坂本龍馬・吉村虎太郎土佐脱藩の道を歩く 5月5日

 2016年5月5日
   高知市内自転車で見学

本日は快晴、当初予定していた通り、脱藩の道を中断して今日明日二日間かけて、龍馬関係を中心にした史跡を見学します。ホテルで自転車を借り前以て調べておいた史跡巡り。

五台山西側の史跡を見る
はりまや橋交差点より市電通りを東へ進み国分川に架かる葛島橋を渡ります右川向前方に見えるのが五台山橋を渡り東詰で右に折れて五台山へ
五台山
市内南東部に位置する桜やツツジの名所で頂上から高知市内が見渡すことが出来る、頂上近くには四国八十八箇所霊場31番札所の竹林寺・牧野植物園があります

橋を渡り右に折れて堤を進み五台山麓の西端にある 土佐神社

土佐神社拝殿

神社の前を更に右に国分川の河口に沿って南に進んだ新青柳橋の手前左に、吸江十景の案内板
吸江十景    「心あらん 人に見せばや 吸江の 岸の向ひの 夕べあけぼの」 夢想国師
群鳥静かに碧波に浮かぶ吸江湾みはるかす浦戸の入江、玉島を望むこの地に文保二年(1318)夢想国師(疎石)は鎌倉幕府の執権、北条高時の母覚海夫人の招請をさけて土佐に來国した。そして、五台山に吸江庵を開創して住んだが夢窓はこの地の景観を愛し、「見国領、独鈷水、白鷺洲、粋適庵、呑海亭、雨華厳、泊舶岸、玄夫島、潮音洞、磨甎堂」の吸江十景を選んだと伝わる。しかし、長い年月により、その場所の面影が全く変わってしまって場所の判定は困難となった。

更に南に進むと臨済宗 吸江寺(吸江庵跡夢窓疎石が文保2年(1318)に開いた名刹
夢窓疎石は度重なる鎌倉からの招きを断りきれず土佐を去ったが、当庵の名は明国にも聞こえ、細川氏や長宗我部氏の保護を受けて栄えた。五山文学の双璧といわれた高岡郡津野庄出身で夢窓の高弟義堂周信、絶海中津をはじめ多くの高僧が訪れた。(高知教委)

吸江寺千代丸地蔵堂

竹林寺に隣接する五台山公園には生家をみおろすように濱口雄幸像1929年内閣総理大臣となり「ライオン宰相」と呼ばれた

元の青柳橋の十景の案内板に戻り五台山公園へ上る途中に兼山神社への鳥居

野中兼山を祀る 兼山神社

神社から更に展望山へ登る竹林寺参道途中には 伊達兵部宗勝の墓 
仙台藩主伊達政宗の実子で歌舞伎の「先代萩」や山本周五郎著「樅の木は残った」に重要人物の一人として登場する伊達宗勝の墓。一の関3万石の城主で三代藩主綱宗の実子亀千代の後見人となり藩政を補佐していたが、側近の原田甲斐が刃傷事件をおこしたので、その責任を負って寛文11年(1671)に山内家に預けられ延宝7年(1679)11月4日58歳で病死。(高知市教委)

石畳の竹林寺への参道を登っていく

五台山頂上よりの高知市内

山内の竹林寺 五台山山頂近くには四国霊場第31番札所五台山金色院真言宗の竹林寺がある。境内宝物館の仏像は全て重要文化財である
竹林寺入り口

本堂脇の客殿は、藩主が参詣時の接待用の御殿入母屋造りの母屋、切妻造りの玄関、唐破風の車寄せ、また庭園(国名勝)は夢窓疎石の作といわれ室町時代の作風が伝わる。

本堂(国重文)

鎌倉時代初期の様式で再建された 五重塔

竹林寺の僧侶であった、純信とお馬は「よさこい節」で歌われて高知ではとくに有名。

土佐の代表的な民謡「よさこい節」の起源は定かでないが、「よさこい」の「よさ」は夜という意味で、「今夜おいで」という言葉といわれる。「よさこい節」には恋や国自慢、時々の出来事が組み込まれ沢山の歌詞がある。その中でも有名なのが安政2年5月(1855)、五台山竹林寺の僧侶純信と鋳掛屋の娘お馬のかけおち事件で、当時純信37歳お馬17歳であったと伝わる。とらえられた二人は城下3ヶ所で晒しものにされた、純信は国外追放お馬は安芸川以東追放の処分を受けた。翌年純信が再びお馬を連れて逃げようとして捕まり改めて純信は国外追放、お馬は名護屋坂以西追放の処分を受けた。その純信は愛媛県美川村(現久万高原町)に住み明治21年(1888)に没したとされる。お馬は追放先の須崎で大工寺崎米之助と結婚し長男誕生後東京に移住し1903年東京で亡くなった。一説にはかんざしを買ったのは純信の弟子の慶全であったもといわれている。

五台山より下り、五台山北側を東に進み青柳中学校周辺の史跡を見る

東の青柳中学校この辺りに「小倉馬場」があった

小倉家跡 この辺りにはかつてお馬の奉公先、城下追手筋の小倉六左衛門の先祖、初代小倉少助の隠居所跡少助は山内一豊に従い土佐に入国、野中兼山を補佐し要職に就いた

前の写真突当りを左に折れた路地右の民家の庭に注意して見ると、「お馬生家の井戸」の石碑が建っていますこの庭の北側がお馬の生家跡

庭のお馬生家の井戸

お馬は天保10年(1839)12月27日小倉家の墓守をしていた大野新平と久万の間に生まれました。新平の本業は鋳掛屋で母は竹林寺等の僧たちの衣服を洗濯することを仕事にしており、竹林寺への「お馬路」を通って母と五台山上へよくいっていた。

お馬生家跡から少し西の少し小高い山の林の中に純信とお馬が逢引していたところにお馬岩があるが、草も繁りそこまで行けなかったが眺望が素晴らしいようだ。大変苦労して逢瀬を楽しんでいたのだろう。そこより東に下ったところに墓地がある。
小倉家墓所 野中兼山と共に藩財政の改革に着手した小倉少助承応3年(1654)3月26日73歳没子の三省承応3年7月15日51歳没墓は儒葬形式で建てられています

中学校付近から西を望む

青柳中学校に戻り少し東南に進むと庄屋門脇家跡と小高い山上に金比羅神社があります。金比羅神社への路地後ろの山上が神社入り口に常夜灯

路地を入ると狭い急な石段があり上ると 金比羅神社

入り口の少し西側に庄屋門脇家跡

武市半平太旧蹟を散策
青柳中学校付近の散策を終わり南に進んでいくと、左に東部総合運動場野球場他沢山の施設がある広大なセンターがありますので、下田川に架かる地蔵橋の北詰交差点で左に折れる、その左角の一段低いところに尼御前様神社があります、右の下田川に沿って500m程進み次の橋、瑞山橋があるので右に折れて橋を渡り600mほど先左山裾に武市半平太(瑞山)の旧宅が見える。
東部総合運動場の建物の一部広大で近代的な建物が並ぶ

正面下田川に架かる地蔵橋の交差点を左に折れる

交差点を左に折れてすぐ続いてある介良橋を渡った左の木の袂に

尼御前様神社 下田土居城主下田駿河守と長宗我部元親が戦い、五台山の尼寺庵主であった駿河守の妹が兄の下に避難する途中、長宗我部軍に捕らえられ斬殺された。地元の人がこれを哀れみ を建てて祀ったといわれている。

次の信号で右に瑞山橋を渡り真っ直ぐ600mほど進むと

武市瑞山旧邸(国史跡)
現在住人がいて内部見学できないがかつては曲屋造りの草葺き屋根で、土佐郷士の典型的な屋敷であったが今は草葺きで無くなっている。

幕末勤王の志士、通称半平太、本名は小楯1863年吉田東洋暗殺をきっかけに土佐勤王党にたいし藩主山内容堂は弾圧を開始、瑞山も捕えられ2年後の慶応元年(1865)5月11日南会所で切腹を命じられた享年37歳。
瑞山旧宅入り口

玄関より旧宅の中を見る

旧宅入り口から右の小道を上がると石段がありそこを上りきると左に、

瑞山資料館 関連資料が展示している

資料館の背後に続いて 瑞山神社

資料館の横の

資料館の横の石段を上がると

武市半平太とちか夫人の墓と一族の墓

武市瑞山とちかの墓

武市瑞山邸跡を見て、この先、浦戸大橋北側の種崎の浜までの道のり仁井田竹中線(247号線)を南に下る、瑞山神社より1㎞ほど走る途中に右手に苅松神社がある。水分公民館の所で右の道に進み水分橋を渡り、水分口のT字路で右に(14号線)折れ左に高知高等技術学校を見て大平山トンネル南の交差点を直進。400mほど先で右に聖神社と大木がある。すぐ先左には三里中学校が右には標高155mの大平山がある。
聖神社と大木 道路右に神社、道路を防ぐように大木

更に三里の集落を進んでいくこと300mほど左に、浄土真宗無量寿山 興隆寺

興隆寺の傍の十字路 仁井田五本松跡仁井田神社の御旅所、昔、五本の松の大木が立っていた。

敷地内に台石がある祭りの際の御輿台

境内の東角の草の中に「石様」と呼ばれるが祀られている。長宗我部元親により池城主の池豊後守頼定父子が自刃に追い込まれた、息子の元親の妹婿の頼和の甲冑が埋められているという。

御旅所の十字路、狭い車道を北に道なりに200m程入ると仁井田神社と清道寺跡がある
この近くで前述の祠や清道寺跡を近くの民家に入り聞いたところ、若い女性の方が余り分からないので近くの古老に聞きに回っていただきわざわざ案内してもらって恐縮。親切な方に会った。
仁井田神社
長岡謙吉の霊位が祀られている、また龍馬が藩船の中で「船中八策」を草案、その「夕顔丸」の絵馬の模写が奉納されているという。

拝殿

仁井田神社のクスノキ樹齢750年以上・樹高320m以上樹勢は今なお旺盛

神社の東側の山がかつての 清道寺跡 前述の池頼定と頼和は前方の山中の清道寺で自害している。寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となったが祠や祀られた神社が微かに残るようだ

仁井田神社より西に進むと左にみさと幼稚園があるそこを過ぎた少しの所、右の田畑の向かいの山裾に白塀の立派な門構えの屋敷が見える、
川島家邸宅
坂本龍馬の実母幸が亡くなった後、父直足の後妻として入ったのが伊与で、伊与の前夫はこの川島貞次郎邸で貞次郎と死別後に坂本家に再婚してきた。
現在でも川島姓の子孫の方が住まわれている川島家には龍馬と姉の乙女がとよく遊びに来ていたという

川島邸を過ぎて西に進むと浦戸湾の新築港にでる、交差点の14号線の車道を左(南)に折れて暫く進むと左に三里郵便局がありその先の交差点は右に進む。そのすぐ先左に三里文化会館が建ち道を挟んだ西に入ると藩政期時代の藩の造船所であった御船倉跡がこの辺りであった。

更に進んでいくと右の白壁塀の屋敷が 中条家屋敷跡龍馬は脱藩後一度土佐に銃を売るために帰っている。その時、逗留したのが中条家で自宅に寄り家族と六年振りに再会したのですが、二日間泊まった後これが今生の別れになるとは誰も知る由がない。数日後、京都近江屋で中岡慎太郎と暗殺された

更に南に種崎の浜へ進む、浜の先端にある 貴船神社徳川幕府により土佐藩として山内一豊が入国その時、長宗我部家の旧臣の一領具足を相撲大会にかこつけてこの種崎の浜で73人を殺害した場所。新しい相撲場をシートで覆っている。

拝殿

種崎の浜

梶ヶ渕側の渡船場  種崎渡船場から地元の人たちの足となっている、無料の二輪車まで載せることが出来る船で対岸の梶ヶ渕渡船場まで渡る。船に乗らなければ遠回りするか浦戸大橋を渡るかだが、浦戸大橋はとても高度恐怖症の私では足がすくんで渡れないので1時間に1本ほどある船待をする。そのおかげで少し年配のお母さんとその娘さんか二人連れのお遍路さんとゆっくり待ち時間を利用して話が出来た。

渡船後、長宗我部元親の史跡から桂浜一帯の史跡を廻る

桂浜はりまや線の元親公史蹟前バス停から北へ100m程入った、天甫寺山の中腹に長宗我部元親の墓があり慶長4年(1599)京都伏見で病没元親の遺骸はこの地に埋葬された。その近くに兵士の塚と説明板がある。
兵士の塚  
兵士の塚は慶長五年(1600)12月浦戸一揆で戦死した長宗我部氏の家臣を祀ったものと伝えられてきた。元はこの地から100m程の天甫寺5086池上家の畑の中に、何時の頃からか祀られてきたもので大切に移転供養されてきた   (長宗我部顕彰会)

長宗我部元親(1539~1599)墓戦国大名、
長岡郡の岡豊城で生まれる。父国親の意志を継ぎ永禄11年(1568)本山氏を破った後、安芸氏や一条氏なども下し天正三年(1575)土佐を統一。その後10年かけて四国のほぼ全土を平定した。しかし天正13年(1585)には秀吉の軍門に下り土佐一国を安堵された。長男信親を豊後で失った後は四男・盛親に後を託し京都伏見で病死当地に葬られた。(市教育委)

元親は武略家として教養もあり文化人としての評価も高い、立法家として「長宗我部氏掟書」の制定や優れた検地記録である「長宗我部地検帳」の作成など数々の業績を残す。
慶長4年(1599)5月19日61歳で病没火葬後、遺骨は土佐に送られこの天甫寺山に葬られ墓は宝篋印塔。
四国統一を果たしてからは優秀な跡継ぎの信親に先立たれ、更に関ヶ原の戦いでは盛親が西軍についたため領地没収となり、15年後の大坂の陣で盛親は大坂入城し大坂落城後捕えられ斬首された。一代の英傑が築いた長宗我部家もはかなく潰えてしまった。でも幕末維新にかけての活躍したのは上級武士でなく戦国期の長曾我部氏の流れをくむ郷士や庄屋、百姓が中心になったことは興味深い。沢山の多くの優秀な志士たちが活躍したが、殆どの志士は明治維新を見ず、維新の魁として亡くなっていったのが悲しい。
個人的には私は元親が大好きで、戦国期の武将山内一豊や幕末の藩主容堂は好きになれない。

元親の墓への石段

車道を左に入ったすぐの大木の袂に 愛馬の碑

桂浜への海岸線の道

海岸線沿いにある 宇賀神社イネの精を神格化した宇迦魂神社(うかのみたまのかみ)を宇賀塚、糠塚ともよぶ

宇賀神社より海岸線を100mほど東に進むと、松林の中に一領具足供養の碑・六体地蔵を有する石丸神社がある。
一領具足とは戦国期土佐統一・四国制覇を成し遂げた長曾我部元親軍の主力武士で、平時は農業を営み合戦となった時、戦場に出る下級武士集団で、鎧1領・馬1疋をもっていたのでこのように称した。長宗我部軍の主力となった軍でその後、山内家が土佐藩主となった後は幕末まで長きにわたり下士として差別されてきた、その力が幕末維新にかけ原動力になった。
関ヶ原の戦いで西軍につき敗戦改易となった際、新藩主山内一豊に一郡でも分割残すよう要求して浦戸城明け渡しをこばんで籠城したのが一領具足たちで、籠城した273人の首は大坂の井伊直政に送られた浦戸一揆。その胴体を埋葬し後に石丸塚として祀られたところに小祠が建立されたのが石丸神社南浦地蔵尊六体地蔵は、現香南市の吉祥寺住職、堀河全明尼がその供養をするため浄財を募る、昭和10年4月7日盛大な開眼式が行われた。土井晩翠の「忠魂不滅」の詩碑が六体地蔵の東隣にある
石丸神社

土井晩翠「忠魂不滅」の詩碑

一領具足供養の碑と地蔵273人の魂が眠る

桂浜への道、途中の高台からの景色下中央の松林が石丸神社

坂本龍馬記念館
太平洋を望める桂浜公園の丘、浦戸城址に建つ龍馬資料記念館。さすが沢山の人が来館している。1991年完成

館の正面の小山が浦戸城天守跡浦戸城詰ノ段北東隅に位置し中世の山城として珍しい天守跡。天守跡は詰ノ段よりも7m高い。上部は東西11m、南北15m石垣跡が少し残り元親の築城した天守は三層であった。天守台の広場の城八幡と大山祇の小さな祠

浦戸城址碑  
鎌倉時代末期にこの地の豪族の城として築かれ戦国に入り本山氏の勢力下におかれた。永禄3年長宗我部国親が攻め奪い居城長岡郡岡豊城の支城とした。跡を継いだ元親が一時大高坂城を居城としたが盛親の滅亡まで約10数年間は本城とした。長宗我部氏の遺臣一領具足たちの浦戸一揆が鎮圧され、山内一豊が入城したがすぐ高知城の築城に取り掛かり廃城となった。

龍馬像よりの景勝地の 桂浜月の名所としても有名

正面は逆光で写りが悪い、昭和三年建立された 坂本龍馬像 勇壮と立つ坂本龍馬、龍馬関連と機会を見つけて室戸に立つ 中岡慎太郎像奈半利の生家跡に行きたいと思っています。

時間もあまりないので桂浜を後に北側の海辺を進み浦戸大橋を潜り 稲荷大明神の前を通る

桂浜を後に自転車は東の長浜に走る。長浜周辺を散策。

四国霊場第33番札所 高福山臨済宗 雪蹊寺 国重文級の仏像を多数所蔵
延暦年間(782~806)弘法大師が開基。戦国時代に元親の保護・菩提寺となり元親の法号に因み臨済宗雪蹊寺と改称された。

本堂  

境内裏手には長宗我部元親の長男長宗我部信親の墓、島津軍との豊後戸次川の戦い(1586)で戦死、22歳の若さであった元親が最も期待していた優秀な武将

雪蹊寺の東隣にある元親を祭神とした 秦神社 元親の木造坐像(県史蹟)を御神体とし元親画像(国重文)を所有する。現在2点とも県立歴史民俗資料館で保管されている。

長浜城址
秦神社と雪蹊寺の背後の山が長浜城址であったが、現在では樹木に覆われ風化が激しく確認をすることは出来ない。戦国時代本山氏の支城であった、長宗我部国親は父の兼序の死と岡豊落城の首謀者であった本山氏の討滅を計り、永禄3年(1560)5月26日風雨激しい夜、種崎の浜から海を渡り長浜城を夜襲して攻略。今も城山の北西の谷を夜討が谷と伝えられている。
長宗我部盛親公慰霊之碑
関ヶ原の戦いでは西軍、大坂冬・夏の陣とも豊臣方につき落城後、捕えられ斬首の上京都にて晒された。元親の四男

神社の西に幕末天誅組に参加した志士 島浪間義親の供養墓遠祖は長宗我部元親の弟島弥九郎親益。文久三年(1863)八月吉村虎太郎らと天誅組に参加。その後、元治元年(1864)11月中国諸藩への遊説中、備前美作土居の関門で賊徒に間違われ進退に窮し井原応助と刺し違えて自害した。時に慶応元年(1865)2月22日23歳、贈正五位、墓は岡山県英田郡作東町土居小学校の隣りにある。殉難の地には記念碑が建っており、地元では「土居の四つ塚様」と呼び供養されています。

太玄塔
雪蹊寺が廃仏毀釈の後、再興に尽力した十七世山本太玄宣點和尚の塔。
土居楠五郎墓碑
坂本龍馬の師で日根野道場の師範代として龍馬十四歳の時から指導し人間形成にも深い影響を与えた人。慶応3年9月23日龍馬最後の帰郷の時種崎の中城家の小島家で劇的な対面をしています。十市の土居家墓所を移転の時一族の墓石と共に当寺へ移した。

雪蹊寺より少し西側の交差点を南へ(海への方向)暫く進むと、右に鎮守の森公園がありその中央に建つ凛々しい姿。高知の方はどうせ建てるならと大きな銅像が好きなようだ。
長宗我部元親公銅像
元親没後四百年の平成11年(1999)5月、22歳の長浜城を陥落させた初陣の勇姿を再現した銅像。その後、約25年かけて四国全土を掌握した。銅像の高さ台座も含め約7m、槍の長さ5.7m。

元親の銅像から公園内を北へ進むと、若宮八幡宮の参道正面に出る

八幡宮正面から鎮守の森の元親銅像方向

若宮八幡宮の参道

源頼朝が文治元年(1185)武運長久を祈って勧請した京都六条若宮八幡宮の分社として勧請されたと伝わる。
時代は下って戦国期に入り「姫若子」と呼ばれていた元親がこの神社の北西に当たる戸ノ本の合戦で本山氏と戦うにあたり必勝を祈願した神社で以来元親の祈願社となった

若宮八幡宮の東側の道を北へ元の交差点に出る。右には雪蹊寺とその背後の山、長浜城が望める。北へ34号線を暫く高知市街地まで走ることします。

長浜周辺の史跡巡りを終え、右の浦戸湾に沿って瀬戸横浜地区を進むとやがて土佐電鉄桟橋線の走る道路を通り、鏡川に架かる潮江橋手前の梅ノ辻交差点で左に折れて筆山公園に向かう、途中右に朱塗りの橋、天神大橋を右に見て進みます。
天神大橋の由来
江戸時代、鏡川の架設された城下町付近で唯一の橋で長さ七十六間、幅二間という城下最大の橋だった。元和八年(1622)に藩主が真如寺などへ参詣するために本格的に架設したので当初は真如寺橋と称した。以後二十年ごとに改修するのが慣例となって十八世紀中ごろから天神橋と改称された。昭和三十三年三月に幅を二倍余りの十mに広げ天神大橋と改め、現在の橋は昭和六十一年六月、長さ百四十五m、幅十四・五mの橋として現在に至る。

橋から東側の鏡川前方、潮江橋

橋から西側前方、柳原橋

筆山公園(筆山町)周辺の史跡を巡る

筆山の北側麓、鏡川の南岸沿いにある 潮江天満宮 菅原道真は太宰府に左遷され、嫡子の高視も土佐に追われ筆山南麓から東麓にかけ高視という地名が今も残る、道真の死後地元の方たちの信仰あつい神社。

楼門

社殿

潮江天満宮の東隣には真如寺、道を挟んだ筆山山麓には山内家の歴代墓所があり、山内家墓所の東隣には要法寺がある。

曹洞宗 眞如寺
山内家の菩提寺として掛川城主時に師事していた在川和尚を招き慶長7年(1602)創建された。寺宝に菅原道真が醍醐天皇より下賜されたと伝わる十一面観音を所蔵。境内には一豊の父、盛豊が仕えた織田信安の墓があります

日蓮宗 要法寺
この寺は山内家と共に、近江・遠江を経て高知城下にあったが火災で元禄元年(1688)にこの地に再建された。寺には一豊の弟で二代藩主忠義の父「山内康豊」、一豊・康豊の妹で野中家に嫁ぎ孫に野中兼山がいる「慈仙院」。康豊の娘で忠義と兄弟の「恵沾院」(いずれも県文化財)の画像が残り境内には康豊の墓がある。境内には土佐の名水に選定された桜井戸が残る。 門前に山内公歴代菩提寺の標石

筆山
筆山公園、夜景と桜の名所で、鏡川の南に位置し標高117.8mの筆山に広がる公園の反面、至る所山中に墓があり霊山のようだ。園内には土佐藩主山内家歴代の霊廟が残され、また南側には野中兼山の廟所が残り山上からは市街地が一望できる。
筆山はその名の示す通り山の容姿と清流に映えた山影とで、あたかも筆の穂先の美観を呈し昭和26年高知市が都市計画の一環として公園化したもので、筆山頂上からの展望は扇の要の位置にあるため、高知城からのそれとは異なった素晴らしい情景が展開されている。筆山の麓を清らかにゆったり流れている鏡川は元禄時代に五代藩主豊房が名付けたもので、高知市を縦断して浦戸湾に注いでいる。                      (上り口説明文より)
確かに山上からの展望も素晴らしかったが、歩いて登るにあたり季節的なものがあるかもしれないが、象徴的な公園にしては今一つ整備が行き届いていないように感じた。特に山全体に墓が点在しているのだから余計整備が必要だと感じた素直な意見。

【山内の著名人の墓】

① 山内一豊初め山内家歴代墓所、
② 慈仙院、 
③ 織田信安、 戦国時代の武将、尾張の国で一豊の父の主君であったが信長に敗れ流転の末、土佐の一豊を頼り余
  生を過ごす
④ 武市佐市郎、郷土史家。
⑤ 今井貞吉、 幕末明治の殖産家・博物家。
⑦ 吉田東洋、 容堂に重用された公武合体政策を進め藩政改革を振興、尊皇攘夷派に城下で暗殺される。
⑧ 楠瀬喜多、 板垣退助の自由民権運動に参加、女性として初めて投票権を要求し「民権婆さん」と呼ばれた。
⑨ 永野修身、 海軍元帥、太平洋戦争の最高責任者の一人、戦後軍事裁判中に病死。
⑩ 吉田数馬、 教育家、海南学校初代校長、卒業生に永野修身・山下奉文らがいる。
⑪ 野中兼山、 土佐藩初期の藩政確立に尽力、用水路建設や新田開発に大きく成果を発揮、
  後、藩内抗争で一族配流
  野中椀、  野中兼山の四女、野中家改易により40年間幽閉される、後自由の身となり女医として活躍。
⑫ 岩井玉洲、 文人・書道家。
⑬ 武藤致和、 城下の豪商、屋号「美濃屋」。
⑭ 江田文四郎、藩政初期を代表する典型的な武士、親子とも切腹を命ぜられお家断絶。
⑮ 北川貞彦、 自由民権家、弁護士。
⑯ 鬼頭良之助、俠客、宮尾登美子の小説、鬼龍院花子の生涯の鬼政のモデル。
⑰ 寺石正路、 郷土史家。
⑱ 金子直吉、 神戸の鈴木商店の番頭、後の日商岩井の礎を築いた。
⑲ 兆民中江家之墓 中江兆民の両親及び弟の墓所。

土佐藩主 山内家墓所
初代藩主山内一豊は、慶長十年(1605)九月二十日に高知城の下屋敷で亡くなり、真如寺の南に位置する日輪山(筆山)に埋葬された。この墓所には十五代豊信(容堂)を除き全ての藩主が埋葬されている。墓所への門は閉じられ非公開となっているが余り整備されていないように思われた。最初、何処に墓所があるかわからず石段を上っていって山頂まで行ってしまった、下ってくる途中で地元の方に会ったので訪ねると、石段上る左にあるけど非公開ですとおっしゃっていた、またすこし荒れていて行政の方で一応整備計画はあるようですとおっしゃっていた。確かに石段を下りきった入り口左に別の石段道があって草が両脇に繁り一瞬藩主歴代の墓所かと思った次第、確かに門が閉まっていたので中は見えなかったが立札もなかった。
山内家はあまり土佐の人とのかかわりが薄いのだろう幕末で活躍した人たちは殆ど身分が低い。
15代豊信(容堂)の墓は、東海道を歩いた時に寄った、東京都品川区東大井4丁目の大井公園にあった。石積みの饅頭型の墓であったのを憶えている。

墓所入り口の石段、何も表示がないからわからなかった(非公開だから無理もない)

石段を上っていくと門が閉じられている

隙間越しに覗くも門外よりはましのようだ

墓の位置図

当初筆山を上っていった石段確かに両側、所々に墓が散財している

一族または山内家の関連墓所と思われるが、案内表示がないので分からない、古い墓で一族や奥方の墓のようだ。草が繁っていてアブや蚊、マムシがいそうなので入れない。
坂本家の墓のように整備してほしいと思った

筆山の山頂

市街地の展望が素晴らしい

元の石段を下り右に車道を進み天神大橋を左に見て右に折れて筆山の東側を南東に進む。その途中右に長野修身の墓、・・・和尚の墓、近森虎治先生の墓、坂本龍馬の父(坂本八平直足)の生まれた里の先祖代々の墓。200mほど急な石段を含め上っていくので碑だけにする

広い信号交差点を右に折れて兼山通りを南西に進むと丁度筆山の南側に出る通り。右に日蓮宗妙国寺その少し先の信号交差点を右に折れると筆山トンネルの東口が見える、その手前を右に折れ石段を上ると筆山中腹に野中兼山一族の墓があります。

日蓮宗 妙国寺

野中兼山(1615~1663)
土佐藩の江戸初期の奉行職、美濃大野郡の名主で祖父・良平は山内一豊の妹・合(後の慈仙院)を妻とし、父良明は一豊の武将として活躍したが後浪人となる。合が亡くなり大坂天満の商家の娘と再婚、1615年姫路で生まれる。4歳の時父が亡くなり13歳の時一豊の家臣野中直継の娘、市の入婿となる。野中直継は土佐藩の執政主席(奉行職)であった。寛永8年(1631)17歳で養父直継と共に家老に任じられた。これは優秀であったと共に一豊の妹、合の孫という血縁も重視されたと思われる。1636年直継が亡くなり野中家を継ぐ。兼山は新田開発に力を注ぎ、堰・農業用水路開削し広大な荒地を肥沃な水田に変えていった。また一領具足と呼ばれた長宗我部の遺臣たち郷士を登用し大いに成果を上げた。また土佐の港を整備し一大漁場を作りだした。
反面このような計画を推進するには独断的で専制的な指導力が必要で独裁者に映った。またその過酷さに農民は重労働に苦しんで土地を捨てる者も沢山出て藩重役にも沢山の敵が増え失脚せざるを得なかったが、藩の財政改善には十分すぎるほど貢献した。すべて円満とはなかなかいかないもので、また優秀であれば嫉み嫉妬で足を引っ張るのは世の常である。33年間に渡り藩の改革政策を終え兼山は寛文3年(1663)9月、現高知県香美郡土佐山田中野の自宅で隠居したが3か月後の12月15日突然亡くなる49歳。心臓発作とも自殺ともいわれた。
その後、藩の弾圧が過酷を極め兼山の遺族に及び、養母・よめ、妻・市、嫡男以下清七、欽六、希四郎、貞四郎、長女・寛以下、椀、従の一家は宿毛に40年間軟禁された。その上、男女とも結婚を許されず血が絶えて野中家が断絶することが分かって初めて自由の身になれたという。
土佐藩山内家も新しい土地にきて、その上、長宗我部氏の遺臣たちを郷士、山内家の新しく入った武士を上士に分け差別を厳しくした政策を幕末まで続いた、藩財政も厳しくこの様な独裁的に改革を進めるような人財が出てくることを必要とした時代背景で、保守派の上層部はその間は何もしないで、改革がほぼ達成した後、弾圧を加える何時の時代も同じようだ。でも私は、本等読むにあたり野中兼山は好きだ。その後の遺族の処置は山内家の陰湿さが目に浮かぶ。私の極端な憶測だが。
数日だが土佐を歩いたり高知市内を廻り感じたのは、長宗我部氏やその郷士の話はよく耳にするが山内家の話は高知城以外ではほとんど聞かない。維新の先駆けとなった多くの志士は、郷士や庄屋、百姓といった長宗我部氏の時代の土着していた人たちだろうからか、また、そのほとんどが藩の政治に反発を持ち、脱藩という他藩に比べてはるかに多い若い優秀な志士たちが明治維新を見ずに多くの若い命を散らしている。その結果、明治維新がなった時、新政府に参加する優秀な人たちが少なかったのも悲しい。山内容堂初め藩主の思想や指導力が欠如していたと思う。どこから容堂は幕末の四賢公に入るのか分からない。山内家寄りの方たちには叱られるだろう。
その理由の中にも、今日散策して感じたのは高知城を別にして前述したように、地元の人たちの山内家の墓所(もちろん非公開が要因だが)への愛着が余り感じられなく思った、その点、薩摩藩や長州藩の藩主たちの墓は整備され今も地元の人たちに親しまれているように思った。その家臣であった野中兼山一族の墓所や幕末維新に活躍した人々の墓や案内は結構こまめにしているのも感想の一つ。間違っていたら私の偏見ですからお許してください。

野中兼山一族の墓所
正面の山が筆山、山の中腹、真中辺りに墓らしきものが見えるのが地元の人に尋ねたらすぐわかりました

交差点からは墓所入口に建つ 道標 「野中兼山先生之墓是より百八十丁」 

野中椀ら遺族は宿毛の地へ、男系の絶えるまでの四十年近く幽閉され失意のうちに日々を送ります。しかし婉は兼山の子としての誇りを胸に学問に打ち込みつつ強い意志で耐え続けた。そして男系が絶えたところで赦免された後は土佐郡朝倉村に住み医者として世に尽くしました。墓所内の四基は婉の建立によるものですが、そのうち生母・池氏墓には「孤哀女婉泣植焉」と刻まれており、今も見るものの心をうつ。

中央が野中伝右衛門良継(兼山)墓、養父直継、直継の父益継、妻、野中清七、一明の実母池氏、娘の婉の墓、
県教育委員会の記念碑大町桂月撰文の碑もある。

野中家の墓所の下段左に、兼山に仕えた古槇次郎八と婉の乳母植野氏の墓がある。次郎八は兼山失脚後も隠居所で近侍していた。当時殉死は禁止されていたが兼山に慕うあまり自刃を遂げる遺書を残し、18歳の若き命を殉死で捧げた。けなげなことに涙を誘う

筆山周辺の史跡も見て回り、再び天神大橋に向けて自転車は走る。天神大橋を渡り二筋目右の聖泉幼稚園の門傍に
後藤象二郎先生誕生地の碑
容堂公の片腕として公武合体論を推進、勤王の志士を弾圧したが慶応三年長崎で龍馬と会談後、龍馬の意見も取り入れ脱藩の罪を許し海援隊長に任命している。龍馬と船中八策を完成させ大政奉還に導いた。
明治維新後は板垣退助と共に自由民権運動に取り組んでいる。

後藤象二郎誕生地の前から、北へ最初の信号十字路を右に折れた左にある、高野寺の地が板垣退助誕生の地で門の脇にが建てられている
高野山真言宗 高野寺 板垣退助誕生地
上士乾栄六の長子に生まれた吉田東洋に抜擢され後藤象二郎とは竹馬の友。最初は勤王の志士を弾圧したが、徐々に思想も変わり戊辰戦争では東山道先鋒総督府参謀として参加。その時、板垣と名前を改め維新後は高知藩大参事に就任、明治4年政府の参議となった。その後征韓論に敗れ後藤象二郎らと下野。自由民権運動に指導・推進した。
岐阜の遊説先で暴漢に襲われ「板垣死すとも自由は死せず」の名言はあまりにも有名。

5月5日(木曜日)本日はここで終わりホテルに戻る、夜はひろめ市場で夕食

 

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