安治川海港路線

2013年7月20日

中央区平野町1丁目~港区築港
大和田街道に引き続き、なにわ橋より堺筋の平野町まで移動して天保山まで歩く
明治36年の大阪府誌より
大阪市東区平野町2丁目字堺筋国道第29号路線より分かれ、右折れして京町堀、雑喉塩橋、木津川橋を過ぎ西区天保町安治川海港に至り終わる。延長二里四十四間、幅員約二間六分にして、其の一部は人家稠密(ちゅうみつ)の街区に属し、其の他の一半は安治川南岸に頻せるを以て、海陸荷物の積卸を易からしめ、交通極めて頻繁なりとす。
元は大阪市内中心部から安治川左岸(南岸)沿いに安治川河口の天保山桟橋に至る街道とであったと思われるが、明治36年「みなと通」市電開通、や安治川拡幅や大阪港の改修整備にともない市内と大阪港を結ぶ経路は変わってきている。安治川お拡幅によりかつての天保山に至る道は弁天埠頭より下は川の底に。

     11時    スタート
    16時30分  完歩
      26.196歩  15.71km
  大和田街道を含めた 1日トータル
    6時35分スタート~16時30分完歩
        45.976歩  27.57km 

北向き一方通行の堺筋と中央区平野町1丁目交差点。
安治川海港路線起点
西南角に生駒ビルジング昭和5年、生駒時計店(明治3年創業)が建つ。石像の鷲の彫刻が印象的。

堺筋の交差点より南方向を見る

起点より平野町通りのこれから進む道

北組惣会所址江戸時代、大阪のまちは大川の北側の天満組・本町から北側の北組・本町から南側の南組という三つの地域からなっていて、大阪三郷と呼ばれていました。各組には、行政の中心となった惣会所があり、町人から選ばれた。惣年寄やその部下が幕府からのお触れの伝達や、税金の徴収といった仕事をしていた。この地域に北組の惣会所があった。

惣会所址は平野町3丁目交差点(御堂筋)の1筋と2筋手前の真中辺り右にある

 御堂筋交差点向かい右角は大阪ガスビル、左角日鉄御堂筋ビル

平野町通りを振り返る。向かい左角御堂筋野村ビル、右角中国銀行

平野町の由来は秀吉の時代に大阪の町割りの一環として平野からこの地に商人を集めたな残り

御堂筋を渡り一筋目交差点を超えた左にある 御霊神社

本神社は古来大阪市の船場、愛日、中之島、土佐堀、江戸堀、京町堀、靭、阿波堀、阿波座、薩摩堀及び立売堀、長堀の西武南北堀江の西部等旧摂津国津村郷の産土神

境内の 肌まもりの木
戦災で焼け焦げた境内の木々の中で唯一再生した「肌まもりの楠木」今では青々と葉が茂り拝むと肌によいといわれている

靭(うつぼ)の碑
御霊神社が元1,594年現在の西区靭本町にあっことを後世に伝えるため、明治27年5月に、この碑が建てられた

そのすぐ先の阪神高速(環状線)の高架を潜る。この下はかつての西横堀川の京町橋。1600年開削された土佐堀川と道頓堀川を繋いでいた堀川。昭和46年阪神高速環状線の建設のため埋め立てられた

高架の下に、此の街路灯の頭は平野町商店街が大阪城の正面に当たる道路なので特別誂え、千成秒譚を型取った記念すべき作品。

横堀川の舟着き場で荷物の揚げ降ろしに利用し、また巡航船の乗り降りにりようした場所。横堀川は今は埋め立てられ高速が走り地上はモータープール使用されているため全く昔の面影はない

高架と平野町を振り返る、高架を超えると京町堀通りに入る大阪城築城時伏見京町から移ってきた町人らによって開削された

京町堀1丁目、四ツ橋筋との交差点

京町堀通りの街並み

左に大きな 靭公園 が見えてくる

戦後進駐軍が飛行場として昭和27年まで使用していた。返還後大阪市が公園として整備。

街道は一つ南の筋の靭公園と並行して西に進む

京町堀1西交差点で公園は広い道のなにわ筋に分断される
公園はいろいろなスポーツ施設に利用

なにわ筋を超え、靭公園西端であみだ池筋を超え一つ目の信号を左に入った右手に

浄土真宗常源寺

街道に戻り少し先に、阪神高速3号神戸線の高架が

高架を潜った100mほどで左鋭角に国道172号線が合流し少し右にカーブして進む

雑喉場橋之碑 この辺り川幅約30mの百閒堀川が流れていた

向かって左側の道から来た合流地点を振り返る。右からの車道が合流していた

木津川橋
合流地点から100mほど先の木津川に架かる橋。
木津川橋は慶応4年、川口と江之子島を結ぶ新大橋として架けられた。当時、川口には大阪開市・開港に備えて税関が設置され、続いて居留地が設けられて、新しい町並みが形成されつつあった。また江之子島には、明治7年に大阪府庁が建設されるなど行政の中心地であった。明治9年には橋却など一部鉄製となり、橋面が歩道と車道が分離された初めての橋であった。

木津川橋から上流(北)

河口(南)を望む

橋を渡りすぐ先、川口交差点東南角に 大阪船手会所跡 の石碑と案内板があつた
大阪船手は、大阪湾から木津川・淀川への船舶の出入りを管理・掌握することお、大阪湾に停泊している船舶を掌握することを職務とする江戸幕府の役職で、1620年に設立された。その中心施設がこの地に於かれた。(大阪市教育委員会の説明版)

川口交差点より100mあまり進むと安治川に突き当たる。

突き当たりから振り返る。東南の角に 安治川橋の碑と説明版 がある

安治川
淀川下流の、大阪市中之島西方の堂島川と土佐堀川の合流地点から大阪湾に注ぐまでの延長7㎞は大阪湾の中心地区で各種の港湾施設と倉庫・工場が立ち並んでいる。
江戸時代初期までの淀川河口部には九条島が流れを遮る位置にあり洪水がたびたび起こり、また土砂堆積により舟運にも不便をきたすことが多かった。このため1684年幕府の命により、河村瑞賢が水路を開削し、安治川と名付けられた。その後、周辺に冨島や古川の新地開発が進められ、1698年に完成した。安治川橋はこの新地開発に伴い初めて架設された。
江戸時代末期、幕府は開国に備え、この地を外国人居留地として準備を進め、明治新政府によって明治元年大阪開港とともに外国人に競売さえ、居留地には洋館や舗装道路が造られ、大阪の文 明開化の拠点となった。
明治6年(1873)居留地の交通の便を図るため、新しく安治川橋が架けられた。この橋の中央二径間は西欧から輸入された鉄橋で、高いマストの船が航行する時には、橋桁が旋回する可動橋であった。当時の人々はこの旋回する様を見て「磁石橋」と呼び大阪名物の一つとなった。
明治18年(1885)大阪を襲った大洪水は多くの大川の橋を流し、流木となって安治川橋に押し寄せた。橋はこの流木や洪水に抵抗しよく耐えたが、市内に洪水の恐れが生じたため、やむなく工兵隊により爆破撤去された。                                                        (説明版より)

安治川の対岸と河口と上流

突き当たりから安治川を右い沿って西に進む。西区川口2丁目

マンションを左右に見て

正面の春日商事の前を左斜めに折れすぐの広い道を右へ

50mほど手前左の家の軒に 祠 

左に折れて広い道を右に折れる所右に折れた広い通り

い道を200mほど進んだところの二股広い道は左にカーブしていくが、旧道は右に、広い道の北側、安治川との間を沿って進む

国津橋バス停付近

少し(寄り道)先ほどの広い道に出たところに戻り、広い道を横断して少し南に歩いていくと お寺が集合している

本田3丁目の 禅宗善源寺

浄土真宗南宗寺

高野山真言宗増福院

霊厳寺

霊厳寺の北側に 

本田4丁目にある 祠

祠の西に 覚王寺 

その西 勝光寺

戦災で焼けたのか、新しく寺らしくない小さなお寺が比較的近くにかたまっている。
寄り道を終わり、元の国津橋バス停の2股辻に戻る

右の道に入りすぐの突当りを左へ、左角に木の茂ったところがある。昭和27年に埋め立てられた古川が安治川に合流するかつての国津橋の南詰めに「古川跡」、「河村瑞賢紀功碑」がある

左に折れたこれから歩く先の道

左の角の木の茂った中に 古川跡の碑 大阪府の防潮堤工事にともない昭和27年11月この地点から東、安治川に至る長さ750m、幅15mの古川を埋め立てた跡碑

大阪は古くから水上交通・陸上交通の要所として栄えたが、水害による被害は常に深刻であった。そのため、仁徳天皇は河内湖と大阪湾を結ぶ堀江(現在の大川)を開削して治水に努めたという。しかしながら、大阪の治水を考えるうえでもっとも特筆すべき功績は1684年、河村瑞賢によって行われた安治川の開削である。安治川の開削工事に関しては、九条島を分断し、これによって安治川を開いた。工事はわずか20日間で行われ、南岸にはこの時の土砂を積み上げ航路の目印になるようした。いわゆる瑞賢山である。河村瑞賢は次に中津川の分水工事を行い。本流である淀川に砂泥が溜まらないようにした。また土佐堀川の水を分配することで、堂島川・曾根崎川の水流を円滑にした。最後に大和川を浚渫して水害が起こらないようにしたのである。
明治44年(1911)これらの功績を讃え、正五位の官位が贈られた。その時の府知事・大久保利武は有志を募り、この紀功碑を建てた。

河村瑞賢紀功碑

安治川を右に沿って進む

阪神なんば線の高架高架のすぐの信号は長兵衛渡の信号で、ここに 長兵衛渡し が有ったのだろう

阪神なんば線を振り返る

 400mほど直線で進む

今度は、JR大阪環状線の安治川に架かる橋梁

高架手前の左にある 

橋脚下にある 地蔵と旧町名継承碑「南安治川通3丁目」

更に真っ直ぐ進む

国道43号線の高架を潜る

高架を潜ると目の前に大きな 安治川水門 高潮被害を防ぐためのアーチ型としては日本で最初の防潮堤。アーチ型の主水門を閉めるのに30分かかる

水門を右に見て左に曲がる。安治川に対し90度左に折れる

左右、倉庫や工場が並ぶ全く街道に面影がなく想像もできない

広い交差点を超える、右に曲がれば弁天埠頭前

交差点を超えて、左にホテル大阪ベイタワー、NTTコムウエア弁天ビル、クロスタワー大阪ベイ等の高層ビルを見ながら進む。

地下鉄中央線・阪神高速16号大阪港線の高架を潜る

高架を潜り1筋目、左にスーパーライフの交差点の次の信号交差点を右に折れる。信号交差点の西右角に三社神社

三社神社 港区磯路
1698年、市岡與佐兵衛宗勝が新田開発の工事の安全と成功と地域の守護神として、天照皇大神・豊受大神・住吉大神の三柱を祭神として勧請して建立された

20・21日の夏祭りが行われるので店もでて賑やか神社の南側の道を進む

左へ少し入ったところに、お寺には見えない 真宗光寿寺

磯路2丁目、右に中央公園を見ながら進む

中央公園が切れた信号のない交差点を右に100mほど行ったところの左の角にある 日蓮宗音明寺 全くお寺らしい雰囲気がない

交差点に戻り、左に、みなと生協診療所の道を真っ直ぐ進む

突き当たるにで少し左に折れ、すぐ右に曲がる

右に曲がるところの交差点、丸島金物店の前の道を西へ

夏祭りの神輿、各地区から沢山の神輿が出ている

街道より少し西に 浄土真宗唯称寺

ここを左に折れて、三先1の交差点、みなと通りの広い172号線を渡る

みなと通りの交差点を渡り二筋目の信号交差点を右に曲がるのだが、真っ直ぐ行った先、左に三先天満宮があるので(寄り道)ってみる

三先天満宮

境内の 寝牛社

元の交差点に戻り、再び西に進む

100mほど進むと交差点のすぐ先が二股になっているが右に真っ直ぐ

ここでまた街道を離れ手前の交差点を右に折れみなと通りを超えて間直ぐ少し進んでいくと(寄り道) 三津神社がある
三津神社 子供たちが祭りの踊りの稽古をしているどの地区も祭り一色だ

三津神社の参道

元の二股に分かれる交差点に戻り、その先150mほど進むと、左に谷内内科のところが二股道に分かれている(三先2丁目)右側の道を進む

この道は少し静かな道である

更に真っ直ぐ進むと、五差路に出る。街道は真っ直ぐ進む。ここで、左鋭角の細いみちを200mほど入ると、突当りが市営池島住宅34号棟。その南側に、湊屋住吉神社がある

湊屋住吉神社

元の交差点に戻り、西へ進む
八幡屋商店街に入る

商店街アーケードの中ここも真っ直ぐの道を進む

商店街を抜けると、左に港晴小学校を見て進む

小学校の先も真っ直ぐ進む

少し右、左と曲がっているが、天保山運河に突き当たるので右に曲がる

左のハイツ天保山の横を100mほど進み、みなと通りの広い道に合流(港晴2交差点)、ここを左に折れる

複雑な阪神高速4号湾岸線の天保山JCT高架したの、天保山運河に架かる千舟橋の高架橋を渡る

高架橋を渡り築港へ入る

天保山運河の南側を望む

橋を渡ったすぐ先の信号交差点(築港東)を右に折れるが少し(寄り道)する

橋を渡ったすぐのところ運河に沿って左に300mほど行けば、港住吉神社がある

港住吉神社 築港一円の氏神

祭りの神輿の練習をしている

神社より西に行ったところにある 高野山真言宗釋迦院

その隣に 浄土真宗善光寺

元の築港東交差点に戻り右に折れ、みなと通りを渡りを渡った先の道。運河は右手になる

左に緩やかにカーブし真っ直ぐ進む

突き当たるので左にほぼ90度曲がるが。突当りの公園が有名な 
天保山公園

 天保山大観覧車

左に折れたところからの道

右の天保山公園にチョット入ると

天保山
公園の入り口に立つ「旧町名継承碑」
明治4年5月安治川下流の海門南方八幡屋新田、先の牛ヶ瀬と呼ばれた地域が天保町となった。明治30年4月大阪市に編入され、西区天保町となる。明治40年4月大阪湾築港埠頭埋め立て地の一部が天保町に編入された。さらに八幡屋町地先の新地も同年7月天保町に編入された。明治43年3月天保町の一部が一条通り1丁目、2条通り2~3丁目・三条通り3丁目に編入され、大正14年4月行政区画お変更にともない港区に編入され、昭和25年安治川拡張工事により、天保町の一部が安治川の水面下ちなった。昭和43年9月住居表示の実施にともない、港晴5丁目・築港3丁目の各一部となった。町名は、1831年に行われた安治川工事の土砂により形成された小山が、天保山目印山と命名されたことに由来する。当時は20mほどの高さであったようだが、幕末に砲台を築くために削り取られ明治時代には7mとなった。その後の地盤沈下で現在は4.53mとなっている。(大阪市港区役所)

天保山の北東に架かる、阪神高速4号湾岸線と 明治天皇艦観之碑 ここが天保山

天保山の渡し
安治川に残る大阪市建設局(公営)の唯一の渡船

安治川の観光船

西村捨三像 幕末天保14年(1843)~明治41年(1908)彦根藩、政治家

天保山公園を出て西へ進む

右手に海遊館が見える

海遊館

海遊館の直ぐ先を左に折れます

右にホテルシーガルてんぽうざん大阪を、右にみて進むと地下鉄中央線の道路に突当りここが 安治川海港路線の終点 とする

シーガルホテルの海側に出る

ホテルシーガル前の海に マーメイド像
マーメイド像は、アンデルセン作「人魚姫」をモデルとして生まれた。陸にいる王子様と海にいるお姉さんの人魚姫かどちらにいくか迷っている姿をあらわしている。マーメイド像はデンマークのコペンハーゲン港と大阪港との文化交流の一環として1995年にカールスバーグ社から寄贈されたもの

起点から海遊館方向

起点から東方向、大阪港駅の地下鉄駅方向

安治川海港路線 完歩

 

  

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