山陽道 19日目

2011年12月14日

高水駅~福川駅
徳山駅近くのホテルアルファーワン徳山を6時50分出発、7時10分の岩徳線で、昨日の起点高水駅南側の交叉点である山陽道をスタート。
      昨日の起点   7時45分 スタート
      福川駅    16時50分 着
        50.961歩  30.57km  2.246kl

本日2回もいいことがあった
1回目は、花岡神社で犬を連れて散歩していた人に声を掛けられ暫く雑談をした。四国88か所を車で回って高野山へも5回も参っているとのことで、そのおじさんは神社の正月のしめ縄等の準備をしていた。
神社に秘伝の刀を保存しているとのことで、公開は年1回の祭り時であるが、折角来たのだから見せてあげようとわざわざ社務所へ鍵をとりに行って下さり、神官さんに無理に見せてあげてと頼んでくれた。非常に親切にして頂き有り難かった。
2回目は、街道とばかり思って歩いていたらおじいさんが家から出てきて声をかけていただき、旧道はこの道の上だと教えていただいた、普通に歩いていると分からない旧道を教えてもらった。ここでも地元の人から親切に声を掛けていただいた。そのおじいさんは高野山の下の笠間地区の人で、お父さんは大坂難波付近の出で関西に縁が深くよけい懐かしく話が出来た。
気持ち良い1日であった。
今晩も昨日と同じ徳山のアルファワンホテルで泊まる、ホテルは手ごろな値段で接客も良かった。 

【呼坂宿】
岩国と徳山を結ぶ内陸を走る岩徳線に沿って旧山陽道の宿場が残る。
現在の山陽本線は瀬戸内海の海岸線を走り発展したが、内陸の宿場の街並みは衰退した、沿道地元の運動により岩徳線が開通した。
呼坂宿は丁度岩国と徳山の中間の位置になる。本陣や宿場の機能を要した、今も宿場の雰囲気が残る街並み。また安政の大獄に連座し江戸に送られる吉田松陰を、熊毛郡出身の愛弟子の寺島忠三郎が見送ったという宿でもある。寺島忠三郎も5年後の禁門の変で敗れ、京都の近衛邸にて久坂玄瑞とともに自決した22歳の若さであった。

JR岩徳線の高水駅南に来たところの十字路の山陽道起点 

高水駅南の交叉点から400m程進むと交差点に出ます

その途中昨日見た大きな屋敷が右にあります。 旧庄屋山本権蔵氏宅 庄屋跡 より西の東原集会所近くに 呼坂御米蔵跡それにしても大きな屋敷、如何に庄屋というのは大きな権力を持っていたのか

400m程先の左にJAがある、すぐの交差点で山陽道は真っ直ぐ進みますが、右に少し入りますと左に
寺島忠三郎の誕生の地説明板

寺島忠三郎は明治維新の志士でここより西五十mの地で誕生しました。十六歳で松下村塾入り吉田松陰の弟子となった。1864年7月禁門の変のとき来島又兵衛・久坂玄瑞らと共に皇居蛤御門で激しい戦いの末、幕府軍に敗れ久坂玄瑞とともに自刃した、その時若干二十二歳の若さであった。兄寺島秋介は1868年長州・薩摩連合軍(新政府軍)の副参謀として江戸に向かい江戸城の明け渡しを受けた。兄弟ともに全力をつくして明治維新に大きな貢献をした。(周南市教委)
その先50m程西に入ると西原集会所があります。その敷地内に 誕生の地碑と辞世の句と祠

交差点に戻り土塀の美しい西原の街を進む

右に 橿原神社

橿原神社の隣に 金比羅神社

神社前の道へ左に西田酒店を見て進むと左に 呼坂宿本陣跡(河内家)

河内家は代々庄屋や大庄屋を勤め、天明年間(1781)より七左衛門が本陣を引き受け、参勤交代の大名や幕府の上使が宿泊や休憩をとった場所です。
河内家には今も大名等宿泊、休憩の際の「お休み札」、「宿泊の部屋」、安政三年(1856)より約三十年間の「萬日記」、当時の「屋敷見取り図」、そのほか貴重な資料が保存されています。河内七左衛門は「御報恩の為、自力を以って相勤め、格別の御仕成御座無候」と古い記録にあります。(周南市教委)

本陣跡を西から見る

すぐ先で中村川に架かる呼坂橋を渡ります 橋の渡った左の二階建ての建物は木戸孝允(桂小五郎)の祖父町医者の
藤本玄盛の旧宅

その向かい 呼坂橋を渡った右に 吉田松陰と寺島忠三郎の訣別の地碑 が建つ安政六年(1859)6月3日ここで見送るが言葉にならず、師を黙して見送るだけであったという

      かりそめの 今日の別れは 幸せなりき ものをも言ハば 思いましなん    松陰
      よそに見て 別れゆくだに 悲しさを 言うにも出でば 思いみだれん    忠三郎

碑を後方から見る手前の広場は 馬立場跡

すぐ右の山田商店の裏庭の土塀の中に 西町の市戎 屋根のみ見える

すぐ先が十字路で越えた辺りに 高札場 がありました

十字路を右に折れたところ右手に 真宗本願寺派萩尾山西善寺

西町の高札場辺りが宿の西端になり、街道は十字路から上り坂で古市坂と呼ばれた難所でした。街道は十字路を越えて150m程先で左にカーブします

左にカーブするところから振り返ると呼坂宿が一望できます

坂を上り左にカーブした先50m程で右に直角の曲がります

すこし平たんになった道を進むと左に 十一番の観音堂

その先左に 

祠のところで右に下ると、その下を岩徳線が地下のトンネルで抜けていて、正面に2号線があります

その手前の細い道を左に折れます

左に折れてすぐ先で、再び少し左にカーブして岩徳線のトンネルの上を西側に出て岩徳線と100m程並行して進み、少し左斜めに線路を離れたところで高架道路の下を潜ります

その先100m程進んだ十字路を右に折れますと、すぐに岩徳線の大江踏切を渡ることになります

踏切を渡り分岐を左に折れて、弓なりに右に進むと、2号線に出ますので左に折れる。右手に松本医院があります

2号線を少し進んでいくと、手の込んだ周南市勝間歩道橋の南袂の旧道を左に入ります。150m程先で川を渡ります

さらに右に岩崎酒店、左に周南市勝いセンタ―を見て140m程の先で広い道の交差点に出ます
街道は真っ直ぐ進みますが【寄り道】をして、交差点を右に折れ2号線を横断して北正面に見える、切り立った山の山麓にある、熊毛神社に寄ってみます

正面鳥居手前の分岐右斜め奥に 元神光院の本地堂 明治の神仏分離令で解体されたが、このお堂に元神光院本尊仏外が収蔵されています

鳥居を潜り石段を上っていくと 熊毛神社 神社の諫鼓踊(かんこおどり)が有名です

熊毛神社の石段からの街道方向を見る

 山陽道の交差点に戻り、西に150m程進むと川を渡ります、そのすぐ先右斜めに進むと2号線が右から合流します

合流した右手方向を見ると御所尾原団地 太閤秀吉陣所跡
神社で話を聞くと秀吉の銅像もあるらしい。前半生の秀吉は好きであったが、天下を取った晩年の秀吉は好きでない

2号線を進み右勝間保育園のすぐ先の信号交差点を右斜めに旧道を入ります2号線の右側を少し迂回ながら進み、2号線に再び合流します

2号線に合流する手前右の斜面に見落としそうな小さな お地蔵さん すぐ岩徳線を路線橋で越えます。2号線に合流横断して左(東)側の細い側道を次の信号まで進みます。信号の左側に勝間郵便局があります

その先2号線を暫く進んでいくと、遠見信号交差点と小川を渡り、信号で2号線の右側に横断しておきます。信号の先すぐ右に入る細い旧道があります。その左に 遠見の一里塚跡 ですがなにも痕跡はないです

右の一段高い地道の山裾の旧道を進みます

200m程進んだ先で、竹藪に入ります、すぐ右手に岩徳線が走っています

竹藪の先、殆んど道が消失していますが、冬場なので何とか抜けて2号線に出ることができました

岩徳線のガードの手前、向かって右に何とか出てきました。少し手前から写しました

かつての旧道は前述の竹藪を抜けて今国道に出てきた、岩徳線の線路の高架の手前に出て、そのまま真っ直ぐ線路に沿って200m程進んでいたようです。その旧道跡のような道が残っています。
その道を少し進むと線路に遮られて消失しているのがわかる。正しいかどうかわかりませんが、そして線路を斜めに進んでいて右に川が見える辺りで線路より右側斜めに進み、川の南岸を進みモトヤマ運輸の前で2号線に合流していたようです。
線路より斜めに進み北側に出た右辺りにかつて 御腰掛茶屋跡・駕籠立場跡 があったようです。(あくまで資料を参考にして調査の結果で私の想像です)

写真の岩徳線のガードを潜りますが、その前に前述の、国道へ出てきたガードの手前を横断して入っていく道がありますので行ってみます。(幟の立っている横です)

入っていくと右に岩徳線が近づき左に民家があります、居住されているか確認はできませんでした

左に民家を見て少し入ると、完全に藪で道が廃道になっています、このまま真っ直ぐ線路を斜めに通っていたのではないだろうか

元の幟が立っている2号線に出てきました、正面が何とか通ってこられた旧道跡。左に折れて岩徳線のガードを潜り左にカーブしながら2号線を進みます

岩徳線のガードから2号線を左にカーブしながら120m程坂を上ると、小さな川を渡りますが、その手前左に駐車場がありその奥辺り、岩徳線で消失した旧道との間に、御腰掛茶屋跡・駕籠立場跡 があったようです

その先左にモトヤマ運輸があり、向かってこの建物の右辺りに、前述の民家の横の消失した道が林を抜けてきていたのではないだろうか。道筋としては十分つじつまが合います。モトヤマ運輸を振り返ったところです

2号線を進みます、前方に山陽自動車道の高架が見えてきました。坂道を登っていきます

山陽自動車道を潜り左を見ると、左に岩徳線の大河内駅が見えます

高速道を潜り右手の山には 狼煙場跡 です

また往時はこの辺り 字峠 と呼ばれた峠であったが今は峠を偲ぶことはできません。
その先すこし進むと右にローソンがあり峠市バス停があります。左に折れる旧道がありますので左に進みます

左に入った右角に 郡境碑 「東 周防之國熊毛郡 西 周防之國都濃郡」碑

すぐ先右に峠市 戎神祠

暫く歩いていくと、2号線の峠市の信号交差点で左に分岐してきた道路に出ます、道路を横断して少し入り左にカーブすると、すぐ左からの2号線に合流します

左の2号線にすぐ合流したところで道路標示があります、下関の名前が出てきましたがまだ115㎞もあります

暫く2号線を進むと、左に黄色のぼっくり屋の看板があります、そこを右に入る旧道を進みます

国道の左斜めに入ると岩徳線の周防久保駅です

 橋を渡ると左から久保駅前信号交差点からの道路に合流して右に進みます

その先左に大きく弓なりにカーブして進み岩徳線のガードを潜ると、二ノ瀬信号交差点に出ますので右の広い道に折れます

広い道の少し先で切山信号交差点に出ますので横断して真っ直ぐ進みます、左にヤンマー農機販売下松支店があります

その先で道が分岐しているので左の旧道を入ります

【久保市宿】
特に資料もなく、本陣もなかったようで茶店や立場ぐらいの機能をしていた宿間であったかも詳細は分かりません

すぐ切戸川に架かる二ノ瀬橋を渡りますここから久保市宿に入ります

久保の静かな街並み橋を渡った先は右から左に弓なりにカーブします

左側の高台に 

祠のすぐ先で、切戸川に架かる久保市橋を渡ります

橋の手前袂を少し左に入ると 由加神社

切戸川に架かる久保市橋から神社全体を見る、鳥居の横に 大師堂

久保市橋を渡った先の久保集落の街並みを進むと、右に立派な旧家が建っています

少し進むと右に久保小学校、小学校の西端で道は分岐します、右の旧道に入ります(マイクロバスの背後)

入った右に 久保市の戎神祠

すぐ左手、西蓮寺の石垣の袂に 第四十七番の大師堂

大師堂と久保市の街並みを振り返る

立派な石垣の高台に 浄土宗瑞雲山西蓮寺 門前に 小林武作君之碑 米の改良に貢献した人

すぐ先左に 妙見社の献灯

久保市の坂道を進む、両側に石垣の配した大きな屋敷が並び街道風情があります

その先右手140号線の北側に鳥居が見えます

鳥居を潜り参道を上っていくと 日の丸実印神社の鳥居 と思われます
鳥居の右手に 浄土真宗本願寺派光円寺 があります

この辺りから岡市に入ります

右手に 岡市の戎神祠と燈籠

右から140号線に接しますが、合流せず左側の旧道を進みます。岡市のこの辺りを しおりが峠と呼ばれています

その先220m程進むと、右の国道2号線山田信号交差点からの分岐してきた道路の十字路を横断します。
十字路を越えた100m程先の変則十字路に出たところで少し下ってほぼ真っ直ぐの道が山陽道です。右の道は140号線から2号線に出ます

変則十字路を進んだすぐ左石垣の上に 

振り返った久保市の集落

しおりが峠(塩売峠)を下っていきます

途中右にホテルクイーンがあります

その先、蛇行を繰り返しながら右の2号線に沿って進みます

2号線に接したところで、左の道に入ります。すぐ右手にサカイ引越センター山口東支社の南側を抜けます

引越センターが過ぎたところから右に小川が沿います、下松市生野屋南三丁目4の表示

その先左に慶応四年の銘がある、戊辰戦争戦勝祈願の燈籠 「御武運長久」と刻まれています

灯篭の前から振り返ったところです

すぐ先旧道が消失していて、国道2号線の下松市生野屋信号交差点に出ますので、右に国道を横断して続いて山陽新幹線の高架を潜り、さらに岩徳線の岩野屋踏切を渡りすぐの十字路を左に折れます

踏切のすぐ右手は生野屋駅です少し先で岩徳線と離れ山陽道は西に進み生野屋西に入っていきます

右手に 浄土真宗本願寺派定栄山教応寺

すぐ先で道は分岐しますので、右の真っ直ぐの道を進みます。この辺りから花岡上市宿に入ります

 【花岡上市宿】
奈良時代からの宿場町で古く、宿内に花岡八幡宮がありその勧請のおり、一夜にして山が桜花で埋まったことから花岡の地名が生まれたと伝わります。宿にはかつて本陣・勘場・番所も置かれ、旅籠や商家が建ち並び大変賑わったと伝わるが現在旅館は一軒もありません。花岡宿には珍しい「狐の嫁入り行列」が行われる花岡福徳稲荷社で毎年11月3日です

新しいが落ち着いた宿場の街並み

左に、蔵造りの千本格子の大きな旧家があります

その先、左に福井酒店があり

左に 

古い建物は少なくなっているが、静かな旧道を進んでいきます、小さな川を渡り西に250m程進んでいくと、左に花岡医院があります

その前から振り返った宿場の街並み左に白壁の旧家

花岡医院の少し先に川があります、その手前右辺りが花岡上市宿の中心地辺りであったようです。右手に広くなったところ

花岡勘場跡・御茶屋跡

本陣(御茶屋)の図

そばに立つ大木 天然記念物花岡ノ槇柏の碑 足元に大筒が二門

すぐ先で小川に架かる橋を渡ります

橋を渡った所から宿の中心地を振り返る、向かって左一帯が 御茶屋(本陣跡)

橋を渡って街道は真っ直ぐ進むが、右に折れた筋左に 浄土宗法静寺

法静寺の境内にある 花岡福徳稲荷社

11月3日に行われる、狐の嫁入り行列の祭りが有名

全景

さらに170m程先右に 金分銅醸造元の酒屋

すぐの十字路右手に、花岡八幡宮の大きな 碑と常夜灯一対 も先の参道を入ってみます

参道を入っていくと右に 亀石 

長い石段を上っていくと

花岡天満宮 親切なおじさんです

ここで前述の親切な方にあって話す中で、神社の社務所に掛け合っていただき、折角遠方より来ていただいたのでということで、年一回の祭り時に見ることができる宝物庫を鍵で開けていただき拝見出来ました
おじさんも高野山に何度も来ていてよく知っていたのではなしもはずんだ

宝物庫に保存している秘伝の 大太刀 が架けていました
ありがとうございましたお元気で

閼伽井坊塔婆多宝塔

境内にセンダンの老木 地蔵院跡 閼伽井坊 閼伽を汲む井戸 があります

記念写真といって貴重な写真を一枚おまけにもう一枚(私としては珍しい)

おじさんにお礼を言って別れました

石段の上からの参道

神社の参道西側に 火鎮天満宮

街道に戻り宿の街並みを西へ暫く進み、左のかつらぎ時計店の先から振り返ったところ

かつらぎ時計店の前から200m程進むと信号交差点に出ます、交差点の左にJA周南花岡がありさらにその先に周防花岡駅があります、交差点を横断して西へ、さらに交差点を進み暫く歩くと、広い道路 41号線の信号交差点に出て横断。交差点右角にセブンイレブンがあります

横断した先緩やかに左にカーブしながら左の岩徳線の高架に近づきます

左に 花岡大師あかい坊の祠 
高架下を潜り南側に出て、道なりに斜め西に進みます

高架を潜った少し先に 広石の一里塚 があったが痕跡なし

右から末武川が接近します

末武川に沿って暫く進みます

国道2号線の高架を潜り200m程進んだ一つ目の末武川に架かる和田橋がありますので、右に折れて渡ります橋から北側の上流、正面に国道2号線の高架が見えます

和田橋を渡り350m程進みますが途中、和田自治会の看板を過ぎ、左手の大きな家の傍に

四国第四十番霊場の立派な 観自在寺の祠

この先で道は分岐です

前述の2回目の親切な方にあった場所
私はここの分岐で少し迷っている様子でした、それを見ていたのでしょう、分岐の右の大きな木の横の民家のおじさんが出てきて、殆んどの街道歩きの人は分岐を左に行くとのことで、山陽道を歩いているなら昔の旧道を教えてあげるとのこと。少し話をしているとおじさんのお父さんは、私の住んでいるところに近い高野山麓の出で何度か行っているそうで、前回と偶然高野山の関係で話を弾みました。
そして旧道を教えてあげようとのことで道案内をして頂きました。
今ではほとんどの人が分岐の下の道を左に進み数十m進み、その先の分岐を右に折れ、小川を渡りすぐ左に折れて川沿いを150m程南に下り、そして道なりに直角に右(西)180m程で、右の池の先で旧道と合流しているのだそうです。
分岐の石垣を左にして数十m右に進むと、小川の手前に十字路があります、小川を渡ると民家が数軒あり地元の方達の私有地のようですが、小川に架かる石橋を渡り左側に出ます

案内していただいた旧道

左の民家とその向こうの離れの前を進みます。確かに私有地なので黙っては一般的には通れない部分です

離れと左の小川の間を抜けます、道というより民家の私有地の軒道です。前面に畑がありその先で右斜めに上り、前面の竹藪の中に入るようです。わざわざここまで道案内をして頂き有難かった。丁重にお礼を言って別れました。 おじさんの後ろ姿ですこの旧道は地元の方でないと分からない、思いがけなくなんだか得をしたような気持ちです
町では出会わない地元の素朴な方たち新設に接しました

右に旧道に入るため分岐した舗装道が、左向こう側に見えています
旅の途中でのこのような親切が何にもまして嬉しいものです

石垣の上の細い道を上り竹藪に入ります、足を滑らさないように注意しながら進む。かつてはちょっとした峠越えであったようです

竹藪に入るところから振り返る
おじさんが見送って頂いていますありがとうございましたお元気で

山陽道を歩いている殆どは、向かって車の向こう側の舗装を歩いているそうです。地元の方達が利用していたのでしょうしっかりと道跡がついています。昔はこの道も下から3m幅があったそうです

坂を上り切ると、十字路に出ます民家も建っています

旧道はここで舗装道を横断して真直ぐ進みます

細い道を進んできた舗装道から振り返ったところ

そのすぐ先右に 

その先で左からの前述の道が合流します

合流地点を振り返る、左から来ました

忘れられた山陽道、大発見凄く嬉しい

合流地点のすぐ先左手奥に 浄土真宗本願寺派順正寺

左に旭ヶ丘幼稚園を見て進み、左一帯は旭ヶ丘住宅地が広がります。すぐ先の分岐を左に折れます

久米市に入り、左に折れて緩やかな坂を130m程下ります、その間右に 久米市の市戎・人馬継所跡・高札場跡 がありました

久米市の市戎

街道は右に折れて進むところ右手に 御旅所跡 の広場があります

神輿の置く台石 が残っていますすぐ左、共楽保育園を見て少し先で

西光寺川に架かる西光寺橋を渡り180m程進むと道は分岐します

その右手に酒造の旧家 山縣本店 明治八年創業、「かほり鶴」銘

山縣本店の前150m程街道を進むと

大きな屋根の豪壮な建物

ここを右に折れました

敷地が広く見ごたえがあります

防長鶴醸造山縣本店 の正面

 正面を過ぎた先右に 

祠のすぐ先で、広い道路に交差して横断します

横断したすぐ先で小川に架かる橋を渡ります

橋を渡った左に 西国二十六番の祠 祠の先左に新鮮市場を見て山陽新幹線高架に向かって進みます

山陽新幹線の高架下を斜めに潜ります

その先の桜木信号交差点で左からの347号線に合流します。右手前にセブンイレブンがあります

347号線を100m弱進む右に 白見ヶ森と伏見稲荷社跡の案内板
この場所は、戦後、花岡の福徳稲荷社の分神を祀ったところで、毎年花岡の稲荷祭礼と一緒に祭りがあり、有名な「狐の嫁入り行列」も花岡からここまで来た盛大な祭礼であったそうです。その後、中止となりお稲荷様も花岡に返され、一時復活して祀ったが、道路改修工事等により、現在は姿を留めていない。(説明文より)

すぐ先で347号殿を左に分け右の早乙女坂を上っていきます

坂を上っていくこと250m程、五月町に入ります、左に山口医院があり近くの右に案内板があります

早乙女坂を下っていく途中で振り返る

早乙女坂を下ると広い道路に交差する信号交差点に出て横断します。交差点を右に上がっていくと、周南市の広い緑地公園でいろいろな競技場があります。信号交差点を横断して数十m先の十字路を越える、その左角にセブンイレブンがあり、更に少し先で突当り、道なりに左に下ります

すぐ先の分岐を右斜めに折れます、右角に大きなマンションの建物があります

右の道に入って数十m先で、347号線の広い自動車道に出ます

自動車道に出たところで右に折れて、すぐ右の自動車道に沿った北側の道を進みます

左国道の向かい側に見える 舊藩舟方跡碑と説明板(船倉跡)交通量も多いし線路の傍でチョット寄れない

遠石宿に入ります

【遠石宿】
遠石の古い街並み 遠石の街は、本朝四所八幡の一つであった、遠石八幡宮の門前町として栄え、また山陽道の宿場として水陸の交通に役割を果たしてきた大きな宿。現在は幹線道路よりそれたため昔の街道の面影を伝えています

右の旧道に入り100m程進んだ先旧道左に 遠石八幡宮の 常夜灯二基と石碑

旧道右の 遠石八幡宮二つの鳥居 を潜り参道を進みます

遠石八幡宮境内の 洪鐘
鐘は全長125㎝、口径73㎝高さに比べて口径がやや大きく堂々とした鎌倉時代前期の鐘で元応二年(1320)の銘が刻まれて 

いる貴重な工芸品 遠石八幡宮 推古天皇三十年(622)が起源と伝わる古社

八幡宮の前を進みます

少し進むと左にどっしりした旧家の建物

旧宿内の梅花川に架かる橋を渡ります

梅花川を渡ったすぐ右手に 灯籠二基と鳥居 が建ちその奥に

大きな岩が鎮座している 影向岩(えいこういわ)推古天皇三十年(622)春の夜、豊前國より宇佐八幡大神が神馬にて磯浜に降臨されたとき降り立った大石との伝承

すぐの街並み両側には大きな旧家が並び情緒があります。その先で道路を横断します十字路左は、347号線の遠石一信号交差点

十字路を横断した右に和光保育園 右手に 浄土真宗本願寺派宝性寺 すぐ道は分岐しています、左に行くと347号線に出るので、右側の細い道を進みます

右の狭い道の入口左に 道標 「出雲国いつはたやくし観音」

この坂は念仏坂と呼ばれる、民家の間の狭い坂道

坂の頂上あたりに 念仏坂の一里塚跡 全く痕跡がないその先、その先、細い道を下ります

念仏坂を下って左の347号線と合流します

この先旧道は消失しているので、347号線を横断して、左の周南緑地の遊歩道を進みます

緑地内の 猿田彦神 祠

殉難七士の塚

347号線を挟んだ東側に遠石小学校、すぐ先左にゆめタウン徳山があり、その角で道は分岐します

分岐するところ街道は左へ、青山信号交差点です

分岐する右角に さすり石

左にアルクを見て速玉町を暫く歩きます街道は整備され旧道の面影は全くありませんが綺麗な道路です

250m程進んだ右手にサーバス速玉公園の信号交差点右角に 孝女阿米の碑

父親を背負う お米像

徳山藩の民で、体の弱い父親が68歳で亡くなるまで自分を犠牲にして、娘が一生孝養を尽くした、徳山藩主の知るところとなり何度か褒美をもらっている。後年「お米」が病にかかり亡くなるとき、近所の人々に多年の厚恩を繰り返し感謝し、最後に骨は父母の傍に埋めてほしいと頼み、後の世までも親に孝養を尽くさんとする気持ちが人々の胸をうった。時に嘉永五年三月四日お米は62歳を以て逝去した。河端町徳応寺に葬られた。万延元年に 顕彰碑が建立された

その先、水無川(東川)に架かる楊柳橋を渡ると徳山の城下町に入ります

橋を渡った先で きらら通り・銀座通りの商店街を進む。広い道の交差店を横断すると徳山宿に入ります

 【徳山宿】
花岡宿から北西に7㎞程行くと、徳山湾に面した毛利氏の支藩城下町徳山(現周南市)。 街道は様相が一変しており面影はありません

綺麗なアーケード商店街の山陽道を進みます

徳山駅前の山陽道でJR山陽新幹線・山陽本線・岩徳線が集まる。北街道の先北西側

徳山駅前の山陽道辺りに かつて御茶屋跡(本陣)・高札場跡・目代所跡 があったが、前述の通り全く痕跡がありません。駅前より振り返ったところ

北西に進むと、右に山口徳山亀の井ホテルを右に見て交差点を渡ります

野上町から相生町を通ります

その先で広い交差点を横断して直ぐ小川に架かる橋を渡ると、沖見町。山陽新幹線の高架下に出ます

高架下を潜らず手前の道を高架に沿って右に折れます。かつての旧道は、右斜め(建物)に真っ直ぐ北に通っていたようです

その先の十字路を右に折れて、347号線の西松原信号交差点に出ます。右に折れる左に
浄土真宗本願寺派景勝寺

西松原信号交差点を横断して、347号線の右側の側道を左に折れて進みます。少し左に折れた側道から、左斜め後方を見ると、この辺りの線上に前述の消失した旧道が出てきていたようです

西北に街道を進み、右の久村酒店のすぐ先で山陽新幹線の高架を潜ります

高架を潜ると347号線は浦山信号交差点で左にカーブして離れますが、街道はその右側(側道の延長)の道をすすみます

暫く道なりに静かな浦山町を進みます

この付近に 浦山の一里塚跡 があったが痕跡はありません

川崎三丁目から街道を振り返る、明石地区の往還松の枯根が石垣のところに二本残っているそうですが見当たりません

すぐ左手に小さな 石造りの祠と常夜灯 常夜灯は荘寺八幡宮(山崎八幡宮)の常夜灯

少し進んだ右に 恵比寿さんと大黒さんを祀る石の祠 傍に小さな石碑

左にマルヒ醤油田中屋の前を進み、川崎の街並みを進みます

少し進んだ左長弘商店のすぐ先街道右に 道標 「當国十八番景清護身観音」

右の道標の前から街道を振り返る

道標の辻で【寄り道】右(北)に折れて、2号線のトンネルを抜け石段を上がります

第十八番霊峯山川崎観音堂(音羽観音)
当観世音は平安時代末期(1183年頃)平家の武士悪七兵衛平の景清が兜の八幡座に戴き数多の先陣を駆け巡ったが観音加護により一度も身に傷を負わなかったという、御身丈一寸八分(5.7㎝)の十一面観世音菩薩を祀る。この観世音を念ずれば安産・眼病・肢体不自由に霊験あらたかと伝わり信仰を集めている。十二年に一度(子年)関扉され拝観できる、当初は音羽観音と呼ばれたが、後年川崎観音と呼ばれ現在に至る

景清の力石
境内の大石は豪力無双の平の景清が観世音を勧請の際下の海岸より担ぎ上げたといわれ爾来この大石を撫で、自分の腰から下の患部をさすれば治癒に霊験あるといわれています

急峻な石段

観音さんは安産にも霊験あり、乳房の絵馬が沢山供えられています

観音堂を左に奥に入っていくところ 音羽之滝碑 があります

途中に、三三観音参道の表示

水があまりなく糸の様ですが 音羽の滝 川崎観音の全景

元の街道に戻りすぐ先で、富田川に架かる音羽橋を渡ります

橋の東詰にある 荘寺八幡宮の常夜灯

橋の東詰を少し上流に進んでいくと 折羽の御米蔵跡 であったが今は痕跡なし
音羽橋を渡り川崎の街並みを進みます政所に入ります

街道沿い右に 浄土真宗本願寺派大安寺

大安寺前から250m程進むと信号交差点に出ます、その手前右角に新南陽政所郵便局があります。その手前の左T字路に鹿野街道が分岐します。山陽道は真っ直ぐ進みます

右に折れる 鹿野街道 少し入って【寄り道】します

鹿野街道を少し入った左に 善宗寺会館があります

左に豪壮な建物 中島屋酒造 屋根の大きいのも目を見張る

石造り物 が壁際に並んでいます

中島屋酒造の正面

その先、左に新南陽高校が見えます、そして土井集落に入り小川に架かる橋を渡ります。橋を渡った左に入っていくと、かつての 徳山藩富田御殿の仮御殿跡 またその西側に 建咲院があります。その近くに医学に代々貢献した、四熊家の旧家があったが見落としました

橋から振り返ったところ

元の街道に戻り、右に新南陽政所郵便局を見て信号交差点を横断します

交差点から政所の街道を振り返る

交差点のすぐ先右に 歌人胡中山三尾尼廼墓碑

浄土真宗本願寺派政所山善宗寺

中山三尾尼の墓 幕末の女流歌人

すぐ先右に石段を上る参道がありま 曹洞宗華厳寺

高台の華厳寺全景

街道を130m程進むと十字路に出ます、左角に高杉レディースクリニックがあります。十字路右が永源山公園への入り口で、その十字路を左に【寄り道】をします。370m程南に進むと山陽本線が走っています、その手前右に勝栄寺があります

浄土宗勝栄寺
南北朝時代、1350~1370年代に瀬戸内海の屈指の港町富田市の東端に大内氏の重臣陶弘政によって建立された時宗の寺院。寺の境内は、寺院でありながら、寺の周囲を堀が巡らされ、出城的な城郭寺院であった。堀はすでに埋められているが、土塁の一部が残存している(写真に土塁が撮れていない残念)

境内の本堂前横に 勝栄寺の板碑(県指定文化財)

毛利元就公教訓状発祥の地
弘治元年(1555)十月、厳島の戦いで陶晴賢を破り自刃させた。その後、大内氏の残党を弘治三年、この地、富田に軍を出し勝栄寺に本陣を置いて鎮圧した。
その時、元就は長男隆元、二男元春、三男隆景にあて、各自毛利家の為に一致協力して毛利を支える事を論した十四か条にわたる教訓状(三矢の訓)を認めたと伝わる。現在、この教訓状は国の重文として、毛利博物館(防府市)に所蔵されています

街道の十字路に戻り180m程進むと、宮ノ前一で正面の駐車場のところでT字路となります

T字路を左に数十m折れると車道にでますので右に折れます

その右角に 道標 がありますが刻まれている字が判読できません

 右に折れて200m程進んだ一つ目の信号差点を右に折れます

右に折れる右角に山陽道標柱 道標 「右 上かたみち 左 下のせきみち」

右に折れて60m程で街道は左に折れますが、その正面に山崎八幡宮が見えます、背後の北東に永源山(89.9m)があり、公園として展望台などがあります

山崎八幡宮(荘寺八幡宮)

門前左に 新町東恵比須神社

見上げるような 常夜灯 安政五年(1858)銘

山崎八幡宮は、和銅二年(709)豊前國宇佐神社の分霊を神室山に祀ったと伝わる。その後焼失を繰り返したが、徳山藩六代藩主毛利広寛によって再建されました。
山崎八幡宮(庄寺八幡宮)への連歌奉納は、毎年八月の祭礼に合わせて行われている

毛利元就公ゆかりの石碑

山崎八幡宮から南の瀬戸内方向を見る正面は 宮の前流鏑馬場跡
荘寺八幡宮(現山崎八幡宮)の参道は古市まで至り、この参道に沿って元禄十五年(1702)に馬場が開設され、神事として流鏑馬が行われていた。現在、嘉永元年(1848)から文久三年(1862)に至る「騎射挟物射手日記」が社家に保存されている

門前を左に折れた街道この辺りから、富田宿に入ります

【富田宿】  
山陽道の富田宿となっているが、特に資料もなく小さな宿であったようです

山崎八幡宮の角から街並みを250m程進むと右に富田郵便局がありすぐに浜田川に架かる新町橋を渡ります

新町橋から街並みを振り返る

すぐ先左手に立派な門構えの持った旧家があります

郵便局の先180m程で右に富田幼稚園が有り再び川を渡ります。南側で浜田川に合流する支流です。その川の手前右奥に 浄土宗浄真寺 本尊は藤原時代の、木造阿弥陀如来立像

本堂に向かって右にある原田南谷謙介先生碑

小さな川を渡った先の街並み

その先100m程で十字路を横断して、さらに100m程先でT字路になります。横町に入り、正面に横町ハイツの建物があります。街道は左に折れますが

T字路を右に入るとすぐ左に 横町恵比須社 があります

 左に折れた先の街並み

130m程進むと平野に入り、左の宇都宮医院のすぐ先の信号交差点を横断して100m程先の分岐を右(西)の折れます

分岐を右に折れた先の平野の旧道筋

分岐から90m程進み、左(南)の筋を見ると山陽本線と道路が見える手前に 八坂神社(祇園社)があります

街道を西に進んだ右の山本商店すぐ先の左辺りにかつては 高札場跡 であったが場所はわかりません

さらに350m程ほぼ真っ直ぐ西に平野地区を進みますと、民家の角で道は分岐します。 旧道は右の道ですが少し先で消失しますので、左の道で迂回します

その前に、右の旧道を入っていきます、住宅が建ち並び、旧道は80m程先で消失しています。右(北)側の347号線を挟んで高くなっています。かつてここから上り坂道になって高台への温田峠への旧道が通っていたようです

この先旧道消失しています、かつては住宅の間をこのまま真っ直ぐ347号線を斜めに跨ぎ温田峠へ上っていたようです

元の分岐に戻り左の道を進みます、左の山陽本線に沿って280m程で右の347号線に出ますの、そして50m程347号線を右(東)に戻ったところで、前述の消失した住宅内のかつての旧道が出てきて、347号線を斜めに跨いでいた。347号線がかなり削られて峠への坂道の面影はないが擁壁のされた間の急坂を200m程上ります。ここがかつての温田峠です

347号線からの擁壁の間の坂道、347号線はかなり削られています

もう少し347号線の東の信号から見た写真です、347号線の削られた景色がよくわかります。信号の前方に坂が見えます、信号辺りから右の高台へ斜めに上っていました

坂を上ったこの辺りから峠の旧道が復活しています

坂の上から振り返ったところ

峠のこの辺りにかつての 温田一里塚跡・御駕籠立場跡・萩御水茶屋所跡 があったが痕跡はありません

峠の頂には 温田観音と石造り物 が残っています

峠から左斜めに下り左の347号線に出ますその先200m程347号線を進むと右への旧道への道があります

右に入るとすぐ右にタナカ歯科医院がありますこの辺りから福川宿に入ります。少し先右手辺りに、御本手領徳地米蔵跡 であったが今はわかりません

 【福川宿】
富田宿から短い距離で福川宿に入ります。福川宿には本陣・脇本陣が置かれていたようです

分岐から400m程街並みを進むと車道の交差点に出ます、街道は真っ直ぐ進みます

交差点を少し右に折れると左に 浄土真宗本願寺派西光寺 クロガネモチの大木が境内に立つ

また交差点の左には、山陽本線の福川駅があります

本日はここでキリがいいので終了16時50分で30.57㎞歩きました。山陽本線で3駅戻って
昨日泊まった徳山のホテルへ。  

次の日はコチラ

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