山陽道 18日目

2011年12月13日

関戸宿~高水駅
ホテル早く出て岩国駅からバスで関戸バス停まで約30分、昨日の起点を7時10分スタート。山口県に入り今日は欽明峠・中山峠と2つの峠を越える。現在では一部の地道の道を除き舗装されているが、藩政時代は非常に厳しい峠であったと資料に残っています。でも今日も快適な旧道歩きでした。
        関戸宿の交叉点   7時10分 スタート
        高水駅南側に   16時 着
             51.943歩  31.16km  2.292kl

今晩の宿泊先、近くの高水駅から岩徳線で宿泊先の徳山駅近くのアルファーワン徳山まで移動しました

関戸の信号交差点でバスを降り、昨日関戸宿内の本陣跡の崩れた土塀を見落としたので再度少し回ってみる。おそらく数年後は無くなるだろうから、今のうちに

関戸宿を中ほどまで進み戻ってきました、客神社を右に見て、本陣跡が右にあります

本陣跡 と確かに崩れかけた 土塀が少しだけ残っています。昨日歩いているのに気が付かなかった

左側の辺りには 関戸庄屋屋敷跡

早朝の静かなかつての関戸宿を振り返る小学生の通学する姿だけです

関戸信号交差点にでて本日はここから右にスタートします

岩国往来
左に行くと岩国城下で岩国往来といわれ、錦帯橋前から城下町を南へ、札の辻(錦見札場跡)を進み錦川の川西渡し場跡にでて、右(西)に錦川に架かる我龍橋を渡ります。川西の街並みを抜けます、街中に宇野千代生家と善教寺に宇野千代の墓があります、町中に岩徳線の川西駅があります。さらに南西に進み坂を登っていくと岩徳線の道祖峠トンネルの上を越え、岩国往来は川西・桂野境道祖峠を越えます。峠で西に向きを変え下り岩徳線に接し北側に出ます。その先、御庄川に架かる思案橋で山陽道に合流する道です。
岩国城の横山を大きく南側を迂回している街道です。廻ってみたいがとても時間がないので諦めます。

関戸信号交差点を右に折れて山陽道(岩国往来)を進みます。車が多いです
関戸の交叉点から300m程進むと山陽自動車道の高架下を潜ります。山陽自動車道は右の関戸トンネルにすぐ入っていきます。高速道のすぐ先、左に岩国コンクリートの工場あります。その入り口近く道路を挟んだ向かいは、山が急斜面で迫っています。右を見ながら少し注意しながら歩きます右の斜面に上る旧道跡がある

⓵ ここを入ったのか、左工場の入口の前ここは違いました この辺り右への旧道があるのです

⓶ もう少し先の左の工場入り口の前こちらが正しいところと思います

此の標識のあるところ「旧山陽道岩国往来」の矢印のある標識があります。コンクリート塀の切れ間と金網が切れている隙間を道かどうか分からないような急斜面が山道に続いています。うっかりすると見過ごします、とても街道とは思われない。
第三者の方が見ていたら、何をするのか物好きな人と思われるでしょう中に入るとさらに厳しい茂みの中の道です。夏場は無理だと思います

掻き分け乍ら急斜面を上る、ロープがあるのでそれを頼りに上っていきます。ロープがあるということは歩く人がいるのでしょう。だれが張って頂いたのかロープがなければ迷って歩けない

崖をよじ登ります、下からは殆んど這って歩いている感じです。自分でも何をしているのかと戸惑っています大きなリュックをかけてでもちゃんと旧山陽道(岩国往来)の標識があります

でもちゃんと旧山陽道(岩国往来)の標識があります

距離にして数十m程の短い区間でしたが、喘ぎながら上ると良い道に出ました

快適な尾根道になり進みます

険しい道を上り詰めると、忠魂碑 が建つ広場に出ました

石碑の傍のコンクリート道を下ります下り口左に旧山陽道:岩国往来の標識

長い石段です

途中にも旧山陽道と岩国往来の標識があります

民家の傍に出ます左は石垣が並びます

下ってきたところを振り返る

民家の間の細い道から出てきました、振り返る。山越えの旧山陽道、少し苦労はしたが満足感が一杯。国道2号線に合流します。国道に出たところ角に、警察の派出所があります

ここでハプニングがありました。
このような中から出てきて、この辺りをキョロキョロ見ていたのでしょう、リュックを担ぎ余り風采が良くなかったのだろう、丁度国道に出た角に交番があって、若いお巡りさんが交番から出てきて、職務質問を受けました。当然話をすればすぐ理解していただきました。少し話をして別れ際、この先峠で迷ったり何かあったらすぐ連絡してください対処しますからとまで言っていただき、何と心強い言葉を頂き感謝のお礼を言って別れました。
チョットしたことですが心強くなり本当に気持ち良い一日になった、若いお巡りさんありがとうございました。

国道に出たすぐ先右に 石の鳥居があります、弥山堂への参道入口の鳥居国道2号線に出て、右に少し進みと信号交差点に出ます。国道右手にJA山口東岩国西支所があります

右のJAのすぐ先から振りかえる。正面左の林の中の山陽道を抜けてきました

JAの国道を挟んだ向かい側に 多田一里塚跡の標識 一里塚跡で標識のみ

一里塚跡のすぐ先、川がありますが左下流に 多田の渡り場跡の標示

川の下流方向を見る

その先下多田信号交差点を横断して暫く国道2号線を進みます。右に 正覚寺その先下多田信号交差点を横断して暫く国道2号線を進みます。右に 正覚寺

暫く進んだ先、上多田信号交差点を横断した先から振りかえる。信号手前左辺りに 多田庄屋屋敷 があった。さらにその先右手に 多田の紙蔵跡 があった

少し先右手高台に 本庄八幡宮

八幡宮から国道2号線の岩国市上多田信号交差点。前方には錦川

岩国市上多田信号交差点を横断します。交差点左に行くと岩国IC入口へ、国道2号線は交差点を右に離れていく

交叉点を横断して真っ直ぐ進むと錦川に架かる御庄大橋を渡ります

橋より右手を見ると山陽新幹線が走っていますかつて御庄大橋の上流近くが御庄渡し場跡

大橋のすぐ先右の堤防道に下りたいが、降りれないので少し真っ直ぐ進み、一つ目の十字路の手前でみぎにUターンして堤防の道に戻ります。堤防道を70m程進みますと、この辺りにかつての御庄の渡し跡でないだろうか

右手錦川の対岸を見る 御庄渡し場跡

御庄渡し場跡の左に下る道があります、かつての旧道は渡し場跡から右斜めに進み、前方の桃色の建物の右手を通り、山陽新幹線の御庄5丁目にでて高架下を潜っていたようですが、今は新興住宅が建ち並び旧道は消失しているので、迂回します

山陽新幹線の高架を潜るところから御庄渡し場跡の方向を見たところで、ここから右斜めに旧道は進んでいたように思います

山陽新幹線の高架にそった北側を見たところ

高架下を潜りますが、高架と交差している広い道路は数十m程南側です

高架を潜り左斜めに旧道を進み左の新しい道に接します。新道は左に大きくカーブして進みますが、旧道はカーブの辻でほぼ真っ直ぐの道に入り、その先で左に緩やかに円を描いて進みます。分岐する右に蓮乗寺があります

分岐の右手にある 浄土真宗本願寺派蓮乗寺

この付近から【御庄宿】  
御庄宿は関戸と桂野宿の「間の宿」であった。桂野宿との距離は非常に短い、御庄宿は錦川の支流、宿の東側を南北に流れる御庄川、また宿の西側を南北に流れる支流に挟まれ、何時も川の氾濫に悩まされた。宿には本陣が整備されていた

蓮乗寺のすぐ先からの御庄宿の街並み、右手に山が迫る、民家は新しく建て替えられているが、静かな雰囲気が残る街道風景

この辺り右に 御庄本陣跡

少し先右に 多賀大明神

多賀大明神前から宿の街並みを振り返ってみる。50m程先白い車の向こう側左にかつての本陣があった跡で今は広場になっています

街並みを進んでいきます

進んでいくと左に御庄郵便局があります郵便局の前から振り返りましたが、気持ちの良い街並みです

錦川鉄道の錦川清流線のガードを潜ると左奥(東)に新岩国駅があります。新幹線の新岩国駅は山陽本線の岩国駅に比べるとかなり離れた場所にあります

ガードを潜り真っ直ぐ南に進んだ先、大島バス停がありそのすぐ先右に 地藏の祠

その先右に岩国市中央公民館御庄分館の前で左斜めに折れます左奥(東)に錦川清流線の御庄駅があります

すぐ先で山陽新幹線のガードを潜る、すぐ左に新岩国駅があります

その先左に緩やかにカーブして再び錦川鉄道のガードを潜ります

ガードを潜ったすぐ先左からの新道に合流、御庄川が左に接近して、御庄川に流れる支流に架かる橋を渡ります。御庄川の川向に御庄中学校が見えます。続いて左川向にみえる 大歳神社

すぐ正面の山陽自動車道の高架を潜り、左の錦川に沿って暫く進みます

高架の手前左の橋は対岸の、大歳神社・御庄中学校への橋です

右に 祠 があります 

祠の前から振り返った街道と山陽自動車道

すこし進んでいくと前方に錦川鉄道の高架が見えます。錦川鉄道は錦川を渡り左、岩国城下の法に離れていきます。かなりこの地区は高架が交差します

高架ガードを潜り少し先に、御庄川に架かる橋が左に架かっています。橋の名前は 思案橋(旧西宇治橋)といって、旅人は上方に行くのにこの橋を渡り、前述の道祖峠を越えて錦帯橋の岩国城下に回るか迷った辻でその名がついたという

思案橋を渡り岩国城下への岩国往来で、岩国往来はここで山陽道と合流します。川向に見える高架の線は、JR岩徳線です

思案橋バス停、思案橋を渡った少し先あたりに、市の瀬一里塚 があったようですが確定ができません

暫く左に御庄川が続く道に沿って進みます振り返ったところから

右手に 

桂野に入ります、左端の対岸に岩徳線の桂野駅があります

その先、右の民家の傍に 

さらに50m程先右に 

祠の前から振り返ったところ、橋の川向は桂野駅

右の斜面の際に 石仏

石仏の前から振り返る

御庄川と共に左にカーブします、右斜面に小さな 石仏 すぐに岩徳線の高架を潜り、右にカーブします

暫く左に御庄川、右に岩徳線の間の道を進むと、前方に御庄川に架かる下市橋が見えてきます

下市橋を渡ります、橋より右の御庄川

橋を渡った左に 五所神社 が見えます
神社を見ながら右にカーブする

ここから【桂野宿】に入ります  
桂野宿も落ち着いた静かな佇まいを見せている街並みです。宿は上市橋~下市橋の約600mの細長い宿であった。
対岸の自動車道より外れているので、静かな家並みが残り人の姿も見かけない。宿も江戸時代の大火や御庄川の氾濫により変遷してきた。宿の中央付近に本陣・脇本陣があった。西の御庄宿とは1㎞弱しか離れていなく、御庄宿は東の錦川の川渡り、桂野宿は西の欽明峠越と両宿はその間に位置し一帯間の役割を担っていたようです

宿の遺構は残っていませんが、ゆったりした道幅で車も通らないし素晴らしいこの辺りに 本陣・脇本陣があったようです

宿の街並み右に 浄土真宗本願寺派教法寺

宿の街並みを振り返る

右の上市自治会館の先で、御庄川に架かる上市橋を渡り宿を抜けます

橋を渡り左に折れて車道の街道に出ます少し進んで振り返り上市橋と桂野宿

少し先で御庄川が東にカーブして離れ、支流の古宿川に沿って南西に進みます分岐を右の道真っすぐ進みます

左の三角州のところにかつての桂野小学校の廃校校舎があります。新しい校舎はさらに東、錦川の対岸にあります

すぐ先右に  祠の中に大きな地蔵と小さな地蔵が並んでいます

更に少し先右に 千体仏の標柱 が立っています
千体仏のお堂

古宿川の対岸に立つ廃校校舎この辺りが古宿という名前の通り、江戸初期まで宿場街であったが、度重なる火災や氾濫により川の流れが変わり、下流の桂野宿に移したといわれてます

古宿公会堂を右に見て先に進むと、右手民家の傍に 祠

やがて県道と交差する信号交差点にでます交差点を横断すると、古宿川と宿川(左へ)が分流します。街道は右の古宿川に沿って進みます

分流地点から古宿川を振り返る

宿川に沿って進みます

少し進むとJR岩徳線の一両編成の列車が走るガードを潜りすぐ宿川と共に左に折れます

右の山裾を通る県道と、左の岩徳線の間の旧道を宿川に沿って進みます。相変わらず快適な気持ち良い街道歩きです。この付近は一軒屋です

左に平行していた岩徳線が欽明路トンネルに入ります、出入口が左に見えます

二軒屋付近です、この辺りに 二軒屋一里塚跡 ですが確認はできません

右からの車道と合流します

合流した先100m程で左の古宿川に架かる橋を渡り、右に折れ対岸の川沿いの道を進みます

橋を渡って250m程川を右に進み、再び川を渡り左に川に沿って折れます

その先で蛇行した川を二回渡り、右からの車道の側道に出て、そのまま左に古宿川、右に車道の間を平行して旧道を進む

欽明峠への旧道を緩やかに上っていきます途中で左の川がなくなります。さらに蛇行しながら上ります

やがて車道(岩国玖珂15号線)の高架を潜り左にカーブして登っていきます

急な坂道となり、左の車道が欽明路隧道に入るトンネルの入口が見えます長さ1136m

トンネル入口を左に見る辺りから急坂となりますでも舗装された車の通らない道である国は楽です

間もなく中峠に着きますが、その手前の急坂の道はコンクリートで滑り止め道路となっています。かなりきつい登り道です。中の峠 駕籠立場や茶屋があったそうです

中の峠を越えると下ります

下っていくと道が三つに分岐している辻に出ます

一番左の道を進み欽明路トンネルの上を越えて南に進みます。
分岐点、真ん中の道が写真の右に下る道ですが、車通行止めの枠がされています。人もこの先で川により通行できません。この道の先で、右(北)から谷川が接近します。
かつての旧道はこの道を下り川を越えて左にカーブして、谷川を左に沿っていたようです。その旧道が南の方で少し残っているようです。左の新しい道路を下っていきます

下っていった先で道は分岐しますので右の道を下ります

分岐の辻が欽明路峠のようですが、何も表示がないので確証がないですが、今は舗装道で簡単に超えられますが、かつては山中の厳しい道で難所であったようです。
この峠の下は道路や線路のトンネルだらけになっています

欽明路峠
岩国市と玖珂町との境界にあたります。標高210m

この辺りの下をJR岩徳線欽明路トンネルが通っています

すぐ先で道は同じように分岐しています、右の下る道はかつての旧道でないだろうかと思ったがすぐ先で消失。先の分岐を右に進みます

分岐を右に進むと200m程で右から欽明路トンネルを出てきた山陽自動車道の上を欽明橋の高架橋で西側に渡ります

陸橋より右(北)の山陽自動車道が欽明路トンネルの出入口。かつての旧道は、丁度トンネルの出入り口辺りを右から左に旧道が通っていた。今はその軌跡を偲ぶことはできない。想像するのみであります

道なりですが、欽明路橋を渡り200m程西に進むと右にUターンします、そして蛇行200m北に、再び左にカーブして西へ

最終のカーブで西に進む手前右に、かつての山陽道の旧道跡が少し残っています。この先が山陽自動車道で前述のトンネルの入り口のところです

左にカーブする右角に案内板

欽明路峠を下って山麓の集落に入ります。この辺りの地下をJR岩徳線が走っています

前述の消失した古道のすぐ先左にカーブする右手に案内板が立っています。その横にも古道跡らしき上る道が少しだけ残っています。前述のと、どちらが消失した古道跡なのかチョットわかりませんが。山陽自動車道で遮断された古道は、この辺りに出てきていたことは確かですこのように想像しながら資料を見て歩くのが楽しいです

案内板の前あたり下ってきた街道を振り返ったところです

その先右手高台に 日蓮宗宝光山欽明寺
境内に大きな楠と観音堂があります鎌倉時代は禅宗であったが延徳三年(1491)焼失後、慶長八年(1603)日蓮宗に改宗正面右塀と石垣の下に撮れていないが 石仏がありました

玖珂町の集落を進みます、山里の長閑な街道で人も車もなく一人歩きが勿体ない

欽明寺より100m程先、右手に武田屋敷があります

小川に沿って少し入ります 周防源氏武田氏屋敷跡 入り口の案内標柱

鬱蒼とした樹林の中に長い塀が見えます

周防源氏武田氏屋敷跡・墓所
武田氏は甲斐武田に住していたが、鎌倉幕府により甲斐と安芸の守護となったが、元徳元年(1329)武田信宗の時に安芸銀山城を築き守護として入城した。
戦国時代に入り毛利元就の支配下に入った。天文九年(1540)十一月、安芸源氏の武田小三郎は、毛利元就の援助により欽明路に移り、周防源氏の祖となり刑部少輔を称した。
その後、徳川時代に至り、文政元年(1818)12世武田宗左衛門はこの地に文武両道の稽古屋敷を設けた。
明治時代に入り中野口小学校の前身になった。その後、明治・大正時代に入り学校等設置に尽力して、中等教育の向上に努めた。
大正六年武田氏は呉市に移転、大正中学校を設置し、その後も呉港学園として現在に至る。
武田屋敷内には、門と白壁の築地が残り、
裏山には、安芸から移された古い墓があります。(案内説明板より)

門を入りますと 歴代の武田氏の墓所

宝篋印塔 武田信宗墓 五輪塔 武田光和墓

右に文政元年 稽古屋敷創設地碑

かなり荒れています、整備して史跡として残してほしい。小川を渡り西に進みます

右は山、左は田畑、長閑な里道が続きます

右に砦のような石垣と塀を備えた大きな屋敷、野口地区に入ります

岩徳線の欽明路駅が左に見えます

街道右側に鳥居、この奥に入っていくと 上野宮社

街道はその先で左にカーブして川を渡ります

岩徳線の上野口第2踏切を渡ると道は分岐していますが、右の線路に沿った広い方の道を進む。暫くの区間山陽道は右の岩徳線に沿って西に800m程進みます

野口下地区に入りこの辺りに 野口一里塚跡 踏切の少し戻った線路際にあったようですが今は痕跡がありません

丈六第5踏切を右に渡りますが、踏切の手前左を見ると小さな丘があります 亀山(明神山) 秀吉が九州島津氏征伐の折、休憩するため 茶屋 を建てたといわれる場所

小さな  が建てられている

山陽道は一里塚跡のすぐ先、右の丈六第5踏切を渡ります

丈六寺跡
丈六第五踏切を渡り数十m先右に入る辻を右に少し入ると丈六寺跡に出ます。丈六寺は玖珂の 大庄屋岡家の菩提寺墓石群

また 鞍懸城主杉隆泰の供養墓 があります

丈六第5踏切を渡ったあたりから【玖珂本郷宿】に入ります
欽明路峠から西へ2㎞程進むと玖珂本郷宿、山間の開けた土地で、水田に恵まれ、後白河法皇の長講堂領の一つで玖珂庄の中心として栄えた。長講堂とは、後白河法皇が六条殿内に作った持仏堂の名です。近世に入り、山陽道沿いに市が立ち、岩国藩主の御茶屋も設けられ、宿場町として賑わった

玖珂本郷宿への街並みに入ります

やがて広い車道に出ます、横断して向こう側の細い道を進むのですが、車が多いので右の八幡下信号交差点を迂回します

八幡下交差点に迂回すると常夜灯が二基立っています、道路を横断して参道を北(右)に入って行くと

岩隈八幡宮

岩隈八幡宮から下ってきて、八幡下信号交差点に戻り交差点での南側が分岐しています、右の道を進むと50m程で前述の山陽道が左から合流してくる十字路にでますので、十字路を真っ直ぐ進みとすぐ、岩徳線のガードを潜ります

十字路から120m程先で道は分岐しますので真っ直ぐの右の道を進む

街道は真っ直ぐですが、広い方の左の道を200m程入った当たりに 大庄屋岡氏(豆田屋敷)の屋敷跡ですが何も痕跡はありません

元の分岐に戻り、右の旧道を少し進むと右に大きな碑が建っています
義民田坂市良右衛門の碑
江戸時代末期の文政十二年(1829)に生まれ明治二年に四十歳で没した。田坂家は代々町方大年格を世襲していた。安政年間(1854~59)民の窮状を見かねて代官に直訴。代官は岩国山の牢獄に265日間幽閉し、桂島に流して田坂家を没収するところであったが、村民有志の訴えにより刑を軽くして釈放した、その間四年二か月で一年後にはれて無罪となった。
其の後職に復し村民の税の負担を軽くするのに努力する。幕末には農民の子弟には剣術・兵法も学ばせた。明治二年三月二十四日四十歳で没し、葬儀に会葬する人々が二千人に達したといわれる、生前の偉業が如何に素晴らしかったことだろう

傍に  もあります

その先T字路に突き当たります、街道を振り返ったところで、この突当りを右(写真向かって左)へ折れますが、この角を市頭の角と呼ばれている。突当りにこだま美容室があります

市頭の角ここから西に向かい、玖珂本郷の街並みです

市頭の角を右に折れて振り返ったところ

すぐ右に 浄土真宗本願寺派蓮光寺 1661年の開基

すぐ先右に細い道を入ると 曹洞宗宝山祥雲寺

境内に 鞍懸城主杉隆泰父子の墓
守護大名大内氏の重臣杉氏の菩提寺で、かつては24ヶ坊からなる大寺院であったが、弘治元年(1555)、毛利氏に攻められた鞍掛の戦いで焼失した。慶安年間の吉川氏の援助を受け、野口の地に再興され、元禄十四年(1701)この地に移転した

祥雲寺の北側、玖珂駅の東側のも 浄土宗正光寺 があります

その先、町の中心玖珂駅前信号交差点を横断します。交差点を右に行くと岩徳線の玖珂駅に出ます
さらに北に行くと、鞍掛の戦いで戦死者を埋葬した 千人塚、また 鞍掛城址の鞍掛山(240.1m)に行けますが少し遠い

玖珂駅への町筋

交叉点を横断して直ぐ右に 浄土真宗青雲山明覚寺 立派な門が立っています

鐘楼門 といい 本堂の屋根 は立派で綺麗です

隣に 恵比須神社 隣の鐘楼門や大屋根に圧倒されます

明覚寺のすぐ先に交差点があります、右角に岩国市役所の支所の建物、その北側に玖珂学校があります。この辺りに
代官所跡・御茶屋跡・本陣跡 がありました

交叉点から宿の街並みを振り返る

交差点左の道は 柳井への道

すぐ先で振り返ると、玖珂町の案内ゲートが立っています

街道右に 浄土真宗本願寺派大福寺

大福寺の向かい南への道は 柳井小路で柳井への道、前述の道と少し先で合流します

その先、新町に入り右手にも立派な門が建つ 浄土宗知恩院派浄光寺

すぐ先水無川の手前右に 高村酒造の立派な旧家 があります
高村酒造の屋根の下に杉玉高村酒造の前から街並みを振り返ったところで、この辺りで玖珂宿も西の端になるのだろう

水無川に架かる水無橋を渡ります。橋から右(北)の 鞍掛城址

街道を進む

水無川のすぐ先左に阿山公会堂を見てすぐ右に 浄土真宗本願寺派萬久寺

宇野泰信上人の碑 塾を開いて千人余りの子弟を教えた
宇野筑後の墓
鞍掛の戦いで主君杉隆泰父子を守り討ち死した武将

街道右に 鞍掛城址(鞍掛山240.1m)鞍掛山の背後には 蓮華山(576m)

素晴らしい玖珂の街並みを振りかえる

少し先右手に 菅原神社 神社にモミノキ・サカキの古木があります

境内にある 共同井戸

神社の向かい(街道左に) 出雲大社玖西教会

周東千束地区のこの辺りに鎌倉時代後期の 刀工二王清綱屋敷跡(今は畑になっている)街道左へ山裾近くに進んでいくと 杵ヶ崎二王清綱鍛冶屋敷跡があるそうです

周東町下久原地区の町並み

傍楽進んでいくと街道は右の国道2号線に接近して、その南側の旧道を平行して進みます。右国道の山の上への石段が見えます 須佐神社

須佐神社の小高い山

すこし進んだ右に 常夜灯二基と妙見社の道標 「これよりめうけん乃ふもとまで二十一丁妙見道従是」

ナフコを右に周東中学校を左に見て進んでいきますと東川に出ます

東川の架かる東川橋を渡ります東川の川原300m程左(下流)前方の橋の先
享保一揆高森許場跡
享保二年(1717)に端を発した岩国藩への百姓一揆が数年がかりで、享保6年1月6日一揆の首謀者庄屋等8人断罪、21人遠島が申し渡された騒動事件

東川橋を渡り少し進んだ左に、明治期の地元有力政治家 三戸熊太郎翁の遺徳碑

碑のすぐ先右の周東幼稚園があり、すぐ先の右に椙杜八幡宮の鳥居と参道があります。鳥居は古く元禄四年(1601)に建立

参道右に高森保育園があり、背後の杜が 椙杜八幡宮 遥背後の右手に 蓮華山(576.4m)があり 蓮華山城址 ですこの付近は、秀吉が陣営を構えた一帯

蓮華山城主であった椙杜氏が創建されたと伝わる
椙杜八幡宮の樹林には、高木層、亜高木層、低木層、草木層で構成されている貴重な樹林

椙杜八幡宮の神馬

境内右に 大師堂と地蔵群

参道の入り口附近に 高橋一里塚跡 参道の左、高森小学校に 久原村米蔵跡であったがいずれも痕跡はない

【高森宿】
高森宿から南の柳井に通じる街道が通り、柳井は瀬戸内海に突き出す熊毛半島の北東部に位置する瀬戸内海交易の要衝。高森宿には本陣・脇本陣が置かれた、宿の西には島田川が流れる

すぐ高森信号交差点にでて、周東町高森宿の町並みに入ります

すぐ50m程先で十字路に出ます、山陽道は真っ直ぐ進みます。十字路の右手前辺りに 番所・御物送り場・高札場跡 であった十字路は 柳井道・山代道・山陽道との分岐点でありました

十字路を右に折れる北への道は 山代道と呼ばれています、右に入ったすぐ右手に

浄土真宗本願寺派松林山受光寺 鞍掛の戦いで敗れた、鞍掛城の家老宇野筑後の嫡子が出家開祖した寺

十時字路より宿の街並みを振り返る

十字路左への 柳井道

十字路右角にたつ 道標「是 妙見・・・」下部の文字が埋もれていて分からない

十字路を越えた辺りの街並みは素晴らしい

右に海鼠塀の立派な酒造業の旧家

西側に 高森本陣跡
本陣門と塀が残る本陣の街道挟んで向かい側辺りに 脇本陣跡であるが今は残っていない

左に西岡金物店の先の十字路を左に入ると 浄土真宗本願寺派明専寺

その南西に 浄土宗天光山浄泉寺

街道に戻り十字路を右に入ると 報明寺

報明寺の北側に 宇野千代の文学碑

その先左電柱と民家の塀の間に 吉田松陰先生宿泊之地跡碑

すぐ左の坂本歯科の向いに 熊太神社

高森駅前信号交差点に出ます、山陽道は真っ直ぐ。
交差点を右に行くと岩徳線の周防高森駅。
左に2㎞程行くと、幕末長州遊撃隊と幕府軍が戦った 通化寺 があり、遊撃隊が勝利し倒幕への助走となった通化寺は大同二年(807)弘法大師が創建したと伝わる古刹で古高野とも呼ばれています。雪舟が造ったといわれる風雅な庭が残るまた長州藩の軍服が展示されているそうです。
寄りたいがちょっと時間的に無理なので寄るのは諦める、交差点と高森宿の町を振り返る

交差点を越えて西に真っ直ぐ進みます左に油屋旅館があります

左に下市公会堂を見て、その先左の大中商店のところで島田川に突き当たるので右に折れます

右に曲がる高森宿の西の端から高森宿を振り返る

道は分岐しているので、左の堤防道に上がる

堤防から右手を見ると 高森天満宮 菅原道真が九州大宰府に行く途中立ち寄ったといわれる

左に島田川に架かる鮮やかな朱色の天神橋を見て堤防上を進みます

右に高森天宮の 本殿

天満宮の向かい辺りがかつての 島田川通船発着場跡

左側島田川の渡し場跡と天神橋

暫くは堤防上の道を進み、やがて左に川と共に左に大きく弓なりに曲がります。堤防上に安全柵がされて安心でまた景色もよく散策には素晴らしい

左緩やかにカーブした右方向に石柱が道路沿いにあり、参道が伸びています

遠望、山際近くに 斎宮神社 が見える街道から往復10分ぐらいのところ

その先堤防道を天神橋から850m程進みますと、左に天神橋の次の米川橋があります、そこで堤防を下り144線を進むことになります

144号線を左に緩やかに円を描きながら、右手に市立よねかわ保育園を見て、更に米川小学校の手前の分岐で右の道を道なりに右にカーブしながら進み、米川橋から750m程先、小学校が切れたところで小川を渡り、さらに100m程のところで末法川に架かる橋を渡ります

末法川を渡った右に高森福祉会老人ホーム高森苑が見えます、200m程進むとJR岩徳線に突当り街道と左の島田川が左にカーブします
左にカーブするところで、今でこそ舗装道路で何のことはないが、かつては掛ノ坂と呼ばれた難所でした

左にカーブする島田川の対岸に 狼煙場の徳王山跡 が見えます

すぐ右手に 義奴碑(孝行塚)

孝行塚の前を振り返ったところ

右に岩徳線、左に島田川の間の道を1300m程景色を見ながら進んでいくと、左に島田川に架かる蛍橋があります橋を左に見て100m程進む。差川地区に入ります、道は分岐しています、左の道は堤防上に進む道で迷いますが、広くなっていてバス停があります
堤防上に分岐する辺りに 差川一里塚跡 があったようですが、今は確認はできません。また分岐する右手の岩徳線辺りに 差川村米蔵跡 があったそうです
左の堤防上の道を少し進んで振り返ったところで、向かって右は島田川。

島田川に沿った堤防上の旧道を500m程進みます

防上から右を見ると岩徳線の米川駅が見えます

優しい地道を進んだ先で右からの144号線が合流します

合流する地点から堤防上の旧道を振り返る

左の島田川に合流する長野川に架かる隅名橋を渡り振り返ったところ

橋を渡ったすぐ右にある 天王社

隅名橋から進むと変則差川交差点に出ます。144号線は左にカーブし、街道は正面二階建ての民家の右側を抜けます。144号線に沿って2.4㎞程行った山陽自動車道沿いに、禅寺の貞昌寺があります。毛利元就の歯廟がありまた、毛利氏の重臣宍戸氏の菩提寺でもあります。遠いので寄ることができません。

十字路を右に折れると、岩徳線のガードを潜り長野川に沿って上流(北)に進んだ先、中差川地区の山陽新幹線の手前辺りに 仁王清綱杵ヶ迫屋敷跡 があるそうです

下差川の集落を進みます、集落の中で左に入る旧道 淡海道 があるのですが見落としましたが、前述の貞昌寺へはその旧道、淡海道を進んでいたようですが途中の山陽自動車道で廃道となっているようです

旧道は分岐します、左の道が江戸期の旧道で、真っ直ぐの旧道は明治新道です

分岐する右手に 観音石佛 が並ぶ

その石佛の背後に 第三番の祠

さらにその上の平らなところが 古刹 宝泉寺廃寺跡

丸子坂上り口について
石佛の前の分岐を左に下ります。真っ直ぐの道は舗装道の旧道で明治新道でしたので、万一左の江戸期の旧道が消失していた場合はここに戻ってきます。
やはり一度挑戦してみます
分岐道を左に少し下り進むと、小川の小さな橋に出ました。丸子坂の旧道は橋を渡ったすぐ民家の手前右に上っていく道です。

坂の途中から旧道を振り返る 

この丸子坂の資料については、街道歩きの第一人者と思っている、関東在住の「一歩」さんの資料を参考にさせていただいています。
橋の向こう側左にかつては農家があり、(現在は田)広くなっていて、この先、急な丸子坂を上るにあたり、馬を休めたり飼葉を与えたりする場所に利用されていたそうです。  
また橋を渡った右に上る左側の民家は当時無く、旧道も狭くもっと急な坂であったようです。またこの急坂を上るにあたり馬の粗暴を防ぐため3~6ℓの血を抜いたという瀉血場は、水路手前の広場にあったそうで、驚きました初めて聞いた話です

坂を上るとすぐに地道の山道に入り、枯れ葉が絨緞のように敷き詰めた狭い旧道です

やがて竹藪にでて道は分岐しています、分岐する正面が小山になっています、右に折れるようです

その先で結構幅が広い綺麗に整備された両側笹薮に挟まれた道になっています。本数年前までは笹薮で道は殆んど消失していたのを、素晴らしい道を復活していただいたようです。地元の方が整備、ありがとうございました

水路に沿った道です、前方が開けてきました

距離にしてあまり長くはないのですが、竹藪に覆われた道を復活するのに地元の人の大変な労力であったと感謝します。難なく素晴らしい丸子坂を歩けましたありがとうございましたお陰で元の明治新道の分岐まで戻らなくて済みました

右に進むと新道(142号線)に合流します後でわかったのだが、その手前の畑の中に 野面角柱(石仏の田)と呼ばれている大きな石があったようですが、後の祭りです
一歩さんの素晴らしい能力には足元にも及びませんありがとうございました

右からの明治新道に合流して坂を上っていきますいずれも振り返ったところです

丸子坂を過ぎて明治新道と合流し少し進んでいったところで 中山峠 に着きます

その手前左手の小高い所に 賽の神があったのですが見落としました(注意力散漫)

中山峠はかつて 御駕籠立場跡 であった

周南市に入ります

中山峠の右に 郡界の道標 「従是 西熊毛郡 従是東玖珂郡」

中山峠北に 狼煙場:中山峠北方跡 があります

峠を下っていきます

峠を下る途中の左、遠望に城山(318.8m) 古城 三ッ尾城址 があります

峠から500m程下っていくと右からの道が合流します

合流して400m程下っていくと、右の中山トンネルを出てきた岩徳線の中山道踏切を渡ります

踏切を渡り左に、暫く左の岩徳線に沿って400m程街道を下っていきます

樋口地区に入り小川を渡った右に 宮川米水の碑 と背後の少し高台に 

その先200m程先、左岩徳線の高架下のトンネルの手前 二基の常夜灯 トンネルを抜けた南、上清尾地区に 高水神社の参道入口の常夜灯です、神社奥の院には 夫婦岩があるそうです

高水の集落に入り、常夜灯を左に見て200m程西に進むと

石光川に突き当たりますので右に数十m折れて左の石光川に架かる今市橋を渡ります

川に突き当たった右に折れる右角に 高水村塾之跡碑 があります塾は麿鐵塾といわれました

またここに 今市の一里塚跡 であったが痕跡はありません

北側の高台には 浄土宗本願寺派法王山正覚寺
光融院ともいい、本尊は阿弥陀如来で寛永年間(1624~43)に創建され、天明年間(1781~)から今市宿の脇本陣として利用されました

立派な 鐘楼門

正覚寺の高台から、西に真っ直ぐ延びる今市宿
【今市宿】
今市宿の街並みは短く、隣の(西)呼坂宿まで2㎞程しか離れていなく、宿の機能は両宿で持っていたと思われます

今市橋を渡るとすぐ左に 酒屋竹本本店の土蔵がある建物

すぐ右手の門のある旧家の角に 道標 「北米川川越桑根村約四丁上西八代中須村道」

道標の前から宿の街並みを振り返る。街並みの情緒が残る

右に 火除地蔵

宿の街並みを振り返る

右に公園があり街道沿いに 第八十八ヶ所の仏

公園のすぐ先で左の岩徳線の上を陸橋で越えます。陸橋を越えて緩やかな上り坂を400m程進むと、右に岩徳線の高水駅が見えます。高清水駅の50m程南側の交差点に出て真っ直ぐ街道は進みます

交差点を過ぎた右手、田の向こう側に長い白い土塀が見えます。大きな屋敷ですが、元庄屋山本権蔵氏宅か、それにしても離れてみてもあれだけの敷地

庄屋宅より西に100m程進んだ北への小路入ると、左手赤屋根の平屋と横の廃屋の一角が 呼坂御米蔵跡 があった。この辺りはすでに呼坂宿に入ります

本日は切りの良いここで終了して高水駅へ行き、岩徳線で今夜の宿泊先、徳山駅へ行きます。31.16㎞歩きまずまず体調も良好。徳山駅前アルファーワン徳山に宿泊

次の日はコチラ

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