2016年5月6日
昨日に続き 高知市内を自転車で史跡を回る
ホテルを出発して間もなく雨が降り出すが、スタートは上町1丁目の高知市立「龍馬の生まれたまち記念館」に入り雨が止むのを待つが、まだ雨が強く降り続いているので近くの龍馬の本家である、豪商「才谷屋」跡に建つ「キッサ・さいたにや」に入りひと時過ごす。資料で見ていたが店内には龍馬関連の書籍類がびっしり並んでいて、見たくてもいくら時間があってもたりない。
雨が降り続いているが少し小降りになって来たので近くから見て回る。
枡形電停の南東に出雲大社分詞の鳥居が前に立つ吉野朝廷時代古戦場跡の碑
南北朝時代土佐に於いても、現高知城の前身大高坂城を守る南朝方の大高坂松王丸と足利方の戦いが、1336年から始まり特に1339年10月から翌年の正月にかけて大高坂城を中心行われた戦い跡の碑で松尾丸は戦死、大高坂城は落城し南朝は衰退した。最後は1342年の戦いで土佐は足利方の勝利となった。市役所前には松王丸の記念碑がたっている。
出雲大社分詞
龍馬本家豪商「才谷屋」跡 喫茶さいたにや(2回目に高知に行ったとき止めていた)
龍馬の生家は現在の上町病院や南水ホテルを含めた広い敷地であった。電車通りに建つ城西館、
この傍に龍馬生誕之地碑
【龍馬が祈願して出立した和霊神社へ、4㎞ほどの道のりを自転車で走る】
幸い雨も小降りになったのでまずは少し離れているが、脱藩の日に立ち寄って武運長久を祈願したという「和霊神社」へ(私は当日でなく前以て参拝していたと思っている)、自転車は西へ走り上町五丁目で左に折れて鏡川に架かる新月橋を渡ります。龍馬達は幼い頃泳いだであろう鏡川
鏡川に架かる新月橋
新月橋を渡り37号線を南へ、左に石立八幡宮の案内標柱
石立八幡宮
拝殿
神社前から800mほど車道を進んでいくと左に高知銀行のある信号交差点、更に20mほどの次の信号交差点右がコンビニ、手前の信号交差点の高知銀行角の細い道を左に30mほど狭い道を進むと、二つ目の信号交差点から来る車道の東側を車に注意しながら横断する。左にしまむらがあり東方向には神田小学校が見える。車道を斜めに横断、左のしまむら東側の細い道を南に進む。右の山が神田南城跡この先の道順は文章では説明難しいが、実際現地に行ってみると、神田小学校周辺から神社への案内が要所々に出ているのでたどり着ける。案内板がなければ土地勘のないものは迷う。
右の山は神田城跡、和霊神社は向かってもっと左
住宅の中を曲がりくねりながら進んでいく、このような案内表示で導いてくれるので迷うことがない。左の建物の横の細い道を200mほど進んでいけば和霊神社の鳥居近くに出ます
正面の小高い山が、和霊神社のある水谷山
正面、和霊神社の建つ山、自転車のある所が広場になり地元住宅の駐車場となっている鳥居を覆いかぶさるように
「龍馬の桜」と名の付いた桜の木が1本ある
山裾上り口に木製の鳥居が建つ、鳥居を潜り急な石段をかなり登ると右に神社がある。神社は思っていた以上に簡素で瓦葺の社殿で、社殿中央部には和霊大明神の扁額がかかり、格子の中には祠と鏡お札が供えられている。また小さな板絵馬と紅白のカネの緒が垂れている。この神社は水谷山にあり才谷屋の所有山であった。神社は宝暦12年(1762)才谷屋の三代目坂本直益が伊予宇和島から勧請して才谷屋の守護神としたことが記されている。
上り口にある坂本龍馬飛謄の地の説明文
文久二年(1862)三月二十四日龍馬はこの地より運命の旅立ちをした。脱藩という罪が係累にまで及ぶ恐れのある大罪を犯してまで龍馬を駆り立てたものは何だったのか。たとえ野末でのたれ死のうとも信念を貫き通す覚悟で、この祖霊の地に立った。
ただでさえ江戸時代の旅立ちは死の覚悟が必要だった。ましてや時代に回天の大技を仕掛けようという龍馬にとって、自分の生き死になどは運命の本流に放りなげて平気だった。
おりから弥生の桜が七分咲きの坂本家所領の小高い水谷山を黙然と登る龍馬の背には瓢箪があった。丘の上の祠には坂本家の先祖である明智左馬之助の霊と、伊予宇和島城下に本社のある、われい明神を合わせ祀ってある。祠の中の祖霊と心ゆくまで語り、酒を呑んだ龍馬はまさにこの地で飛龍となった。 (上り口に記されていた説明文より)
神社への続く急な濡れた石段を滑らないように上る
上り詰めたところに神社が見えて来た
簡素な社殿で私もこれからの脱藩道を無事達成できるよう賽銭を奮発して祈った
和霊神社を後に下っていく
ここで私の私見として断っておきますが
どの資料マップを見ても龍馬が3月24日小雨振る中城下を脱藩して、まずここ和霊神社に立ち寄り祈願したといわれていますが。翌日の夜、如何に健脚とはいえ梼原につくための強行な急ぐ道にしては、片道4㎞ほどの寄道は少し考えにくいように思えてならない(確かに物語としては面白いが)。それより、脱藩は当日決意したのではなく、同じ脱藩した沢村惣之丞らと前もって打ち合わせしていたときに。当日でなくそれまでに神社への祈願報告されたのでないかと思うのが自然に感じた。これは実際行ってみて感じたこと。(間違っていたらお許しください)
和霊神社の見学も終わり、再び新月橋を渡り上町五丁目交差点に戻る。
ここで私の私見として断っておきますが、どの資料マップを見ても龍馬が3月24日小雨振る中、城下を脱藩してまずここ和霊神社に立ち寄り祈願したといわれていますが。
翌日の夜、梼原につくための強行な急ぐ道にしては、片道4㎞ほどの寄道は少し考えにくいように思えてならない(確かに物語としては面白いが)。それより、脱藩は当日決意したのではなく、同じ脱藩した沢村惣之丞らと前もって打ち合わせしていたときに。当日でなくそれまでに神社への祈願報告されたのでないかと思うのが自然に感じた。これは実際歩いてみて感じたこと。(間違っていたらお許しください)
和霊神社の見学も終わり、再び新月橋を渡り上町五丁目交差点に戻る。
【高知城下の西、上町五丁目の北側周辺の史跡を見る】
上町五丁目電停交差点を北に入ると、突当り江ノ口川に出るそこを200mほど右に折れて進むと、右に近藤酒店がありその前の水路(江ノ口川)の小橋を渡れば右前方に 広瀬健太邸跡の碑前方右の建物前に碑天保七年(1836)にこの地に生まれる。
土佐勤王党の幹部として活躍したが山内容堂の弾圧によって、平井収二郎・間崎哲馬とともに文久三年六月八日切腹を命じられた。享年28歳の若さであった。この事件をきっかけに土佐勤王党への弾圧のはじまりとなった。
江ノ口川沿いの道
真宗大谷派 永福寺 広瀬健太邸跡前の江ノ口川沿いの道を先ほどの所まで200m程戻った右に永福寺がある。
その門前で、「井口村刃傷事件」がおこった。
原因は土佐藩の上士と郷士の長い間の階級差別にたんを発している。文久元年3月4日上士の山田と益永が泥酔して帰途の途中に起こった事件で、若い郷士の小高坂郷士中平忠次郎と衝突し挙句の果て中平忠次郎を斬殺してしまった。一緒にいた宇賀喜久馬はすぐ近くの小高坂村に住んでいた忠次郎の兄、池田虎之進に急を告げ虎之進は現場で山田、益永を斬り殺した。事件の後、上士側は郷士側に虎之進の引き渡しを要求したが郷士側は拒否。その結果一触即発の事態となった、藩は一方的に虎之進と喜久馬を切腹することで事態の終息を計った。喜久馬は19歳の若さで解釈したのは実兄寺田利正で断腸の思いであっただろう。
因みに利正は地球物理学者の寺田寅彦の父である。これ以降益々藩と郷士の溝は深まり郷士の尊皇攘夷が強くなっていった。
永福寺前の江ノ口川、この辺りで事件が発生
永福寺前を西に20mほどいって一つ目の橋を右に渡る、更に20mほどで十字路に出るので右に折れて坂を上る左角に、坂本龍馬家一族の墓への道標 「これより上方約100m」この十字路を右に坂を上る
左に墓案内の看板、幕末時の邸宅跡や墓所案内(案内板より)
15 池内蔵太邸跡 1 岡上樹庵・菊栄・赦太郎墓
車瀬公園 2 田口文良墓
望月清平・亀弥太邸跡 坂本家墓所
広瀬健太邸跡 3 平井収二郎墓
永福寺門前事件跡付近 11 藤田英馬・琴墓
5 徳弘薫斎邸跡 13 廣井磐之助墓
6 植木枝盛生誕地 14 弘瀬健太招魂碑
4 平井収二郎・加尾生誕地 池内蔵太一族の墓
7 池田陽三郎・忠三郎兄弟墓 19 才谷屋墓所
池田有年・糸墓 徳弘孝蔵墓
8 田岡正躳墓 9 浪越千磯墓
10 石山孫六墓 12 植村浩 墓
16 小畑孫三郎墓 17 佐井寅次郎墓
18 山川良永墓
坂本家墓所案内板の手前を右に細い草の茂る道を20mほど入る。岡上家は8代も続いた医者で藩公の侍医として知行も上士並であった。龍馬の姉乙女はこの樹庵に嫁いだが離婚、長男「赦太郎」を産んでいる。離婚の後、樹庵は後妻との間に菊栄が生まれている。菊栄は社会福祉に生涯を尽くし延べ2000人の子供達の母となり80歳で天寿を全うした。
坂本龍馬の姪 岡上菊栄の墓
柴田家の墓 坂本 栄
坂本龍馬の次姉は柴田作衛門と結婚したが子がないまま病死し、この墓によると弘化2年(1845)9月13日没としている。龍馬は天保6年(1835)11月15日に生まれているので、栄が死去したとき満9歳となる。坂本家の墓所では龍馬が脱藩した文久2年(1862)3月没となっている。餞別に銘刀を渡しその夜自害したとなっているが果たしてどちらが正しいか。
坂本 栄、 柴田宇左衛門勝成 栄の夫作衛門の父、 柴田□芳院 栄離婚後の後妻、 柴田天之助 宇左衛門嫡子、
戊辰戦争参戦者の墓
真邊戒作正精、長崎貫太頼房、田中煌之進重行
医師ほかの墓
井口事件(永福寺)関係者ほか墓
益永繁斎繁英、益永雲悦、中平久左衛門、平井正光、土方寿仙
江戸期武士の墓
坂本家墓所
坂本家第一墓所、坂本家第二墓所がある。
脱藩時の龍馬の佩刀は「肥前忠弘」とも「陸奥守吉行」ともいわれその銘刀を与えたのが次姉の栄で、その責めを覚悟してその夜のうちに自刃したと云われていたが、最近の説では前述の墓標にもあるように龍馬が脱藩する十六年前に病没していることが判明し、龍馬の佩刀は肥前忠弘で末姉の乙女が与えたとする説が有力になっている。とすると、脱藩は家族内では内々の公然の秘密であったのではないだろうか。知っていて脱藩を許したとなったら一族への類も及ぶから、そこは裕福な坂本家のこと財源に物を言わせて手を打てたのだろうか。何故、柴田家と坂本家に栄の墓があるのだろうか。それはさておき龍馬の姉の栄や乙女の墓所は丹知山にあり公園墓地として整備されている。この付近の一帯には江戸期の墓が集中している。
20年以上前に一度きたが、その時と比べ宅地開発が進む中随分変わっていて驚いた。墓所も綺麗に整備されている。以前は第一墓所と第二墓所に分かれてあったが近くに改葬され、墓所には二十一人の一族が眠っている。
当然龍馬の墓はここにはない。
坂本栄密葬之跡碑
この碑は、一族の墓の一番後列より離れて後方にある栄の死については諸説あって今後の先生方の研究に寄ることとなる。
坂本乙女の墓
勤王志士ほかの墓12墓
文人の墓11墓
坂本家他墓所への入り口 整然と整備された古い墓石、やはり土佐は幕末への思いが強い
坂本家墓所入り口の下の道を100m余り進んだ右下に
平井収二郎の墓
平尾収二郎は幕末の志士、号を隈山といい天保六年(1835)この地で誕生。早くより文武を志し、英邁闊達で戦国策士の風があったという。文久元年(1861)に武市瑞山の土佐勤王党に加盟する。翌年、藩主山内豊範に従って上洛し他藩応接役として活躍。その後山内容堂が赦免されて藩政を把握することに先手をうち藩政改革を企てた、このことが、容堂の怒りにふれ同志の間崎滄浪、広瀬健太とともに切腹を命じられた。
獄中での爪書きの辞世「嗚呼悲しき哉」は藩史に削りとられたが維新後、妹の加尾(龍馬の恋人と伝わる)によって復刻された。享年29歳。またここでも優秀な人財が容堂の為に土佐から失った。
平井収二郎・加尾誕生地跡
元の十字路に戻り北西に道を進むとJR線路にでる、線路手前右を見ると斜面の上に碑が立っている。妹の加尾は龍馬の初恋の相手といわれている。龍馬が脱藩すると加尾は京都三条家に仕える。加尾は慶応二年(1866)志澄と結婚し、晩年、龍馬と再会できなかった若き日のことを「女子一生の痛恨」と記している。
坂本龍馬家の墓所を後に、最初の上町五丁目の交差点まで戻り、新月橋近くの鏡川まで戻る
新月橋手前の左に大悲山 観音寺
新月橋手前の堤道を東に400m程走ると道が分岐するので右の道をすすんだ。才谷屋の南に当たり月の瀬橋の西側、判然としないがこの辺りにかつての 河田小龍塾跡龍馬の視野を広げたのは小龍との出会いがあったからという。有名な言葉に龍馬は「先生は人を作って下さい、私は船を作ります」といって別れたという
右の道を進むと右には鏡川の堤防、月の瀬公園、左は堂々たる石垣の道筋が続く。月の瀬橋東側の周辺、龍馬14歳で城下築屋敷に住む日根野弁治の道場に通う。19歳で目録を伝授されさらに磨きをかけるため江戸に修行に旅たつ。
日根野道場跡 はこの辺りといわれているが場所は確定できない。
我が国最古の 沈下橋跡
更に東に進むと旧柳原橋(沈下橋)があった。昭和50年の台風5・6号、昭和51年の台風17号での連年の被災で、河川改修に伴ない昭和52年撤去された。現在は鉄骨の新橋。
柳原橋手前の堤防から西を見る。かつてはこの鏡川で龍馬たちは水泳にいそしんだことだろう
雨の影響もあったが、自転車で市内を走ったがなかなか思うように回ることが出来なかった。
今日はここで終了してはりまや橋の西鉄インのホテルに戻る。
また後日機会を見つけて回り切れなかったところを見学したい。
夕食は広め市場にいって高知に来たら決めていた、カツオのたたき定食を食べる。市場はサラリーマンや観光客で賑わっている。なかなかなれないので、何を食べたらいいのか分からなくなった。
明日より再び脱藩の道を歩く。
5月6日2日目の高知市内見学終了
コメント