2016年5月13日
高知市内見学
午前中時間の許す限り、駅前の観光センターでサイクル自転車を借り高知城周辺を廻る。
13時の高知エキスプレス号で帰宅へ。
高知城追手門筋の追手門東にある 山内容堂誕生地碑15代土佐藩主で公武合体派であったが、後に龍馬や後藤象二郎の意見をいれて、大政奉還を徳川慶喜に建白した。追手門から追手門筋と、左の壁沿いに容堂誕生地碑が見える
城内右手に 山内一豊の馬上像
追手門手前右に 野中兼山邸跡の碑
追手門(重文)
追手門を入ると正面広場に 板垣退助像
山内一豊の妻・千代の像
石垣から突出する排水の 石樋 杉の段、二の丸、三の丸石垣に、孕みを防ぐための石樋が突出する。
二の丸と本丸を結ぶ 詰門(廊下門)重文
天守と本丸御殿(重文)
高知城下 筆山の遠望
高知城西側、小津高校の一角に、土佐藩開成館の正門であった開成門が移築されている。慶応2年(1866)に建築されたもの。
高知城には見るべき沢山の所があるが時間がないのでここで終了して、高知城から南に県庁前を抜け鏡川の近くまで行くと、現在三翠園の温泉旅館となっている。お城の南、鷹匠町に
旧山内家下屋敷長屋(重文)
天保年間(1830~44)城の真南、鏡川北岸沿いに造られた山内家別邸の一部、現在はホテルの敷地の一角となっている。慶応三年(1867)薩摩藩主島津忠義の使者として、西郷隆盛が山内豊信(容堂)に謁見した屋敷
下屋敷長屋の道を挟んで西側にある公園 山内容堂邸跡
下屋敷西側の鏡川に面して、山内豊信と豊範を祀る 山内神社
鏡川を見る
鏡川に沿いに立つ 水丁場の標柱この石柱は江戸時代、鏡川流域の洪水による災害を防ぐために設けられた受け持ちの区域(丁場)の境界を示す標柱。西は上町の観音堂より、東は雑喉場に至る鏡川沿いの堤防に建てられた。現在上町二丁目と五丁目に残っている。
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追手筋のひろめ市場の南の筋に
武市瑞山殉節之地南会所跡獄舎
ひろめ市場の東、帯屋町の角に現在建設中のビルのため、碑は一時無くなっているが吉田東洋殉難の地
暗殺者
那須信吾 天誅組で鷲家にて戦死
大石団蔵 明治まで生き延び29年死去64歳
安岡嘉助 天誅組 六角獄舎で処刑29歳
まだ見学史跡が残っているが、バス時間が近づいたので、次回改めて残っている分を廻る。
今回はここで終了することとします
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