2011年12月12日
宮内串戸~関戸
岩国プラザホテル6時20分出発、宿泊施設がないので仕方なく岩国まで移動した。今日も岩国の同じホテルに連泊。JR岩国駅6時25分に乗り昨日の宮内串戸駅へ戻り、7時10分前日の起点よりスタート。
資料からすると今日は峠越えが多いようです。当初予定より1日遅れています。
結果本日も国道は殆ど歩かないので助かった、山陽道は国道に平行しているが重複する期間が少なく趣のある街筋が多く残っていて快適です。峠越道も心配したが道は荒れているものの歩けるし旧道に浸りながら歩けます。
心配した苦の坂も通れたので迂回道で遠回りしなくて済みました。
本日も中途半端ではあるが、宿泊・交通の便を勘案して関戸宿で終わります。
関戸宿から街道をそれて3km程歩いて岩国城を見学し、岩国城からバスで岩国駅前のホテルへ。よく歩きました
宮内串戸駅前 7時10分 スタート
関戸宿着 15時35分 着
56.903歩(岩国城見学も含む)34.14km 2.523kl
7時10分宮内串戸駅前の起点を南へ、12月の七時はまだ薄暗い

駅前から南に100m程進んだT字路を右に

右に折れて西への街道を進む、左に御手洗川が沿い御手洗橋、大方橋と続きます。その先で国道2号線西広島バイパスの高架(左廿日市IC)を潜ります

さらにその先230m程で山陽新幹線の高架を潜ります。暫く進むと左に玉野井橋があります。そこから少しで左に

西国街道壱里塚跡碑 大きな立派な碑です

街道を挟んだ右(北)側に 浄土真宗本願寺派専念寺 境内にかつて 御茶屋があったらしい

すぐ先で地方道の宮内交番前信号交差点を横断します

横断して川沿いを140m程進むと、一つ目の橋、左に御手洗川に架かる砂原大橋がありますので左に渡ります。街道は海岸線を通らず少し内陸部を歩く、宮島付近の海岸線は山が迫り通れなかったからだろう

砂原大橋を渡り南西に進むと左奥にJA佐伯そのすぐ先右に、ココカラファイン宮内店があり左からの地方道が合流します。合流する左手にダイソウがあります

合流したすぐ先の六本松団地入口信号交差点を左に折れます。左手前の角にはスズキがあります。この先暫く地方道を挟んで蛇行しながら進んでいきます

左斜めに進みすぐ右に折れて、大きなマンションの前の地方道に合流します

すこし地方道を進むと、宮内工業団地入口信号交差点があります。その少し手前から右斜めに十字路を横断して60m程進み左に折れて地方道に合流します

地方道に合流した向かい左にファミマがあります。車が多いので注意しながら横断すると、地方道の左(南)側に少しだけ迂回する道が残っていて、すぐまた地方道に合流します。地方道を90m程進みますが、途中右にコーヒーハウス田、前に佐原田バス停があります

すぐ先にオートショップがありその手前を左斜めに入る道があります。左手に佐原田公園があり100m程で再び右からの地方道に合流します

再び車に注意して地方道を横断して右の旧道に入ります

すぐ右に 佐原田権現神社 があります

神社から50m程先で左からの地方道に合流します。地方道のすぐ先、四季が丘南口信号交差点を越えて、50m程先でまた右に70m程の区間迂回する細い道があります。そして左の地方道に合流して、50m程進んだ先で、畑口橋信号交差点に出ます

今までのこの間、説明も難しいような地方道を挟んで、左や右に進む旧道が残っているようです。いかに旧道は蛇行していたかよくわかりますが、道路改修で消えてしまわなかったことだけでも有難いです。私が歩いた道が旧道跡かは分かりませんが、また歩いて気が付いたら教えてください
右に大きくカーブして畑口橋信号交差点で分岐しています。右の道は県道30号線で山陽道と途中186号線と合流して山陰への津和野街道との分岐で「津和野岐れ」といわれました。
ここの分岐に道標があったが移設されているようです。山陽道は左の道を進みます

この辺り高速道の改修により旧道はよくわかりませんが、かつての旧道、津和野岐れは交差点から山陽道を左に入り、すぐのところで右に分かれていたようです。今はその痕跡はありません。道標もこの分岐にあったのだと思います
津和野岐れ夜泣き石
左に入った右手に「夜泣き石」南無阿弥陀仏と彫られた供養石があったのですが見逃してしまいました。江戸時代この岐れに三角形の自然石があって、この石から毎夜、赤ちゃんの泣き声が聞こえてきたそうです。石塔を建て、ねんごろに供養したとこ泣き声が聞こえなくなったということです。残念ながら見逃してしまいました
この先歩道がないので車に注意しながら坂道を上っていきます。右にジャパン廿日市店エスエスがあります。暫く坂を上っていくと、右から山陽自動車道・左から広島岩国道路のバイパス高架道を潜ります。廿日市JCTです

車に注意しながら上っていくと、山陽自動車道のトンネルを潜ります、JCTなので旧道はなくやむえない。山陽自動車道の西側にでます。街道歩きをしていて滅多にトンネルを抜けることはありません

トンネルを潜り左の山陽道に沿って坂を上っていきます、歩道もなく見通しがよく車は猛スピードで通り過ぎていくので危険です。右側に側溝があるので蓋をすれば助かるが歩く人がいないのだろう。坂の途中から振り返ったところです


長い坂を上るとやがて坂の頂上、四郎峠 に着きます峠の右手には旧宮内村と旧大野村の村境碑が建っています

四郎峠と村境碑

資料によると、四郎峠の由来は大昔の伝承で、推古天皇の時代、五人の兄弟太郎・次郎・三郎・四郎・十郎が大野村にきて、田畑を開墾し農業に従事したと伝わる、それぞれの土地を切り開きその名の地名が残っているという、四郎峠も中山に住んだ四郎の名に由来しています
峠は改修された自動車道で、昔の峠の雰囲気は皆無です。峠の先は左の山陽道と並行しながら長い坂を下っていきます。廿日市市大野地区に入ります歩道がなく歩くには最悪の道です

暫く下った先右に敬愛病院が見えます。街道の左に沿って永慶寺川が沿っています。やがて山陽道の高架を左に緩やかにカーブしながら潜る

高架を潜り暫く集落の中を進みます右から道路が合流してきます

合流して150m先で道は分岐します、街道は右の北からの川に架かる戸石川橋を渡ります。
真っ直ぐの道は進まないように。橋を渡ったT字路は川沿いに左(南)に進みます。すぐ右に中山集会所があります。(写真正面右に見える赤い屋根です)

戸石川橋を渡る手前右に川を背にして、おおのなかやま 疣(いぼ)観音堂 があります

その横に大きな石碑が建っています 今川貞世(号了俊)の歌碑
応安四年(1371)足利義満によって九州探題に任ぜられ、その下る途中、中山を通過したときのことを紀行文「道ゆきぶり」に記しています
とにかくにしらぬ命を おもうかな わが身いそじにおおの中山
むかしたれ かげにもせんと まくしいの おおの中山 かくしげるらん

戸石川橋を渡り左に折れて赤い屋根の中山集会所の前を川沿いに進みます。T字路を右に折れると新しい道で中山トンネルを南に抜けて、広電宮島線の宮島口駅まで1.6㎞程先です。海岸線を進んでいた山陽道もかなり内陸部に入っているのがわかります

北の山側を見ると広島岩国道路の向こう側に立派な真っ白い建物が見えます。
海の見える杜美術館 ここから1km先の表示があります

左の永慶寺川に沿って静かな山村を進みます。途中振り返ったところです

大野地区の静かな街道を進みます

中山集会所から300m程、右に大きくカーブした先左の茂みとガードレールの間に
一里塚跡碑(塚の松跡)


一里塚跡の先で街道は方向を左(南)にカーブします。街道の右、200m程のところを平行して広島岩国道路が走っています

前述の五人兄弟の末っ子、十郎原農園の案内標示があります、地名が残っているのです。右の十郎原一帯を見る


十郎原の看板の先で、丸子川を渡ります川から250m程先で道は分岐しています、 真っ直ぐの右の細い方の旧道を進みます

その先でも迷いやすい道がありますが、真っ直ぐの道です分岐から見た右手に広島岩国道路が走っています

写真正面の左側の道を進みますとにかく高速道に交差しては間違いです

分岐を真っ直ぐ入っていくと高見の集落の軒に十郎原の表示があります


集落の細い道を進んでいくと、右から斜め十字路が交差しますので横断し続いて細い集落の道を進みます。十字路右角にミラーがあります

十字路の先の細い道を100m程進みます

高見川に架かる鉄の緑色の橋を渡り、民家の左側を真っ直ぐ進みます。川沿いを左に進むと大野東小学校がある水口の集落

橋から150m程真っ直ぐ進んだ右の山裾に 稲荷神社

稲荷神社の少し先で左民家と右山裾の間の細い道を真っ直ぐ進む、素晴らしい景色で、紅葉していれば最高だろう

細い地道の旧道が蛇行して、左側は民家や田畑で開けています。地道が150m程続きます

振り返ったところです

三槍谷(みやり)集落で地道から舗装道になったすぐ先で分岐しますが、左は住宅地に下る道で、右の道を進む。右の道を進むと、右にカーブして広島岩国道に近づき分岐します、真っ直ぐ右の道を進むと高速道を潜りますが、山陽道は左に山なりのカーブします

カーブした先右手に 三槍社(みやりしゃ)大頭神社四末社のうちの一つ祭葉山祇尊

三槍社の下の旧道、振り返る

三槍社の先で左への分岐道がありますが、真っ直ぐの右の山裾の道を進みます。快適な旧道です

神社の過ぎた先左に 土井貝塚跡遺蹟

遺跡の傍、街道を挟んだ向かい側に広場に 大野次郎宅跡の標示板 が立っている

この伝承が本当であれば、凄い歴史があることになります屋敷は100m四方もあり、前には堀を構え、左右に樹木を植えていたと記録が残されているそうです

すぐ先右手の高台に 新宮神社
この岡の上にあります。伝説「大野五郎」の五人兄弟のうち総領の次郎を祀った社で地元では「新宮さん」と呼び崇拝しています。
石段は急で高く狭く手摺がないので、足も疲かれているし万一のことを考え躊躇したが、せっかくの機会だから這うようにして上り下りました。満足です


新宮神社前からの南側に田屋の集落があり左が開けて山裾の旧道気持ちが良いその先で小さな谷川を渡ると、高畑の集落に入ります

左に 高庭駅家跡・濃唹(のお)駅跡





碑の背後のある 薬師堂 人馬の乗り継ぐ駅跡です

駅の先で十字路を横断します

十字路の左を見ると高畑の集落が建ち並んでいます

十字路を右に100m程進むと 高畑東貝塚跡


高畑の旧道で情緒が残る、足にも優しい道歩いていても飽きない

十字路から150m程先、右に古い溜池が二つ並んでいます。 高畑溜池は文政八年(1825)編纂の広島藩の地誌「芸藩通志」に載っている大野で最も古い灌漑溜池

溜池を右に見て進んでいきます

その先を進むと左から道が合流してきます合流点を振り返る。向かって左の道を進んできました

歴史の散歩道にふさわしい、素晴らしい道を歩きました。いつまでも残してほしいものです

やがて正面に山陽新幹線の高架が見える右手前の斜面に 陣馬跡の看板 この付近を陣馬といい、慶応二年(1866)長州征伐のとき幕府軍が検問所を設けていたところです。前方の平地を筏津といい、古代は海の入江でありました

溜池から250m程先で新幹線の高架を潜ります、すぐ新幹線に沿って右に折れます。新幹線の側道のすぐ南側の道を平行して進みます

高架を潜り300m程進みますと中津岡川に架かる橋にでます。橋を渡り左斜めの旧道を進み橋の右を見ると大野ICです

橋を渡った先の街道

その先右に 浄土真宗本願寺派西教寺 広島周辺は浄土真宗が多いです

中津岡川から280m程街道を進んでいくと、滝の下信号交差点に出ます。街道は真っ直ぐ横断して進みますが

ここで【寄り道】のため交差点を右(北側)に広い道を大野インター南信号交差点で山陽新幹線の高架を潜りさらに大野インター北信号交差点を横断し、その先で広島岩国道路の高架を潜った先まで
赤い鳥居と山陽新幹線の高架

大頭神社への入口 石の鳥居

鳥居の傍に建つ名勝 妹背の滝碑(夫婦滝)

大頭神社(おおがらしらじんじゃ)
厳島神社の末社として推古天皇十一年(603)に建立されたという古社。平清盛が安芸の守りであった当時から、毛利・福島・浅野の三家を経て廃藩になるまで、社領米を得ていたといわれといます

拝殿

神社の奥に進むと 妹背の滝妹
背の滝は雄滝と雌滝とからなり、大頭神社の前に雌滝、奥に雄滝があります。本流の雄滝落差30m、また支流の雌滝は落差50mです

雌滝
山娘のたぐうる糸ちはきれならむ
峯よりおつるも糸
雄滝
たちよりてしばしむすばむひまもなし
はげしく散りて落ちつる滝つ瀬
(京都下賀茂社家永恭)
雌滝

雄滝

神社の手前左奥に 長州戦争史跡 千人塚
第二次長州戦争、慶応二年(1866)に幕府軍は長州軍に敗れ徳川幕府の崩壊の序曲となったが、この時大野村が戦場となりました。最も激しかったこの地で戦死した兵たちの弔った塚


元の街道滝の下信号交差点に戻り南西に200m程進みますと、毛保川に架かる妹背橋に出ます。橋を渡った右手に大野中学校があります

大野中学校・隣の大野西小学校を右に暫く進みます

大野西小学校前信号交差点に出ます
交差点の右角に 道標 「右 宮島広島道 左 宮内妹背瀧道」

交差点左の筋 宮島広島道

廿日市市大野の町を進む、左に大野浦郵便局を見て、さらに左永田内科医院の前を通ると

すぐ先左にJR山陽本線大野浦駅があります
大野浦駅前から北側、大頭神社の南西側には 城山(265.5m)、かつての要害であった山城 門山城址があり、厳島神社の戦いで毛利元就によって攻め滅ぼされた城址。さらに南西には 経小屋山(596.6m)が聳える

大野浦駅前に 史跡一里塚跡碑と今川貞世歌碑
おおのうらをこれかととえばやまなしのか
たえのもみじ 色に出でつつ

大野浦駅前を過ぎて150m程先で右に、かわさき商店がありすぐに塩屋川に架かる橋を渡ります。橋を渡り100m程先の分岐右に中川歯科医院がある前を右に山陽道は塩屋集落の坂を上っていきます

これからの坂を 四十八坂と呼ばれています。四十八坂は塩屋坂から鳴川の長峠までの坂で、 大小四十八の坂が3㎞にわたって続くといわれています
坂の上、途中から塩屋の集落を振り返る。この辺りから林が原地区に入ります

右に 祠

そのすぐ先、左に 日蓮宗本覚院 があり数十mで右からバス道が合流する五叉路に出ます。交差点で青海苔川に架かる橋を渡り左にバス道を進みます

100m程先で、電柱に丸石四丁目17の表示があるところ、バス停の手前の左へ下る道に入ります。(うっかりすると案内標示がないので通り過ぎる)

左に下る旧道に入ったところで向原川に架かる橋を渡ります

向原石畳の坂道
橋を渡ると大野町丸石地区で、平成三年草道に埋もれていた石畳を発掘調査の結果、100m程完全な形で旧道が現れた、現在仮舗装されていて様子は分からないが、このままの状態では折角の遺蹟を見ることができないのでどのようにすればいいか検討しているようですが



街道から左を見ると瀬戸内海の向こうに 宮島が見えます

仮舗装の石畳道を抜けて進んでいくと旧国道に出ます。向原バス停があります

旧国道を横切ると 古代山陽道の史跡の案内板が見えて、その横の旧道を入ります




古代山陽道、少しの区間ですが石畳が残されていますよく手入れして頂いているようで素晴らしい道が残っています


振り返ったところです

貯水槽のあるところ右手 今川貞世の歌碑 九州探題赴任の途次、この古代の道を通りその途次詠んだ歌碑が建つ

波の上に 藻塩焼くかと 見えつるは
あまの小舟に たく火なりけり

貯水槽の横を進みます


広島岩国道路の高架下に出ます、左側は谷川が流れています。この辺り高速道で旧道は消失しています

高速道の手前を西に行くのですが川で渡れないので、高架下を潜り数十m先で谷川を左に渡りUターンして再び高架下を潜ります。高架下を潜るところで北側を振り返ったところの写真です。またこの北への道は、トレッキング経小屋コースで登山道です

高架下を潜り川の対岸に出て、右にカーブして高速道に沿って170m程進みます


右にカーブするところ左への道があります、この道を進んで行くと宮浜温泉街に出ます
高速道に沿って進んだ先で、右に金網の柵のある高架下に「残念社西国街道」の案内板が立っているので、そこを右に高架下を潜ります。本格的に 四十八坂の山道に入ります

すぐ先で道は分岐しています左への旧道を、右はダムへの道です。結構ポイントには青い案内標示して頂いているので、注意していれば迷うことはないようです

ここは右の真っ直ぐの青い標示へ進みます

ところどころに石垣が残り旧道跡を偲ぶことができます。旧道は非常に狭くなっています

残念さん道の案内標識

石垣に沿った旧道いいですね

石段が見えて案内標示も見えます

結構整備していただいているようで、思った以上に一人で歩いていても快適な道です



ダムからの流れる小川を渡りますと右手に残念社があります

残念社
第二次長州戦争の時、四十八坂一帯は幕府軍と長州軍と激戦のあったところで、慶応二年(1866)七月九日幕府軍の宮津藩士の依田伴蔵が長州陣営に単騎馬をかけて向かう途中、長州軍の遊撃隊が戦闘員と間違って狙撃し戦死した、その時「残念・・・」と一言漏らして死んだ伴蔵を哀れみ、地元の人々が祠を建てて祀ったものだそうです。依田伴蔵は軍使として長州陣営に向かっていたとわかり長州軍も遺憾の意を表したという。戦前は丹波から沢山の人がお参りに来て周辺は賑わったという。今も周辺は地元の人々によって綺麗に清掃されて祀られています。大きな石燈籠一対が立っています






残念社から数十m先に

吉田松陰腰掛けの岩
松陰が安政六年(1859)五月江戸に護送される途中、萩の故郷を望み父母を偲んだといわれる腰掛けの岩
親思う 心に勝る親心
今日のおとずれ 何と聞くらむ


傍に 灯籠と朱色の鳥居 が建っています。少し入っていくと依田伴蔵を祀った依田神社の本殿への道

依田神社

街道に戻り鳥居・腰掛け石の前を進む所の街道中央に 境界碑 「是従大岩見透線境界」

その先分岐しますが青い標示に従って真っ直ぐの道を進みます

やがて正面に水道ポンプ小屋がありますのでそこを左に下ります、右に八坂墓苑がありその先高速道の手前で道なりに右にカーブします

下っていくと少し先で左に高架を潜る道がありますが真っ直ぐ高速沿いに坂を上る

坂を上り下っていくと広島岩国道路に出ますが、左の高架を潜らず右の道を上ります

高架の下から左の道方向を見ると瀬戸内の海が見えます。街道はかなり高台を通っていたことになります

暫く細い舗装された道を広島岩国道路に沿って350m程、上り下り蛇行しながら進むことになります

やがて旧道は突当り道なりに左にカーブして広島岩国自動車道を潜ります

高架を潜ると道は南に真っ直ぐ海辺に向かって下っていきます

下っていくこと200m程左に鳴川保育園が、その前に西国街道:歴史の散歩道の地図があります。保育園を振り返ってみたところ


保育園の先、鳴川バス停の所を道なりに右にカーブします。カーブして90m程で小さな川を渡り、50m程先で左への山陽本線の踏切を渡る道がありますが、真っ直ぐの道を西に進みます。その先でも左に入る道がありますが真っ直ぐ道なりに進みます

そして50m程進むと右に広い十字路に出ます、正面に消火栓のボックスが見えるところですが、ここも正面の細い道に入ります

十字路から110m程進むと鳴川に架かる橋を渡ります

橋を渡って民家の横の細い道を上っていきます

旧道の面影が残る 鳴川の石畳

短い区間の石畳道が過ぎると道は狭く少し荒れているようです

石畳道の近くに建つ説明板

鉾の峠(ほこのたお)
石畳に続いて、鉾の峠を越えます、峠は山陽本線を越える200m程の峠ですが、雑木と藪でかなり荒れていますが十分歩けます。数年前までは雑木が茂り、草や藪で旧道は廃道化しつつ、地元の人たちしか通らない道となっていたのを、地元の人たちの努力により木や草を刈り旧道を復活していただいたとのことです。
またかつては、鉾の峠の途中に広島城下から 七里の一里塚があったそうですが、今ではその場所もわかりません


やがてJR山陽本線トンネルの出入口の真上に出ます。フェンスがなければとても歩けない少し怖いです


線路の沿った絶壁の細い道落ちないよう注意


トンネルの上を越えて右に折れます、天気で良かった、雨なら越えられるか分からない、右に折れた線路の上の絶壁の道にはフェンスがないので恐怖。
この峠の旧道を復活していただいた地元の人々に感謝いたします。

トンネルの上の道を振り返る。右に折れた旧道は笹が茂り道が隠れているのでより怖い

かなり進んできたところから振り返ったところ


トンネルの横の道を下っていくと民家の横に出ます


民家を抜けると左の国道2号線に出ます左の海は「唐船浜」

数十m国道を進み小さな川に架かる橋を渡ります。旧国道は右の 玖波隧道を潜ります。左が新しい国道2号線です。昔はこの辺りまで入り江であったようで、かつての旧道はトンネルの上の小山を越えていた 「馬ためし峠」 明治十二年(1879)に峠の下に玖波隧道が造られた。それまでの馬ためし峠は廃道となり、今ではその痕跡もない。小さい峠であったが唐船浜の入り江が迫り絶壁の峠道で難渋したと想像できる。あっという間に隧道を抜けます。
隧道を抜けた先左に 祠

玖波宿に入ります

【玖波宿】
広島宿から廿日市宿に続いた玖波宿場町です、長州戦争により宿場は殆んど焼失したといわれています。伝わるところでは、馬ためし峠から西にお寺一寺と民家一軒が残すのみの惨状であった。その後再建された街並みは新しいものの静かな宿場町の雰囲気を残します。
宿内は二十三丁三十間(約2.6㎞)に渡って街並みが続いていた。寛永十二年(1635)に参勤交代の制度が確立されると、玖波は宿場町の重要性が増し 本陣も設けられた。本陣役は新屋(平田)半左衛門が受け、規模は天保十三年(1842)の資料によれば間口二十一間(約38m)、奥行き十六間(約29m)からなる約340坪の敷地に、115坪の建物が建てられていた。駅には伝馬、駕籠などが常備されていた。慶応二年(1866)の長州の役により多くの人家とともに本陣のすべてが焼け落ち、いまでは往古の面影を偲ぶことができない。
この場所は、旅人のための人馬の継ぎ立てが行われた交通の要衝で、多くの取り決め等記載された高札が掲げられた高札場であった。 (大竹市教育委員会より)
玖波隧道を抜け宿場に入ったところから、かつての旧道があった馬ためし峠を振り返る

白と黒の土蔵や民家が美しく素晴らしい

右奥に 浄土真宗本願寺派順広寺

玖波宿中程から街並みを振り返る、焼けた後とは言え素晴らしい宿場の情緒が残っている

素晴らし街並みにつきる

宿場の中央辺りで胡子神社があり、そこにかつて 高札場 が設けられていた角屋釣井この井戸は「角屋釣井」と呼ばれて宿場の貴重な飲料水として、また最近まで西山社行者堂の寒行の水垢離にも永く使用されてきた共同井戸の一つ

胡子神社

高札場跡と角屋釣井の説明

玖波本陣 は高札場の50m程西、右にあるJA玖波支店の向かいあたりにあった。(JAは左青い看板)
十字路より振り返った街並みで、十字路を右に折れます

十字路を右に折れた街筋、ミラーがある

右に折れて80m程先、突当り左へ折れてすぐ右に折れる鍵の手になっています。そして数十m先で山陽本線のガードを潜ります。ガードの左にJR玖波駅があります

ガードを潜った一筋目右に入ったところに 浄土宗称名寺
天文七年(1538)開創の古刹、玖波宿の中で一番大きいお寺で枯山水のの輪があります

街道に戻り少し進むと交差点に出ます、少し右にズレて真っ直ぐ進みます

交差点から100m程進むと恵川に架かる川本橋を渡ります。この先は住宅の開発のため旧道は消失しています

川本橋を渡り右川沿いに迂回します、川沿いに150m程進み高速道の手前で左に折れて、道なりに右の広島岩国道に沿って120m程進んだ辺りに、川本橋を渡った旧道が真っ直ぐ西に通っていたようです

右の高速道に沿って進みます、合流点辺りから110m程進んだ先高架通路が架かっています。左のゆうゆ訪問看護ステーションと高速道の向こう側の介護老人保健施設ゆうゆを高架の広島岩国道路の上を結んだ繋ぎ廊下です。振り返ったところです

振り返って玖波市街地を眺める、今は消失してしまった旧道はこの右辺りを登ってきていたのでないだろうか

この道は右の高速道に沿った新しい道です左に玖波中学校が見えます

暫く進んだところで左から新しい道路が合流します。道路の向こう側になかはま保育所が見えます。合流した先、次の湯舟団地口信号交差点を越えて暫く進んだ先で、大膳川に出ますので、ここで右に折れて【寄り道】大膳川沿いに進み

広島岩国道路を潜り西側に出ると 大歳神社 があります

門前にある 黒川村の標石「この標石は昭和四十七年月油見顕徳寺で発見、安政七年(1860)は幕府長州再征の役の起こった慶応二年(1866)の六年前の年代である」ここに移したそうです

元の大膳川に架かる黒川橋に戻ります、戻る途中の川沿いから黒川橋とその先の瀬戸内を遠望

黒川橋から100m余り南に進むと交差点があります、左角にもりすき酒店がある辻を左に折れます

左に折れるとすぐ先で山陽本線の上河内第三踏切を渡り、その先すぐ右手に大竹ICの高架を潜ります、丁度国道2号線の手前の道を右に折れて、さらにICの高架を潜る、その高架は左の国道2号線に下っています

二つ目の高架下右へ(正面は国道2号線の黒川1丁目信号交差点)

その先、左に黒川老人集会所の前を通ります

少し先で街道はT字路に出ますので右に折れる。正面の 旧家は和田家

右に折れて更にすぐ左に折れます、左に折れる右角に小方薬局があります

左に折れて南への旧街道沿いの小方町の街並み、旧街道の面影が残る街並みです

街並みから右の小山が見えます。亀居城址(亀居公園)
福島正則によって慶長八~十三年(1603~1608)にかけ築かれた本格的な城郭であったが、慶長十六年(1611)の一国一城令により取り壊された完成後三年という短い城であった。一部石垣が残ります

右手高台の石垣の上に(かつての城址の石垣を利用したのでは) 浄土宗朧谷山(おぼろややま)演法院立安寺
本尊は阿弥陀如来

静かなかつての亀居城の城下町であった小方の街並みを振り返る

右に 松尾芭蕉の句碑

「けごろもの句碑」

碑のすぐ先で右(南西)に方向を変えます右の山の崖の上に 厳神社の鳥居 が見えます

暫く進むと右手に山陽本線が接近し右のガードを潜ります。ガードを潜りすぐ一筋目を左(南)に折れます。200m程左の山陽本線に沿って進むと新町川に突き当たるので右に折れます

ここを右に折れると、小方橋北詰信号交差点にでて横断します

左の新町川に沿って高速道の手前まで進みます

広島岩国道(山陽自動車道)の高架一筋手前左の新町川に架かる橋を左に渡ります、右角に自治会館があります

橋を左に折れて橋を渡って、すぐ右に折れ高架を潜ります

この先 苦の坂の峠越え になります
高架を潜りすぐ左に折れます。今度は山陽自動車道を左に見ながら南に緩やかな坂道を上ります。途中右に市営御園団地がみえます。多分この写真は振り返ったところと思います

右に 橋姫神社

集落もなくなり山道に入っていきます。左下に山陽自動車道の御園トンネルの出入口が見えます。トンネルに入った自動車道の上を街道は越えます
左に歴史の散歩道(案内)と書かれた地図が立てられています

山道が深くなってきましたが車が駐車していて畑仕事をしている方がいたので、苦の坂越え通れるか尋ねたところ行けるとのことであったので少し不安が消えたが、道の先の様子を見るとやはり不安だが勇気百倍進むのみ

早々に全面通行禁止の看板、先ほど教えていただいた通り鉄の梯子があったのでここを上るそうです。右の高台に上がります

苦の坂
苦の坂入口になりますが、この先土砂崩れにより全面通行止めになっています。数年前の資料でも土砂崩れで通行不能となっていましたが普旧工事はされていないようです。
聞くところによると二昔前までは地元の小学校・中学校の生徒の遠足のコースで快適な道であったと聞きましたが、土砂崩れ時点では全く通行ができなく国道が迂回路になったが、最近街道歩きの人も多くなり旧道を整備しているといっていましたので、通れるのを期待して歩いてみます。ダメなら戻るだけです。
右の鉄梯子で上の畑に出て進むことができれば旧道は通れるかもしれませんが。畑は私有地で通れるかどうか、車が手前に一台とまっていたが人の気配がないし、とりあえず上にあがってみます。
万一の時は大変だが元に戻り国道2号線を迂回し小瀬川に沿って木野へ出るので、最初からその道を進むのであればいいのだが、戻って迂回するのは大変だ、その準備のため地図も用意してきたが
通行止めの看板の先、数十mでがけ崩れがあり旧道は消失しています

全面通行止めの看板の横の鉄柵の階段を上がりますが

草がかなり覆っています。しっかり手摺をもってあがります、将来的にこのままであれば通れなくなるかも、この数年後コロナ禍があって人も通らなく、今どうなっているのだろうか

階段を上った高台のところから振り返ると、道路に二台車が止まっています、畑か山仕事の人だろう。上の畑に入ると金網等がありますが、畑で慌てず周りを見ると、畑から続く道がありました、土砂崩れの後日につくられたのだろうか苦の坂に続く道であればいいのですが

畑からの作業場を抜けて進むとすぐ、旧道らしき道になりました。良かったという感激です
鉄梯子がなければこの道に出てこれません。私有地の方に感謝します

途中から素晴らしい街道になりました、往時の旧道です

崖崩れは一部区間だけのようです。諸所行政の事情があると思いますが、出来るものなら完全補修とはいかなくても、下の舗装道から私有地を通らなくてよい方法で、この旧道に繋ぐ道を補修できないのだろうか、旧道歩きの人も多くなりまた折角の素晴らしい遺跡なのだからと思ってしまいます。
ここから苦の坂を越えて木瀬川を渡ると山口県になります
なんと見事な竹林に挟まれた旧道、竹林はほっとくとすぐ新しい竹が生えて道がなくなってしまいますが、はっきり道が残り、踏み跡もあるので、地元の人々や行政による整備がして頂いているようです、ありがとうございます。自分でも言ってることがまちまちで笑ってしまいます

竹林の中に 苦の坂峠 の案内板 が立っています


緩やかな下りになります、その先も少し竹林の細い道が続きますが、枯れ葉が積もりじゅうたんの上を歩いているようで気持ちがいい



綺麗に整備され昔日の古道が蘇り素晴らしい

前方が明るくなってきました



前方に大竹市木野の町や小瀬川(木野川)が見えてきました

苦の坂峠を振り返る、苦の坂峠越えは比較的起伏がなく快適なハイキングコースになっていますが、かつては厳しい峠越えであった

前述の峠の案内板まで通行止めであったようで、西側は通常通り通ることができ整備されていた、抜けることが危険でできなかったとのことです
苦の坂の木野登り口

峠を下りきるところに、歴史の散歩道についての案内板が立っています

右に ちきり池神社 があります

この神社は推古天皇時代(600年頃)厳島神社の祭神である市杵嶋姫命が筑紫から安芸へ移るとき、赤児をつれてこの坂に差し掛かった時にあまりの急坂で苦しさに大切に持っていたちきり(機織りの縦糸を巻く道具)を投げ、それが麓の池に飛んでいき、その場所に今の神社が建てられたと伝わる。そして坂の名前も「苦の坂」と言われるようになったそうです

神社の社殿の右側側面下に 汐湧石
旧暦6月17日の厳島神社の例祭日の夜には岩穴から汐水が湧き出ると文政2年の国郡誌に記録されているそうです。

ちきり池神社の入り口苦の坂上り口に建つ 史跡 長州の役戦跡苦の坂入口の碑
慶応二年(1866)幕府と長州軍が小瀬川を挟んで対時、6月14日戦いになり長州軍の勝利した地



すぐ先で舗装道路に出て左に折れます

木野2丁目の右に介護付き老人ホームが見えます

右の木瀬川の向かい山複に山陽自動車道が通っています

木野の道筋の民家には古い石垣が多く残っています

左ガードレールの下に 太閤の振る舞い井戸

標示がないので見落とす。名護屋からの帰り村人がこの水でお茶をたて秀吉に献じて喜ばれたというが、果たしてどうか


下木野地区に入ると左、高台に 三柱神社

すぐ先左の谷川沿い上流に 大元神社

かなり石段が長い


すぐ先で右から小瀬川に沿ってきた道が合流します、合流点を振り返ったところ

すぐ右手は小瀬川暫く沿って進みます、この辺りはまだ広島県大竹市木野です

大元神社の先、左に 稲荷神社

その先右に 石造り祠

祠の前から振り返ったところ

右の小瀬川の景色を見ながら進んでいくと、ようやく前方に、山口県との県境の両国橋が見えてきました

浄土真宗大谷派善福寺 新しく建て替えられたようです

善福寺を左に見て、小瀬川に架かる両国橋の東詰に着きます。後ほどこの橋を渡ります。
【寄り道】その前に両国橋の下流300m程先に、かつての小瀬の渡し跡があるので先に回ります。両国橋から200m程先で道は分岐していますので左に進みます、緩やかに左にカーブして120m程先左に大竹木野郵便局があります。大竹市木野振の街並みを返ったところです
郵便局の付近に、木野の 本陣跡の門が残っているとあったので探したが見つけられなかった。後で調べるともう少し北側の山沿いにあったようです。木野集落は宿場町でないが、本陣があり参勤交代の藩主の休憩所であったようです。この本陣門は普段は開かず藩主の御成りの時のみ使用したようです

郵便局の東山沿いに見える 厳島神社

郵便局から西側の細い道を木野小学校・木野集会所を通っていくと、川沿いの道路に出ます
小瀬の渡し場跡

安芸浅野藩と周防毛利藩の国境の川、浅野藩からは小瀬川といい、毛利藩からは木野川と呼ばれた

史跡 木野川渡し場跡碑


渡し場跡より南側を見たところで、前述の苦の坂越えができないときはこの道に迂回してきた。このまま進むと山陽本線の大竹駅へ 木野川の渡し場跡


小瀬川の伝統行事
ひな流し、和紙で作ったひな人形を藁で造ったかごの上にのせ、お供え物のともに願いを込めて流す行事、現在小瀬川沿いで五か所行われているという
まき石護岸と小林三角和久
小瀬川は洪水が起こるたびに川の流れを変えていた。このため安芸では洪水から村を守るために、「福島堤防」と呼ばれるまき石護岸や、その上流に、「小林三角和久」と呼ばれる、三角形の石組の堤防を築きました。これらの堤防は、何百年もの間、洪水に耐えながら今もその役割を果たしている
渡し場
まき石護岸の西端に舟着場へ行き来するための石段と石敷きスロープが残っています
多数の説明板が建てられています

堤防道路を両国橋へ戻ります。橋を渡るとようやく山口県に入ります

両国橋から左(南)の下流の眺望300m程下流が、木野の渡し跡

右(北)今歩いてきた眺望

まき石護岸・小林三角和久

両国橋を渡り左に折れ暫く広い道で、右手には小瀬小学校・ひかり保育園がある小瀬集落です

右手山裾方向に 曹洞宗籌勝院(ちゅうしょういん)長州遊撃隊士の墓があるそうです

小瀬川とともに左にカーブするすぐ先で、川と分かれて小川に架かる小さな橋の手前の道を右に折れて街道は進みます。この辺りが 木野集落側の渡し跡です。左に和木町の表示がたっています

木野側から小瀬側を見たところで、小林三角和久・まき石護岸が見えます

小川沿いに右に折れる左角に 吉田松陰歌碑

夢路にも かへらぬ関を 打ち越えて
今をかぎりと 渡る小瀬川
安政六年五月二十八日 吉田松陰作

「夢路にも」は明治維新の先達吉田松陰が幕府の召喚を受け籠で護送されながら、岩国市小瀬川に差しかかり、防長二州と最後の別れをされるとき読まれた歌です。時は安政六年五月二十八日、松陰三十歳の時です。松陰の籠は約一ヶ月後。江戸に着き、幕府の調べを受けられたが、国を思う先生の姿勢も幕府には通ぜず、同年十月二十七日、伝馬町の獄舎において。
われ今国の為に死す死して君親に背かず
悠々たり天地の事、鑑賞明神に在り
の辞世を朗唱され従容として死に就かれた。(碑文より)
碑の傍に建つ山陽道跡の案内板


右に折れる角から、かつての渡し跡を見る

右に折れて100m弱でに架かる橋を左に渡り集落に入ります

この付近に 小瀬一里塚・茶屋があったようですが分かりません。山陽道の一里塚跡は殆んど残っていないようです

集落の抜けたさき小瀬峠への街道を進む 小瀬の関門跡がこの辺りか

暫く進んでいくと左に白い標柱「歴史の道 旧山陽道」が書かれていますので左に入ります

昔の山陽道の跡の道が残っていますので入ります

雑木林の中を抜けると草が茂っていますが気持ち良い道。でも夏場は草でどうかな、谷間を歩く感じ

地元の夫婦の方の散歩道です

先に進ませてもらって、舗装道に出たところから振り返って写したところ。短い区間だが素晴らしい旧道が残っていました


さらに小瀬峠への坂道を登っていくと右手に「歴史の道 旧山陽道」と書かれた白い標柱があり、そこを入ります。案内標柱があるのでよくわかります

ここの道は急勾配で荒れていて余りお勧めはできません

この辺り 小瀬峠(駕籠立場跡)の頂上か


登っていくと途中で道は分岐している道が二か所ありますが、いずれも左へ進む。写真は二つ目の分岐です、右への道は更に登っています。左の下りの道を進みます(迷いポイントです)

左に下っていった先道、道は非常に狭くなり、道が迷って無くなったのかと冬場でも草が覆っていますので、単身では夏場は無理と思います

少し進むと左下に舗装道が見えますが

さらに狭い道を回りながら、藪の中の道を祓い乍ら下っていきます

ガードレールとミラーの舗装道に合流したところです。冬場だから一人で歩いたが、夏場なら私もチョット躊躇します

小瀬峠越えは、舗装道の道を進むとしたら近道でそれほど勾配もきつくなく歩けます

気持ちがホッとするような癒してくれる瞬間の景色


岩国市関戸に入り前方に関戸集落が見えてきました。前方左正面のこんもりした山が岩国城跡

【関戸宿】
関戸宿は錦川の畔にあり、古来関所が置かれていたという。本陣や脇本陣があり、旅籠・茶屋等が設けられていました。宿の南には錦帯橋で知られる岩国の町が広がる。岩国城下より山陽道から少し離れているが、錦川沿いに山陽道は岩国城の北側を回っている
関戸宿の入り口

関戸宿の街並み、古い建物が少なくなっているが、情緒の残る街道宿場の左側に 関戸芝居小屋があったようですが痕跡はありません


右手高台に 客(まろうど)神社

厳島神社より勧請した、室町期の創建。宿には関戸奴祭りが今も行われている。神社の高台から街全てを見渡せます

街道に戻った左側には 浄土真宗本願寺派宗清寺

高台の山際に客神社が見えます

客神社の参道入り口に 吉田松陰先生東遊記念碑が建つ

旧山陽道と関戸本陣
山陽道は、大和朝廷成立の初期に開かれ、大化の改新(645)により、奈良の都から大宰府までの官道として整備され、七道中唯一の大路であった。
この道は、安芸国遠菅(大竹市小方)の駅家を過ぎ小瀬川を渡って周防国小瀬(岩国市小瀬)から山道(小瀬峠)を越えて石国駅家(岩国市関戸付近)から野口(玖珂郡玖珂町野口)に至る道であった。河畔の関戸宿には古くから関所が置かれていた。
この付近には、駅家が置かれ二十頭の駅馬を常備し、駅館の施設が整っていたと思われる。
中世に入り、やや荒廃したが、近世には、大坂から下関を経て九州小倉を結ぶ行路で、西国大名の参勤交代等により、往来も盛んで、国内陸路の主要道として利用されました。
ここの関戸宿には、参勤交代のための本陣・脇本陣があり、また旅籠・茶屋の施設も設けられていた。本陣前には関戸庄屋屋敷もあったという。(案内板の説明文より)
宿内の街並みを振り返る

すぐ先で関戸信号交差点に出ます。街道は右に折れます。
左に進むと錦川に沿い、右の川向かいに岩国城跡があり2㎞程右に大きく曲がりながら進んでいきます。
関戸信号交差点から関戸集落方向を見るこの辺りに関戸宿の 高札場があったようです

関戸宿 15時35分到着、まだ時間があるのですが、区切りもいいし岩国城址へ寄りたいのでここで終了します。宮内串野駅前を7時10分にスタートして、今日も山道で昼食はとらず歩き続けました。心配していた苦の坂も通ることができて大満足。
関戸信号交差点より錦川に沿って2㎞程歩き岩国城へ進みました。
街道沿いでないのですが折角ここまで来たのだから有名な錦帯橋も見たい。
一旦きょうはここで街道は中断
錦川に沿って進みます、右に岩国城跡が見えます

右前方に錦帯橋が見えてきました。初めて見る、綺麗な橋です

岩国城と吉川広家
毛利の危機を救った吉川広家が錦川のほとりに築いた城下町。
5連の美しい反り橋で知られる錦帯橋のある城下町は、関戸宿より南に少し離れている。かつては大内氏が領していたが、戦国期に入り毛利氏の領するところとなる。慶長五年(1600)関ヶ原戦いで毛利輝元は西軍の総大将になり大阪城に入った。しかし小早川氏とともに毛利氏を支えた両川の一翼の吉川広家は戦う前から徳川家康に内通して東軍に味方、関ケ原の戦いには毛利輝元を大阪城より動かさず戦いに参加させなかった。戦後、毛利氏の領土は10ヶ国から周防・長門の2ヶ国に減少したが、広家の働きで断絶を免れた。
毛利氏の滅亡を救った広家は厚く遇され、玖珂郡と大島郡のうち三万石を与えられ、東の国 境、芸州口を領した。長州藩の支藩、岩国藩の藩祖となる。
関ヶ原の戦いの後、広家は錦川に三方囲まれた横山の山頂に天守閣を築き、錦川を天然の外堀として、横山を中心に周囲を武家屋敷で固め、対岸の錦見にも武家屋敷を始め、材木町などの町人町を配置した城郭区割りを形成して、周防国の入り口を岩国城主吉川氏によって固められ、明治維新まで発展した。
(週刊日本の街道72より一部抜粋)
城山に聳える 岩国城天守閣
慶長八年(1603)に起工し、同十三年(1608)竣工した。錦川を外堀に見立て、山上に要害を築き、その南麓に御土居(後に御屋形)と呼ばれる、城主の居館を構えていました。
完成後わずか7年後の元和元年(1615)、大坂落城により豊臣しが滅亡し、徳川幕府により一国一城令により、山上の要害は破却され、以後山麓の居館で藩政をおこなった。山上の要害の特に山陽道(西)側は徹底的に破却され当時の遺構はなくなっている。居館のある東側の山麓に石垣は残っています。
現在の天守閣は復元で、昭和37年に往時の天守より約50m南に復元されたものです。山上までロープウエイが運行されていますが、残念ながら時間的に無理で下から見るだけとなりました


錦帯橋の上の勇姿相変わらず間の抜けた姿です、でも滅多にない写真姿

錦帯橋の上から振り返ったところ

錦帯橋
吉川氏三代藩主吉川広嘉の延宝元年(1673)五連のアーチ橋が完成。暴れ川の錦川に橋を架けるのに大変苦労して中国の文献も参考にして流れない橋が五連式アーチ橋になった。その後276年間の長きにわたり不落の橋として高い技術の結晶として続いてきたが、残念ながら昭和25年キジア台風で流失、昭和28年よみがえり、平成16年の架け替えを経て現在に至っている。
錦帯橋の美しさは、江戸時代中期以降からすでに評判となり、山陽道から外れているにかかわらず、参勤交代の大名たちや、旅人は一目見ようと迂回して見物してから江戸に向かったと伝わっています。


吉川広嘉像

岩国藩家老 吉川氏屋敷跡

岩国藩家老 香川家長屋門
元禄六年(1693)に建立、当時の武家屋敷長屋門の代表する建物

正面西側の山裾の紅葉谷公園にあります 曹洞宗洞泉寺

吉川藩主の墓所 6代と13代を除く墓とその妻・一族の墓51基が並ぶ









初代藩主広家の墓所の傍に、みみずくの姿を彫った手水鉢が置かれている


整然と並べられて整備されています

山上の天守址

江戸中期の中級武家屋敷:目加田家住宅や岩国の白ヘビ観覧所、現在、岩国に約1000頭が生息しているといわれている。赤くルビーのような瞳が愛らしく神秘的で縁起物のヘビ


佐々木小次郎銅像
吉川英治「宮本武蔵」に、この岸で佐々木小次郎が秘剣「燕返し」を編み出したとされています


巌流ゆかりの柳

2代目槍倒し松


錦帯橋


岩国城見学終わり
時間があまりないのでゆっくり城下を見学できなく残念だが、錦帯橋を渡ると岩国駅行きのバス停があるのでバスで岩国駅前の昨日のホテルに戻ります


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