壺坂越道

2014年1月3日

近鉄六田駅・柳の渡し跡~近鉄壺坂駅

冬にしては最高の天気だった。自宅から近いので朝はいつもよりゆっくり出る。
近鉄吉野線の下市駅近くの駐車場に車を預け六田駅まで、ここから500mほど歩き、起点の柳の渡し跡を8時にスタートする。
この道は、古代から重要な吉野への越道として、比曽寺や宮滝への道であった。平安時代に入り、大峰山の修験者たちの通る道として、また吉野への平安貴族たちの往来の道でもあった。
江戸時代に入ると、西国巡礼のかたわら壺阪寺から吉野への桜見物と一般庶民にも大変利用された。
この時代になると吉野への道はこの道以外にも沢山の街道が出来ている。
今日のコースは、比曽寺跡~しゃく峠~壺坂峠~高取城跡~高取土佐通りを下り~再び壺阪寺に登り~同じ道を下り土佐街道にでて城下町筋を抜けて~中街道との合流点~壺坂駅

       六田駅  8時 スタート
       壺坂駅  15時30分 完歩
            39.449歩  23.66㎞  1.694kl

近鉄六田駅から約1㎞ 柳ノ渡し跡へ
六田駅から旧伊勢南街道・大和街道(現国道269号線)を東に、右に吉野川に沿って進むと、柳ノ渡し跡がある。
壺坂越え道はここをスタートとする。時間は8時

「柳ノ渡し」は、大淀町北六田と、南岸の吉野町六田とを結んだ渡しで、平安時代に醍醐寺の開祖・聖宝理源大師(832~909)が開いたとされ、美吉野橋がかかるまで、「桜の渡し(桜橋)「椿の渡し(椿橋)」「桧ノ渡し(千石橋)」とともに、大いに賑わった。遺跡として残っているのは柳ノ渡しのみである。その北岸に柳が茂り、1786年建立の道標を兼ねた石燈籠や道標が残る。これらは、現在地よりやや上流にあった元来の渡し場から、この前を通る、伊勢南街道(国道169号)の道路拡幅に伴い現在地に移設した

柳ノ木と共に常夜灯「右 よしの」  「左 よしの」 道標「左 いせ、 右 よしの道」

吉野川の対岸は、和歌山の岩出橋で大和街道と分岐した、河南大和街道 が紀ノ川・吉野川の左岸を吉野まで来ている

自然石の道標

吉野川に架かる美吉野橋

美吉野橋北詰からの先を見る

美吉野橋北詰から南詰方向、対岸の六田集落も古い街並みが残っている。対岸から吉野山への道も残る

300mほど進むと左側に細い小川とコンクリート塀の間の細い道がある、多分この道だろう左に入る
国道は真直ぐ東に良しの川に沿って。北への道旧道は進む

左に入る所を、東から見る。ずーと先が今歩いてきた柳ノ渡し跡、北六田地区の比曽口

細い道を上っていく

先で道が分かれる、多分左の山裾の道が旧道でないかと思うが全く確信が持てないので、右の民家の前の道を通る

右へ進んでいくと新道に出た所の比曽川の側に  が祀られている

比曽川を左に沿って、今木出口線(222号線)を進む

すぐ先左に比曽川を背に石造りの 祠が2つ

濯頂の滝
吉野熊野三山の路わけを発願し比曽寺に修行中の役の行者は、この清流で身心を浄め、やがて、伝師に濯頂の戒法をうけ遂に大願を達した行者は、みずから濯頂の滝と名づけた、報恩の為に不動尊をまつり、道中の安全と後世の平安を祈ったと伝えられる。折しも、この地方を襲った伊勢湾台風で流失し、新たに身代不動尊を納めた。その後、比曽川で古い像が発見された。よって、改めて両尊像を安置した。(説明より)

比曽集落を進む

左の旭ヶ丘総合センター近くの道路左にある 

左、旭ヶ丘総合センター

総合センターのすぐ先左に2つの  本瓦の立派なもの

暫く歩くと、東西に走る寺前千股線の上比曽信号交差点に出るので、そこを渡り真っ直ぐ進むとすぐに  世尊寺の山門  に突き当たる

山門の手前右手にも 

比曽寺跡の世尊寺の歴史は古い

比曽寺跡・世尊寺
587年聖徳太子の創建で、比曽寺とした、飛鳥時代に堂塔が建てられ、その後東西両塔・食堂・講堂を備えた薬師寺式の伽藍配置が完成したと思われる。現光寺、現在の世尊寺と寺名も七度変わっていく。比曽寺という寺名には仏像にまつわる伝承がいろいろある。平安時代には清和天皇・宇多上皇や藤原道長もこの寺で礼仏するほど寺勢は栄えた。当時は現光寺と呼ばれたが、その後衰え鎌倉時代に再建された東塔は、1597年秀吉によって伏見城に移され、さらに1601年家康が近江の円城寺(三井寺)に移築された。三井寺の三重塔はそれである。そして、江戸時代に入り、寺名を世尊寺と改めている。

中門
中門前の両脇の塔跡には前の三重塔が建っていたが、東塔は現在三井寺の三重塔で重要文化財に指定されている。先日三井寺に行ったがそのようなこととは知らず残念であった。西塔は戦火で焼失した
東塔跡  
寺伝によれば、聖徳太子が御父31代用明天皇のために建立され、その後、鎌倉時代に改築されたことが礎石の一部によって知ることができる
西塔跡  
飛鳥時代に創建されたとされる三重塔跡である、13個の礎石が残っている。寺伝によれば、33代推古天皇が夫の帝、30代敏達天皇のために建立されたが、相次ぐ戦乱に災いされ、惜しくも西塔は「賊の手によって焼失せり」と、今昔物語に記せられている

塔跡

中門を潜ると,文殊堂・太子堂・庫裏・本堂が建つ
本堂

太子堂
聖徳太子をご本尊として建立された堂で、太子16歳のときの孝養像を安置している

本堂左裏に 檀上桜
不老長寿の桜、太子御手植え之檀上桜寺伝によると、150年前台風により倒木、枯木化したが、やがて根元から、幹・枝、そして開花、みごとに蘇生し現在に至る

芭蕉の句碑
1,688年春4月、弟子の杜国をともなって当寺に参詣し、折しも咲き誇る太子御手植えの檀上桜を眺めて詠った句。45歳の年であった。
   世にさかる  花にも念仏まうしけり  ばせう

世尊寺全景

世尊寺の山門前を西へ進み、道なりに左にカーブして新道に出て、右に坂道を上る

左前方高台には北野地区の新しい住宅地、坂の右手一帯は旧比曽の集落
坂を登り切ったところの信号交差点で、左に行けば北野住宅、旧道は右に折れる

信号から比曽地区を振り返る

信号交差点を右に折れて少し進んだところで右の旧道に入る 此の辺り 夙峠(しゅく)

旧道に入り造園屋の前を通り、馬佐地区に入る

集落の途中右手に 村の鎮守神社

その先で先ほど分かれた新道が交差するので渡り、真っ直ぐ旧道を進む

その先で道が分かれるが、お寺を左に見て右に進む。左に行けば馬佐集落を抜けて、国道169号線に出て吉野山へ行ける

浄土宗妙楽寺 妙楽寺の薬師堂

寺の向かい左に 地蔵祠と庚申塔と道標

道標 「右 よしの道 官幣吉野宮 十三丁」

お寺側の角にも 道標

道標「左 よしの 右 つぼさか 左 よしの」

辻から西の馬佐集落、この道を進めば、馬佐口の国道に出て吉野山に行ける道

集落の右側に 大一天財稲荷大明神

集落を抜けて緩やかな坂を登っていくと、右から新道が合流してくるので暫く進む

新道に合流して、緩やかな峠を越える

下りながら左にカーブし前方に田口集落が見えてくる

この先で、新道を左に分けて鋭角に右に入る旧道がある

旧道に入る所を反対側から振り返る向かって右から下ってきました

田口集落を抜けていく

田口は、吉野山麓へ鉄道が通るまで古くから吉野への道筋として交通の要所であった。過疎化した現在人家は減少したが、飛鳥時代には、曽我氏の同族田口氏が本拠としていた。また集落の北数百mの山腹には 安佐寺があった。吉野町山口の西蓮寺の「吉野大仏」と称する木像阿弥陀如来坐像がもともと安置されていたのを、廃寺になるにあたり江戸初期に移されたと記録されている。また、他の仏像も大淀町馬佐の妙楽寺の薬師堂に、中尊薬師如来像・脇侍の地蔵菩薩立像他一体の立像も移されている

集落を抜け旧道は右の橋を渡っていく

左の小川に沿って進む

集落を抜けて暫く進むと道は、左に90度カーブする。その右手に 護摩堂 がある

龍峯院護摩堂

役行者尊

わきみず 福龍水

古い 五輪塔

護摩堂の前の道を坪坂寺への峠への山道へ入る

山道に入ったところから振り返る

安産の滝
山道の坂を登って行くと、右手に小さな滝が見えてくる。滝の名は「安産の滝」といわれ、昔から大峰詣に向かう修験者たちは、この滝で第1の行としてみそぎをして身を清めた。また近郷の御婦人達は安産を祈願して滝に打たれたといわれる、この滝の上に「安佐寺」があったがいまは何も残っていない明治5年に廃寺となった

滝の右手街道沿いに 安産地蔵

静かな坂道を登っていく、車も来ないし川のせせらぎの音を聞きながら快適な道を歩く

この先で道は少し広くなる

広くなったところで右にカーブするが、今は旧道は消失しているが、旧道はガードの左側を通っていた気がする

ガードの左の藪の中と想像する

壺阪峠

峠から今来た道を振り返るが、この道は何のためにお金をかけて工事をしたのか疑問に思う。もうすでにつっくったときの原型をとどめていない。税金の無駄遣いもいいとこ。それより同じするなら、せっかくの古代からの旧道の整備に力をいれるほうがよっぽどいいと思うが多分殆どの市民は通っていないから知らないと思う

壺坂峠入り口には通行止めの看板

峠を振り返る、右の道を登ってきた。左の道を行けば高取城跡への車道

峠を少し下ると、右手に山道がある

右手に 高取城址登り口

登り口から峠方向をみる

城跡への山道の登り口に建つ 道標 「左 五百羅漢道」道標 「・・の院半丁」

高取城址への道 左に入らず右の舗装道を車で入れる舗装道ですが、頂上近くまで行けます

登山口右に立つ 道標

北の 葛城山系の遠望

道標

右に曲がり登っていく 道標

 私はこの石仏群が五百羅漢と思っていたが、同も違うようだ、どこにあったのだろう高取城跡の標識

ありました 五百羅漢
壺坂寺の奥の院の、香高山にある 石仏群 で、凸凹の巨岩一面に刻まれたもので、表情いろいろの羅漢のようすは迫力がある。「親に会いたくば、五百羅漢へ・・・」と言われるほど岩肌に無数の仏様が彫られている。付近には両境曼荼羅、十一面尊、五社明神などもあり、これらをあわせて 香高山石仏ともいう

見事に並んでいます

石仏群の上の道を登っていく

少し登り道が荒れており注意

道が分岐、案内通り左に進む

沢山道案内板が建ててくれているので、間違うことはない

道の歴史を感じる凹が深い

石標が二基

石造り物が転がっている

壺阪寺・大淀古道の標示

車の通れる道に出るが、すぐ左の山道に入る

史跡 高取城址の石碑

高取城への入口道の石碑を振り返る

更に高取城への山道を登る

更に 史跡高取城の道標

更に 道標

更に 道標

やがて舗装され道に出る。その手前で右鋭角に山に入る道を行くと 八幡神社

八幡神社への石段

参る人もないのか、かなり荒れている石垣の積まれた上に  があります

八幡神社から下りて元の車道の出たところに戻る

車道でも行けるが、入らずすぐ左に、高取城跡の解説板がある、左側の道を登っていく、日本三大山城 だけあって、かなり険しい山道を登る

高取城跡
高取城跡は、奈良盆地の南端、標高584mの高取山の山頂を中心に、急峻な山上の地形を巧みに利用して築かれている。何段にも重ねた石垣や喰違い虎口、急斜面により守られ、山麓の城下町との比高差は400m以上。
14世紀前半に土豪越智氏が南朝の呼びかけで築城したのが始まりといわれている。織田信長の一国破城により、1580年に一旦は廃城となるが、1584年の筒井順慶による復興を経て、豊臣秀長の家臣本田氏により天正から慶長の頃に近世城郭として完成した。その後江戸時代に入り、1640年に徳川譜代の植村氏が入部して二万五千石の居城とした。以後明治維新まで、植村氏が十四代に渡って城主となった。山上に本来の城と家臣の屋敷地を取り込んで、城と城下町の二様相を山城としてまとめた特徴ある形であった。そのため山城としては広大にならざるを得なかった。しかし、平穏な時代には山上の生活が不便なため、藩主をはじめ多くの家臣が山を降り、その結果、城郭と城下町が離れた特異な形態となっている。
二の門・壺坂口門・吉野口門の内側は「城内」とよばれ、山中のすべての曲輪を含んだ範囲が「郭内」と呼ばれている。現在は、郭内に建造物は残っていないが、広大な縄張りと堅牢な石垣群が残されており、国史跡に指定されている。 (解説版より)

石垣が出てきた

壺坂口門跡

壺阪口中門跡

ここから以前歩いた、芋峠へ抜けられるようだ、2.3㎞

城跡から城下への道

二万五千石の城には立派

大手門跡  大手門の枡形石垣

二の丸から北へ、尾根伝いに大手門・千早門・宇多門・松の門・矢場門・三の門・二の門などが段階的に設けられ、山城防御線の厳重さがしのばれる

十三間多門跡

二の丸跡
日本三大山城の説明板が二の丸にある。
3っの城は、日本城郭協会が歴史遺産として価値のある城として日本百名城に認定しており、日本三大山城サミットを開催し交流を深め保存と活用に努めている。大和高取城・美濃岩村城・備中松山城

十五間多門跡

太鼓櫓跡

新櫓跡

二の丸跡

本丸(天守郭)の石垣

本丸の石垣もよく残っている

本丸跡からの遠望

高い石垣が天守郭を囲っている

本丸跡

本丸は大小棟の天守閣と鉛櫓、煙硝櫓を多門櫓(塁上に設けた細長い単層の櫓)と塀よって接続する。連立式形態。東西四十間余り南北三十五間の凸字型の平面をなしている山城は自然に不規則な縄張りとなるが。高取城の本丸は平城城郭のように整然さを有しており築城技術の完成したころの構築とみなされている。
本丸は二段構造となり、上段が天守郭で、高さ8mに及ぶ高石垣が巡らされて、その北西端に天守台が位置していた。天守は三重三階地下一階で、東西方向に棟(二つの屋根面が合わさる稜線)をとっていた。天守曲輪南西隅には三重の小天守が構えられ、天守とは二重の多門櫓で結ばれていた。なお、天守曲輪の東辺には二重の多聞の両端が三重となる煙硝櫓(火薬庫)が配される厳重な構えであった。本丸の西側には二の丸が配されており、ここには藩主の居館であった二の丸御殿があった。山城であるため、尾根筋には堀切が設けられ、特に南方尾根筋を断ち切る「みろく堀切」は、石垣によって築かれた巨大な堀切であった。
高取城には三重・二重の櫓が合せて27基も巨大な山城で、近世城郭としては尋常でない高さの山に築かれたことや、城域が巨大で、2万5000石の大名ではとても維持することは不可能であった。
        巽 高取雪かとみれば
            雪じゃござらぬ土佐の城

町の東南の高取山は雪のように美しいが、雪でなく真っ白な土佐の城だ という俗謡である。土佐は城下町高取の旧名で、現在も吉野への通じる街道は、土佐街道と呼ばれている。
高取城は、城内の周囲は3㎞、郭内となると30㎞ある。山城としては巨大な城であった。城跡の山を歩いてみて実感できた。

復路は大手門跡を出て、城への表通りの土佐街道を下る

千早門跡

下っていくと、門跡の案内板が立っているのでよくわかる

宇陀門跡 を下から見る

松の門跡 を下から見る

かなり下ってきて、左に120mの標示で横道に入ると国見櫓跡へ

国見櫓跡
ここは城郭の一つ国見櫓の築かれていたところで、名のごとく大和の国を一望できる。眼下には大和三山や青垣の山々が連なり天候が良ければ、六甲山や大阪市内のビル群・比叡山も見渡せる「まほろば眺望スポット百選」の絶景の場所となっている。 (案内板より)

石を下って行きます

二の門以内を「城内」と称し、その前面に、山城としては珍しい水堀が掘られていた。絵図などには「池」と記されている。防御の最前線であるとともに、飲料水用しても確保していた。  
ここまでが城内であり想像以上に広い
江戸末期、天誅組が五条代官所を襲撃し、勢いをかって高取城に攻撃を加え落とすことが出来ず、その後天誅組の壊滅へ進んでいったが。これだけの防備の堅い高取城を落とすには、城跡を歩いてみてよくわかる。最初から無理であったと思う。

壊れた石造り物が左にあった、燈籠のようだが何にだろう 

すぐそば右に 猿石
高取城二の門外に所在し城下町に下る大手筋と明日香村柏森へ下る道筋の分岐点に位置する。花崗岩製で高さ85cm幅75cm厚さ65cm。目と鼻は円形で顔面は丸く平坦である。口元の両端をあげ耳は顔側面の全体にとる。手は右手をややあげている。陽物らしい表現もみられる。背中にも表現が見られるか明らかでない。
飛鳥の「猿石」と同様に現在の明日香村平田から掘り出され高取城築城の際に石垣材として運ぶ途中にこの場所に置かれたようだ。飛鳥時代の制作と考えられている。猿石がのせられている台石は古墳の石材の可能性がある。 (高取町教育委員会説明板より)

右へ岩屋不動へ(寄り道

岩屋不動

大手筋をどんどん下る

一升坂 城跡から800m下ったところ

谷川に架かる橋を渡る

 史跡 高取城址の石標

竹林を下っていきます

 大きな 史跡 高取城址の碑

谷川に架かる橋を渡ります

大手筋を下っていくと、二股に分かれるところの広場の右手に 聖天さん
左に入る道を行けば 宗泉寺
大手筋は真っ直ぐ下る

聖天さん
天聖喜自在天 略して聖天などという。商売繁盛の守り本尊となって信仰されている。

左に少し(寄り道)をする左の角に 天台宗宗泉寺の石標 を見て参道を進む

天台宗宗泉寺
高取藩主・植村家の菩提寺、植村家政邸宅跡に1698年創建。今も天台宗延暦寺の末寺として信仰を集めている

護摩堂

本堂

 表門

お寺の前にある 大和三宝荒神社

並んである 宗永大明神

元の道の広場に戻り更に下る

川の向かいに 上子島沢砂防公園 春の桜、初夏の蛍も飛びかう

下りてきた道を振り返る高取城址が遠望できる

右手に川に沿った公園が綺麗に整備されている

2万5千石の小大名の植村家では、これだけの広大な城を維持していくのは大変であっただろう。最も幕末に天誅組が五条代官所を襲撃した勢いで、高取城に攻撃して敗退した結果、その先で天誅組の壊滅が始まった。これだけの城を落とすには並大抵でなく、大軍が必要とする

緩い下りを下っていくと、ようやく民家が見える

右手の土佐街道沿いに 

土佐街道の途中左に少し登る舗装道を曲がり進むと、左に燈籠が建っている所を右に進むと、阿波野青敏生家 がある高浜虚子門下の一人で、「西の横綱」ともいわれた郷土出身(高取町上子島)の俳人

更に登っていけば 長園寺 があるが少し遠いので寄道はしないが、 長園寺の道標 が建っている

更に右に川をみながら下っていく

街の至る所に、土佐街道まちなみ作法 七つの心得 を書いた立札が建てられている

正面左の真っ直ぐな道を進む

土佐街道の道幅が狭くなり、緩やかな下りが続き、城下町らしい情緒が出てくる

右に 植村家長屋門
1826年の建立で、一重入母屋瓦葺造り、門内の東西に各4室の部屋がある。江戸時代に、高取藩に仕える中間たちが、それぞれの部屋に住んでいた。近世武家屋敷表門の遺構を残している貴重な建物である。当時は城代家老の役宅であった。現在は旧藩主植村氏の住居となっている

旧大手門通りに面している

大手門通り(土佐街道)を下っていく

道標 「十五丁・・・・」読めない

田塩家武家屋敷
現存する貴重な武家屋敷。与力窓(格子が横向き)を2つ付けた長屋門を有する。また、両袖に物見所、馬屋をもつ武家門であり、塀につけられた「監視窓」は表口を警戒する構えでもあり他に類を見ない。現在も居宅として利用されている

通り右に 

児童公園と高取町立やすらぎ荘

右手角にある 道標 「右 観音院道 是より・・」 

公園の先すぐ交差点(札の辻)
交差点からこの先の大手通りを見る

交差点より今きた大手通りを見る

交差点で大手通りを中断して、交差点を左に(東へ)進み、壺阪寺への道を進む

南東角に建つ 道標 「右 つぼさか よその道」

上土佐区だんじり収納庫

この通りも大きな民家や古い街並みが続く

右手に 信楽寺 お里沢市の墓所
豊沢団平作「壺坂観音霊験記」(お里沢市物語)は、その昔土佐町に住んでいた男女をモデルにしたものと伝えられる。この寺に、お里沢市の墓と伝えられるのがある

お里沢市の墓
   壺阪の 月に杖ひく  夫婦かな
「日本感霊録」に九世紀初めの弘仁年中、盲目の沙弥が壺阪観音の信仰で開眼治癒したという話があり、(壺阪古老伝に記されている)すでにこのころから本尊の十一面千手観音は民間の信仰を集めていたことがわかる。これは後世のいわゆる盲人開眼「壺坂霊験記」の原形になったものである。
この「お里・沢市」の物語は今より3百年以上も昔、壺阪寺のふもと、大和国高取郷土佐町に住む沢市という盲人と妻里の夫婦愛をテーマにした「観音霊場記」に二世豊沢団平と妻の千賀女が加筆したものであり、浄瑠璃、歌舞伎に浪曲にとこの夫婦純愛物語は日本国中さらに海外にまで知れ渡っている

どっしりした風格のある街並み

下小島の街並み右手に 

 下小島の街並み

街並みがよよく残っています

清水谷の街並み左手に、重厚な土蔵が残る大きな家

船戸橋を渡る

船戸橋を渡り進むと、すぐの先で広い道に出るので左に曲がり暫く坂を登る

船戸橋から来た道を振り返る

車道の坂を登っていく

右手に 宮形大明神 が赤い鳥居と高台に祀られている

宮形大明神のすぐ先で、左に下る道があるので下っていく

杉・檜林の中の山道を、左に谷のせせらぎを聞きながら緩やかに登る

二又に分かれるが右の真っ直ぐな道を進む

右手に お不動さん

湿地帯を更に登っていく

えん堤の横を、ここから少し急な狭い坂道となる

ゴロゴロ道を登る

 道沿い左に 観音さん

観音さんや、丁石か道標が立っている

狭い道を進んでいきます

ようやく壺阪寺の駐車場に着く

壺阪寺
何度も来ているので中には入らない

壺阪寺より高取城を望む

壺阪寺
西国三十三ヵ所第六番の札所。浄瑠璃「壺坂霊験記」のお里・沢市物語で知られる古刹。ひときわ高い境内に本堂・札堂・阿弥陀堂・三重塔・天竺渡来大石堂が建ち、本尊の十一面観音は霊験あらたかと伝えられている。境内の一画に、盲人のための福祉施設「慈母園」があり、またインド伝来の大観音石像がそびえ、釋迦一代記の蓮弁のレリーフがあり、ぼたん、つつじの名所としても知られている。

壺阪寺より同じ道を下り

元の大手通りの札の辻交差点に出て、土佐街道を下る

臼井家(伊勢屋)屋敷跡地
1336~1339年の頃に、南朝の武士であった臼井は、南北朝の動乱により、三重県伊勢より高取に移住し、油・醤油・塩・薬などを扱う商人となった。(屋号伊勢屋)
後年、高取藩の公用伝馬の役や大年寄を務めた。伝承、お里・沢市物語由縁の伊勢屋である。現存する臼井家主屋の住宅は1688~1703年に建てられた。昭和49年に国の重要文化財の指定と同時に、奈良県民俗博物館(大和郡山市)に移築されて一般公開されている

 土佐町の街並み、酒蔵

左側に蔵の くすり資料館

旧山崎邸大正初期呉服商として建築

右手に 街の駅

右手奥に 

その隣右手に 浄土真宗大園寺

そのすぐ先で左に新しい広い道が、その左角に 池田邸屋敷址の石標

広い新しい道を左に少し入っていくと、左にビール缶、35.679個で造られたお城。2012年9月ギネス認定

元の道に戻り進むと右手に 薬祖神社(土佐恵比須神社)

2万5千石城下町の古い街並みを振り返る

緩やかな坂を下っていく電柱がなければもっと良いのに

左角の大きな家は、石川医院藩主下屋敷門 が移築された重厚な門構えの医院。石畳みの町筋とともに城下町の雰囲気を醸しだしている

右手に高取町の 道路元標

石川医院の手前を左に曲がりすぐの所右にある 西法寺

石川医院正面

石川医院の正面の道、正面に 浄土宗光明寺

更に城下町の街並みが続く、素晴らしい。飽きない土佐街道

右手に 西光寺

街道右手に 浄土真宗光永寺

光永寺を過ぎたところで、右に路地を入っていくと、前方に見えるのが 高野山小嶋寺

城下町への土佐街道の入り口が先に見えてきた

右手に 湯川家住宅 
昭和57年ごろに撮影された湯川家住宅の正面構えである。湯川家住宅は旧観覚寺村の北端付近にあり。この辺りは町場の北端に位置し、農村的性格を兼ね備えていた。主屋は街道から少し後退して建てられ、平家建て、切妻造り、桟瓦葺である。上屋の壁面、土壁で塗り込めた大壁造りで、虫籠窓はなく、上屋大棟は青海波積にしている。
居室部の前面には庭を造り、主屋出入り口左手から前庭を囲むように塀を立て、街道・出入り口間に向かって塀重門を開けている。塀は延べ石に柱を立て、真壁板張り、桟瓦葺にしている。高取城下に見られる民家とは、少し趣を異にした構えになっている (解説板より)

その先左に 高皇産霊神社 の参道がある。参道を少し進み車の多い国道に出ると中街道で渡ると神社に入る

南北の 中街道

国道を渡り、少し進み石段を登る

土佐街道の神社参道口に戻る

左からの国道169号線に合流 中街道 との合流点でもある

壺坂越道 完歩

近鉄壺阪山駅まで戻り帰宅する

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