2016年5月12日
農家民宿百姓とまり木「かまや」~韮ヶ峠
朝、昨夜の雨も止んでいた「かまや」のおかみさんにアドバイスのお礼をいって、来年三月に韮ヶ峠から挑戦するのでまたお世話になる事を約し7時50分出発する、計算していた予定より50分も遅れた。峠まで3時間近くかかる険しい登りとのこと、帰りは少し遠道になるが舗装された新道を下ることになる。ただ帰りのバスは六丁が1時15分、それに乗れないと6時30分までないので急ぐ。韮ヶ峠に10時10分(2時間20分)につき予定より40分も早く達成できた。
民宿「かまや」 7時50分 出発
韮ヶ峠 10時10分 到着
11.398歩 6.83㎞ 456kl
一目散に歩いたわけでないが思ったより早く着いた、途中、数軒の高階野集落のおじさんとも話をした。親切な人ばかりで、畑で耕運機を使ってたおじさんと話したとき、やはり以前は歩く人も多かったそうで畑仕事をしていると、挨拶をしてくれるのでつい仕事の手を止め話し相手になって、仕事が進まなかったことが再々あったと笑っていた。
特に印象深い事は学生数人が登った途中で一人が足を痛め歩けなくなって助けを求められ、この辺りでは救急車もままならず、私の軽トラで学生さんたちを後ろの荷物台に載せて、梼原の町の病院まで連れて行ったことが思い出されると言って笑っていた。
またやはりここでもマムシに注意してとアドバイスを受けた、特に草の上を歩くとき注意するようにと。
峠ではゆっくりできなく少し休憩して、10時30分に下り始め、六丁のバス通り道に12時30分過ぎに着く。バスはどこででも載せてくれるし降ろしてくれるらしい。1時15分のバスに間に合った。「かまや」のおかみさんに途中であって早いですねと驚いていた。少し時間があるので幸い六丁のバス停近くに喫茶店があったので入り、コーヒーとカレーを食べる。ここでもママさんが非常に親切で感激。冷たい氷水を水筒に入れていただき、お店に地元のお客さんがいるにもかかわらずバス時間心配していただき、あなたは食事食べていていいからバスは止めてあげるからと、運転手さんもみな知り合いのようでほほえましいありがとうございました。また次回来たときは必ず寄ろうと思っている。バスで梼原まで戻り、丁度少しの時間待ち合わせで、須崎行きのバスがあり須崎まで乗る、須崎の終点では私一人であった。須崎からJRで高知駅へ、先日と同じ西鉄インはりまや橋ホテルに宿泊。
民宿「かまや」さんを少し遅くなったが、7時50分出発。7時過ぎに出る予定であったがよく寝た。朝から空は快晴でやっと最終日に天気になったが少し遅かった
かまやさんの突当りを左に進む
左手に曲り150mほど坂を上りながらカーブしながら進む。
舗装右手に道標が立つています。その舗装にそって右の細い地道を上がるのが韮け峠への登山道への道です
ここで(標高590m)
石垣が残り建物跡か、道標に沿って狭い草道を進みます。絶対慌てないこと、ここへきて間違った道に入ると大変だから注意が必要。
結構上ってきている、茶や谷集落でも標高はかなりあった
ヘアピンで上ってきた車道にでます
車道がヘアピンしてきた南端をかすめ堤道を道標は指している。
旧道の説明は難しいので写真に沿って想像してください
すぐ樹林帯に入るがよく手入れがされているので下の道まで陽が入る。暫くこのような道を沢沿いに西に進んでいく。
やがて 松ヶ峠番所跡に着く、この番所は土予の交通の北の要衝で、幕末の英雄坂本龍馬は同志沢村惣之丞と、那須俊平・那須信吾の案内でこの番所を抜けた。その際「坂本龍馬まかり通る」と名乗り、堂々とこの番所を抜けたという地元の口伝が残されている。また新谷藩藩士(大洲市)で、後に岩倉具視の壊刀といわれ宮内省に勤め大正天皇の御養育係りとなり、明治憲法の起草者としても名が知れる、香渡晋も土佐への藩用にて通った番所である。(説明板より)土佐藩最後の番所
番所跡の上が 松ヶ峠 東西の林道を横断する形になります道標に従って北西に上っていく
番所跡近くの山際に二段となった石組の中に 石仏群があります
その先、竹林の中を進みます。
植林帯に入ります。ご覧のように100mおき位に道標がありま
す。地元の高野山への旧道である、町石道が思い出します。
素晴らしい道が続きます、やはり天気がいいからでしょう、この道を一人で満喫し占領している感じです。
かなり登って来たようですが、快適過ぎて全く疲れが感じない。沢が迫ってすぐ左を流れています
沢を渡る木橋が架かっていますが、苔に覆われているので滑らないように注意
この辺りの勾配がきつい植林帯に入っていく(標高840m)。「かまや」から一気に250mを登ったことになる
やがて植林帯を抜けだすと
青ザレ峠 に出ます
峠は標高900m 街道の峠道右斜面が灰色にザレています。この斜面を青ザレといわれてます。
青ザレの先は幅広い草地の旧道です
青ザレの箇所がある
この辺りにかつてナラ山集落があったが今はありません。痕跡すら残っていない
この辺りは(標高820m)
暫く歩くと低いトタンで柵囲いした間の細いゲームをしているような道を進むと、右に畑が開けてます
この畑で耕運機を動かしている地元のおじさんと暫く話をした。大河ドラマ時には歩く人がおおく、皆さん挨拶されるので畑仕事が前に進まなかったと笑っていました。今は歩く人も見かけなくなったと言っておられた。その大きな要因には途中宿泊するところが無くなったと言っていました。
ぼつぼつマムシが出ているので、できる限り草の上を歩かないようにとアドバイス頂いた。
このおじさんが、前述したように3人の学生さんの1人が足を痛めて歩けなくなり、梼原の街の病院まで学生さんらを軽トラックに載せて下り、病院に運んだと言っていた親切なやさしそうなおじさん。でも集落の方も病気などになったら大変だ、毎日の食料等もまとめ買いしておかなければ、梼原までスーパーはない。
開けたところで左下に下ると林道の舗装道に出ます
平坦な林道を進みます
林道中の川・井桑線に合流します全く車と合わない車道です。標高800mの所を歩いている感じがしません
やがて左に折れるT字路の分岐に出ます
T字路を左に折れた下り道、正面が開ける。道標に沿って進みます。
マップがなくても道標のおかげで迷うことはありません。脱藩の道を如何に地元の人々が愛しているか伝わってきます。
少し荒れているようですが、道跡がハッキリしています。如何にたくさんの愛好者が歩いたことでしょう
蛇行しながら雑木林を下っていく。
樹林帯の先が明るくなって周囲の景色の色が変わります。前方に舗装車道が見えます。
舗装道に出ました、横断して更に下ります
舗装道を右に、横断して左に下る道
下っていくと左に開けた畑が広がり畑の石垣も爽快です
沢を渡って石垣に突き当たると、左に曲がります
そこから今下ってきた旧道を振り返る
この山村にして凄い石垣が組まれている。まるで城壁です。道標と案内板があります。左に折れて、道なりに右に曲がって集落方向に進みます
ここは梼原町最奥の数戸の集落「高階野」(こうかいの)です。ここでおばあさんと暫くお話をする。この辺り(標高750m)この先高知県の集落はありません。韮が峠標高950mでここから急な登りで一気に標高差200mです。
でも不思議と全然疲れていません。
右にカーブします
民家の西側に韮ヶ峠への登山口が私を今か遅しと待ってるようです。
高知城下から歩いた脱藩道、一人として歩いている人に会っていません。
ここで最終の難関、一度ギアーを入れなおして山登りを始めます
植林や雑木の中の坂を上るが、気持ち良い旧道で辛さが感じない。韮け峠までは集落もなくただ一人新緑をかみしめながら登るのみ。
登山道の説明は難しいので、写真を見ながらそれぞれ思い思い想像してください
登山口からほぼ北に登っています
北に向かっていた登りが西に向きを変えて進んでいきます。
暫くすると、二基の大きな貯水タンクが旧道沿いの右に並んでいます
貯水タンクが過ぎたあたりが標高840mですから、後、標高100m程登ります。登り口から100m標高を進んだ気がしません
貯水タンクから、徐々に右にカーブしながら西から北に向きを変えます。
この先で道が分岐するところがあり、正面左から照明をつけバイクが走ってきました、一瞬何かと驚きました。林道を走っているようです。ビックリしましたね、初めて会ったのがバイクだから
旧道は右に上ります。道標があるので間違いません。
杉が若いので陽がよく差し込み明るいです
年輪の入った杉が植林されていますが、しっかり整備され綺麗です。その間の快適な道。峠に近づいてきた感じがします。写真を見ていても綺麗で歩きたくなりませんか。いつでも希望があれば歩くお手伝いをしますよ
右からの車道に合流して、その側帯を左にカーブしています。木造りの柵を進むと左から車道が合流してきます
車道に出て左に丸太の二本柵に沿った整備された綺麗な道を少し進むと韮が峠に着きました。
あの後、高低差100mあったとは思えない快適さです
坂本龍馬・沢村惣之丞脱藩の地・土佐国/伊予国碑
峠は広くなっています、向って左の道を登ってきました、右は車道
県境 韮ヶ峠・標高950m
いろいろな石碑が峠の広場に立っています。峠からの見晴らしは残念ながありませんが十分満喫出来ます。
高知城下からの色々の思い出がより達成感を味わいます
韮ヶ峠からは北へ車道が走りますが、すぐ左に下る道があり、50m先で左の林に入っていきます。
梼原から龍馬らの道案内をしてきた、那須信吾はここで別れ引き返す。その後12日後には高知城下で参政の吉田東洋を暗殺して再び脱藩をする。そして吉村虎太郎らと天誅組により大和の鷲家にて戦死している。
その後6年間の間に那須信吾・那須俊平・坂本龍馬・沢村惣之丞と順次明治維新を見ずして、維新の「魁」として亡くなっている。
那須信吾 吉村虎太郎らと天誅組に参加し、東吉野鷲家にて戦死
那須俊平 京都禁門の変で鷹司邸後門にて戦死
坂本龍馬 京都近江屋にて同志中岡慎太郎と共に暗殺される
沢村惣之丞 海援隊士長崎の街を警備中、誤って薩摩藩士を誤射、薩摩との軋轢を避けるため自刃
50mほどさきで左ガードレールの手前の急な坂を下り杉林に入ります
次回続きの道
7時50分に民宿かまやをでて、峠に着いたのは10時10分、2時間20分思っていた以上に早く着いた。疲労感も無く快適。1時15分の六丁バス停発の梼原へのバスに乗るため。休憩も早々に10時30分車道を下り六丁に向かう。途中で、かまやのおくさんがバイクで仕事の途中会って早いので驚いていた。何とか12時半六丁につき思っていた以上に早くバスの時間まであるので、喫茶店があったので朝食べていないのでカレーとコーヒーを食べる。
このバスに乗らないと、次の6時30分のバスまでない。
前述したように喫茶店で食事中バスの時間が近づいたのでママさんが、お客さんもいたが店を空けて時間にバスを止めていただき無事、今夜の宿、高知城下に戻ることが出来た。次回にはまたここの喫茶店やGSに寄りたく思った。
今回の脱藩道歩きはここで残念ながら引き返します。今になって良いお天気になったのに。
この続きは来年2月~3月の間に是非挑戦したい。
その時は龍馬脱藩の道、別ルート説の道や、今回何箇所か峠を越えられなかったところの再挑戦等も一緒に計画したいと思って今回の街道歩きは終了。
予約しておいた先の宿泊所も気持ちよく応対していただいた消化不良となってしまいましたが、仕方ありません。
友達たちが元気なら是非一緒にツーアーを組んで歩きたいと思った
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