2016年5月10日
昨日の壁地トンネルの東~梼原の町
朝から雨模様で辛いが、「民宿天山」のおかみさんが昨日の起点までまたまた親切に車で送っていただきました。毎日親切さに会い感激している。そして昨日の送っていただいた民家前まで戻りそこで昨日のお礼もいいました。
8時30分に起点をスタート、当初計画では梼原市街地中心にある今晩の宿「民宿花の家」まで進む予定であったが、連日の時々強い雨が降り、また寄り道3㎞程街道より北側にある是非行きたかった地元の英雄であり、明治維新魁の最大の功労者の一人といってよい吉村虎太郎の実家に寄ります。さすがに雨が強くタクシーで往復しました(後日歩きました)。
更に梼原までは何箇所かの険しい峠もあって思うようにあるけなかった。途中雲の上公園入口で終了でも、そこからのバスが2時間後なので止む得ず車道を歩いて梼原の民宿まで歩く。特に民宿までの間、雨が強く民宿に着いたときは身体中びしょびしょになっていました。
明日はまた雲の上公園まで戻り旧道を歩くが、何とか天気回復を祈るだけです。
民宿での宿泊は他に2人の友達同士の方が宿泊しており、夕食は3人で話が進みゆっくりできて楽しかった。話では大学時代の同窓生で何人か毎年旅行しているとのことらしく、今回は二人になったが、奈良西大寺と千葉県浦安の方でした。濡れた衣服を洗濯機にかけ乾燥させて翌朝出発。連日の雨で体力もかなり消耗する
8時30分 起点スタート
16時30分 雲の上公園着
40,239歩 24,14㎞ 1793kl
残念ながら今日も朝から雨が降ってい靄がかかって景色が見えない、今日も辛い一日になりそう。民宿天山の奥さんに車で送ってもらい昨日の終点の起点に戻る。この左の民家のご主人が昨日天山まで送っていただいた。お礼をいって出発。
壁地坂峠への挑戦失敗
スタートして少し先で左前方に、霞んで判りにくいですが国道左上に鞍部になったところが見えます、峠はあの左あたりです。
壁地峠越えには3つの道があって
1)壁地トンネル入口200m程手前左斜めに入る旧国道があります。この道を上っていくと峠の地下を抜ける旧国道、旧壁地トンネルを潜り西側に出て、そして右斜めに下り右から国道トンネルを抜けてきた道と合流していました。見たところ今は峠の西側の道は車では通り抜けはできないみたいでした。
2)旧々国道と言ったらいいのか、壁地トンネル入口手前450m程手前からヘアピンカーブで壁地峠頂上から国道トンネルの上あたりまで行って、Uターンして峠から再び西北に方向を変え旧国道と合流して国道に出る道。
3)私が歩きたかった壁地越え道は旧国道の手前から左に入り南西にほゞまっ直ぐ登って行く峠への道でしたが、残念ながら登り口が分からなくなって断念しました。
結果的には、旧街道(脱藩道)に固執しなければ、旧々国道のヘアピンの坂を上るか。旧国道を上り旧々国道の下を通る旧壁地トンネルを潜って壁地坂峠でいずれも合流するので歩けばよかったのですが。その時点では資料不足でよくわからなかった。
ただ私は資料に書かれている本当の藩政期の梼原街道(脱藩道)固執し歩きたかったので今回失敗しました。
結果ですが、峠への登山口(旧道)は、左に折れる旧国道の手前の広場の奥にあるようです。確かに広場がありました、奥に入っていきましたが、草がかなり深く繁って道らしきものを見つけることが出来ませんでした。冬場ならわかるかもしれませんが、このような状況ならもう少し先の民家で聞いておくべきだった。(ご主人も言っていたが昔は歩けたが今は皆、壁地トンネルを抜けると)旧壁地トンネルの南側を上り、旧々国道に峠で合流していたとのこと。ヒョットしたら完全に旧道は消失してるかも。
雨でもあるし今更旧々国道を歩きなおす気力も失せて国道に戻りました。良い天気なら歩きなおすのだが残念。
止む無く全く予想もしていなかった壁地トンネル(226m)内の通過となりました。(後日また挑戦することとなる)壁地坂峠の切通しを越えられなかった。
国道正面壁地トンネル、左への道が旧国道で旧壁地トンネルへの道(後日挑戦した時この旧国道の道を登り、旧壁地トンネルに行った、結果お楽しみに)
旧国道入り口の手前左の広場で脱藩の道の旧道はこのまっ直ぐの道であったようだ左の道は旧旧国道で先を少し進むと、閉鎖されたトンネルがあるようです
私はこの広場を入って行って登り口を探してしまったがダメであった
草は繁っているがこの辺りは大丈夫でも全く人の歩いた跡はない、一見みたら正面が峠道のように見えてしまった
これ以上は足元が分からないし、ここが旧道であっているなら道は完全に消失しており冬場でも無理と思う。後日、資料を調べてみたら違っているようです
戻って旧道壁地トンネル入口手前から、峠鞍部を見入るも距離にして余りないのだが。悔しいの一言、近くなら又出直すこともできるが。後で聞いた話では壁地峠は正面鞍部の少し左だそうです
国道の壁地トンネルの中を歩いていく、車が少なく歩道もしっかりついているので、やや暗いが安心して歩けました
壁地トンネルを潜り出たところで振り返る。正面右が、街道・旧国道・旧々国道が合流して国道に出てきたところだが、車が通っていたとは今では想像できない道
反対側から少し入って様子を見てみる、諦めの悪い私の悪い癖が出た。幸い雨が小降り
入って暫くは舗装されてハッキリ道が残る。草でトンネルのできる前の旧国道の面影がないですが
道が分岐しているようだ、左方向に進むと旧壁地トンネルかも。資料では右から下ってきているのが旧道
ここが多分、旧国道と街道(旧旧国道)の合流点だと思う
右の旧道跡らしき荒れた道を進む。雨がまた大粒になった
かなり奥に入ってきました、逆に歩いてきたのでよくわかりませんが、多分壁地峠の頂上辺りに来ているのかも
下にヘアピンカーブの旧々道だろうか見える、峠には近いのだろうがハッキリわからなく頭がこんがらがる。多分読んでくださってる方は余計何が何だか分からないと思います。すみません。(壁地峠は深い切通しになっているようなのでまだ違う)。もし見て頂いて壁地峠の正しいアドバイスお聞かせください。
もうこれ以上進めないので諦めます
残念だが諦めて元の国道に戻ります。正面に国道が見えます。ここまで探索したら満足
トンネルを抜け国道を少し進むと鳥出川地区に入ります。国道より右(北)に旧国道が分岐しますので右に進みます。
右に迂回した道
鳥出川バス停付近で国道に一旦出ますが、すぐ右に入ります。
集落の中を抜けすぐまた左からの国道に合流して、すぐの鳥出川に架かる橋を渡り、今度は国道を横断して左側を迂回する道に入ります
国道左側に入る道。
右側は石垣が綺麗に続く
国道に合流
左の力石川に沿って国道を芹川入り口バス停まで進む。この先暫く国道を淡々と歩きます
芹川入り口バス停付近の国道
雨が結構強く降ってきました、カメラや資料が濡れる
国道を進むと次は力石バス停
右に力石集荷所があります。旧力石村役場跡その手前に石はあちらの茶堂と書かれた白い標柱が立っています。
集荷所のすぐ東側には 祠と石仏が並んでいます
力石で龍馬・惣之丞脱藩の道説には
一つは、このまま梼原街道を進む道(定説)
二つは、力石バスの停から、龍馬らはここで梼原街道を左に分け、北側の山中の道を進んだという説もあり。いかに人目を避けたとはいえチョット遠くて起伏が激しい道で、時間的に那須邸に着くには無理があるような気がします、急いでいる身にしては遠回りすぎます。梼原街道はどちらかといえば勤王の志士が多くむしろ安全であったのではないでしょうか。山への道は吉村虎太郎が生家から高知城下に行く道として利用したという方が自然のような気がします。
その道には、集荷場から北の車道に入り、少し先で西に向きを変え西の谷川を渡り急峻な斜面を越える道だが、何となくあるようだが歩ける道でない。
それであれば、祠と石仏の並んでいる細い坂で上に一軒の民家があるところから登っていたようです(後日その虎太郎邸への旧道に挑戦しましたので説明します)
やはり二人の脱藩道は一つ目が正しいと思いました
力石バス停の次の力石西バス停の所でも左に迂回する道が残っています。
左に力石川の渓流を下に見な左の旧道を入る。迂回距離にして300mほどです。迂回する左力石川の対岸に道があり、山の斜面に民家が数軒建っています
右にカーブしていきます
国道に出て再び西へ。
深く切通しになった国道、今ではなんでもないが往時峠のような樹林の中を進んでいたのだろう想像がつく。
雨の降る国道を進んでいきます。今日は一日中雨のようです
左側に少しだけ旧道が迂回しています
迂回している旧道
前方に老人ホーム高原荘が見えてきます
高原荘前バス停手前の五藤寺橋東袂で国道を左に分け右(北)に入ります。
左に力石川が沿って大きく旧道は半円を描きます。車も人も通らない自然に朽ちるのを待っているような旧国道です。
一部分ですが斜面が崩れ道を塞いでいます、歩けるが十分注意が必要。数年もしないうちに歩くのも危険でしょう。何故通行止めにしないのだろう民家もないし。
左は切り立った深い谷になっている
もう数年もすると歩けなくなるかも
左からの国道に合流
次の新田東口バス停を過ぎると次は役場前バス停、その手前右に西庁舎があります
国道は左に大きくカーブを描き力石川を渡り南へ。
国道と街道が分岐する角に、維新「魁」となった最大の英雄の一人、風雲児吉村虎太郎の案内板が掲げられています
奈良五条の天誅組の戦役の跡、特に自宅から五條代官所跡まで車で20分ほどなので十津川や最後の戦いの跡、奈良県東吉野鷲家周辺も史蹟散策を何回か行きましたが、正直この脱藩の道を歩くに辺り、いろいろな資料を見て初めて吉村虎太郎がこれほどの大きな存在とは知らなかったし、梼原・津野町の歴史、特に勤王の志士たちの活躍を知ることが出来て感動を受けています。この地区では坂本龍馬もさることながら、吉村虎太郎の人気はそれに勝るとも劣らない匹敵する存在です。
真っ直ぐ進むとすぐ、力石川と北から流れてくる北川に合流するところの新田橋に出ますが、その手前右に高台があります。そこを上っていくと、凛々しく勇壮な吉村虎太郎像が聳えるように立っています。像を見ていると自分は維新の魁となって死しても、次の時代をしっかり見ているような像です
吉村虎太郎先生碑文勤王の志士吉村虎太郎の像像は大きくて凛々しい勇姿惚れ惚れする恰好いい像
像の背後に沢山の地元出身の志士達の墓石が立っています
この像を見ただけでも、地元の人々の思い入れと誇りが伝わってきます
高台の像から新田の街
津野町庁舎
北への道、吉村虎太郎生家への道
吉村虎太郎像の背後の坂を上って行くと東津野中学校が建っています、その正門の前に
傷痍軍人の碑
学校正面右に立つ シベリア虜囚の叫び像
ガリガリに痩せた悲壮な表情を浮かべるシベリア虜囚の叫び像。あまりに対照的な二つの像今晩の宿泊先、民宿天山のおかみさんの縁戚の方がシベリアから帰ってきて忘れないようにと寄贈したとのことでした
傍に 祠
像から下ってきた橋の近くに 碑
【寄り道】
一旦役場の所で街道歩きを中断是非行ってみたい史跡吉村虎太郎の生家跡です。ここから約4㎞歩いて1時間往復2時間、その上雨が強く降っているのでタクシーをお願いすることにする。あつかましくも郵便局でタクシー会社の電話番号を聞き生家跡まで依頼する。でもタクシーの運転手さんに雨で衣類が濡れているのでそのことを云うと、ここでも気持ち良い言葉が返ってきた、強い雨であるから濡れていて当たり前で気にしなくていいよと言って頂き有り難かった、本当に土佐の人はいい人ばかりだ。
役場前より北川沿いに439号線を北上15分ほどで、復元された生家跡に着きました。遠くから来たのだからゆっくり見学してくださいと、見学の間タクシー待たせていたら時間料金が規定でいるから一旦戻りますが、見学終わったらまた電話下さい少し待っていただくかもわかりませんがとの、なんとも言えない情味のある運転手さんで親切に甘えた。お蔭でゆっくりビデオもみて1時間ほど見学できました。
吉村虎太郎邸跡
吉村虎太郎は、芳生野奈路地区の左手山沿いに県史蹟、吉村虎太郎邸跡がある。虎太郎は天保八年(1837)庄屋の家に生まれる。武市半平太の土佐勤王党に結党に参加したが、その後、脱藩し文久三(1863)年二月中山忠光を主将に自らは三総裁の一人として天誅組を結成、
大和で挙兵し十津川に転戦するが戦いは惨敗。自らも負傷し現在の奈良県東吉野村鷲家谷で同郷那須信吾らと共に銃弾のもとに27歳の若さで散華した。
短い人生であったが、吉村虎太郎初め同郷の志士らの若い命は、討幕の「魁」となり間もなく花開き決して無駄死にでなかった。
辞世の句
吉野山 風に乱るる もみじ葉は
我が打つ太刀の 血煙と見
私も縁あって奈良県五條市立民俗資料館内のNPO法人維新の魁・天誅組の会員に入会させて頂いてますが、天誅組を中心に維新の魁となった志士達の史跡や講演に参加して、吉村虎太郎や那須信吾等々この山深い津野や梼原からこのような沢山の人財を輩出していたことを初めて知り驚きました。
吉村虎太郎復元邸
入館は無料でゆっくりおもてなしを受けて1時間程見学。敷地内の碑
生家の東側の439号線からの全景。吉村虎太郎邸に脱藩道を歩く過程で、後2回後日訪問できるとは思ってもいませんでした
東側の川に降りるところに立つ 芳生野早瀬の一本橋の案内標柱
木橋の沈下橋の原型といわれている。吉村邸で教えていただいたのですが、虎太郎は西に進み(龍馬脱藩の道の説に記述)険しい峠越で梼原街道に出ていたとのこと。また東へこの沈下橋を渡り力石に出て土佐城下への通う道であったそうです。やはりこの道は、龍馬達の脱藩道でなく虎太郎の道の方が正解と思う、一度歩いてみたい。タクシーの運転手さんに連絡したら同じ人がすぐ迎えに来てくれました。(後日城下への道も梼原への道も歩くことになりました)
元の新田橋に戻り南に離れる国道に戻らず西の北川に架かる新田橋を渡る
新田橋から景色
新田橋の渡りその先の突当り左へ、北川の西側市街地の道を南に下る。すぐ先右に 清福寺
南下する街道
暫く南下して市街地を抜けたところで右に分岐して左に柵のある坂道を上ります。城台峠越え上り口
峠への坂道
白皇神社の北側に出ます
かつてこの山に 北川城がありました。どの辺りが峠かよくわかりませんでした。
多分私は神社を過ぎて早く峠を左に下りてしまったようです。もう少し峠道が残っていたのだと思います
左下の国道187号線に下って西に進みます。その先で国道は左にカーブしながら、北川に架かる北川一号橋を渡るが、旧道は真っ直ぐ、左の川に沿い旧国道を進む。
左の北川に沿って旧道を進む
相変わらず今日は朝から強い雨は降り続いています
やがて北川集落に入る
この辻を右に入るか迷ったが、ももう少し先に進みました
旧北川村の街並み
街道を覆いかぶさる大木を抜け、すぐ旧国道を左に分け右の狭い路地を入るのが旧道だったようですが、見落とし私は真っ直ぐ進んでいった。この旧国道もいい雰囲気です
やむなく途中右に入る道、白い説明板が突き当り見えます、その前辺りが前述の旧国道から旧道として延びてきていた。
正面 上岡胆治邸跡
医者として此処で診療所を建て住民の治療にあたった。胆治は大洲の華岡青洲の愛弟子であった鎌田桂州の弟子で外科が得意であった。妻は吉村虎太郎の姉、光である。文久元年(1861)に土佐勤王党に加盟し奔走した、藩の勤王党弾圧で文久三年九月梼原の九十九曲峠を経て脱藩、長州にて活躍の場を移した。
元治元年(1864)忠勇隊の副隊長として禁門の変で敗れ、久坂玄瑞らと鷹司邸で切腹42歳。墓は京都霊山
更に西に数軒進んだ右奥に白い説明板が見えるのが、
北川村庄屋跡 中平善之進誕生地
宝永六年(1709)北川村庄屋上岡吉右衛門の長男としてこの地に生まれる。享保八年十五歳で北川大庄屋代勤に任ぜられた。天文三年に梼原村大庄屋中村弥左衛門の養子に迎えられ庄屋を継いで善政を施す。その後、宝暦七年世にいう津野山騒動で捕縛され悲憤の処刑を受けた。
松山深蔵誕生地
天保八年(1837)北川村庄屋松山堅の次男としてこの地に生まれる。文久元年土佐勤王党に加盟奔走するも、政変により藩の尊攘弾圧が厳しく同志千屋孝健と宮野々の関より脱藩し長州へ、真木和泉を総監とする忠勇隊の隊長に押され、元治元年(1864)6月京に上って戦うも敗れ、真木和泉らと共に天王山で元治元年七月三十一日皇居を拝し割腹自決、明治維新をみず、28歳の若さでここでも魁となっていった若者がいた。墓は天王山
旧国道の北川集落の西端に出ます。藩政期の旧道は国道の右側民家の建っている裏側を通り、天忠トンネルの上を通りこの先の旧国道に抜けていたようですが今は一部消失しています
民家の裏側を通り天忠トンネル入口上を越える旧道跡。この雨と雑草の茂る中で道がふさがれて危険なので下から見るだけとします(やはり後日この旧道を探索しました)
旧道跡の天忠トンネルの上に鳥居が見えます 天忠神社 神社の上あたりが峠の頂上と旧道跡と思われる
トンネルの入り口に北川村出身の維新烈士の 忠魂碑が立つ。吉村虎太郎・松山深蔵・上岡胆治の名が刻まれている。宮地宣蔵もその一人。
天忠トンネルを右に見て交差点を横断します
橋から北川と左の北川村を振り返る
トンネル上の峠越えの旧道はこの辺り右へ出てきていたようですが、私は判らなかったので旧国道を歩きました。
果たして道が残っていたか分からないが
この右上あたりにかつて、号泉寺観音堂があったようです
大田集落手前に左への北川を渡る橋があります。大田集落の南側で北川は南に分かれていきます。
大田集落の中ほどに道は分岐しますが右の真っ直ぐな道を進みます。左の道は北側の西岸を南に進む道。太田集落西端の民家
太田の集落を抜けると左の北川に合流した、宮谷川に沿って樹林の中の旧国道を進む。
道の両側に草や雑木が生い茂り道を狭くしている、旧国道の主要道と思えない。このあたりの右上に昭和初期まで
「馬車宿」があったそうです。旧道はこの辺りから左の宮谷川を渡り対岸にでて宮谷橋の西袂に出ていましたが、今は消失して通れないので高架下を潜り川に沿って左にカーブして宮谷橋の西側の197号線に出ます。
やがて前方に国道197号線の宮谷橋の高架が見える。東の出入り口の天忠トンネルから出てきたところです。
国道を潜り北側に出て進みます
高架の先で左に急カーブして国道197号線に合流します宮谷バス停
197号線に出ました
この先の旧道は、国道197号線や旧国道を宮谷川沿いに蛇行しながらすすみますが、私の手元の資料では旧道を辿るのが難しいし、また雨で資料が滲み見えにくく旧国道を進みました。やがて旧国道が左にカーブして国道197号線に出る手前右に宮谷茶堂跡があります。
左が分岐する国道197号線で右の下りが旧国道です。
旧道は手前の宮谷橋西袂から、国道の左を進んできて、この分岐の先で山際を左から右にカーブして国道を横断して川沿い西側を進み、旧国道がこの先左にカーブしたところで交差していました。旧道は旧国道を横断して宮谷茶堂跡を通り、国道に平行して西に進んでいました。
分岐するところ宮谷川に架かる帽子山橋右側の旧国道を下る。
下る左の宮谷川の対岸、国道との間に旧道が残っています。国道に架かる橋が帽子山橋
山際に旧道がはっきり残っていたのだ残念、国道は山の向こう側になる
道は分岐する、左にカーブしながら左の道を進む。右への道は宮谷から吉村虎太郎生家への道
後日談ですが、この分岐の手前の民家の横に右の山道が下りてきています。資料調査したとき、吉村虎太郎生家からの峠越えの山道がここに出ています。梼原へ通った道でもあり、また脱藩の時の道だと想像できます。後日歩きましたので、またご紹介しますので見てください。1回目は知らなかったので素通りです。
左に大きくカーブしたところで橋を渡る、旧道は宮谷川の対岸からカーブの所、橋の西側に通じていた、旧国道を横断したところ、藩政期に宮谷茶堂があった跡。左斜めに進み国道に合流していた
左の山際を通っている旧道を見る、素晴らしい道が残っているので残念としか言いようがない(後日歩きました)
分岐を左に折れた旧道は、右鋭角後方に狭い坂を少し上る旧道跡が残っていますので、その先で消失して進めませんでした、その上が 宮谷茶堂跡(現在倉庫)
旧国道を南に進み国道197号線に出て右に折れます。旧国道は197号線を横断して南側を進んでいます。国道の歩道を西へ暫く進みます
西に進んでいくと橋を渡りその先で国道に沿った右に少しだけ旧道が残っていますがすぐ合流します
国道に出て暫く進むと、橋を渡った先で国道は左にカーブしますが、その橋の手前、国道より左に入る旧道に入ります
右の宮谷川に沿って400m近く西に進みます
やがて右からの国道と合流します
当別峠挑戦大失敗
国道に出て少し先で右に分岐する旧国道を入ります。国道197号線の当別峠トンネル(海抜514m開通平成16年(2003))が正面に見えています。右は旧国道でいよいよ脱藩道の当別峠へ登り口です。バスは新トンネルを通らず旧国道を通っています。
雨が強くなっていて、カメラのレンズに架かり視界が悪いです
旧国道は左の川に沿い暫く西北に向かって緩やかに上っています。
道なりに旧国道を進むと、左にプラント工場を見ながら上ります。工場を見ながら左に急カーブします
トンネル東口バス停があります。正面に旧国道の当別トンネル(240m、昭和38年竣工)出入口トンネル内は照明も薄く古いトンネルなので歩道もなく先に出口が丸く見えます。まさかあとからこのトンネルを潜るとは夢にも思っていませんでした。
暫く登っていくとトンネル口の正面に出て手前で左に折れます。正面トンネルの出口が少し明るく見えます
当別峠への登山口になりますが道は結構広いです。旧道はトンネルの入り口をみて左に折れたすぐ先辺りで右の山中に入る道があったようですが、今は完全に失われているようでわかりませんでした。旧国道を蛇行しながら登っていきます。
下ってくるとき驚いたのですが、参考までに左の倉庫のような建物の前の道を見ておいてください
旧道の右側は山際で左下がプラント工場等で開けます。
何度も蛇行しながらかなりの距離を登る山道です
ウーキングのイベントでは、この道は通らず当別トンネルを潜っているようです
当別峠の頂上近くに出ました。
かつての旧道は跡形もありませんがこの辺り近くに登ってきていたのか想像します
この先に深い切通しの峠頂上の旧道があったようですが、雨も強く引き返しました。またもや今日は壁地峠に続いてもう少しというところで踏破失敗です、非常に残念としか言いようがない。(後日また挑戦しました)
旧々道を登っていくと当別峠(標高530m)の切通しのような感じの峠の頂上に出ましたがとてもこの時期、また雨の中草が多く覆っていて歩けるような状態でなく、仕方がないので踏破を諦め、当別トンネルの所まで引き返すこととしました。後で地図をみてみると、引き返さなくても旧々道のヘアピンを下ればよかったのですが果たして通ることが出来たかも不安でした。(後日談ですが2回目このヘアピンカーブを下り大変な目に合ったことを記載します)
引き返してきたところで驚き、トンネルの手前、前述の倉庫の前の道が雨水で歩けなくなっていた。ほんの30分も立っていないのに登るとき水は少しは溜まっていたが、別に通るのには不自由しなかったのに、少しの時間の間に歩けないほど水が出ていました。靴がびっしょりになってしまった。山は怖いのだと思い知った
当別トンネル入り口全長240mの暗くて歩道のない当別トンネルを進むが、自動車の来ないことを祈りながら進むも、2台の車が通過した。怖いトンネル内だが今もバスは通っているが車通しの対向できるのだろうか
暗い中トンネルの出口に着きました
当別峠には旧旧国道のトンネルと、旧国道のトンネル、更に新国道のトンネルが重なっていたようです。
後日の脱藩道の調査で分かりました。
要するに登山道を右に入る正面に見えた新国道の当別トンネルを見て、次にプラント工場の横を上って行った旧国道のトンネル、更に倉庫の横を蛇行しながら頂上近くにあった短い旧旧トンネルが重なっていた状態です。(この件も後日説明します)
雨により資料が濡れて参考にならなかったとはいえストレスの溜まる峠越えでした
トンネル出口より少し下った先で、左方向を見ると旧道と思われる道があります
旧国道当別トンネル出口を振り返る。旧街道はトンネルの上部に向かって鞍部辺りから正面右の樹林の中に下りていたようです。後日歩きました
第一回目は、私はトンネルを抜けた先も完全に旧街道を見失い旧国道を下っています。旧街道はトンネルの先から旧国道の左に沿って下っていたようです
旧国道左下、民家の横を旧道ははっきり残っています。
旧国道を真真直ぐ下って行きます
向かって正面左からの旧国道を下ってきました、ここで新国道197号線と合流します。振り返ったところ
正面に国道の当別峠トンネルの出口が見えます。また向って右に高野川その右に旧街道が下ってきているのが見えます。旧街道は国道のトンネルの上を越えた山の中を下って高野川に架かる橋の東袂にでて、そこで右の国道に上り、少し国道を下っていたようです。実際歩いていないので分からないが。振り返ったところ。
ここでも峠越えの失敗が悔いが残る
歌舞伎橋の近くまで来たところのに石仏が集められている
歌舞伎橋
歌舞伎橋が見えてきましたが、旧道はこの橋の手前の197号線を左に下りて橋を潜り三嶋神社に出ていました。当別峠越えは完全に消火不良におちいりました、雨で持っていた資料も役に立たず思考能力も飛んでしまった。大変悔いの残る峠越えでした。
歌舞伎橋からの当別峠方向を恨めしく再度望む
歌舞伎橋を左に見てすぐ先、国道を右に折れると高野局前バス停の前に宝暦5年(1755)、津野山一揆の首謀者として斬首に処せられた中平善之進銅像がある。土佐藩は財政難を理由に津野山郷の特産品の専売制を強化、藩は安く生産品を購入、結果農民の生活は困窮し、農民達は梼原村の庄屋であった中平善之進を中心に津野山九ヶ村の庄屋と協議し団結したが、うち藩は22人を捕え善之進が一人責任を負い梼原の風早峠で斬首された。農民救済に命を捧げた義民でその功績は今に伝えられている。この事件にまつわり「善之進」の伝説が伝わる。
中平善之進の銅像
高野の茶堂の傍に、両手を一杯に広げ何かを訴えているように見える。無念な最期であった。そのため地元ではいろいろな伝説が伝えられています
何を訴えているのでしょうか
風神塚 その近く国道沿いの高台に、中平善之進の伝説が残る風神塚
ここで一旦先ほどの右に曲がる所まで少し戻り、南側の川沿いへ下ります。旧道を歩いてくれば一番先にここを見ることになるのだが。
高野三嶋神社
津野山地域の三嶋神社は、延喜13年(913)に土佐へ入国した藤原経高が勧進したと伝わる。1681年創建とされ、
津野山花取踊りや津野山古式神楽の奉納や、四年に一度の「おなばれ」が氏子によって引き継がれている。
境内には国の重要有形民俗文化財の回り舞台があり、四年に一度地区民によって農村歌舞伎が行われている。
高野農村歌舞伎舞台(国の重要有形民俗文化財)
境内に、渡り廊下で繋がった萱葺の建物があります。この建物は、高野農村歌舞伎舞台(国の重要有形民俗文化財)間口1.17m・奥行5.3m・床高1.17m花道は拝殿から左手にかけられ、右手に太夫座を有する。全国的に珍しい床上で回天させる鍋蓋上回し方式の回り舞台。ほかに宮野々の白尾神社、四万十川の円明寺、越智面の三嶋神社(すべて梼原町)がある。
高野の茶堂
藩政時代から津野山には各地に通じる街道沿いに茶堂が建てられました。茶堂の中には仏像が祀られており、盆月には里人が交代で通行人に茶菓子の接待をして、心情と社交の場としての役割を果たしていた。年中開放されていて旅人はここで自由に宿泊することが出来た。道路の整備により次々取り壊されて今では数か所残るのみとなったが、この茶堂には萩の地蔵が安置されている
緩やかに左にカーブしながら国道を西に進みます
少し進んでいくと右から下りてくるT字路に出ます、右に100m程入ると昨夜宿泊してお世話になった民宿天山明治の家です。この道は四国カルストから下って来た大規模林道です。ここから今朝の起点まで女将さんに送って頂きました
正面右手に看板のあるところです。車で送っていただいたお礼がてら、再度民宿「天山」へいって休憩、美味しい饅頭をごちそうになりました。重ね重ね有難うございました。少し休憩して再度元気を出してスタート。時間は14時回っていました。
吉村虎太郎が通っていたといわれる生家からの、梼原へくる道で別ルートの一つの説、旧道で険しい峠を抜けて西へ、この大規模林道の途中に出てここに降りてきていたそうです。かつてこの三叉路(T字路)の近くに龍馬たちが食事した旅籠跡で昭和に入り廃業したそうで、平成に入りその建物の一部を民宿天山の方が譲り受け、民宿の横に別館「明治の家」として移築改装して営業しています。この先梼原までまだまだ、野越え・神根越え・風早峠と険しい峠のアップダウンが続きます。
少し進んだ右手に 高野弘法大師の像が立ちます
弘法大師像を過ぎると国道の前方左、民家の手前に左に上がる道が旧道です。国道は北に大きくヘアピンで迂回してくるので、旧道は米谷川沿いにほぼ真っ直ぐ西に進むようになる。左の国道越しに見た旧道
その先、道は少し荒れてきますが大丈夫です
左に田畑が開け米谷川沿いに山際を進みます
後で知ったのですが中腹の石垣の立派な民家が、勤王の志士前田要蔵の父、前田常五郎道場跡でその手前米谷川に沿って西へ
草が繁りこれ以上覆うと道が分からなくなってしまいます。先が不安だが突っ切ります
草が覆った中を抜けると舗装道に出ます、ホットする瞬間。左に折れます
この先に前田要蔵邸があった、現在も子孫の方が住まわれているようです。
すぐまた舗装を左に分け、右の少し上っている旧道の情緒が残る道を進みます
そのすぐ先で、樹林のトンネルを進みます。先に丸く明るさが見えます。
間もなく右からの国道197号線が合流して来るところに出ますので左へ
合流するところを振り返る合流した先暫く国道を歩きます
国道は左に急カーブしてその先で西に方向を変えて野越トンネルへ。旧道はカーブする右、白いポールの立っている横を右に入る
ここを少し説明しますと、国道は左にカーブしてその先で野越トンネルに入ります。旧国道は国道が左にカーブして100m程のところで右鋭角に登る道があります。そしてヘアピンで峠への道が旧国道です。
旧街道は国道が左にカーブするところで、右の草道を北西に登る道です。左にカーブする国道の右に道標板があります
国道をカーブして上ってきて、右斜め後方に曲がって登る道は旧国道で、初めこの道かと思って歩きかけましたが、気がついてカーブのところに戻りました
左カーブの右の草道は道幅が結構あり、ハッキリと道跡が残るいい雰囲気の旧道を上る。やがて上の舗装道に出ます。ヘアピンを繰り返して上る道は旧国道です
舗装道に出ると舗装道は右に少しヘアピンでUターンしてきますので、舗装に出たところでそのまま横断して、Uターンしてきた舗装道に再び出て合流、合流して左(南)に旧国道と重複して進んでいきます。この辺りの記憶があいまいで写真の説明が旨くできない。写真と地図で感じをつかんでください。
ヘアピンで登ってくる旧国道を見る
ヘアピンUターンの手前でショウとカットする左への道でないかと思います。正面に案内標示があります
しょうとカットは10m程
ショウとカットして上のUターンしてきた道に出て左(南)に進むところで正面に道標があります
南から西へ蛇行しながら300mほど進むと
左にカーブしたところで右から合流してくる県道のY字路に出る。その先右に緩やかに100mほどカーブした先が
Y字路を振り返ったところで右の道を上ってきました。すぐに野越峠に至ります
津野町と梼原町との境界 野越え頂上(標高約590m)
維新の道・坂本龍馬脱藩の道 野越峠はかつての東津野村と梼原町の境界にあって、土佐の国府に通ずる津野山街道(梼原街道)の要衝の地であった。幾多の偉人や勤王の志士達が往来し、また近代日本建設を夢見て脱藩していった若者たちの梼原への第一歩の地でもある。中でも幕末の英雄坂本龍馬は同志沢村惣之丞とともに、文久2年(1862)3月24日高知城下を出奔し25日この峠を越えて梼原に到着、その夜梼原の勤王那須俊平・信吾の家に泊まり翌未明、二人の道案内により宮野々の関を抜け、四万川は茶や谷の松ヶ峠番所を抜けて、伊予県境峠の韮ヶ峠を越えて伊予の国(愛媛県)に脱藩した。信吾は韮ヶ峠より引き返し、俊平は同行し、小屋村(野村町)水ヶ峠(河辺村)を経て、泉ヶ峠(五十崎町)に宿泊。翌27日宿間村(同)に着いた。俊平はここから引き返し、龍馬・惣之丞は小田川~肱川の川船で瀬戸内海の港、長浜町へその夜富屋金兵衛宅に泊まり、翌28日船で四国を離れ、船で瀬戸内海に出て2日要し三田尻(山口県)へ到着した。(峠の説明文より)この4人すべて維新の夜明けを見ずして亡くなっている。
野越峠
野越え頂上より舗装道を南西に300mほど緩やかに下っていきます、両側が青々と木が茂り気持ち良い頂上の街道。
やがて道は野越トンネル西のT字路に出ます。左に下ると国道197号線に突当り神根越バス停があり野越トンネルの西の入り口に出ます。右(西)は神根越トンネルの東側です。197号線に下らずT字路を右(西)に50mほど少し上ります。道標はしっかり立ててくれてますので間違うことはありません。道は分岐しますが、右の道を進んで円形(山型)にカーブします
暫く先で右に急カーブします、左側が一気に開けますが残念ながら雨のため視界が悪い
神根越え頂上(標高600m)
に着きました。展望台として簡単な茶堂が復元されています。地下は197号線の神根越トンネルが通っています。
神根頂上からの千枚田の眺望
「耕して天に至る」という言葉ぴったりの棚田である。天正16年(1588)には90アールの田であったが、昭和47年(1972)当時水路から下に501枚あり、面積は、2.3haぐらいといわれている。昭和60年10月8日司馬遼太郎と画家須田剋太両氏が「街道をゆく」の取材に来町され「千枚田」に賛辞、「土佐は、日本の希望」と全国に紹介された。現在は国道197号線敷地となったりして整理した部分もあり、平成3年には、国道から上に町道までの間に、耕作放棄田を含め218枚に減少した。平成4年から千枚田オーナー制度を進め、棚田の保全と都市住民との交流事業を進めており、平成7年には「第1回全国棚田(千枚田)サミット」を開催した。(案内板の説明より)正面下に見えるのは、国道197号線の風早トンネル。手前は神根越トンネル。
見事な棚田、以前はもっと大きくあったそうです千枚田
茶堂を右にここから南に下ります、舗装を左に右の草道に入る
草道の旧道を下っていく途中、左に 若宮神社 古くから近隣の信仰が厚く、津野山一揆の統領で身命を賭して活躍した中平善之進の霊も合祀されており地元の氏子、信者により現在も厳粛な奉祭が続けられている
快適な道を150mほど下っていくと道標があり西に曲がり進む
やがて右に小屋の前に出るので北西に下る
小屋の角を右(北西)に折れた先の山裾の道を暫く進んでいきます
道標に沿って樹林を進む結構明るい道
道は千枚田の最下部へ向かって下っていきます
快適な旧道、道跡もよく残り素晴らしい全く人と会いません
千枚田の最下部の仲洞川に架かる苔に覆われたコンクリート橋を渡り西への街道に変わります
最下部から再び登りに転じます間もなくカーブミラーが立つ車道に出ます
車道に上ってきたところを振り返る。上から見ると道に見えません
車道を横断して向かいに道標が立っている地道の狭い脱藩道を上っていきます
暫く狭い道を進みます
沢を渡る所に小さな橋が架かっています。旧道は少し草が繁って足が隠れてしまいますがすぐに車道に出ます。
車道に出てほっとするのもつかの間少し左を見ると、再び右に入る脱藩道の道標が立っていますので右に入っていきます。
右に入り西に100mほど進むと、左からの舗装道に合流し西に更に上ります。この道は後で改修された舗装道を最短に進んでいます
樹林の中の舗装道を進みます、雨は止むことがないが気持ち良い旧道の脱藩道です。
正面が開け右に民家が見えてきました、久しぶりの民家です
白い建物の所でT字路となり、道標が立っていますので左に曲がります。
ここが 風早峠
左に折れたすぐ先で、左に入る道がありますが右の真っ直ぐの舗装道を進みます
峠の辻、右高台に碑が立っています
中平善之進処刑地の碑
百姓一揆の指導者善之進が一身に責め負い打首の刑に処せられた場所。津野山地区の大恩人として後世にその偉業を残しています
中平善之進隠敦(1709~1757)
宝暦時代(1751~1764)津野山郷(梼原町東津野村)の大庄屋であったが、当時は上納米の代わりに土地の産物を年貢として御用商人がまとめて買い上げ藩主へ納めていた。しかし、蔵屋という商人が土地の物産に難くせをつけ安く買いたたいたりして農民の生活を益々苦しくなっていった。庄屋たちは協議し上訴しようとしたが密告によって捕らえられ蔵屋と対決することになる。蔵屋は自分の不利とみて自ら命を断ってしまう。善之進は一方的な裁判により処刑されることになり「風早」の峠で斬首された。
この日藩庁では善之進の罪一等を減じ死罪を赦免する議が決したが、その報がもたらされたのは処刑の直後であったという。処刑の同刻から大暴風雨になり高知城はほとんど壊滅的な打撃を受けたという。人々はこれを祟りといい、時の藩主山内豊敷も心を悩まし城内の一隅に祠を建てお城八幡と称し善之進の霊を祀った。また津野山郷でも明治19年(1886)大暴風雨があり善之進のたたりであるといわれ明治20年(1887)東津野村高野に風神塚を建て善之進の霊を祭った。(説明版より)
峠より舗装道を下っていきます
数十m先で、舗装道を分け左の薄暗い街道を下ります
すぐ明るい開けた畑地に出ます
草は繁っているが道幅も十分あり快適
山際の道を西へ300m近く進む
右からの旧国道の舗装道が合流旧国道はヘアピンを繰り返し峠を越えてきています。旧国道を重複しながら右にカーブしながら100m程進んでいきます
舗装道が更に北に進み、Uターンのジグダグを繰り返し、街道はその西側の端の地道や舗装道に沿いながら進んでいる。ヘアピンの一番西側の風早トンネルの入り口付近でショウトカットします
舗装道に出て、北に進んだ地下を風早トンネルの西端部分の上を越えています
トンネルの上部を越えて、方向を西に変え400~500m蛇行しながら進みます。太郎川公園の北側に入っています。
その先緩やかな下りで旧国道を進んでいきます、道沿い右手にも脱藩道の標示が立っています。
このように脱藩道を通して案内表示がなされていますので有難く助かります。
左下に太郎川公園の一角、茅葺屋根が見えてきました左に降りる石段がありますが舗装道を進みました
そのすぐ先で左に鋭角に折り返し下ります
折り返す先の道で広大な公園に入っていきます
左に「維新の道」碑が建っています
更に左に ぼけ封じ観音像
折り返しを100m余り下ると197号線に出ます。その手前左に先ほど見えていた茅葺屋根の「お食事処くさぶき」の建物が数棟建っています古い建物を移築したようだ。
国道197号線にでてここを横断、脱藩の道は公園の中を抜けていきます左に風早トンネルの出入口が見えます丁度街道はトンネルの上を右から左に降りて来ました
本日はここで終了します
ここから梼原の市街地までもう少しあるし、見学しながらであると時間的に無理なので、雨も相変わらず強く降っているし、今夜の宿泊先民宿「花の家」へバスで行こうと思って、幸い食事処の隣にラーメン屋さんの「豚太郎」さんが準備中であったので、タクシーの電話番号を聞いて電話すると1時間ほど待ってもらわないとのいけないとのことであった。歩いてもそれぐらいで行けるので止む無く旧道歩くのは明日にするとして、距離の短い国道を梼原の街まで歩くこととしたが結局結構時間がかかり、更にその上、土砂降りの雨に会い民宿に入ることになりました。民宿に入り洗濯機を借りて、早々に風呂に入り食事をする。今日は1日雨が降り続いたが楽しい一日であった。民宿には男性2人の方が泊まっており、夕食は一緒に食べた、話も弾んで楽しい夕食をできました。今回の街道歩きは、今まで経験したこともないスタートから雨に祟られています。何とか明日から雨が止むことを願うばかりです。
今日一日雨であったが、いくつかの峠越えの快適な道で不思議と疲れが感じないので助かる。
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