2016年5月7日
日下駅近くの日下分岐~佐川駅前
ホテルの朝食バイキングをしっかり食べて7時40分出発。高知駅8時24分発に乗り日下駅9時着。4日に歩いた時の分岐点、観音堂下・正寺岡橋の辻まで歩き9時10分スタート。
前回の斗賀野から続きを歩かず少し気になる旧街道、松山街道をそのまま日下から歩いて佐川の市街地に入る。
分岐では松山街道は西に脱藩道は南に分岐するが、4日龍馬生家前から日下・谷地を抜け斗賀野まで歩いた前回の道が脱藩道としての通説。日下から南に進む道がどのパンフレットも、書籍もそうなっていて定説になっているが、ただ絶対的なものでない。
佐川市街地を通ったのであれば、ひょっとしてこの道もあり得るのではないかと判断して勝手に歩いてみた。街道歩きを趣味としている私としては、いい機会なので佐川までの松山街道を歩くことにしました。
佐川城下抜けの道は、土佐藩本藩とこの時期決して好ましい関係でもなかった筆頭家老深尾氏の城下町であったが、見つかれば素直には通してくれないだろうし、また土佐藩では政変もあり勤王志士の弾圧が強くなっていたので、佐川城下抜けは危険であった。龍馬たちの脱藩はこの道はあり得なかったと思うが、断定もできないので松山街道を歩きます。この旧道また佐川市街地も見るべき史跡が多い。
日下の正寺岡橋 9時10分 スタート
佐川駅前ホテル 16時20分 着
20㎞ 34.025歩 1468kl
1日目に比べたら半分ぐらいの距離、珍しく右足の親指に大きな水ぶくれが出来て痛い。60歳で街道歩きを初めて東海道を歩いた時は足に沢山豆や水ぶくれできたが最近では珍しい。
佐川に早く着いたので佐川駅から土讃線に乗り一駅の襟野々駅まで移動しました。
疑問点の一つである、1日目に鈴神社・岩石上に常夜灯がある三叉路から左を進み斗賀野へ抜けたが、三叉路を右に折れて県道を進み佐川市街地にはいるルート道を歩いてみました。
今日の宿泊は佐川駅前にあるビジネスホテル「かりえ」
1日目は正寺岡橋を渡り左に折れた、右高台に観音堂
橋を渡り左に折れすぐその先の分岐で左に折れる道が、前回歩いた道で今回は真っ直ぐ進みます
前回はここを左に曲がりました
ここから前回の松山街道続きスタート
西へ進むとすぐ左に日下小学校
小学校の先の街道
日高村の金明孟宗竹
街道より右の山裾一帯に見える竹藪、大正の末期ごろ竹藪で発見された。
昭和16年調査したところ孟宗竹の金明とわかり、後「金明孟宗竹」と命名された。その後放置されたままであったが、昭和25年頃小学校の校長により再発見、昭和37年に県の天然記念物に指定された。その後、タケノコを採らないようにして保護している。竹は稈の黄金色と芽溝部の緑色の編が、一節毎に交互に見られるのが珍しく、特にタケノコの皮を落とした直後の若竹の頃が一番美しいと言われています。(説明板より)
綺麗な竹です
かつての松山街道は国道に出ず、北側の山麓辺りを次の岡花駅辺りまでまで通っていたようですが、住宅開発で消失しているとのことです。
左に大きくカーブした先で三叉路に出ます、真っ直ぐ南に進めば国道33号線に出ますが三叉路を右に折れて、その先で左にカーブして33号線に出て33号線を右に折れます
国道にでた正面奥にJR日下駅
国道を西に進みます
暫く国道を進んだ先左にJAサングリーンコスモスの店。西側の信号交差点を左に折れます。国道を岡花駅まで進むと直線で早いが車が多い
左に折れるとすぐ先でJR線の父原踏切を渡ります
踏切の先100mほどの十字路を右に折れて田畑の広がる静かな道を真っ直ぐ進みます。田畑の北側(右)に見える国道33号線のことを思うとのんびりと歩け1300mほど進む。
真っすぐ西に田畑の広がる間の道を進んできました
やがて左に日下川に架かる旧宇井橋(赤兀橋あかはげばし)があります。ここで橋を渡り南側に【寄り道】をしてみます。正面の土岐山は、土岐城跡です
橋を渡った左一帯は宇井集落で、橋の袂右生垣内に えんこう像 村にはこのえんこう像の伝説が残っているようです
なかなか可愛いです、えんこう(河童)像
像の南側を少し山に入ると高台の広場に
えんこう地蔵
宇井橋に戻り、日下川に沿って堤を西に進む道で岡花駅南の小鹿児橋に出ます。
小鹿児橋を左に渡り右の日下川に沿って堤防の遊歩道を進むのですが(寄り道)のため
宇井橋の北の交差点で右(北)に折れて寄り道をします。JR線を渡り国道33号線に出て左(西)に折れた先直ぐ右、石段を上る高台に
右山裾に入ると石垣の豪壮な建物が見える 松岡家住宅 歴史を感じさせる建物、酒蔵は(国登録有形文化財)最盛期には須崎市にも酒蔵を構え、年間180キロリットルを生産する酒造業でしたが現在は行っていない。日高酒蔵ホールとして改修され地元の多目的ホールとして広く利用されている。
松岡家住宅の西側には大木と神社
付近には沢山のビニールハウスと花が作られています
国道に戻り国道沿いを西に進みます
左側にJR岡花駅その北側
岡花駅南側には前述の小鹿児橋があります、宇井橋から日下川堤防を西進してきた道は、ここ小鹿児橋北袂で合流します。そして左に折れ日下川に架かる小鹿児橋を渡り、南袂で右に折れ日下川の堤防を南西に暫く進むこととなります。左側一帯は湿地帯であった、暫く進んでいくと右に鹿児橋、更に龍石橋があります。
季節にはコスモスも咲きウオーキングにはよい水辺の遊歩道です。左には日下川調整池があり昔から子供たちが水辺の生き物と親しみ自然と共存してきた風景がここに見えます。
その奥には日高村総合運動公園が、更に左り遠望の山は、土岐山(標高232m)で土岐城跡。そして山を越えた向こう側には先日歩いた脱藩道で猿田洞あたりです。
【寄り道】のため岡花で小鹿児橋を渡らず、岡花駅北側を西進して国道の右側の道を迂回して進みました。
岡花駅北側、国道はJR線を越え南側に出て日下川の北側に沿って進みますが、迂回道はJR線の北側の山裾を進みます。
暫く進んでいくと右の薄暗い森の中に お堂
岡花駅前から1㎞ほど進んだ先の集落入り口に、郷士の幕末志士北添佶磨生誕の地の看板が大きく擁壁に掛かっています。地元の小学生が作成したようです。
大きな案内板を右に折れて少し坂を上り、道なりに左にカーブして進んだ右樹木の中にある 祠
その近く右の高台に大きな庄屋宅らしい屋敷が北添邸跡、現在も子孫の方が住んでおられるようです。近くの農作業されている方に聞きました。
北添佶磨の生家跡・誕生地邸跡
天保6年(1835)~元治元年6月5日(1864年7月8日)幕末の尊皇攘夷志士。土佐藩高岡郡岩目地村の庄屋北添与五郎の五男。16歳で庄屋職を継ぎ、19歳のとき高北九ヶ村の大庄屋となる。元治元年の池田屋事件で死亡、この時新撰組によって暗殺されたのが定説であったが自害したのが判明している。享年30歳の優秀な人財であった。坂本龍馬も嘆き悲しんだという。明治24年(1891)従四位を贈られている。
下の道に戻り少し西に歩くと、左(南)に道なりに曲がるとすぐ土讃線の踏切を渡ります
集落を振り返ると集落の中心に北添邸が見えます
土讃線の踏切
南に進み小さな切通しの峠を越える
峠の少し先で国道に突き当たる、岩目地地区の集落
突き当たったところ右にいっても街道に合流するのだが、龍石橋に戻りたいので国道を左に折れると、すぐ右にレストランがあったのでコーヒータイムとする。
国道沿いの竜石地区を暫く東に戻るように進むと左に竜石神社の森が山裾に見えて来る
龍石神社の拝殿と鳥居
竜石神社の少し手前(西側)の道を南に折れて進むと、日下川に架かる龍石橋に出ますので渡ります。川沿いの堤、水辺の遊歩道を進んで来ればここで合流します。
龍石橋を渡った先、左斜め前方の運動公園
龍石橋から東の眺望、右に見える山が土岐山(標高232m)土岐城跡。右には湿地帯が広がる。堤防が水辺の遊歩道
龍石橋から西の眺望、水辺の遊歩道が続く日下川を右に暫く気持ち良い水辺の遊歩道を西に歩く
やがて沢樋ノ口橋に出るので右に折れ橋を渡ります
橋の北袂の十字路を左に折れます、左に折れて道なりに進むと右にカーブして国道に出ます。
国道に出た数十m先角に、北添佶麿記念碑ここが誕生地とする説もあります
すぐ先の右角にGSがある信号交差点を右に折れます。この辺りは岩目地東地区で少し先で西に緩やかにカーブして岩目地西地区集落を進みます
新道に改修されていますがかつては佐川の深尾氏が高知城下に往来する時に利用しています。
松山街道の古い道です。途中道は分岐していますが左にカーブして西に進みます。
右に北添製材所の看板があります、縁族でしょうか。
右(北)の山裾を土讃線が走っています。新道(県道)を進むと岩目地西集落内に、旧街道の名残の道が残っています。
ラクダの背中のような旧道を歩きます。岩目地消防支所の先の宗教団体の標柱がありますが、県道を左に分かれそこを右に入ります。谷川沿いに民家の塀の北側の道を進みます。
右に岩目地西の新しい住宅に建て替えられていますが田畑の中に広がっています。
左に大きく山型にカーブして県道に出ますが、その手前に右手台地に沢山の 観音堂・祠・石塔・地蔵板碑等があります時代を感じさせます。
観音堂の所の辻で、県道に接したところで右に折れて再び北西に向きを変えます。向かって右(ミラー)から左に
右に自然石の石垣を見ながら進み、その先で左に折れ再び山型にUターンします
左に折れた先、斜面に残る細い旧道がかろうじて残っています。
狭い道沿いに大きな檜の木が道に覆ってその下を潜っていきます。 檜の根元に 玉守神社の祠
檜はよく見ると根元で二本に分岐していますが根は一つのようです。
振り返ったところで右は斜面で左も斜面の間の狭い道ですが、コンクリートが敷かれていますのでかつてれっきとしたみちだったのでしょう。土手でだんだん道を狭くしているようです
県道に出て右(西)に進むと右手の加茂中学校を過ぎ加茂小学校の前で左に折れます、その折れた右に六所神社の森が石垣が積まれた中にあります。
六所神社
右は文政三年、左は文化十四年の 灯籠二基
六所神社の東側のコンクリート道を南に進む
六所橋 橋の下で西の北側から本村川、西の南側から長竹川が合流して、橋の東側日下川となります。藩政期時代は川幅も広く深く渡し舟であった。橋を渡り右(西)に折れて堤を進むこの付近を六所淵と言われていたそうです。
橋を渡ると佐川町に入り、土佐藩の筆頭家老深尾氏一万石の領地
長竹川を右に堤を少し進む
少し先を行くと、左に折れて田畑の中を通る真っ直ぐな道を南に進みます
田畑の中の道を進んでいきますが、かつての旧道はもう少し右の畑の中を右から左に円を描いたように進んでいたようです。
国道に突き当たり右に折れ、直ぐ先で緩やかに左カーブ描きながら国道は南に進む
旧松山街道は国道の右(西)側の山裾辺りを通っていたようですが、今は完全に消失していて皆無です。
やがて右にドライブイン錦があります。
ドライブインから100mほど進むと右斜めに入る
右に入ると長竹川に架かるコンクリートの橋を渡ります。橋を渡った処から振り返ったところです。
ここが、九兵衛坂こと切塞峠の入り口当たる。手前の来る
左の国道と並行して南に進みます。
南下しながら毛田集落内を抜けますが人は見かけません。
街道の雰囲気が漂う気持ち良い道が続きます
暫く歩いたところで左からの国道に合流します、国道を右に折れて少し進みます。かつては国道を斜め右に横断していたと思われますが、国道改修工事で旧道は完全に消失しています。
歩道のある国道を峠に向って進みます。歩道にしていただいてあれば安心して歩けるので嬉しいです。高知県の車の多い車道は歩道がよく完備されていると思う。切塞峠が前方に見えていますが、山と山の暗部になっていて現在はそれほど厳しくないようです。
100m余り進むと国道を右に分け旧道が左に下っています。
旧道を下り切ると樹木と左はフェンスで囲われ、前方には池か川の堰かと思われる土手が現れて旧道が阻まれています。この先は行き止まりのようです。
少し戻って振り返ってみた状況です。池や川の擁壁ではないようですが道は無くなっているようです。旧道は真っ直ぐ右の国道に沿って谷沿いを峠に向って上っていたことと想像できます。現在の霧生関トンネルの入り口辺りに上っていたようです。
仕方ないので戻り国道を進むしかないと思ったが、近くの畑で農作業していたおじさんに聞くこととしました。親切に教えていただき結果国道を歩かなくて、南側山裾に国道の前に利用していた道があるのでその道を歩くといいよと教えていただいた。ぼつぼつマムシも出てきたので気を付けてくださいと、お礼を言って別れた。
少し国道を戻る形で下っていくと南側に分かれる道がありました。南の山裾を上っているようで見た目には快適な道のようです。左山裾を緩やかに登っている道です。消失した松山街道は今歩く道と国道の間をまっ直ぐ暗部に向かってあったようです。
国道との間は少し低くなった田畑が広がっています。見た目には大した登りではありませんが、この道は大正時代の旧道と聞きました。右斜め前にさきほど下った旧道が見えます。
その先にも擁壁の堤が見えます、冬場であったら草も繁ってなくて旧道跡が残っているかもしれませんが、この時期は無理です。いずれにしても峠までは廃道化していて歩けません
山裾の新道を蛇行しながら上っていきます。車と出会うわけでもなし人も会いません。国道が出来る前この道が峠越えの主要道だったので、おそらくもう少し道も広かったのだろうが、利用もしないので草等でだんだん狭くなってきている
右にカーブするところで小屋か作業場があります。
右を見ると佐川ゴルフセンターの練習場のフェンスが見えてきました。このフェンスの辺りに旧道が下から上ってきていたようで完全に廃道となっている。
道は右のゴルフ練習場の横の道を進んでいきます
ゴルフ練習場のフェンスの横を通り、蛇行を繰り返しながら上っていきます、樹林の中の道を進みます。
やがて峠に近づいたところで、左からミラーのある辻で道が合流します
右側が開けゴルフ練習場・国道が見えます。国道は霧生関トンネルに入ります。
峠の地下は霧生関トンネルです 切塞峠(現 霧生関峠)の頂上に着く。峠は切通しになっています。
峠頂上より200mほど下ると右から国道が合流してきます。左に石鎚神社佐川教会六部堂の看板が立っています。
左奥に 六部堂が祀られています切塞峠で行き倒れになった六部の人を祀ったお堂。今は何ともない峠だがかつては行き倒れの人が出る程厳しかったのだろう。
少し国道を歩いた先から振り返ったところ、正面先右から下って来たところで、正面暗部が霧生峠
合流点から300m弱で左にローソンがあります。右に佐野屋の看板が立っています。
右に折れて50mほど先の三叉路を左(西)に進みます。
西への道は蛇行しながら左の国道に沿って暫く続きます。右によねめ接骨院があり前の道を進みます。
その先の真っ直ぐの旧道、左にくいしんぼ佐川店の前で右に屈曲します。
その先数十mではんじう橋を渡り、数十mで十字路になります。
【寄り道】 右(北)に折れた先、突当りに勤王の志士田中光顕邸跡を整備した田中公園があります、佐川出身の志士・田中光顕(旧名・浜田辰弥)の生家屋敷跡地と、田中とともに脱藩した大橋慎三(旧名・橋本鉄猪)と山中安敬(旧名・池大六)の屋敷跡地を公園にしたもの。公園の入り口に残る石柱は、姉の婥子とその長女・圭子が建てたもの。
田中・大橋は土佐勤王党に加盟していたため、領主の深尾氏による勤王党弾圧が佐川ではじまった文久三年(1863)九月二人は謹慎を命じられる。この二人を監視していた役人が山中で結果的に二人に感化され、元治元年(1864)八月十四日の夜半三名の他、井原応輔・片岡利和(旧名・那須盛馬)五名で脱藩、長州に赴く。
田中は中岡慎太郎暗殺後の陸援隊を統括、紀州高野山で倒幕挙兵などの功績で知られている。維新後生き延び新政府の役職を歴任し長く宮内大臣を務める。大臣辞任後は維新史料編纂局顧問として志士たちの顕彰事業に尽力した。
田中光顕は大正三年72歳で退官し佐川に帰り青山会を設立。昭和14年97歳の長寿をも全うした数少ない生存者であった。大橋・山中は早くに亡くなったため新政府内での華やかな経歴は残されていない。
文久二年に龍馬・沢村が脱藩しており、当時として佐川の城下町も勤王志士に対する弾圧も始まりかけており、龍馬らはこの城下町を通ることは回避したであろうと想像できる。
田中公園 田中光顕・山中安敬・大橋慎三の邸宅跡それに井原応輔・片岡利和の五名、佐川の志士は赤土峠に元治元年(1864)8月14日集合して脱藩した
公園入口左側の顕彰碑 伯爵田中光顕公宅跡の刻字
公園の背後の山は松尾山(標高202m)南北朝時代から戦国期にかけての 山城松尾城跡
街道に戻り西に進むと右手に 森下雨村(明治23年~昭和40年)の碑探偵小説の父といわれた。雑誌「新青年」初代編集長として同誌を通じて江戸川乱歩、横溝正史ほか多数の探偵小説家を世に送り出した。
しばらく歩くと国道33号線に交差するので地下道を潜って横断します。国道は北西に進み佐川トンネル・赤土トンネルを抜けて松山へ抜けていきます。
国道を横断すると左に春日川が接近して少し進みます。国道交差から300mほど進むと左に春日川に架かる文久橋があります。
文久橋の手前右の山裾の鳥居を潜り石段を上ると 春日神社かなり石段が高いようで下から見るだけにします。
文久橋を左に渡るとJR佐川駅の西側の踏切に出ます。この橋が架かるのは幕末でそれ以前の松山街道は橋から150mほど先に、橋が架かる以前に利用されていたとされる川に飛び石が敷かれていました。今は一列だけですが要するに春日川は浅瀬であったので飛び石にて対岸に街道が通じていたのでしょう。
馬越えの二列石橋跡 川水が少なければ今も利用できますが、今日は水が少し多く敷石が隠れているのもあり止めました。
松山街道は文久橋が架かる以前はここを渡っていました
文久橋 文久橋から東側の春日川、趣のある川辺
文久橋を渡った少し先左に草に覆われた灯籠があります、以前は地元の役に立っていた灯籠少し寂しい気がする。
JR線で道は阻まれているので右に折れると右手に、わだ眼科・皮膚科があります左にはJRの踏切。
更に少し線路に沿って50mほど進むと突当りとなり、そこから右を見ると飛び石を渡って来た松山街道に出る。左は線路で街道は越えれないので、先ほどの踏切まで戻り踏切を渡りすぐ右に折れて突当りの踏切の南側に出ます。春日川の南側、飛び石を渡ってきた辺りには、大泉寺・法城寺があったが廃寺となっています。
線路の南側に出た突当りから右(北)を見ると、対岸の飛び石に通じている、線路まで少し旧道跡の名残であろうか。
旧道跡から南に進みます
100mほど南に進むと東西に走る十字路と交差した左右の街並み。趣のある佐川の城下町、十字路西の町並み
十字路を真っ直ぐ進むとすぐ、右手の建物は竹村家でその大きさは想像以上、バックの山が佐川城跡
松山街道はT字路に突き当たります。突き当り右にまちの観光案内書があったのでパンフレット頂く。
このT字路を右に折れて進む道が松山街道でここで別れます。左へ行くと佐川駅となります。
ここで佐川街中を少し散策してみたいと思いますので。松山街道もここで終わり西から北に進んでいきます。佐川市街地はこの先自由散策となります。
竹村家住宅(国重文)
江戸時代より造り酒屋として栄えた格式の高い住宅。店舗部は安永9年(1780)、座敷部は天保9年(1838)の建築。徳川幕府の巡検使の宿としても使われていた。江戸時代後期には佐川領主深尾家の財政を支えるほどの豪商となりました。宝暦13年(1770)には苗字帯刀を、明和7年(1770)には「黒金屋」の屋号を許されました。現在もその豪勢さは十分彷彿しています。
司牡丹酒蔵一号蔵 大正七年に黒金屋と暖簾分けした酒造家三家が合併して佐川醸造を設立。日本有数の長さで85m、出荷前のお酒が眠っている。400余年の伝統ある酒造、司牡丹酒造株式会社が造り続けている。
新旧の酒蔵が並ぶ
名教館 安永元年(1772)、佐川領主深尾茂澄が家塾として創設。のちに郷校となり多くの維新の志士や偉人を輩出した、(県指定文化財)
浜口家住宅 江戸中期より酒造業を営み平成25年改築され、さわやか観光協会として観光客を迎えている施設となった。
佐川文庫庫舎 須崎警察者佐川分署として建築され、青山文庫、佐川文庫、民具館の時代を経て、平成21年ここに移築された。明治期の洋風木造建築
牧野富太郎ふるさと館 日本植物学の父といわれる牧野富太郎の生家を復元。
佐川の街、西の端右に春日川にそって松山街道(県道24号線)北へ、先には庭園で有名な乗台寺、大乗院から前述の田中光顕他4名が脱藩志士集合地とした赤土峠(後日行くことが出来ました)に至り、伊予の国へ。
これ以上行く時間がないのでここで引き返しました
牧野富太郎ふるさと館のちかくを南に入ると金峰神社がある
金峰神社 牧野博士が幼少の頃この神社の境内でバイカオウレンなどの植物を採取し興味を広げていった。重要な場所であった
名教館の十字路を南に進んでいくと高台に佐川町立 青山文庫 青山文庫の青山は田中光顕の雅号から付けられた。夢半ばで倒れた、坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太などの志士たちの書状や画など重要な資料が展示されている貴重な文庫。時間がなかったので残念ながら入館できなかった
更に奥に進むと右に花園保育園があり左に牧野公園右には青源寺がある。また行けなかったがその先ヘアピンを上っていくと、田中光顕・牧野富太郎の墓がある。
臨済宗妙心寺派龍淵山 青源寺 慶長八年(1603)土佐藩主山内一豊に招かれ入国した丈林和尚を開山とし、佐川領主の深尾家の菩提寺として創建された。明治初期廃仏毀釈に対し、身命を賭してお寺を護りとおした十三世愚仲和尚の功績は多大であった。
境内の庭園は土佐三大名園の一つで県指定文化財。一つは同じ佐川の乗台寺で佐川に二つの名園がある。残り一つは、高知市五台山の竹林寺の庭園です。
佐川領主深尾家墓所 (非公開)墓所入り口
街筋に下り竹村家の前の酒蔵の道を東に行くと変形四差路にでます。
四差路に札場跡を再現 札場跡で道は合流して更に東に進みます。
東に真っ直ぐ進みますと右からのT字路に出ますので、この右への道が国道494号線で須崎へ抜けます。明日この道を起点として進みます。
すぐ先左に折れるとJR佐川駅で、今夜宿泊のビジネスホテル「かりえ」があります。左に折れず真っ直ぐ進んだすぐ先右に少し入ると。高知新聞佐川支局前にでます
元ここにあった名教館跡碑が建っています
本日はここで終わるか斗賀野まで歩くかどちらか迷ったのですが、斗賀野までは少し遠く時間的に無理のようなので。丁度JR佐川駅からの列車時間がよく一駅乗って、襟野々駅まで行って一日目の鈴神社・川の傍に立つ岩の上の常夜灯が立つ分岐まで行くことに急遽しました。この道も一部本やマップ等資料の脱藩ルートとなっているので佐川までの道を戻って歩いてみます。
でも脱藩ルートとしての道としては考えにくいと思います。とにかく二人は佐川城下へは近づかなかったと思います。
JRで移動して分岐から歩く
兎田地区の鈴神社・常夜灯のある三叉路の辻から佐川駅前まで
日下駅東の正岡寺橋の観音堂の辻から佐川市街地まで歩き見学、その後時間がまだ早かったので佐川駅からJR土讃線で1駅の襟野々駅まで移動して、1日目に歩いた脱藩道で兎田地区の鈴神社・岩上の常夜灯前の三叉路の分岐点を脱藩定説の左の斗賀野へ行かず、右に進み佐川駅前まで歩きました。
一部マップ等に龍馬が歩いた脱藩道として案内されていますが、実際歩いてみましたがこの道を進むと、前述しているように佐川の深尾氏の城下に入りいやでも城下を通ることとなります。この時期、土佐藩の政変により藩論が変わり勤王志士弾圧が強くなっていましたのでこの道は避けたと思います。行政の観光上佐川には前述のように見るべき史跡が多く、是非市街地に誘導やむ得なかったと推察します。
歩くならむしろ日下から松山街道を佐川に入るほうがいいような気がします。遠回りでもあるし急いでいる龍馬らにすればチョット考えにくい。
結論的には、実際すべて歩いてみて、日下~谷地~兎田~斗賀野へ進む道が脱藩道として正解と思いました。
JRで移動して分岐から歩く
兎田地区の鈴神社・常夜灯のある三叉路の辻から佐川駅前まで
日下駅東の正岡寺橋の観音堂の辻から、佐川市街地まで歩き、その後時間がまだ早かったので、佐川駅からJR土讃線で1駅の襟野々駅まで移動して、1日目に歩いた脱藩道で兎田地区の鈴神社・岩上の常夜灯前の三叉路の分岐点を左の斗賀野へ行かず、右に進み佐川駅前まで歩きました。
一部マップ等に龍馬が歩いた脱藩道として案内されていますが、実際歩いてみましたが、この道を進むと前述しているように、佐川の深尾氏の城下に入り、いやでも街中を通ることとなります。この時期、土佐藩の政変により藩論が変わり勤王志士弾圧が強くなっていましたので、この道は避けたと思います。行政の観光上佐川には前述のように見るべき史跡が多く、是非市街地に誘導やむ得なかったと推察します。
むしろ日下から松山街道を佐川に入るほうがいいような気がします。遠回りでもあるし、急いでいる龍馬らにすればチョット考えにくい。
結論的には、実際すべて歩いてみて、日下~谷地~兎田~斗賀野へ進む道が脱藩道として正解と思いました。
JR襟野々駅で下車、
住宅地を東に進み県道53号線に出て右に折れて暫く進むと。
1日目の鈴神社、橋の袂の大岩の上に鎮座する常夜灯の立つ三叉路に出ました。
ここが起点
田畑が広がる改修された県道を北西に進む。
暫く進んでいくと信号交差点があり、左に行くと襟野々駅へ行き着く。右角はGS
特に変化もなく坦々と進む、多分旧道でなく改修された道
やがて川に沿う道となり左にJR線が迫ってくる
佐川市街地が近くなりJR線の踏切を渡り西側に出る。
踏切を渡った正面に、四国のみちの標示
そばの草藪に お地蔵さん
左にカーブして右にJR線、間もなく佐川駅へ
佐川市街地の東端
佐川駅前を南に出た交差点、この交差点が起点となり終点。
交差点を右に折れると100mほどで正面にJR土讃線佐川駅。右、米日旅館の向うとなりが宿泊したビジネスホテル「かえりえ」
5月7日終了
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