2016年 5 月 11 日
昨日の太郎川公園入口~茶や谷
昨夜まで強く降り続いた雨も朝には止んでいた、でもどんよりとした曇り空、今回は余り天気には恵まれていないようだ。
今日も地元の方たちの親切が嬉しい一日となった、同宿の二人の方と朝食を一緒に済ませ、私は昨日のところまで戻らなければならなく、バスかタクシーにしようと思っていたところ、民宿のおかみさんが車で送ってあげようとのことで15分ほどかけて起点に戻った。私は街道歩きの中ではホテルが大半であったが、ホテルはホテルで良いところもあるが、今回のように民宿は地元の方の親切に出会える場でホテルや旅館では絶対あり得ない、ホテルでは何日宿泊してもこのようなことはないまあそれが干渉しないいいと頃だけど。今後は場所によっては民宿が多くなるだろうと思う。
まず梼原の街中には沢山の見るべきところがあるので見学します。山深い梼原の街中から維新の志士が沢山出ていることにも驚いた、正直この道を歩くことで勉強して始めて分かった。
私の地元の近くの奈良県五條市や東吉野村鷲家や十津川村との関係も深く、特に維新の魁の一人、天誅組総裁吉村虎太郎や那須信吾初め鷲家近くで戦死した後、奈良の地元東吉野の人たちが手厚く今も祀っていることに、また現在まで脈々と交流が続いていること、梼原町や津野町の人たちが口を揃えて感謝していることが伝わってくる。それだけこの山深い人里離れた村から沢山の若い維新の魁となる若者が出たという誇りを持っている。そのほとんどの若者が明治維新を見ることなく亡くなっていったことには悲しさが伝わってくる。昨年まで梼原の学校の修学旅行は奈良でその時には必ず鷲家にいって戦死した、吉村虎太郎初め墓に参っていたという話を聞いて胸を打たれた。
梼原の喫茶店で休憩がてらコーヒーを飲みに入り少しの時間話をしながら過ごし店を出たところ、若いママさんが追っかけてきて疲れたらチョコレートでも食べてくださいといって頂いた。こんなこと都会では絶対ありえないチョットした気持ちがどんなに嬉しかったことか。
梼原の街を後にして暫くは川西路の新道を進むが、その先の峠を越えてからは川沿いに北西の六丁~茶や谷の民宿への道で、標高870mの韮ヶ峠に向けて登ることとなる。
茶や谷の民宿「かまや」で5時に待ち合わせで5時過ぎに到着、私一人の宿泊らしく近くで住まわれている民宿の所有者から夕食は持ってきてくださいとのこと。こんばんは素泊まりとなるので梼原で夕食を少し仕入れて持ってきた。六丁のガソリンスタンドで道を訪ねた時、饅頭を売っていたので購入し少し話をしていたら、少しならおにぎりが出来るとのことで作っていただき夜食に助かった、ここでも親切に会った。
ここから1時間ほど歩くと茶や谷の民宿に着きました。5時少し遅れていくと誰もいないが鍵がかかっていなく、入り口の扉に張り紙があり自由に入ってください。お茶もポットにお風呂もいつでも入れますと、後で来ますとの置き手紙があった。16畳程の広い部屋に今晩は一人で寝ることとなる。夜おかみさんが来て明日の朝適当に出発していただいていいですよとのこと、この山村では鍵などしたことがないし村人以外の人が来たらすぐわかるので安心とのこと。部屋にはテレビが映らないのかなかった、携帯電話がAUは入らないらしい私はAUだったので通じない、山深いところだから仕方がないがこの先少し不安が増す。珍しいピンクの10円玉を入れて通じる公衆電話が部屋にあった。早々に寝ることとするが夜中また雨が降って雨音だけの静寂そのものの情況。驚いたのには5月というのに寒い、暖房を入れて寝なければ寒いから入れてくださいとのことで暖房をかけて寝ました。
夕方奥さんと話していたら、脱藩の道を歩く人、宿泊される方も珍しいとのこと、最近は殆どないとのことでした、何年も前NHKテレビで「龍馬伝」を映されていた時期は毎日のように宿泊客があり、知らない人同士が一夜ここの囲炉裏で共通の話題で賑やかであったが今は遠い話になってしまったと話されていた。だからその当時は夕食も作っていたが最近はまとまった宿泊者がない限り素泊まりとなるそうです。
【民宿に着いた時点で】
さて、ここで一つの決断をすることとなる。
一つは、毎日の雨でかなり体力が消耗してきたこと、
一つは、朽木峠の下りで倒れて鼻を怪我した後遺症が残っていること、
一つは、季節的に脱藩道の峠越えの山道が草に覆われて道が分からなくなって再三戻らなければならなかったダメージが大きかった、
一つは、途中で地元の人との話の中でよく耳にする、5月に入り草むらにマムシが出てきているので注意するようにと、
一つは、ダメ押しで、AU携帯が入らないこと近くの山頂にアンテナがあるのだがAUは入らないとのこと、途中で万一何かあったときは通じない。ただドコモは大丈夫ですと言っていた。
何より大きな要因は、鼻の怪我のダメージと連日の雨で体力がかなり消耗したことで、韮が峠から先の二日間の高山の山歩きへの不安もある。万一迷惑が掛かることを思うとと、
以上のことが重なり、さすがに考えが後ろ向きとなって不安の方が大きくなってしまたことで、明日、韮が峠までは登り中断残念だが引き返すことに勇気を持って決断。
この先の宿泊予定先をすべて電話でキャンセルをする。
【残念だが】
韮ヶ峠の先、愛媛県側の山道も長く険しいようで今の状態で万一次の民宿までうまくいけるか弱気になり、万一の事故で携帯も通じず皆さんに迷惑をかからないよう街道歩きで一番注意してきたことなので、総合的に判断して勇気を出して明朝、韮ヶ峠まで登りその先は変更して戻ることとする。
改めていつかは出直し踏破する決意
太郎川公園入口 8時05分 スタート
茶や谷の民宿 17時10分 着
38.674歩 23.20㎞ 1.631kl
8時05分太郎川公園昨日の終了した起点、国道197号線を横断脱藩の道の標示が植木のところにあります。左は風早トンネル、朝から雨が降っていないので助かる
横断する手前左に脱藩道の道標
左に昨日と違ってハッキリ風早トンネルの入り口が見えます
横断した東側に石組みの 石仏
傍に脱藩の道道標
公園内に道順には道標が立っています公園内に旧道でなく、旧道の回りが公園になったようです。大きな公園ですが朝早いので人と会いません。でも旧道らしく心配りしていただいてます
道標に従って丸木の階段を上ります
森林生態学習館が正面に見えてくるので、その手前を右に下る。
左に下る
下ると国道の手前に、萱葺屋根の水車小屋であったか復元されています
更に 茶堂も復元されている
水車小屋で一旦気持ちの良い旧道は終わり下の国道の道に出ます
そこで国道に出て150mほど国道を進み、雲の上のホテルの西側の広い舗装道を左(南)に入る。その道の右側には雲の上温泉・雲の上プール・レストラン等施設があります
その間の公園内を南に進む道む道
突当り手前の沢を渡ると右にカーブする、その左の土手に 石仏
右に折れて沢に沿って西に下ります
やがて緩やかに右に折れて左に折れながら下っていきます。200m程西に進み右にカーブするところで沢の橋を渡りますが
その手前左奥に宿泊施設ライダーズイン雲の上があります。ちょっと変わった施設です。
橋を渡り左にカーブしますところから見ると前方にペンション太公望があります。
西北に進むと右上に国道が迫ってきます
街道は国道に上らず脱藩道の案内に沿って左に下ります。公園から旧道は谷に沿ってあったようです
街道は国道に上らず脱藩道の案内に沿って左に下ります。
国道より南に離れ左の太郎川の谷に近づき川に沿いながら西へ旧道らしい雰囲気の道を下り乍ら進む
所々に草が繁っていますが柔らかい草なので何とか大丈夫です。案内板がなければ道が間違うかも
多分私のような無粋な者以外は歩かないだろうと思いながら進む。
右に 石仏
少し広くなったところ三叉路になっている、辻の角に勤王の志士前田繁馬邸跡の案内板
天誅組「魁」の勤王志士 辻を右に折れると前田繁馬邸跡、寄ってみます脱藩の道は右に折れず道標通り真っ直ぐ
贈正五位前田繁馬邸跡
前田繁馬は高岡郡松原村庄屋前田是助の孫。文久三年八月十四日吉村らと中山忠光を謀主として大和に挙兵天誅組に参加、戦況利あらず文久三年八月二十八日、奈良県初瀬町にて敵の銃弾に倒れた。時に二十八歳の若さ
邸内跡背後の丘に 前田繁馬 招魂碑
傍には一族の墓もあります
元の案内表示の辻に戻り沢沿いにまっ直ぐ進む
倉庫で旧道は分断されるが、その前を抜けた先で左に降りる
倉庫の少し先で舗装道を左に降りると旧道。そこにも道標が立つ
コンクリート道に苔が歴史を感じる
少し先で左に太郎川の堰があります。そこにも道標が立てられています
堰を左に見て真っ直ぐ趣のある旧道を進みます
その先で左からの未舗装道に出て少し坂を上ります
少し広場になっています、国道197号線に出ます。
国道に出て旧道が消えていますが、左下を見ると、旧道跡らしい道が水路に沿って見えます。実際は前述の道からこの下に旧道は続いていたと想像できますが。脱藩道の道標は別の所に立てられていました。
坂を登り国道に出ます。国道に合流した向かいの民家の方への道を道標が立てられています。龍馬らが一泊した史跡があるのでそちらを優先したのでしょう。国道を横断します
横断して民家の間に入ります
民家の奥に入り少し坂を上るこの道は、那須俊平・信吾父子邸跡へ龍馬らもここで宿泊したのが確認されています。ですから貴重な史跡なので脱藩道のこちらをとったのでしょう。
屋敷跡は広い台地になっていますが、この時期草がかなり覆っていて少し大変。
那須俊平・信吾父子邸跡
藩政時代の郷士、那須平次兵衛・那須幾之進・那須俊平・那須信吾の邸跡で、那須俊平父子は、ここに道場を開き多くの近郷の壮士が武道を学んだ、また、勤王の同志の重要な審議の場所でもあった。(案内説明版より)
坂本龍馬らが脱藩前夜に和歌を詠む。文久二年三月龍馬らが那須邸で一泊した。信吾は同志を招き龍馬らと倒幕の談義を重ね合い、意気投合して酒杯を交わし和歌を詠みあった。
春くれて 五月まつまの ほととぎす
初音をしのべ 深山津野里 龍馬詠
信吾は龍馬らと一緒に西の長州へ脱藩したかったが、国のために是非にといわれ土佐藩参政吉田東洋の暗殺に加わる。
西と東に引き分けられて
合わにゃ分からんふすまの絵 信吾詠
龍馬、惣之丞らが宿泊し倒幕談義をした那須邸跡こそが、日本の夜明けの発祥の地である。
(説明版より)
高知の自宅を早朝に出て翌日夕方この地に着くとは、今では考えられないすさまじいまでの健脚であるのに驚く。
邸跡
邸跡から上の舗装道にのぼると道
上の道から邸跡を見る舗装道に上がり少し右に行くと、父子の墓所左に行くのが道標の脱藩道。
贈正四位・那須俊平重任(1807~1864)
梼原の郷士、武道に優れ道場を開く、浜田信吾を娘・為代に配し父子で門人を指導。
文久二年(1862)信吾と共に龍馬らをそれぞれ韮ヶ峠・宿間まで送り引き返すも、信吾は高知城下で参政・吉田東洋を大石団三・安岡嘉助と共に暗殺し脱藩して下関へ。
その後、信吾が天誅組に参加戦死した報を聞き涙を流し一首詠じじた。
大君のみことかしこみ仕えなむ 身はずたずたによし裂かつとも
元治元年(1864)6月玉川壮吉と脱藩、忠勇隊に参加上京、7月19日堺町御門で戦死。57歳
皇国のためともならん武人の 老の命のあらん限りは
贈従四位・那須信吾重民(1829~1863)
佐川藩士・浜田宅左衛門の二男で那須俊平の養子。
身長六尺(182cm)25里(約100㎞)の高知城下へ一日で走ったといわれている健脚。
文久二年(1862)4月8日、同志とともに参政・吉田東洋を暗殺し脱藩。文久三年(1863)8月、吉村虎太郎らと中山忠光卿を奉じ、奈良五條代官所を襲撃代官鈴木源内を斬り挙兵したが、京都に政変がおこり天皇大和行幸が中止となり、形勢逆転し幕軍の追討をうけ9月24日、大和の国東吉野の鷲家口で戦死。34歳
君故に惜しからぬ身をながらえて 今この時にあふぞうれしき
那須父子の招魂墓碑
元のところに戻り、那須父子の屋敷跡の案内道標を左に見て綺麗な竹藪の旧国道を蛇行しながら西に進む。この道は明治に入り作られたようで実際の脱藩道は国道の南側の下を沿っていた
でもまさしく旧道にふさわしい素晴らしい綺麗な道、一語に尽きる
とりあえずこの旧道を化粧坂まで歩くこととします。捨てがたい綺麗な道だ、左下は国道197号線が走り、そのすぐ左下がかつての旧道
左下の国道の対岸を進んできて
正面上で国道を横断して那須父子邸跡へすすんだ。旧道は国道の右下の田との間の道でです
旧国道を300mほど進むと化粧坂トンネルが左下に見えてきます、そのトンネル口上から振り返る。
そのそばの 化粧坂頂上には茶堂が立つ慶長9年(1904)~11年にかけて津野山郷各村々に茶堂を建て、弘法大師、孝山霊、三界万霊を祭り、厄払招福の祭りをする起源について伝わる。
茶堂の数は、明治42年(1909)に53棟、その後減少して昭和38年には18棟になり、現在町内に13棟が保存されています。
建物は2間に1間半位の木造平屋建て、萱葺屋根、板敷きの素朴な形式です。木像・石像等を安置して諸仏を祀り、津野氏の霊を慰め、行路の人々に茶菓の接待を地区民が輪番で行い、信仰と心情と社交の場として、うるわしい役割を果たしてきた。現在も続けられている茶堂も建っています。
現存している 茶堂
茶堂から少し坂を下った左に 石仏が並ぶ
そこを左に少し上がると
梼原町指定文化財・六志士の墓
贈正四位・吉村虎太郎(1837~1863)26歳
贈正五位・那須俊平 (1807~1864)57歳
贈従四位・那須信吾 (1829~1863)34歳
贈正五位・前田繁馬 (1835~1863)28歳
贈正五位・中平龍之助(1842~1864)22歳
贈従五位・掛橋和泉 (1835~1862)27歳
土佐勤王党や天誅組・忠勇隊に参加若き命を皇国に散らした勤王の志士達の分霊の墓所。六志士の後ろ
化粧坂の頂上茶堂を左に見て、旧道は分岐点を右に下り街の中心地に入るのですが。
少し気になるので、分岐を左に進み左の六志士の墓前を下り、化粧坂トンネルを越え左に大きくカーブしながら国道の南側に出る。前述の国道を横断して脱藩道道標に沿って那須邸跡へ行った辻で、国道左下に見えていた旧道らしき辺りにいってみる。
前述の国道左下辺りの脱藩道を逆戻りします
国道の左下の旧道だろうか振り返る。旧道跡らしき古い石垣が右に沿って残っている。上の辻から見た旧道
その先で右に民家がその民家の門は那須邸の門を移築したのだと資料には書かれています
那須邸の移築門
その門の先で緩やかに坂を上り国道に合流します。
合流して国道を150mほど西に進み右側に渡ると、正面に化粧坂トンネルの入口が見えてきます。
トンネルの入口上に茶堂の屋根が見えます。トンネル手前右の丸木階段を上っていきますが、この坂はトンネルを作るにあたり旧道らしく道を作られたのでしょうが、この辺りを街道は上っていたのでしょう
階段を上り切ったところで、右から那須邸の上の綺麗な道が合流します。
先ほど歩いてきた茶堂の前に合流しました。どちらが正しいか私には分かりませんが、何れも楽しい旧道らしい道でした。
茶堂のすぐのところで分岐しています、左に六志士の墓所や志士達の墓があります。先ほど左に折れましたが、ここの辻を右に折れて化粧坂を下ります。
化粧坂を下る左に梼原の街が広がります。
街の西北にお城の建物が遠望できます。維新の門の和田城跡ですが、元々天守閣はありませんでした
坂を下っていきます
坂の下る途中この辻を右へ入った奥の突当りの新しい家が六志士の一人で
贈従五位 掛橋和泉先生邸跡 現在も子孫の方が住まわれてるとのこと。
掛橋和泉
和泉は代々神職の掛橋家に養子に入りましたが、勤王の志が強く養家は裕福で和泉は志士への資金援助をしていましたが、養母の知ることとなり詰責を受けます。結局、脱藩か養家への義理に悩まされ同志玉川壮吉を訪ね意中を語り死後を託した。和泉はその夜、玉川の家を忍び出て先祖の墓地に行き銃による自殺を遂げた。時・文久2年(1862)6月2日、27歳の若い命であった
醜えみしをがみても見よ秋津洲やまとしまねの花と大君 掛橋和泉
武士の思ひつめたる忠と義を心ひとつの死出の旅かな 吉村虎太郎 追慕
更に100mほど下った右に、吉村虎太郎庄屋屋敷跡があり、そこに掛橋和泉邸が移築されている。
吉村虎太郎庄屋屋敷跡
藩政時代に津野山郷の大庄屋が置かれた地で、宝暦年間の百姓一揆の責を負った中平善之進(1709~1757)も大庄屋としてこの地に住し、吉村虎太郎も安政6年(1859)より番人大庄屋を勤めた。
大庄屋屋敷跡らしい立派な石垣が積まれている。さすが広い敷地であった様子がわかります
移築された 掛橋和泉邸
明治維新の志士掛橋和泉(1835~1862)邸で、代々子孫により守り継がれてきたが、平成10年にこの地に移転された。奥の間は天井が低く、危難の際を考慮して階上に「姫隠しの間」があり、この敷地は代々大庄屋の邸宅跡地で、また、旧梼原村役場庁舎(1891~1935)跡地
床の間には掛橋和泉・吉村虎太郎の写真
和泉邸前を北に数十m下ると、左への石段があるので少し屈曲しているが、西への民家の間を進むと東町商店街の南北の道に出て、右(北)に折れるのですが私は間違ったようで南北に出る手前で北に進んだようです
檮原高校の渡り廊下の下を潜って車道に出ました。(旧道の出る数十m東に出たようです)
車道に出た道向かいに、吉村虎太郎が脱藩を偽って藩命ということで親族にその門出の宴を催してもらった、市吉屋跡がありました。向かい二階建て
旅館市吉屋跡
旧道はこの道を左に数十m行ったところに出ていました。この道を左に折れて中町商店街を西に進み、中央商店街のメイン通り(440号線)の信号を横断して100m余り進むと、梼原川に架かる梼原橋を渡り(当時は橋がなかったので板橋を渡った)すぐの先で突き当たり左に折れて南に進んでいたのが藩政期の旧道であったようです。(脱藩道の説)
もう一つの脱藩道の説
案内道標は、掛橋和泉邸跡からそのまま北に進み、檮原高校の西側の通り市吉屋跡を左に見る十字路を更に北へ、右に大きくカーブして左にUターンして北西に向きを変え、200mほど進むと440号線に出て数十m右に折れた先で、左の梼原川に架かる神幸橋を渡り、三嶋神社の境内を通り背後の山を上っています。そして維新の門手前の梼原川近くに下ってきているようになっていますが。
この道は観光史跡を意識した新しい脱藩道のような気もしますが、どちらが正しいか私には分かりませんが。とにかく私も背後の山に途中まで新しい道標に沿って上りましたが、途中から道標を見失い、梼原橋への左に下り前述の脱藩道の説の旧街道に右に折れ、右の山裾を少し歩いて維新の門に出てしいました。
どちらの道にせよ、今となってはよくわからないので、それよりも想像を膨らませる方が楽しい。
梼原橋で一旦脱藩の道を中断して、梼原の街中の史跡を是非散策したかったので【寄り道】します
市吉屋跡を左に折れた旧道沿い中町商店街は藩政期の遊郭街であった、今は全くその面影の建物は残っていない。西正面奥に梼原橋
南に進んでいくと梼原町役場で綺麗な梼原町総合庁舎
庁舎の道を挟んだ南側に 町立歴史民俗資料館梼原千百年物語り、梼原人千百年の歴史を物語る
メインの中央商店街通りの北側をみる左の建物は、まちの駅ゆすはら 二階以上はホテル
私が昨夜、泊まった民宿「花の家」はその向こう左の二軒目
メインの中央商店街通りの南側を見る
役場の近くにある ゆすはら座
当初、村内有志により北町に建築されたもので和洋折衷建物。一階には花道、二階には桟敷席が設置され、伝統的な芝居小屋の様式を整えている。県下唯一の木造芝居小屋であり、町内の戦後復興期の象徴的な建物といえる。一時取り壊しの案も出たが、ここに移築して保存されてよかった。
元の市吉屋の通りに戻り、十字路の辻に右から学校の渡り廊下の下を潜ってきた十字路
脱藩道の道標が車庫と右の舗装道の擁壁の間の細い道にあるので入っていきます
すぐ先右の舗装道に上ると右からの道と合流します
上の道にでて右に大きくカーブしたところの、少し先右高台に、中平龍之介の墓が見晴らしのよい木の袂にあった。間違って写真を消去してしまった。残念(後日改めていきました)
道を挟んだ左下には 中平龍之介邸跡贈正五位 中平龍之介先生邸跡の碑
文久3年(1863)11月6日田所壮輔・尾崎幸之進・安藤真之介とともに宮野々の関門から脱藩。
散りてゆく秋の木の葉は朽ちるとも
また来る春の恵みまたなむ
の一首を鎧櫃に入れて密かに遺書としたものである。元治元年(1864)忠勇隊を組織して京にはいり御所堺町御門で戦うが、久坂玄瑞らと鷹司邸内にて自刃。元治元年7月29日22歳、何とここでも若い命が散る。
道左下の 中平龍之介邸跡
その先右T字路を左に折れ北西に進む
梼原こども園を左に見て進む
北西に進でいくとやがて南北に通る440号線に出て数十m右に折れる
北西に進でいくとやがて南北に通る440号線に出て右に折れ横断します。440号線すぐ左手に私が立ち寄った喫茶COFFEE FLAGがあります。
すぐ左に 三嶋神社の杜が
三嶋神社
津野山郷の開祖・津野経高は、梼の木の多いこの地を梼原と名付け、延喜19年(919)竹の藪より移り居城を築き梼原宮首に伊豆より三島大明神を勧請したといわれる。また藤原純友の乱のとき、伊予河野氏に協力して純友征伐に向かい伊予三嶋明神に詣で、乱平定後大明神を祀ったと伝わる。慶応四年(1868)3月、三嶋神社と改称した。現在の本殿は共和三年(1803)拝殿は明治23年(1890)に再建されている。
境内には津野家代々を祀る「津野神社」、朝鮮松の「ハリモミ」、桂月大町芳衛書の「鎮座千年碑」、木で作られた「神馬」があります。
梼原川に架かる神幸橋、平成12年木造で架設、屋根のついた木橋。町が推奨する二つ目の説である脱藩道の案内板が立つ
境内の ハリモミ
樹齢400年・胸高直径130cm・樹高37m、文禄元年(1592)津野親忠と中平左京亮光義が朝鮮の役で持ち帰って植えたもの。通称「朝鮮松」と呼ばれています
神幸橋
神幸橋からの梼原川
境内の一角から、山道に入る龍馬脱藩の道 道標
この道が本当の脱藩道か観光用の脱藩道かわからないが
気持ち良い樹林の中でよく整備されています
舗装道路を横断します
舗装道を横断して手摺のある細い坂道を登ります、道標が建っています。
途中右に石造りの お地蔵さん
整備された坂を登登っていきます
右手にお墓があります
禅宗曹洞宗 天徳山吉祥寺 津野氏の信仰が厚く一時廃仏毀釈で廃寺となったがその後復興
さらに上っていったところからの眺眺め お寺
梼原の街の一部梼原の街も望める、四方山に囲まれた盆地にある町
山の上の平坦な車道にも道標が立っている。ここへ来るには遠回りのように思える、やはり観光史跡巡りだろうかとも思う。
どちらが正しいのだろう。この先、分からないので一旦梼原川の梼原橋に降りるとします。ここで今回中断未踏破
この先、維新の門に下る道が分かったので、後日再度下りました。
梼原橋 一つ目の脱藩道の説
橋の西袂から東側の市街地を見る
梼原橋のT字路を左に折れて暫く静かな街並みを進みます。橋より200m余り南に進むと途中左に梼原病院、右に梼原歯科診療所があります
落ち着いた静かな街並み、街道の情緒十分あります。この街筋を見ると一つ目の説出ないかと思われてくる
やがて右にカーブする手前左に、維新の門の案内が電柱に架かっています。
かつてはこの辺りは峠で和田越えといわれていたらしいが、今では切り開かれて峠という感じはない
和田越えの南側を少し入ると維新の門といっても門はありませんが日本の維新、夜明けを指しています。和田城といっても元々天守閣はありませんでした
和田城の傍に、出雲神社と稲荷神社が合祀されています。
維新の門
平成7年、和田城跡に建立された群像で、坂本龍馬・沢村惣之丞・那須俊平・那須信吾・中平龍之介・吉村虎太郎・前田繁馬・掛橋和泉の8人の志士が伊予国境の方角をむいていまにも飛び出しそうな躍動感にあふれた像。彼らは皆、志なかばで非業の死を遂げたが、これらの像は新しい時代を夢見て行動した志士たちの功績と勇姿を永遠に傳えるものであります。今にも飛び出しそうで躍動感があります
向って右から、槍を持った那須俊平・坂本龍馬・傍についている沢村惣之丞・正面奥で志士を支えた掛橋和泉・両手を広げ叫んでいる吉村虎太郎・今にも駆けだしそうな中平龍之介と前田繁馬・先頭をかける那須信吾。
維新の門を後にります和田越えの道まで戻ると、右へ上る道があります
梼原町が一望できる高台に 中平善之進夫妻の墓 幼くして亡くなった末子を中央にして整備された
墓所より維新の門と和田城跡
墓の上の舗装道を西に下る、川西路への梼原街道・脱藩の道、道幅も広く整備されています。
梼原で時間をとりましたが十分時間があります。
下りきると左からの川西路に合流ここから暫く川西路(梼原街道)を西に進みます。車も少なく閑静な山間の道。
生徒数も少なくなっているだろうが立派な広い梼原小・中学校が左に見えます
暫く進んだ右に茶堂が見えてきました。町内13棟保存されているうちの一つ川西路 茶堂
歩いてきた川西路を振り返る
更に暫く進んだ先、左に下る道があります。農家民宿「いちょうの樹」です
だんだんと山深く入ってきましたが維新の門から緩やかな上りの川西路で、道は車も少なく歩道も広く歩きよいです
いつの間にかかなり標高が高くなっています。緩やかな坂道だったので気が付きませんでした。
トンネル手前左に 梼原町龍馬の森
この森林は、龍馬誕生300年(2135)まで主伐を行わない計画で、最も早い植栽は1951年で伐採時185年生になる予定です。このため、間伐を繰り返し行い現在の密度は最も疎の林分で240本/haとなっています。FSC認証林では森林生態系を重視し自然環境と共生する森林づくりを進めています。
維新トンネルが見えてきました長さ284mトンネル手前左に休憩の東屋が見えています
脱藩の道の案内道標はトンネルへ導いています。嫌な予感がまたします、峠越えできないのかもでも挑戦してみます。
現在ウオーキングのイベントなんかは維新トンネルを潜るそうです。
本当の脱藩の道は左に入り峠越えです。旧道の大越え峠は通れないのだろうか心配だが取り敢えず進んでみます。東屋を左に見トンネル手前の左への道、
大越峠へ
トンネル手前の左への道、今のところはいい道です。トンネルの辻から100m余り上ります
その先で左にヘアピンカーブとなり曲がる手前左に、JA津野山無農薬茶加工場があります。
最初のヘアピンを左に進み、東南に右にカーブをしながら200mほど進み、今度は右に鋭角に曲がるヘアピン、そこで南からの道と合流し、引き返すように北から西に進むこと150m程、今度は更に左にUターンのヘアピン100m余り、またまた右に引き返すようなヘアピンを繰り返し上る。その先西へ進むこと300m程で右への道の三叉路に出ます。大越峠はもうすぐで着きます。
但し、このヘアピンの道は街道道でなくすでに旧道は峠までは廃道化しているので遠回りになっています。多分かつては、トンネルから上ってきたところで左に急カーブしたところから真っ直ぐ峠まで登っていたかと想像できる。
想像しながら写真で追ってください、右へのヘアピンカーブ
道は広く明るいので気持ちがいい
左へのヘアピンカーブ
大越峠手前の三叉路、右への舗装道が出会うが真っ直ぐの道。
大越峠の深い切通に着きました道幅もあり下れそうなので安心しました。切通しを少し進む素晴らしい切通しの峠頂上感動
喜びもつかの間、切通しを進むと何か嫌な予感がしてきました
やはり予感が当たった、あ然とする最近、人が歩いた形跡がない、雑草や小さな雑木が生い茂り旧道は微かに確認できる程度で冬場なら分からないが、この季節とても歩ける状態でなく、湿っているしマムシも危険だからこの先進むのは諦めるのが良策。
地形図からは道は消えている、この先は、峠から北に下り地下の維新トンネルの上を越え、その先で西にカーブして暫く蛇行しながら進み、左にカーブして下っていくと森林組合製材所敷地に下りていく道で。左の車道にでてトンネルを出てきた車道に合流する旧道であった。
私有地内で危険もあるので脱藩の道を回避してるのかも
後日写真をよく見ると、道跡が草に隠れてかすかに残っているようなので冬場なら大丈夫。
またも、大越峠越え道、完歩できなかった
悔しいの一言に尽きます(後日諦めきれず再度挑戦することになりました、お楽しみに)
仕方がないので元の維新トンネルの入り口に戻りました。脱藩の道トンネルを潜るのに標示していたのがわかりました。でも峠まで行ったのだから悔しいが大満足まだましだろう。
でも、龍馬・惣之丞、那須邸から道案内してくれている俊平・信吾が歩いた時はどのような状態だったのだろうか
峠を少し戻った三叉路からの眺め
維新トンネルの入り口まで戻りトンネル内を進む。明るく車も比較的少なく歩道も広く歩きやすいです
トンネルを出たところ
トンネル出口を振り返ると、前方の山の中を旧道は向かって右の切通しから左にトンネルの上を越えて、左の山を回り今写真の撮っている辺りに下りてきている。
ここから見た感じでは、すでに旧道は雑木で廃道化しているように見えます
トンネルの出た少し先で、国道は右に大きくカーブして、やがて再び藤の越トンネルに入ります。その手前右の森林組合製材所へ山から旧道は下りきていた。そして国道を横断して左へ
藤の越トンネルの手前は広くなっています
この手前を左に上り再び峠越えをします。この辺りの旧道は失われていますので、坂を上ります。
坂を上った途中から振り返る右の山並が大越峠付近と思われますが、やはりここから見ても、左手の山越えの旧道は既に消失しているようです。冬でも歩けないだろう
開発されて 藤の越峠 の面影は全くない
峠の広場には、特老ふじの家と西となりに町民グランドがあります
峠の坂を上り切った広場の一角の左角に喫茶藤の越があったので休憩しようと思ったが閉まっていました
喫茶藤の越の前で右(西)に折れる、右に町民グランドがあります、この辺りがかつて峠であったようですが御覧のように峠とは今では想像もつきません。
ここで道は左に上がる道がありますが右の真っ直ぐの広い道です。道標が立っています。
町民グランドもすぎて西に少し歩くと、舗装道は右にカーブしますが、旧道は左の側溝を渡り左の地道に入ります。左に道標が立っています。あっけない峠越えですがこの先下りとなります
そこを下り竹林・杉の植林・また少し荒れた雑木道と変化にとんだ旧道を下る。
景色が素晴らしい一変して気持ち良い旧道らしい竹林の中,峠の下り道は旧道が残っている。
と思ったが、束の間でかなり荒れた雑木や草の中を進みます。
脛まで覆う草の中を暫く進むと
様相が変わり杉の植林された明るい旧道へ、どうせなら折角素晴らしい道なのに少し手入れをしていただけたらと思ってしまう
つべこべ言わず残っている旧道を歩きましょう
やがて右に畑が現れますその横の草道を進みます。ということは民家も近いということだろう
振り返ったところから
やはり下ったようです、建物が見えて先が開けてきました
やがて日ノ口橋に出て国道のT字路に出ます。橋の袂に道標が立てられています
日の口橋の東西両方の袂に標識が立てられています。国道に出て左に折れるとすぐに十字路に出ますので右斜めに入る道と、真っ直ぐの国道に分岐するので右の梼原街道に入る。ほぼ国道と並行して進みます広野の集落です。
この辻で私は梼原街道を歩いてしまったが、歩きたかった目的は脱藩の道であったのに後で資料を調べてみると、この辻を左に行かず少し右に折れて左への山越えの道があるはずで、龍馬らがこの先、野々宮の関所を通らないので関所破りをして、山越で関所の北側に抜けていたようです。残念だがその抜け道を逸してしまったが(後日山越えの関所破りの道を歩くことが出来ました)。龍馬達の脱藩の道は案内標示では左への道になっています
吉村虎太郎達はここの辻を左に折れた街道を進んでいる。
国道の右の道を入ると正面の石垣に脱藩道の標識が架かって、南へ標示されています。標示は集落の中を抜ける街道です
この道は広野集落を抜けていく梼原街道に間違いないようです。ただここで私は間違ってしまったようです。
龍馬脱藩道として一部の説ルートに、この辻で左の集落に入らず突当りを右に進み山越えをして、この先の宮野々関所の北側車道に出る道を記載されています。要するに宮野々関所の裏山を抜ける道ですが、私は脱藩道を歩いているのだから行ってみたかったが道が分からなかったし、脱藩道の道標が左を指しているので集落を抜けてしまった。
おそらく当時ははっきりした道は無く、4人は山道を手探りで越さなければいけなかったと思います、要は関所破りをしたのです。どちらが正解か今となっては龍馬らしか知らないだろう。歩いていないからそれ以上私は詮索できない。「龍馬脱藩ゆかりの道」は山越えを載せています。
右側は一段高く石垣が積まれ、左は一段低く一階屋根の辺りを旧道は進んでいます
やがて左の一段低い道に合流します
更にその先で左からの国道と合流
合流点から振り返る、向かって左が街道
国道は東から西にカーブ、その先で国道は離れ県道2号線に変わります
右に大きくカーブして北に方向をかえて街道を進む。左に四万川が沿います、右に曲がる県道
北に方向を変えて宮野々地区に入ったところで右の旧道に入る
旧道を少し進むと左に道標があり、脱藩の道と維新の道の標示
「維新の道」は
宮野々関所の前辺りで左に四万川川を渡っていた往時は板橋であった。 関所の前を西に向かうと九十九曲峠越えで国境を越える。土佐の志士で西への脱藩者の殆どこの道を通ったという、それで維新の道と名付けられているのか。以前は龍馬・沢村もこの道を脱藩したといわれていたが、近年に入り坂本龍馬、沢村惣之丞は韮ヶ崎峠越えの説が定説となった。
幕末にはこの峠を吉村虎太郎初め数多くの土佐勤王の志士が超えて行った。峠には「勤王志士脱藩遺蹟九十九曲峠」と刻まれた石碑が建立。機会があれば是非行ってみたい維新脱藩道。(後日行くことになりました)
宮野々関所前の九十九曲り峠への道。橋を渡った正面民家の見える手前を右の山道を登ります
橋の袂に立つ標示
旧道右手に、宮野々関所跡
宮野々番所跡
この番所は寛政六年(1629)に始まり宝暦時代から明治初期まで片岡氏が世襲で番役人を勤めた。当時は県境の九十九曲峠経由で土予の交通の要衝であった。番所前の川岸には橋繋の大きな榎が今も残っている。
現在の建物は昭和35年改築されたもので片岡氏の子孫が今も住まわれています。
宮野々番所跡石碑に坂本龍馬・吉村虎太郎(近郷)・那須俊平(近郷)・千屋菊次郎(近郷)・松山深蔵(近郷)・上岡坦治(近郷)・田所壮輔・沢村惣之丞・中平龍之介(近郷)・尾崎幸雄・安藤真之助・千屋金策(近郷)の12名が刻まれています。
一本橋繋ぎの榎
番所跡より少し北へ進むと左に 津野山舞台(宮野々廻り舞台)
回り舞台から東を見ると、ここに前述の山越えの脱藩道ルートの道が出てきています
宮野々から今晩の宿泊先「かまや」のある茶屋谷まで、山間の四万川川沿いに上成~六丁を経由して6㎞以上あります。でも道は県道で広く車もあまり通らないです
川角橋バス停梼原川支流四万川川にかかる沈下橋で、現在でも人々の生活として利用されています。この川の上流には龍馬が越えた韮ヶ峠があり、今でも彼を慕う人々が伊予の国へ歩いています
旧道は右への道、左は生活道で対岸の山首の旧道は右への道
沈下橋
暫くはひたすら山間の道を、左に四万川川に沿って大きく蛇行しながら上っていく。
上成地区に入ると、沖バス停で、対岸には上成集落
バス停の所を右に入っていくと
津野氏入国伝承の地
津野氏初代経高は藤原仲平の子で、故あって伊予の国に配流になるも河野氏の助けを受け久方高原よりここ上成山首の地に着いた。そして最初の仮住まいをしたのが西村家で時は延喜十三年(913)三月四日随従する者十名であったと伝えられる。
その後、津野氏は土佐七豪族の一つとして活躍するが、歴代良く地域を治め津野山文化の華を咲かせた。上成山首はその発祥の地である。現地へは道路250m程で終点、それより徒歩3分の地点。(梼原教委)
左の橋をみて真っ直ぐ上成から長谷地区へと入っていく
上成バス停 上成集落
上成バス停と傍の説明板
長生庵・津野二十一代定勝墓
定勝は一条と結び家運回復を図るも時の流れを覚り家督を勝興に譲って、伊予に退き晩年松谷に帰住し元和二年(1616)死去。長生庵に十一面観音と合祀され、墓碑は縺木より庵横に移されている。場所は1.5㎞道端にある。
後生庵跡
本尊正観音禅宗吉祥寺末とあり、藩政期には栄えた、幕末文久二年(1862)改築され、廻り舞台もあったが老朽化により取り壊された。金龍院跡も接する。徒歩100m。
上成番所跡
寛永八年(1631)設置の境目番所、伊予窪野に通ずる。番所は二間半×五間半で三人扶持と茶口口銭取立給とある。場所は徒歩100m。 (梼原町史談会)
説明板の背後の斜面に お地蔵さん
長谷地区に入る
暫く進むと右に東向入口バス停があり、右への道と東向川が流れ込み合流している。そこにも説明板
伝説の郷・東向(こちむき)
この道の奥にある東向と呼ばれる集落は、その昔、長宗我部元親の重臣であった南部太郎左衛門が一時居を構え、その家来五郎進とともに多くの伝承が残る郷である。その後、山内家の土佐入封によりその傘下に入るも大坂の陣が起こると、旧主を慕い国を抜け長宗我部盛親の旗下に加わり、八尾付近で最期を遂げたと伝わる。
また家来五郎進の伝説も伝わり、その霊を慰める祠が、ここから奥へ500mほど入った川の対岸にひっそりとある。
次の表忠碑前バス停の傍には 表忠碑が建つ
更に北に進んでいきます
左に四万川川に架かる曲渕橋をみて真っ直ぐ進む
擁壁に組み込まれた お地蔵さん
四万川入口バス停
四万川川の渓流が美しい、いかにも山村の風景
六丁地区の集落が見えてきましたこの集落には学校もGS、喫茶店、民宿もある少し大きな集落です。土佐では一番西のまとまった集落です
六丁地区に入ると右にGSがあったので、道を訪ねたところここのご主人が毎年3月、韮ヶ峠へのウオーキングイベントを主催されているそうで、少し休憩がてら事務所で話をする間に、おにぎりをつくって頂き今晩の夜食にする。(今晩の民宿は泊まるのは私だけで素泊まりとなる)有難うございました。また韮ヶ峠で事情により引き返したとき、このすぐ先の右にある喫茶店のママさんにも親切にお世話になりありがとうございました。
GSのすぐ先の左のT字路を右に折れる。県道2号線はまっ直ぐ進みます。茶や谷へは右に折れ、本も谷川に沿って緩やかに上って行きます
右に折れた先の茶屋谷への道、六丁は梼原を出てから一番大きな町です
四万川小学校の見える手前分岐があるので左の道を進み大きく右にカーブして、学校の北側に出る。結果的には右の道が近回り。四万川に架かる竜王大橋を渡り右へ
本も谷川の龍王大橋、富永地区
左に四万川小学校
龍馬脱藩の道の案内標識がしっかり立っているので安心。
この辺りで地元の男性が親切に茶や谷まで車に乗りませんかととまって下さった。残念ながら自分自身のルールで乗れないので有り難く丁重にお礼をいいました
下組地区に入り川向に下組の集落だろうか
道が分岐するので左の本も谷川に架かるしもくみ橋を渡る。
しもくみ橋を渡り右に折れる
右に折れた先の梼原街道(脱藩の道)
その先、左に説明板が、神職・長谷部家(吉田神道)
長谷部家初代は安芸の国佐伯郡都岐山嶋大明神の祝部であったが、故あって弘治元年四万川に落ち来りて住し直ちに神職に取り立てられた。元禄六年(1693)に五代目が京に上がり吉田神道裁許状を授かる。津野山郷で吉田官位を受け、国名を名乗ることを許された神職は、此の、五代目長谷部出雲守義敦が最初である。
以来長谷部神職は吉田神道の根本元理を会得、土佐六郡の祭祀に寸志を以て参列し褒詞を受く。郷中に疱瘡流行甚だしき時、郡方の用命で梼原三嶋宮に於いて御祈祷、御神楽を奉じ郡方作配役庄屋よりご褒詞並びに御酒を頂戴す、代々郷中の至福祈祷を奉じた神楽古面は当家に九面あり。(梼原町史談会)
奥に道の駅のような大きな家が見える
少し先右に橋があり、その川の対岸に 三嶋神社の杜
三嶋神社を右に見て更に奥に進みます
道番庄屋屋敷跡・広瀬家(川向い) 広瀬家初代は、戦国時代津野氏に仕え西口の押さえとして天神森城の重鎮であり、慶長六年山内入国と同時に庄屋となる。
上段本畑・萩野公領跡地・味元家所有吉村虎太郎行政遺蹟左・二階建造物・倉庫・佐竹家で産物の集荷所兼酒造所
中の川口バス停で右に橋を渡り7㎞入る道がある。奥深くとても車でないといけない
本も谷川の支流、中の川を上ると左の道沿いには 石仏が並ぶ
暫く進むと左の高台に
臨済宗妙心寺派慶徳山 円明寺 万延元年(1860)火災で全焼、寺宝悉く焼失。津野氏時代は津野山六ヶ寺の一つとして栄えた。廃仏毀釈の時は住職初め檀徒300人が寺を警護し廃寺を免れた。明治初年小学校として使用され境内には津野山舞台(円明寺廻り舞台)があります
津野山舞台
円明寺から望む
茶や谷地区に入りました
茶や谷集落に入ると分岐しているところがあり、右に本も谷川に架かる橋を渡ると 龍王宮があるが寄れなかった
龍王宮への道
橋を右に見て真っ直ぐ集落の中に入る、詳細に脱藩道の道標が立ててあるので助かる。龍王神社前バス停がありここが1日二本の終点。丁度、4時半で小学生の子供三人バスから降りた
バス停から100m余り真っ直ぐの坂を上ります
集落少し入った右に、菓子・パン・コーヒー・だっぱん屋のお店がある。
さらに登って行く茶や谷の集落
その先上ったところの分岐点に 茶や谷の茶堂 萱葺屋根の板敷きの素朴さが何とも言えなくいい感じ分岐点を右に上る
茶堂の右の道を上ります
茶堂より道なりに少し上ると再び分岐しますので右の道を登ります
右に折れてすぐ、正面の分岐する石垣の上に今夜の宿泊先の農家民宿「かまや」さんがあります。
今日はここで終わり、脱藩の道はここの分岐を左に進みます。街道沿いにあるので助かります。
5時の約束で少し遅れて5時10分であった。民宿に入るとドアは開いており入り口に貼り紙がしていて、夜来ますので御茶も風呂も沸いてますので自由に使ってくださいとのこと。洗濯と風呂に入ってくつろいでいるとおかみさんがきてくれた。山深い民宿で静かで環境も素晴らしい。今夜一人でゆっくり休みます。
いろいろ考えた結果、明日あさ韮ヶ峠まで登ってそこから引き返すことにした。残念だが仕方なくいつものようにいかず少し弱気になってしまった。
特に朽木峠での転倒による鼻のけがによるダメージ。11日間の半分雨ということで体力の消耗が思った以上に大きい。携帯も通じにくいところが多いとの事で何かあったときのことを考えると、勇気をだして韮が峠で中断して出直すこととしました。
この先、愛媛の長浜の完歩までの宿泊所は全て予約しているのでキャンセルしました。
翌朝は、韮ヶ峠に登り六丁まで引き返し、六丁のバス停から高知城下へ戻るが、バス時間が1時15分なので少し頑張らないといけない。乗り遅れると6時までないし、高知城下には戻れない。
峠まで3時間、戻り2時間30分見て7時には出発しなければ間に合わない。
何もすることがないので、5月であるが寒く暖房を入れて暖かくして8時に寝ました。部屋の中以外は外には明かりもなく静寂そのものでした。
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