坂本龍馬・吉村虎太郎土佐脱藩の道を歩く 5月9日

   2016年5月9日
 「葉山の郷」かわうそ公園~鳥出川バス停

昨日の後遺症が残っている、特に右の鼻が詰まってティシュに今も血が付く。宿泊地の「葉山の郷」は綺麗で広く気持ちがよかった、宿泊者は私とあと一人だけで食事も美味しくゆっくり休養がとれました。でも残念ながら朝から強い雨が降っている、今日は何か所かの峠越えがあり、特に脱藩道の中でも難所である布施ヶ坂は特に綺麗でウオーキングイベントが行われているという、雨でおそらく綺麗な景色である千枚田が望めないだろう。気を引き締めて完全雨具を装備して出発。
出発して暫く歩くと津野町役場に隣接する、再建された片岡邸の前で見ていると学芸員さんがきて、わざわざ雨戸等の障子を閉めていた邸内を開放して頂き、地元の事や片岡邸について詳しく説明していただき、また邸の裏にある墓地も雨の中案内していただき本当にご親切有難うございました。このように旅をしていると一層身に染みてうれしくなります。
脱藩の道は、季節的に一部草が繁っているところが多々あったが、一部を除き踏み跡が残り歩くことが出来ました。幅1m前後の旧道を楽しく歩くことが出来た。ただ相変わらずマムシ・カラス蛇に注意しなければいけないが、季節によっては最高に素晴らしい道だろうと実感する。
雨も昼から小降りとなったが足下に注意しながら歩いたので思ったほど進まず、目的地まで達成できないと判断し、途中の鳥出川バス停から今晩の宿泊地津野町高野の「民宿天山」まで行くこととしました。残り8㎞ほどある鳥出川近くでバス停・時間を聞くため近くの街道沿いの民家で聞いたところ、バス待ち2時間近く(1日数本)、あるいて民宿まで行こうとしたところ、ご夫婦がまた親切な方で、奥様がご主人に送っていてあげたらとアドバイスされてご主人も気持ちよく車で20分ほどの道のりを載せていただき、車内での話の中でご主人も龍馬脱藩の道も含めて毎年9月街道マラソンイベントの責任者をされているとのことで、年々参加人数も多くなり海外からの参加も出てきて大きな夢を持たれているようでした。話も弾み雨の中助かりましたありがとうございました。
少し計画より遅れたが、明日はまたバスでここまで戻りスタートします。
民宿「天山」は別棟には明治の建物も残り、宿泊は私とどこかの保健所の方たちか検診車で10名程の方たちが別棟に泊まり焼肉をされていた。民宿の私と同じ年頃のご姉妹の家庭的な雰囲気と気安さ、食べきれない食事で今晩もまた格別に楽しい夜を過ごす。また食事をしながら話している中で、明日新田地区の吉村寅太郎の大きな像や生家にも行こうと思っていますというと、それなら是非、寅太郎の背後の山に登ったところ東津野中学校の正門前に建つ、「シベリア虜囚の叫び像」にも立ち寄ってくださいと、聞くと親類に当たる方が寄贈されたそうです。
脱藩の道を歩いてまだ数日しかたっていないが、途中で出会った地元の人達は本当に親切で 気持ちよく話もしていただき嬉しい。特にこのような山深いところから、日本の維新の先駆けになり若くして散っていった地元の偉人の人々の話(特に吉村寅太郎)には熱がこもり誇りを持っておられるようだ。

失礼な言い方ですが、このような当時としたら山深い土地から沢山の優秀な日本を憂える若者が出たことには本当にびっくりしました。恥ずかしながら私も脱藩の道に興味を持って初めて知った次第です。やはり土地柄古い歴史なんでしょうか見識者の方にお聞きしたい次第です
翌朝、おかみさんが昨日のところまで車で送ってあげようと言っていただき、また甘えさせていただきました。朝からどんよりとした曇り空、今にも雨が降りそう
           8時30分  出発     
          16時20分  宿泊所    
             36.060歩  21.63㎞  1500kl

春日橋を渡り、左に国道を暫く北西に進み左にかわうそ公園と宿泊した葉山の郷が一望できます。雨が結構強く辛い1日になりそうです

400mほど先で、国道を左に分け右に上る狭い道があるので右に折れます

突当りに石垣がその上に、神社と地蔵

ここを左に折れます、左下の国道を見ながら山際を大きく左に描いて進みます

貝の川に架かる橋を渡ると十字路で横断します。その右角に お地蔵さんが並んでいます。

十字路を渡った左一帯は、藩政期の札場(現在も地名として残る)で左に大池があり旅籠や茶屋があって賑わったようです。今はそれを偲べません

十字路横断した先を真っ直ぐ進み、やがて山裾を左に大きくカーブするようになります。その右高台に一軒石垣の積んだ大きな民家があります。
ここは幕末の五十人組の一人、片岡団四郎邸跡で建物は建て替えられているが、石垣はそのまま当時のまま残っている。坂本龍馬や中岡慎太郎が風呂を借りたという伝承がのこる。現在在住の氏は片岡家の墓を永久管理する条件で購入された子孫の方が住まわれているそうです。

左の新荘川に沿い進むと前方には津山町庁舎が見えます。 

左の役場と街道西側に再建された 片岡邸片岡両翁誕生の地

津野町役場は片岡孫五郎の邸宅跡で勤王の志士として国事に奔走、私財をはたいて志士の活動資金を捻出支援した。そんな中、兄直輝、安政三年(1856)、弟直温安政六年にこの地に生まれ、賢母信子に養育を受け成人した。孫五郎は志士の支援金に田畑まで売り多額の借財を残し、明治維新をみず慶應三年八月病没。母信子の努力により二人は立派に成長する。
その後二人の住む京都に移ります。
直輝は海軍主計から官界で活躍、日本銀行大阪支店長以後財界人となり大阪瓦斯、南海電鉄、阪神電鉄等と経営して関西財界の重鎮となった。
直温は内務官僚から日本生命を創立し、我が国生命保険事業の発展に寄与した。実業界から政界に入り商工大臣、大蔵大臣となり信念を曲げず、稀にみる清潔な政治家であった。     
兄弟そろって母に孝養を尽くし、また祖先墳墓のこの地を愛し生涯郷土の発展に尽くした。
この別邸は兄弟がこの地で余生を過ごしたい母の念願を叶えるため、大正五年旧宅西に間取りなどを似せて母のために再建したが、大正八年五月この地に戻ることなく亡くなり、その没後村に寄贈された。歴代の墓地は裏山にあります。
再建された片岡邸は資料館として開放されています。
強い雨の中、外から見ていたらたまたま学芸員の方が資料整理されていたのか、閉めていた雨戸もわだわだ開放していただきいろいろと説明していただいた。庭園の手入れも素晴らしい、そして説明を受けた後、強い雨の中裏山にある片岡家の墓所にも案内してくださり大変親切に応対していただき有り難かった、皆さんがこの地区の偉人や歴史を誇りに思っているのがよく伝わってきました。お礼申し上げます。
改めてこの深い山間の地から素晴らしい人達が沢山出ていることに感銘を受けました。

母のために再建された片岡邸跡と隣接する資料館。

庭園

道路を少し上ったところに立派な石段の参道を上ります。綺麗に清掃整備されています

案内していただいた 片岡家の一族の墓所
孫五郎夫妻の墓も北側に並ぶ。目をひくのはドーム型の納骨堂でさすが立派です。
案内していただいた学芸員の親切な職員さんです。十一ある自然石の墓は、直温が郷土を出る時先祖の墓を集める為、自ら石を探し、先祖の名を書き記したと言われています。この自然石の墓石には江戸時代(明和年間)より後の人たちが埋葬されており、明治維新に奔走した二人の父母、孫五郎・信子のもある。大正五年(1916)片岡家の生家が復興されると直輝・直温兄弟はこの墓所へたびたび参るため帰郷した。大蔵大臣を務めた直温は、昭和九年(1934)に亡くなると、この地にドーム型をした花崗岩の大きな納骨堂に埋葬された。納骨堂には直温の妻や一族も共に埋葬されています。(津野町教委)なお、直輝は昭和二年(1927)没72歳。

入口近くに二人の顔写真入りの顕彰碑

お名前も聞かなかったが本当に有難うございました。このような学芸員さんがおられる街の発展は間違いないと思いました。
津野町役場を後にして南に進むと、国道197号線にて新荘川に架かる葉山大橋を渡ります橋からの新荘川をみる。

葉山大橋を渡ったところから役場方面を振り返る。橋を渡ってT字路を右に折れますが、左に進むと葉山運動公園があり昨日宿泊したかわうそ公園に出ます。

橋を渡りT字路を右に進む街道、右に新荘川の渓流。「龍馬・脱藩ゆかりの道」はここから暫く橋を渡らず、対岸の国道197号線を通ったという説も記載していますます

暫く進んだ先、右辺りにお馬一家が東側の鳥越峠を越えた先から転居して、この地で鋳掛屋を営みながらお馬一家が住でいたが、生活苦から一家は高知市の五台山麓に夜逃げしたとのこと。
とにかくお馬・純信の人気は高く、高知に至るところにこの説話が残っています

左からの鳥越峠を越えて下って来た林道と合流するところを振り返る。この道を峠越えすると昨日宿泊した公園の前の道に出ます街道は正面真っ直ぐの道をきました、お馬一家の転居先跡の前を歩いてきました

合流地点から100m程の所、左に西部集会所が建っています

右斜め前方に新荘川に架かる住吉橋が見えます。渡りませんが住吉橋を渡ると国道197号線に出ます。

雨は相変わらず降り続いています。左に上る道が分岐しま、右前方に住吉橋が見えます。分岐の道どちらが旧道か分かりませんが左に進みます。

坂を上ったところから右下を見たところで小さな峠の感じで

右からの先ほど分岐した道が合流してきます。少し左に折れたところ、前方右に見える分岐を右に折れます。

右に折れ細い街道を進みます。前方左の茶色い建物の中に小さな弘法大師の石像や石物が何体か祀られていたようですが見落としました。

小屋の先で振り返ると左に新荘川と住吉橋が見えます。進行方向右下の川は結構高い崖となっている。

すぐ先で低い石垣の積んだ家の角の分岐を、右の真っ直ぐな細い道を入ります

新荘川の方に下る茶畑の中を進みます。

茶畑と田の間の細い畦道を進みますが、よく踏み跡が残り整備されています。

石垣に沿って進みます

左(南)側に歴史を感じさせる石垣が続き、右側は草で分かりにくいが川の斜面で踏み外したら大変注意しながら進みます

民家の軒下を通る道です

その先で、左から先ほど分岐した車道と合流して右に折れる

車道を少し進むと、右斜め前に文栄橋が見えます。街道は右の橋袂に出て橋を渡らないで西に進みます。

その先、真っ直ぐな道で右に葉山中学校があります

その先で、学校の北側を流れていた新荘川が西から南に向きを変えている。街道も突当り西から南(左)に曲がります。右下に新荘川を見ながら沿って進みます

更に少し南に進むと道は緩やかに右にカーブして、その左に青いテントと草の中に埋もれかかった 石仏が並んでいます。

前述した「龍馬・脱藩ゆかりの道」では、新荘川の対岸の国道をマップとして掲載されています。脱藩の道(梼原街道)旧街道の詳細なマップが無い状況で、私はある1冊の詳細に書かれた本をもとに歩かせていただいてます。少し疑問点もありますが、よく調べられたと思って敬意をもって参考にさせてもらっていますのでご了解ください。

やがて青いテントの前の道は右にU字を描くように辻を右に折れます。折れたところの左の上から写した先の道。

旧道は消失しているようですが、かつてはもう少し大きくUカーブしていたようで、テントの背後を廻っていたようです。この辺り梶足石原野地区

北に向きを変えた道は、新荘川に架かる梶足橋を渡ります

梶足橋を渡ると国道197号線と交差して横断します。その先の道は旧国道でもあります。

旧国道は左にカーブしています

この辺り右が 橋立茶堂跡

旧国道沿いの舟野集落旧道は一部右の集落内に残っているようですが、また雨がひどくなったので先に進みます

その先で、舞の川に架かる舞の川橋を渡る

橋を渡ってその袂を右に10mほど折れ、白い民家の向かって右側の道を西に左に折れます

旧国道北側に沿う、栗の木集落にはいる

栗の木集落内の道は狭く適当に西に進みました。ハッキリ説明できるほど覚えていません

栗の木集落を西に狭い道を進み、やがて左に出て旧国道に出ました。

旧国道に出た道筋。この旧国道でも車も走らないし十分街道雰囲気が味わうことが出来ます

左に国道197号線と橋が見えていますが渡らなく西に進みます

旧国道を暫く進みます。

その先旧国道を左に分け、右に入る道があるようですがすぐまた左に降りてきて旧国道に合流します。旧国道を歩いた方が無難のようです。

祠とお堂 の傍を通る道が旧道かもわかりません。

よくわからないので下の旧国道を進みます

地蔵堂

石垣に組み込まれた お地蔵さん

足元が悪いので旧国道から眺めることとしました
旧国道を進むと左前方に、精華小学校が見えます

精華小学校を左に見えた時、右から旧道が下ってきて旧国道に合流します。雨も降り続いているのでゆっくり調査は出来ませんでした。藤の川に架かる藤の川橋を渡ります

藤の川橋を渡り数十mで右角に大野集会所があります、手前の右の細い道に入ります。すぐ突当りますので左に折れる民家の間の細い道を進みます。街道跡の旧道。この辺りは大変旧道が入り込んでいます

すぐ左に入る狭い道です。ここは大野集落内

集落内の生活道であったのでしょう、水路が沿っています。

旧道らしい雰囲気が素晴らしい年輪を感じる長い石垣も続いています

久々に龍馬脱藩の道の案内板が目につきました。「この道は坂本龍馬が1862年3月土佐を脱藩する際に使った迷走経路です」と書かれています。確かに迷走で分からない。

少し先で車道に合流して道は広くなり、左に下っていくと左からの旧国道に合流します。

 旧国道を少し進んだ左に葉山生コンがあります

更に西に歩くと道は分岐します、左にカーブしながら黒川川に架かる黒川橋を渡ります。

黒川橋から見ると黒川川は深い渓谷です

黒川橋を渡るとすぐ分岐します、まっ直ぐの旧国道と別れ左(南)に折れて新荘川に架かる共栄橋を渡ります

橋を渡ったすぐの十字路を右に折れ、田の間の道を進みます

右(西)に折れた先の道

参考にさせていただいている資料本では、藩政期には橋がなく板橋であったので、そのあたりを事細かに調査掲載されています。その後数年経ているので追跡するのは中々むつかしく、私の歩いている部分はそこをイメージしながら歩いているので100%正確でないことをお詫びします。新荘川に突き当たるので道なりに左にカーブしています 

暫く右の新荘川に沿って南下しますと、国道197号線に突き当たりますので国道を右に折れて少し進みます。

少し国道を進んだ先で左に折れる道があるので左に曲がります

左に曲がるとすぐ右に 石造り物

更に緩やかに右にカーブする右手に 石造りの祠

左に鍵野々集会場で右はのぞみ橋公園です集会場の隣に 五社大明神旧道は五社大明神の向かい、のぞみ橋公園辺りを右に折れて斜め西北に進み、新荘川の支流を渡り国道に出ていたようですが、旧道は消失しています。
元の国道との分岐まで戻ります。

国道197号線に出て少し西に歩いたところの、鍵野々橋を渡った西袂で北(右)への道を下ります

坂を下ると前方左にひのきの里(社会福祉法香南会)への道が分岐しますので左に入ります

ひのきの里手前で左に曲がったところから振り返ったところ

ひのきの里を正面にみてさらに左に折れ(Uターンしたように進む)少し狭い擁壁・柵のされた道を西に進みます。左に国道が見えてます。かなり高い断崖の狭い旧道で、藩政期は峠道であったと思われます。
坂を上ってきた頂上辺りから振り返る

峠の頂上付近で墓地です

柵はありますが左に転げ落ちると大変です

下のそうはいきません

国道に出ます。私が今歩いてきた区間も非常に迷走の峠道で当時は大変であったと想像できます。鍵野々橋から国道を進んでくると何ら問題はないです。
正面の看板の所の急斜面を下ってきました

国道に出てすぐ先で分岐しているので右の道石指集落に入ります。

すぐ右に郵便局があります。かつての街道は、郵便局の手前石指集会所との間を右(北)へ入り、山際を迂回していたようですが、雨で足元が悪いのでこのまま旧国道を進みます。この先の杉ノ川診療所の西側に下りてきていました

少し先で国道に合流します

杉の川診療所、ここに先ほどの旧道が降りてきています。振り返ったところ。

この辺り左に、石指茶堂 があった
バス停の所に小さな お地蔵さん

台座に乗った お地蔵さん

少し先で国道から左に下る道が分岐してますので左に折れて下ります

左に下ると新荘川を左に渡る杉の川橋と、そのまま真っ直ぐ杉の川を左に沿って進む道との分岐にでますので、左の橋を渡って旧道を進みます

杉の川橋を渡り南に進むと車道と交差する十字路に出ます、ここを右に折れるといいのですが。
旧道を辿る場合は十字路を越えて少し先に石垣に沿った道が東西に通っているのが見えます、白い民家の手前。その道を右に辿っていくと、西に竹村八幡が見えますのでその旧道を進みます。 竹村八幡の十字路の角で合流します。

石垣に沿って道が旧道。十字路の道と合流したところから振り返る

左に 竹村八幡の上り口の坂が見えます

下から神社の森を見ておきます

竹村八幡を過ぎた先で道が分岐します、右が新しい道で旧道は左の坂を上っていたと思われますが、その先の様子が分からないので右の道を西に進みました。多分小さな峠道だと思いますが、雨が降っていなければ迷わず左の道を探索するのだがそのまま進みます

左の山際を進んでいきます。この道も十分街道の雰囲気を味わうことが出来ます

ここで左上から先ほど分岐した峠道が擁壁上のフェンスを施した坂を下ってきます。距離にして数百mと思います。
私の想像は間違っていないようでした、雨でなければこの雨は朝から降り続いて少し辛いが、次の予定もあり頑張ります。何より心配なのが手に持っているマップ資料が濡れないかです。以前濡れて字が消えてしまってその先歩けなかったことがあります。

フェンスに沿って下ってくる道を振り返る

道沿い所々に旧道跡か分からないがありますでも道は消失しています

今歩いている旧道の北側(右)は新荘川で更にその対岸を旧国道でその北側が新国道の大谷トンネルが抜けている構図です。ここは歩いてきた道の川を渡り振り返ったところ

西に進んでいた旧道は再び新荘川を渡り右からの国道に合流するこの付近はかなり道路改修工事で旧道は
変わっています

右からの大谷トンネルを抜けてくる国道に合流するところを振り返る。

左は急斜面の新荘川です。

国道に出てもどこも立派な歩道が付いているので安心して歩けます、すぐ支流に架かる橋を渡ります

国道沿いの 

合流点から600m程歩いたところで、大谷一号橋東袂右に家がある前から右に旧道が残っているようなので入ってみます。白い車の前です

新荘川の北側を迂回している旧道跡。

短い距離ですが旧道です、迂回して国道に合流したところを振り返る。左の黄色い旗の所に出てきている。

すぐまた国道より分岐した右の道を入ります

旧道は利用されることも無いので荒れてきています。

左からの国道に合流する地点に、長距離石灰石輸送べルトコンベヤ―(高岡郡仁淀村の鳥形山~須崎市角谷岬JR須崎駅南)を潜る凄い大規模なもの。大川集落にはいります。

かつての旧道は、正面の民家の裏側を通っていたようです。右の墓の上で、その先ベルトコンベヤーで消失しているようで、一旦国道に降りてコンベヤーを潜り再び民家の裏側の一段高くなっている所に旧道が残っているようですが、どこで右の山際に上がるのかよくわかりませでした。

コンベヤーを潜ると久しぶりに信号機を見たようです。少し進んだところから振り返ったところ

右に西森商店があり、前に酒の看板が立てられている前で、国道197号線を左に横断して左の道に下ります。
この道は旧国道ですが現在は県道377号線となっています。
龍馬・脱藩ゆかりの道マップでは朽木峠を越えて西谷へ出てきたところから、国道197号線か旧国道を記載されています。そしてイベント等の場合そこを歩いているのでしょう。
十分ではないが今私が歩いてきた道は、往時の旧道を諸先輩の資料を基に出来る限りくねくねと旧道を辿りましたが、資料不足や雨のため中々思う様には歩けませんでした。

377号線に入ると左に台石の上に小さな お地蔵さん

この先、難所の布施ヶ坂登山口まで約4㎞、暫く377号線や町道を進みます。龍馬脱藩の道として旧峠越えは龍馬ファンもちろんの事、ウオーキング愛好者にとっても素晴らしい道としてよく知られています。今からワクワクしますがあいにくの雨で残念ですが少し小降りになっています。

県道は左の新荘川が沿います

白石地区に入り竹ノ谷橋を渡ります

ミニ四国八十八け所霊場竹ノ谷一番大正十五年白石九地区の有志相集い発起してミニ四国八十八ヶ所を建立した。竹ノ谷一番に始まり白石地区を全部とおり、桃の木の八十八番で終わる。

高架は国道197号線右に見える

その先、二ッ家バス停、須崎~梼原の間1日二本しかありません 

二ッ家バス停の近く右に、白石番所跡 国道から分かれて1㎞ほど歩いたところで、 県道の右奥谷川沿いに番所跡の石垣が残っています。藩政期には県道に掛かる西の橋はなく、番所前を通り浅い谷川(歩渡)を迂回していた。現在通れないので元に戻る

番所の入り口県道に掛かる西の橋より右を見る

雨は幸い止んでいますがまた何時降ってくるかわからない空模様です。

白石の集落内の県道を進んでいきます

600mほど進んでいくと、木造の古い校舎が残る白石小学校が左にあります。

白石小学校を過ぎると、県道は真っ直ぐ左の新荘川に沿って左に大きくカーブしながら進みますが、旧道は左の白石橋を渡り橋を渡って右に折れ、右に新荘川を見ながら左の山際を左に大きくカーブしながら町道を進みます。

 白石橋

白石橋を渡り右に折れた先の道、左に山なりに大きくカーブしています

左に大きくUカーブしたところで、白石橋から山の反対側(西)に出ることになります。右に折れて新田橋を渡り外側(対岸)を回って来た県道に合流します

新田橋、右から県道が合流し左へ

橋の正面向かいにあるのが 河内神社地区の産土神です

河内神社を過ぎると重谷バス停があり重谷集落に入ります

重谷集落から大きく蛇行を繰り返しながら進んでいきます。

左に畑や茶畑が広がります。こうして歩いていても殆ど人と会うのが少ないです

土手に自然石の 石仏

里も奥深く飲食店もなく朝から何も食べていません。里の人たちはチョット買い物というわけにいかないだろうと思います

重谷の次は大西の集落です。ここは結構民家が集まっています

河内神社まえから約1㎞で大西口バス停、バス停の所の十字路は左に折れて下ります県道は真っ直ぐ

十字路を左に下り、すぐ右に急カーブして県道の下を平行して進みます。

この道は改修されているが県道が出来るまでの主要な旧道でした。龍馬・惣之丞たちも通ったことでしょう

やがて右から竹ヶ谷県道バス停から分岐してきた町道に合流します

合流点から振り返ったところで、かなり山が深くなっています山と山の間の谷間を蛇行して歩いているようです

旧道(町道)を進む

坂本地区に入り、右にカーブする左の凸の角に脱藩道の道標が木に覆われて立っています。うっかりすると見落としそうでここを左に入ります
愈々 布施ヶ坂越え の登り口です。町道(旧国道)は真っ直ぐ進み左にカーブして新坂本橋を渡りUターンを繰り返し布施ヶ坂を登っていま。また新国道はその北側を通っています。

一瞬このような狭いところから登るのかと驚いた、地道に変わります。要所要所に脱藩道の道標があるので迷わないようです。
雨も今小降りで助かるが、草も濡れているし谷に滑り落ちないよう気を引き締めて登ります。何か不安と嬉しさが入り交じりドキドキ胸が鳴っています

趣のある歴史を感じさせる旧坂本橋を渡り地道を真っ直ぐ登っていきます
幸い今雨がやんでいますラッキーです。でも草は濡れていますが贅沢は言わない。ドキドキします。

町道(旧国道でない)が交差します、脱藩道はその町道を横断して正面の小屋横の道を上ります。

小屋の横のコンクリートの石段を上ります。

石段を上っていくと町道に出ます

布施ヶ坂
新荘川と四万十川の分水嶺に位置し、津野山郷への玄関口に当たる坂で、「辞職峠」ともいわれていたこともある。梼原方面に移動を命じられた県職員や教員が、あまりに険しくどこまでも続くつづら折りの坂道に仰天してそのまま引き返し辞表を出したという逸話が残る。
旧道の坂道はカーブの連続であるが、近年国道197号線に布施ヶ坂トンネルや橋梁による新道が北側に出来、途中道の駅布施ヶ坂もできて車では便利になった。その中で、旧葉山街道(梼原街道)・脱藩道の山道が残り整備され、今もイベントなどでウオーキングの人に愛されている。
地形的には一番南側の山中をほぼ直線的に登っている旧道が、梼原街道・脱藩道である。その北側をつづら折れに上っている旧国道(現県道・町道)、更にその北側に大きく迂回して新国道197号線が走っています。

町道に出たところで、正面の人一人の幅の手摺の付いた擁壁上を上っていきます。少し右下の町道の擁壁の上を進み、すぐ先で左に反転して向きを南から西に変えます。西に変えて登っていきます。コンクリート道から自然の道に変わります。 

樹林の中を抜けると左手が一気に開け夢を見ているような景色に変わります。右は山が迫り、左は絶壁の間の人とすれ違ったら大変とおもう脱藩道、幸い雨がやんでよかった雨が強ければ滑り落ちそう。天気が良ければ最高だろうけど贅沢は言わない。

草がかなり深いので足元注意しながら進む

本当に後から写真を見ながら思い出してよくまあ一人で歩けたなと思う。人に会うこともないし何かあった時は大変だから景色を味わいながら細心の注意をする。
この辺りは標高300m強に当たる標高の割には奥深く感じます

時折雨がカメラのレンズに当たる。

木々が緑に青々と気持ちを洗ってくれるようだ!!時が止まったままの旧道だ

左下には小さく小屋が見える

この道を歩きながら、龍馬、惣之丞は何を思っていただろう。数年後には若い命を散らしてしまうことも想像もしなかっただろうが、覚悟の上の脱藩

山道は今どのあたりとかあまり説明が出来ないので、小まめに下手な写真を撮っているので見て感じてください。

この区間は草がよく繁って腰辺りまでくるので、滑り落ちないよう気を付けなければ。落ちたら這い上がれないだろう

ここまで来たらもう不思議です、オオバーですが無我の境地に入っています

マムシよでないようお願いしますマムシの傍を歩いていると思うが、私の気迫に負けて道を譲ってくれているのだろう

脱藩道の道標に従って進む、枝道が無いので迷うことはないだろうが、この様な山の中では特に間違っていないとわかっていても不安で、標識を見るとホットする瞬間です。多分いつも一人で歩いている方は同じ経験をしたと思います

この辺りはよく踏み跡が残る歩きやすい道。相変わらず小雨が降っていますが素晴らしい植林のされ道幅が広くなった街道。西側から作業者が入れるのだろうか車跡の残る道。

山の中の小さなロータリー

案内標示板はどれも少し朽ちてきている。多分大河ドラマ龍馬伝時に整備された時の物が大半だろうか

この辺りの旧道は前半部分と一変している街道風景。

布施ヶ坂の茶畑
津野山地域では六蔵茶といわれるお茶の生産地、よく手入れがなされこの地域の主要生産品となっている。手入れも行き届き美しい茶園が広がる景色。

現在は比較的、布施ヶ坂は厳しい急坂でなく緩やかに登る所が多いが、昔は大変であっただろう想像がつく。でも大変距離が長い

下には茶畑と集落が見えております。

前方に小屋が見えてここで樹林帯を抜けだします

草が繁って道が分からなくなるからか、白い目印で道順を作ってくれていまので有難い。その上に舗装されたヘアピンの旧国道が見えます。本当に頭が下がります

坂本橋から布施ヶ坂頂上まで3分の2程登ってきました。

旧国道と町道の凄いヘアピンの道。ここを西南に抜けていくことになります。樹林帯を抜けて舗装道に出たところから振り返ったところです

ここで少し迷ったのですが、多分上のヘアピンの舗装道に上る道があったのでしょうが見落とした。少し舗装道を左に進み、その先で右にUターンした左に道標が有りました

左の電柱の所で左に茶畑の中を上ります。茶畑は私有地でしょうが、中を街道が通っているので歩かせていただける。地権者の方たちも脱藩道に誇りを持っている証拠です

左の茶畑に上る旧道です

また上っていく先に、ヘアピンの旧国道の舗装道が見えてきました

舗装道に出てまた茶畑を登ります。脱藩道はヘアピンを無視してほぼ真っすぐ登っています

ヘアピンカーブの旧国道から、茶畑の中を登って来たところを振り返ると絶景の眺望

更に擁壁の際を登り上のヘアピンの道に出ます

はるか右下に国道197号線が見えます、それに沿って、道の駅布施ヶ坂が見えている。その左方向が布施ヶ坂トンネル。

この茶畑は私有地だろうか、旧道があってその両側に茶畑が開墾されていったと思うといいのでしょうが、今では歩く人も少ないが、数年前のブーム当時、歩く人で賑わった当時は、地権者の方も管理が大変だっただろうと思うが、できることなら舗装道を歩いてほしいと思うが、私もそうだが、出来ることなら舗装の新道は歩きたくないから、同じように茶畑の中の旧道を楽しんだことだろう

茶畑の最高部に近づいたようですが、布施ヶ坂の頂上ではありません

そうこう考えながら茶畑の中のヘアピンを最短に横断しながらヘアピンの旧国道のほぼ一番南西の端に登りつめた。茶畑の最高部である。

時期的に茶畑で作業している人も皆無で人影を見ることが出来なく、少し話をしたかったが残念
この先、布施ヶ坂の峠頂上に行くのに少し迷ったが、丁度この時、町の作業用の軽トラが来たので脱藩の道を聞いて確認すると、300mほど先に左に上がる標識があるとのことで安心。県道378号線となっている。

気持ち良い378号線舗装道を進む、方向としては南西。この先分岐するところで、この道は北寄りに下り、やがて布施ヶ坂トンネルの上を超えて、北側の船戸・道の駅方向へ進む道の旧国道です

確かに道路沿い左に道標板が立っている。一瞬左への道があるのかと思いました通り過ぎそう

左の急な斜面の植林帯を蛇行しながら登る道です。登り口は草が繁って完全に隠れそうな道です。 毎年手入れをしなければ登り口がわからなくなるだろう

斜面を駆け上がる旧道らしい樹木あります

枝切がされているので光が差し込み明るくて助かります。

一見分かりにくいが、 布施ヶ坂峠 にやっと着きました特に目印も何もありません。見通しもよくです

峠を越えると道が広くなり、峠までなら反対側(西)からなら経トラックが来れるようです。

聞いた話では、四国の石鎚山を中心とした西側には熊がいないということです、地元の人もかつてその存在を聞いたことも見たことも無いそうで熊除けも必要なく安心して歩けます。ただし、徳島県の剣山の山深くには数頭いると以前、聞いたことがあるといってました。

道幅はあるが少し草が繁ってきました。脛から下はカバーしているとはいえ濡れてびっしょりです。今回は特に丈夫なかかとの隠れる深い登山靴を履いてきたのが正解でした。

暫くすると、舗装された小さなロータリーのような円形があります。

ロータリーの地点から今歩いてきた道を振り返る。車道に合流。道が隠れてしまっている旧道。

道標に従って進みます

すぐに抜けて前方が開けました。右にソーラ―発電が並んでいます

峠からは多少ヘアピンカーブがありますが、下りの西側は案外短く終わります。下りきると正面に国道197号線が見えます。

国道に合流した角右に 将監神社

布施ヶ坂を下ってきて国道と合流点を振り返る

注意しながら国道を横断しますと、国道西側の青いフェンスがトンネル入口まで続いています。その右側に入る旧道があります、右に民家があり前の庭のような旧道です。すぐ先に船戸トンネルの出入り口が見えます

青いフェンスの切れたところ右側に入った旧道です。

民家の前の旧道を入ると右に何の遺跡かわかりませんが背後は川です。船戸遺跡 の表示があります

その先で旧道が消失しているので、川向の道に出て数十m西に進みました。奈路の集落でこの道も雰囲気があります。左に折れて一旦国道179号線、船戸トンネル手前に出ます。

この先この道を進んで行くと、右に建つ船戸小学校の前に出ます。更に北に進む378号線は船戸バス停からバスの本数もないが35分ほどで、義堂周信・絶海中津の像のある公園(行きたかったが時間的に無理で後日行くことになる)から更に上ること船戸バス停から約9㎞に、四万十川源流があります。

国道に出たところ。すぐ右にトンネルの入口ですが私は止む得ない場合を除きトンネルに入らないことにしています。今までの経験では必ずトンネル手前に旧道が迂回するか、峠越えかで残って入るからです。(もちろん崖崩れや廃道になって消失して入る場合は仕方ありませんが)

トンネルを左に分け、青いフェンスの切れ目の左に案内板が立っています。右に入ります

船戸トンネルの北側の山際の旧道を進み、右には川がありその先は船戸の奈路集落です

少し草が繁っているが良く残っていた旧道です

旧道が広くなったところに三叉路となり、右に橋があります。上記の三叉路の左山際の上に

津野十八代霊碑  寛政九年(1797)庄屋の戸田敬助と領民が建てた立派な碑

更に100mほど山際を南西に進んだ先から振り返る。

再びコンクリート橋が右に架かる三叉路にでます

三叉路の角に天保年間(1830~44)の古い 道標  「右 津野山 左 大野見」 

三叉路は少し広場になっています。石造りの祠 二つあります

かつての旧道はコンクリート橋(祠のとこから)まっ直ぐ南西に川を渡り現国道に出ていたと思われます。消失しているので少し川沿いを右に折れて左にカーブしながら進み、その先の石橋を渡り橋の袂を左に折れると国道にでます。

国道に出ないで奈路集落内の道を進んでいくと、船戸小学校の前に出ます。船戸小学校の前の道を北に進むと、四万十川の源流に行きつきます。また途中に南北朝時代の五山文学の双璧、義堂周信・絶海中津の像があるが。

奈路の集落

船戸橋です

やがて船戸の国道197号線の信号交差点に出ます。左手前角にコンビニがありますので飲み物を買いました。信号交差点の左には船戸トンネル右には堂海トンネルの入口が見えます。船戸町です。旧道は信号を横断して、右側の民家の裏側の山際を進んで右に大きくカーブしながら山際の旧道を進んでいたいたようです

国道西側の堂海トンネルの出入口が見えます。国道197号線はトンネルの連続で如何に厳しい道であったか想像以上です

堂海トンネル出来る前の旧国道が南側を川の内側を迂回していました。さらに街道はその内側を通っていたことになります

右の工場と車庫の間に山際への細い道が残っていますので入ります。

旧道は左の旧国道より一段高くなっていますが、かつては当然旧国道はなく、その左の四万十川の河川敷を旧街道が通っていたと思われます。左に沿っている民家や工場はその後出来た建物ですので、民家の屋根辺りを進んでいます

右にカーブする辺りから道は荒れてきました。通行する人もいないのにまだこれだけ残っていることが不思議なぐらいです。これ以上は進むのは困難ですので左の旧国道におります。

旧国道からから見て右の民家の山際を旧道は進んでいたのでしょう。距離にして100mありません。旧国道からから見て右の民家の山際を旧道は進んでいたのでしょう。距離にして100mありません。

左下の旧国道を少し進みます

旧国道はこの先で新国道を交差横断して、今度は北側の道を左に四万十川に沿い、新国道を山型に迂回します国道左には四万十川に架かる苅谷野橋

国道を渡る右側に堂海トンネルの出入り口がすぐ傍に見えます。

国道を横断して迂回している旧国道は新しい道で、かつての街道は大きく迂回しないで、すぐ先で左に折れて川を渡り国道と並行しながら四万十川を二度渡っていたようです。今は完全にその痕跡はありません。資料がないのでよくわかりませんが
下の写真は旧国道で、左は四万十川でその左を旧道は通っていたようです。

国道を交差した先で左に迂回する旧国道は200m程先で左の四万十川に沿って急カーブして南に300m程進みます。四万十川はそのまま国道を抜け南に離れていきますが。街道は国道の近くまで来たところで右に方向を変え、国道を左にみながら西に進みます

途中によく整備され祀られたた 

西に進んでいくと数軒の民家がありました

暫く進んだ先で国道にでます

川は壁地川となります、国道に合流した先300m程進んでいきますと

国道に架かる壁地川第二橋を渡ります少し広い場所に出てきました。

この先、壁地トンネルの手前から壁地坂を上り峠への道となります。
時間的に高野の今夜宿泊の「民宿天山」までは難しいかも、また少し前から雨が降って来たのでこの辺りで今日は終了としました。バスで天山まで行こうとバス停と時間を聞こうと、丁度一軒屋で広場の前にあった民家によって聞いたところバスはまだ2時間余り先で、仕方ないので歩こうとそうこうしているうちに、道を訪ねたお家の方が車で送ってあげようと行って頂きお言葉に甘えてしまった。本当に嬉しいご親切で有り難かった。ご主人も毎年行われている龍馬脱藩道マラソンの責任者をしておられるようでご理解があった。天山まで車で20分ほどだから、歩いて2時間ほどの距離が残っていた。本当にありがとうございました。

  

  

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