枚方街道

2012年4月24日

高槻駅 西国街道芥川宿分岐点~枚方市駅 京街道分岐点
JR高槻駅へ、駅より少し歩いて西国街道分岐点からスタート
     高槻駅  6時40分 
         10時40分 完歩
       19.482歩  11.68km

  引き続き 茨木街道を歩く 

JR高槻駅

高槻駅北口、駅前の商店街を入り

西国街道 は芥川商店街を西に進む
枚方街道 は商店街アーケードの手前右の道に入る

西国街道の 芥川宿の敵討ちの辻を枚方街道の起点 とする

祠と説明板、芥川一里塚跡 がある

芥川宿の仇討ち
芥川宿の仇討は今からおよそ300年まえ江戸時代初期の出来事である。石見国吉永(島根県大田市南部)の城下で2人の若侍が同藩の美しい稚児の争奪からその意趣遺恨で果し合いをしたのが発端である。ことにその経緯の仔細は盡せないが要するに下手人の侍は自分の邪推からもう一人の藩士を江戸表で殺した。殺された藩士の子息助三郎という若殿は、秀吉の臣文禄慶長の役の水軍の将であり、賤ヶ岳七本槍の一人でもあった加藤左馬之助世嘉明の曽孫という貴公子であった。
親の仇を深く心に決めた彼は京の剣客について日夜剣を学びすこぶる上達した。助太刀の検士と若党を従え敵を求めて諸国を遍歴すること2年有半、虚無僧に身をやつし一菅の尺八で門付けする敵が当芥川宿の旅籠に入るのをついに見届けた。初秋のもう肌寒い夜明け、敵が宿を立ち去る所をこの辻で助三郎少年は声高々と名乗りをあげて躍りかかり不倶載天の敵を討ち取りめでたく本懐をとげた、時に弱冠十四歳であった。討たれた八之丞の懐中から一通の書状が出てきた。それには自分は二人も殺した人間であるため討たれて当然であり且、討つ方に咎はないとあった。
この敵討ちは双方が当時の武士道のモラルを貫いた美談として広く全国に宣伝されまた風俗史の上からも貴重な資料として「続近世時人伝」などの諸書にも取り扱われた。因みにいえば大通寺の中興の名僧南谷はこの助三郎の実弟である。(解説板より)

枚方街道と西国街道(手前右から左アーケードの道)の分岐の辻、正面の道を進む

暫く進むと、JR高槻駅の大阪よりの南西の端の前に出る

線路に沿って駅前は結構広い道になっているJRの線路を地下道で渡り、南口の方向に出る

地下道を出ると、すぐ左に進む道があるのでそちらを行く

左に高槻駅、正面に松坂屋の交差点で右に折れる

広い道路で、右にセブンイレブンコンビニの前を左に入る

左に重厚な建物が見えてくる

高槻町の街並みを通り、阪急京都線の高架をくぐる、線路に沿ったみちは、みずき通り

高架下右に 地蔵祠

高架を越えてすぐ右に折れる

左に立派な建物がある

更に、すぐ左に90度曲がる、この辺り城下 六口の一つ「芥川口」だろう

曲がる所の左角に 愛宕大神祠

左に曲がり真っ直ぐな道、左にも重厚な建物。結構所々に古い重厚な建物が残っている

171号線を越えて真っ直ぐ進む

道の両側に溝が残る旧道らしき情緒

171号線を越えるとすぐ左に 浄土宗理安寺
阿弥陀如来を本尊とし、光誉上人の創建と言われるが、時期は定かでない。1619年に松平家信が高槻城主となり、先夫人の菩提を弔って以後、松平家の崇敬も厚く、康信のときには寺領や鐘楼などの寄進を受け、大いに繁栄した。境内には、本堂や地蔵堂、鐘楼などのほか、江戸時代末期の儒学者で、漢詩人の藤井竹外と親交のあつかった市村甘泉の墓などがある

本堂

地蔵堂

 鐘楼

理安寺のむかい街道をはさんで右側に 浄土宗光松寺
阿弥陀如来を本尊とする。創建の時期は定かでないが、周辺は新川之町と呼ばれた。道の中央には、都市廃水を兼ねた川が東西に流れ、「川の街」であった。閑静な境内には、本堂や庫裏、鐘楼などがあり、落ち着いた佇まい

山門

光松寺の裏側(南)に本行寺がある 日蓮宗本行寺
題目宝塔と釋迦多宝二仏を本尊とする。1596年に日重上人が創建したといい、高槻城主永井直清の信仰も厚く。境内には、本堂はじめ妙見堂、庫裏、鐘楼などがあり、本堂に掲げている「唱導殿」の額は、高槻城主第十代永井直与の子直寛の書による。また墓地の一角には、幕末の漢詩人藤井竹外の没後60周年に際して、自然石に刻まれた「竹外藤井先生の墓」がある。

高槻城内高麗門
本瓦葺、高麗門。目まぐるしく城主のかわった高槻城も1649年永井直清が3万6千石で入城後220数年永井氏が代々居城して明治に至った。

鐘楼

お寺の先、そのまま東に進む

左に園成寺の山門、その先すぐにT字路となり、真っ直ぐは高槻街道枚方街道は右におれる。

園成寺山門と境内

T字路の左に 京口町の道標
南面「右 京山崎淀柳谷 ふしみ宇治八幡」東面「左 大坂吹田茨木 尼ヶ崎惣持寺」

T字路を振り返る、正面今来た道、芥川方面

本町通りを南へ、落ち着いた静かな街通り

本町通りから京町口道標、高槻街道との分岐点を振り返る

本町通りの街道街並み、古い建物も残り最高に素晴らしい

200mほど進むと、T字路があり、左角に大きな道標が少し斜めに傾いて立っている。
ここを左に曲がり進むのが 前島街道の高槻六口のうち「前島口」は左に入り少し行ったところ

左角の 道標 南面「右 八はた淀前島舟のり場 すぐ 京伏見山さき柳谷よしみね」 東面「右 あくた川かさのも里にせ妙(見) 左 そうち寺とん田いばら木」

前島街道 を見る

前島街道と枚方街道の分岐点を振り返る角に道標

本町通りを進んでいくと、右手に 八幡大神宮
境内には、本殿や拝殿、末社の稲荷神社・月読神社がある

鳥居前横の 祠

本殿

境内の ケヤキの古木(台木のみ)

神社の少し先、本町通りより右に入っていくと高槻城跡があるので少し(寄り道

第1中学グランドを背に  

高槻城跡公園の一角に市立歴史民俗資料館が建つ 
旧笹井家住宅を資料館としている。この建物は旧紺屋町(現高槻町)この町屋は江戸時代中頃に建築された。妻入り本瓦葺であるが、それを支える小屋組は、市内にある瓦屋根のなかで最も古い形式手法を残している点で貴重な建物

旧笹井家住宅全景

高槻城跡公園内の 高山右近像
高山右近は、戦国末期の高槻城主、キリシタン大名。
千利休の七哲の一人である茶人でもあった「利休極上一の弟子也」ともうたわれている。秀吉が、バテレン追放令を発したとき、右近は改宗を拒否し領地を没収された。また禁教令をだした徳川幕府により1614年10月、国外追放処分を受けた。
マニラ到着後40日ほどで熱病におかされ、1615年2月3日に亡くなっている。64歳マニラ近郊のバコ駅前の銅像とその後ろに墓がある。

高槻城跡と右近像

高槻城跡公園

本町通りを進むと、高槻城下の 六口の一つ「大塚口」に突き当たる。T字路、左に是三寺、右から高槻街道が合流してくる

 是三寺

右からの 高槻街道

今歩いてきた本町通り、大塚口で枚方街道と高槻街道が合流し本町通りを重複しながら京口で分岐するまで重複する

右角に 祠と枚方街道の道標
 「枚方街道 右 停車場国道三号芥川 左大冠枚方」「左 富田茨木大阪」           

左に曲がったところから変則T字路を見る

その先少し東に進み、100mほどで右斜めに折れて進む。小川の所で少し小川に沿って右に行くと、西教寺がある

街道に戻りその先右に 春日神社

右斜めから歩いてきて、信号超えた右に春日神社

左に、楠がそびえる大きな民家で写真に収めきれない

春日町3丁目

楠がそびえる

神社の先を東に進むと、外環状線(170号線)を渡る

170号線を渡り真っ直ぐ進む

その先で東海道新幹線の高架を潜る

竹の鼻水路 を越える水路の南方向を見る

水路を越えて真っ直ぐ

交差点を越えすぐ先右に折れる

右角に須賀町の 道標 
「右 高槻芥川 左 大塚枚方町 枚方街道」「右 高槻芥川富田如是三島茨木 左 前島上牧 枚方街道」

右折れした交差点と道標

右に折れる手前の信号交差点を、北に(寄り道)をする

浄土真宗普賢寺
阿弥陀如来を本尊とする。1619年本願寺法主準如上人の直弟普聞が開創

寺の北側に位置する 冠須賀神社
冠須賀神社は、創建は不詳、旧野中村の鎮守として住民の信仰厚く「かすが神社」とも呼ば れている

街道を元に戻り南に進むと、広い道路(14号線)で横断できないので少し迂回して道路対面にでる

更に100mほど進んだところで、右に折れる

その先で道が二股となり分かれるので、左の道をとる

左に、 浄土真宗尊重寺
阿弥陀如来を本尊とする。1475年松本佐兵衛尉が本願寺八世蓮如上人に帰依して直弟となり創建した。その後、本堂、鐘楼、太鼓堂、薬医門を修復しながら現在に至る。
境内には銀杏の古木が聳え静かなたたずまいの境内である。

薬医門

銀杏と本堂

太鼓堂

少し街道をみなみにすすむと右に 道祖神社

神社をみて、大冠町の通りを進む

大冠町2丁目21の右側にある多数の 地蔵尊

その先、冠中学校を右手にみて道なりに進む

東和町

集落の中を進む

深沢集落の南の端、堤防に上る手前左に小屋にカバーされた、地蔵さんや五輪塔 が並んでいる

深沢本町6丁目付近で堤防の道に合流します合流するところを振り返る

左は淀川河川公園、堤防の道は車が多く危険

事故があったのだろう、警察が現場検証中

堤防道を右に淀川河川敷道を進みます

堤防の途中、深沢本町と大塚町との境い辺りで、堤防下に降りると、鳥ヶ下用水樋碑

西に真っ直ぐ用水が通っている

用水の橋から堤防方向を見る多分この辺りに 淀川の渡し があったのだろう

用水から少し南へ行くと 大塚神社

堤防に戻りすすんでいく、大塚町で堤防より右に下りていくと 浄土宗法蔵寺

堤防対岸には枚方市

淀川の下流、枚方大橋方面をみる

堤防より大塚町の集落を振り返る、字の辺りに 枚方の渡し(大塚の渡し) があった

堤防を河川敷に下りていくと河川敷の 道標
西面 「右 河内国北河内郡 左 摂津国三島郡」 北面 「右 枚方街道大冠高槻停車場島本西京 左茨木街道茨木富田三ヶ牧鳥飼」 東面 「右 三島郡富田如是 左 北河内郡枚方星田」

昭和15~17年に堤防が内陸部に100m移動する護岸工事が行われた

渡し場跡

淀川の渡し場の対岸を見る

枚方大橋北詰近くから振り返る

枚方(大塚)の渡し付近綺麗に整備された河川敷

枚方大橋北詰

枚方街道の起点は(枚方市三矢)西に迂回して枚方大橋を渡り京街道に出て枚方宿に出るが、別途街道で歩いているのでここが終点とします

枚方街道 完歩

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