2011年12月8日
本郷~西条四日市
ホテルを7時20分に出て7時30分スタート。今日は少し早足で進まないと明るいうちに西条までは苦しい。まして峠越えで半日は山の中を歩くので明るいうちに着きたい。朝から小雨で午前中雨の峠越だから雨はつらい、だが街道らしい雰囲気の道で国道2号は歩かない、瓦峠と松子山峠は厳しかった。幸い強い雨でなかったからよかった。西条には4時に着き時間があったので少し見学する。
今日のホテルは駅から20分程歩いたところの東広島グリーンホテルモービルは料金も安いし接客が素晴らしく落ち着いた最高のくつろげるホテルであった、山陽道・長崎街道を歩いた中でも私にとっては満足したホテルでした。一人旅をしていて癒された一泊であった。
後日お礼の手紙も来ていた、機会があればまた泊まりたいホテルの一つです。
本郷 7時30分 スタート
四日市西条宿 16時40分 着
46.699歩 28.01km 2.053kl
昨日の恵比須神社の辻よりスタート
少し西に進んだところ右に入ると右手に 両面地蔵

その先左に 浄土真宗本願寺派寂静寺

本郷宿を振り返る、朝早く小雨模様なので薄暗い街並み、でも落ち着いたのどかね街並みで気持ちがよい

本郷宿も終わり沼田川の本郷橋に近づくと 石碑が建っていたようですが何か分からない、沼田川沿いの地方道がここ本郷橋東詰で交差します

本郷橋東詰信号交差点手前左に 大師堂と前の錦山神社


大師堂の傍に大きな 燈籠

沼田川に架かる本郷橋を渡ります、橋から右手(北)を見ると朝靄で霞んでいるが沼田川を挟んで、向かって左に 新高山城、右に古高山城 が見えるが、残念ながら雨模様でかすんでいます


古高山城址(国史跡)

新高山城址(国史跡)

源氏の土肥実平と子の遠平が、平氏方の沼田氏が滅んだあと地頭職として治め、遠平の孫茂平がここを本拠として小早川を名乗り高山城を築いた。茂平はさらに承久の乱(1221)の戦功により西の竹原の地頭職も与えられた。茂平の嫡子雅平が沼田小早川を弟政景が竹原小早川と称した。応仁の乱では沼田小早川氏が東軍細川氏へ、竹原小早川氏は西軍山名氏・大内氏に味方して分かれ、高山城を中心に6年に及ぶ攻防戦を繰り返した。
高山城は標高190mの山頂に築かれた要害。戦国期に入り、竹原小早川氏の養子に入った隆景は、沼田小早川繁平の妹と結婚して両小早川を統合した。隆景は天文二十一年(1552)高山城の対岸に新高山城を築き拠点を移した。
新高山城は中世の山城から近世の平山城への移行していく城としての存在。山頂部の本丸跡は、東西幅100mを越す広さを持ち、眺望も素晴らしく眺められるという。その後、前述の三原城に移ることとなりました
本郷橋を渡った川沿いをすこし上った右に
三基の道標 「弥生本郷遺跡跡」「新高山小早川城址道」 「経塚 ・・・・・・」

道標のところから本郷橋方向を見る、橋から少し上流のこの辺りが 渡し場跡

良い天気ならいいのだが 新高山城址、切り立った山で攻めるには非常にむつかしい

街道からの懐かしい原風景

その先の分岐を右に入ります、左側には小早川歯科医院があります。右に入る左角に三宅石材店があります

山際に 石碑 が並びます

すぐ先左にカーブしたところを右に少し入ると 荒神社

荒神社の手前を右に入ると

菅公手掘井戸
1100年ほど前、菅原道真が九州大宰府に送られる途中この地によると水不足で困っていた、見かねた道真が自ら井戸を掘ると、綺麗な水が湧き出て人々を救った。その恩を忘れないように近くの丘に、甑天満宮を造られ祀られ、今も水が湧き出ている

荒神社の西側に 甑(こしき)天満宮 甑とは蒸し器のこと、人々がお礼に甑でご飯を蒸して道真をもてなしたという

街道に戻ると、街道沿いの安政三年の 燈籠

すこし進むと右手に 牛神様の祠

すぐ先右奥に 浄土真宗本願寺派常法山専教寺

専教寺の先右に 浄土宗心光寺 門前に 祠
石垣は江戸初期の「穴太積み」で白壁との調和が往時を偲ばせています

向かい街道左に角に 道標 「南小泉忠海 東本郷三原」の銘
心光寺の先で宮地川に突き当たるので右にカーブします、カーブする左角に景山ふとん店があります

左の宮地川沿いに少し進むと、右に進む道があり右手前角に

道標 「よこみ寺跡 右は高木山城址」

小川に沿った道を入ってみます、道の西側は本郷中学校があります
中学校の東側水田一帯は白鳳期の 横見廃寺跡(国史跡) 広島県最古の寺院

中学校のフェンスに沿った北側の道を回ると

中学校の西北の角を北に少し上ったところに 宮川神社(山王社)創紀年代は不詳だが古代文化の時代にはあったとされる古社

長い石段を上ると社殿があります

神社の西側50m程のところに 梅木平(ばいきひら)古墳
県内最大規模の横穴式石室をもつ円墳で七世紀初めごろのものと推定され、この地方には古墳がたくさんあり、古代国家成立期に高い文化があったことを物語る


巨石で築かれた横穴式石室内には十分入れる規模

梅木平(1号)古墳南の南西下の民家の西端に半壊した 横穴式石室(梅木平2号古墳)があります

本郷中学校の西側の道を南に下り街道に戻ると、街道角に大きな「史跡 梅木平古墳入口」の看板が立つ

梨羽城址の案内
古墳と共に沢山小さな城址(砦)があったようです


本郷町上北方地区に入るとやがて宮地川が右に梨和川、左に尾原川が分流しています。
街道は真っ直ぐ進み梨和川に架かる二羽橋を渡り西へ進みます。
二羽橋の西詰に 一里塚があったといわれるが跡がわかりません

川は分岐しています手前左の橋は、宮地川に架かる北方橋

南方に入り、宮地川から尾原川に名前が変わった北側の旧道を進みます

暫く右の山裾の旧道を進みます

雨がほとんど止んだようですが、どんよりとしていつまた振り出すか分からない空模様。この先、峠越えがあるので少しつらいが、車も通らないし静かな山里を進んでいきます

右手山裾に 祠

右に 祠

祠の少し先左に 梨羽高等小学校跡の碑 があります


その先左に尾原下集会所がありますその向かい街道を挟んだ先、山裾野の斜面に石造りの小さな 祠のお地蔵さん

さらに暫く進むと左の街道沿いに 五体の地蔵さん


五体の地蔵のすぐ先右に、南方老人集会所
集会所の前に 南方村役場跡の石碑
明治22年村役場が置かれ、昭和29年本郷町に合併されるまで、地域の中心施設となっていた。役場跡の北側に、かつて 藤棚の茶屋があり西国街道の茶屋として親しまれていました


直ぐその先左に南方郵便局を見ます
振り返ってみる案内板

郵便局の少し先に 「史跡 御牟代古墳入口」の案内看板

街道右に 道標 「御年代古墳」

少し右の山裾を上っていくと 御年代古墳(国史跡)

横穴式石室墳として唯一国史跡に指定されています、石室内は2基の家形石棺を納める他の例を見ないという。古墳付近は開墾されており墳形式が確定されていないが、方墳であったと推定。築造時期は7世紀半ば以降と推定されています。


街道に戻ったところからの御年代古墳全景

左下の国道を見ながら山陽道は蛇行しながら進みます

御年代古墳から300m程先を進むと右に「史跡 貞丸古墳」の看板があります



看板の標識を右に入ると 大日堂


大日堂の北側に 貞丸2号古墳(県史跡)周囲が開墾され墳丘の形式はわからない、規模は1号2号とも同じぐらいで、共に7世紀前半頃のものと推定されています

大日堂より西に入ると 貞丸1号古墳(県史跡)
この古墳周辺も開墾されていて墳丘の区別が難しいそうです。墳丘も壊れそうなので土を盛って修復されたようです。古墳は1号と同じく7世紀前半頃のもの


石室を修復して中に石棺を納めた

大日堂の右奥に沢山の お地蔵さん が集められています

貞丸古墳から街道に戻り暫く進んでいくとこんもりとした杜が見えてきます
こんもりした小山の杜は、もともと二本松古墳でその上に宗永神社が鎮座しています


右側に 宗永神社 です 石段を上り鳥居を潜りますと簡素な拝殿があります

拝殿


境内に 二本松古墳の石棺 があります石材は流紋岩質擬灰岩で兵庫県高砂産の龍山石です。石棺に蓋石の形状で家形石棺です縄掛突起があります

集落も途切れ山際の快適な旧道を進みます


短い旧道を進むと、その先で道は消失しています、ブリキ板塀のところで左に折れて国道に出ます

すぐ国道二号線に下り合流します、右に折れると追分バス停があります

バス停より少し先で左に入る道があり角に追分温泉があります。この道を入っていくこと7㎞程で行ってみたいところの一つで竹原市へ行けますが、ちょっと遠く交通の便も悪く無理です

追分温泉を振り返る、国道は右に大きく弓なりにカーブしながら進みます

追分から800m程国道を進むと、国道から分岐して左の日名内川を渡り、左の山際の旧道を進みます。
資料によるとかなり荒れているようで、年中ジメジメした道で夏場はマムシが多く注意が必要とのことです。私は蛇が何といっても嫌いで、絶滅してほしい一人ですが、そのため11月~12月に峠越えを歩くこととしました。雨はやんだがかなり湿っていることは覚悟しなければ
ここで国道と分岐して左に入ります、左の山裾に沿った道がついているのが見えます

今のところは快適な旧道です、右は国道2号線

歩いてきた旧道を振り返ったところ

国道より左に入って260m程の所で道は3筋に分岐していますが真ん中の道を進みます。さらに100m程先で左に急カーブしています

いままで良好な道であったが急に怪しくなってきました。日名内川が少し右手を同じように沿って蛇行しながら進みます。右に滑り落ちないように注意


途中石組も残っているので、かつての街道跡を物語っています

足に優しい旧道に変わりました

すこし雑木や倒木で荒れていますが思った程でなく安心しました。このような道は旧道歩きでは何時も、もっと凄いところ何度も経験しています

400m程雑木の間の道を進んでいくと左に民家があります。民家の見える視界が開けたところに出ると道が分岐して、右に60m程進むと国道に出ますが、左の道をとり民家の北側への道を進みます

一軒家の大きな立派な民家です

山際の旧道をでてきました、雑木道を振り返ったところです

民家の北側への道を下ってきたところで振り返る。山と山が重なる辺りから歩いてきました

民家へ通じる舗装道が右で、街道は左の地道です。ここから500m程西に進みますとサテライト山陽という場外車券売場に出ます

急に道が荒れだしました、倒木と雨後なので歩きづらい。当然装備は万全を喫しています


冬場でこのような状態だから、歩く場合は夏場や秋口では複数で歩くことをお薦めします。もっと藪がひどくなる時期は道が隠れてしまうことでしょう。この間は国道を歩くことをお進めします

ようやく左に池がある北側を回り込むとサテライト山陽の東側の下に出ました

ここを乗り越えればOKです

国道2号線沿いで大きなサテライト山陽の建物、競輪場外車券売り場だった。全国の競輪車券が買えるそうです

このような場所に人が集まるのかとチョット戸惑いました

建物の外から今来た方角を望む、サテライト山陽の街道沿いに山陽道の 日名内一里塚跡 があったそうですが場所の確定はできません

サテライト山陽からこの先の瓦坂峠越の道、雨が完全に止まなくちょっと心配です。とにかく四日市(西条)まで進まなければ、正面の国道2号線の日名内(上)信号交差点に出ます。

交差点近くからサテライト山陽を振り返ったところ町の中でもなくどう考えても理解出来ない

国道2号線を横断して北西の道を進みます本郷町善入寺地区この道路は本郷大和線、空港取付道路で信号より800m程重複して進みますと

側溝に沿って右に入る道があります。右に旧山陽道の板表示が立っているのでここを右斜めに進みます
この先、瓦坂峠越をするまで民家もなくちょっと心細いですが、とにかく前に進まなければ

100m程先で左T字路の道がありますが、真っ直ぐの西への道を進みます。
ここで念のため草道で雨に濡れているので、レインコートのズボンとその上からズボンにスパッツをして装備します。
付替道路の分岐から350m程進むと、付替道路が急カーブして北に方向を変えたため、その高架下のトンネルを潜ります
いよいよ瓦坂峠への道です

トンネルを潜ると旧道は草に覆われて隠れているところがあるので注意しながら進みます。この道も夏場から秋口は歩くにはチョット無理があるかも

先を思わず想像してしまいます、雑草でトンネルの入口が見えない

まだ峠の入り口なのにこのような状況、大丈夫か不安になってきたが、旧道が消失していて迂回することになれば前述の日名内上信号まで戻らなければいけない。
万一のことを考えて迂回の資料は持参しているが、とにかく行けるところまで覚悟は決めた。
この季節、熊や蛇・蜂もいないから道に迷わないようにだけ注意する。このような道は、一人ではやはり心細いが今までも何度も経験しているが
冬場なのにこのような状態です、殆んど道は隠れています、腰の上あたりまで茂っています

微かに道らしい踏み跡がありますので慌てずゆっくりよく注意しながら道を間違わないように進みます

やっと 瓦坂峠 です、雑草が茂っていなければそれほど厳しい旧道でない
高架下から距離にして500m程で大したこともなく高低もあまり感じないので、手入れさえして有れば平凡な快適な旧道になると思うが、
何年か前に歩いている先人の方の資料の写真もこの倒木が同じように撮れていたので、峠の象徴として残しているのかわかりませんが、同じ状況だから手入れはされていないのは確かなようです。このままでは何時の日か、この歴史ある旧道も消滅してしまうでしょう。反対に少し手入れを加えれば素晴らしい街道に変わると思うが(三者的に言って済みません)

瓦坂峠は
三原市と竹原市の境界で、かつては関所跡や茶店があったという。また峠名は 河原坂峠・関屋坂・十三峠・チョンマゲ峠とも呼ばれたそうです。峠の西側の下りには、駕籠場跡などがあったらしい。
広島城下から 十三の峠があるということで峠名が付いた

峠より下りに入ります、旧道跡もはっきりしています

下りも草や荊がありますが上りより比較的ましです

素晴らしい旧道に変わりました

見晴らしも良くなり、道も落ち葉で柔らかく快適

石畳の旧道 なのだが落ち葉で隠れています、前方に集落が見えてきました

小さな橋があるところから来た道を振り返ったところ、この辺り石畳道が見えます。
竹原市新庄町地区の集落に入ります

峠の間は降らずに助かった雨がまた降ってきました

坂の途中で振り返る

現在 11基の横穴式室墳が確認されている、6世紀後半の築造から7世紀前半のもので地域首長の墳墓といわれています

右に 横大道古墳群を眺めながら下ります石垣が沢山積まれています

横大道の集落に入りました。この辺りは山に向かって重層的に石垣が重なり段々畑になっています

集落内左に 横大道のお地蔵さん
江戸中期の寛政七年(1795)三月二十四日の銘、台座には法界と彫られている。または「雨乞い地蔵」と呼ばれています。集落の人々に大切に守られてきて、花も供えられています

横大道(よこだいどう)という名は、葛子川を大道がが横切ることからついたという
その先右に 道標 「東大坂 西広島 道 南竹原 北三次」
古代山陽道以来のみちであった。横大道の集落には江戸末期から明治中期まで50軒ほどの家があり、茶屋や旅籠、人力車もあったそうです


十字路の左角に上新庄自治会横大道会館があります。素晴らしい街道の雰囲気のある緩やかな下り坂の集落を振り返る

すぐ先で432号線の横大道信号交差点を横断します。さらに西に100m弱進むと、葛子川に架かる横大道橋を渡ります

左斜めに進み、すぐ先の分岐を道なりに川から離れ右へ進むと西野町の集落に入ります

橋を渡って振り返り瓦坂峠の遠望

すぐ先右に石をくり抜いた穴か 石仏

旧道らしい雰囲気で北側に石垣が続く宝器ちくから末京へと山裾の道が続く


左に荘野小学校周辺の町が見えます

その先橋を渡った左袂に お地蔵さん
西野町にある街道沿いにあるお地蔵さん。道に背を向けて鎮座しています。

台座は 道標 「右 竹原道 左 上方道」
この地蔵さんの向こう側の角石碑が建っている辺り、かつては西野村と新庄村の村界
船谷一里塚跡 があったが今は跡形もないが

少し進んだ右角に 六十六部供養塔

右手に 廃寺林光寺跡 がありますが何もない
さらに進むと右手に、綺麗な竹林の 水ヶ谷神社の参道 があります

何か独特な不気味さがあります


自然石を組み合わせた 常夜灯

参道入口に戻り街道を西に進みます
少し進むと左に賀茂川に沿って湯坂温泉郷があります、ここで賀茂川が南に、温泉郷の手前国道2号線との間で、田万里川が西に分流している、湯坂温泉で宿泊してゆっくり温泉につかるのもいいが、歩く区間のタイミングが難しい


湯坂温泉を左に見ながら一段高い山陽道を進みます

右手高台に石垣の積まれた塀の綺麗な大きな立派な家があります

街道を振り返ったところ

右手に小さな 祠

小学校跡にある 里のお社

さらに右手の石垣の上に 石祠

石祠の前から街道を振り返る、雨も止んだので歩きよい

やがて左に折れて国道2号線の西野町の大橋信号交差点を横断し

信号より100m程先で田万里川に架かる大橋を渡ります。かつては土橋であったそうです

大橋を渡りすぐの堤防道を右に折れます

暫くは左の山裾の静かな旧道を進みます、右手には田万里川が沿います

左に 田万里往還の表示、この辺りの山陽道は 田万里往還 というのかも

途中街道から振り返ったところ

左の山が 末徳師古城址(山頂) の案内板


左に瓦の乗った立派な 祠

その先左に いぼ地蔵の祠二つ


左山裾に往還の名水 茗荷の清水


茗荷の清水の前から街道を振り返る

その先左山裾に 祠

田万里の集落に入ります
【間の宿 田万里】
本郷宿から四日市(西条)宿の間が六里(24㎞)と山陽道で宿間が最も長く、その上途中に瓦坂峠・松子山峠と厳しい山道の連続で旅人は難渋したという。
旅人は朝薄暗いうちに、本郷宿や四日市宿を立った。その中間にある間宿田万里は旅人の小休止の場所として茶店も多く賑わったという。本郷宿や四日市宿の本陣が込み合ったときは、参勤交代の大名はここの本陣伊藤家で宿泊したと伝っています
宿の東の入口は左に急カーブした 鉤の辻 で突当りの家は 旧田万里宿の旅籠跡

左に折れた右の次の家は 旧田万里宿伊藤家本陣跡
明治時代最初の郵便取扱所であった

本陣跡の隣、街道右手に 市恵比須神社 正面左に大きな田万里小学校初代校長 高橋諤志先生翁顕彰碑

市恵比須神社前から宿場を振りかえる


静かな山村の旧宿場内の街並みを進みます

左に 辞世の碑 があります 「世の事・・・・・ 秋月」


宿も抜けて進んでいくと左に 滝荒神社


奥の山際に 荒神の滝が見えます

滝荒神社の前の右の橋を渡ると100m程で、国道2号線の田万里信号交差点に出ます、街道は右の田万里川に沿って進みます

その先右手の斜面に小さな 祠 が見えます 黄幡坂一里塚跡 この辺りに一里塚があったと伝わるが痕跡がない

緩やかな 黄幡坂を上っていきます

右手に 西立寺 が見えます、その向こう国道の北側に田万里小学校が見えます

そのすぐ小川の手前左に 横穴のお地蔵さん

横穴のお地蔵さんの前の街道を振り返る

人や車とほとんど会わない静かな山里の長閑な旧道

山陽道と分岐する右への川沿いの道の左角に立つ案内 高屋溝口への間道堀坂道と刻まれています。
山陽道はこの右の道を行かずに、左の真っ直ぐの道を進みます

左への道

この角で地元の方と会って少し話す、写真撮ってあげるといって頂いたのでめったにない記念写真を撮ってもらうが、相変わらず少し間が抜けた容姿、雨が降っていないが雨具のまま、この先の峠を考え重装備のまま進みます。でもこれだけ歩き続けて疲れた様子がないのが私の取り得

その先で国道2号線まで300m程進み、田万里橋信号交差点に出て国道を横断せずに、国道の歩道を左に100m余り進みます

田万里川の手前を左に下り、右に川を沿いながら西南に進みます

銀山橋の付近

ここを左に下ります

すぐ右に 酒造の名水 手島家の井戸の看板


右の田万里川に沿ってどんどん上流に緩やかな坂を進みます

長閑な里山の風景で飽きることがない街道 広島県に入って山陽道は瀬戸内海の海岸より離れています

左のすこし高台に 石立神社 落石の伝説があるようです



右(北)側の国道沿いに 熊野神社 が見えます

山裾の街道をくねくね曲がりながら坂を上っていきます。途中から振り返ったところです

右に棚田が広がります
この辺りに街道を歩く旅人の喉を潤した 茗荷清水跡があったのですが見落としたようです

向かいの棚田 風呂ヶ迫縄文遺蹟の表示

右の見える国道は結構きつい坂を上っています

この付近で 田万里往還(山陽道) が終わりです振り返ったところ、左に案内表示
これよりとは今歩いてきた方向の道


ハッキリわからないのですが、この辺りで竹原市と東広島市西条町の市境です。
市境の辺り国道2号線は上下線が二本に分離しています。市境から650m程進んだ先で、右に南側の国道の下り線を高架橋で渡るところに出てしまいました。途中350m程戻ったところ民家の数軒集まったあたりで右(北)に折れて国道を渡り、国道の北側に出るのが旧道のようです。その近く左に旧山陽道茗荷清水跡の碑があったのですが見逃しました。
もう一度確認しようと350m程もどり数軒ある民家で数人話をされていたので聞いたところ、ここ辺り右に入る旧道があったが、今は車も多く国道の上下線を横断するのは危険だから、迂回した方がいいと教えられました。当然地元の方の注意を聞かなければいけないので、また戻り高架橋を渡り国道北側に迂回しました
この写真の位置が何処かチョットわからない、右にあったようです 赤瓦秞薬原料油土の製造所跡 文政年間:西条赤瓦のルーツ


南側の国道の高架道を渡る

渡ったところで、すぐ左に折れて200m程進んだ先で右にカーブして、北側の国道の高架下をトンネルで抜けます。抜けたところで右に折れて国道に沿って200m余り進み左にカーブしますとすぐT字路に出ます。T字路を右に折れて300m東に進むと、北側の国道に突当り、前述の失われた旧道の北側に出ます
T字路を右に折れて300m余り進み、国道に突き当たる旧道。国道はガードレールで渡れなくしています。再びここからUターンして旧道を進みます

旧道を上ってくると右に、上三永第一会館があります。振り返ったところです

会館の向かいに 石立大明神社

今来た途中の市境の田万里にあった石立大明神と各々勧請されたそうです

神社の東側で前述のT字路に出ます、右に大きくカーブしたところですぐ道が分岐するところ右に墓があります。旧道は左へ田尾池の方向に進む。広い方の舗装道は産廃の作業道、この先で行きどまりです

いよいよ難所の 松子山峠 への道に入ります
左に、田尾池・上池と並んでいます旧道は池の東側から北:西へと大きく巻いています

この辺りの道は舗装されています

左右に池がありその間の気持ちいい道が続いています

やがて東広島呉道の高架の下にでてトンネルを潜ります

高架下から振り返ったところの眺望いつの間にか結構登ってきています

高架下のトンネルを潜ると、すぐ自動車道に沿った道路がありその左に
日向一里塚跡
小さな塚が二つ並んでいます、道路改修工事で移転一部復元したようですが、よく見なければ草で見逃す可能性があります

トンネルを越えて真っ直ぐ西に進む少しの間舗装された細い旧道があります。車が二台道を塞いでいます、何をしているのだろうか。
ここを入っていきますが、その前にここからが少し大変で、年中ぬかるんでいる道を進むそうです。
資料を見させていただいている、街道歩きのスペシャリストの関東にお住いの「一歩さん」の資料の中にスーパーで頂けるビニール袋を何枚か持っていて、それを靴から覆い歩くと靴や靴下が濡れずに済むとのアドバイス、少し滑るのに注意して歩けば素晴らしいアイデアで靴下や靴がズクズクして気持ち悪いのが後からなくなる。
長年街道歩きしていて気が付かなかったが、ありがとうございました。機会があれば一歩さんに一度会っていろいろお聞きしたいと思います。必ず新しいの予備に一枚持っていて、終わった後は袋に入れて持ち帰ることが大切です。(くれぐれも山に捨てないでください)
靴をカバーした足元、もう少し脛辺りまででもよいかな。準備万端峠に向かって上ります。念のため鈴も鳴らしながら歩きます。もちろん笛も

なかなか現在地の場所案内が難しいので写真で想像してください

かなり倒木もあり荒れていますが、踏み跡がハッキリあるので大丈夫です、でもぬかるみ道に足を取られ、木の上に乗るとどうしてもビニール袋で滑りやすい、そちらに気を取られ道を間違わないように細心の注意


ぬかるみと倒木で大変


倒木とぬかるみ道を進んでいきます、足元がかなりぬかるんでいます



水溜まりは酷いですが、それ以外のところも枯れ葉で分かりませんが何処を歩いても、足がぬかるみます



ぬかるみを脱したようです、かなり傷んできましたが大丈夫、靴カバーの袋も破れ健闘の跡です


左に池の所迷いやすい場所です、左の崖のようなところに案内表示があります。木の手摺があって、その先のコンクリート壁をよじ上り、池沿いの道に出るとよいです

この擁壁をよじのぼり続いている旧道に出る


池の北側の上の道に出ると、旧道らしく道がしっかり見えてきます

湿地帯も終わり快適な道に変わりました

ホッとした胸をなでおろした瞬間です


松子山峠 に着きました
1人で12月だからこそ歩けたものの、温かく気候が良くなると一人では避けた方がいい、年中泥濘の上、熊・マムシ・蜂・やぶが等に悩ませて危険。グループ歩きがお奨めですね。

旧山陽道松子山峠の碑 峠からの見通しは良くないです


下りになります、街道景色が一変快適

雨の後なので枯れ葉も水を含みかなり歩きつらい、北西に向いて歩いています


ここの分岐は左への下り道を進む

左を下るとまもなく舗装道路が見えてきます

舗装道路に出た辻で右(手前)に折れます。
この道は万一旧道が歩けない場合、元の場外馬券売り場に戻り国道を暫く進み迂回してくる道がここで合流しています。万一戻る場合は大変でした。一応資料は準備していたが使わずに済んでよかった
ビニール二重にしてよかった、一枚目は敗れてズタズタです。

誰もいないし自分でこのヤッターという達成感の満足な顔を写す
難所の一つ松子山峠を無事完歩しました、万歳

冬場だから熊も冬眠に入るところと思うが、念のため鈴を鳴らしながらこのような寂しい道を歩くときは心強い

峠道から出てきたところです、この先、舗装道を歩きます

難所の一つ松子山峠を無事完歩しました、万歳
坂を下っていきます


案内表示があります、西条駅の道を進む

すぐ先左に かご松の碑 街道筋に巨大な松があり参勤交代の殿様もここで駕籠を止めて休憩したという。昭和18年枯れ死したそうです

かご松の碑前の旧道を振りかえる

その先右に松子山浄水場があります

その先住宅地が広がる

すこし進んだ先で大平川を渡ると左に 今宮神社(牛宮神社) 牛にまつわる伝説があります

やがて右から原比川が接近してきます西条町土与丸地区途中 歌謡坂の一里塚跡碑(うたうたいさか) があったようですが見逃してしまいました。(原比川の堤の上の民家の前)ホッとして気が緩んだのでしょう

原比川に沿って進んでいくと、少し広い交差点を横断して、その先60m程で左からの道と合流して、右に原比川に架かる橋を渡り西に折れて左に川を見ながら5m程進み375号の吉土実信号交差点を横断します
交差点手前右手に木阪病院があります


吉土実信号交差点

この辺りから【四日市宿】に入ります
四日市宿は、山に囲まれた西条盆地の宿場町、かつて国分寺が置かれた安芸の文化の中心地。
戦国時代には厳しい戦乱の地でもあった、大内氏・尼子氏・武田氏・毛利氏の確執で、広島城下まで約20㎞。現在の東広島市西条(旧四日市宿)は灘と伏見に並ぶ全国有数の酒処で酒醸造場が並びます、江戸時代は四日市と呼ばれ宿場町として、街道沿いに本陣はじめ多くの商家や旅籠が並んでいました。酒蔵の白壁、赤レンガの煙突、商家の旧家の建物と宿場の面影が残る街。

交差点を越えて街道は少し右斜め(北西)に方向を変えて進む、左にサムエル西条保育園を見て100m程進むと、中川に架かる橋を渡ります、西条(旧四日市)の市街地です

土与丸交差点を横断して直ぐの分岐を、左(西)に折れて進むと一筋目の右に 賀茂鶴吉富蔵の赤レンガの煙突がある工場

その角の筋を少し右に入ると 臨済宗建長山大林寺 鎌倉時代創建の古刹だが一時廃寺となっていたが
江戸時代お堂がつくられ再興されました

六地蔵 寛政三年(1801)の着色された


酒蔵通(山陽道)りに入りますと左に 賀茂泉酒造 大正元年創業、米と米こうじのみで造る純米酒を戦後全国でいち早くはじめた 「次郎丸井戸」所有

賀茂泉酒造のすぐ先を左に入ると正面に 酒泉館・藍泉館 日本酒の飲み比べができる、私は下戸でダメです

正面左に欠けた 道標 「左 竹原 右 四日市」

日もだいぶん陰ってきました

右手に亀齢酒造の前に 万年亀井戸

亀齢酒造 辛口のお酒を造る蔵元


亀齢酒造と西条鶴酒造の間を右に入ると お地蔵さんと祠

突当りに、規模の大きな本陣があった、明治に入り取り壊され本陣御門が復元された門の下の石積みに江戸時代の乱積が一部残る

四日市(御茶屋)本陣跡 立派な本陣門、本陣に向かって右奥に 賀茂鶴酒造が見える
広島藩の9か所あった最大の本陣。明治時代に取り壊され本陣御門だけっ復元された

街道に戻り少し進むと右に 西条鶴酒造

西条鶴酒造の前に 「江戸天保井水」碑 江戸時代の天保年間に掘られた井水


すぐ先左に 白牡丹酒造 延宝三年(1675)創業、県内で最も古い酒蔵、「白牡丹」

前に白牡丹酒造の 冥加の水


白牡丹の延宝蔵(日本最古)が美しい、西条の酒造り発祥の場所。


西条駅の南側の広い道路の交差点の辻はかつて 宿の桝形跡 道路改修までは残っていた。
この付近には 御制札場(高札場)跡、賀茂郡用所跡 は7人の庄屋が交代で年番を勤めていた、また四日市脇本陣がありました。
ほかにも、亀齢酒造の手前の道を北(右)に入っていくと、大正六年創業の 福美人酒造 優秀な杜氏を育て全国に送り出している 「西条酒造学校」 とも呼ばれた、「恵比須井戸」所有。
加茂鶴酒造 広島を代表する酒蔵。吟醸酒造りでは全国のトップクラス、白壁の酒蔵群洋と洋館建築が綺麗、「福神井戸」所有
JR西条駅

西条駅16時40分着、時間が早かったので市街地を見学しました。これなら十分小早川隆景公の墓のある米山寺に寄れたが、峠越えの道があったので様子がわからなかったので仕方がなく諦める。(後日萩往還の時見学した)
見学後、本日の宿泊ホテル西条駅前の広い道を真っ直ぐ南に350m程のところにある東広島グリーンホテルモーリスへ。安価宿泊料で設備や接客が素晴らしく良かった、高額なホテルには泊まれない中で山陽道歩いた屈指であった、機会があればまた泊まりたいホテルでした。本日は終了


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