2009年2月11日
高野口駅東側の踏切~近鉄吉野線下市口駅
踏切のところから見る駅の北、庚申山に鎮座する 八幡神社
JRの踏切を渡ると線路に沿って右に折れる左に高野口駅。
直ぐ先左に 石造りの祠
名古曽地区に入り地蔵の先すぐ道が分岐しているので右の道を進む。
坂を上っていくと左に前回に記した 瀧井寺がここに移転。
弘法井・弘法大師不老水 瀧井之跡
坂を上るとT字路にでるので左に折れた、その先の十字路で右に折れるが、十字路を真っ直ぐ進むと両側に 常夜燈が2基あります。街道は右に折れますが100m程真直ぐ進むと右手に、住吉神社
常夜灯のある交差点に戻り、街道は右に折れ100m程先で左斜めに曲がる。
その先、左側に 名古曾廃寺跡、白鳳時代の寺院跡で護摩石といわれる三重の塔の心礎がある。法起寺式伽藍配置であった。
少し進んだ左に 一里松石標 松は戦時中伐採されたらしい。京橋から10里また10里四方ところ払の罪人はここで解放されたという。
その背後を少し上ると、三彩壺の出土地 昭和38年ここの柿畑から器高さ約22㎝、最大直径約27㎝の三彩壺が発掘された。白鳳時代の文化遺産、重要文化財として国立京都博物館に保管されている。
その先、左の堤 引きの池 高台の土手が引の池、1590年応其上人が開削した偉業を讃えこの辺りを応其地区という。
その先で新道の交差する信号交差点に出るので横断して、少し右により左の川に沿って進むが数十mで道が分岐、左の集落に入る道は川の橋を渡り左に進む、右の道は左に川を沿って進む。どちらが正しいかわからないが先生の資料では右の道になっている。
逆らうようだが先に左の道に入る。
途中の新道の交差点を越えて進む、前方左に神社の杜が見えます。
少し集落内を進むと 応其太神社
鳥居の両脇にナギの巨木が二本立つ。樹齢約400年、高さ約16m、幹回り3.2m。
東隣に 蓮花寺
神社の前の東への集落の道はやがて暫く先で右にカーブして小川に沿ってきた別ルートの旧道と合流する。
別ルートの前述の橋の分岐点に戻り、左の小川に沿って暫く進むと。やがて小川に架かる橋を渡り小川は右に離れていく。すぐ右に野中池でここの十字路を左に入ると前述の太神社に出る。応其地区から伏原地区に入る。少し先で神社の前を抜けてきた道が左から合流します。私は前述の神社の前を通る道が旧道と思った。
合流したすぐ先で変速交差点にでるそ左角に 道標 「一言主神社 是より北三三五〇米」 左の坂の上は溜池。
右のマンションの手前で吉原川に架かる橋を渡ります。さらに続いて桜川に架かる桜橋を渡る。右の先で吉原川と桜川が合流して吉原川となり紀ノ川へ
少し坂を上っていくと道は分岐する。分岐の左への道は高野街道のルートの一つで古道、紀見峠を越えてきて御幸辻駅の東で分岐した道(歩き済み)宇多天皇・白河上皇・鳥羽上皇・嵯峨天皇らが高野山への御幸の時に通ったといわれている。
左角に、祠と経読地蔵道標
「日本最初 大坂道 きい見峠へ・・に道あり 大阪屋・・・ 田和地蔵尊 従是十八町 子安帯解 菖蒲谷地蔵寺」
すぐ先左の小さな森に 神社
左に郵便局がありすぐ交差点。
10mほど曲がった左に 六地蔵 地藏二体が祀られている。
交差点の南北の道は、橋本の渡しができる以前の古道で紀見峠を越えてこの交差点で南に進み、学文路の渡しで慈尊院に通じていた、右(南)への道(歩いています)
交差点の左(北)紀見峠へ通じる高野街道の古道。
大和街道は真直ぐ市脇の街筋を進む、大日堂の前の街道
左手に 大日堂大日如来を祀る地元の人々に深い信仰。
野地区にはいり、右手に 三社明神 豊受大神宮・天照大神宮・春日明社
寿命寺 境内に日限地蔵、腰、咳地蔵を祀る 。
お寺の南側は急峻な崖となっている。右下にはJR、24号線、田園、紀ノ川と広がる。
街道は右にカーブして急坂を下ることとなる。その手前右手に 生地岩見守石標と地蔵地藏
地藏の前を入ると右手に 角神社 生地氏の氏神、鈴鹿森とよばれている。この辺りは銭坂城の東南部にあたり神社の後ろには当時の空堀の土塁が残る。また後ろは24号が走っており、かなりの断崖になっている。
街道に出て北側に入る路地があるので入ると、
観音寺 十一面観音像が祀られ生地氏の守り本尊といわれる。傍にイチョウの巨木。
この辺り一帯が 銭坂城址
中世1430年ごろ生地石見守俊澄が築いた城で、北・東・南面は高さ89間の断崖にに守られている、現在南面をJRや国道24号線が断崖下を通っている。1600年時の城主吉澄が関ヶ原の役で討死して生地氏が滅ぶ。その後、大和街道が城跡の中を整備して通っていた。
かつての旧道は右急斜面を下りいまのJR線を渡り、更に24号線を横断した先で左に回り込んで、24号線の南の下を東に進み、右に見えるパチンコ店あたりに出て、その先の信号のとこで旧道につながっていたが今はその下る道は失われている。止む無く線路を右に見て下り、下りきったところで右に線路を渡り24号線に合流する。
下から振り返ったところで、かつての旧道は大きな木の辺りから下っており、線路の堤に道跡がついているあたりから24号線を横断していたと想像できる。
国道に出て南側を見る(右)右斜めに進んでいた痕跡が残っているのが銭坂道といわれた道なのか。
正面パチンコ店で東側は材木の貯木場でこの辺りに旧道は抜けてきていたようだ、振り返ったところ。
24号線に出てすぐ左斜めに旧道が通っている。
旧道に入りすぐの山田川を渡り一つ目の十字路で【寄り道】を左に折れて線路の高架を潜る
相賀大神社
相賀荘二十ヶ村の氏神であった、かつては根来寺の寺領であったが兵火のため焼け、当時の面影としては神殿前の灯籠一基が残るのみ。灯籠は南北朝時代に造立され生地氏の信仰あつい神社でった、また元禄13年(1700)に鋳造され梵鐘がある。
医王寺跡 神社の西側にあったといわれる寺で現在は畑地となっている。永仁二年(1294)の五輪塔があり鎌倉時代のもの。
街道に戻り市脇川を渡る
その先を進むとT字路で左に折れてすぐの左T字路を右に折れる。
高架の下を潜り真っ直ぐ進んでいくと、右に橋本市民会館や市役所が見える行政地域。
橋本保育園の手前右手に 大師の井戸
東家地区に入ります
左手に長屋門のある堀江家住宅もと六十人地士で東家村の庄屋、門の前に青石が敷き詰められ西北の角に樹齢400年を越す萱の大樹が立つ。
その先、左手電柱とブロックの陰に 道標 「愛宕権現道 丹生山妙楽寺 嵯峨天皇勅願高野 ・・ 草創七堂伽藍之霊」
街道から外れ【寄り道】道標のところを左に路地を入りJR線を越えて200m程いくと
妙楽寺 弘法大師の姪で如一尼の住居で弘仁11年(820)に嵯峨天皇の勅願寺として創建、大師作の大日如来像などが橋本市郷土資料館に保管されている。格式ある山門もかなり傷んでいるようだ。
街道に戻りその先右手に少し入ったところに 巡礼観音この地で亡くなった巡礼が持っていた観音像を地元の人々が供養した。隣に祠 藤紫大明神、椋の老木樹齢300~400年。
その先直ぐ信号のある交差点に出る、街道は真っ直東家の町筋を進むが、この交差点南北の道が近世の高野街道(歩き済み)
交差点の南に進んでいくと紀の川の渡し跡に出て対岸の三軒茶屋へ、高野への道である。分岐する左の道を進む街道沿いに道標が見える。
道標 より見た交差点、真っ直ぐの道は高野街道で紀見峠へ
南面「南無大師遍照金剛」 西面「右 かうや 左 京大坂 道」 北面「右 わか山 こかわ 左 い勢 なら は せ よしの追分」東面「右 京大坂道」
橋本川に架かる松ヶ枝橋を渡るこの先、市街地再開発事業により街並みが整備されつつあり様相が大きく変貌する。
平成20年(2008)橋を渡ると、本町商店街の中をこのように進んでいた現在では完全に取り壊し町の様相が変貌した
京橋より十一里の松が松ヶ枝橋に架かっていて旅人を癒したと伝わる。新しい橋に架け替えられた。橋を渡った直ぐ右手に
一里塚跡・常夜燈・太神社 一里松があったが昭和36年枯死した。京橋から11里目で太神社の中にその切り株がある。太神社は川船仲間の神様として祀られてきた。この辺りは川原通りといって多くの舟宿が並んでいたらしい。現在その面影を見ることは出来ない。
松ヶ枝橋からの右(南)の橋本川、先は紀ノ川で東家の渡し跡。
橋を渡った右手、以前たしかここに一里塚跡や常夜灯・太神社があったのだが。
新しく広げられた道沿い右に、旧家を改装され残る
少し北側に入り上っていくと 常夜灯、陵山延命地蔵尊、鎌倉大将軍神社、常夜灯は正徳五年(1715)建立と古い。
元に戻り、商店街跡を東に進み突き当たった左に 真言宗 応其寺 現在の橋本の始祖である応其上人の草庵。本尊は救世観音でそのわきに上人の木像が安置されている。山門には天誅組が逃げ入ったので銃弾の跡が残る。
突当り、応其寺門前の南側より西を見る。見事に商店街がなくなり時代の流れとはいうものの寂しい限り。
突き当たりを右斜めに折れ国道24号の信号に出る。まだまだ工事中だから数年後には今までの写真のようにはいかないだろう。
24号線のその右手角に開発前には石標群があったが、少し西に移動している。
恵比寿社・道標3基
1 南面「当町開祖 応其上人旧跡」 西面「是より北一丁」
2 南面「右 わか山 大坂 左 こうや」 東面「右 いせ よし乃
北面「右 わか山 こかは 大坂 左 かうや くまの」
西面「左 いせ よしの」
24号線を横断したところ紀ノ川の架かる橋本橋が見える。この辺りにかつて 橋本御殿があった。紀州藩主の別邸で、その近くに伊都郡役所・橋本代官所(郡奉行所)があった。立派な御殿があったようで
「いたら見てこら橋本御殿 うらは紀ノ川舟がつく」とうたわれた。
御剣大明神
東側の紀ノ川河川を見ると、この付近「バンドコ」と呼ばれる 舟改番所があった地元のオリンピックの水泳選手、前畑秀子さんや広畑勝さんもここで泳いだという。
24号線沿い紀陽銀行前に 橋本町道路元標
道路元標は、大正8年(1919)の旧道路法施行令に基づいて、市町村に1個設置されなした。かつてこの前方交差点西側に設置されていたが、国道24号線の拡幅整備により撤去され、平成元年まで一時放置されていたのを発見し本来の一に近い、ここ紀陽銀行前再び設置された。各市町村に配置された道路元標も相次ぐ道路工事により失われるところが多い。町の中心を示すとともに、町の歴史を見てきた貴重な文化財です。(橋本市教委会)
すっかり変わってしまった24号線沿い、開発前に写真に収めとけばよかった。
信号を左に24号を進むとすぐ右手に 池永家住宅;橋本本陣跡で、もと六十人地士。八代藩主重倫が初めて本陣として使用以降、藩主の宿泊に利用した。2000年国登録文化財。
改装前の姿他に旅籠等の屋敷が並んでいたが、本陣跡だけでも残してくれたのがうれしい。
少し先左に 愛宕大権現 堂内に弘法井ある、背後は段丘前の国道の南側は絶壁。お堂前からかつての橋本宿跡を振り返る
右手に喫茶店、左手前角が田端インテリアのところを街道は左に折れる。
左に折れてすぐT字路を右に折れるが、左角にある
道標
東面「左 かうや こかは き三井寺 わか山」 南面「右 いせ 山上 よしの なら はせ ・・」
(※)ここで整理すると、一旦24号線を400m程戻る、24号線に架かる橋本川を渡り川沿いを左に紀の川の堤防まで進むと右手に大常夜燈がある。高野街道の紀の川に突き当たったところで、高野街道渡し場で、対岸の三軒茶屋へ渡っていた。(詳細は高野街道)
24号線に戻り橋本川を渡り一つ目の信号を右に行くと紀の川に架かる橋本橋。その手 前左一帯に、橋本御殿として紀州藩主の別邸があった。そのあと伊都郡役所がおかれた。その後、役場・警察の敷地に変わって行ったが今は空き地になっている。また、近くに1799年から橋本代官所があった。
この付近にバンドコと呼ばれる舟番所があった。
再び街道に戻り、前述の道標を右に曲がると国道24号に出る。写真は出たところを写す。国道に出るところ左角は旅籠紀ノ川。
すぐ先の信号左からは橋本駅前からの道と合流、国道右手の紀ノ川を背にマンションが建っている。
その手前にその手前に昭和36年4月の国道改修記念碑
50m程先道が分岐、右が国道で左の坂を下るのが旧道妻地区に入る。
左、石垣沿いに 石仏往来安全・各霊追禍
すこし進んだ右の丘に
妻の西の杜と万葉歌碑
その先、南海高野線の上を高架で妻橋を越えて右に曲り国道24号に出る。
24号を左に曲がり妻二丁目信号を越した左手に松谷仏具店があり、オークワが並んでいる。その国道向かいの細い道を右に(寄り道)する。
右に曲がる右角の隅に万葉古道妻の杜の標識がある。この付近古道の官道南海道が通っていて、多くの万葉人が路傍の杜に「妻をお与えください」と祈ったのでこの付近、妻という地名になったとか。
道を入ると、二股になっており正面に阿弥陀寺。更に右に折れて左に阿弥陀寺の塀に沿って入っていくと線路の近くに、妻の中の杜がある。
阿弥陀寺
妻の中の杜
二股に戻りを左に行くと、狭い民家の間の道を入ると
妻の東の杜
前回に比べ鳥居と老木が無くなっている。
東の杜から右(南)側の道を東に進み、突当りを左に曲がると 河瀬の西の杜がある。
西の杜より少し北に進むとすぐ24号線の街道に出る。正面にオークワ店が右に折れると、信号のとこで道は分岐する、左は24号線で右の旧道に入る。右にGSがある。
少し先右手、生け垣に囲まれて 河瀬の中の杜
河瀬の集落を進む
左民家の軒に 祠
集落内の左手に松山氏住宅、もと庄屋で古い形式で建て替えられている。
その先で道は分岐する左の坂を下って行く。この右(南)は紀ノ川でもと河瀬の渡しがあった。
下る左側に 西光寺 年一度お盆の施餓鬼に「地獄絵」が開帳される。
下り坂の途中左手に、地蔵2基
坂を下った一番低い左に、闇峠(くらがり)の案内標柱がある。坂の下った一番低いところを珍しい峠。標柱の峠という字の山が逆さまに書かれている。かつては暗い峠であったのだろう。
峠の右手向かいの新しい家が明治の彫刻家、九鬼虚白の住居跡。
隣の旧家2軒が明治初年まで 闇茶屋「くらがりの夫婦饅頭」を作って売っていて旅人達で賑わったという。現在創作和食店。
茶屋の向かいに、金毘羅大権現と天保十二年(1841)の常夜灯
闇峠を抜けるところを振り返る。
先ほど分岐した新しい道が右から合流。
街道左他の向こうに 地蔵寺
旧下兵庫村の集落、右(南)の紀ノ川には 下兵庫村渡しがあった。この先の十字路を左に折れて、国道24号線の北側に【寄り道】。
利生護国寺
地元の人々は大寺さんという。奈良時代聖武天皇の勅命により行基菩薩が国家の平穏を目的として建てた。室町時代より地元豪族の隅田党の氏寺となり、隅田一族の墓が無数並んでいる。1594年豊臣秀吉が高野山参詣の帰り、庭の松に馬をつないだという「駒つなぎ松」がある。
本堂(国指定文化財) 本尊は鎌倉時代作大日如来坐像
本堂の傍に 隅田一族の墓 お寺の北東に岡山城址、隅田党平野氏の館跡
もとの街道に戻り、下兵庫村の町並みに入る旧道の面影が色よく残る。
左手田んぼの中に小さな お地蔵さんが綺麗に祀られている、地元では頭の地蔵さんとして親しまれている。
左にカーブしながらJR線の踏切を渡る。左に下兵庫駅。
少し先24号線の手前左に、阿弥陀堂と白石稲荷大明神
国道24号に突き当たる手前、左に読売新聞舗をみて右に折れて、すぐの鎌谷川に架かる鎌谷橋を渡る。上兵庫地区を暫く進む。
街道より左の小高い丘 岡山城跡 隅田党平野氏の居城跡。
高橋川に架かる西国橋を渡る。高梁川の下流紀ノ川にはかつて中下村流し跡。
平家物語の高橋判官長綱がこの地の出身で昔はこの付近に高橋の市がたち賑わった商売繁盛を祈って橋のたもとに
恵比寿神社を祀っている。
また京橋から12里の一里松があった。
暫く進んだ先、左に交番の一筋先の道、右手にスーパーやまもとの前を左に折れて24号線を横断して500m程北に進むと。隅田八幡神社があるので【寄り道】
街道より長い参道を北に進む
参道より西に岡山城跡の小高い山が見える。
隅田八幡神社
補足で正月に来たのでたくさんの人が初詣に来ている。社伝では神功皇后が新羅を征伐の帰路この地に滞留したという。寺宝は「人物画象鏡」で青銅製直径約20cm国宝に指定され、東京国立博物館に保管されている。
西となりに京都神宮寺末寺 大高能寺がある。
隅田八幡神社経塚
神社の背後の丸高山には、丸高稲荷神社・琴平神社・稲荷社が祀られている。
街道に戻り進んだ右に 祠 右の小西医院の先を右に曲がり少し行くとJR隅田駅。
隅田の街筋を抜けた辺りで左から国道24号が合流してくる。注意しながら国道を渡り左側の斜めの道に進む。
左に進み100m程で右に大きく弓なりにカーブして再び国道に出る手前左手に、交通安全地蔵・大小地蔵・五輪塔。など20基ほどが並んでいる
すぐ隣にも 真土の万葉歌碑
あさもよし紀人羨しも亦打山 行き来と見らむ紀人羨ましも
紀州路の行きかえりにみえる真土山、これをいつも見ている紀州の人がうらやましいという歌
国道24号に出て左に折れる。国道の左側の坂を上る細い道。国道は深い切通に削られている。尾越(おごせ)峠とよばれていたかつてはこの前の分岐点辺りから登るきつい峠であった。
峠への道
峠は広くなっていて民家が建つ。
峠より下る道です、結構深い切通し
峠より少し国道を下ると真土のバス停、その右に広がる田畑は粉河田でその向こう側には落合川が流れ、飛び越え石の旧跡がある老人ホームの建物の所を右に細い道入って行く。また(寄り道)
落合川の西側に広がる田は粉河田といって、平安時代の頃、夜中にここの田の稲を刈り取り馬で逃げていくものあり、それを知った大和の僧良心は馬の跡をつけると粉河寺の本堂に入った。良心はその理由をただすと、この国の人の窮状を救うためといった。その後この地の米3升を毎年粉。粉河寺に奉納したという。
畑の中に休憩建物が建つ、飛び越え石の表示
下は 飛び越え石へ 落合川、古道の南海道だったという説もある。落合川で和歌山県と奈良県の県境。
下って行くがその先は進進めません
一旦国道に戻り少し東に進むと落合川を渡ります、その右側に 従是東奈良県管轄の県境碑 が立ち右に下る細い道があります。
碑の右側の下る道が落合川の飛び越え石に下っていたのだろうが今はこの先で消失。川の右側は“戸立山”という小山。国道に戻り、真土のバス停のところまで戻る。
国道を横断して左の道に入って行く急な坂を下り、道なりに右に曲がると真土の集落、短い集落だが往時の街道集落を彷彿させてくれる。
右に曲がって集落にはいる
左側に元、よろず屋、右手に玄関横雨戸の外に折りたたみしき縁台が(上げ床几または上げ見世という)今も残っている。一軒おいて右手に元 餅屋 その向かい左手は、高札場のあったところ
真土の集落を振り返る、往時は山村の閑静な集落であったのだろう。
極楽寺 高札場のところを少し左に入って行く
境内の 宝筐印塔、室町時代のもの 本堂に阿弥陀如来を安置しているまた 紀州藩主初代南龍公(頼宣)の位牌がある。
町並みに戻り右手に、役人の詰め所跡道向かい側は、隅田組を中心とした鉄砲組の詰め所跡。
集落の東端にある両国橋より振りかえる。真土に入るところに昔は黒塗りの観音開きの門があり夜は閉められていたという。大和から紀州への入り口であった。
両国橋を渡ると大和領で畑田に入る。すぐ左手に奈良側の札場跡で屋敷きの前の一角にあったらしい。
真土集落を振りかえる。
集落の東で坂を上りながら道なりに進むと24号に出る。その手前の道を少し入っていくと 西福寺
街道に戻り少し進むと国道24号線に出る、ここも切通に改修して峠らしくないが広くなっている。真土峠 天正以前はここが紀和国境であり現在の奈良県木原、畑毛田村は紀州隅田荘に属していた。峠の頂上は少し広くなっている、正面建物の右を斜め道に下る。
途中右に池があり右に上る坂道があるが真っ直ぐ、左に進んでいくと24号線に出るのでその手前の道を右に下ります。
坂を下って行くと左の国道よりかなり低いところを通っている。この辺りは上の町地区
下り坂の途中で左に少し上り国道に出ると 万葉歌碑 あさもよし・・・・の同じ歌碑が建つ24号線から峠を見る、ここを 待乳峠という。
街道に戻ると左に 井戸
国道より低くなっている下り坂を進む。この辺り釜窪町集落
右に新しい 道標 旧紀州(大和)街道 真土越への路
右下に 観音寺
道は分岐するが、右の道を進む、左の道を上ると24号線に出る。
坂を下るとT字路となり左斜めに進む。
そのすぐ先で、急坂を上ると左からの国道と合流する。国道を右に折れJRが橋の下を通っている。
国道にでてJR線を越へ24号線を進むと、右手下に元上野村の庄屋、地元の人は「ごとうだ」とよぶ、大きな屋敷が見える。
今歩いてきた峠の街道を振り返る。
(寄り道)気になるので少し右に下りて正面に回ると、立派な長屋門を有した建物この様子から見るとこの辺り街道が通っていたのかと思ってしまう。
正面の前の道の角にある お地蔵さん
もとの街道に戻り直ぐ左の山野原の集落に入り、300m程進んで右の国道に再び合流する。
左に入るすぐ左上に石段を上る社があるので登ろうと思ったが少し石段も傾きかけているので止める。境内には
一字一石塔があるとのこと、
二見地区に入り弓なりに進みます。
再び国道に合流して斜め左に横断する。横断して右に少しコを描き左に回り込むと、右に 犬飼寺(転法輪寺)弘法大師が高野山への登嶺したとき道案内した二匹の犬を祀る。丹生明神と狩場明神。地元では犬神さんと言って親しまれている。
門前の国道と街道の分岐に出る。分岐のところで国道を横断して向こう側の旧道に入りJRの高架を潜る。
JRの高架を潜り少し先で分岐するが右の旧道を進む。
少し坂を上ると左に お堂 鳥ヶ森堂;十一面観自在菩薩
街道を挟んだ右にもトタン葺きの建物がある。静かな二見地区の道を進む
右の民家の軒に 自然石の道標 見逃してしまいそう「右 ざい志や(意味わからない) 左 かうや こかわ 」
その先で左からの道と合流した左に 晴雨地蔵尊 地元の人は天気を願ってまいる。
その隣 高野山真言宗 生連寺 門前に石標、寺には古い絵馬がある。本堂右手にぼけよけ地蔵尊。
お寺の前の三叉路を右に折れ、道なりに進むとJRの踏切に出るすぐ左側に二見駅で、すぐ国道24号の交差点に出て横断する。
横断して左斜めの街道、二見集落
右角に 三塚地蔵尊 三体の地蔵を祀る。一里塚跡碑 京橋から13里。
その角を右に見て、国道24号を左に分け斜めの二見の街並みに入って行く。
五条の新町は、1600年関ケ原の戦いが終わり徳川政権が成立、慶長13年(1608)松倉重政が二見城主として城下町の商人の町として町割りをしたのが始まりです。その後、慶長20年(1615)重政は九州島原城主に国替えとなった後、新町は幕府の天領となりました。特に江戸期中期までは紀州徳川の参勤交代の宿場町として大いににぎわった。その後も交通の要衝として栄えました。
二見の町筋を進む
新町の信号交差この町筋は宿場風景が残る。交差点を右に行くと二見城跡だが遺構は何も残らず場所もわからなかった。
西方寺の前に山田旅館、昔は筏師の宿屋としてよく利用したという。
西方寺の隣の空き地角に 新町村森脇屋(柏田久兵衛庄屋宅跡)
右手に 高野山真言宗 西方寺 本尊弘法大師・病封じ不動尊
松倉豊後守重政は戦国大名の筒井家に仕えていたが、主家筒井家が慶長十三年(1608)改易、関ケ原の戦いの武勲にて幕府より五條二見藩一万石余りの大名に取り立てられた。重政は二見城を居城として新町を中心として城下町を形成した。
大坂夏の陣においても武功をあげ元和二年(1616)に肥前国に四万三千石の大名として転封となり、寛永七年(1630)に島原で没した。五條領内での善政により町民はその遺徳をしのび西方寺に重政の墓碑が建立され、当時の御位牌も大切に伝えられている。島原の乱の発端は重政の島原の領民への苛政が原因といわれているが、五條での重政は豊後さまと今も親しまれている。
島原での政治はわからないが、幕府のキリスト教への弾圧も加味し誰が領主であっても起こるべきして起こった乱でなかっただろうかと思う。
西方寺で一旦街道歩きを中断して【寄り道】西方寺のすぐ先で左に入り国道24号線に出るので暫く歩くと左高台に、
五條代官所跡がある。実際の代官所跡は、少し東の現五條市役所庁舎が立っている場所で、かつて天誅組によって焼き討ちにあったところです。庁舎前に碑が立っている。
かつての五條代官所の長屋門が移設されている。現在歴史民俗資料館で天誅組魁の本部。天誅組関係の資料展示しています。また天誅組の公園や歴史ウオークも開催されています。遠方の方も沢山会員になられています。私もその一人です。
街道に戻ります。西法寺ともと庄屋柏田家住宅の間の街道を進みます。
その直ぐ先左手に 御霊神社(二見神社) 神社の斜め向かい、元旅籠、
新町の街並み、素晴らしい情景だ電柱がなければより最高だが。
幻の五新鉄道跡
明治に入り計画され昭和12年に着工、五條から新宮までの「五新鉄道」。太平洋戦争により取りやめられた跡と寿明川に架かる神田橋。
右川沿いに 祠
鉄道跡を潜った先の新町通りを進む。
左手に、大正時代の建物で古い商家、黒漆喰で塗り込められた屋根つきの卯建が素らしい。
右には 創業十五年の看板が架かる「山直」
新しい 道標 「左 ふたみ」 札場跡
右に 松倉豊後守重政之碑
碑の向かい側の旧家
東浄川に架かる新町橋を渡ります。
新町橋の手前右に 愛宕・八坂神社のお堂 常夜灯 延命地藏の祠
橋を渡った左に 常夜灯
素晴らしい、昔に戻って感じ、やはり電柱が邪魔
振り返った街並み
さらに新町を進みますがその前に少し右に入り、紀ノ川の堤防に出ます。
堤防が築かれていない時代の名残か石垣の積んだ跡が残る。
街道に戻る、常夜燈の向かいに町づくりの住民組織である新町塾「かげろう座」の拠点。現在まちなみ伝承館新町通りの街並み重要伝統建造群の指定地区の取り組みの発祥地。明治から大正にかけての民家を改修整備。
左の柱の青い標識は、伊勢湾台風時の洪水の水位を示したもので道路面から2.5mもあった。
その袂、左手角に、赤根屋半七宅跡;江戸時代、歌舞伎や芝居の「三勝半七艶姿女舞衣」の主人公(悲恋の末大坂千日寺の墓地で遊女の三勝と心中した)の住居跡。桜井寺に二人の塚がある。
元禄8年(1695)12月6日、二人は互いの体を紅絹裏の服紗縮緬で結び合わせ、ともに咽喉を掻き切って死んでいたという。二人の哀しい恋は、「三勝半七浮名の雨」「三勝半七道行尾花露」など矢継ぎ早に劇化されて今もなお舞台化上演されている。桜井寺には三勝と半七の比翼塚がある。
赤根屋半七宅跡の前から新町通りを振り返る。
碑の傍の建物、かなり老朽化した民家。
さらに東に進む、左にまちや館 江戸時代末期の建物を修復、初代保安庁長官木村篤太郎の生家。
左奥に 浄土真宗本願寺派 宝満寺 太鼓櫓がある
書状集箱 明治4年の郵便創業当時のものと同じ型。
鉄屋橋の手前少し左にカーブ、その両側の重厚な建物。
西川に架かる鉄屋橋を渡り右にカーブする。その左角の建物は清酒「松の友」の山本酒造、屋根上に酒徳利の形をした屋根付きの看板がつりさげられている。
鉄屋橋からの左の宝満寺
橋を渡ったところから振り返った景色。
この辺りの通りは特に重厚な商家が建ち並ぶ、広い交差点に出ます。
広い168号線に出る右手角が 栗山家住宅、元禄9年(1696)の建築、母屋は平屋建てで軒下に霜除けが吊り下げられている。(市文化財・非公開)
168号線新町口信号より新町通りを見る、左の栗山家。
新町通りから南北の広い通り(168号線)に出る。街道は左に曲がるが、右に曲がりすぐ左手に。
中家住宅(県指定・非公開)、代々五條町の庄屋、母屋の鬼瓦に宝永元年(1704)の銘がある。紀州藩主8代重倫が隠居後1805年伊勢参りの行き帰りに休憩した。元禄の大火で焼けたため建て替えられた。
168号線を南に進むと、紀ノ川に架かる大川橋に出て、十津川・新宮への西熊野街道。
街道に戻り、左に入れて進む、すぐ先左に 栗山家住宅(国重文)慶長12年(1607)の棟札がある。建築年代のわかる民家では日本最古。母家は平入り平屋建て入母屋造り、屋根は本瓦葺きで強い反りを持つ。棟に直角に張り出した煙り出しには風格を感じる。もと大坂屋と呼ばれた豪商である。
戎神社前バス停の所に黒塗りの書状箱 現在も利用されている。
168号線向かい側も旧家が並び趣がある。
北側からの栗山家の建物を見る。
そのすぐ先左に 御霊神社
168号線の一筋西側(左)に少し入って行くと 律宗 講御堂寺門前の常夜燈
その北側隣に紀州那賀郡光恩寺末寺 浄土宗 称念寺
そのすぐ先北で、本陣五差路交差点に出る。
本陣交差点を起点に南に進み紀ノ川に架かる大川橋を渡る道は、国道168号線で十津川・新宮への西熊野街道。大川橋を渡りすぐ左に進む道は河南大和街道(歩き済み)交差点を北に進む国道310号線、天誅組の越えた道千早街道(歩き済み)、かつらぎ28越えの一つ大沢越えの道(歩き済み)。
本陣五差路交差点の西南角に立派な 道標
東面「わか山 左 かうや 四国 道 くまの」
南面「はせ なら いせ大峯山上 道 よしの」 安政二年乙卯(1855)春正月
本陣交差点の道標の傍の地下通路に入り168号線の東側に出る。そして十m程24号線を東に歩いたところ右に、24号線の一筋南側の道にでる通路があるので中を抜ける。この辺りは街道が道路整備により変わった。後者の24号線から下りてきた通路を下から見る。正面奥が24号線。
24号線より一筋南に下りてきたところ地下道の抜けたところ左に折れた筋。
左に、河崎なつ生家跡の石標。「母親変われば 社会が変わる昭和五十年」
河崎なつ生家跡前を振りかえる。
右に、乾十郎宅跡石標、天誅組に協力。左に 祠
T字路になりアーケードのある商店街(今は無い)を左に曲り100mほど北に進むと、国道24号線に出ます。
(前回歩いたときとこのように変わりました。)
左に折れて、次に右への道を10m程入ると 桜泉 屋根瓦の弘法井、屋根を突き抜けた桜の巨木が立つ。その袂に弘法大師が祀られています。そしてその前の井の中に地藏が入浴している。弘法大師が桜の杖で井を掘り当てたことからの名前が付いた。
少し先で信号のある国道24号に出る。その先も商店街であるが人通りがすくなく寂しい大和街道は赤かべの横を真っ直ぐ進む。
国道に出た左手に浄土真宗 桜井寺 天暦年間(947~957)の創建と伝わる古刹明治維新のさきがけとなった天誅組蜂起の本陣となったところ。
天誅組本陣跡碑
新しい本道
天誅組は現市役所にあった五條代官所を襲って、五條代官の鈴木源内を討ち取り、この石手水鉢で首を洗ったと伝わる。また赤根屋半七と美濃屋三勝の比翼塚を見るの逸した。
交差点に戻り赤壁の横を入り北に進む。
その先で交差点に出ます。左斜め角に西尾菓子店のところを街道は右に折れる。右に折れ商栄会通りを進む、交叉点を真っ直ぐ進む道は金剛山の山麓を抜けて進む千早街道が分岐。
交差点の左角、西尾菓子店の軒に 祠
商栄会商店街の町並みを進む。
商店会を進んだ二筋目を右に入ると、国道より高い段丘を歩いているのがわかる。統神社
街道商店会に戻り進むと、その先信号交差点に出て左手に入るとJR五條駅。右手角に関西アーバン銀行がある。街道は真っ直ぐ進む。
和歌山城下の京橋から五條駅までは山本先生の「てまり街道」の資料が完璧で説明文等を殆ど参考にさせていただきました。
五條駅の先については先生に会った折、その先は調査していないので引き継いで歩いてくださいとおっしゃって頂いたが、私の能力ではとても先生の足元にも及びません。ただ体力だけは大丈夫なので資料は乏しいが松阪まで歩いて完歩します。
山本先生の様にはできず、間違っている部分も多々あるかと思います。先生ありがとうございました。
今井地区に入る。この先の街道は、大和街道・和歌山街道・伊勢南街道ともいう。
今井地区の町並み
右に 延命地蔵尊
今井3の信号交差点に出る。その信号手前右手にある 地蔵尊の祠と灯籠二基 交差点右は24号線の今井町交差点。街道は真っ直ぐ進む。
信号の右手手前角に式内宇智神社の石標と左角に式内荒木神社の石標がある。
ここで交差点を左に【寄り道】、街道は信号を真っ直ぐ進むが、左に曲がりJRの踏切を渡り道が分岐する左に荒木神社の参道入り口に常夜燈が2基。そこから真っ直ぐみちを北に参道を進む。
荒木神社参道
荒木神社
かくしてや なほや守らむ大荒木の
浮田の杜の標ならなくに 万葉集
浮田の杜 椎、クロバイ、ヒノキで構成された杜、特にクロバイの巨樹の群生は植物学上貴重な存在。
もとの信号交差点の街道に戻る。東に真っ直ぐ進むと国道24号が右から合流する。24号線の歩道橋で反対側に出て右(南)に折れて暫く進む。
国道を渡った歩道橋の下に 栄山寺の道標
街道は国道に沿って進むが、【寄り道】のため歩道橋を渡り、五條東中学校の前の道を南に進むとすぐ左に 地蔵尊の祠。さらに50m程進むと宇智川の手前を左斜めに入る道がありそこを入ると、直ぐ右手に深い川に 宇智川摩崖仏の遺跡がある。右手の宇智川の急な階段を川に降りていく。
暫く歩くと左にカーブし右に吉野川に架かる栄山寺橋が見えてくる。橋から河南大和街道(歩き済み)が合流して吉野川沿いに進んでいく。街道は吉野川に沿ってこの先で南岸に渡り吉野山への道。その時栄山寺に寄っているが再度来た。寺は左側にある。
道標のすぐ近くにある 地蔵尊
先に栄山寺による 真言宗豊山派栄晶山 栄山寺 養老3年(719)藤原武麻呂の創建と伝わる。本尊は薬師如来。
戦国時代の末、八角堂を除きすべて焼失その後再建された。他に国宝、梵鐘が延喜17年(917)の銘。重要文化財も多数保存されている古刹。
栄山寺の入り口角に 石碑 「長慶天皇行宮遺跡 藤原武智麻呂公史跡栄山寺」
梵鐘(国宝)
七重石塔婆 奈良時代の銘(重文)
塔之堂(大日堂)室町時代;重文
薬師如来 室町時代;重文、 石灯籠;鎌倉時代
史跡 栄山寺行宮址碑
南北朝時代に南朝の後村上・長慶・後亀山天皇の行在所が置かれていた。そのため「栄山寺行宮址」として国史跡。
八角円堂 平安時代;国宝
小島町御霊神社
境内の一部
史跡宇智川摩崖碑
栄山寺より戻る途中に宇智川左岸の岸壁に次のように大般涅槃経の文を彫りまたその末尾に仏体を線刻している、 奈良時代の貴重な遺跡。
左側に 丸高大明神
摩崖仏の線刻 わからない
24号線に戻り歩道橋の交叉点から500m程国道を進むと、左に喫茶店と大きな駐車場があるので、その前で国道を左に分け右斜めの道、宇野地区の集落にはいる。
(※ 補足)
国道を500m程進むのが一般的にもふつうであると思うが、少し自分なりに疑問を持ったので(何も資料も根拠がないが)今日は補足で歩いてみた。
今井町交差点の歩道橋のところで、24号線を歩かずそのまま栄山寺への道を進み、すぐの宇智川に架かる橋の手前を左に入り、右に宇智川摩崖仏をみて右にカーブして宇智川を渡り、すぐの倉庫のあるところで左に折れて、左の竹藪に沿って田畑の畦を進むと五條東中学のグランドで行けなくなる。
倉庫の所に戻り、さらにその道を50mほど進み左への坂を上り、20mほどで道は分岐するので左の道を進む。右は山の斜面で左には田畑を挟んで東中学校が下に見える間の道を進む、途中右に祠もあり旧道であったかと思ってしまう。その道を道なりに左に緩やかに進んでいくと、下り坂となり宇智川を再び渡り、坂を上ると右に、ドコモショップ・パチンコ店のある24号線に合流する。少し無理があるかなとも思う。難点は宇智川を二回渡るということ。
補足を写真に沿う
右にカーブして宇智川を渡る
倉庫の所を左に折れたところから
左が竹藪と宇智川、正面、グランドで行けなくなる。右斜面の道に通じていたのかもしれない
倉庫の道から戻り、先の民家があるところへ進む。左の民家の向こう側で左に折れる
左に折れて緩やかな坂を上る
道が分岐するので左に、右に進むと集落が並び栄山寺方向
その先で道が分岐するが左の真っ直ぐな道左にグランドが見える
右に石垣が積まれた上に小さな 石仏
さらにその近くに整備された 祠 このような姿を見ると旧道跡かとも思ってしまう。最も違ってもいろいろ想像しながら、24号線の車の多い車道を歩くより余程楽しい
左に緩やかに大きくカーブする
宇智川の橋を渡る小学生の通学道
坂を上り24号線に出ます。左から前述の道が合流
(補足終わり)かなり迂回しているが、ひょっとすると今歩いてきた道が旧道かもしれない、大収穫。
歩道橋から350mほどの合流点少し先で右に折れます。
右に入り100m程進むと橋があり、左モーテル手前橋の袂に 道標か 読めない。
宇野集落の町並みも街道を彷彿できる。暫く集落を進む。
右手に 日高龍王・白密龍神と老木
集落の抜ける東端に分岐があり、左の道を進むと24号線と合流し三在交差点に出ます。大和街道は右への道を進む。
三在交差点を起点として、平城京への道である 中街道(下ッ道)・また郡山城下への下街道(郡山街道)・さらに途中で天誅組が五條へ来た道が北宇智で千早街道が分岐していく。(三街道とも歩きました)
左の街道の先で24号線の三在交差点
分岐点から集落を振り返る。
右の旧道を進みます。
右の倉庫の壁際に 地蔵二体
三在交差点から国道370号が合流、この先は国道24号線と分かれ国道370号線となる。
合流した後、道は右に大きくカーブしながら進む右に十川ゴムの工場が見える。左に自動販売機を備え付けた店の手前を左に街道は曲がる。
販売機の先、車のあるところを左におれた直ぐ右手に、月見寺がある。
街道は左のお店の手前の道を左にはいり細い道を進み、その先で二股に分かれる道を右にとり、右の大きな民家のところ少し坂を上りその先でくだりになり再び右からの国道370号に合流する。
坂を下った民家の脇で右からの370号線に合流。
国道に出て宇野峠への坂道を登ります。
370号線に合流後宇野峠への坂道は車も多く歩道がなく注意が必要。
峠への坂の途中右手に 源九郎稲荷大明神と山高稲荷大明神道路を改修するにあたって新しく改装された。
宇野峠、
国道は切通になっていて、かつての旧道の峠はさらに高いところを抜けていたと想像できる。峠は現国道の向かって左の藪の中を通っていたのではないだろうか。
峠を下る途中、左の草に埋もれている 自然石の道標
宇野峠を振りかえる。
西阿田町地区に入る。峠を越えて下る途中右に平和工業がありそこで左に入る細い道がある。
集落を進む途中の斜面に 石仏
再び右からの国道370号に合流するところ左に沢山の 石仏が集められている。
合流して間もなく道が分岐するので左の道に進む。西阿田駐在所の案内板。
その先左手T字路の角に 御霊神社の石標
左の道を少し上っていくと左側に御霊神社の杜が見える。神霊宮
道沿いの小さな お地蔵さん
左の山裾に見える 行園律寺
街道沿い左奥に 常福寺
そのすぐに、国道を左に見て右の大阿太地区に入る旧道があるので入りますが。
その前に国道をすこし進み、左に大阿田郵便局がありますそこを左の山裾に(寄り道)。
郵便局の北側に鳥居と大木が見えます。
八幡神社
前述の旧道に戻り右へ入り100mほど進むと左に 大阿太村道路元標
大阿太集落を進みます。
左に 西方寺
西方寺の前で旧道が少し弓なりに迂回している旧道の名残だろうか。
道沿いの左に 祠
集落を抜けると左からの国道に合流、右に紀ノ川の上流吉野川が迫っています。対岸には河南大和街道が通っています。
左に採石場がある先で、再び国道を右に分け左の道に入る。五條市から大淀町に入ります。
国道の右側は吉野川。
左の旧道に入ります。
旧道を100m余り進むと道路沿い左に新四国八十番札所・・院の 道標二基
静かな田園の道を進み佐名伝集落に入ります。
街道より少し左に入った山裾に、お地蔵さんの祠が2つ祀られている。
佐名伝の中吉野木材市場を振り返る。吉野は昔から材木業が盛んで市場も何か所かあります。
市場前を過ぎて100m余り先、右T字路で左の集落内を入っていくと右に 浄土真宗 浄迎寺
また左を見ると 佛眼寺 いずれも立派なお寺があります。
佛眼寺の門前、道を挟んだ前に天保四年の銘が入った 常夜灯
街道に戻り進みます、佐名伝の集落には立派な旧家が散在します。また左の山一帯は梨の産地です。
佐名伝集落を抜けると右にボーリング場があります、その先GSのある辻で右からの370号線に合流します。
その左側に お堂
300m程進むと信号交差点に出ます。
右に曲がると大淀町の町中に出ますが左は370号線で近鉄の高架を潜ります。街道は真っ直ぐの右側に川のある細い道を進みます。大きな看板の向こう側です。
その先で右にカーブして川を渡ります。川より150m程先で交差点を横断します。右に大きくカーブして進みます。十字路に出ます、街道は真っ直ぐですが少し左に【寄り道】をしていきます。
左に進み近鉄線の踏切を渡り、10分ほど歩き大淀町役場の南側に神社があります。
神社の建物は大きくないが敷地は森におおわれた古さを感じます。室町時代からこの地で行われていた桧垣本と猿楽の説明が書かれています。
神社より南西に下っていくと、八幡神社の杜がかなり高い高台にあります。
もとの街道の交差点に戻り、東南に進みます。
すこし進んだ右、ブロック塀に組み込まれた 祠
少し先左に新しい 曹洞宗 薬師寺
薬師寺の横奥に 浄土真宗本願寺派 光明寺
すぐに駅前交差点です。左へ行くと近鉄吉野線下市口駅、右に行くと吉野川の千石橋を渡り、下市町を通り洞川から大峯山への道です。
本日はここで終了して、下市口駅から帰ります。
コメント