大和街道  2日目

                            2008年1月30日 曇り

   東田中神社~橋本市高野口駅東の踏切まで

AM7時58分のJRで先日の打田駅まで乗り、東田中神社9時スタートする。今日は自宅のある高野口までで着いたのが5時。

東田中神社をでて暫く曲がりくねった道を進むと、国道24号線のバイパス道路に出るので、横断歩道橋で渡る。歩道橋の上から渡った先の真っ直ぐの街道を見る、バイパス国道は右に200m程行くと旧国道24号とバイパスと合流している。

国道を渡った直ぐ先の右側の旧家はもと酢造屋、屋敷西側の古い建物妻面に「縣魚、木連れ格子」があります。

その先、左に奥クリニックの変速交差点を左斜めの道、右手に藤崎井に沿う。その先で二股を右にまがり藤崎井を渡る。すぐ左斜めにジグザグに進みます。再び左の藤崎井を渡り旧粉河町に入る。右の藤崎井に沿って少し進む。
小さな交差点のところで藤崎井が右へ離れるところを左斜めに道なりに、更に直ぐ先で右に折れるとすぐ小田井を渡り道なりに進んでいく。やがて左手に 上田井八幡神社 境内に7社が祀られている、大将軍社・賽の神・八幡神社・弁財天社・祇園社・荒神社・稲荷社。承和元年(834)創建

神社の道向かいに 弘法井と祠

その先で道なりに右にカーブして直ぐ境川に架かる橋を続けて2つ渡る、真っ直ぐの嶋地区の道で田畑が広がる。
左(北)には、和泉・かつらぎ山系が望める。葛城山はブナ林でよく知られていて、登山者・マイカーの人たちでにぎわうが、二輪(モトクロス)や四輪で山頂まで行けるのでブナ林にも被害が出るし、第一静かな山が台無しであった(経験済み)

やがて左角の西山薬品の辻で突き当たる。このT字路南北の道は長田観音への参道でもある。街道は左に曲がる。右に曲がると国道24号に出ます。

T字路を左に折れて長田観音への参道を進む途中左T字路右角に、道標 と道標を兼ねた 子育地蔵尊二体
道標   「右 いせ かうや」  「長田除厄観音 こかわ寺へかけぬけみち」  
地藏道標 台石道標銘 寛政元年(1789)  
 「右 いせこかハみち 速帆智乗童女 左 長田くわんおん 是よりこかハエちかみちあり」

大和街道は祠の前を右に折れるが、【寄り道】をする。
真っ直ぐ進み長田観音へ、右にJR紀伊長田駅をみて踏切を渡り真っ直ぐ進むと長田観音。
長田観音
本尊が如意輪観音、921年念仏上人が開山した真言宗の古寺。紀州初代頼宣が厄徐祈願してそれ以来、長田の厄徐観音として参詣者が多い。山門には三葉葵の紋があります。

長田観音の通りを元の祠の辻に戻り東に進むと、左に旧家の長屋門があります。長屋門のある建物のところ先に24号線の信号交差点があり斜めに横断し向こう側の旧道を左に進む。

交叉点から長屋門の前の旧道を振り返る

直ぐ右手に神社の塀と 常夜燈2基があるので常夜燈の間を右に進み回り込み神社正面に出る。
街道は真っ直ぐの道

風市森神社 長田荘6箇村の氏神

神社塀の先で、松井川に架かる松井橋を渡り少し進むと

再び小川があり橋を渡った左の袂に 自然石の道標  「右 いせみち 左 こかわてら」

右に竜門山(776m)見る場所から見ると富士山に似ているから紀州富士とも呼ばれる

その先少し進むと突き当たりになる、突き当たりの稲田クリニック前あたりに粉河寺の伏拝堂があったという、今は痕跡もない。T字路を左に行くとJR粉河駅から粉河寺にいける。旧道は突き当たりを右に折れる。
T字路を右に折れて藤崎井に架かる橋を渡るすぐ袂で左に曲がる。新しい道標が左角に立っている

左の藤崎井用水に沿って進む。昔はこの道は松並木であったそうで、またその間に一里塚があったらしいがその痕跡を見ることは全くできない。

やがて中津川の土手に突き当たる、街道は真っ直ぐ進んでいたが今は失われている。川にかかる一里橋の橋脚の跡があります。この辺りの堤には現在、桜が植えられ春には提灯をかざして賑やかになります。

中津川の土手に残る 一里橋の橋脚跡止む無く迂回する、土手に上がり左に少し進み国道24号にでて右の中津川に架かる松下橋を渡り対岸に出ます。

対岸の旧道の細い延長線上の旧道を進みます。

本来の旧道はミカン畑で無くなっているが、ここを左に入り蜜柑の木の下を潜り、藤崎井用水の木橋、地元の人はカンカン橋と呼ぶ。畑の中の道の無いところ、粉河郵便局辺りにでて、擁壁をよじのぼり24号線に出ましまた。

かつての旧道は、岡井商店の裏のミカン畑を抜け、左の24号線に沿って東に暫く進む。畑の私有地の中を歩かせていただきました。今では24号線に出て歩いてください。国道の南側に沿って、しまむら店まで進み(今は旧道消失)、その先しまむら店のところで国道を横断して左の旧道に入っていく。

しまむら店あたりに旧道が続いていたところを振り返る

しまむらの前で24号線を横断して左に入る、旧道右角にこかわやの看板があがっている

100m程入ると、T字路となる街道は右に折れる。

T字路を右に折れる辻の左角、ブロック塀に寄り添うように 石造りの祠

右に折れると数mで右T字路がある、大和街道は真っ直ぐ進むが、加太への上淡路街道の起点。左角に灯籠と道標

左角の 常夜燈と自然石道標上淡路街道の起点(歩き済み)
淡路街道は加太淡島神社への街道で粉河駅の北側粉河寺の門前町を抜け、根来寺の南を西に進む街道。自然石の道標      左面  「右 こかわ 左 わか山 道」 正面「右 いせ 道」  右面「左 かうや いせ まきのを 道」
上淡路街道の筋

更に少し進んだところ高野街道との分岐点で高野辻と呼ばれている起点にでます。
右手角に 高野辻の常夜燈と道標 大和街道は真っ直ぐ進む、この高野辻で右に曲がるのは紀ノ川を名手の渡し場で渡河し高野山の大門に上る参詣道で、高野七口の一つ、麻生津道とか西高野街道と呼ばれていいます。(歩き済み)

常夜灯 正面「右 かうやみち」弘法大師永代常夜灯
       「左 いせ まきのを道」 
    裏面 一字一石刻む
古い低い道標
       「右 こうやみち ひたりわ いせみち」

高野への 麻生津道

麻生津道を少し入った右に 大師井戸

高野辻を左に入りJRの踏切を越えた左に鳥居と祠に石仏

左端に、陽明山無量寿院崇福寺跡の石碑

街道に戻り高野辻を左斜めに折れて進むとJR線の踏切を越える。
その先右手角に 石祠地蔵堂と道標 昔の村境に位置する。地蔵尊の台石に 「右 いせ まきのをミチ」 街道はここを右折れ。
真っ直ぐ行くと段丘の上の森の中に王子神社・小松院がある。

真っ直ぐ進み【寄り道】をします。
王子神社の森が見えます。

急な坂道を上ったところ左に 小松院

隣に 古社の王子神社 毎年正月11日に前年生まれた男子の名を巻物に書く儀式があり、黒箱に納める古い習慣が残っている「名つけ帳」といって約500年以上前からのが残る、巻物は全長80m以上あり、国指定重要有形民俗文化財である。

街道辻に戻り右に折れる角の粉川町と那賀町の境界地藏を右に曲がると、右手にJR和歌山線を少しの間平行して進む。粉河町から那賀町に入る(現在合併で紀ノ川市)藤崎地区に入ります
藤崎井とは;この辺り線路南側の地区を藤崎で、元禄10年(1697)年大畑才蔵により開削された、粉河・打田・岩出町を経て和歌山市山口の上黒谷まで延長23.5kmの灌漑用水
やがて少し左に折れて進んでいくと名手川に架かる名手橋に出る。旧道は新しい橋の左側を対岸にやや斜めに名手橋がかかっていた。
新しい橋を渡り、東側の信号で左に曲がり対岸の一筋目の旧道を右に曲がる。

橋を渡った右手一帯は、鎌倉時代から明治末期にかけて、市場が形成され大変賑わっていたところで。旧家がところどころに残っている。

右に折れて旧道を進んですぐの先左に、白塀に囲まれた建物お寺のようだ

街道より北に200m程入ると 光明寺

名手の街並みに入る、旧道らしい雰囲気が漂う右辺り一帯が名手市場、右に入って行くとJR名手駅

名手の街道の街並み古い町並みが残る

左手に 蛭子神社

名手の古い町並みはほぼ直線で残っている。左手に名手本陣が1718年に建築され、旧妹背家住宅で昭和44年に国の重要文化財に指定された。妹背家は江戸時代地士頭で1630年から名手組の大庄屋で、医聖華岡青洲の妻加恵の実家であります。
紀州藩主参勤交代や鷹狩の際利用された。名手本陣と呼ばれ、母屋・座敷・西方の土蔵などからなり、西隣に馬屋と寺子屋があった。南倉には主屋が本陣として利用された時に、家族が一時的に住めるような造りになっている。
また北側(裏側)は、もと郡役所で奉行のしらす、年貢を集めた事務所などがある。その他、18頭の馬を常置した伝馬所もここにあり厩舎や用人部屋があったという。
旧名手本陣 妹背家住宅

名手宿本陣門

白土塀で囲まれていたのが最近壊して整備しているようです。

母屋の玄関

裏側から見た本陣で広大

本陣の建物の北側に位置す る宝池山 安養寺

名手本陣前の街道に戻り振り返る

本陣の東側の白い長い壁

妹背家住宅
妹背家は中世以来、紀伊八庄司の一つに数えられる旧家で、名手荘・丹生谷を領した土豪であった。元和五年(1619)徳川頼宣が紀州藩主として入封、在地の由緒ある者を地士とし妹背家もその扱いを受けた。また寛永年間にはいり名手組十九ヶ村の大庄屋に任ぜられ江戸時代末期まで代々勤めた。
名手市場内にあり大和街道に面し、元和八年(1622)紀州藩より本陣とされ藩主の参勤交代の折の宿泊所や御鷹狩り等の休憩所として使用された。
正徳四年(1714)の市場村の火災で類焼したが、享保三年(1718)に藩主宗直を迎えるにあたり新築された。また屋敷の北側には郡役所がありました。

本陣のすぐ先右の旧家、堀家住宅 もと名手村庄屋

小島橋を渡り進む、素晴らしい街筋

旧家の妻面に珍しい鶴の彫刻がされています

その先少し広い道の交差点に出る、街道は真っ直ぐの細い道を進むが中断して、この交差点を左に700m程北に行き右手に入ると、華岡青洲の里があるので【寄り道】をします。
華岡青洲の里
車道を北に進んでいくと右手に公園として整備されレストランもある車できていますが歩くのは初めてです。

公園内の一角にある、青洲の坐像

公園の北側に医聖 華岡青洲春林軒邸宅跡の建物が残る全身麻酔を世界で初めて成功させ、乳癌の手術を行った華岡青洲が開いた住居兼病院・医学校。文化元年(1804)手術成功から、明治15年までに約2000人近くの熟生が、この地で医術を学んだといわれている。やがて西洋医学の発展によりその役目を終え、大正12年に建物は移築された。
平成10年4月、母屋と蔵は当時そのままの建物で、その他の建物は発掘調査資料に基づき復元された。苦難の末、世界で初めて麻酔薬「通仙散」を創製され、外科治療の新領域を開拓されたことはよく知られている。(案内説明文の一部より)

母屋  残念ながら休館日で入れなかった

全景

公園の北側に、華岡家の墓地があります。

青洲の里を後にして、南に車道を下り一つ目の信号を左に折れると 名手八幡神社への参道

名手八幡神社 名手荘十一箇村の産土神で格式も高い神社の東側に神宮寺として清浄金剛院があったが小さなお堂のみ残っている

街道に戻り進むとJR線を斜めに横切る。直ぐ先右手に、華岡青洲病院に通院の患者さんが良く利用されたという、もと旅籠、現在は矢倉工務店を振り返る。

その先、穴伏地区に入りジグザグに曲がりながら進むと、旧24号線の道に出る。その手前右手角に穴伏地蔵がある。左は24号線、正面の街道を出てきたところを振りかえる。

穴伏地蔵

旧24号線の道路に出たところで少し左に進むと分岐する。右に大きく円を描きながら穴伏川に架かる妹背橋を渡り左のガソリンスタンドの先で右からの国道24号線に合流する。
この先結果的にはこの交差点に戻ってきます。
この分岐点のところで、京橋から約7里でかせ田川壱里松と記されている真っ直ぐ北に進んでいく旧道は 父鬼街道(歩き済み)でここが起点

旧24号線の道路に出たところで少し左に進むと分岐する。右に大きく円を描きながら穴伏川に架かる妹背橋を渡り左のガソリンスタンドの先で右からの国道24号線に合流する。
旧大和街道の旧道は、①分岐を右に折れず真っ直ぐ進み、JRの線路高架下の右袂から、道路を分け線路北側を穴伏川を渡って進み、線路の北側の対岸に出ていたルートです。
または、②高架下から右斜めに進み、穴伏川支流の小川の橋を渡った辺りで、左からのかつらぎ山系を越えてきた槇尾往来とも父鬼街道(歩き済み)と合流し右に折れ穴伏川を渡り対岸に渡っていたルートがありました。
今はいずれのルートの対岸への道は残っていない。

旧大和街道が穴伏川を渡っていた辺りで対岸は高田地区。また背後の山は背ノ山(168m

ルートで右の線路に沿って北側を、穴伏川を渡り対岸の高田集落へ

ルート②でこの碑のある辺りの東側まで斜めにきて、穴伏川の手前で左からの父鬼街道と合流していた。

道路右に立つ、旧県道改修碑 度重なる水害被害を受けていた地元の人々の穴伏川改修の喜びを伝えている碑

ここでまた【寄り道】のため北へ500m程進む。小田井用水の龍の渡井(とい)へ

穴伏川の上流500m程のところに 龍の渡井と呼ばれるアーチ橋がある。左に進む道はこの先前方の和泉山系を越えて泉南に進む父鬼街道です。

難工事の穴伏川の上部の渡井、今も満々と水が流れている

龍の渡井、穴伏川に架かるアーチ橋、橋の上を背ノ山の地下をトンネルで抜けてきた小田井が流れる。川の立体交差で地元では大戸筧(おおとひ)ともいわれている。

小田井用水
紀ノ川右岸の河岸段丘に広がる水田を灌漑している用水路で、この用水路ができるまでは常に水不足に悩まされていた。江戸時代に入り紀州藩二代の徳川光貞が米の増収を計り財政改善を進める打開策として、紀ノ川の水利用する大規模な新田開発を計画。元禄12年(1699)の藤崎井用水の開削が始まりました。
宝永4年(1707)五代藩主徳川吉宗(八代将軍)の命令を受け、大畑才蔵がこの小田井用水を開削しました。小田井用水は紀ノ川に平行して右岸を巡るように開削された。途中いくつもの河川の谷間に悩まされる難工事でしたが、渡井(水路橋)や伏越(サイホン)による立体交差で克服していった。着工より農業用水を取り入れ、現、橋本市・かつらぎ町・紀の川市・岩出市にまたがる延長約30㎞におよぶ用水路により1000haを越える水田が新たに創り出された。現在に至り農業用水・防火用水・地域の憩いの場として役立っています。

龍之渡井
小田井用水の中でも最も難工事であったのが、穴伏川を渡る工事であったという。この龍之渡井(水路橋)は、18m余りの川幅を両岸の岩盤を利用して支え、中間に1本の支 柱も使わずに木製の掛樋を通したことで知られている。現在の施設は、大正8年(1919)に改修されたレンガ・石張り造りアーチ橋で、上部盛土部に三和土(土・石灰・ニガリの混合物)を用い、表面は自然石で覆われています。
小田井用水にはここ以外にも明治から大正にかけて改修された水路橋(小庭谷川渡井、木積川渡井)、とサイホン(中谷川水門)があります。

大畑才蔵
寛永19年(1642)、橋本市学文路の農家に生まれのち紀州藩に仕えた。紀州藩主徳川光貞に命じられた藩役人の井沢惣兵衛は数学に優れ土木工事の経験豊かな大畑才蔵を指名しました。この時才蔵はすでに54歳であった。74歳で隠居するまで、県内各地や紀州藩の領地でもあった三重県(勢州)でも用水路開削や河川工事に活躍しました。

龍之渡井を見て非常に勉強になった、是非一度は皆さまも訪れてください。
(追伸)
龍之渡井をいつも管理している方が、丁度いていろいろとお話を聞かせていただいた、小さいときに背ノ山のトンネル堀の土を袋に入れる仕事を手伝うと、一袋一銭もらえたのでよく手伝った話や、今でも子供たちが学校の行事として見学に見た時に説明する話などゆっくり楽しく話を聞くことができました、ありがとうございました。龍之渡井を見て非常に勉強になった、是非一度は訪れてほしいものです。

  (追伸)
龍之渡井をいつも管理している方が、丁度いていろいろとお話を聞かせていただいた、小さいときに背ノ山のトンネル堀の土を袋に入れる仕事を手伝うと、一袋一銭もらえたのでよく手伝った話や、今でも子供たちが学校の行事として見学に見た時に説明する話などゆっくり楽しく話を聞くことができました、ありがとうございました。

もとのJR線の高架の辻に戻り右に折れて進む。橋を渡るとかつらぎ町に入る。
穴伏川に架かる旧24号線の妹背橋を迂回し、ガソリンスタンドの先で右からの24号に合流して、直ぐ先の信号の歩道橋のところで左の坂道を斜めに上る。

坂の上る途中左手に  地蔵祠

街道はこの坂を上るとJRの踏切を渡り右に進むが、坂を上ったところ左を見ると対岸の消失した旧道の道らしき細道が上ってくる。のルート道は人が歩いている道
左下を見るとその細い道が更に人1人の通るぐらいの道が川に向かって伸びている、街道であるかどうか分からないがいかにも旧道跡らしい ①のルートである

この辺りで穴伏川を越していた、多分水量も余り多くないだろうし徒歩渡りであったのだろう。

坂の上に戻り、右に折れてJR西笠田駅の手前の踏切を再び右に渡りすぐ線路にそって左に進む。

左に西笠田駅を見て、右下には国道、紀ノ川が望める

右の紀ノ川と船岡山、その背後の山が妹山(124m)、西笠田駅の北側に背ノ山(168m)。万葉の頃は、恋しい男女の山であった。船岡山は丁度舟のような形で、南側につり橋がかけられ弁財天が祀られている。私たち小さいころからこの島を「蛇島」と呼んでいた。風光明媚な景勝地で、万葉人も歌を沢山詠んだことだろう。

石仏3基 が並んでいる向かって左 南無阿弥陀佛 1688年の銘右 南無不動明王 新しい真ん中小さいの 南無阿弥陀佛

その直ぐ先左に句碑
      縞立てて 忽ち来る 夕立かな       昭和53年5月建立
この旧道の右側は断崖で下は24号線が走り、その向こう側は紀の川。

この先で街道は左に線路を右に24号線を見てその間を下っていたが、いまは旧道は消失しているので、右に下りて国道を進むか、線路の北側のもと小田井に沿って新道を進むしかない。

街道から右を見ると紀ノ川向かいに船岡山。島の南側・河南大和街道沿いにつり橋がかかり弁財天が祀られている。地元では蛇島と呼ばれている。11世紀半ば藤原頼道が高野参詣の途次ここで舟遊びをしたという。

舟岡山の後方(南)には 妹山(124m)が。また反対側、西笠田駅の北側の山が 背ノ山(168m)。妹山・背ノ山は万葉の頃は、恋しい男女を意味する山であった。昔はこの三つが並び絶景であったことから万葉人の歌心をかきたてたことだろう。時代は下って、戦国期には背ノ山の山頂には織田信長が高野攻めに使った陣屋があったと伝わる。

左の踏切を渡らず右の坂を下り国道に合流します。この先の下水場処理施設で消えた街道跡を確認したいから。

右からの国道に合流する。24号線をすこし進むと道が分岐し左が旧24号線で、右が24号線。街道は旧24号の左側に沿って進んでいた
道は少し先で右にカーブします、そこで左に進む道を見ればJRの鉄橋が見えます。その橋脚コンクリート面に「第1大和街道架道橋 竣工明治33年11月」の表示がされています。
右にカーブして右からの新24号線に合流します。かつての街道はカーブする左側を平行するように通っていたようです。

右に折れるところのこの道の痕跡が、かつての旧道跡ではっきり残っています。そして窪谷川を千里橋(今は架かっていない)で渡っていました。

現在は旧国道の窪谷川に架かる文覚橋を渡ります

文覚橋を渡ると右からの国道に合流します。

大和街道の旧道跡
国道に合流する左側一帯は1998年より建設工事が始まり完成した大きな敷地の広域下水道処理場です。時代の流れとはいいながら、この施設の真ん中をかつての大和街道が県下でも数少ない街道の遺跡として残っていたのです。広大な田畑のなかを電柱などの障害物もなく、また車の走行もない大名行列を想像できる街道筋であったそうです。
仕方がないとはいえ、2000年代まで残っていたので余計残念です。

右の国道を歩いて施設の東側24号線を進んでもいいのですが、ただ国道を歩くだけで何もないので、再び段丘の上のJR踏切の分岐点まで戻り、高台の小田井沿いの道をかつての消えた大和街道を眺めながら進みます。そして処理場の東側の消えた街道の旧道を探します。

分岐を左に踏切を渡りT字路を右に下りながら進みます。大和街道の和歌山県沿いには、歴史街道を整備するにあたりこのような新しい道標が建てていただいてますので助かります。有難うございました。

右に下水場処理場施設旧道は建物との間辺りを一条に曲がりくねりながら進んでいたのだろうと想像してみるここからの道は迂回路です。

線路を渡り直ぐ右に折れた先の左に才蔵堀跡の石碑があるのを(見落とした)。道端の溝が開削当時の小田井、昭和に入り改修され、 現小田井はここより北で背ノ山の下をトンネルで西に流れて穴伏川を水路で横切る。龍之渡井である。大畑才蔵は橋本市学文路の庄屋で紀州藩主5代頼方8代将軍吉宗)の命により紀の川北部地域の灌漑用水である藤崎井、小田井を開削した人。

左、背ノ山への登り口にある 祠と灯籠

その先旧小田井に沿って右にJRの線を見ながら右にカーブをして線路に沿って暫く歩きます。進みます。
線路の南側は、大化の改新(645)以降造られた官道の一つ、南海道が背ノ山を通ってこの辺りを通っていたと文献にあるが詳細は不明。

右の線路を越えた南側に、南海道の萩原駅跡として整備されている。実際は場所は不明。そのほか県内には、名草・加太の二駅があった。
駅跡の歌碑
   背能山に黄葉常敷く 神岡の山の黄葉は
          今日か散るらむ

もとの道に戻り少し先左に大きな民家が建つ、その前の庭に珍しい、二宮金次郎の像

その先で交差点に出て右に折れてJRの踏切を渡るのです、その前に【寄り道】をします
交差点の正面にお堂と灯籠が

地藏堂で宝来山神社のお旅所で お旅地蔵と呼ばれている。堂内には板碑や近くの川を改修したとき出てきた8基の小さな地蔵が祀られている。

交差点を左(北)に行きます、鳥居と灯籠が二基が見えます。宝来山神社の参道

平安時代後期み文覚上人により造営された古社

参道右に 船つなぎ松跡 樹齢約450年、樹高約15m、幹回り約5m、昭和6年まで古木として残り、船つなぎ松の伝承で残っていた跡

宝来山神社 県内最古の神社の一つ、本殿四社(国重文)社殿二社・付属建物(県指定文化財)、平成二十八年秋修復完成

宝来山神社奥宮への参道

修復なった国重文の 本殿、非常に綺麗

境内に建つ 真言宗 別当神宮寺、

神社参拝を終わりもとの踏切に戻る。
振り返った背ノ山(168m)方向、山の左側の裾野から、進んできた。

交叉点から踏切を渡り南に少し進むと十字路に出る、この付近、小字名は礼上という

交叉点より西を見ると、処理施設場より田畑の間を旧道の道が残っている。紀州藩主が参勤交代時にこの交差点に差し掛かると、殿さまが下乗して宝来山神社に向かって礼拝したことにより、この名前が付いた。

十字路を東に入ると下水処理場の東端の十字路から旧道が復活、笠田中地区の街並みにはいる

すぐ左の民家の西端に 稲荷大社

笠田中地区を進みます

十字路を左に折れてから道なりに右にカーブしながら進む。

(2008年歩いたときの道)

道路向い右角に草田酒造店。2016年補足として歩くと広い道が出来上がりつつありすっかり様相が変わっている。道なりに右に折れて進むと広い道に出る。

広い道に出て左に行くと、JRの踏切に出るがその手前右が広くなっている。ここにかつて旧笠田役場があった建物は撤去され一部、かつらぎ町役場の南に移転されている。旧道の雰囲気も数年たつと急速に変化していく。

広い改修中の道路を横断して旧道に入ったところを振り返る。左、草田酒造店、清酒「南海」の銘

その先で右にカーブする、左に旧家

右にカーブしたすぐ右に 一字一石の石標

坂を下ると、正面に笠田小学校とその手前に堂田川、その向こうに楠の大木が聳える。街道は橋を渡り左に曲がり進む。

近畿一の大樹 十五社(じごぜ)の楠樹齢600年以上、幹回り13.5mとにかくすごい老大木

その下に 妙楽寺の薬師堂かつては旅人が一休みするのに好まれた

左に折れて坂を上りきると左の玄関先に、挽き臼を利用した「馬つなぎ石」が2個ある

その先緩やかな坂を下ります

左に 宝来戎神社

この先、直ぐ右に山本呉服店があるところで旧の大和街道は右へ曲がる、明治13年以降の大和街道は左への真っ直ぐの道。今回左の(A)の街道筋を進んだ。

暫く真っ直ぐの街筋を進むと二股道に分かれる、その分岐を右に

浪分善助の墓碑
右の道を進み、藤谷川に架かる水久橋を渡る。渡った左手に当地で誕生した上方相撲力士浪分善助の墓碑が建つ。明治13年建立。墓碑の傍にいくつかの石標がある。
その一つの石碑に 「右 いせ山上 左 不(ほ)りこし観」刻まれている。

その先で国道24号に出るので斜め向こう、居酒屋悟空の東側に細い旧道が見えるので車に注意して渡る。

渡ったところで右から(B)の街道ルートが合流する。

左に曲がり二軒目飯店と国道の間辺りの駐車場を街道は通っていた。その先直ぐの信号で国 道を渡り、左斜めに入って行く。信号の傍に笠田東バス停。

ここで一旦中断して、山本呉服店の辻に戻り、藩政期の大和街道(B)を歩く。

宝来戎神社のすぐ先、右に山本呉服店の東角の筋を右に折れる

右に折れた旧道

右に小さな公園を見たすぐ先で左に曲がる電柱の所

左(西)に折れた旧道、暫く真っ直ぐの道

途中左に 首の地蔵尊

交差点を横断しながら真っ直ぐ進む

この十字路を横断、前の道は細い街道となる。

旧道は民家で突き当たるが、少し右斜め出ると24号線に合流する。斜め左に旧道が続いているが、信号がないので、少し西に信号を渡ると安全。

国道を渡る前に少し左の藤谷川の北側にある、稲荷大明神・祇園牛頭天王

24号線を横断したところから振り返る

国道より細い道を入る

すぐに藤谷川に架かる大道橋に出る、昔はもう少し下にあったようで、地元の人は、カンカン橋と呼んだ。橋を渡り10m程右に折れる

藤谷川に沿った堤道は 折居道、紀ノ川の川上船の船着場があった折居に通じる道で清酒や農産物、生活用品を運ぶ重要な道であった

大道橋とその向こう24号線

大和街道が田畑の間の畦道となって残っているが、100m程先でパチンコ店などの建物で旧道は消失。建物の手前の細い道を左に折れて、一旦国道に出て東側に迂回する。

迂回した先の建物の延長線上に、同じような畦道として100m弱の旧道が残っている。再び、エバーグリン店で旧道は消滅、左に折れて国道に出る。

エバーグリンの東側の駐車場より東側を見るも旧道は消滅。でも街道らしい旧道を散策出来たのでうれしい。

その先すこしの間、24号線の右を旧道が残っている

旧道は二軒目飯店の西側の駐車場に出ました。
前述の(A)の明治の街道ルートはこの24号線の左に出てきて合流する

ここで左からの前述のAのルートに合流

信号の手前左がオークワ店その先を左斜めに入るところ。右手の中華笑福亭の裏側の道を左にコーナンがあります。

左斜めに入いったところ左手に 子安地蔵この辺り、上島一里松が明治20年頃まで残っていたという。
京橋から8里

その先で西谷川に架かる橋を渡ると左からの道と合流する

合流する手前左に 国光大明神と地蔵祠

その先、大谷の街並み

左に草田商店のある前の細い道を少し右に入ると 青面金剛童子を祀る庚申堂 本堂東側に4基の自然石一字一石塔

境内の大木

お寺の南側に寛文年間(1661~)徳川頼宣により築堤されたといわれる大谷の大川除け(大谷の千間堤)があったと伝わる。今は跡形もないのでこの辺りと想像。

街道に戻り天井川であった中谷川を渡る。橋を越えたところ左に200mほど入っていくと 
大谷神社

その先、桧谷川沿いの十字路左手前電柱の袂に自然石石塔 一字一石法華塔

桧谷川を渡り進むと右からの国道24号が合流する。右手にはかつらぎ町役場、信号を渡り国道の右側に出ます。
交差点を横断したところでのかつらぎ町役場の横を抜け南側に出ます
【寄り道】 かつらぎ町役場の一角

丁ノ町千間堤跡 寛文12年(1672)紀州藩主により大川除け普請の一つ跡今の郵便局の西側から信州そば店の裏側を通り西南に築堤されていた

役場の敷地の南奥に前述の 旧かせだ役場の建築様式がここに移設されています。現在 川上酒かつらぎ文化伝承館

七郷井用水(ななごい)
西から桧谷川と交差し、信州そば店の南側を流れ、役場敷地内を流れ、ローソンの裏側から大和街道に沿う。元禄年間に開削されたもっとも古い用水路で取水口は中飯降にある。

もとの役場前の街道に戻り、24号線をすこし進み、駐車場を過ぎたところで、右に折れ七郷井を渡りすぐ左に折れて、七郷井を左に沿って旧道を進む。この先、旧街道らしい情緒の旧妙寺の町筋を数キロm見事に一直線の旧道が続く。

桜谷川に架かる桜谷橋を渡る新田~新田宮町を進む

新田の十字路の左電柱の袂にに 石碑 丁の町青年会が建設(大正13年1月26日)

新田宮町に入ると十字路左に石碑、新田通学路(昭和5年)学校、丁の町分校

その先、築野食品工業の手前を右に入ると左手の工場の狭間で窮屈そうな 若宮太神社 境内に宝筐印塔、地蔵数基

少し広い交差点に出る。左手24号線の向こうにJR妙寺駅が正面に見える。明治33年(1900)開設

次の広い道の交差点に出る大和街道は真直ぐ、右向い角はきくや旅館この左右の道は大正の初め南の紀ノ川から妙寺駅まで砂利を運んだ トロッコ道跡

かつてのトロッコ道跡、南の紀ノ川(南)方向を見る

七郷井の歴史
大和街道沿いを西に流れる七郷井は、水田を灌漑する農業用水路で江戸時代前期に遡る。寛文8年(1668)から延宝7年(1679)頃、中飯降村に取水口をもつ用水路の存在が文献に記載されている。いかに紀州藩が領内の新田開発を奨励していたかがうかがわれる。
七郷井堰は妙寺・丁ノ町・新田・大藪・大谷・新在家(現:蛭子)・佐野の七ヶ村の田地を潤していたため「七郷井」と呼ばれた。当時の姿は少なくなったといえ往時を偲ぶ遺構が残されている。妙寺から新田かけての水路には所々石積みの痕跡が見られ、大和街道沿いの集落を紀ノ川の洪水から守るための堤防遺跡が幾筋も残っている。七郷井の取水口は、開削当時は中飯降村にあり、その後妙寺村上端(現:妙寺の東端)から現在は中飯降の西端の小田井にあります。七郷井は小田井よりも古い用水路で現在も近郷の農業用水として受け継がれている。現在の水路は当時の水路をもとに改修を重ね、その延長は約5㎞、水田約29haを灌漑している。
なお、当地を通っている大畑才蔵によって開削された小田井と共に貴重な遺跡を残していきたいものです。(説明文より)

その先左手に 法花全部一字一石塔 この地域で最も古い自然石での塔文政十丁亥(1827)その西側に火袋から上が落ちた石灯籠がある御神燈(同年)

ここから東の立曾橋までは安藤堤、大和街道はその堤を通っていた。西にも堤防跡が随所に見られる。頼宣の家老安藤帯刀の築堤に沿って連子格子が見られる碑の前の街道を振り返る

すぐ交差点に出ます、右への道は紀ノ川に架かる三谷橋へ出ます。紀ノ川を渡り天野の里への 三谷坂道(歩き済み)への道で天野の二つ鳥居で町石道へ合流する

天野の里への道、200mほどで紀ノ川の三谷橋です。

街道を更に東に進みます。

その先で交差点を越えます。暫く進んだ左に小さな公園、この辺りに京橋から9里の一里松があったようだが場所は確定できない

公園内にもと太神社があった名残りで常夜灯が立つ、文化13年(1816)。横に自然石の一字一石の碑

左手に和歌山医大の裏手で新しい病院が見える。右に松下精肉店(ここの手羽先が美味しい)

紀ノ川を背にした、安藤堤の東端に 延命地蔵と法花一字墳の板碑 堤防の安全と道中安全を祈願した

弁天谷川に架かる立曾橋を渡る安藤堤の東端橋を渡り100m程進むと、

街道は左にカーブする、その右手脇に 法花一字一石塚 旧妙寺村と中飯降村の境界の四隅に建てられた境界柱の一つ、災いが村に入らないことを願った塚。

左にカーブした先右手にもと 木下醤油「龍門」その先の十字路を右に折れる

右に折れた街道、この辺り大きな家の旧家が残る

左手に旧

右手小田井の対岸に 天満宮

左手に 笠勝酒造;初桜酒造 川上酒の一つ、家の前に馬つなぎが残っている家の前を小田井用水

振り返ったところ、小田井が流れ両側に旧家と昔を思いはせることのできる景観

すぐ先の街道、街道は電柱の所で左に折れる。右角に道標がある

道標
  西面「右 高野山 慈尊院 九(度山) 左 いせ はし本 五(條)」
  北面「右 こかわ いわで わ(かやま)」
  南面「すぐ こかわ いわで わ(かやま)」

街道は右角に道標を見て左に曲がり進むが、(寄り道)少し真っ直ぐ進み中谷川に架かる橋を渡ると、その下を前述説明の小田井用水が横切る、伏越(または吹樋)という。中谷川を横切る小田井用水の伏越西笠田の龍の井に比較すると規模は小さいが、当時としては難工事であったことだろう

橋を渡った右手石垣の袂に 法花一字一石塚の自然石 慈尊院への渡し場の道標

道は左にカーブしているがカーブする右手が少し広くなり畑がある。かつてここに紀ノ川の向かいに渡る、中飯降の渡し場があった、慈尊院から高野山への町石道へ通じています左隅に隠れるように 道標 

中飯降の渡し跡
写真の真ん中、三本の鉄塔の真ん中の後ろに見えるのが高野山、鉄塔の右の山が、雨引山(477m)、町石道は左の山裾から右の雨引山の右側を上りながら裏側に巻いていくように進んでいる

もとの街道に戻り左に折れたすぐ先左に 自然石の道標 「左 こか王(わ) 右 わか山」よく見ていなければ見落としそう

右斜めの中谷川を渡り和田石材店の前で24号線に出る点滅信号で24号線を渡る

横断したすぐ先左の橋の袂に小さな
自然石の道標 「左 こかわ わか山」 「右 ミやうけん ほりこし 道」ほりこしは堀越観音

道標を左に見て左の橋を渡らず右に坂を上り四辻に出ます。右角に新しい道標が建っています、それを右に見て真っ直ぐ進むと100m程でT字路となるので左へ曲がる。

左に折れて50m程進むとT字路で突き当たり右に下る。正面段丘の下をJRが通って平行に坂を下る。

坂の途中で高架の自動車道を潜りながら右に弓なりにカーブ。右下に小田井用水

小田井用水に架かる橋を渡り、渡った袂で分岐する道を左に小田井に沿って進む。200m程東に進む

嵯峨谷川に架かる嵯峨谷北橋を渡る右手に国道24号の嵯峨谷橋が並行している。その南に紀の川で紀ノ川の南に見える山が、高野山への登山道と雨引山(477m)雨乞いの山。嵯峨谷橋がかつらぎ町と橋本市(旧高野口町)の境界。

嵯峨谷川のかかる嵯峨谷橋を渡り街道は真っ直ぐ進むと橋本市高野口町に入ります
平成20年(2008)に歩いたときの道で2m余りの幅の街道で、100m程進んだ途中小田井を背にした祠が右にあった阿弥陀如来 

平成20年12月(2016)に歩いたときの同じ街道区間(短い区間であるが)小田井をコンクリートで覆い道幅を広くする工事かと思っていたが、道幅が変わらず自治会の駐車場や東屋のある憩いの場に変貌している。

街道筋にあった地蔵さんも規模が小さくなってしまった。その代わり立派な東屋が完成しています、これも自治会の遺構だろうが、通ってもあまり利用されている様子がない。

200m程先で街道はここにも建つ東屋の所で突き当たり、左にカーブしながら下ります高架道路の下を潜り右にカーブして坂を上り東側の道に出る。旧道はその間消失している

少し進んだ先で道は分岐するので右の広い方の道を進みます。

その先10m程で広い新道を右に分け左の細い道が街道です。右の道は以前改修して、小田井を覆っている新道

十字路の左民家軒の 地蔵さん

100m程行った細い四辻の右手角に重厚な建物は、生地清兵衛宅で古い町家で妻面の水切り屁の持ち送りは珍しい建物

名倉地区の、旧家が残る街筋を金沢饅頭店の前から西を振り返る

やがて五差路に出ると、右手前角に喫茶店プランタン、正面にきのくに信用金庫(平成28年にきのくに信金ATMのみ)分岐しているので右側の町筋を東へ進む。

その先でJR高野口駅前通りの広い道にでる左角が高野口郵便局、右手前角に 旧庄屋の前田邸跡 薬種問屋を営み文化10年(1813)~庄屋もともと東側の駅前通りまで敷地の塀があったらしいが道路整備により削ったと聞いた。現在町の博物館として見学できる

この交差点で【寄り道】をするため左の広い道を、JR高野口駅(北)方向へ進み、信号交差点を越え次の交叉点(右に楠の大木)の左奥に 旧八幡神社跡の公園

公園の西側の細い道を北に進むと、右に幼い時分に実際に現役として地元の人たちが利用していた殿の井戸・祠

突当りを右にカーブしながら坂を上ると、JR高野口駅に出ます。大河ドラマ真田丸に関連して駅舎も赤く六文銭に、右は旧旅館葛城館。

木造3階建ての 元旅館 葛城館 南海高野線が開通するまで高野山への参詣者の人達で賑わったという。

駅前通りを50mほど下った左手に 地蔵寺

地藏寺の五輪塔  正平11年・延文1年(1356)近くにあった西福寺び建立されたが、明治初年廃寺となったので、東隣の当寺が引き継いだ。高さ2mの南北朝時代の貴重な塔

地藏寺より下って信号交差点を左に折れ20m程先右にある 子育地蔵尊 前述の公園にあったのをここに移した。

寄り道を終わり先ほどの交叉点の旧前田邸より東の町筋に入る写真は西向きです

町筋を進むと十字路に出ます。街道は左に折れるが、右(南)に折れると両側に旧民家を思わせる建物、その前の町筋を緩やかに下り1km余り進むと紀の川に架かる紀の川橋に出ます。その少し下流に九度山の渡しがあった。慈尊院を経由して町石道で高野山への参詣道。
私の小さな時分に九度山の渡しがあったことを覚えて数回乗るった記憶があります。確か両岸から綱を引っ張り舟渡しをしていたのを思い出す。慈尊院は弘法大師の御母公の住居跡

交差点の右角に 名倉(蔵)市場蛭子神社 名倉市場を守護するため祀られた古い神社。高野山領荘園で鎌倉時代から開設され、高野山の門前町として賑わった。

交差点右(南)への道

街道は交差点を左折れして坂を上るが、急坂で地元の人はババタレ坂という、牛馬がつい・・・左に曲がりババタレ坂を上る所で150m程の坂だが古い街並みを感じさせる坂道。急坂の様子は分からないが短いが結構急である

坂の途中で細い右に入る道奥に 滝の井戸または弘法井ともいう紀ノ國名水の一つ、ここに滝井寺があったがこの先に移転している

坂を上りきると信号交差点の六差路に出て街道は真っ直ぐの広い道を進む。左斜めに進むとJR高野口駅、左角に大きな道標 信太神社参道と書かれています 「信太神社参道北四十丁」

大和街道2日目は、まだ時間もあるが切りがよいので今日はここで終了。自宅まで5分ほどで帰れる。

                       次の日はコチラ











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