2011年12月15日
福川駅~防府駅
ホテル7時に出て、JR徳山駅から山陽本線で福川駅へ、駅から少し北へ歩き、昨日の起点に戻りスタートする。
今日は疲れが出ているのか足が重いがもう少し頑張ろう。
今日はホテルの関係で防府までとして市街地の史跡見学先が沢山あるので回ってみるとします。
快適な峠越えの山道を歩く。市内見学をして防府駅に着いたのが17時20分。
福川宿 7時40分 スタート
防府駅着 17時20分 着(市街地見学含む)
51.125歩 30.67km 2.272kl
防府駅より山陽本線で新山口駅のホテルアルファーワン小郡に今晩のホテルをとる。当初計画より1日完全に遅れました
タート起点の交差点を右に入った右手に 人麻呂神社

交差点から200m程進むと右に、辰尾神社の鳥居が建ち長い参道が北に続く

スタート間もないし、時間的配分が分からないので、寄らずに望遠で写してきます

また街道沿いの鳥居の手前辺りに 福川宿の脇本陣跡が、さらに少し進んだT字路手前左辺りに 御米蔵跡がありました

T字路を街道は右に進みますが、左に少し入った右に 住吉社・恵比寿社 が並ぶ

T字路に戻り右の道を北西に進みます

左に岸整形外科医院がありその前の道を少し右に入ると真福寺への参道への 燈籠が一基立っています。前述の辰尾神社への参道途中左にあります

曹洞宗真福寺
寛永年間に開創された、仏法・禅を伝えながら 脇本陣として西国大名や徳山毛利家の休息場として使用したり、貧村の福川の開拓・漁業・農業などに力を注ぎ「周防三福寺」の一つとされ周防福川の中心として崇拝を集めた。現在の本堂は弘化四年(1647)の再建。庫裏・大悲殿・山門・鐘楼は平成八年に再建されました

街道に戻り少し進み左(西)に方向を変えますすぐ先で本陣川に架かる小さな橋を渡ります。川の先右に

福川本陣跡
福川の本陣・脇本陣は、ともに御茶屋と称し代々福田家が世襲してきた。西町にある本陣は、表17間、奥行14間で門構えのある大規模屋敷であった。享保六年(1721)に幕府の参勤交代における随行員制限令が発せられた頃から、山陽道においても、それまでの海路から陸路による通行が激増して、福川本陣は、幕府の要人や西国大名などの宿泊や休憩の場所を提供する重要な宿駅としての役割を担いました
現在の本陣門は、天保九年(1838)に建て替えられたものを、昭和四十八年に改修したしたものです。(説明文より)
敷地内の大きなモッコクの木

本陣前から宿の街並みを振り返る

本陣のすぐ先右に旧家の建物

その先で車道と交差する信号交差点を横断します

すぐのJR西町第二踏切の手前右の石段の上に 福川西町奉納大乗玄少典六十六部碑

踏切を渡り右に折れるところで、高架道路を潜り右の線路に沿って進みます。この辺りで、福川宿を抜けます

その先、左から夜市川が接近して、川に架かる御姫橋が左にあります。街道は橋を渡らず、右に折れ、左の夜市川に沿って進みます

右に折れる右手角に 祠

御姫橋の袂から右手方向に見える若山(217m)は陶氏の居城 若山城跡 室町時代の山城跡

左に夜市川、右に福川~若山地区を見ながら堤防道を暫く進みますやがて御姫町で山陽自動車道の高架下を潜り小さな川が左の夜市川に合流しています

高架下を潜ると道は狭くなるが快適な道で車も通らなくノンビリ歩けます

暫く進んだ先で、夜市川に流れる支流の川を渡ります。この辺りに 矢地一里塚跡 があったが痕跡ありません

街道・夜市川・山陽本線・2号線とも左(南西)に大きくカーブします。右手の国道沿いにナフコ、マックスバリュが見えます

さらに進んだ先で長い堤防道も終わり、右に折れます

すぐの山陽本線の原踏切を渡ります

そして2号線の夜市下市信号交差点を横断して夜地市集落に入ります

すこし進んで集落内で道は分岐しますので左に折れますが、分岐の両側には大きな二軒の屋敷があります

左に折れた矢地市の街並みに入ると緩やかな坂を上ります

突当りの辻を振り返る

右手の山裾の斜面に沢山の 祠と地蔵さん

坂の途中より右手の歩いてきた矢地市の町方向を振り返る

街道の道は集落を抜けると狭くなり赤坂峠へ上っていきます

峠への坂を北西に上っていくと、やがて左(西)に方向を変えます

暫く進むと峠という感じはないですが 赤坂峠 に着きます

上り詰めたところ右に西徳山総合グランドがあり、街道左側に鉄塔があります。この辺りに 御駕籠立場跡 であったが痕跡はありません

グランド方向を振り返ったところ

赤坂峠より下っていきます

やがて岡村の新しい住宅地に入ります

赤坂峠を振り返る、舗装道路に変わっていたので峠越えは楽でした

峠の鉄塔が見えます、峠から南にカーブしてきたのがよくわかります

戸田(へた)に入っていきます左側に 船山神社

船形山・いかり石

船山神社(祇園社・元村社)
神社の縁起によると古社で、順徳天皇建保四年(1316)京都の祇園社の分霊を祀ったのが始まり。昭和五十八年に社殿が復興された。平地に船形の山あり、それを船山という、往古は船田(へた)と書いていたが、いつのまにか書き違い、今は戸田書いている地名の発祥の地です。(説明文の一部)

その先で菅原川を渡りますと一筋目の十字路右奥に 浄土真宗本願寺派光西寺 このお寺でかつては小休止跡であった

戸田市の街並みに入ります

街並みを少し進むと右手に 宮島様と呼ばれている 鳥居と祠

江戸時代の資料に弁財天とあり、祠に安置されているのは恵比寿様で、半身で左脇に鯛をかかえている、どうして宮島様か定かでないが、水の中に柱を建てて祭られているから宮島様として信仰されたようです

街道を挟んだ向かいに 戊辰戦争凱旋記念碑

慶応三年~四年(1867~68)、奥州に出征した堅田領主の兵(湯田・戸田)の無事を祝って建てた記念碑。
碑文には、「戊辰戦争に参加し、東北を平定したので朝廷に報告した。天皇は軍人をご覧になり軍労をねぎらわれた。これも朝夕祈った氏神様のお守りのお陰と思い、ともに話し合い、鳥居に新額を寄進してお礼のしるしとする」と書いている。出征者二十三名の名、前も明示している

戸田市の街並みを振り返る

すこし進んだ右に 浄土宗紫雲山心光寺 創建は元禄年間と伝わる。当山の観音堂には、不動尊・毘沙門天尊が祀られています


戸田市の街並みの旧家

やがて夜市川に架かる柳橋に出ます

柳橋の手前右手に 辻地蔵

柳橋を渡り街道は真っ直ぐ進みますが、右に折れたさき左に 戸田焼(朝陽山)窯跡の案内板 が立っています


【寄り道】川沿い上流600m程進み山陽新幹線の高架下を潜り少し行った先、左山裾に
享保大餓死者供養塔の碑「南無阿弥陀仏 享保十八年浄土妙典経石納塔 光西寺八世智観法印」と刻まれ、沢山の人々が餓死された

北側の山腹に湯野温泉郷の案内が見えます


元の街道、戸田市石橋跡 に戻り街道を進みます

右手に 山田家本屋敷跡
歴史を偲ぶことができる見事な石垣・土塀、慶長(1596~1615)小早川氏に仕え、のち湯野の領主堅田元慶の家臣となった山田氏の旧宅、現在建物は復元され湯野に移転公開されています


すぐ先で左からの2号線が合流して暫く国道を進んでいきます

進んできた戸田の町を振り返ったところ

山陽自動車道を潜ります

高架を潜ってすぐ先で、国道を左にして右に入ります

道なりに少し進んでいくと、苔谷川に架かる魚切橋を渡ります
この辺り 戸田一里塚跡 ですが痕跡がありません

戸田の集落を進み、椿峠へ緩やかに上っていきます

椿峠への街道、左国道2号線が並行して進みます

振り返ったところです

やがて左からの国道に合流します、合流した左国道の向かいにドライブイン庄屋繁寿山右衛門があります

2号線に合流して少し上ると椿峠に着きます。峠は国道2号線で車が多く、また削り取られ切り通しになっていて往時の面影はありません

峠近く左に旧道の跡の道が草に覆われて微かに残っています。左の旧道跡の草を掻き分け乍ら、国道より高台への道を進んでいきました

椿峠

椿峠は古くは山陽道の戸田村から富海村に至る山道で郡境界であった。享和二年(1802)頃には民家十軒ほどあったと伝わっています

郡境界碑「従是東都濃郡 従是西佐波郡」は嘉永六年(1853)再建されたもの

旧峠と現在の新峠道との高低差があります

郡境界碑を少し進むと道は消失しているので右下の国道に下ります

国道に出て少し歩道のない間を進むと

国道に沿ってガードレールのある左への平行した道を進みます

少し下っていくと左への旧道への道があります

国道を右に沿って旧道は下っていきますと、国道下のガードを右に潜り、国道の西側に出ます

国道の右側(西)に出ると前方が開け、富海の町と久しぶりに見る瀬戸内の海が見えます。右に新川が流れています

静かな風景が広がります

集落の中を抜けていきますと、新川が右に接して沿います、その新川を背にして、小さな 灯籠と祠


祠の先から振り返ったところです

祠より少し進んだ右川向に 酒造所「白菊」

左に伝説の 毛利時親御墓 安芸毛利氏の始祖


新川に沿った街道と酒造所を振り返る

すこし進んで右の新川に架かる橋を渡り、川の西側に出て南西に進みます
すぐ右手に 浄土真宗本願寺派円通寺

すぐ先で2号線の富海信号交差点を横断します。
ここから下関まで85㎞


国道には信号がありますが歩道橋を渡りました。歩道橋から今来た街道の眺望

この先南西への真っ直ぐな街道

右に富海中学校・小学校を見て進み、左に富海郵便局を過ぎると十字路に出ます。富海宿に入ります

【富海宿】
十字路の少し先辺り右に 富海宿の脇本陣跡

右の角に 道標 「當國二十番瀧谷寺道」

この地点より、山陽自動車道を越えたところに 曹洞宗海門山瀧谷寺 がありさらに北、鮎子川上流に 琴音の滝(1.4㎞)があります

道標の辻の過ぎたところから富海の街並みを振り返る

右手に 富海本陣跡の門 が残っています


本陣跡前から振り返る

本陣跡の向かいの空き地は

飛船問屋大和屋政助の船蔵跡 かつてはこの辺りまで入り江が迫っていた

太和屋の土蔵がのこる

その先右に消防器具庫がありそこが 高札場跡 振り返ったところ

街並みを進むと山陽本線の踏切を渡ります

踏切の渡る手前右奥に 浄土宗海蔵寺

踏切を越えてすぐ左に入りすぐまた右に折れた先の家前に、
伊藤博文・井上馨両公上陸碑 船宿入本屋磯七の飛船問屋屋敷跡

街道に戻り西南に進むと鮎子川に架かる橋を渡ると左に 恵比須社

神社からますぐ西に進むと街並の右、共同西の浜墓地に飛船問屋 大和屋政助・入江石泉の墓

街道沿いの墓を振り返る

すぐ先右手に鮮やかな 石鎚大権現

少し先右に 祠

街道左手のすぐ先、富海海水浴場です
大権現の前から少し進むと右に山陽本線が接近します、右の橘坂第一踏切を渡ります。この辺りに一里塚があったが痕跡はない 富海一里塚跡

踏切を渡りすぐ方向を左に変えたところ、分岐しているので、右側の橘坂を南西に上る

暫く橘坂を上っていきます、右の58号線が富海トンネルに入ります、トンネルから出て来る手前の上を西に方向を変えて街道は上っていきます

トンネルの出入口が左下に見えます

橘坂を快適に上っていきます
坂の途中から左を見ると、瀬戸内の富海の絶景が見えます。いつの間にか結構登ってきていました



坂を上っていくと左に 手懸岩と橘坂
山陽道の旅人たちはこのあたりに来ると眼下に見える瀬戸内海の絶景にしばし足をとどめ、この前にある岩に手を懸けて休んだという。それでこの岩は手懸岩と言い伝えられています。
また富海側へ下る坂を橘坂と言い、
応安四年(1371)九州探題今川貞世(了俊)が「道ゆさぶり」に次のように書き残している。
あら磯の道よりもなお足曳の
山たち花のさかぞくるしき
なお、このあたりの風景を菱屋平七は「筑紫記」に、「・・・・さて、山路架かかる。右は岩山けはしく屏風を立てたる如く、左は海岸水をさる事数丈にして其様東海道の薩埵峠によく似たり南は漫々たる碧海をへだてて豊後の国遥に見え、凛然として危ふくけ恐ろしけれど。且は広濶の観望に胸中を陶写す・・・・」 (富海史談会の説明文より)
手懸岩と案内板を振り返る

手懸岩と案内板の先の道

山陽の旅今昔
この辺りは、古来交通の要衝であり、旅の想い出を物語る歴史の故郷でもある。
古代から明治維新に至る長い間旅人に親しまれたこの峠道も、明治十年からは海岸の旧国道 へ、更に昭和三十三年からは下に見える茶臼山・富海両トンネルの開通による国道二号線へと変わっていった。また昭和五十七年には、この地下に防府バイパスが貫通し、六十一年には山陽自動車道が峠の北側に開通した。
鉄道も明治三十一年に下に見える山陽本線が開通、昭和五十年には新幹線が近くの大平山トンネルを通るようになった。
このように山陽交通の大動脈が集中して、ふるさとの地図が塗り替えられていく、歴史の急速な変換を一望に収められた地点でもあります。(富海史談会の説明文より)
折角の絶景、暫し景色と歴史を思い浮かべ乍ら休憩をしました
案内板の後ろは恐いような絶崖です

左下の山陽本線と瀬戸内海(周防灘)、左下の橘坂を上ってきました

絶景を眺め先に進みます

この辺りかつては 茶臼山駕籠立場跡 丁度左の 茶臼山(107.7m)の北側を進みます。残念ながらすぐ南西にこんもりした山、茶臼山がありますが写真に撮れていない

右手の少し広くなったところに 大内輝弘墓と臣村刳墓


大内家の紋の入った墓


茶臼山古戦場
陶晴賢を攻め滅ぼした毛利元就が、九州の大友宗麟との戦いでのなか、大友家に寄食していた、大内氏の一族大内輝弘の大内氏再興をかけ、毛利氏の山口へ、永禄十二年(1569)十月十二日山口に乱入した、毛利家の吉川元春がこれに攻撃を加え輝弘は逃亡したが、茶臼山で力尽き大内氏再興の夢破れ自害して果てた。
ここにある石祠は、正面に大内菱の紋を彫刻した笠石があり、内部には別當と刻まれた自然石があり、さらに石祠の奥壁に「大内霊神」と彫り込まれているところから輝弘の石祠と言い伝えられている。(富海史談会の説明文より抜粋)
方向を北に変えて300m程先、地下を国道2号線の防府第一トンネルが通っています

更に150m程(トータル北へ450m)進むと左(西)にカーブします。右手砂防ダムが見えます、そこから流れている、おこん川の谷川に架かる橋を渡ります。ここがかつての徳山領の富海村と三田村宰判の牟礼村の藩界であった


右上に見える砂防ダムの堤堰

左に折れた谷川の先で短い区間だが 石畳の旧道 が残っています


石畳の旧道より暫く進んでいきます

右手に 二基の碑 が建っています 一基は 浮野峠改修碑 一基は 旧山陽道修復記念碑

かつての藩政期の旧道は、左にU字型に大きく曲がっていたが、明治四年に旧山陽道を改修して真っ直ぐの旧道にした記念碑です
浮野峠



明治四年にショートカットで真っ直ぐに改修した旧道

石碑の前の明治四年後の改修旧道

石碑の向かいに旧山陽道の表示案内板が立っています。藩政期の旧道の案内標示で入っていきます
近くの石碑の案内板の道路説明は広い道図になっているが少し違うようで錯覚をした。
真直ぐは明治改修時の旧道

綺麗に整備されよくわかるように柵も張られありがとうございます

雑木林の中を右にカーブしながら進みます

雑木林の中の整備された旧道跡、半円を描きながら進んでいきます

浮野峠 旧山陽道の標識があります。ここが浮野峠なのか


旧道を下って行きます


明治四年改修道が見えてきました。ここで放流します

合流した下から見る藩政期の峠への道(右)

南側に広がる景色

眼下の国道二号線

左斜めに見える 茶臼山の古戦場

丁度このあたり左方向を通る、国道2号線の防府第二トンネルの北側を平行して進み、緩やかに街道は北西に向きを変えています
峠を越えて下っていくと竹林の間を抜けていきます

竹林の街道が綺麗に整備されて素晴らしい旧道に変わります

竹林を下り抜けると、道は右斜めの道と、左鋭角に下る道の辻に出ます。街道は左の方の道を下る。右の道を150m程行くと砂防堤の擁壁で突当りです

竹林を下ってきたところを振り返る
浮野峠を越えてきましたが、峠頂上付近藩政期の旧道、明治以降の旧道の写真を整理していたところ、今一つしっくりこなく不安です、今更確認にも行けないのが残念ですが

左に折れるとすぐ、国道2号線の西側出入口の防府第二トンネルの上を越えて国道を右に見て沿って道なりに下ります。国道2号線の右側(北西)の眺望です

坂を下る途中からの右後方の防府第二トンネル。トンネルの上部の竹林の中を峠から下ってきました

下ったところで再度振り返ったところです


その先道なりに100m程下っていきます


分岐のところで左の旧道を西に進みます右手に 浮野駕籠立場跡 ここから浮野峠への急な坂を上る大名が駕籠から下りて、休息したところであると伝わる。

また道を隔てて向かい側に「又兵衛屋敷」という茶屋があったといわれてます。
また、ここから上の道の道路両側の山地からは萩焼の釉薬に用いる長石が産出し、勝坂の水車小屋で粉末にして萩へ送り出されていた(牟礼郷土誌同好会の説明文より)

西に真っ直ぐ下っていくと浮野の集落が見えてきます

その先右に 霊場観音さんと両側に地蔵

すぐ先右に 祠と阿弥陀寺境界石


すぐ左手に 徳地屋敷跡 大名休憩所であった旅籠跡

屋敷跡内に移転されてきたのか 道標二基 「こんひらみち」「あじなみち」時期は不詳だが、浮野村山に金比羅社が、法連寺山に阿品社が祀られており、その道を示すために建てられていた。(浮野自治会)

徳地屋敷跡前より、浮野峠方向を振り返る

浮野半宿 にはいります
浮野の街並みと十字路右に 春日宮常夜灯


左に 祠


その先左に浮野公民館の前に案内板
【浮野半宿】
浮野町は古くからの町で、江戸時代には「浮野半宿」として旅人の人足と馬を用意し次の宿駅までの継ぎ送りする仕事がなされていた。
そのため藩主らの援助を受けて、人夫八人と馬十匹を昼夜交替で用意していました。また継ぎ送りの駄賃を公示した
高札場も立てられていました。
町の長さは四町五間(約450m)で街道に面して両側に四十五軒の屋敷があったそうで。明治四年に継ぎ場が廃止されるまで富海・宮市両宿場の中継地として、浮野半宿の役目をはたしてきました。

公民館前 街道右手の 高札場跡
今は街道沿い民家も少ない静かな街並み、浮野半宿を過ぎて西に進むと、右に牟礼南小 学校の前を通り柳川に出ます

柳川の手前右堤防に 春日神社お旅所跡


柳川に架かる橋から街道を振り返る、正面の浮野峠が見えます

堤防の お旅所跡と大木

橋を渡り坂を少し下ります、左に山野歯科医院の前から道は少しの間広くなっています。牟礼今宿に入ります
牟礼今宿

山野歯科医院の前にある お地蔵さん

牟礼今宿を進むと十字路の左に、JA防府とくぢ牟礼支所が、その先右に牟礼今宿公民館が見えます
十字路を越えた辺りに 今宿一里塚跡 があったようですが痕跡はありません

その先右に 当国二十一番・二十二番観音 道標 その先右に 当国二十一番・二十二番観音 道標

その先、馬刀川に架かる三の坪橋を渡ります

橋より少し北西に方向を変えて200m程先の十字路で西に方向を変える角、今宿一丁目信号交差点右角に 石標 「不許葷酒入山」

信号交差点を西に向きを変え300m程進むと左から54号線が合流します

54号線に合流した先、左に国府中学校を見てさらにその先左に山口トヨペットの前を通り、合流点から700m程真っ直ぐ進むと、左にユニクロのある、国衙跡信号交差点に出ます

その国衙跡信号交差点を右に折れます。

交差点右手前角に有井商店があります。また右に折れる左角に 国衙道標 「史跡周防国衙跡」昭和十二年の銘


右に折れたすぐ先左に 曹洞宗東林寺

周防国衙跡(国指定史跡)道路の両側に広い公園として整備されています



国衙跡交差点より右(北)に折れて両側一帯に広がる 国衙跡を通り400m程北に進んだところで十字路に出ます。更に100m程先の十字路を街道は左に折れます

左に折れる前に十字路を右に50m折れた左に 多々良大仏殿

もと立馬場筋の辻福寺にあったが、明治25年現在地に移る

元の十字路に戻り山陽道を左に折れます

十字路を左に折れて200m程進んだ十字路で【寄り道】山陽道は真っ直ぐ西に進みますが毛利庭園に寄りますので、右(北)への広い道を進みます。広大な毛利氏庭園

広い道両側に松並木が続き広大な庭園です庭園の北側一帯に新山口カンツリー倶楽部が隣接しています

国指定名勝 毛利氏庭園総欅造りの表門
お城の門をくぐような、路傍庭園を進んでいくカエデ・ツツジが見事に並ぶ。丘あり、滝あり、せせらぎあり、起伏にとんだ25.000坪の広大な庭園。
路傍庭園が過ぎると、1200坪(約4000㎡)の豪邸の表玄関が見えてきます。
毛利邸は旧萩藩主毛利氏の邸宅として、明治二十五年(1892)、井上馨により多々良山南麓のこの地に選ばれ着工されたが、日清・日露戦争で完成が遅れ、ようやく大正五年(1916)に完成した公爵毛利邸です。
江戸時代の御殿のような規模・装飾で近代建築の粋を集めています。木曽のヒノキ、屋久島のスギ、台湾のケヤキなど当時の最高の良材が使われた。本邸二階からは眼下に周防国衙跡・防府平野が一望できる。邸内の一部は毛利博物館となっていて、2万点に及ぶ国宝や国重文など膨大な資料・文化財が所蔵されています。常設でなく年何回かに特別展が開催されています




邸宅より見える正面(南側)の池、その向こう側は国衙跡

毛利邸の背景(北側)には多々良山(236m)多々良山の地下には山陽自動車道の防府第三トンネルが通っています、並行してその北側には山陽新幹線の多々良山トンネルが貫いています貫いています

交差点に戻り少し進んだ右に、総社古墳の案内看板があります、その前から街道を振り返る

総社古墳


交差点より200m程先右手に 佐波神社


神社の少し先左の国衙北西端に 史跡周防国衙跡碑 広大な地域であったことがわかる


その先右に常夜灯が 三宝荒神宮
寛永十七年(1640)この地方に犬牛馬に病が流行し多く死す、村人憂いて仕事も手につかず老人は気を患う。早速社を建立し祈願したところ悉く治り平安となる。平成二年が350年にあたりここに社を再建した


三宝荒神宮の前の街道を130m程西に進むと長い土塀が右に続きます

右一帯は 高野山真言宗周防国分寺跡 です 楼門 は改修中

天平十三年(741)聖武天皇の詔により全国に建てられた一つで、創建年代は定かでないがこの時代と伝わる。創建当時の寺域をほぼ維持しており、全国的にも数がすくない。
史跡 周防国分寺旧境内碑
多数の文化財を保存した歴史的にも貴重な遺跡。
北に多々良山、南に防府市街から三田尻湾を望む地に、大伽藍は、創建当初の地にあり当時を偲ぶことができる寺域面積六十一町歩余りにまたがり、七堂伽藍と二十五ヶ寺の塔頭と末寺を擁して壮大であった

国分寺金堂(重文)
現在の金堂は、萩藩主七代毛利重就により安永八年(1779)に再建された。金堂内には本尊の木造薬師如来坐像ほか数多くの重要文化財が収蔵されています

招魂碑
禁門の変(蛤御門の変)において戦死した国分寺隊4名の招魂碑


樹齢千年の榎の老木

国分寺南側の長塀を振り返る

国分寺の十字路より280m程進むと、街道は左にカーブします、その手前右に 防府天満宮の大宮司 武光家屋敷跡


武光家屋敷跡塀の先で、枡形の宮市宿への東の入口です

左に折れる右手に改修中の 浄土真宗本願寺派萬行寺

左にカーブして直ぐまたT字路を右に折れる 枡形の辻です。
枡形より【宮市宿】
周防灘沿岸の中央に位置する交通の要衝として栄えた。その南には三田尻の港があり、長州水軍の御船倉が置かれ、幾たびも歴史に登場しますが。また北前船の寄港地として賑わった。
内陸部の山陽道沿いは藩政期に入り宮市の宿として賑わい、宿の東には大化二年(646)国衙が置かれ、奈良時代には国分寺が建立され古くから発展した街である。更には、宮市の中心地には天神山の麓には、日本最古の天満宮とされる防府天満宮が建立されている。宮市宿の西寄りからは、三田尻と萩を結ぶ萩往還が交差してもいる
枡形を左に折れたところで、左からの広い新道が合流して右に折れます

枡形より国分寺(東)方向の街道を振り返る

右に折れた先の広い道

右に 臨済宗東福寺派芦樵寺

芦樵寺の前の 祠

この先少し進むと右手に 防府天満宮
防府天満宮の参道一の鳥居 寛永六年(1629)萩藩主毛利秀就により建立され県内最古の鳥居。この鳥居の前T字路は、三田尻から北上してきた萩往還と山陽道がぶつかる地点です
太宰府天満宮と北野天満宮と日本三大天満宮の一つ

天満宮に(寄ります)石畳の参道を進み二の鳥居を潜り長い石段を上りますと

朱塗りの 楼門

春風楼
五重塔建設予定であったが断念した建物だそうです

菅公廟の碑
正徳五年(1715)の碑で、市内で最も古い台石は亀が彫られています

観音堂
酒垂山鎮座天神本地観音堂、創立は千数百年前と伝わる

扶桑菅廟最初の碑 日本で最初に創建された天満宮との意味


上から石段の参道を望む




防府天満宮の前、山陽道は東西で正面の南への道は萩往還でJR防府駅から瀬戸内海の三田尻湊へ続いています
萩往還を歩いた時にも詳細に載せていますのでご参照ください
本日は防府天満宮で終わります。時間があるので少し市内を観光して防府駅に5時20分に到着、山陽本線で新山口駅まで移動し駅前のホテルに宿泊。
【市内観光】
T字路の傍にたつ 萩往還の説明板
江戸時代の初め萩城と毛利水軍の拠点である御船倉(防府市三田尻)を結ぶ、参勤交代の道として整備された街道です。
防府天満宮の大鳥居前は、山口県を南北に走る萩往還と東西に走る山陽道との分岐点です。天満宮の鳥居前周辺には街道を使って運送される荷物の送り場や人・馬の継ぎ場などがありました。
萩往還は鳥居前で南に折れて山陽道より分岐し三田尻港への道が通る。一方、この地点から西に今市町まで815mにわたって、二本の街道が重なっています。この一帯は異なる方向からの人や物が大量に行く交う交通の要衝として重要な区間であり、江戸時代以降近年に至るまで多くの店舗などが立ち並び、防府の商業の中心地域でもありました。
また防府天満宮を崇敬する人々も萩往還や鳥居前町の宮市を利用し遠方から参詣していました。
萩往還は参勤交代の道である一方、様々な人々にも生活に必要不可欠な道として利用され、現在にその姿を残しています。 (案内板の説明文より)

鳥居前のT字路から東の山陽道の道筋

山陽道と萩往還を重複して西に100m程進むと幅の広い道が狭くなる左に
宮市本陣兄部(こうべ)家
兄部家は鎌倉時代末期より合物座の長職に任じられ大内氏・毛利氏の保護下で、宮市の商業の中心的な役割を果たしてきました。合物とは、塩魚のことです。寛永十九年(1642)から本陣となり。内部は公開されていませんが、また改修中で外観も残念ながら見えなかった。(数年後萩往還を歩いた時、見学を楽しみにしていたのですが、改装でなく取壊し中で、公園になっていました)

すぐ先信号交差点を越えて右に 浄土宗定念寺 木食仏や遊行上人がもたらしたという宮市観音があります


定念寺の西側、鉤形の道になった右手に 脇本陣中村家 があった。さらに100m程西に進んだ右手に 脇本陣市川家 があったが、両脇本陣とも痕跡が残っていません
さらに西に進みますと信号交差点の広い車道に出ます横断して120m程先で小さな川の橋を渡り160m程行った先の十字路を左に数十m折れると、山頭火の小径の案内表示がます

山頭火の小径入口、この右側が 生家跡

「うまれた家はあとかたもないほうたる」の句碑がたつ山頭火生家跡から宮市の裏を抜け防 府天満宮参道のらんかん橋付近に至る「山頭火の小路」は、山頭火が母校松崎小学校へ通った道です。山頭火が幼年期に慣れ親しんだこの小路、昔ながらの風情をしのばせ、道々の軒下には、「昭和の芭蕉」と呼ばれた、放浪の俳人・種田山頭火の句の札が架けられています
入り口から細い小径を800m程歩いた先の らんかん橋
らんかん橋にでたところで、左に折れると防府天満宮の正面鳥居のT字路で、右に折れると三田尻港への萩往還

らんかん橋の過ぎたところから振り返る向かって右が防府天満宮への萩往還、左が山頭火の小径。らんかん橋の東側を入っていくと、種田山頭火が通った松崎小学校があります
萩往還(天神商店街)を南に下っていくと、旧国道二号線の広い交差点を横断、さらに南へ萩往還(銀座商店街のアーケード)を進むと、山陽本線の防府駅の東側の高架下を潜ります。
防府高校を右手に見てその西に、桑山(107m)が見えます。高校の切れた辻で、真っ直ぐの萩往還に分かれ右に折れて、桑山公園方向(西)に進みました。公園の東端の十字路の角に
野村望東尼終焉の宅跡史跡 野村望東(もと)尼終焉の地碑
文化三年(1806)福岡藩士の三女として生まれ、その名を「もと」と称した


望東尼は福岡の歌人、激動期の幕末志士のかげにあって活躍した女流勤王家である。薩長連合がなり、討幕軍が三田尻から出陣しょうとするとき、奇寓先山口から防府に来て、防府天満宮に七日間参籠し断食して王政復古を祈った。断食後間もなく病を得て慶応三年十一月六日、六十二歳で没した、のち正五位を贈られる。
高杉晋作を中心に討幕志士とのつながりが深い
碑の向かい 野村望東尼 終焉の宅及び宅跡

桑山の南麓の墓地に 正五位野村望東尼之墓

望東尼が防府滞在中に住んだ荒瀬家の離れは、今は桑山東麓の大楽寺の下に移され「終焉の地」また旧宅は「宅跡」として、桑山の「墓」とともに、県の史跡に指定されています

桑山の東に萩往還の起点あり、三田尻の港や史跡があるのですが、残念ながら時間もなくここで今日は終わりますが、何時の日か萩往還を歩くときに三田尻をスタートするのでその時まで残しておきます。
この時点では、萩往還を歩いていませんが、数年後歩いた時にゆっくり周辺を見学しました、ご参照ください。


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