2013年4月20日
近鉄南大阪線の古市駅の東ので竹之内街道と東高野街道と交差する辻~大坂市平野区の宇賀神社南の25号線宮前交差点
自宅4時40分に出て林間駅へ河内長野から近鉄に乗り換え古市駅へ行く。
古市街道は見るべき旧跡が多く、昔の面影を偲ぶ街道で素晴らしかった、沢山の他の街道とも交叉し御陵も沢山あるコースである。
古市駅 6時 スタート
12時50分 平野駅完歩
34.417歩 20.65km 1.510kl
引き続き平野駅でJRに乗り八尾駅へ移動して 北八尾街道を歩く
近鉄南大阪線古市駅東口古市街道起点まで、駅のすぐ南側の竹之内街道を東に進む


羽曳野市から藤井寺市にかけての、東西3㎞、南北4㎞の範囲には、大王の墓と考えられる全長200mを越える7基の巨大な前方後円墳を中心に、大小100基以上の古墳が分布している。古市古墳群と呼ばれる百舌鳥古墳群(大阪府堺市)と並ぶ全国最大規模の古墳群で、今からおよそ1600年前から、1450年前までの150年間に、次々に古墳が築造されて形づくられたものです。
大きな古墳の丘は、数多くの人たちの力によって土を盛って築かれたもので、大王の力の大きさを誇るかのように、今も深い緑におおわれ堂々と聳えたっている。
古市は「日本書紀」にもその名が記された長い歴史をもつまちで、竹内街道と東高野街道が交差する江戸時代の古市は、石川を行き来する剣先船が着く水運の要地でもあり、商業や産業が発達して栄えた。
竹之内街道と交差する、‘’信仰の道‘’東高野街道は、およそ1200年前に空海が開いた高野山への参詣は、皇族や貴族の間で始まり、しだいに武士や庶民に広まった古道。京都から生駒山地の麓を通って高野山へ至る東高野街道は、主要な参詣道の一つ。
東高野街道と交差する、江戸時代の賑わいの道‘’竹内街道‘’の起源は、今からおよそ1400年にさかのぼる。「日本書紀」には推古天皇の二十一年(613)に「難波より京に至るまで大道を置く」と記され、飛鳥のみやこと、海の玄関である難波とを結ぶ道が、国をあげて造られた。
都が京都に移った後もこの道の重要な役割は受け継がれ、江戸時代中期以降は、「竹内街道」とよばれるようになった。商業で栄えた泉州堺と、数多くの寺社があり農産物の産地であった大和を、また、遠くは神宮がある伊勢とをつなぐ道として、多くの人々や物資が行き来した。 (説明版)
駅の南の竹内街道を東に進む左に 白鳥神社参道

寛永年間(1624~43)末期、軽里の伊岐谷にあった伊岐宮を、古市村の産土神として現在地に移したとある。現在は日本武尊と素戔嗚尊を祭神として、秋祭りには地車が町内を練り歩く

白鳥神社

竹内街道に戻り東に進む

左に 浄土宗知恩院派長円寺 江戸時代寛永九年(1632)に開基された

門前の お堂内


すぐ先で十字路、左右(南北)の道は 東高野街道 真っ直ぐ進む道は 竹内街道 で、古市街道はこの交差点 蓑の辻 を起点として、暫く東高野街道と重複する

古市街道の起点 で北へ進む 暫く東高野街道の道でもある

今歩いてきた竹内街道を振り返る

東高野街道と交差する左角の蓑の辻には、嘉永元年(1848)に立てられた
道標 かつての賑わいが偲ばれる。「右 大坂 左 大和路」

辻を少し右(南)に行くと右手にある 伊勢講


その前東高野街道を左に(寄り道)入ると 古市郡役所址 で現在 真宗光明山宝池院真蓮寺
明治13年に古市郡の郡役所が設けられた

また街道伊勢講の西側に 浄土真宗高尾山西念寺

起点の辻をスタート、北に進む、もう暫く東高野街道と重複

すぐの右北口牛乳店のすぐ先の道を右に入った奥に
高野山真言宗向原山西琳寺
飛鳥時代(7世紀前半)に創建された河内有数の古代寺院。百済から渡来した王仁の子孫である西文氏が、欽明天皇の頃(6世紀中頃)に建てた寺とされている。
発掘調査によれば、東に塔、西に金堂を置いた法起寺式伽藍配置が推定され、境内には巨大な塔心礎が残っている




高屋宝生院址の五輪塔
鎌倉時代の中期、西琳寺奥院が高屋丘にあった。永仁三年(1295)に関係住職の墳墓(五輪塔)が造られた。その後土塁下に埋没したが、昭和33年、宅地造成工事で発見され、西琳寺に移転された

更にすぐ左に、白鳥神社の鳥居と参道、ここが正面

参道入り口右に 伊岐宮白鳥神社の石碑

その先でT字路となります、右に羽曳野古市局があり、左に折れます

更に70mほどでT字路で、手前左に福助堂があり、T字路を右に折れ北に真っ直ぐ進みます
右に折れたすぐ左民家の軒に 祠


綺麗な道を更に北に進む

近鉄南大阪線の踏切になります

踏切を渡る手前右に 浄土真宗西落山勝光寺

踏切を渡ったすぐ右線路近くに 灯籠

その街道左には 金田寺

門前に 祠

ここで⦅寄り道⦆線路の手前に戻り、勝光寺の北側を東に入ると なまこ壁の旧家が

更に 円光寺


円光寺の北側に 碓井八坂神社と井徳院址
八坂神社は、もとは「井徳院」といわれた奈良時代の寺の鎮守であったか、あるいは古市神社からの分社であると考えられ、創建は平安中期以後と推定。神社の東方50m付近に井徳院があったが、南北朝の争乱で焼け廃寺となった


街道に戻り進んでいくと、170号線の交差点に出て横断

交差点を横断した右角に 常夜灯東高野街道の石碑 灯籠を右に街道を進む

少し北に進むと右角に道標がある辻に出る

真っ直ぐ進む道が東高野街道で古市街道は左に曲がるので、ここで分かれる

右角の 道標 「右 いせみち 左 ふじ井寺大坂道」「右 道明寺玉手山」

左に折れる辻の右に 二基の道標 右に進む道が東高野街道
大 正面 「藤井寺大阪方面」 左面 「柏原 大阪方面」 右面 「富田林長野方面」
小 正面 「右 大峯山 つぼさか たいま」 左面 「すぐ大峯道」

左に折れて進むと左奥に 真宗光宗寺

そのすぐ先右手に、誉田八幡宮


誉田八幡宮
羽曳野市誉田三丁目、応神陵古墳の南側に位置する誉田八幡宮は、本来応神陵古墳の後円部頂上に所在したと伝えられ、平安時代中頃の永承六年(1051)に現在地に移されたと伝わる。旧社殿は、天正年間の織田信長による兵火によって焼失したが、慶長十一年(1606)、豊臣秀頼によって再建されたのが現在の社殿

拝殿

恵比須社

誉田八幡宮拝殿


放生橋と神輿

鎌倉時代に造られたとつたわる、放生川に架かる花崗岩製の反り橋毎年9月15日の秋の大祭の夜には、神輿がこの橋を渡る

反り橋の先に


上空からの 応神陵古墳と誉田八幡宮

古市古墳群最大の全長425m、高さ36mの規模をもつ、5世紀前半に造られた前方後円墳です(応神天皇陵)。盛土の量はダンプカー17万台分にもなり、百舌鳥古墳群にある全長約486mの仁徳天皇陵古墳を上回ると推定される。周囲は二重の濠と堤が取り囲み、数基の陪塚が配置されている。(羽曳野市)
誉田八幡宮の正門

正門前から街道の西の道筋

応神陵古墳の遠望

その先を西に進むと170号線の交差点を横断左に羽曳野市役所

横断して左、南西に葛山古墳が見える

交差点野先の街道

右の羽曳野署のすぐ先右に 祠

更に西へ、左に林米穀店の前の道を右(北)に入ると 野中神社


野中神社南側の緑地帯

神社より南の街道に戻り、西へ歩く

野中3丁目の集落、左の藤井商店の角に 道標「西 右まきの尾 金剛山 高野山 左 津ほ坂はせ よしの 伊勢 道」

道標の前から街道の野中集落を振り返る

街道左奥に 浄宗寺



街道に戻り少し進むと、右の清久酒店の道向かいに 道標 「右 ・・・・大坂 左・・・・・・」

右角に 祠

角の祠の所で右に折れるが、正面には170号線の外環状線の高架で、高架下は野中南交差点、旧道はかつて右斜めに進み高架下を斜めにあったが今は消失しているので、右の側道を進み、一つ先の野中信号を左に折れて高架を潜る


野中交差点で高架を潜り右に折れ、すぐ先の野中北交差点で、右に170号線の側道を分け、左の道を入る

ここを左へ左に藤井寺郵便局

暫く北に町筋を進むと、右に弘仁会可児医院がありすぐ先の信号交差点を左に折れる

左に折れて西への道を進む、186号線の交差点を越えて、左にコンビニ、右に藤井寺南小学校、左になな保育園を見て進む

なな保育園のすぐ先が、三叉路に分岐しているので、右に折れる

右に折れた先の街道

右に折れたすぐのところで、街道より左に入る道の奥に 仲哀天皇陵


街道に戻り進むと右に、アイセルシュラホール(市立生涯学習センター)の建物舟形埴輪と修羅がモチーフ

藤井寺2丁目で街道は分岐する、右の道を進む

右の道を真っ直ぐ北へ

左、海鼠壁つくりの大きな屋敷 富士正 藤本酒造場「松花鶴」

やがて道は正面 葛井寺 で突き当たる 南大門

突当り右角に 道標 「右 つぼさか よしの はせ い勢」「左 道明寺 たつた ほうりうし なら」

突当りを右に少し入ると 真宗長野山南渓寺


突当りを左に曲がる、その左角に

道標 「左 つほさか」

紫雲山葛井寺


藤の花が綺麗








西国第五番札所 飛鳥時代に百済からの渡来者によって繁栄したこの付近、お寺は当時約2㎞平方の境内に東西両塔があり七堂伽藍を有していた古刹



葛井寺を後に、四脚門の前の突当りを左に折れて、60mほど進むと、再び突当りとなり右に折れる

突当りを左に折れる所、左角に 仲哀天皇御陵の道標

突当りは 辛国神社

当神社の創設は古く、今から約1500年前の雄略天皇の時代に創設された式内社である

境内の一角にある 春日天満宮

神社の前のT字路に出て、右に折れ北に街筋を進む

右に東側の葛井寺の桃山時代の 四脚門(重文)


商店街のアーケードに入る

アーケード手前に 仏像堂

中の一つは 道標(向って左から二つ目)

商店街

アーケードを抜けると近鉄南大阪線の踏切を渡る、すぐ左が藤井寺駅

左の藤井寺駅

踏切を渡り再びアーケードに入る

藤井寺駅前北商店街アーケードをぬける


アーケードを抜けた先の街道

その先の四辻で 長尾街道が右(東)から合流してくる、右手前角に 道標


長尾街道の道筋

古市街道は四辻を真っ直ぐ、長尾街道も暫く重複

少し先で12号線の岡2丁目交差点を越える、右向いにコンビニ

交差点の先の町筋

小さな小川の橋を渡る

橋を渡りすぐの辻で 長尾街道 は左に折れて分かれる

左に折れた長尾街道の町筋、この付近の町には旧家が所々に残り街道の面影を彷彿させてくれる

北への真っ直ぐな旧道を進む

長尾街道が左に折れる辻の右に 「右 いせ」道標

辻を振り返る、電柱の袂に道標

浄土宗南面山無量寿院善光寺
約1300年前の7世紀後半に建立されたと推定。戦国時代に兵火により焼失、江戸時代初期の慶長年間(1596~1614)に再興された


高経塔

善光寺をでてすぐ先右に大きな 常夜灯

常夜灯のすぐの道を左に入ると 佛国山稱念寺 本堂は改修中


街道に戻り進むと右に藤井寺小山郵便局があり、そのすぐ先で右に産土神社があり、その前を左に折れる

鳥居の袂に 道標 「右 大峯山 ふじい寺 い勢はせ」

産土神社


神社の北隣に 禅宗清国寺

境内の宝篋印塔

左に曲がり進む

津堂の町筋を進む


津堂1丁目街道筋右に 祠

街道は左に藤井商店がある所の四辻を左に折れる

⦅寄り道⦆十字路を右に少し入ると
津堂城山古墳(国指定史跡)
古市古墳群の最北端に位置する前方後円墳、全長400mを越える大古墳で古市古墳群内の初代の大王陵と考えられている

古墳の全景図

古墳上にある 八幡神社



古墳内の三条山から見る



古墳を西に出たところ

藤井商店の交差点に戻る、街道は左から来て左に折れる

すぐ右に 浄土真宗真法山専念寺

その先の交差点を越えると、道はやや広くなる

西氷川の馬街道橋を渡る

馬街道橋から西氷川の南(正面藤井寺北小学校)、 北(正面遠望は西名阪自動車道)


津堂3丁目の道を西へ

街道は池に突き当たる、道は手前で分岐するが右の道を進む

池沿いに進み、左に折れてすぐまた右に折れ池を離れる。左手に藤井寺高校

右に小川沿いに進む

舗装道が西名阪自動車道に突き当たる、100mほど手前で小川を渡る所があるが、そこで小川沿いの畦道の地道を左に折れる

200mほど小川沿いの畦道を蛇行しながら進む



右に折れると高速道の下に出るが、左の道を進む


小川の集落を進む

先で突当り右に折れる

右に折れてすぐまたT字路を左に曲がるが

T字路の正面に 大神宮常夜灯

常夜灯のT字路を更に左に曲がり10mほど先で、真っ直ぐでなく、右に曲がる

すぐ左に 正定寺

軒に 祠

非常にややこしいが、更に20mほど先でT字路があり左に曲がる

左に折れた道を進むと夢工房があってバス停があり緩やかに右にカーブしている右に

深居神社


神社の前の道を真っ直ぐ北西に進む

すぐ先で道は分岐するが真っ直ぐ右の道を進む

阪和自動車道に突当り旧道は消失。迂回して反対側に出る

突当りを100mほど左に高速道の側道を進む

側道を進むと東除川に出るので、その手前を右に折れて、川沿いの高架下のトンネルを潜る

この先高速道の松原JCTで旧道は消失分からない、とにかくJCTを抜けるまで私の歩いた道を記載します。
左の東除川と共に、阪和道と中央環状線道を潜り、50mほど進むと交差点で左には橋が架かっているところを右に折れる。50mほど進む、右に松原市消防団第四分団があるので、そこを左に折れる、植松畳店の細い道を入る。

交差点を右へ

正面に高速道の高架が、その手前の細い道左へ、ここで一応前述の、高速道で遮断された旧道が右から

細い道を進んでいくと、突き当たり正面は公園となっており分岐、左に曲がり公園を右に見て右に折れる


突当りの正面公園左へ、すぐ右へ公園に沿って

公園を右に見て進む

その先、民家で突当り左に折れる、すぐ右に高速道の高架が迫る。左に折れると、右に教専寺があり、右に見て真っ直ぐ進むと、東除川に突き当たるので右に折れると、すぐ広い道に出て横断する。左の橋は、東除川の大堀小橋。すぐ先の高速道の地下道を潜る

浄土真宗教専寺と前に祠

東除川に突き当たるので右へ

広い道路を横断、左は東除川の大堀小橋

地下道を潜り高速道の向こう側へ

地下道を潜りすぐの所の大堀大橋を渡る

橋よりの右側を見る

左の小さな森に 大堀八幡神社


神社を左に真っ直ぐの道は大和川で行どまり。以前はここから左斜めに向って、対岸への川辺の渡し跡

かつては明治橋が大和川にかかっていた

迂回するため神社に戻り、大堀大橋手前を左に折れ、左に東除川、右に大和川との間を西に進む

左に東除川に沿って西へ進む


堤を300mほど進むと、明治橋があるので渡り対岸に

橋より対岸(北)の川辺渡し跡あたりを見る

明治橋を渡ると堤防沿い西東の道は 庚申街道 が分岐
右に大和川を見ながら堤防を東へ進む

途中堤防左下に 川辺八幡神社

境内に 金吉大明神

大木の袂に 龍王社


庚申街道の起点 右が川辺渡し跡、信号とバス停がありここがかつての分岐点
庚申街道は川沿いを西に進み、古市街道は川を背にして北への旧道の街並みをっ進みます

渡し跡より北に堤防を下り、川辺の集落を進む


川辺バス停、川辺渡し跡

堤防を下りたところ左に 祠


川辺の旧家が静かに残る街並み、往時を彷彿させる

左奥に川辺八幡神社の鳥居

街道筋集落内の旧家


素晴らしい街筋を振り返る

街道情緒の残る集落を抜けると、信号交差点に出て横断

ほぼ真っ直ぐの長吉地区を北への道を進む

更に交差点を横断

すぐ右に 祠

その先、長吉長原で左にカーブする正面右角に 地蔵堂


地蔵堂を右に進んだ先で、道は分岐するので右に曲がる

地蔵堂の前で⦅寄り道⦆街道より右に入る 浄土真宗照曜山光圓寺

横には 祠

光圓寺の北側には 真宗阿弥陀寺


その北側には 志紀長吉神社
社宝として、真田幸村軍旗
伊達政宗との大阪夏の陣の時、天王寺・茶臼山に退くことになったが、この途中当神社に立ち寄り、神社の馬場にて休憩した。この時麻地六文銭紋章の旗及び刀剣を寄進した。刀剣は終戦後没収されたが、軍旗は保存している。神社参道大鳥居側には、真田幸村休息所の碑が建てられている


神武天皇・皇太神宮建拝

神社の北側に 西實寺

真田幸村休憩所跡
かつて戦国の武将真田幸村(1567~1615)大坂夏の陣のおり、南河内誉田方面において、東軍伊達政宗軍と一戦を交えた後、古市街道を経て大坂城へ帰城途中この地にて休憩し、志紀長吉神社へ戦勝を祈願すると共に、軍刀一振りと六文銭の軍旗を奉納した後、1615年6月(元和元年)大坂落城の前日天王寺茶臼山にて東軍松平忠直軍と奮戦の末、壮烈な戦死を遂げた、時に幸村四十八歳の終焉であった、乱世の世に生まれ天下智将としてその名を馳せ、戦国時代最後の武将であったといえる。
幸村を偲んで (碑文より)
戦国の 幸村偲ぶ 霧の朝



街道に戻り右に 志紀神社の鳥居

右に長吉小学校

小学校の北西角の信号交差点を横断、左に長吉総合病院が見える

300m程進むと、長居公園通りの大通りに出る

その手前右に 祠


長居公園大通りの交差点を振り返る

交差点の先の街道

途中右に 天照皇大神社


その先進むと左から186号線が合流する、信号交差点に突当り、正面に橋本歯科医院があり、右に折れる

その先で、更に信号交差点を越える

暫く186号線を進む、途中左に、市立東喜連保育所、右に浜寿司を見て進む。その先で信号交差点を横断

横断した先で、左からの道に合流する。右に、三光寺クリニック

その先左に、常磐会学園大の前を進み、右にライフスーパーを過ぎる

平野東4丁目の交差点を左に折れる

左に折れて186号線の南港通りに出て、平野公園東口交差点を越え、左に平野警察署を見て、左にキリン堂のある所で、右斜めの細い道に入る

左にキリン堂、右、赤いテントの屋根の手前の路地を右に折れる


右に折れた角と旧道の筋

右の細い道に入り右手に 田畑口地蔵 平野郷十三口の一つ

この地蔵堂は田畑口門の傍らにあって、藤井寺、道明寺から南河内、大和へ通じる木戸口であった。役の行者像が祀られているのは、この出入り口が大峯山への参詣道であることを示している

少し進んだところでT字路となり右に折れる。左はすぐ平野本町5の広い交差点

右に折れた道筋


左奥に 真宗専念寺

左に瀬田病院を見て街道は進むすぐ左に 融通念佛宗高巌山松井寺 新しい建物でお寺に見えない

すぐ先での交差点で 八尾街道 と交差する。街道は真っ直ぐ進む。

少し街道よりそれて、交差点を左に入るとアーケードの平野東商店街。商店街として努力しているのだろう結構人通りがあり賑わっています

すこし左に行ったところに 高野山真言宗全興寺(八尾街道沿いでありその資料を参照)


境内の 道標


街道の交差点に戻り八尾街道の東の道筋をみる

交差点の左はアーケードの商店街

八尾街道との交差点を渡り少し進んでいくと、25号線の広い道路の宮前東交差点に出る

交差点を左に曲がると、右斜めに25号線は分かれ、街道は左のビルの合間の細い道を進む

25号線のこの交差点、右から 立石嶺道 が合流してきて、ここから同じ道を重複して進みます
左のビルの合間の道

街道から交叉点を振り返る

宮前東交差点から100mほど西に進むと、旧家の建物が並ぶ交差点に出る。交差点を南北に進む 中高野街道
と合流する辻で右に折れる。中高野街道と少し重複します。

交差点の左に伸びる中高野街道の街筋

交差点右に折れた、古市街道、中高野街道、立石嶺道の街筋。左に歴史ある亀乃饅頭店

右に折れて50mほど進むと、街道は分岐するので、左に曲がる

左に30mほど進むと

右角に 道標 がある、ここを右に折れると、25号線の向こう正面に鳥居が見える
「右 こうや山 大峯山 ふじいでら すぐ大さか …寺」

道標の辻を振り返る、正面の道が歩いてきた旧道

この辻で 古市街道は終点(起点)また 立石越街道の起点 であるが、鳥居の向こうの杭全神社まで進む
25号線を渡り杭全神社へ。この鳥居の杭全神社で 中高野街道 の起点で 放出街道 が杭全神社を抜けて南下してきています。沢山の街道が交差したり起点としている交通の要衝です

鳥居越しに、古市街道起点の辻を見る

杭全神社
九世紀、平安時代の初め、平野郷の守護神として第一殿が奉祀されたのば、当社のはじまり
参道を進むと池に 宇賀神社


筆塚

参道左に 浄土宗満願寺

天誅組 中山忠伊終焉の地 元治元年(1864)二月十日寂 六十歳
光格天皇の第二皇子、中山忠頼の養子となり。中山忠光を主将とする天誅組を結成し、倒幕を決起するも幕府によって敗れ。当山で身を隠すがここで自刃する。その三年後に明治維新を迎える。
忠頼の父、忠能の次女慶子は明治天皇の実母である。現在その墓地跡が当山に残る。
辞世の句 今日かぎり 平野の露と消ゆる身も 心に懸かる 国の将来



平野環濠跡碑


杭全神社




古市街道 完歩


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