藩志士
西田甚兵衛 武州浪士 戦死の地 同年九月二十四日午後7時~8時
が右の川沿いに建てられている。対岸は東吉野村役場



天誅組史跡(出合橋跡)
此処より対岸への架橋を出合橋といった、足ノ郷道(旧東熊野街道)の起点で頂上まで七十町。文久三年旧九月二十日宵、天誅組の本隊は川上村武木より此の道を鷲家口に向かい下ってきて大激戦となりました

激戦地を振り返ったところ

出合橋


橋から右の鷲家口交差点付近を見る。次回鷲家へ歩く道は、正面の山の間を進む

立派な東吉野村役場正面玄関を右に見て

ここより対岸の道を引き返します
役場を後に高見川を下ります、対岸の道は近畿自然歩道に選定されているようです。
日曜日でバスがないので仕方がないが、往路の道を変えるより復路は対岸の道を下ることとしました。でも旧道の感じもします。おそらく昔からの生活道路としてあったのだろうと思います。間違っているかも。



東吉野中学校手前の愛宕橋を右に見て進みます

愛宕橋の南袂の道


左に 祠 が祀られています

右に東吉野中学校

山裾を進んでいきます

道が整備されていなければ厳しい道です

高見川に架かる滝の瀬橋の南詰、右に見て進む

市呂橋、ぼうのむかい橋に架かると右対岸に見た興善寺が高台に見えます

ぼうのむかい橋を右に見て、左に高い石段の続く 厳島神社


進んでいくと左カーブの角上に石や木の袂に 祠 があります。それぞれお供えするのぼ大変な場所



樹林の間の気持ち良い道、車もあまり通らないし

右に架かる板波橋

左に東吉野村運動公園や体育館があります

小さな谷川の橋を渡った左袂の辻に立つ近畿自然歩道の案内板

右に鳥居田橋、東吉野村と吉野町の境界です橋から見た高見川の岩の景観が素晴らしい


栗栖地区です

集落内の左に 祠と灯籠


左にカーブする右手に高橋、


左にカーブすると舗装もなくなり様相が一変に変わりましたが、旧道らしき踏み跡があるので行けるところまで行ってみます

植林のされた杉の林立は非常に綺麗です。道も残っています


山裾の人一人歩けるぐらいの道を進みます。右手は高見川。前方に建物が見えます

工場の中を通っていますが私有地のようです

トラックの所に出てきましたが、仕事日であったら気が引けますが、今日は日曜日で休みのようです。抜けてみると舗装度の道に出ました。抜けてきたところを振り返る

舗装道に出てみぎにいけばすぐ高見川に架かる翁橋です。対岸は栗栖から新子の辺りです

翁橋から高見川の上流を見る、往路・復路を歩いてきた高見川の両岸。正面遠望の三角の山が高見山

狭い山道を下りてきた工場の所を見る、翁橋を右に見て舗装道を少し進みます
向かって工場の建物の右軒に出てきました

県道を300m程進み、分岐を右に折れて下る道に入ります

田畑や集落の中の道を進みます

右に高見川に架かる清水橋の所に出ます。清水橋を右に見て進みます

清水橋からの上流

結果的に、この先進んでいきましたが、清水橋から400m余り先の左からの吉野川に高見川が合流する三角点のの所で吉野川に阻まれ道は無くなってしまった。
止む無く清水橋に戻ってきます。昔はどのような状況であったか資料もないしわからないが
橋のたもとに 立派な祠

200m程進むと最終民家があり舗装道は無くなります
その左に、吉野の杉桧や自然木、流木で小品作りの体験ができる木遊館があります正面は杉林です

この先どうしようか迷ったが、先を見ると石組が残り明らかに古道の跡らしき細い道がついていましたので入りました。植林もされていて明るい道跡です



もちろん最近は私のような、もの好きはいないようですが、材木を扱っている人が通るのだろう狭い道だが踏み跡が残っています

吉野川に出ました、左に微かに道跡らしきのが川沿いの山裾に見えるようですがここで終わります(満足しました)かつてはこの先はどのような道になっていたかわ全く資料もないしわかりません。なかったかもしれません
前述の清水橋に戻り清水橋袂の祠の所を左に折れて橋を渡ります

清水橋からの上流

清水橋から先、左岸を進めないので一旦往路に歩た新子の車道に出ました。そこで新子駐在所前の電柱の袂にあった
国樔村道路元標 を見つけました


その近くからの見晴らしも良く長椅子もおかれていました

吉野川の吉野方面

吉野川と高見川のわかれる方向私は先ほど丁度正面の辺りの先端へ来ていたようです

新子、大宇陀街道と合流した窪垣内から南大野へ左に大きく急カーブして往路の道を歩き、吉野渡場大橋で吉野川を渡り対岸に出ました。

橋を渡って右にカーブし吉野川を右に、少し先で左からの道が下ってきている

少し道は狭くなります、右は吉野川の崖です。今歩いている道は街道でも何でもありませんが。考えるなら、東熊野街道に通じる繋ぎ道と思考します


人や車が通らない快適な道です


右に樫屋発電所と水路を通ります

その先の矢治で道は大きく右にカーブします、その左斜面に 祠

真っ直ぐの下り道を進みます。右に吉野川、左の上には五社トンネルを抜けてきた国道169号線(東熊野街道)が並行して通ります、が直ぐまたトンネルにはいり離れる


暫く歩いた先でT字路になります

右は五社大橋で上矢治からの道で169号線の国道につながっています。対岸は往路に歩いた道です

五社大橋の吉野川沿い左を見ると、往路歩いてきた対岸は吉野消防署から菜摘~矢治への大きく北向きからUターン南向きに進む道であった、この道もその内側対岸を正面の山の右側、山裾と吉野川の間に道があり吉野消防署の東川対岸に抜けているが。この道を歩かずT字路を左に折れて169号線に出て東熊野街道に出ることとする。この道は東西に通っていて大変近道になる。
右の吉野川沿いの道はこの先で無くなっています

T字路を左に折れた道

すぐ先で169号線(新東熊野街道)に合流して右へ進みま

合流した信号交差点左に 曹洞宗圓通山観音禅寺 その隣には 十二社神社

綺麗に石組みされた上の本殿は素晴らしい

神社のすぐ先で中山隊道があります.地元の人の話では、旧東熊野街道はトンネルの向かって左の山間を急斜面で越えていたとのことです。または遠回りの吉野川沿いではないのだろうか。

止む得ずトンネルを抜けることとします トンネル内は狭い歩道であるが柵をされていて危険を防いでいる、これは通学自転車のためです。でも狭くて自転車の対向ができない。トンネルは長いが結構明るいです

トンネルを抜けた道路を下ります

トンネルを振り返ると確かに進行方向左から旧道らしき道が山間を抜けて出てきています、この道が東熊野街道だろうか

下っていきますと宮滝大橋の南詰の交差点に出ます。宮滝大橋を渡ると、前述の吉野広域消防総合本部の分岐に出ます

信号手前まで下り振り返ると、国道の右側を下ってくる道があります、歩いていないのでわかりませんが、トンネルの上を越えてきた旧道かもわかりません。資料がないので全くわかりませんが想像です。どちらか?


交差点に出ました、この宮滝大橋に向かって左下流にかつての柴橋があった

宮瀧大橋を渡って分岐の所の消防本部に進まず、信号を左に折れます

交差点から右を見ますと左、吉野川沿いに対岸の大回りの道が出てきていますが、前述の袋の切れた道には途中で消失しています

ここで下の道に階段で下ります、かつてはこの道に東熊野街道が出ていたのではないでしょうか。下の道に下りて左に折れます、そして高架の宮滝大橋の下を潜り、吉野川を右に樋口の集落を進みます

すぐに左にカーブして交差点からの道に合流します

この辺り右にかつての柴橋があったのではないでかつての


右に 祠

現在の柴橋が見えてきました、朝出発したのは柴橋の対岸の宮滝です

柴橋の南詰です、吉野へは真っ直ぐ進みます。 吉野路を歩いたときは、宮滝から柴橋を渡り右(正面)に折れて進みました。近畿自然歩道の標示が立っています。復路歩いてきた道が近畿自然歩道のようです


柴橋の南詰から宮滝方面

柴橋南詰から吉野川の下流の景観

柴橋から上流の景観で橋は宮滝大橋

柴橋の南詰を吉野方向に100m程進みます。やがて道は分岐します、左の道は櫻木神社を通り吉野山の東へ出る
吉野路です。こちらからの吉野への旅人は、左の道を進んだことでしょう

右の吉野川沿いの道を進みます左に 祠


暫く進んだ先から振り返りました御園地区です。こちらの道もなかなか捨てがたい道です

左の石段の急斜面の中腹に 不動明王



南楢井地区に入り、右に楢井不動橋を見て進みます


やがて飯貝地区に入ります左に 祠


左に 祠


右に妹背大橋、対岸は 伊勢南街道南ルート起点 の分岐点であります、大名持神社・妹山樹叢です。往路と復路を吉野川、高見川を挟んで歩いてきました。

もう少し対岸を進むみます、吉野町の材木市場です。吉野町近辺には多くの木材市場が点在します


右に 祠

吉野高校を抜けてきました

この集落の筋も落ち着いた情緒があります


左に 本善寺
お寺の前で右に桜橋が架かっています、吉野町役場方向です多武峰街道がここで合流しています。かつては 桜の渡し跡です

お寺の門前に立派な 道標
吉野路で桜橋を渡り吉野山に上っているので、詳細は吉野路を参照してください


左に屋根で囲った 祠 どれも大切に祀られています

右に吉野小学校

分岐しますが真っ直ぐの道を進みます、右手一帯は材木市場や木材工場が点在する

近鉄吉野線の吉野神宮駅の南側の踏切に出ます

踏切を渡った右に立派な大きな 吉野神宮表参道の鳥居

近鉄吉野神宮駅まで伊勢南街道と少し追加になりましたがここで終了します。

2017年8月9日
2017年3月19日の伊勢南街道南ルートの歩いた続き、鷲家口~鷲家の大和街道(伊勢南街道)との合流点がまだ残っていたので歩きます
まだ少し伊勢南街道の南ルートが残っていて、気になっていた。暑い日であったが距離も短いし急遽歩くこととした。車で東吉野村役場まで行って車を駐車する
鷲家口スタート 13時25分
鷲家からのバスがなかったので再度歩いて戻る 16時20分着
16.460歩 9.87㎞
鷲家口の千代橋を前回に引き続きスタート

鷲家口の街並み

すぐ右の民家の傍に 天誅組遺跡碑
文久三年旧九月二十四日宵、天誅組の前勢の一人林豹吉郎(和州産)は、川口釣具店の付近より敵陣の裏を進み紙屋重兵衛宅前に陣していた彦根勢に切り込み激戦の中、敵の銃弾にて壮烈な最期を遂げた

すぐそばの石段の袂に 小川村道路元標

振り返ったところから見る

街道沿いに民家が並ぶ民家の裏は鷲家川

その先 左の下月尾橋の袂に 天誅組史跡案内
川向に添水があって、臼小屋があった。この下月尾の谷に沿った山道は、殿川から小名に出ている、そうず越え殿川道。同年九月二十一日午後二時半頃、足の郷峠を越して鷲家口に着いた天誅組記録方の伴林光平は、平岡鳩平(後の正二位男爵北畠治房)と西田稲夫の二名を伴い、鷲家口の若者六名とこの向かい下月尾谷を登り小名、三茶屋を経て宇陀に向かった。鷲家川と左の街道沿いの建物の裏側

鷲家川

右の石段の上に 祠

左の鷲家川の対岸に数戸の集落があります。左の対岸集落に架かる橋

先を進みます、鷲家川に架かる万代橋を渡り、川の左側に出ます

左に小川郵便局があります。手前左高台に小さな建て替えられた 乗法寺 があります

小川の集落が少しの間続きます

右にカーブするところで谷川に架かる一の橋を渡ります。橋を渡ると谷川に沿って左、急坂を登っていく山道があります

同年旧九月二十六日払暁、吉村寅太郎の命を受け主将及び本隊の様子を確認するため、木津川より山越えで鷲家口に下ってきた、森下儀之助、森下幾馬(土州産30歳)、山下佐吉(和州産34歳)、山崎吉之助(尾州産)四名の内、森下兄弟は一の谷を登りましたが、頂上近くで大和街道赤谷口に着いたとき、兄儀之助は左の小名峠を越して脱出したが、弟幾馬は右に進み首つり峠を越して鷲家赤谷を下る途中、藤堂藩の隊に遭遇し、銃弾で戦死した。

一の橋から見た一の谷川に沿って登る道右に、島村省吾捕縛地の案内島村省吾(土州産19歳)同年9月28日正午ごろ一の谷頂上手前の薪小屋で捕縛される


一の橋を渡ったすぐ左の民家角に、天誅組碑と説明板、九月二十四日宵、出店坂より敵陣に突入の途中、被弾した前勢の一人 鍋島米之助(土州産24歳)は、之に屈せず彦根の陣を突破してここまで進み辰巳家の納屋に潜入休息しが、翌朝、発見密告され駆け付けた藤堂勢の銃弾に斃れた

車があまり通らないので、楽しみながらゆっくり歩ける、一の橋方向を振り返る


田川橋が見えます、かつての旧道はこの田川橋を渡り、すぐの小川銘協倉庫の手前を左に山裾を鷲家川に沿って通って、左に大矢橋、石の本橋を見て鷲家の河合橋に出ていたが、伊勢湾台風で今は完全に消滅している

鷲家谷に入ります。この辺りで天誅組は解散した



鷲家谷バス停のすぐ先で鷲家川に架かる大矢橋が右に見ます

まもなく右に鷲家川に架かる石の本橋が見えてきます

天誅組遺跡
天誅組総裁の一人、吉村寅太郎
は文久三年九月二十七日、天誅組主将中山忠光らの安否を気づかい、傷ついた体をものともせず山越えをしてここまでたどり着いた総裁吉村寅太郎は、大岩(吉村寅太郎原えい処)の下流約30m左岸の山際にあった薪小屋に潜伏休憩中に発見密告され、藤堂勢の手により銃弾で無念の最期を遂げた地

天誅組終焉之地碑


天誅組総裁 吉村寅太郎辞世碑
吉野山風にみだるるもみぢ葉は 我が打つ太刀の血煙と見よ

血路を求め、足の郷道より銃口の待つ、鷲家口めがけて斬り込み散っていった義士たち。万斛の想いを胸に、燃ゆる紅葉を血に染めながら、彼等の脳裏によぎったのは、新しい世の中への確信か、そぼ降る時雨の心細さか 石碑より

石の本橋を渡ります


この石橋より30m程下流で銃弾に斃れる、旧道は向かって川の左側であったが、今は完全に消失している橋を渡ると大岩を右に広くなっています

大岩を背にして 吉村寅太郎原えいの碑
文久三年九月二十七日午前8時~10時 27歳 土州産、ざんねん岩の前で力尽きた吉村寅太郎は、村人の手によりこの大岩の袂に埋葬され、土方直行の筆による原えいの碑が立てられました。
明治二十九年に遺体が明治谷墓地へ改葬された後は、この碑はここに斃れた吉村寅太郎を偲ぶ記念碑となって、今も地元の人々の手により祀られています。この鷲家地区や小川地区で無念の最期を遂げた、天誅組志士が沢山いますが、今も地元の人々を中心に整備され手厚く祀られています。
特に土佐は沢山の若い志士たちが、明治の先駆けとなって亡くなっている。
私が、「坂本龍馬脱藩の道」で土佐(高知)の龍馬生誕地から歩き始めて梼原地区に入って驚いたのは、このような山深い山間の地から、勤王の志士が沢山でてほとんどが明治維新を見ずして亡くなっていることを知らなかった。
現地では、吉村寅太郎はじめとしてこの人たちに対する、尊敬、誇りが如何に強いか感じたものでした。またそのような天誅組の志士を手厚く今でも祀って頂いている、地元の人たちへの感謝が脱藩の道歩きをしていた私にもひしひしとその気持ちが伝わってきました(詳細は坂本龍馬脱藩の道を見てください)。今でもお互い交流があるのは納得です。
これを機会に天誅組に関する著書を参考にさせていただき、天誅組結成旗上げから五條代官所の襲撃・高取城攻城の失敗・東吉野・十津川村の敗走の道、そして中山忠光卿終焉の地(山口し田耕)までを思いをはせながら機会を見つけて歩ける範囲で探訪してみました。


広場の一角に、石積みを台にして 二基の石碑 が祀られていたが磐余が分からなかった ⁇


鷲家の集落に入る手前に、鷲家川に架かる新河合橋を渡ります

かつての旧道は、この河合橋の北詰の袂に出ていた

橋から左の鷲家川と鷲家の集落

橋から左の岩盤の上に祀られている馬頭観音の 二基の祠


橋を渡ったすぐ先、鷲家宿の中心の辻にでます。
伊勢南街道南ルート道はここで終了ですが

周辺を少し回ります。辻の角に立つ、天誅組史跡 油屋藤堂藩陣屋跡


この辻は、紀州和歌山城からの大和街道、伊勢南街道へと左の小名峠を越えてきた辻で、南ルートの伊勢南街道とも合流します。
小名峠の鷲家寄りにも、天誅組の遺跡が大和街道で峠越をしたときにありました
伊勢南街道灯籠道標
東「右 紀州かうや 左 大峯山たかはら 道」 南「右 いせ 江戸 左 はせ大坂 みち」
西「右 小川谷 河上 左 いせ くまの 道」


隣に立つ小さな 高見村道路元標

合流後の伊勢南街道を松阪方面に進む街並み旧家が並び宿場風景があります

辻から西の伊勢南街道で、真っ直ぐ山道を上り、一の谷から小名峠を越えて三茶屋にでます

右角に 道標 「右 古市場宇陀榛原 左 小川四郷川上 道」 「右 高見 伊勢 左 古市場宇陀榛原 道」 「右 小川四郷川上 左 高見伊勢 道」

伊勢南街道を少し西に進むとすぐ鷲家川に架かる市場橋を渡る

橋を渡ってすぐ右への旧道があります、湯ノ谷墓地を通り榛原への道です
曲がらず真っ直ぐ登る道が伊勢南街道で少し入ってみます

登り口すぐ先右に 天誅組遺跡の説明板
吉野町小名~三茶屋~上市を経由して和歌山城下に至る街道で紀州徳川藩の江戸中期までの参勤交代の街道であった。文久三年九月二十六日午前7時~8時、
天誅組義士の森下幾馬がこの道1㎞ほど上で藤堂勢と交戦により戦死した(土州産30歳)

坂を下ってきたところから、辻方向を見る

直ぐの右T字路を左に鷲家川を右に、榛原方面への旧道を入り少し緩やかな坂を上っていきます

すぐ左斜面に お地蔵さん が祀られています

暫く歩くと、数軒の民家の前の川に橋が架かっています。ここが 湯ノ谷墓地です

ここでは獣が墓地に入って荒らさないように獣除けの鉄柵により防御されています。 村人の墓地(先祖)を守る気持ちが伝わってきます

鉄扉を開けて入ってくださいと掲げられていた

橋を渡るとすぐ左側に 維新の魁 天誅義士の墓


藤本津之助(鉄石)備前産48歳 鷲家の紀州藩脇本陣日裏屋 9月25日午後3時30分頃
松本謙三郎(奎堂)三州産33歳 伊豆尾の笠松頂上 9月25日午後2時30分頃
森下猪久馬(幾馬)土州産30歳 鷲家の伊勢南街道赤谷 9月26日午前7時~8時
福浦元吉 淡路産35歳 鷲家の紀州藩脇本陣日裏屋 9月25日午後3時30分頃
村上万吉 三州産 伊豆尾の笠松頂上 9月25日午後2時30分頃
墓の傍の吟詠


湯ノ谷墓地を後にして伊勢南街道沿いにある八幡神社へ
参道入り口から朱塗りの宮前橋を渡り境内へ


綺麗な 八幡神社
八幡神社境内にはツルマンリョウの群生地(天然記念物)

八幡神社参道入り口街道沿いに 紀州藩本陣跡の石碑



大木に覆われた八幡神社

伊勢南街道南コースを完歩しました。この後、車の置いているスタート地点の東吉野村役場まで、おなじ道を戻ることになります。
まだまだ天誅組関係の史跡があります
わし東吉野村役場に戻りました、前に 天誅組史跡:橘屋跡 彦根藩陣所跡

立派な庁舎

この周辺に沢山の天誅組関係の史跡が残っているので少し回ります。鷲家口の方に戻り、那須信吾戦死跡のところで、左の出店坂を上ります

出店坂を上っていくと小川校がありその間の道右に
天誅組遺跡 があります
9月24日宵7時~8時、天誅組の前勢はここで彦根勢と遭遇、天誅義士植村定七 は銃弾により無念の最期を遂げた(和州産)


曹洞宗宝泉寺
天誅組事変の際、彦根勢がこの寺を焼こうとしたのを、命がけで当時の和尚が阻止したいわれのある寺。鷲家口で戦死した義士や彦根藩士の菩提寺として毎年11月5日天誅祭が行われている



天誅義士記念碑
まだまだたくさんのの天誅組義士の関連史跡がありますが、また後日に歩きます。残念ながら、この少し南に行った明治谷墓地に今回行かなかったのが悔やまれます。
(追記)
吉野町から東吉野村の境界近くの鳥井田橋からの古道は、東吉野村教育委員会が発行されていた(平成九年)「東吉野の旧街道」を参考に引用させていただいています。それによると私が歩いた道は殆んど新道で、かつての旧道は廃道等が多く難しい。でも現在なりの旧道探しに思いをはせながら歩いています。
それによると、東吉野村の区域内では、境界の鳥井田橋から古道は新道の左の山裾を、中黒では寺の東側を通り、下出に至り、東吉野中学校の北側、高見川の向かい山裾にある東禅寺を抜けて、中出の愛宕橋の北側の山裾を新道の左の樹林の中を新道に平行して北上し、右に御幸橋を見ながら、小川の笠神地蔵を見て、ニホンオオカミ像の背後を抜けて、愛宕神社に達し、鷲家口の千代橋のすぐ西側に下りていたようです。
鷲家口からは暫くは現在の新道と重複していたようです。一の谷橋を越えて次の田川橋辺りで、鷲家川を対岸に渡っていたようで、その先は、鷲家川と新道を左に平行して右の山裾を、大矢橋、吉村寅太郎戦死の地の大岩を通り、鷲家の河合橋の右側に出ていたようです。


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