2019年2月23日
愛宕山神社~裏参道~亀岡城下へ
天正十年(1582)6月2日の早朝、明智光秀率いる1万3千の兵が京都、織田信長の宿泊地の本能寺と嫡子織田信忠宿舎としていた、妙覚寺から二条新御所に移動していた信忠を急襲し自刃せしめた。
光秀は5月27日、山城と丹波の国境に聳える標高924mの愛宕山に登った。愛宕山の祭神は愛宕権現太郎坊といい、火難除けの神として崇められていた。翌28日、愛宕山五坊の一つである、西坊威徳院で連歌の会を催した。主催者は威徳院住持の行祐、主客は光秀、宗匠は当時、連歌界の最高連歌師の里村紹巴で、その数9名。
その時の光秀の発句が有名な ときは今 あめが下しる 五月哉
里村紹巴は続いて下の句 花落つる 流れの末を せきとめて
連歌の会の後、すぐ山を下りて亀山城に入っている。
愛宕山から亀岡城への道を歩いて下りましたが非常に厳しい山道で、愛宕神社の裏参道であったようです。
① 道は山を下ったところで愛宕川に沿った厳しい愛宕谷から亀山城に進んだか。
② 途中で左に分岐して水尾の里に下り、明智越で亀岡城に進んだかと思われるが、定かな確証はありませんが2コースとも、歩いてみましたのでご案内します。
〖関連して愛宕街道(表参道)、愛宕神社~水尾の里~保津峡~鳥居本、唐櫃越~明智越~保津八幡宮~保津峡駅の歩いた古道を合わせて見て頂けたらありがたいです〗
愛宕神社山頂入口の 黒門(京口総門とも呼ばれた)

清滝からの京都側の表参道にある 惣門跡


この付近には燈籠が並ぶ参道で宿坊が建ち並んでいた

現在社務所の建物が立っている場所辺りに光秀が本能寺の変、四日前に連歌の会を催した、西坊威徳院が建っていたようです 威徳院跡の社務所

燈籠の並ぶ先で石段に行き着くと、右に休憩小屋が建ち石段を登らずその間の道を右に進むと、この後歩く、明智光秀も駆け下って亀岡城下に至る裏参道です

先に、石段を登り愛宕神社拝殿に進む

石段の途中右に入る地道の細い道があります、すぐ先で前述の道と合流します。角の 燈籠の袂に道標が立っているのでこの道が正しいかも

道標二基
「右月輪寺道 是より十三丁 寺より清滝へ下二十五丁」明和五年(1768)銘「あなうへのみち・・・」元禄三年(1690)銘(穴太寺)

途中に建つ 山門

更に長い石段を登っていきます

やがて 愛宕神社社殿


奥宮

若宮

本殿

工事中で外観が見れなかった
明智光秀も連歌の会の前後に神社に参拝をして戦勝祈願をしたことでしょう。再び石段を下り、先ほどの道標の前の道を進む


明智光秀はどの道を下って行ったか興味のあるところです
表参道を下って途中右への水尾へのルートで下って、明智越で亀岡城に進んだかはわかりません。
少しでも早く城下へ行くにはやはりこの裏参道で亀岡城下へ行くのが近道だろう
愛宕山を左(東から南)に巻くように少し進みます

すぐ先で右の急斜面を下る道があり、案内標示があります。月輪寺から清瀧に下る道です、愛宕神社へ登る一つのルートです(この道は歩いていません)


亀岡へは左真っ直ぐの道です

山並みが眺望できます

快適な山道で右は深い斜面です光秀が歩いたとしたら、もっと厳しい山道であっただろうと思いうかべる

振り返ったところ

少し進むと右への分岐道があります角に 三体の地蔵 があります

右に下る道は 首無地蔵への道 を右に見て左真直ぐ進みます。左は三体地蔵

地蔵を右に見て真っ直ぐ進みます



200m程進むと左に 三基の石仏 昔遭難でもして亡くなられたのか

その先で方向を北に変えて愛宕山から離れますが、峰続きには変わりません
さらに200m程進んだところで左(東)に方向が変わりますが、歩いていると方向の変わったのがほとんど感じません

右に立つ案内標示 少しの間隔で標識があるので助かる

右に進むと 竜ヶ岳(標高921m)登山口で案内標識が建っています

亀岡へは左真っ直ぐの道です。良いお天気なので2月の寒さ感じません

その先、右に入っていくと、旧愛宕スキー場跡でもここに登ってくるのが大変だったことだろう


今度は左が大きく広がります、きれいな旧道です

はるかかなた下に見えるのが亀岡だろうか

振り返ったところです

その先で道が分岐しています、亀岡への道は左下る細い道です。分岐の角に 道標と石碑二基 があります

道標 「左 あなう・・・」下部が埋もれています、亀岡城下の穴太寺を指しています
この道にも、道標があるということは昔からあった古道と確信

案内標示もあります

道標の背後の 石碑
うまく読めませんが □なら屋が見えますかつて茶屋があったのだろうか


古道を感じさせる凹道の下りです

表参道と違って、こちらの道は殆ど神社へ登る人は通らないようです、また倒木も結構多いです。
でも恐らく西からの旅人はこの道で愛宕神社に参り、表参道で京都に入ったのだろう

このあたりは、このような状態で道跡がない慌てず微かな道跡を見ながら進みます。道を間違えたら大変です

凹になった道を下ります。木の手入れが行き届いているので日が差し込み、高い木ですが明るいので助かります

方角を間違えないよう下る


前方が開けたところで左にカーブします、この付近で右に分岐している道があるのですがよくわかりませんでしたが、嵯峨樒原への細い山道です。
三基の道標 があると資料にあります
「左 あなう道 右 そのへ道」「左 あなう」 「従是左 廿一番穴太寺道」見つけられませんでした

左にカーブした道は、馬の背になった道です、何方かに滑りそうです

少し下って行った左に 村標 「従是保津村」明治十一年(1878)銘


光秀も何を思いながら下って行ったのでしょう

大きな倒木が道を塞いでいます

本当に長い尾根道を下っていきます。まだまだ山深くどれくらいか見当がつきません。幸い快適な道なので助かる


右に鉄塔があるところで開けますが、里までまだまだのようです

山並みの眺望、この先を下っていきます

溝道を頼りに下っていきますが、倒木等で道はあれています

気時の間が狭く、更に道道が窪んで狭く大変


ところどころ溝道が塞がれたりしてなくなり、溝に離れないように傍の平坦なところに沿って下ります

やっと右下に舗装道が見えます。尾根道の厳しい下りを越えたようです

舗装に出たところから、下ってきた道を振り返ったところ

舗装道を200mほど下っていきます

右に鋭角に入る道が分岐しています。
舗装道は真っ直ぐで水尾の里に出てさらに下っていくと、保津川の保津峡駅に出ます。水尾の里と保津川駅の間辺りで、右への山越えの道、明智越があります。(すでに歩いています)

新しい道の舗装道を下っていくと、水尾・ゆずの里、嵯峨嵐山方面の標示。亀岡へはここを右に折れます


この分岐は 神明峠

右鋭角に下る道は、愛宕谷林道で車両通行止めの扉があります

広い道であるくには問題ありません

暫く蛇行をしながら下っていきます


左に急カーブ


右前方下に綺麗なため池が二つあります

なかなかきれいな景色でため池を振り返る


愛宕谷川に沿って下っていきます

厳しい道でありませんが、樹林の中の長い道を下っていきます

山の斜面は非常に倒木で荒れています。ここにきて車両通行止めがよくわかりました


倒木が何本も道を塞いでいるので越すのが大変

暫く下っていくと橋を渡り谷川が右に変わる。今でこそ広い道ですが巡礼道として厳しい危険な道であったことでしょう

右に変わると谷が深くなっていく


右の愛宕谷川、気に覆われて川筋がよく分からない

この辺りに来ると、谷川も数十m下になり、足を踏み外して下に落ちると大変、ガードレールもありませんので危険。車の通行止めもよくわかります。大雨ごとに倒木と地崩れによる道路もえぐれていくようです


あるくには快適な道ですが

やっと保津の集落にでました、真っ直ぐ左の道を進みます

辻の左に多数の お地蔵さんの祠 道路に背中を向けています

祠のそばにも大きめの 祠と燈籠

やがて突当りを右に折れます。左から 明智越の道 が合流してきます

明智越えをすればここで合流、右に折れて進みます


明智越の合流点を振り返る 向かって左の道を下ってきた。明智越は右の道

合流の辻左に 臨済宗文覚寺

道沿い左に 常夜燈

右に 臨済宗妙心寺派養源寺



少し先の分岐の角に 地蔵さん

左に 保津八幡宮

以前明智越を歩いた時に寄っています 杉の大木

神社より南へ新しい広い道を進みます

振り返ると今越えてきた愛宕山がはるか先に見えています

左(東)を見ると馬堀方面で、その先に篠山街道(山陰道)の老ノ坂があります

保津川に架かる保津橋

橋から振り返ると、愛宕山がよく見えます

橋を渡り右手にJR亀岡駅、またその南側には (亀岡城跡教会の私有地で入れない) です。

明智光秀が下ったと思われる、愛宕神社からの道 完歩
清滝から 32.588歩 21.18㎞ 15時着


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