坂本龍馬・吉村虎太郎土佐脱藩の道を歩く 5月4日

長年歩きたいと思っていた「龍馬脱藩の道」をいよいよ歩くこととなった。嬉しさと、少し不安な気持ちが交錯しています。なでなら脱藩の道は巡礼の人々が歩く道でなく、かつては地元の人たちが利用する生活道路のような道であった。高知市より西へ少し歩いた先は山深い道となる。
NHKの大河ドラマで「龍馬伝」を放映された以前は、殆ど顧みられなかった廃道化に近い脱藩道であったのを、愛媛県新谷在住の村上恒夫先生はじめ同好の方たちの努力で脱藩の道を発見された。同時に行政や地元の人たちによって旧道が蘇った。それに伴い脱藩の道ブームで歩く人たちが非常に多く、イベント等も多種多彩になされていたようです。韮が峠の手前、土佐領内の最西北の高階野集落のおじさんも話されていたが、当時は畑仕事も手に着かなかったほど歩かれていたと。今ではブームも去り、部分的なイベント時以外は歩く人も少ないと言っておられた。高知市から長浜まで歩く人は殆どいないですと言っておられた。今でも案内表示が行き届いているので迷うこともなく、マップを持たなくても歩ける。脱藩の道への地元の方々の愛着と努力には感謝の言葉しかない。ただブーム時に民宿されていた宿泊施設が年と共に無くなっており、余程慎重に無理のない行程を組む必要があります。いつも一人歩きだが今回は特に資料準備等特に気を使った。
文久2年(1862)3月24日龍馬の脱藩の日、脱藩は藩に対する背信行為であり重い犯罪に相当する。当然家族にも連座が及んだが幸い坂本家にはお咎めがなかった。私なりに考えてみると脱藩に当たり、前もって当主坂本権平はじめ家族にそれとなく伝わっていたのでないだろうか、そのため藩庁に対して速やかに手を打てたと想像できる。土佐勤王党の首領、武市瑞山も「龍馬は土佐にあだたぬ(おさまりきれぬ)奴じゃから」といって龍馬の行動を見過ごした。その武市も翌年土佐勤王党同志と共に藩主山内容堂によって弾圧壊滅、投獄され切腹を申し渡された。
龍馬出立に辺り二番目の姉の栄は餞別に刀を渡しその夜自害したともいう悲しい話(それ以前に亡くなっていたという説もある)が残っています。以前は墓もなかったと聞いていますが、無くなって100年後墓の改装で同様に墓が建てられている。
一般的な書物や資料では龍馬は城下のはずれ、坂本家の和霊神社へ祈願に立ち寄り出立したと多くはそうなっていますが、実際歩いてみましたが(私は当日でなく前もって脱藩を計画した時点で参拝したのでないかと思っています。少しでも早く城下・土佐を抜けなければいけないから、まして当日は雨との説もある)。如何に健脚でも寄り道をしていては、1日目の梼原の那須邸に着くには到底私は無理だと感じた、3月24日城下を出た龍馬ときに28歳、沢村惣之丞は20歳の出奔、河野敏鎌は朝倉辺りまで見送ったという説。城下を出てからのルートについては、村上先生たちの脱藩の道、韮が峠の道が発見されるまでは、吉村虎太郎らが脱藩した「九十九曲がり峠」越が定説であったが。発見された後は韮ヶ峠越が定説となる。また朽木峠越でなく須崎回りの説もあるが、実際歩いてみてかなり迂回道となり翌日那須邸に着くのは如何に健脚でも無理だと思うし、街道沿いには余り同志が見当たらない。
生家から那須邸まで一昼夜何と85㎞を歩き通したことになるが、凄い健脚、多分途中同志宅で短時間の休憩、食事をとったであろう場所の説はあるが確証はない。城下を抜け朽木峠を越えると葉山・津野地区に入る、勤皇党の同志の人も沢山いたので、食事や休憩もできたかもしれない。山間の厳しい幾つもの峠道まして深夜険しい朽木峠越の山道を草鞋で歩き通すのは大変であっただろうと思うと、よく歩いたと敬意を表さざるを得ない。私のような趣味の範囲で装備もしつらえ歩いているものとは、根本的に目標意識が違う。
脱藩の道、特に素晴らしいところは新道は殆ど歩かなくて済む、それ以前に使われていた旧道路や旧々道路を中心にさらに古い地元の人たちが生活道路とした往還が残っているところであります。集落と集落を結ぶ道幅も1m前後の険しい道が多く峠から峠へと歩く尾根道、起伏のある山道が続きます。整備しなければ年々消失していくと思われる旧道であります。それを維持する皆様方の努力は素晴らしい。でも今回歩いてやはり時代の流れには逆らえない、廃道化している部分も多々あります。それでも旧道沿いの人々の優しさ親切が当たり前のように接していただいたご恩は今も忘れることはありません。それが如何に自然に振舞われて助けられた。折々の親切を追々載せさせて頂きます。
出発してから11日目(13日金曜日)高知県と愛媛県の県境の韮が峠(標高970m)まで来たところで、諸事情が重なり、特に朽木峠での谷川で水を飲もうと顔から転倒して水底の岩に顔を打ちつけ両鼻から出血したこと、これは私の横着でリュックを背負ったまま水を飲もうとして前めりに谷川に顔からこけたこと、以後この教訓が守っています。時間がせいていてもそのような横着は禁物であると。その後遺症も含み、11日間歩いた半分余り雨に降られ、特に長い布施が坂越えの強い雨が一日中降られ体力が消耗、その上、私は蛇が大嫌いで特にマムシの話がよく聞き少し弱気にもなっていました。この先暫く持っている携帯が通じないとの峠手前の集落の方のお話し等々、さらに厳しい韮が峠から先の2日間の山道のことを考えると少し不安となり、非常に残念でしたが今回は勇気を出して再挑戦を期して、韮が峠(標高970m)まで登り、高知市に引き返すこととしました。
その後、他の街道歩きとコロナ禍で5年程経過して脱藩の道を歩くのが遅れました。2021年11月より再び脱藩の道を歩き始める。

2回目は、まず定説の朽木峠越えルート以前に説があった、中村街道で須崎回りルートに挑戦。
そして1回目踏破できなかった壁地峠越えの再挑戦失敗。
今回のメインでもある、力石~尺能峠~吉村虎太郎生家~生家~梼原に通った宮谷への山越えの道。力石から登る道はすでに失われていた。
更に1回目で頂上付近で越えられなかった、当別峠越えの再挑戦訳の分からない林道を下ってしまって失敗。
1回目踏破出来なかった大越峠越えの成功。1回目頂上の先で、草や藪が背丈まであり断念したが、今回見事に草が刈って頂いてあり越えることが出来ました。
龍馬らが宮野々番所破りをした番所の背後の山越への道。
1回目抜けなかった梼原の和田越えの道に挑戦。
韮が峠から高知市内に戻り、人切り以蔵こと岡田以蔵の墓を探し当てた。これにより1回目の脱藩の道の不足を少し補えた。

3回目はまず歩く前に土佐東部の室戸岬・奈半利・安田・安芸と中岡慎太郎の史跡を中心に回り、高知市内では龍馬がよく遊んだ、坂本家の山であった円行寺の田中良助邸を見学。
翌日から街道に戻り新田で四万十川の源流点への途中にある「義堂周信・絶海中津」像を見る。
踏破に2度失敗した当別峠越えをやっと3度目で満足のいく結果となる。峠越は旧道が消滅しておりトンネルを越えた反対側に旧道が残っていて、反対側から峠の下まで行くことができた。
いよいよ1回目で終わっている韮が峠から「脱藩の道」に挑戦。
1日目は脱藩の道神納より4.5㎞外れた、「ふるさとの宿」(学校校舎をそのまま宿泊施設に利用)に泊り、翌日幾度も峠と尾根道を繰り返し、龍馬らが泊まった跡、泉が峠を抜けて小田川の宿間(亀の甲)へ、小田川~肱川に沿って大洲へ進む。
翌日さらに肱川に沿って大洲城下を通り、脱藩の道四国最終地点の伊予の長浜港に着く。龍馬・惣之丞は虎太郎の紹介で志士達の支援者、冨屋金兵衛邸に宿泊、四国最後の夜を過ごす。私も歓待して頂き、龍馬・虎太郎の泊まった間で四国脱藩の道は終わる。

4回目は長浜港~上関港~三田尻港、そこから山陽道に出て下関の志士の支援者白石正一郎邸に着いている。ずっと以前にはフェリーが長浜から上関に定期船があったようだが廃船となっている。私は、福山に出て鞆の浦に寄って町を見学、龍馬も泊まったという旅館跡が残る。小早川隆景の墓所のある本郷の米山寺へも寄り。柳井から上関へ、龍馬の宿泊地跡など港を見て回り翌日、室津・阿月の長州藩家老の浦靱負の史跡へ、ここには龍馬も来ているそうだ。
防府の三田尻から萩往還で山陽道と合流する道でなく、別ルート説の三田尻から桑山の南山麓を通り山陽道に出る道を歩く。山陽道は以前京都から下関まで歩いているので今回は長府から白石正一郎邸まで歩いた。山陽道の時寄れていなかった史跡を見ながら、特に前田砲台場跡や赤間神宮裏山の白石正一郎の墓所(晩年は赤間神宮の神官と聞いている)へ。下関駅に近い場所に白石正一郎邸跡碑が高杉晋作奇兵隊結成の地碑と立っている。ここで脱藩の道 完全踏破しました。
この後、高杉晋作史跡で療養の地・終焉の地等に寄る。近くにある桜山招魂場には尊王攘夷で倒れた、吉田松陰はじめ396基の石碑が立っているのも見事。
翌日、天誅組「魁」の首領、中山忠光がどのような地で暗殺されたのか知りたくて、長門に近い豊北町田耕(たすき)の本宮中山神社を訪れると、山麓の谷川の流れる寂しい場所に、鳥居と拝殿、横に血染めの岩が並び、前の広場に皇族の方の石柱と植樹がなされている。このような場所で19歳の若さで暗殺されたと思うと胸が締め付けられた。少し戻った山手に夜討峠(ようちがたお)という場所に一旦埋葬されたが、すぐ掘り起こされ綾羅木の中山神社に墓所があるので見学、同じ敷地横に関係の深い愛新覚羅社が建っていました。
5回目幕末に関係ないが、私の興味のある野中兼山の史跡、本山町の帰全山・土佐山田・岡豊町の岡豊城址へまず先に行きました。
翌日、佐川の脱藩の志士が集まった赤土峠に寄る。また以前虎太郎の生家から尺能峠~力石までの道を再度挑戦し3度目の虎太郎生家訪問。
翌日、宮野々番所前で龍馬らの脱藩の道と分かれ、吉村虎太郎ら10名の志士が越えていった九十九曲がり峠(標高830m)「維新の道」に挑戦、虎太郎ほか10名はいずれも維新を見ずして散っている有能な志士達であった。この道も地元の人たちによって狭い地道であるがよく整備されている。頂上への1㎞は湿地帯であったが、尾瀬のように木で歩道がなされ、四季折々の木や草花が咲き素晴らしい。頂上まで車でも行けるので是非推薦。
峠を越えた先は、どの道を脱藩していったかも地元の方でもよく分からないようで、「龍馬脱藩・ゆかりの道」が唯一の資料で城川町の土居まで何とか歩いたが、その先、「甲が森」~虎の口までの旧道が登り口のおじさんの話では以前は歩けたが今は消失いるとの事で断念土居で終わる。おじさんが車で城川町の歴史民俗資料館まで送って頂いた。そこの学芸員さんも崖崩れなども含め旧道は消失している、ここまで歩けば踏破したのと同じですよと慰めて頂いた。
その後、ホテルへ行こうと歩いていて道を訪ねた方がタクシー会社の経営者で、車に乗せて頂き、甲が森の越えれなかった峠への道の反対側を車で行っていただき説明を受けた。更にホテルまで送って頂き、歩いていたら長いトンネルも何本かあり暗くなってどうしていただろうと思う。その上メーターも下げたままで、分かれ際お礼を言うと「一期一会」と言って笑顔で去った行かれた。どろんこタクシーさん。お二人には本当にお世話になりました。清々しい一日でした。
虎之口辺りで虎太郎たちは川舟で肱川~長浜へ下る。
私はやむなく鹿野川から肱川と小田川の合流する鳥首まで歩き脱藩の道は終わる。
鳥首~再度宿間(亀の甲)に至り。(寄り道)として内子町まで歩き古い街並みを堪能して大洲藩支藩の新谷を見学し大洲に至る。大洲藩と支藩の新谷藩は鳥羽伏見の戦い前に長州藩の窮地を救っていた、熱い勤皇藩で西郷の命により明治天皇の東京遷都の大行列の先導役をつとめています。
翌日、自転車で大洲を見学して、再度長浜の冨屋金兵衛邸にて泊めて頂いた。
脱藩の街道だけでなく、それに伴う町や史跡を沢山回れた。

6回目 脱藩の道最後の石上峠~宿間の間道が間違えたようで再度挑戦。冨屋金兵衛邸に3度目宿泊してすべて終わる。
脱藩道の地域の住民の方々による整備が行き届き、特に案内表示等が事細かく行き届いて、山深い中でも道に迷うことなく独り歩きができました。
本当に皆様方のご苦労には感謝の言葉がありません。ありがとうございます、どうかいつまでも脱藩道として残していって下さい。ただ、一時の脱藩道のブームが去り、歩く人が少なくなったそうで今後さらに整備を続けなければ廃道化の可能性もあり、地元の関係者のご苦労が大変だと感謝いたします。

【第1回目】
高知城下の坂本龍馬生家跡~韮が峠 
歩いた日程 (2016年5月3日~5月13日) 
第1日目〗 5月3日 
    大阪22時発夜行高速バスで高知駅BTへ
第2日目〗 5月4日
    高知駅BT午前5時20分着
    坂本龍馬生家跡、「龍馬の生まれたまち記念館」前~松山街道重複して、朝倉~伊野~日下駅手前の正岡橋
    松山街道と分岐、佐川城下に入らず~谷知~兎田分岐~斗賀野駅の西側まで(ルートについては佐川城下を
    抜ける説もある)歩いてみてこのルート説をとる。 一旦高知市に戻る
第3日目〗 5月5日
    自転車で高知市内の龍馬関係史跡他を回る
第4日目〗 5月6日
    本日も自転車で高知市内の史跡を巡るも、雨で思うように回れなかったが、「御霊神社」参拝。明日より再
    脱藩道を歩きます。

第5日目〗 5月7日
     4日の日下の分岐~松山街道を重複して土佐藩主席家老深尾氏1万石の佐川城下へ。城下を見学
    佐川駅から1駅の襟野々駅東の兎田分岐へ(4日に歩いた分岐)、分岐から佐川城下への道~佐川駅前に、城下
    を抜けない道で別ルート説の道を歩く。(遠回りになるので歩かなかったと思う)
第6日目〗 5月8日
    両側が山の佐川城下を通り(この道の説もあるが歩かなかったと思う)~斗賀野(4日の歩いた分岐に合流)
    ~難所の朽木峠越~西谷で須崎からの梼原街道に合流~津野町(旧葉山村)かわうそ公園内にある町営の「葉
    山の郷」宿泊。朽木峠の下りで谷川に転倒し怪我
第7日目〗 5月9日
    朝から強い雨、かわうそ公園前~厳しく長い布施ヶ坂峠越壁地峠越え(峠越え失敗)。壁地トンネル手前
    民家の方に高野の今夜の「民宿天山」まで送って頂いた。
第8日目〗 5月10日
    民宿の女将さんが昨日の壁地まで送って頂いた、今日から峠道が続く。壁地坂峠越再挑戦するも(頂上辺り旧
    道消失で踏破できなかった)~新田の吉村寅太郎像~(寄り道)虎太郎の生家から戻り~当別峠越(峠の頂上
    まで登ったが下り道がなく迷走、峠越え未踏破)~野越え~神根峠越え~風早峠越え~太郎川公園。
    1日雨が強くここで終了。 梼原の宿泊先民宿「花の家」まで歩くびしょ濡れ。
第9日目〗 5月11日
    民宿の女将さんが太郎川公園まで送ってくれた~梼原の市街地回る~維新の門~川西路~大越峠越(頂上から
    先の下り道藪で旧道消失未踏破)昨日からの峠道廃道化が多い~藤の越峠越~宮野々番所跡(龍馬らが抜
    けた番所破りの山道分からず街道を進む)~六丁~茶や谷。 標高600m
    の茶や谷の「農家民宿かまや」宿泊
第10日目〗 5月12日
    茶が谷~松ヶ峠番所跡(土佐藩最西端の番所)~数戸の高階野集落(標高750m)~韮が峠(標高950m)
    ここから断腸の思いで計画を中断、高知市に戻る。
〖第11日目〗 5月13日
     午前中、高知城周辺の史跡を回り
     午後13時50分の高知発高速バスで帰宅。
  (予定なら)韮が峠を越え、愛媛県に入り途中1泊して宿間(亀の甲)に下り、小田川から肱川に沿って大洲を抜
        け長浜港にまで歩く予定であった。また後日に歩くV2016年5月4日(水) 

2016年5月4日 
龍馬生家~日下~谷知~斗賀野
深夜バスはようやく明るくなった高知駅BTに午前5時20分着きました。睡眠は十分とれてないが、それ以上に歩きたかった長年の夢が叶った、脱藩の道を歩けると思うと嬉しさが勝る。駅で歩く準備を整え高知駅前の広い市電通りを、はりまや橋の交差点へ向けて歩く、はりまや橋交差点を右に折れ市電通りの車道に沿って進みます。
スタートする前に朝食を食べなければと、丁度お店が開いていたので牛丼セットを食べる。
右に高知城を見て県庁前を抜け、市電の上町一丁目電停の南側にホテル南水が建つ、その傍に龍馬誕生地の碑が建っています。ホテル南水がまさに誕生地で、南水のすぐの辻を左に折れて一筋目の交差点が脱藩道の起点となります。
交差点の南西角に新しく建てられた「龍馬の生まれたまち記念館」が建っています。当然朝が早いので開館はしていないので後日に見学するとして、朝から空は快晴、背中の荷物が重く肩に食い込むが頑張って歩きます。
時は文久2年(1862)3月24日、小雨の中、坂本龍馬と沢村惣之丞は脱藩、龍馬28歳、惣之丞20歳、私は71歳、二人は日本を洗濯するために狭い土佐より走り出す。
二人の脱藩の道は津野町・梼原町を経由して県境韮ヶ峠を越えて愛媛県の小田川河畔の宿間の舟付場に至る、陸路133㎞の四国山地を抜ける厳しいいくつもの峠道を進んでいきます。更に川船で小田川から肱川へ、大洲城下を見て長浜まで173㎞の道のりで四国を脱出。
        高知駅       5時50分スタート
        龍馬の生家跡起点   6時40分  
        JR土讃線斗賀野駅  18時20分着
             39.87㎞ 66.455歩 2.908kl    

 【坂本龍馬の脱藩道のルート】
松山街道で高知城下の西端の思案橋を西に進み、伊野~日下(松山街道を右に分岐、脱道は南西)~谷知~斗賀野~ 
 朽木峠~梼原街道に合流して津野~梼原~県境韮が峠~宿間~大洲~瀬戸内の長浜への道。
思案橋の先、朝倉で松山街道と分岐して、中村街道を進む~春野町~荒倉峠~土佐市高岡~名古屋坂~須崎市街地~
 中村街道と別れ、新荘川に沿って西北に梼原街道を~津野町に入り葉山の手前で朽木峠を越えてきた脱藩道と合流し
 ます。
前者の脱藩道が定説となっていて、殆どの資料もこの道を掲載しています。

高知駅前広場

駅前広場に立つ像坂本龍馬・中岡慎太郎・武市半平太台風の時は撤去できるようです

高知駅前の南への幹線道路(土電も走る)をはりまや橋交差点へ歩く

途中、江ノ口川に架かる高知橋を渡り、はりまや橋交差点に出る。

はりまや橋交差点右角には連泊する宿泊先のホテル西鉄インはりまや橋があり、右には朱塗りのはりまや橋が復元されている。高知城下の中心部に位置し、周辺は繁華街で歌にも唄われる、僧純信と町娘お馬との恋の舞台としても知られる。二人は高知では人気が高く結構遺跡が残る。

はりまや橋交差点を右に折れる、土電と並行して歩くと、その少し先右に中央公園があります

本町中央公園を進むと旧本町、城下町が形成された時、最初にできた街筋であったことに由来する町名。東の堀詰から西の枡形までの武士の屋敷町でした

高知城・高知市役所を右(北)に見て県庁前電停を過ぎ、枡形交差点で左に折れると一筋目が高知の城下町を東西に通る旧松山街道で、街道を右(西)に折れます。右に折れる道筋を西に行くと、龍馬生家跡を通り脱藩道となる。
旧松山街道(土佐街道)は佐川まで脱藩道と重複します
旧松山街道は、大和時代に久万官道として開かれた古道。高知城下から朝倉、伊野、仁淀川を渡り、日下、佐川、佐川から街道は北西に転じ、越智、越智から仁淀川を遡り、大崎、高知城下から大崎までは現在の新道33号線にほぼ沿って通っていた。大崎から街道は北に向きを変え、池川川に沿って池川へ、池川で土居川に沿って、現在の新道494号線を西に進む。瓜生野の先で愛媛県との県境を越える。愛媛県側に入り、美川村七鳥、ここで再び現国道33号線にほぼ沿う道で、北方向に転じ、久万町を抜け、三坂峠越え(標高720m)の街道最大の難所を越える。冬季は氷点下以下になる厳しい道であった。峠を越えると砥部町に入り、松山城下へと続く街道であった。

松山街道の街筋を西に進みます

すぐ左に小さな 鳥居と祠

右に龍馬生家跡一角に建つホテル南水が建ち、南水のロビーには龍馬関連の資料が沢山飾られているようです。私は泊まらなかったので内部は分かりませんが。ホテル南水の正面、その北側33号線に面して上町病院があります
ホテル南水前 脱藩道起

ホテル南水の前の脱藩道(松山街道)

時は今、文久二年(1862)3月24日、龍馬28歳。腰には肥前忠弘の刀を差していた。また、彼を慕う20歳の沢村惣之丞も傍にいた、河野敏鎌(すぐ引き返す)と三人であった。24日の夜小雨降る中出立、25日の夜には梼原の同志那須家で宿泊していることが分かっている。
幾つも険しい峠道、約85㎞を一気に駆け抜けたのが定説になっているが。昔の人は一日に40㎞歩くといわれているが如何に健脚の二人でも、深夜の真っ暗な山道を歩くのは大変であっただろうと思う。実際歩いてみて実感した。
私見だが、一般的にいわれている和霊神社へ寄っていったというのは無理があるような気がする、やはり前もって祈願をしたと思うが。1日で梼原までの85㎞の距離、更にその後の韮ヶ峠までの険しい山道、更にその先、愛媛県の宿間までのことを考えると、どこかで短い仮眠をとったのではないだろうかとも思う。脱藩道沿いには勤王志士の同志の知り合いがいたから一刻の休憩は出来た。確かに佐川から朽木峠越えには異説はないだろうけど。朝出立したのであれば、別のルート説がある、須崎で仮眠休憩をとっていくのがその後の日程を考えると僅かながらその説も皆無でないかもしれないが、やはり朽木峠を見ながら須崎回りの迂回道は無理だろう。先輩たちの後を歩いている薄学の私には深く考えることは出来ないので、また博学者の調査をまとう。
北側の車道に出てみると、南水の西側には城西館ホテル城西館ホテルの西角に立つ坂本龍馬誕生地碑

坂本龍馬誕生地碑
国道33号線に面して立つ、龍馬誕生を記念する石碑。碑の前にはベンチまで用意されていて人気のほどがよくわかる。龍馬の誕生日であり命日でもある十一月十五日には毎年龍馬誕生祭が行われている。

旧水通町は江戸時代初めより、道の中央に用水路が通されていたところから由来する町名。スタート地点の左に、市立「龍馬のうまれたまち記念館」江戸時代は、「上町本町」といわれていたが、
明治時代に入り「高知街本町」との混同をさけるために、本町(丁)筋と改められた。

振り返ったところで、城下町形成の最初の基本となる道路でもあり、他国への重要往還道の起点でもあった。

近藤長次郎邸跡
龍馬生まれたまち記念館より150mほど西に歩いた信号交差点を左に折れたすぐ左道筋に碑。餅菓子商「大里屋」の息子で饅頭屋長次郎ともよばれた、優秀さをみとめられ藩より苗字帯刀を許され、江戸に出て活躍、龍馬のおこした亀山社中に参加、英国渡航を社中内で露顕慶応2年(1866)正月、長崎で切腹29歳の優秀な人材であった。龍馬は京都にいて、近藤の死を知って傍にいなかったことを残念がったという。

近藤長次郎邸跡を道路を挟んだ向かい側より見たところ

さらに50m程西に進んだ十字路を右に折れたすぐ左に、才谷屋跡地 坂本龍馬の本家で豪商「才谷屋」跡で現在喫茶「さいたにや」が営業、龍馬ファンで賑わう。店内にはビッシリト龍馬関連書籍が所狭しと並んでいました。

脱藩道より南へ1㎞ほどいくと、坂本家の氏神である和霊神社があるのですが、別の日に行きます。神社へは当日の朝、龍馬は祈願しに行ったというのが定説です。
私は、脱藩を決定してから前もって龍馬は参拝したのでないかという所見です。普段姿といっても少しでも早く城下を抜けるためには、寄り道をしただろうかと思う。
少しスタート地点から時間がとったので先を急ぎます。上町4丁目付近の街道を西へ、往時の水路がそのまま残り風情があります

左に上町公園を見て過ぎる道は水通町の交差点に出ると、左角にコンビニがあり、右に折れると上町5丁目電停の交差点、左に折れると新月橋で、龍馬脱藩ルートとの説もあります

かつてこの交差点には、思案橋と呼ばれた橋が架けられていた。上町5丁目、新月橋の付近には、旧水通町の思案橋や秋葉神社、水丁場の石碑や観音堂など、藩政時代の名残が残っている。思案橋は城下町の一番西端で、町と周辺を区切る水路に架けられた橋で、西の出入り口として城下三番所である思案橋番所が置かれていた。ここは伊予方面への街道筋として沢山の人の往来で賑わったところ。また小説でも有名な料亭である陽暉楼は、明治期にこの付近にあり隆盛を極めた。
この番所でも純信とお馬は面縛刑で見物人の前に晒された。脱藩道はこの思案橋を真っ直ぐ進み、道は少し狭くなっています
思案橋思案橋の跡は欄干が残るのみで素通りしてしまいそう。緩やかであるが少し上り道となっている

交差点を過ぎた右側は道路よりかなり低くなっている、その間を水路が通るので、一軒ごとに小橋が架かる、かつて交差点から2百数十m、現在竹村内科医院がある十字路までの間、高知三大遊郭街の一つで「玉水新地」跡、40軒余り大小の遊郭が並んでいたという。

左に竹村循環内科医院があります、この辺りまでであったようです。竹村医院から600mほど真っ直ぐな道を進みます、左に三階建ての住宅がある所で左に折れます。右に折れていくと旭町3丁目電停

左に折れて、右に川崎商店の所の交差点を渡り、その先20mほどで道が分岐するので右の道を進みます。

左のサンハイツ鏡川の前を通り鏡川の堤防に出ます

堤防を右に50mほど進むと、鏡川に架かる紅葉橋にでるので左に折れて橋を渡る。(元は雁切橋といったようだ)。ここはかつては渡し船であった。

紅葉橋(雁切り橋)と渡し跡

紅葉橋より右(上流)の景色

紅葉橋より左を見る、下流200mほど先左北岸は、現在トリム公園で市民の憩いの場所となっているが、かつては、「雁切り刑場」があって、幕末暗殺された土佐藩の参政吉田東洋の首も晒され。また人斬り以蔵こと岡田以蔵も打ち首獄門にされたところ

橋を渡り南詰を右に折れ数十mで道が分岐するので、鏡川から離れた左の道を進む

100m余り進むと左から道が合流してくる。ほぼ真っ直ぐの新道を西に進む

途中左に、高知県中央青果市場のがあり市場の北側の道を進む、新しいようで市場を作るにあたり道も改修されたのだろう、旧道の雰囲気は全くない

市場前を過ぎて200mほど進むと、左からの高知西バイパス道路、右から鏡川に架かっている鏡川橋からの33号線と土電伊野線が交差する、広い交差点に出るので高知西バイパスを歩道橋で南側に渡ります

この先の道は旧道の面影は全くないので広い33号線か、土電沿いの道を進むかであるが、私は車の多い33号線より、土電の走る道路の方が趣があるのでそちらを歩く。土電にそった街道筋

土電鴨部駅北側(右)に小さな鳥居と祠があります 宇賀神社

その先300mほどで土電曙町東町駅付近

曙町駅を過ぎると、電鉄の対向車線があります

左には、高知大学の広い敷地に校舎が建つ

次の駅は朝倉駅前電停、北側には土讃線JR朝倉駅が隣接する。高知城下を出た三人のうちの、河野敏鎌は朝倉村で二人を見送って城下に引き返す。

朝倉駅から200mほど進むと分岐していますが、右の土電線に沿います

交差点を渡った左角に しゅむか地蔵尊堂

この交差点で少し右に入り【寄り道】をする右に折れと100m弱でJR線の踏切を渡ると

朝倉神社 の長い参道の入り口の鳥居

参道を150m程進むと、本殿に入る鳥居があります朝倉神社本殿(重文)
神社は朝倉の総鎮守として信仰されてきた。江戸時代初期の建築で、切妻造りの急勾配の屋根に唐破風1間の向拝をもつ珍しい形式。また彩色も綺麗な建築で、朝倉神社の北側には、奈良県桜井市の大和三輪山に対比される標高100mほどの美しい自然林を残す、古くからの信仰の山、赤鬼山が朝倉神社の御神体でもあります。

国道から見る朝倉神社の北側の山 赤鬼山(県史蹟・標高100m)朝倉城跡(県史跡)赤鬼山とは反対側の南に本山氏の居城、標高103mの城山に朝倉城があった。残念ながら国道から城跡が見えなかったが、長宗我部氏との攻防で敗北服従する。

朝倉神社前電鉄駅手前左に、史蹟野中婉女邸跡の案内が電柱に貼られています

野中婉女邸跡と碑

脱藩には関係ないが野中兼山に興味があるので少し記させてください。前の県道向かいからの全景

野中婉は
土佐藩初期の執政野中兼山没後、その遺族たちは、父の政敵らによって罪人とされ寛文四年(1664)宿毛に幽閉された。四女婉四(又は五歳)の春のことであった。なんと幽閉四十年、厳しい監視下にありながら学問に励み医術までも医師安田道玄から学んだといわれる。
元禄十六年(1703)男子全員死亡することによって赦免される。旧臣井口氏らの奉仕を受け朝倉のこの地に住居を構える。朝倉の山野で薬草を見つけ、薬を調合し庶民のための医師として人生を全うする(日本最初の女医ともいわれています)。
その間、決して楽でない生活の中で一族の墓整備を行い、野中家先祖、忠臣たちの御霊を祭る廟堂を造る。反権力に負けることなく父兼山を信じ学問に精進した婉は、享保10年(1725)12月29日没す。土佐の人々が誇りとする女性の一人である。
土佐藩初期の藩改革を兼山が多少強引に推し進めたといえ、結果を出し藩の改革が進んだ結果であったが、優秀過ぎたがゆえに、また外様であったのもあるか、同僚の嫉みが想像以上に強かったのだろう。兼山没後その遺児たちが受けた40年の幽閉、子孫を絶やしてしまうまでの土佐山内家のやり方、私には受け入れられない陰湿な所が藩にはあったのだろう。元々の土佐の風土に合わなかったと思う。結果、下士や土着郷士等々の積年の思いが幕末に多くの優秀な勤王の志士たちが郷士に生まれ維新の先駆けとなっていった。でも維新を迎えた時には、優秀な人材の多くは、維新の魁として亡くなっていました。
城下を回った時にも感じたが、山内家の墓所よりも、野中家の墓所の方が規模が違っても何か土佐の人々は山内家の墓所に親しみを感じていなように私は個人的に感じた。
一部、大原富枝著の「婉という女」の一節を紹介します
1、赦免ということ
今日、安東家からお使者が見え、藩府から赦免状を受けた。お使者の帰った後、母上を中に、乳母、姉上、妹と泣いた。泣くまい、泣くことはしまい、泣くこととは遠い気持ちだ、と思いながらも涙がしだらなく流れてくる。
八十を越えた母上、六十五の乳母、姉妹たちもみんな四十を過ぎた老女ばかり.こうして相擁して泣いている涙も一人一人が別であった。・・・・・(略)・・・・、姉上が亡くなって十二年目に長兄清七どのが亡くなられた。31歳の若さであった。
2、生きること
朝倉の里はもう闇そこに沈んでいたが、井口の家の庭にあかあかとかがり火を炊き、門の外に家紋入りの提燈を持つ人々が並んで、私たちを待っていた。・・・(略)・・・井口家は構えは大きかったが、貧しさは匿しようもない百姓であった。・・・・・。
宮の奥電停を過ぎた左に県道沿いに 真言宗金剛山 遍照寺

遍照寺から200mほど進むと、ラーメン店ほれんそうが左にあり、その前の道が少しくの字に迂回しています、旧道の名残のようです

更に50mほど進み左の西の龍馬石材店の手前の道を県道と分かれ建物の裏の道を左に入る。

この道は現在の新県道の前の旧道で、明治27年3月に竣工した「四国新道」高知~松山線33号であり、この辺りの脱藩道は旧道に吸収されているか、さらにその前の旧々道になる。

左に入ると分岐する道は右へカーブ、左にはこうない坂医院があります、この坂は「咥内坂」といわれ旧県道の名残左にカーブしながら咥内坂を上っていく、右手下に新県道が走り電停咥内駅が見えます坂をほぼ上りきったところで、

右に鋭角に下る道にでて県道に出ます。右下の新県道の道は深い切通になっているので、かつては、切通にする前は、この上りきったところから右斜めの陸橋の見える辺りへ旧道は進んでいたのではないだろうかと想像してみると面白い。

右鋭角に下る所を写す、向かって右から上ってきて、左、ゴルフ看板の所を下る。かつての旧道は切通の前は鋭角に下らず、正面の陸橋あたりを超えていたのだろうと想像できる

下って咥内駅の南側の新県道にでて、50mほど新県道を歩き、JR陸橋下で県道と土電線を右に横断します交差しているJR線を潜り県道を横断し、土電線の踏切を渡り、すぐ先の車道の高架を潜ることとなりますが、この辺りは道路改修により旧道ではありません

車道の陸橋を潜ると道は右に道なりに坂を50m弱上りますJR線や県道・土電線が右下に見えます。

坂を上りきると左には工場や住宅が建ち並び広くなってます、ここで右にUターンして今度は左に線路を見て西に進みます

先ほどの県道向かいの高台の道です。橋を渡ることとなります。陸橋の手前から狭い坂道を人が上って来たので訪ねてみると、地元の人しか利用しない道で、迂回しなくてよい上る道があったようです。この辺りに切通前は咥内坂の旧道が出てきていたと想像します

正面の高知自動車道の高速道を潜りますが、ここはかつての峠、咥内坂の頂上です。高知市といの町の境界で、今は開発されてその面影は全く偲ぶことは出来ません。この頂上にかつて「ひだる地蔵」が祀られていたがこの先に移されています

高速道路下を潜ったところで、右にカーブしすぐまた左にカーブするところ、左に少し上る坂がありますが、そこを上ったところ右の急斜面の場所に移された

ひだるま地蔵 この地蔵についての謂れ出来事があるようですが省略しておきます。地蔵下の左のカーブを下っていきます

その先50mほどで道は分岐しますので左の狭い方の道を下りますと県道に出ます。右の広い方の道を進むと山なりに右から左に進み先で県道に出ますので同じです、果たして旧道はどちらであったか分かりません。左の道と思いますが県道は車が多いので右を歩きました。

右の広い方の道を進み右にカーブして再び左にカーブしてその先で県道に出ます県道を100m余り進んだところ左にハローワークいのがあります。その前県道を挟んで右に坂を上る道があるのでこの道は街道でないと思うが古墳があるのでそちらの道を進みました

県道より右に分岐している細い坂道です。上っていくと右に細い枝道があるので右に入ると、左石段の上に鳥居と空の祠があるが今は祀られていないようです

その少し奥に、枝川一号墳の説明板標示があります。七世紀初頭の円墳で周辺が藪化していて現状が分かりづらい

枝道の元に戻り北に進みすぐ先で左(西)にカーブして山麓の住宅や畑の道を進み、その高台からみる、いの町方面(西)左下の景色を見ながら西へ100mほど進みます。

右の枝道の所に枝川二号古墳の標示、少し枝道を北に入ったところに見えている枝川二号古墳と玄室の扉

横穴石室を持つ小円墳、古墳時代後期(約1300年以上前)。宇治川流域の酋長の族墓。枝川古墳群三基の内の一基。
枝川二号古墳の全景

元に戻り、左に下っていくと県道にでます、県道に架かる歩道橋で県道を渡るが、土電が県道の北側を沿っている。県道の南側に歩道があるので歩くのも助かる。今来た東方向を見る。遠望に潜って来た高速道が見えます。

歩道橋の北側に沿う、一号古墳・二号古墳が遠望できます

県道の左側の歩道を100m余り歩くと途中右に土電宇治団地前駅。駅の先、左のローソンを過ぎたところ県道右向かいに北東にゆるやかに上る狭いコンクリートの歩道を入る道があるので【寄り道】、そこを上り住宅を抜けると展望が開ける

その先、手すりを付けられた左に石段を上る道がある少し石段を上ると

枝川三号古墳

今歩いた道は脱藩道より外れています。チョット古墳を見たかったので寄り道をしましたが、先を急ぐ場合は高速道を潜り、ひだる地蔵を過ぎたところの分岐の左の細い下る道を進み、県道に入り真っ直ぐ西に来れば結構時間も短縮されます。ただし新道で旧道は多分改修されていると思います。
古墳見学も終わり元の県道に出ます。100m弱西に進むと大きな歩道橋と国道33号線が右からきて、今歩いている県道を吸収して、この交差点を真っ直ぐ西に土電は並行して進みますが、脱藩道は歩道橋のある交差点を左に折れます。

左に折れてすぐ川を渡り100m余り南に進むが、旧道は道路建設で近いうちには変わってしまうことでしょう。左手はホテルです、前で私を追い越して入っていきました。朝からご苦労さんです

道が狭くなり坂の手前の辻で右に折れる、正面はJR線

右に折れて狭い道を少し進んでいくと通行止めの柵、戻るのも大変なのでなんとか無理に柵越えをして中に入りました。

さらにその先の高速道の下の柵もこえて車道に出てきました。完成後は旧道はどうなるのか道が変わっていることだろう

左にカーブしてJR線の斜陵踏切を渡ります。

踏切を渡り西に進んでいきますが、脱藩道(松山街道)であるかわかりませんが、ある資料本を見せていただくと龍馬脱藩道(松山街道)となって説明されていたので、その本を参考にして南の山裾を歩きました。国道33号はJR線の北側で変化もなく面白くないので歩きません。でもこの道も山裾を道路建設中で最近は様変わりしている様子で、殆ど往時の面影を追うのは難しい。
踏切を渡ると正面に建設中の道路が見えます、道が分岐しているので道なりに右に進みます

この先暫く新興住宅地の南側を蛇行しながら進むので文章で説明します。写真はその道順に沿って撮ったものです。
今は道路バイパスや住宅地で往時の景色が皆無ですが、おそらく左は山裾が迫り右は田畑や湿地帯でまばらに農家が建っていたのだろう、山村風景を想像しながら歩いています。
踏切から150m程で最初の変則十字路に出ますので左斜めの道を進みます。十字路の右のやや広い道を北に進み100mほどでJR線に出て、更に100mほど北に進むと国道33号線にでて土電中山駅に出ます。
その道は進みません変則十字路から右側一帯は西浦の新しい分譲住宅地が広がりますがかつては湿地帯であった。十字路から50mほど先で左からの道が合流してT字路となります、ここを左(南)に200m程入っていくと、若宮八幡宮・聖神社がありますが、南側の山麓は現在建設中のバイパス道路で数年後にはこのあたり一帯は様相が変わってしまうだろう。T字路を真っ直ぐ70m程進むと住宅地区画の中の十字路に出まます

変則十字路を左斜めへ

左からの合流するT字路で左に入っていけば 若宮八幡宮・聖神社への道

T字路から60mほどで住宅地の中の十字路に出るので左に折れる

枝川858-98付近の住宅内の十字路を100m程南に折れて進むと、道の左手は山裾で右は住宅地です。南に60mほど進むと道が分岐するので右への道(西)をとる。その先も区画整備された住宅地を右に見ながら左の山裾を進む。途中枝道はあるも道なりに進んでいく。

何度か蛇行を繰り返し暫く歩いていくと住宅の区画整備の一番西端のやや広い三叉路の突当りに出る。その前方は視界が開けてかつての湿地帯の水田が広がるその辻を左に進む

水田を右に見ながらやや広い道を西に進む

150mほど進んだところで一つ目の左の住宅内に入る90度の道があるので左(南)に折れる。真っ直ぐの広い道(近道)を進んでも、この先500mほどで、今から進む道と合流するのでどちらでもよいが、一応資料に基づいて旧道と思って進みます

左に折れた筋右一帯には是友集落が整備された宅地。すぐ道は分岐するので左の道を真っ直ぐ行くと近道で、この先で合流します。分岐する正面角に今西塗装店を左に折れます

左の道は旧集落の趣きがあるが戸数は数軒しか残っていない。集落の先で右に倉庫があります、左に上がる細い道と、右側の真っ直ぐな倉庫の前の道があるので右の道を進みます。

車の置いている下側の細い旧道に入ります。

更に右側の下る道が旧道

右には畑と水の溜める側溝、左側の畦道の旧道を(よく残っていたもんです)、道幅は狭いが地元の人の畑仕事に使われているので幸いした、歩くには難渋をしない。

距離にして数十m手前の舗装道に出る。舗装に出たところから振り返る残っている藩政期の街道跡

西に50mほど舗装道を進んだ先で三叉路となり、先ほど分岐した近道が右から合流してきます。この合流点は真っ直ぐ西へ、すぐ(10m)の分岐点は南に折れます

南に折れて20mほどで右への車道と左からの擁壁を下ってくる道と、右の民家の間の道を南に進みます。右への道(西)は、150mほどでこの分岐した道と合流する近道です。

私はあくまで旧道といわれる道を進みます。少し先辺りまでコンクリート道になっています。

その先は地道となり、左は土手、右は民家の屋根の高さ辺りを歩くことになります。一部には草がありますが道はよく整備されていて快適な旧道です。是友集落の旧道跡

一部草が覆っていますが問題ありません

右側の民家を右下に見ながら分岐点から100m程快適な旧道跡を進みますと、前方が建設中の新道路の擁壁になります。その手前の舗装道に出ます。

舗装道に出たところから、残っていた旧道を振り返ったところです

往時の街道は建設中のバイパスの山裾に出て、右に曲がりながら弓を描いて再びバイパスに接近しますが、今となっては完全に廃道となってしまった。バイパスの北側の道を適当に西に折れて進みます。

途中で旧道に合流します(チョットこの辺りの道いつ合流したか分かりませんが)。やがて右からの道が合流してきますがこの道が前述した分岐点で右折れした道が真っ直ぐきていました(近道)。

合流点の右角に是友集会所がありその前は変則交差点になっています。交差点を右に折れて100m余り広い道を進むと 八坂神社へ行きます。旧道は集会所を右にみいて左の南西の道

蘇我神社
この付近に蘇我神社が有るようなのでこの近くで畑仕事をしている方に聞くと、バイパス道路で取り壊されて今は御神体だけ子孫の方に引き取られたということであった。祭神は波川玄番城主波川清宗と4男の清信。波川氏は蘇我氏の末裔といわれる。長宗我部国親の重臣国親の娘(元親の妹)を妻とし一門衆となり四国統一に貢献したが、天正八年(1580)謀反の罪で自刃に追い込まれ、一族も鎌田城でほとんどが討死したという。うち4男清信は伊予に逃れていたが、慶長十一年(1606)伊野に帰郷し町田と名を改めこの是友に居住し代々庄屋職を世襲した。その町田氏が蘇我神社を建立した。

是友集会所から南西に歩く、左に山麓、右に住宅地を見ながら蛇行しながら120m程歩くと、正面の民家の東側の細い道を見ると前方にバイパスが見え民家の手前の道を右に90度カーブします。

右にカーブした先170m程道なりに進むとT字路に突き当たります

T字路に出ると旧道は左の畑への道を進みバイパスの道路を越ていましたが、左の山裾への道はバイパス工事の改修で完全に分断され消失してしまった。

やむなくバイパス道路の手前の側道を進む。側道を進むと新道の擁壁に突き当たるので、左に折れて70m程新道を進むと宇治川に架かる竹崎橋に出ます。

宇治川に沿って右からの道は八坂神社の北側を通ってくる道で竹崎橋南袂の交差点にでます。この辺りも数年後は景色も変わってしまいそうです。
竹崎橋の南袂ここは橋を渡らず左川沿いに進む。

ここでかつての旧道を探してみる、竹崎橋から南に新しい道を100mばかり、先ほど擁壁に突き当たった辺りに円を描きながら山裾をバイパスに沿ってこの辺りに出てきたようです。民家の傍の急坂の地道の道が残っていたので急坂を上ってみました、頂上辺りでバイパスに遮られ消失しているが、歩く人もいなくなりまもなく雑木林に吸収されてしまうことだろう。旧道はこの頂上辺りからバイパスの南側を西に通っていたのだと思います。バイパス道路の南側の森はバーガー森といって遺跡があるようだ。

坂を少し上っていくと石垣が現れたので間違いないようですが、この先、崖となりバイパスの道路が崖下に通っており旧道は消失。その先は藪化してしまっているので元の竹崎橋に戻る。でもこれがかつての旧道跡であったら大満足なのだが分からない。でもバーガー森の山裾を西に旧道が通っていたのは間違いない。

時間がとってしまったが先を進むみ竹崎橋から宇治川の西を見る

竹崎橋の南袂の交差点を西に進むとすぐまた三津姫橋を渡るがその手前カーブの右に橋の由来碑が立つ。
三津姫橋 
新宇治川放水路呑口のほぼ中央部に当たる位置、古くより祀られてきたがありましたが、新宇治川放水路建設工事に伴ない少し西に移されました。その際、御祭神は祠内の木札に「三津姫大明神」とあり、また祠の付近の地下より、舎利および櫛が発掘されそれぞれを御神体として遷座先の祠に安置され三津姫大明神として祀られています。謂れはありますが、若い女性が神として祀られる由緒ある祠であります。この橋の近くにあったので祠に因み、三津姫橋と命名された。
三津姫橋説明碑

少し西側にある 馬頭観音を祀る祠

祠から南を見ると古代遺跡のある「バーガー森」とバイパス道路。旧道はあの北斜面辺りを通っていたのだろう。(定かでないが)

西に進んでいくと二つ目の沖田橋に出る。沖田橋から南にはバイパス道路が迫ってきている。旧街道は南の山裾を抜けバイパス道路を越えてこの辺りに出てきていた。

沖田橋

沖田橋から100m余り北に進むと信号交差点に出ます。 
信号交差点右(東)の真っ直ぐの道はいの町から先ほどの八坂神社北側を通りJR枝川駅南に出て高知城下への近世の道として「伊野町史」に載っているので、確かに幕末期に存在していれば、今私が歩いてきた山裾の旧道より余程近道の直線道となる。
龍馬や惣之丞はこの辺りは隠れて歩くことなく散歩でもしている様子で公にあるける道であった。ましてや急いでいるのであればなおさらこの道があれば二人は歩いたことが十分想像できる。また、この交差点を直進して仁淀病院の東側を通りJR線を越え土電鳴谷電停の車道に出て、左に折れ伊野電停駅終点の前を通りいの町役場の南側の道を西に進み池の川橋に出ていたとも考えられる。ただ今回資料に基づき交差点を左に折れて進むこととする。

交差点から左に折れた道、左側には側溝が沿う西に200mほど進むと右に大きくカーブする、右に法務局いの支局がありその前、道を挟んで読めないが古い碑がある

その先しばらく進むと右にJR伊野駅、線路に沿って左にカーブする角に駅前公園がある。

公園から200m程でT字路となり右に折れてJR土讃線の吾妻踏切を渡る。

踏切を渡るとすぐ33号線の交差点に出るので左に折れます。

40mほどで早稲川に架かる橋の手前川沿いの狭い道を北に進んでいくが、いの町での街道(龍馬達が歩いた道)はどの道かわからない。

歩いてみると前述の沖田橋から北に進み交差点を直進した道が正しいような気がする。早稲川に沿って100mほど進むと右からの道、仁淀病院前を通り土電線に沿っていの町役場前を通ってきた道に交差する。交差する左の吾妻橋を渡るがやはり右からの道の方が旧道と思われる。

左に折れて渡る、早稲川に架かる吾妻橋

ここで交差点を右に少し進んで市街地に入り、いの町役場の東側に【寄り道】をする。
琴平神社讃岐の金刀比羅宮と同じ大物主神を祀り、漁業、航海など海上の安全を守る「海の神様」として信仰されている。境内からはいの町全体が眺望でき東側には伊野の俳壇同人と芭蕉の句を刻んだ県内最大の句碑群がある

本殿は木造の流れ造りで各所に繊細な彫板が施されていて江戸時代末期の創建。拝殿は昭和30年代の創建。

句碑群 嘉永5年(1852)伊野の俳人たちが芭蕉翁を追慕して建立。「春の夜はさくらに明けて仕舞けり」の芭蕉句碑と、伊野の俳壇同人がそれぞれ自分の句碑を建立した。藩政時代末期の伊野は御用紙漉で栄え経済は豊かで文化水準も高く俳句も盛んであった。同人排句の九碑が建つ

寄り道を終え元の辻に戻り西への道筋吾妻橋を渡る、すぐ左に旧土居邸「見附屋」いの町は和紙が盛んであった、その和紙の商家海鼠壁が残り、虫カゴ窓・水切り瓦・覗き格子等往時の面影を残す重厚な建物。

150m程西に町筋を進むみ池の川橋を渡ります。

橋を渡ったすぐの十字路を右に折れます。左に幸田公園右に曲がる左角には伊野税務署右に折れたこの街筋は問屋坂と呼ばれ紙問屋が建ち並んでいた。その面影雰囲気の残る街筋で素晴らしい。途中左に入るといの町紙の博物館があったが見逃してしまったというよりうっかりしてしまった。残念!!

街筋の終わり近く右に、椙本神社があります

椙本神社 延暦12年(793)創建されたといわれる古社。「いのの大国さま」といわれ親しまれている

鎌倉時代作の「八角形漆塗神輿」(重文)が伝わり高知県三大祭りの一つとして街中を練り歩きます

神社の前で国道33号線と合流し、どちらを進んでもいいが33号線は交通量が多いので、左の信号を渡り石段を上り仁淀川の堤防に上り北(右)に進む。

堤防を北に暫く進む、左は仁淀川

やがて橋の手前まで行くがそこにはフェンスで通行止めになっているが間を抜けて橋の袂に出る。今日は橋の向かい河原で祭りがあるようで人出が多い。

橋の袂からの仁淀川橋、街道の「波川の渡し」はこの辺りにあったようです。龍馬たちもここで渡し船に乗って対岸に渡ったことだろう。結構幅の広い

橋より数十m上流の水門でこの辺りが渡し舟跡、遠望の仁淀川はこの先で左に大きく曲がっています

対岸の河川での祭り風景

橋の左り対岸を見ると、「かんぽの宿伊野」の建物が見える。周辺一帯は戦国期に長宗我部氏に滅ぼされた、波川氏の波川玄番城跡(標高171m)や鎌田城跡がありますJR土讃線の波川駅が近くにあります。

仁淀川橋を渡り西袂の交差点で右の堤防を進みます、祭りで車が堤防一杯に止まり歩けないので止む無く左下の道を進む見ます。地元にしては祭り優先だから仕方ながでも途中で帰りたくても車が出せない

暫く進んでいくと右から堤防道が合流してきます

右はすぐ仁淀川ですが少し樹林の中の街道を進むと右に があります

左に斜面に横穴が何箇所かありますが何でしょうか!当時の墓かな

更に進むと左の斜面上に古い神社が有ります。ちゃんと今も祀られているようで参道となった道が付いています。

林を抜けると数戸の茂地集落があります田畑が街道の右側に広がり左は山です。山裾をこの先進みます

今は田畑となっていますが街道はこの右の田畑の畦を通っていたようですが今は消失しています

用水路に沿って進んでいくとやがて新しい住宅が数軒建っている、突き当りがT字路になっています

このT字路で私は迷いました。左か右か聞く人の姿も見当たらなく最初は右に折れすぐ左にカーブして緩やかな坂を進んだが、万一間違っていたら大変なのでT字路に戻り左の道を暫く進むと国道33号線にでました。結果的には資料によると最初のT字路を右に折れて、右の仁淀川に近づきながら左方向に変えて西に進むのが正しかったようですが、ただ道が残っているかどうかわかりませんでした。
資料では途中左にある92.7mの山裾を通り、墓地に下りていくのが街道であったようですが、果たして今でもその道は残っていたのかは分かりません多分藪化しているかもしれませんがそう思って諦めます。T字路を左に折れて国道33号線に出たところで丁度左角のお家におばさんがいたので聞いたところ、山裾の街道は以前あったようだが今残っているかハッキリわからないようで、今では通る人もいないとのことですと教えていただいた。

右に折れ国道を暫く進む途中緩やかな峠のような上り下りの道。

国道33号と交差する向かい左にお地蔵さんのような石碑正面の道を山手に入っていくと、波川玄番城跡(標高172m)へでます

光岩地区で右に折れ国道33号線で緩やかな上り国道の左側をJR土讃線がそう

国道を上り下っていくと右に鳥居が見えてきます 小村神社

長い参道両側に立派な千年杉が林立する並木

社伝では用明天皇2年(587)の創建とされる古社で土佐の二の宮として有名。金銅壮環頭太刀を御神体とする(国宝)その奥に社殿が建ち荘厳な雰囲気

燈明杉または牡丹杉
社殿の背後に樹齢一千年の「燈明杉」又は「牡丹杉」といわれる老杉が鬱蒼と天を摩し荘厳さを感じさせる。この杉の大木は下枝は杉葉であるが中ほどより上は檜かハクの葉様で稀れにみる珍種である。樹高25m。
伝説によると宝永2年7月の仁淀川大氾濫、また安政元年大地震の前夜にも、さらに日露役の時等、何等かの異変のあるときにはこの大樹の梢に大きな霊火が燐々と灯ったと言い伝えられている。里人はこの大樹を神木として崇拝してきており燈明杉と言われる所以であります。

(寄り道) 小村神社の社殿、東側の車道を少し北に進むと右に細い入る道があるのでその道の奥に墓地が見えている墓地の中を通り進む

前述のT字路を右に進むとかつての街道は正面の山裾(標高92.7m)を通りながらこの道に出ていた。山裾には墓が点在しています。要するに反対側に出て旧道を探した。

更に進むと左右に分かれる草の茂った道に出ました、道不案内なのでこれ以上は進まないが、旧道がここに出てきていたことが確信できたので大満足。(冬場なら多分さらに奥に冒険したと思う)

小村神社に戻ります。この状況からすると大村神社から先の街道は神社あたりから国道に出なくて、そのまま西に旧道はあったのではないかと私見で想像します。正面の国道33号線に戻り西に進みます

国道を200m程西に進んだ信号交差点を右に折れ日下川に架かる国岡橋を渡ります

橋を渡り真っ直ぐ北に200m余り進みます

左に支柱(幡旗柱)が建っているところに左への田畑の中を通る道がありますそこを左(西)に折れます。この道は街道ではありませんが昔からの古い道だそうです。

田の中の道を暫く進むと道は突き当たるので左(南)に折れすぐまた右(西)に折れます更に西に折れた真っ直ぐな道

先で突き当たり正面の森を見て右に曲がり車道に出ます。車道に出たところから今出てきた道を見る。

車道に出て左に折れるが、今歩いてきた田畑の中の道は街道でも脱藩道でもないが古くからの道だそうです。
支柱が立っていた辻を西の畦道に入らずそのまま真っ直ぐ北に出ると、この車道に出るのでその道を進んだほうがわかりやすいです

車道を少し西に進むと左(南)から出てくる道のT字路に出るので南に曲がります。そして日下川に架かる沖福良橋を渡るとこの福良橋の左、日下川に沿って街道が前述の国岡橋辺りから出てきていたようですが今は消失しているので迂回してきました。

橋を渡り右に折れるとまた街道の雰囲気が出てきました。日下川を右に見ながら西に進みます

少し左に曲がっているところがありますが、おそらく旧道は真っ直ぐであったと思われる跡が残ります。右には日下川を渡る歩行橋が架かっています

左に旧道跡の畦道がはっきり残っているのが見えます。

右に日下川を見ながら進み先で右にカーブして左にカーブするが道なりに進みます。

車道にでて右に折れます

車道の真っ直ぐの道を進み左に養護学校の建物が見えます。

暫く右の日下川の左側(南岸)の旧道を進みます。右前方に日下川に架かる正寺岡橋が見えてやがて橋を右に渡ります。藩政期には日下大橋がこの付近にあった、番所があり小さな宿があったようで店が並んで賑わっていたという

現在の正寺岡橋を渡ると対岸の少し高台に 観音堂が見えます本尊は馬頭観音で境内には古い祠や灯籠が残っています。

特に境内には珍しい嘉永年間の刻字のある  瓢箪型をした手水鉢

観音堂前のT字路を西に30mほど進むと分岐点があります。

 【分岐点】分岐点を真っ直ぐ進むと松山街道(土佐街道)で佐川市街地に入る旧道。松山街道を右に分け分岐点を左に曲がる道は街道名はないが二人が急いだ脱藩道の定説。二人はこの辺りの店で腹ごしらえをしたのでないだろうか!!
脱藩道としては殆どの資料を見てもここから左に折れて谷地地区を抜けて佐川の南に出るルート道で、今では車道が通っているが当時は道なき道、細い里道を歩いたことを想像します。
中には資料によっては、松山街道をまっすぐ進み佐川の城下町を抜けたという説もありますが、私も念のため歩きましたが後述しますが二人は佐川城下を抜けたと考えられません。ただ城下には結構見るところも史跡もあり観光地でそのような関係で配慮されたと想像しました。
急いでいる脱藩でもあり遠まわりの道で危険な城下町をわざわざ抜けたと考えられない。
現在の佐川市街地いわゆる、藩政期の深尾氏の城下町で如何に本藩の土佐山内家とぎくしゃくしていたとはいえ、一万石の筆頭家老職でもあり山と山の間の細長い小さな城下町を通り人目につきやすく安全と思えない。
分岐を左(南)谷地を越えて佐川の南、襟野々辺りに出て斗賀野から朽木峠越えが定説のようです。襟野々の南から西への道を斗賀野を通り朽木峠へ行く方がよほど近いように思われた。ただ如何に健脚とはいえあの朽木峠越えを深夜に歩くことが本当にできたのであろうかという疑問もわく、深夜は峠の手前の誰か同志の家で休憩したのではないかとも思ってくる。
説明はまたおいおいすることにして前に進みます。

観音堂の下のT字路を左に折れたすぐ先で左に折れる、次の写真は折れた道筋です

左の日下川に沿って堤の道を南に進むと、少し先で国道33号線に出る左に折れて33号線の日下川に架かる下分大橋を渡り、東袂で右に折れます。

右に折れてすぐのJR土讃線の踏切を渡ります、つづいてすぐに戸梶川と日下川が合流するところに今市橋を渡りこの戸梶川に沿って南に292号線を進むことになります。

少し先右に日高村保険センターの建物があります。
この先の道は改修された車道で旧道はほとんどわからなく、ですから当時の難渋した道を想像できません。龍馬達がどの道を通ったか確定できないからです。このルートを脱藩したのなら山里の畦道や村の生活道とか樹林帯の峠を越えて行ったことは想像できます。だから思いを馳せながら私の道を歩いていきます。

右に凄い石段のある 八幡宮がある。重いリュックを持ってとても上れなかったので諦めました。
八幡宮花採太刀踊り(無形民俗文化財)嘉暦三年(1329)に始まる古い歴史を持つ

県道を戸梶川に沿いながら南西に緩やかな坂を上りながら進み、 長崎集落の中の県道を進みます 

分岐しますが右の真っ直ぐの道を進みます

その先、左に公園があり傍を旧道のような整備された道があったのでそちらを歩きました

旧道の跡か右に少し膨らんでいる馬越地区付近でこの先で新道は右にカーブするところで戸梶川が接近します。

緩やかに右にカーブする分岐点の左の戸梶川に架かる橋を渡った左角に大木があり木の袂に 常夜灯と地蔵尊

橋を渡った左への小川沿いの道は南込山集落への道です。更に渋川川に沿って土佐市へ入ります

左に接近した戸梶川の堤に沿って行く道も古いようで川沿いを西に進んだ先で、今歩いている新道と合流するようです。龍馬らが歩いた道なんでしょうか!!。右に新道が走っています。

私は大木の辻にもどり右の新道を少し進み、山裾にある猿田洞に寄りたいので別のルート道を進みます。どちらが正しいか分かりません。

右に分岐する道がありますのでこちらに入ります。北込山集落を抜け猿田集落に入ります。

集落の抜けた先で道は突当り右正面に 猿田洞 総延長枝洞も加え約1400mの石灰洞です。

伝説の忍者茂平の修行の地としても伝わる安政5年(1858)に発見されたという、右の建物は産業郷土資料館閉まっていました

猿田洞に突き当たると左に100m弱進むと新道に出て右に進みます

脱藩道として、今の集落内の道か、左前方を左右に走る道かに意見が分かれるようであるが、今となっては分からなく個人個人が想像して楽しむのがいいい。私としては集落や史跡に関係なく少しでも近道で早く辿れる道が二人は歩いたと思う。正面の川沿いを左から右への田畑の中の道を進んだと思いめぐらす。
今歩いてきた道と少しは違いますが

戸梶地区に入るとこの辺りに左からの道が合流していたのだろう。左に下っていく擁壁沿いの道があるが分からないので右の擁壁上の新道を進みます

多分この左に下る道が新道以前の旧道だろう。振り返ってみると新道の左の川に沿って道があるようで、この道がかつての脱藩道かも

その先カーブしたところから振り返るとにかくこの山間の狭いところを歩いてきたのに間違いないだろう。

この辺りから道は狭くなってきました

戸梶川を左下に山間が狭くなってきたのでかなり山深くなったのが感じられます。道は北側の山裾を蛇行しながら徐々に上っていきます。先ほどの左へ下る道は、この左下を進んでいたのだろう。

左に少し変わった形の 自然石の常夜灯があります

戸梶の集落を進んでいきます。集落は道を挟んで右の山の斜面左の川までの斜面に建っています。

常夜灯の左下(川向沿い)に道があり道沿いに石の祠も見えます。先ほどの道が続いてきたのだろうか、旧道は下の道かもよく分からないが

振り返ってみると進行方向左下(祠のあった)のしっかりした道です。今歩いている新道建設以前の古い道のようです

道沿いに立派な石垣が続きます民家の跡なのか。こう見てみるとどちらも古い道のような気がするが残念ながら私にはわからないとにかく龍馬・惣之丞二人はこの山間を歩いたのだろう

緩やかですがどんどん登っていきます

前方の稜線が低くなってきたので峠に近いのか

暫く山道を上っていくと左への分岐があります、新道以前の古い道だろう。

興味がわいたので少し下って入りましたが、この先ですでに道は藪化して入れません。旧道跡です

新道かこの先右に大きくヘアピンになっているので、かつては左の道が左斜めに進みほぼ真っ直ぐ斜め左にすすんでいたのでしょう。

冬場なら歩けるか探検するだ今の時期マムシも出ているので無理しない。元の分岐に戻り新道を歩きます。新道も舗装されているが趣があって快適です。この辺りからヘアピン道になるので旧道はまっ直ぐ下っていたことだろうこの新道のヘアピンカーブは資料や雑誌によく撮影されている場所です。かなり登ってきました。猿田洞から2.7㎞、この先分岐の谷地まで1.6㎞。

坂本龍馬脱藩・ゆかりの道、四国のみちの案内標示が立っています。

カーブを上上から見る

さらに上っていきます今でも深い坂道の峠ですから当時は大変難儀のな山越えであったことでしょう

前述のところから登ってくる旧道はこの辺り左に、かつての廃道化した旧道が出てきていたと想像する、県道の新道が出来るまであったのでしょう。左下にトタン屋根の建物が見えます、ということはこの下前辺りに上ってきていたのだろう。

ある資料では旧道はかつてこの左下の小屋の所に出てきていたと記されていました。
この様にいろいろと想像しながら街道歩きをしていると面白く飽きない

振り返ってみるこの付近に上ってきて県道に合流していたようだ。
二人は息せき切って急ぎ足で登ってくる姿が浮かびます。

この辺りはかつての峠跡と思われるが峠の面影はありませんが道標標示が立っています。日高村から土佐市に入ります。

峠からの上ってきた方向の眺め、今は新道があるが当時は大変であっただろう、まして夜に歩いたとしたら想像できない。

峠からは下りになります

視界が広がって来ました

道沿いの木の下に お地蔵さんと指差道標のようだが刻字が判読できない。四国のみち巡礼道の道標だろうかまた路傍に立つお地蔵さんも久しぶりで懐かしい

さらに下っていくと、集落が見えてきました。土佐佐川線(県道53号)の走るT字路に出たようです

T字路左への道は土佐市街地への道。佐川方面へのの道は右へ。

T字路左への道は土佐市街地への道で佐川方面への道は右へ。T字路の正面に立つ案内標示

T字路を右に折れる新道今時間は4時20分で日が長いので安心。

少し先右に がありますその上斜面に道らしいのがあります。県道の建設前の旧道かもいってみます

祠の傍の細い道を上に進むと道はありました。念のため右に折れて進んでいくと先ほど峠を下って来たT字路の手前数十mのところにでました。県道の出来る前の集落の里道に間違いないのでこの道を歩きます。
正面の道、左から下ってきた脱藩道で右へ下るとT字路に突き当たります

舗装道の坂を数十m進むと集落にはいり道が狭くなります。

左の県道と並行して、一段高い舗装道を進みます、新道の出来る以前の集落の生活道(脱藩道)と思われる。
ただ少し気になるのが民家の屋根の高さの上を通っており、またすべてが民家の裏であり多分県道が出来てからの民家であれば納得。とにかく西に向かって進んでいきます。

集落の北側の斜面の道を快適に進みます

県道の北側(右)の樹木との間の道

県道に出ず右のコンクリート道を上るこの辺りかつて谷地小学校跡

その先の谷地集落の道やはり旧道はいいです

岩の上に お地蔵さんが祀られている

左 北原小学校谷地分校

足を踏み外したら下に落ちるような狭い道で今も利用されているのだろうか、道がさらに狭くなるがコンクリート道が続きます。

やがて旧道は車道に合流して左(南)の橋を渡り車道を下ります。  

左に曲がる車道の右手に 天満宮

出てきて、車道に合流して正面に下っていきます。(北側から辻を見る)

少し進むと左からの県道に合流して右(南西)に進みます。

暫く進むと左に巨木が見えてきます。丁度前述のT字路から約1㎞です。

法華寺跡の楼門と影向の杉 廃寺で性空上人開基のお寺であった。

法華寺跡は土佐市谷地の集落西端部にあたり県道土佐佐川線(53号線)の道路沿いにある。現在は寺跡として残るが敷地内には楼門が残る、楼門の木造金剛力士像(県文化財)は剛健で素朴、ヒノキの寄木造りで室町時代の作といわれている。向って右に「阿形」、左に「吽形」。また、法華寺の観音堂は仁王門前の県道北向かいの少し高台にある。

影向(ようごう)の杉(天然記念物)この杉は三本が根元で合着し、根続き根上がりの珍しい形になっている。幹回りは東より5.2m、4.5m、3.7m。樹高は中央から26mで樹齢は推定500年。影向とは神仏が姿を変えて現れることをいう

県道向いの石段を上がり 法華寺観音堂

楼門から南に車道を800mほど行くと岩窟のなかに穴地蔵とよばっれる地蔵があります。岩屋地蔵と呼ばれています。江戸時代に法華寺に石地蔵を奉納持参したとき住職が出来が悪いといって投げた時石地蔵が二つに割れたという。この割れた地蔵をあわせて祀ったのが始まりとされ穴に関する病に御利益があるとされています。寄り道したいが時間がないので諦める。
楼門から暫く県道の緩やかな坂を西に進む。やがて土佐市から佐川町に入る

境界のは深い切通しの県道53号線切通しに改修される以前の旧道は厳しい道であったようです

道は下り坂となり九十九折りの山道を下っていきます。現在は新しい車道でヘアピンや蛇行しながら一気に下ることが出来ますが。脱藩時の道は殆ど廃道化している山道をここから見える山間を下っていたのでしょう。想像するしかない

県道のヘアピンカーブをどんどん下っていきます。車とも人ともほとんど会うことがない

もちろんこの新道は龍馬らが脱藩時に歩いた道ではありません。当時はもっともっと厳しい山道を下っていたのでしょう。いまは廃道化しているので歩きながら想像するしかありません。長いヘアピンの道どんどん下ります

暫く歩くと県道が少し右にカーブするところで左のガードレールに立てかけられている、佐川町埴生ノ川の道路標示のすぐ左に、左に分岐する竹藪の地道があります、この道に入るとヘアピンを最短に走っている旧道の脱藩道の跡だろうか、少し入っていきましたが消失していました。

この辺りもヘアピンが左右に曲がる県道で下っています。かつて道路改修前には旧道はその中をほぼ真っ直ぐ現在では藪の中を進んでいた道であったのでしようがよくわかりません。でも旧道を見つけたときは嬉しい

ヘアピンの途中右上に 大師堂があります

九十九折りの峠道を下っていくとやがて前方が開け、段々畑と砂止・永野集落が見えてきます

右上に歩いてきた県道がみえます

道が分岐します県道は右へ、旧道らしき道が左に延びているのでそちらに進みます結果的には、県道の最短を歩いたことになります。県道をそのまま進んでもいいです

旧道と思われる道はやがて民家の軒下の前の道に出ます住民がいなかったのでそのまま通りました

コンクリート道ははっきり残っていますがかなり両側から草が被さり道を狭くしています。

この道は県道の南側を進んでいて砂止地区に入り左(南)から川が接近してきます。暫く川の左に沿って西に進みます。分からないが少し道がおかしかったかも

県道を歩く方が無難かもでも旧道探しだから、やがて県道に出て西やがて

兎田地区に入る

やがて三叉路に出ます。
ここで実際歩いてみて私は前述記載したように一部の資料に疑問が出ました。資料によっては龍馬たちはこの三叉路を右に行くと現在の県道53号線です。土佐藩筆頭家老深尾氏の城下町であった佐川市街地に出ます。佐川駅まで数㎞で、途中左(西)方向には土讃線JR襟野々駅があり次の駅が佐川駅です。そして佐川駅南から再び国道494号を南下して襟野々駅の西側を斗賀野駅西側に極端に言えばUターンすることになり。道を急ぐ龍馬・惣之丞にとっては無駄な遠回りとなるように思います。実際に歩いてみるとよくわかります、資料によっては佐川市街地に回るようになっています。無駄な遠回りであるし右に折れて進むことは絶対なかったと思います。
特に佐川近辺の勤王同志の田中等に会ったり、食事か休憩かの用事のために回ったのであれば分かりますが。一部資料や本等を見るとこのルート説になっているようで私の浅慮にせいかもしれません。
ただこの三叉路を左に曲がり進むとこの先、朽木峠を越え葉山まで山中を歩きます。宿泊施設がないので止む無く自然にこのルート説があるになったのだろうか、後日分かるのだが佐川市街地の素晴らしいこと、見る所が沢山あり観光地として必見の街であったのであえて一部資料をそのようにしたのかもまして龍馬脱藩ルートが確固たる資料がない現在目くじらを立てることもない。ゆっくり見学しながら歩く場合は是非立ち寄ってみたい観光地ですので追伸しておきます。私も探索がてら観光しました。くどいですが少しでも早く土佐を抜けたい二人にとっては左の道を進んだこくどいですが

左の川に沿いながら進んできた県道を進み三叉路に出る

高知市街の龍馬生家跡より歩きはじめて相当歩いたがもう少し頑張る。

三叉路右への道は佐川市街地への道(後日歩きました)、脱藩定説の左の道を進みます

県道53号線を右に分け左に折れすぐの橋を渡り龍馬らが駆け抜けたであろう、朽木峠への近道を進みます

橋を渡った右(北側袂)の巨岩の上に 自然石の常夜灯が鎮座する分岐の道標であったのだろうか集落入り口の目印道標か

橋を渡った左側には 鈴神社 重厚な鳥居です

川原田の集落を蛇行しながら道なりに西に進みます

川原田集落内を暫く歩くと橋をわたり、その先暫く真っ直ぐ西に進みます。

やがてJR土讃線にでて線路手前の道を左に折れ少し進んで右の花畑踏切を渡る、常夜灯から1㎞ほどの距離です。
実際、川原田集落から先の斗賀野への道はどの道が旧道であったかチョット分かりませんでしたが、方向としてはあっています。この先斗賀野駅・斗賀野小学校の西に出て丸山城跡を進みます。少し消化不良ですが資料も少なく旧道は廃道化しているようです。

途中四国のみち案内標示があります

JR土讃線の踏切に出ました正面の円型の山が 丸山城跡

踏切を渡り少し先で左に大きくカーブして、右の下美都岐集落の民家が数軒続きます

この先で丸山城跡が右に見えてくると思いますが、そのあたりについては後日説明をさせていただきます。
ここから左斜め(東南)前方辺りの斗賀野駅まで歩きます。JR土讃線で一旦高知駅まで戻ることになる日程予定では、明日と明後日は高知市内の龍馬・幕末を中心とした再度歩くことになります。

 
今日一日大阪から深夜バスに乗って、あさ5時20分に高知駅について
         5時50分高知駅スタート
         斗賀野駅へ 18時20分着。
           39.87㎞  66.455歩 とよく歩きました。
 高知駅まで約JR1時間。

              本日の宿泊ははりまや橋近くの、西鉄イン高知はりまや橋

 


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