5月8日
佐川駅前~葉山かわうそ公園
ホテル「かりえ」7時30分出発、天気予報ではくもりでだんだんと下り坂。
今日はいたるところに龍馬脱藩の旧道や旧旧道が残っていたので、思っていた以上に時間がかかると共に道にも迷ってロス時間があった。その上マムシが出てきているので注意するようにときいて少し緊張パニック。
本日の最大の難所である朽木峠越えがある、峠に入って人と会ったのは反対側から登ってきた若い男女のみで、朽木峠536mから登る蟠蛇森(ばんだかもり)標高769mの山へ登るとのことで峠で会ったのが最初の人で最後の人でもあった。朽木峠は佐川側からは比較的なだらかに登るが、葉山側への下りは傾斜がきつく倒木もあり岩がゴロゴロしていて歩きにくいので、二人の人も道が悪いから気をつけてといって頂いた。
下る途中に喉が渇いたので谷川の綺麗な水が流れているので飲もうと思って、横着してリュックを背中から降ろさず前かがみになったとき、リュックの重たさで顔から谷川に顔面を水底の岩に思うきり打ったようで(はっきり憶えていない)、顔を上げた時、両鼻から沢山の血が流れ落ち一瞬訳が分からなくなった、全く人もいない峠の道で助けも呼べないし落ち着いて、暫く横になり冷たいせせらぎの水で顔を冷やして血を止めることに集中、何とか流れる血を止めれたようだが、両鼻にティシュを詰めとにかく下ることにした。水がクッションとなって直接岩に当たるのが和らいだだけでも不幸中の幸いと思う。後でわかったのだが、左は打ったことによる鼻血で右は内部を切っていたようだがその日は歩くことが出来た。服に血がたくさん付着したので、今晩の宿泊先「葉山の郷」で受け付けの方が洗濯機で洗う準備をしていただいた。その折りはありがとうございました。
また顔から落ちた時、眼鏡が飛んでしまって探したが壊れてなくよかった。一時はどうなることかと奥深い山中での出来事。
途中地元の人達とも何度も話す機会があり、最近では「脱藩の道」全てを通して歩く人はほとんどいないとのことで、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」の放映中の頃は沢山の人達が車やウオーキングに来られたので旧道も整備されていたが、今はその時のように整備がされていないが、イベントがあるとき部分的に整備されているとのことでした。でも踏み跡が残り素晴らしい道だと思う、ただ5月のこの時期になると雑草が繁り道を塞いでいるところが多々あるうえ、一人歩きはマムシも注意しなければいけないので、やはり雪のない晩秋か3月4月ごろの雑草も繁らない時期が一番適しているようです。
佐川のホテル 7時30分 スタート
農村体験実習館葉山の郷(町営) 17時20分 着
38.000歩 23㎞
スタート地点の佐川駅前の、ホテル「かりえ」 7時30分、曇り空。これからの旧道は特に街道名はありません。
ホテルの前を少し南に信号のT字路国道494号線に出るので、右に折れるとすぐの次の信号を左に曲がる、曲がった先から振り返る。
国道494号線を南に進む、磐井谷川の菜園場橋を渡る。
橋を渡ると国道を右に分け、左に住宅の裏を進むような川沿いの細い旧道を進む。旧道は荒れているが残骸として残っています
民家の裏側の路、左は磐井谷川
かつての旧道はこの辺りから左斜めに進み磐井谷川を渡って対岸の川沿いを進んでいたようです。旧道は消失しています。
仕方がないので右にカーブして国道に出ます。国道に出てきたところを見ます
国道の左側は佐川中学校のグランドでフェンスがされています。
フェンスの途中から左の狭い下り道に入ります
100mほど右の国道に沿って左に緩やかにカーブしながら進みます。その先で磐井谷川を渡り右に折れます。前述の消失した旧道はここに出てくることになります。川に沿って進むと左に妙像寺があります。
日蓮宗 妙像寺 鬼子母神を祀り初代深尾重良の正室が元和八年(1622)に創建。一時お寺は衰退したが1673年頃、二代重昌の側室於呂久が再興した。農家の娘であったがよく城下の治政復興に貢献されたと言われている。裏山に於呂久の塔があります。立派なお寺
この辺りは「紫園」といわれる集落で暫く歩いて振返ったところ、進行方向左の山裾に深尾土居の馬場跡が残ります。当初は佐川城を拠点としたが幕府の一石一城制により廃城、麓のこの地に館を構えていた、総面積は42平方㎞の広大さであった。
深尾氏は慶長6年(1601)初代重良が佐川城付一万石に封ぜられてから、明治二年土居廃止に至るまで十一代268年間、高北佐川領十八ヶ村を支配した。山麓には豪壮な邸宅・会所を構えていました。このように東西山に挟まれた長方形の城下を、龍馬たち二人が通るには危険で佐川城下を抜けるのは到底無理なのがわかる。
土居馬場跡
振り返ると山間を佐川の街から進んできた道で紫園の数軒の集落が見えます。あの一角に深尾氏の重役国枝氏の邸宅がありました。この辺り一帯も土居跡でしょう。こうしてみると酒蔵など残る街中から土居は少し外れていたようです。
少し進むとこんもりとした山が見えます、その手前左に入る道があるので【寄り道】をします。
左に折れて500m程進みます。
佐川ナウマンカルスト カルスト地形で入口の駐車場には野外ステージも建てられています
佐川町は明治初期、ドイツの地質学者ナウマンが調査したことから日本地質学の発祥の地といわれ、化石や恐竜の骨などが発見された。駐車場から一面に草原にあたかも羊の群れが遊牧されている景観です。また左側にはナウマン像の親子の石像があたかも生きているような情景。ナウマン来町100年を記念して昭和61年に公園として整備されました。
大木の根元に 祠が祀られていますそのそばには大きな字でマムシ注意の表示、マムシは石灰岩地に多くいるそうです。遊歩道が頂上まで通っていますが一人では少し勇気がいります
寄り道終わり元の小山のT字路に戻ります
100m程進んだところで、旧道は真っ直ぐ田畑の畦道を通って前方の山の暗部の辺りに登っていたようですが。果たして少し先は残っているのか分からないが、草がかなり繁っているようで右への道を進み高台の紫園の集落にはいる。
右に折れた少し高台の紫園集落でこの辺り一帯も土居跡。集落に入り突当りを右折れ国道に出ます。
佐川城址(西側山上)と土居屋敷跡
佐川城は天正元年(1573)長宗我部元親の臣久武内蔵助が築城、慶長五年(1600)山内一豊土佐入国により、翌六年筆頭家老深尾重良一万石の居城となる。元和元年(1615)徳川幕府の一国一城制により取り壊しとなったため、元和二年(1616)この地に東西七十一間(129m)、南北百七十八間(324m)総面積四十二平方キロメートルの土居をつくり、後にさらに南方に拡張、明治二年(1869)まで十二代二百七十年間の佐川藩庁であった。
国道右に「土佐国老佐川邑主深尾氏累世之第址」碑と御倉跡碑の正面背後に佐川ナウマンカルストが見えます
国道を100m程南に進むと右山裾に 深尾神社 元々古城山にあったのをここに移した、祭神は初代重良夫妻と代々の霊位
神社の南側を上ったところに立つ文化財 宝篋印塔 高さ2mほど嘉永七年九月の刻字ある
数十m先で左集落に下る道を進み集落に再び入ります。前述の突当りに戻る形となる
土居跡一帯が広がる、前方の左田畑の向こうの白い民家の辺りがナウマンカルストへの入り口。
旧道はそのまま右の山裾の線を進んできていたのだろう、手前は土居内だからその外側に沿っていた。
坂を下ったところで左に曲がる道があるのでそこを入ります、民家の前の庭に入ったようです。その民家の住まわれているおばさんに深尾氏の井戸の場所を聞きながら、いろいろ立ち話をしながら教えていただきました。
井戸は家の前に広がる茶畑の中にありました、敷地内の茶畑の中にあったから聞かなければ分からなかった。今でも水が枯れず茶畑の水やりに重宝しているそうです。深尾氏が土居中で使っていた一つだそうで、前が広がり景色が素晴らしいが、石灰質でやはりマムシも多いとのことで先日も家に2匹入ってきて主人に獲てもらったといってました。ある意味では嫌だが共存していかなければならないようですね。
旧道は土居外の山際、東側の旧道跡の畦道や草道どれだけ歩けるか行ってみます。向って小屋の右側で振り返ったところ。
この辺りはお茶の栽培が農家の主要生産になっているようです、右の国道より低い地を南に進んでいきます。
旧道の跡らしく道沿いに石垣が残り雰囲気があります。よく草も刈られ気持ちがいい。
やがて山間も狭まってきて藪が繁って廃道化していますので、右に折れて国道に出ますが。
廃道化した辺りの左に藩政期時代の 刑場跡長い藩政期の間に沢山の人が処刑されたことでしょう
国道に出て左に折れて登ったところから振り返ると、この辺りに旧道が前述の延長にまっ直ぐ上ってきたようで、今は雑木や藪で旧道の痕跡はなくなっています。左前方に微かに紫園の集落が見えています
国道の坂を上ると、案内表示
猿丸峠 国道と並行した旧道
猿丸峠の頂上で左電柱の袂に、猿丸太夫伝説の墓の案内標識があります左の道を進み【寄り道】をします。
少し坂を上り乍ら猿丸山に上っていきます、左に大きな水源タンクがあります。
タンクの傍に 東光寺跡碑この辺りにかつて東光寺があったようですが今はその痕跡もありません。明治四年廃仏毀釈の犠牲になった寺
猿丸太夫伝説の墓 従二位大納言弓削浄人(猿丸太夫)は、位人臣を極めた兄弓削道鏡の失脚により、土佐の地に流されましたここ猿丸山に居住したと伝わっています。流罪の年、宝亀元年(770)の奈良朝時代からの数えて千二百年余り経た今に伝わる夢の跡。
猿丸山の頂上付近にある 猿丸太夫の墓さすが年輪を感じさせますがしっかり整備されています。
傍には老木が立つ
元に戻り国道を下っていきます
下る途中若宮神社の 道標が左に立っています
猿丸峠を蛇行しながら下っていくと鳥の巣集落に入ります。国道沿い左角擁壁の傍が空き地になっています
片岡利和邸跡(佐川町指定文化財)
高知藩士永野氏の次男として生まれ後、鳥の巣村那須橘蔵の子となり深尾藩主に仕えた。剣道に長じ、元治元年(1864)田中光顕らと共に脱藩国事に奔走する。明治維新後、片岡利和と改め明治天皇の侍従をつとめるなどして男爵を贈られ墓地は東京青山にある。なお那須家の墓地はこの空き地の上にあります。
国道を緩やかに下るとすぐ左に折れる道があります。
かつての旧道跡に出ようとしましたが、金網の柵でしっかり通行止めにしていますので、止む得ずもう少し国道を下ります。片岡邸跡を過ぎたあたりから旧道は国道の左側の一段高いところを進んでいたようです
ここで左に上がりました突当りになるので右に折れます、左から旧道の跡らしい道が合流してきます。
突当りの辻を右に折れます
右に折れる辻に左からの旧道が出てきています、その方向を見ました民家の前を通り前述の片岡邸跡の上からの来た道にでますが折角なので入ってみます。
辻の角に檜とその根元に 板碑と祠 が祀られています大師様と書かれた表示が立っています。
逆に民家の前の軒下を進ませていただいたその先は地道となり、竹や樹木の間の旧道らしき道が残っていました。先で藪で道は消えています。
その先が片岡邸跡に出ます。旧道跡の残骸です、素晴らしい見つけて得をしたようです
元の辻に出て再び南へ進んでいきます
暫く進み右にカーブしながら緩やかな坂を上ります
そこは小さな峠道で低い切通です
峠の先は、下美都岐地区です。
前方にこんもりとした小山が見えてきます。南北朝時代の斗賀野氏の居城、丸山城跡
丸山城跡の小山の手前左から道が合流してきます。右への道を進みますが、左からの旧道が先日歩いた兎田地区の分岐点、鈴神社と岩の上に灯籠が乗っていた分岐点からの左の道。(右は佐川駅への道)川原田を通り襟野々駅と斗賀野駅の中間あたりの、JR土讃線の踏切を渡り西へ進んで来るとこの左道で合流します。龍馬たちの脱藩道としての定説の道。やっと繋ぐことが出来ました。
低い山ですからすぐ上れます、上は広場になっています。
広場には立派な 丸山城跡の碑が建っています。
合流した後、丸山城跡の南側にでます、幸田川の橋を渡り西に向きを変えすぐ国道494号線の信号交差点を横断して西に進むみます。
少し先で左(南)への田畑の中の車道に折れてその先で水路を渡ります。さらにその先で安岡川に架かる橋を渡りますが、橋の袂に自然石の半円形の碑があります。
丸山城跡の南側の幸田川を渡り県道308号線に出て西に進む
幸田川を渡ったところから、向かって右の丸山城跡を振り返る。
県道308号線に出て西へ、すぐ先で佐川町から南下してきた国道494号線の信号交差点を横断します。交差点を左に行くとJR斗賀野駅の西側近くの斗賀野小学校の前にでます。
交差点を横断するとすぐ先で左(南)に折れる田畑の中を進む道があるので、左に折れて真っ直ぐ進みます
左に折れた真っ直ぐな道、正面は二の部集落
緩やかに右にカーブしながら集落に入ります
安岡川に架かる橋を渡ると、その袂に自然石の半円形の碑があります。嘉永六年(1853)狩場地区から切り出しここに運んだ、一枚石橋の遺跡碑に加工されているため橋には見えません
橋を続けて渡ります。
橋を続けて渡ります。
橋から正面右に小山が見えます。斗賀野城跡(二の部城)近くにありながら城址への道が判らなく残念ながら遠望のみとしました。山に上っていく坂の道が見え中腹に八幡宮が祀られています。 戦国期に米森玄番元高の居城で長宗我部元親に攻め落とされた。
中腹に祀られている 八幡宮
斗賀野城跡の遠景
川沿いの道を南に少し進みます
ある脱藩道の本に二人はこの付近の深尾氏家臣宅で食事あるいは仮眠の休憩を取ったとい説があります、確かに高知の生家をでての距離、この後、朽木峠越えを考えればそうかもしれないとも思う。斗賀野城跡からの二の部集落内の旧道は分かりませんでしたのでとにかく芝の坊、中組、狩場と、南への道を進んでいきます。
正面大きな家の手前を左に折れました。
左に折れて進むと、すぐ先で十字路の辻に出ました。
十字路の辻から右の筋を見ると斗賀野城跡の石垣、背後に先ほどから右に見て来た小山が見えます。丁度南側に回り込んだ形です。ここからなら寄り道してもいいが、この先の時間が見当つかないので諦める。
十字路の右角には 斗賀野城址(二の部城跡)の碑米森玄番戦死の跡
米森玄番
寛正三年(1463)土佐の守護・大平弾正光圀に、斗賀野・尾川の代官に任じられた田原彦右衛門年為は米森氏を名乗り翌年斗賀野二の部に築城、津野氏の侵略の防壁とした。長宗我部元親が土佐統一のとき高北隣郷の郡雄が無条件降伏したなかでただ一人反抗奮戦衆寡敵せず元亀元年(1570)落城した。落城後、米森攻めの功臣安並但馬に与えられたが、数年後、米森氏四代の遺徳を慕う農民達の一揆により城は一夜にして炎上、但馬は農民の竹槍襖の中で命を落としたと伝えられる。
左(南)の道を進みました
集落内の道少し右斜めに進みます。道の方向としてはあっているのですが、左の民家で作業していたおじさんに確認したところ、わざわざ手を休め暫く歩きながら道を説明していただいた感謝!!
三叉路があるので左への道
集落も南の端となり田畑が広がる。
道沿いに お地蔵さんが祀られています
おじさんにここまで案内して頂きこの川沿いの道を教えて頂き有難うございました助かりました。農村の気持ち良い道を進む。前方に見えるこんもりした山は芝の坊地区の白倉神社。
白倉神社は旧道の左側にあり神社の東側は国道が通る、少し左にいって【寄り道】をする。斗賀野地区の総氏神として古来より斗賀野の一の宮と崇拝され祭神は冷泉天皇を祀る。白倉神社花取踊り(無形民俗文化財)が有名だそうです
白倉神社
神社より戻り西側の芝の坊集落の道を南に進みます
右に沿うのは角口川
やがて角口川は右に離れて集落内を進みます。東西の車道を横断しその先200m程で左からの国道に出ます。国道を右に折れすぐ先でまた左に折れます。左側に和風の大きな家がまだ新しいようです。
国道を横断してすぐ先でJR土讃線の踏切を越えます。線路を北(左)に行けば斗賀野駅です。
踏切を越えたところから線路の反対側右手に前述の大きな家が見えますが、ここからですとカメラに収め切れない。
踏切の先の道で右手に線路を見ながら新国道が出来るまでの車道です。いよいよ峠への山道に入っていきます。左前方に見える集落は狩場集落です。
しばらく歩いた狩場集落の南で左にカーブするところ右にミラーがります、そこの林の中の道を右に入ります。
右の入口道、先で同じ道に合流しますがこの道の方が旧道ようです。
少し入ると道が怪しくなってきました、道は狭くて草が繁っていますが歩けないことはないし、そのうち道は合流します。
前述の分岐した左の道に合流します
板で脱藩道の道標が立てかけています
その先を進んでいくと新国道にでて左は斗賀野トンネルに入ります。正面はわんぱく公園があり親子連れで子供たちが楽しんでいました。
新国道JR斗賀野トンネル(1067m・海抜464m)が南の須崎方面へ延びています。脱藩道は西へ離れ朽木峠に入らねばなりません。チョット道が分からなくなり公園で遊んでいる人に聞きましたが、脱藩道については若い人たちには余り興味がないようですが、少し戻ったところに案内板があると教えていただき、100mほど戻ると確かに食堂の建物の前に案内板があった。気が付かなかったが通り越していたのです。
100m程戻ったところ、道沿いに数軒の民家があり弥助と書かれた食堂があります、正面から上ってきて右ばかり見ていたので、左の案内を見落とした。
昼に早いが食べて行こうと思ったが、11時から営業で20分ほどあり時間的余裕が分からないので食べるの諦めた。
店を過ぎた左に細い道がありました登り口に小さな案内板が立っています。注意していれば見落とすことはないが、手製の案内板も少し老朽しているので、もう少し大きく目立つ看板にしていただければありがたいが。
登り口右の脱藩の道案内板
「龍馬脱藩ゆかりの道」パンフレットでは、ここを入らず突当りまで行って国道を左に折れて斗賀野トンネルを潜るようになっています。正直、私は最悪の場合以外トンネルは潜りたくない。
斗賀野峠への道でよく整備され踏み慣らされた快適な道です
綺麗に整備されています。鋭角な蛇行を繰り返しながら、新国道斗賀野トンネルの上部の旧車道やさらに古い脱藩道と交差しながら峠への道を登っていきます
車道に出る脱藩道の道標があります。蛇行している車道を古い旧道は横切って最短距離に登っていたのです。
脱藩道の道標板が起点々に立てられているので助かる。NHKテレビの大河ドラマ「龍馬伝」の時に整備されたのか。道標もなく整備されていなければとても歩けなくすぐ道に迷うだろう
かなり登って来た眺望
国道斗賀野トンネルの上部の東側付近をヘアピンカーブを繰り返しますが、脱藩時当時の旧道はヘアピンと交錯しながら登っていた
左にヘアピンしている右角にも脱藩道の樹林に入る道案内表示板があるので右に入ります
右に入ったヘアピンを最短に進む旧道
さすがに歩く人も少ないのか踏み跡もなくかなり草が繁って道が見えない。でもここまで来たらもう無我の境地で迷わないことだけ祈り歩きます
この辺り川の内地区で新道沿いの道です右に公民館があります、ヘアピンのカーブもほゞ終わり斗賀野トンネルの上部を超えました
峠で行き倒れになったのか、二体のお地蔵さん
右手に石段がありその上に大正天皇の皇太子時代の「皇太子殿下行啓記念碑」皇太子もこの峠を越えたようです。
舗装された車道もなかったので大変であっただろう。
またこの地点が 斗賀野峠
峠を越えて下りに入ります
その先分岐で左は勝森地区へ標高544mの勝森山方向。右の上りが脱藩道で葉山街道とも呼ばれている。
川の内地区の集落で数軒の民家があります。この下を国道494号線が走っている山深い里でこの辺りの標高248m
道は結構広い、車も殆ど走らないしゆっくり5月の新緑の景色を満喫しながら快適に歩ける。これは歩いている人でないと味わえない爽快感。
街道左下の民家
集落を抜けて緩やかな樹林の中の街道を下る
左にカーブするところ右に お地蔵さん4体
更に左にカーブし終わった右に お地蔵さん3体
その先で道が分岐します、左に南下する道は暫く進んで、左からの斗賀野トンネルを抜けて来た国道494号線に合流してさらに南へ、やがて土讃線に平行して須崎へ進む道。脱藩道(葉山街道)は右の道を緩やかに上ります
正面分岐の角に立つ葉山街道入口案内図「維新への道」、左の道は、龍馬脱藩ルート説としてもあるが、須崎に出て再び新荘川に沿って北西に進路を変え葉山の西谷に出るルートで。右に進む道はこの先西に進み、朽木峠を越えて三間川に沿って南西に下り葉山の西谷に出るコースで最も一般的なルート説である。
確かに前者は後者のような厳しい峠越えは無いがかなり遠回りとなる。時間を争う龍馬たちにとってはやはり朽木峠越えが普通の考えになる。ただ深夜に歩いたとなるといかになれているとはいえ危険な道でもありります
街道から左下に見える須崎への道が蛇行している、街道名はないが機会があれば須崎まで歩いてみたい
少し先、右手に広場があるのは平成10年に整備された佐川龍馬公園 右斜め後方を振り向く
広場の奥には 佐川龍馬神社休憩にいいかなと思ったが、草が繁って座ると草に隠れるし、公園入口に座りお茶を飲み休憩するが何か落ち着かないので早々に出発。
公園を過ぎたすぐ右擁壁の上に お地蔵さん2体 ミニ霊場だろう71、72番
改修された街道を西へ進む、左は深い谷川へ切り立っている
どんどん西へ川の内地区を蛇行しながら進みます
71番お地蔵さんこの葉山街道(脱藩道)沿いにはミニ霊場のお地蔵さんが点在するということは、道は改修され広くなっているが旧道跡の道を証明している。擁壁にお地蔵さんが移されています
広い道もここまででこの先道は少し狭くなる
先を進んでいくと左に降りる分岐があるが、右の真っ直ぐの道を進みます
先ほどの左に下った延長の道が谷川までの間の平地に畑が綺麗につくられて傍を道が通っている。谷川に沿う往時の街道残骸跡なのか分からないが。
気にはなるが気に留めつつ進もう
右の岩下にお地蔵さん
更に擁壁内に収められているお地蔵さん 57番
ここでも左に降りる道がありますが、よくわからないので真っ直ぐ右の道を進みます
左下を見ると前述の道か谷川沿いに続いてきている。新道が出来るときの旧道跡かただの下への分枝かよくわからない
やがて脱藩道右への案内表示、この先もこのような案内表示板が短間隔にあるので助かる
いよいよ本格的に朽木峠登山口分岐、いろいろ想像しながら暫く進んでいくと右擁壁の所に、脱藩道の案内表示板があるので、右の坂道を上っていきます。
少し上った先から振り返った眺望、向かって左の道を登ってきました
奥深い山間に民家が見えます、車がなければ普段不便だろうな
ミニ霊場46番 お地蔵さんが草むらに隠れるように
脱藩の道案内表示のある正面の細い地道に入ります。脱藩道案内板に沿って上っていくが、だんだん狭い樹林の中に入る、人ひとりと合わなく少し心細いが、でもいつものことだが次第に肝が据わってきて必死に歩くようになります。
ミニ霊場 47番のお地蔵さん
左の景色は開け山間が深く右は雑木林、この空間を一人占めした様な贅沢だがいろいろと交錯する。
踏み跡が残り微かに道が見える。でも案内板もあるので横道に入らなければまず大丈夫迷うことはない。しかし山深いところに一人でよく歩くと自分でも感心している。
一瞬頭が真っ白になった瞬間、目の前の道が完全に足が隠れ脛辺り位の高さの草で見えなくなっている。果たしてこの先が行けるのだろうか不安になった。どこかで道を間違ったのかとも思う瞬間。過去の経験から状況は道だということが分かる。マムシよでないように祈るばかり。熊は四国の剣山に数頭いるかも、絶滅したかもと話を聞いたので安心
何とか長い距離でなかったのでまた地表がでて来たので一安心、草の道を振り返る。
龍馬ブームが去ってこの道を歩く人も少なくなった、イベントのある時は別として普段はほとんど皆無と地元の人が言われていたのがよくわかった。
樹林帯に入ると道跡がはっきりしてほっとする。
先に新道が見えてきましたほっとした瞬間
ほっとするのも一瞬、脱藩道は新道と交差して横断します。新道の正面にには案内板が立てられています
新道に出てきたところを振り返る
新道を横断して左斜めに樹林に入ります
入口に立つ 「←至クチキ峠(葉山)至佐川R494→」龍馬脱藩の道 比較的新しい案内板で、峠の頂上までもう少し
朽木峠経由2.1㎞ 蟠蛇ヶ森への案内板も立つ
植林し整備された森を進む。山深いところで人にも合わないが、植林されて道に日が照らされているので助かる
1862年3月24日の夜半坂本龍馬と沢村惣之丞はこの道を通り、梼原・伊予長浜経由で長州に脱藩した。龍馬より百年後に生を受けた私は、三歳から六歳までこの山の炭焼小屋で育てられた。この道とこの山は私の人間形成の原点である。 石碑(佐竹楽山 記)
新しい 道標 「坂本龍馬脱藩の道」 「龍馬学園百年の森」
下手な説明のいらない街道を進む
少し荒れた部分の街道
左は深い谷、右は山でその斜面に続く街道
石垣跡が残る建物でもあったのだろうか
枝切がされているので比較的明るく日が通る。
間もなく朽木峠に到着のようだ
朽木峠につきました。(標高536m)佐川町と葉山町との境で、藩政期には番所があっという。
朽木峠山頂現在版関所
木組みの展望台も広場にあります。
関所到着 23,380歩 13.96㎞ 12時45分
距離にしたら佐川からあまりないのだが、殆ど山歩きなので思った以上に時間がかかりました。
境には木材の現在版関所が設けられています。でも気持ちが益々高揚してきます。パンフレットに掲載されるスポットです関所を境に佐川町から葉山町に入る
関所手前に南(左)に登る蟠蛇森(769mのばんだかもり)の山道が山頂まで1.5㎞峠からの標高差233m。ここで反対側から登って来た若い男女にあった、二人は蟠蛇森へ登るとのこと人に会って懐かしい気持ち。二人は山頂に上り南の反対側に下るとのことです。話によると、今登ってきた道よりこれからの下りの方が道は荒れていて急坂で厳しいとのことで、結構石がゴロゴロ剝き出し、倒木も道を塞いでいるので気を付けてくださいとのこと。最近は脱藩道より山への登山者が殆どらしい。ごく短い時間のひと時であったがほっとしお互い健闘を祈り別れる。
蟠蛇森 登山への綺麗な道、でも1.5㎞を標高差233mは結構きつい
だれが作られたのか志士の里の唱視界が狭いが木材造りの展望台からの眺望、これから先の津野町(旧葉山村)が遥か眼下に霞ながら見えている。四国の深山幽谷の峠からの一人占めした眺望、毎日の新聞ニュースにのる悲しい出来事が嘘のような空間。
このような瞬間があるから、苦しくても昔の人が辿った街道歩きが止められない(登山者も同じだと思う)。
また、地元の方の話では四国の東、剣山山系ではクマも数頭いると昔聞いたことがあるが、西側の石鎚山山系でのクマの話は聞いたことがないとお聞きしましたのでその点は安心して歩けます。
関所前でお二人に撮っていただいた貴重な関所前の記念写真(今回歩いた時の唯一の写真)
この朽木街道は龍馬脱藩当時そのまま残されております。そのため危険な所もあり特に夏季にはハチやマムシ等に注意して通行してください。標高534m、西谷のバス停まで5㎞
峠には、葉山街道・志士の気持ちについての解説つきのプレート道標や現在の人が綴った維新への思いの俳句等々が刻まれておりそれぞれの思いを込めてこの関所を通過したのだと思う。
会う人のすくない街道歩き、ましてタイミングが少しでもズレていれば、最もこの場所での思い出の写真は撮れていなかったと思うと嬉しい。気を引き締めて峠を下りることとしよう、少し休憩したので下り出発
関所を潜ると旧葉山村(津野町)に入ります。植林のされた綺麗な山道を下り始めます。
数十m少し倒木があり道を塞いでいましたが、問題はありませんでした。過去に街道歩きした峠道や山道で経験している仕方ないことです
どんどん急斜面を快適に下っていきます
少し道は草で怪しいが歩くには問題がない。踏み跡がきっちりついています。
お二人が言っていたように石がゴロゴロでていて少し歩きずらい
此処でハプニングが起こった、板橋を渡ったところで少し喉が渇いたので休憩しようと腰を掛け、谷溝にハンカチを水に浸し口を潤おそうと思って前かがみになったところ、顔から思い切り谷川に倒れた、一瞬何が起こったのか分からず、顔を上げると血がたらたら水に落ちるそれもお結構多く頭が真っ白になったが、この様な場所では人を呼ぶこともできないので落ち着いて、よく見ると両鼻からの鼻血のようで、とにかく止血しようとハンカチを濡らし冷たい水で冷やしながら、ひたすらテッシュで応急手当てをした。
暫く上を向き30分ぐらいだったか血が止まったが鼻の中が気持ちが悪い。ここで余りゆっくりして折れないし下りることとする。テッシュを両鼻に詰めるて後でわかったのだが左鼻は鼻血で右鼻は入り口近くで切れていた。岩に直接でなく水に顔から倒れたのでクッションになって不幸中の幸いであったかも眼鏡は飛んだが壊れなかった。ハンカチと上着の前が真赤になってしまった。
この怪我についての反省は以後の街道歩きに役立つ、全く自分自身の不注意である、というのは重たいリュックを背負ったまま前かがみになったので重みで支えきれなかった。リュックを外すのが手間で横着したのが要因と改めて今後の勉強になりました。以後はこのようなときは手間でも必ずリュックを降ろすようにしています。
舟を置くぐらいだから結構昔は水水があったようです
まだまだ山深いところでかなり草が繁り滑らないように特に注意しながら下る。切れた方の右鼻の詰めているテッシュはすぐ真っ赤になって何度も取り換えながら下ところで
道がわからないほどになっています相変わらず部分的箇所は草や藪で道が隠れている
倒木もあり道を塞ぐ。
私もあやかって 柴折様に道中の無事を祈り小枝をとって供えました
更に下って行きます
下っていったところで一旦舗装道に出ました
林道の舗装道にでたところから下って来た脱藩道をを見る。下から見ると少し入っていくのが勇気がいりそう。峠であった二人はこの道を歩いたのだろうか、それとも林道を上っていったのだろう。
でもこれだけ沢山の案内標示のして頂いている、今まで歩いた街道では少ない
林道にでて右に折れたところから振り返る。
改めて自分でも凄いなと思うが、結果的には脱藩道を歩き、まだまだ凄い道があります
林道に出たがすぐ左10mほどに再び茂みの道に下る脱藩道の案内板があった
案内板
ここを下っていきますが薄暗い樹林の中、もう鼻の痛いのも忘れてしまいそうで、またマムシのことはすっかり頭から飛んでいる
やがて丸太で作られた沢を橋で渡ります
橋の傍に 朽木紅葉谷の案内板があります
足元の悪い紅葉谷の渓流沿いに一気に下りましたが前方に堰のような堤が嫌な予感がした
思った通り土砂崩れ等の防護堤の擁壁でした。旧道はこの辺りで消失してしまったのだろう
擁壁の右側に草で覆われて判りにくいですが、旧道跡が続いているようにも見えますがが、チョットこれ以上下ってしまうと不安ですので此処でやめることとします。前方下に微かに集落が見えています。
旧道の消失した正面の先は急斜面でこれ以上前にも進めません
おそらく林道が出来るまでの脱藩道(葉山街道)はこのまま真っ直ぐ山間の三間川の谷川沿に下っていたのでしょうかここまでわかれば大満足。
右にあるであろう舗装された林道へ出るにも藪に覆われていて道がないので、仕方がないので前述の舗装林道まで急坂を上り戻ることとする。今までも街道歩きをしているとよくあることです。ただ私が見つけられないのだろうけど、舗装の下る所にあれだけ新しい立派な案内板が立てられていたのだから、ここにも何らかの案内板があれば助かるのだが。
または私が紅葉谷の橋の辺りで道を間違ったのか分からない。橋を渡って左の谷川沿いに下らず真直ぐ行けたのかも、
また知っておられる方がおられましたら教えてください。
舗装道に戻り進んでいくと脱藩道の案内板が立てられている。チョット分からなくなったが。紅葉谷の丸木橋辺りで谷を下ったのが悪かったのか、今では調べることが出来ない。
林道を下っていくと目の前が一気に開け、山の斜面の棚田が素晴らしく綺麗に整っている。右の急斜面に作られた棚田を見ながら下っていきます。三間川地区に入ると民家もあります
棚田の美しい三間川集落
今来た下りを地図で確認すると、紅葉谷を下って防護堤に出たのは正しかったようで、右の舗装された林道が付かず離れず沿って下っている。そしてここで合流しているのが分かる。私としては素晴らしい。
今日の終点かわうそ公園まで6㎞。
旧脱藩道と林道の合流地点の 水車と東屋旧道は東屋の正面の山間を下ってきた。いつもの私ならここの東屋から谷間の旧道を捜しながら遡り調べるのだが、先ほどの怪我の後遺症も残っているので止めにするが、かつての旧道は先ほどの堰からこの辺りに下ってきていたのだろう
何故か、せめて東屋から谷間を写真に修めなかったのか今は残念で仕方がない
三間川集落内を下っていきます
脱藩道の案内板が立っている左の細い道を下ります右の角にかつてあった 茶道跡
標示に従って左の道を下ってきました
暫く進んだ先で右からの舗装道に合流
合流した100m程先右に小さな建物がありす。立ち寄り記念板があり記名してきました、チョットした数名の休憩場所です。現在版の茶堂です
その前を下る街道、みぎに立派な塀のある屋敷があります、三間川庄屋跡で正面の庄屋門を見落としました。残念!
その先少し下ると新道に交差しますが、真っ直ぐ下るように脱藩道の案内板が立っています、結構な細い道の急斜面
石段の急な下り坂になっています。すぐ先で右に折れその先で左にカーブして下ります。
左にカーブする途中、志士の道案内板が立っています
舗装が切れて脱藩時のままの街道跡が残っている素晴らしい。街道歩き冥利に尽きる。車で走りながら観光の人たちには絶対味わえない(味わいたくないといって叱られそう)。車の人から見れば、何を悲しくて歩いているのといってバカにされそう。
ミカン畑の中の斜面を滑らないように。今は街道に感動していてお蔭でハプニングの事も忘れている。でも両鼻にティシュを詰めて服の前は血がついているので、人に会ったら恥ずかしいが今のところ幸い会っていない。
左側には石垣が続き、右は田、その間の細い旧道を暫く進みます。
コンクリート歩道に変わり、やがて正面下に橋が見えます少し先でその橋を渡ります。この辺は田植えが少し早いような気がする。
左にお城の石垣を思わせる棚田が現れます
上から見えていた沢に架かるコンクリート橋を渡ります。この先もう一つの松ケ根峠越に入ります
暫く舗装車道を進みます
東に三間川、西に樺の川その間の峠越えです。松ヶ根峠越え登山口のコンクリート橋を右に折れます。右に案内板が立っています。
橋を渡るとすぐ地道となり整備された道を進みます、すぐ右の金網に案内板があります。
坂本龍馬脱藩道の案内板が分岐地点に立てている、畑仕事の方たちが使われているのか、ハッキリ踏み跡で旧道も歩きやすいです。
折れた少し先の生垣のここを右に折れます
生垣を右に折れた先、少し道は狭くなります
峠道への上りですが短い距離で大したことはありません
峠への道の途中左に石段があり金沢家代々の墓所の案内板が立っています
金沢家墓所入口寄りませんでした
松ヶ根峠の頂上 峠という感じはなく坂を上って開けたところに出た感じで、頂上で左右に道が分かれるが
頂上についた右に新しい案内板が立っています。街道は左です
何時もの渡しな5分ぐらいなら必ず寄るのですがやはり後遺症だろうか
左に折れた辻の左側に 金比羅神社参道の鳥居向って左に降りていくと案内板の史跡に行くようですが先を急ぎます。脱藩道は神社の右側の道を進みます
神社を左に見て樺の川集落を進みます
少し集落内を緩やかに下りますが、左突当りのT字路で右角は新しい二階建ての住宅手前の道を右に折れます。折れた左に案内板があります
右に折れた先の街道を少し進むとT字路にでます。正面の下は樺の川が流れています。三間川から松ヶ根峠を越えて、樺の川に出たところで左に折れて、樺の川に沿って付かず離れず下っていきます。
車道ですが地元の人以外殆ど車が走らないようでゆっくり景色を楽しみ乍ら歩けます。振り返ったところです
鼻の中はぐずぐずして気持ちが悪いが、テッシュを時々取り替え乍ら何事もなかったかの思いで歩いています。この先は山間の道をゆっくり道なりに下っていきます。
平坦な土地のない斜面を切り開いて、段々畑を作るのには大変苦労されたことだろう大変綺麗だ。
西谷まで松ヶ峠頂上から2㎞ほど写真を見ながら楽しんでください。
樺の川の棚田 鎌倉時代より耕作され巨石を使った石積みが特徴的な棚田
この先右の擁壁の上には、義堂・絶海ゆかりの墓所があります
右墓所への入り口
南北朝時代~室町時代にかけての高僧で五山文学の双璧である。
地元出身の 義堂周信と絶海中津のゆかりの墓所
樺ノ川五輪塔群
五基の五輪塔があり、調査整理時五輪塔の下から火葬された人骨が備前焼の中に発見されている。かつてこの付近に、勝宝寺が存在し絶海が永和四年(1378)十月九十歳なくなり、子供や孫や兄弟たちが荼毘に付し西谷近くに送ったと記述されています。または、この付近を治めていた津野一族の野見氏の墓所ともいわれている。
歴史を刻んだ重みを感じさせる五輪塔群。正直、都より遠く離れ情報が閉ざされた、この山深い南北朝時代の二人の高僧が生まれたことに驚く。当時は都から流されてきた貴族や武家により台頭の影響だろうか。いわゆるそういう土壌が幕末の優秀な志士たちが維新のさきがけとなる何かがあったのだろうか。薄学の私には難しいことは分からないが、佐川町・津野町・梼原町のこの街道筋は遅ればせながら人財の宝庫であったと、歩いてみて初めて分かった。歩くときに参考本として読ませていただいた中で、この墓を見学したときたまたま、白い蛇が出てきたそうで白蛇は昔から神様として祀られている地域が多いので、私は蛇が大嫌いで見ただけでも身震いするのですが、一度勇気を出して白蛇を見たいので暫くその場にいたが出てきませんでした。蛇を嫌ってる人には表れないのだろう、諦めて先に進みますた。この先、マムシ他蛇は出ないよう願うばかりです。
墓所より少し下り左にカーブするところで、右ガードレールの右端からガードレール向こう側の細い道を下ります。
右に案内板があります。
右が山側の斜面で左が崖の気持ち良い街道を進みます。
前方が開けた細い草むらの道、これ以上草が生えると旧道は分からなくなります
雑木のトンネルを進みます
左下に民家が並ぶ屋根の高さを歩くことになります。鉄のパイプ柵をしていることはこの道は利用されているのでしょう。元々この道が旧道であって、後に下に新道が出来たため、新道に沿って民家が建てられた結果のことだろう
民家が切れたところで、先ほど分岐した車道が左に合流して右におれます
分岐する辻を右側の道を進むと左に案内板が立っています。
※ この辺りから、国道のT字路迄の間の旧道を何故かよく覚えていないので、写真に沿って進みます
西谷寺跡 西谷下のなろにあった。義堂と同時代の高僧絶海の生誕地。絶海が学んだ円通寺は、松ヶ峠を越えた500mのところにある。
分岐の道を右に進むと、右からの車道に合流します
合流した先100mほど先で道は分岐します。右の車庫の建物のまえに案内板が立って分岐を左に折れます
左に折れて150mほど進むとT字路に出るので右に折れます。T字路を振り返る。
今度は左に山、右に樺の川の谷と西谷の集落の山間を緩やかな坂で下っていきます
舗装がされているが、街道を彷彿させてくれる道。
左に、 珠玉庵跡 現在、観音堂となっており二体の観音像と一体の地蔵尊が祀られている。ここには津野元実の妻の位牌が祭られており、彼女は元実戦死後この小庵で出家生活を送ったと言われている。
その先でようやく、須崎からの国道197号線のT字路に突き当たる西谷のバス停。
葉山街道終了
国道とのT字路16時45分到着
佐川のホテル7時30分出発してから、深尾氏の城下を少しゆっくり見学、途中ハプニングがあったりしてここまで結構時間がかかりました。殆ど1日山の中でお店もなく今のところ水だけで何も朝から食べていませんが、街道歩きしているときは、朝食べて夜宿泊地に着くまでは歩き通すことは常で、コンビニがあれば軽くパンかおにぎりを食べる時もありますが、お腹を大きくすれば歩きずらくなりますので平気です。その分、夜と朝はよく食べます。
もう1時間ほど頑張ります。
合流した先、右の197号線に沿って山際の旧道を進みます
高知市はりまや橋から佐川までの松山街道から始まり、脱藩道の葉山街道はここで完歩となり、ここから須崎から延びてきている梼原街道で脱藩道を進むこととなる。
脱藩道というのは後につけた名前で、昔からの主街道を踏襲しながら進んでいる道です。
T字路の国道を左に見た正面の滝山は、
古城跡(滝山)
ここの地点は梼原街道・葉山街道(街道名は地域によって呼び名が変わる)の交通の要所にあり、山の南西部は新荘川に削り取られた断崖絶壁で天然の要害となっている。津野氏は本拠地を葉山方面に移す際、それまでこの地に城を構えたという。この先の、姫野々城に居城を移す(七代繁高の頃)南北朝動乱期にはこの城が拠点となっていた。
⦅ここで分かったのが前述の絶海と中津はこのような背景があったから中央の情勢もよくわかったのだろうと⦆
天文十四年(1545)戦国期に津野基高は中村の一条房基、久礼の佐竹信濃守、戸波の福井玄番の大軍に攻められ、姫野々城も落城津野氏は一条氏に降ることになる。
単郭式山城で形成され、山頂には現在、三峯様と呼ばれる祠が祀られているようです。
T字路を右に折れた先で国道を左に分け,右斜めに上る道があるので此処を入る。
少し進んだ先左に 祠
更にその先左に岩の上に乗った小さな 祠
この辺りは山崎地区で懐かしい立派なこいのぼりが靡いています
山村の原風景に鯉のぼりがよく似合います
民家の軒下や石垣の間の旧道を曲がりながら西に進んでいきます。やがて旧国道に出ます。
暫く進んだ先で旧国道を右に見て、脱藩道は左に折れて国道194号線に出ます。国道を右に200mほど歩くと左に原田鉄工の看板が見えます
その看板の手前を左に折れる狭い道がありますので、左に下ると新荘川に突き当たる手前を右に畑の中の畦のような地道を進みます。この道が脱藩道の跡だそうです国道を右に並行して、左に新荘川その間、畑の畦道を進んでいきます、旧道の右は石垣が積まれている。
旧道の左下の草の中に 疫病鎮地蔵尊
その先、道が消失しているので右に上がり、国道に出て左(西)に進むと、国道沿い右に老人ホーム葉山荘の看板が
葉山荘の建物辺りに勤王の志士を支援した 隅があります
国道を進む
新荘川に架かる成川橋を見て国道を進む
100mほど先で十字路を左に折れます。資料によるとこの右角辺りに勤王の志士で五十人組の一人
谷脇清馬邸跡
十字路を左に折れた先で、川の手前を道なりに右に折れます。
川沿いの狭い旧道を進みます。民家の裏側の道
その先で石垣が組まれた箇所があります 姫野々の番所跡
石垣に沿った地道が街道跡で少し進んだ先金網越しの旧道より右の国道方向を見る
この先も旧道は国道に沿って進んでいるのでしょうが、藪がきつくなってきたので右に上がり国道に出ました。冬ならもう少し先まで歩けたかも。
国道に上がると左にちひろ病院の看板があります。暫く国道を進むこの国道左の川沿いを旧道は進んでいた。
やがて左に、櫓がある交差点に出ると右手に三嶋神社の鳥居が見えます
三嶋神社
津野氏の祖、経高が関東より下向した時、伊豆三嶋神社より勧請したもので、現在の神社は弘化三年の建造である。
秋の大祭には時代衣装をまとった町民が町を練り歩き、午前中に絢爛豪華な踊り葉山花取踊りが奉納される。
表忠碑
神社の近くに建つ明治維新に尽力した勤王烈士の偉業を讃えるもので、佐川出身の宮内大臣を勤めた田中光顕によるもの。裏面に勤王烈士の名前が刻み込まれています。
維新の激動を経て生き残って明治の元勲となった、かつての志士たちは夢半ばに倒れた沢山の同志の顕彰を進め、彼らにも朝廷より贈位が行われるよう計らった。この碑に刻まれている志士たちの多くも土佐勤王党や忠勇隊で活躍した志士で、大正五年(1916)津野町にゆかりの深い田中光顕(母が津野町出身)や志士を父にもつ関西財界の重鎮、片岡直輝、直温兄弟の支援によって建立された。以下の志士
吉村寅太郎・那須信吾・千屋菊次郎・松山深蔵・北添佶麿・片岡孫五郎・千屋金策・
前田繁馬・中平龍之介・那須俊平・古澤南洋・井原應輔・上岡膽治・宮地宣蔵・
掛橋和泉・宮地孫市場・中島興一郎 (津野町教委)
この地域だけでもこれだけ多くの勤王の志士が出ている、大半明治維新を見ずして亡くなっている。
街道は国道に架かる久保川橋を渡りますが、先ほどの旧道はこの橋の左(西)先に出きて新荘川を渡っていたようです。
また橋の右側辺りには、獄門台があったとのことです
この先で本日は終了しますが、少し時間があるのでここから少し【寄り道】をします。怪我のことは忘れていないが明日の行程を思えばむりしてもよっておくほうがいい。
国道に架かる久保川橋の手前右に、三嶋神社が有りますので右斜め後方に入る、神社の前に旧国道が通っていますので少し引き返すように戻ります。左角に酒蔵ホール葉山の蔵三嶋神社に隣接する文化ホール、大正時代の酒蔵を改修し、コンサートやギャラリー、結婚披露宴など幅広く利用されているそうです。
旧国道を右に、左の道に入っていきますと右に「姫野々の水田開墾の父」といわれる岡村家跡で土蔵が残っています
葉山小学校の裏側に回り込むと 千屋菊次郎・金策兄弟の墓があります。千屋兄弟の板碑の墓二基。写真に収めて積りだが撮れていなかった。
右に折れて小学校の金網に沿って進む
右の金網に沿って右右に折れてきたところ
バックの山は、津野氏の山城跡で登山口 姫野々城跡 戦国期土佐の七守護の一つ津野氏の居城跡。南北朝時代には北朝として活躍、戦国末期には長宗我部元親の三男親忠が養子に入ったが謀反の疑いで弟の盛親に攻められ滅びた、
鯉のぼりが並んだ民家
この東には、金沢氏邸跡、片岡佐太郎邸跡、白雲神社、千屋兄弟板碑、東本城跡、姫野々城跡の史跡があるがとりあえず今回はここまでとします。また機会があれば散策してみたいと思います。
ここで旧国道に戻り三嶋神社の前に、資料がなければこの旧国道が、梼原街道と思って歩いていただろう結構趣があって街道らしい。
久保川橋を渡り少し歩いた先で左の新荘川に架かる春日橋街道はこの先、橋を渡らず真っ直ぐ国道を進みますが、今日はここまでとして、橋を渡り右に入ると、今晩の宿泊先「葉山の郷」に着きます
左の橋を渡る手前角に「かわうそ自然公園・葉山の郷」の看板がかかっています。宿泊施設、食事、農村体験、環境学習を施設を整えた旧葉山村の交流スポット。
近くを新荘川がながれ周囲は山が並び、公園にはかわうそのモニュメント広場、広々として気持ち良い
今晩の宿泊先 葉山の郷は正面大きな屋根の左側
新荘川に架かる春日橋から左(東南)を見ると、正面の方向は須崎方面、その左の山を下って来ました
葉山の郷を右に入るところで、左川の対岸に 本村遺跡と処刑場 真中の造成整備されたところに、ポツンと立っているのが見にくいが処刑場跡碑 付近は発掘により集落跡と推定されている
本日はここで終了して宿泊所に入る。綺麗で広々とした空間があり宿泊は私と近くの人か二人だけであった。最高に気持ちよくまた来る機会があれば泊まってみたい。
チェックインの時は鼻の中はぐずぐずして気持ち悪いが、さすがティシュを詰めとけれないので受付すましたが、服の胸等に血が結構ついていたので、すぐ洗濯機をお借りして綺麗にした。食事も美味しくゆっくり休むことが出来ました。ただ今日は転倒してからも無我夢中で歩いたが、やはりダメージが大きく鼻の中が気持ちが悪い、明日よくなっていてくれたらありがたいのだが。
(参考)
千屋兄弟の板碑
千屋菊次郎 武市瑞山に従い土佐勤王党に加わる。元治元年7月21日禁門の変にて戦い敗れ、真木和泉ら16名と 共に山崎天王山にて自刃。享年28歳
千屋金策 千屋菊次郎の弟、土佐勤王党に加わり、元治元年の禁門の変に参加、その後、井原応輔・島浪間・岡元太郎ら4名で、岡山県の美作作州路で同志を集めるため遊説中、地元農民に強盗と間違えられ切り刻まれて4名は殺害される。その農民の残虐性は後日世間から批判を受けた。元治2年2月22日自刃。享年23歳
井原応輔 土佐藩家老深尾氏の家臣、土佐勤王党に参加。元治2年2月22日自刃。享年24歳
島浪間 土佐勤王党に参加するも、武市瑞山らと意見が分かれ脱名。その後、吉村虎太郎・那須信吾らの天誅組に参加文久3年(1863)8月17日五条代官所を襲撃。天誅組が壊滅と共に首領の中山忠光らと長州に逃れる。元治2年2月22日自刃享年22歳
岡元太郎 岡山藩家臣。元治2年2月22日自刃 享年30歳
4士の遺体は河原に投げ捨てられて放置された。明治31年墓が改装されて、現美作市立土居小学校脇に現存し慰霊碑も建てられている。地元では塚を「四つ塚様」と呼ばれている。事件から33年後の明治31年4名に正五位が贈られた。
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