水間道

2012年10月13日

和泉葛城山頂~粉河嶺道を重複し下り~途中から分岐し蛸地蔵駅

和泉葛城山頂より牛滝嶺道 完歩に続いて水間道をスタートする。

山頂12時スタート急峻な山道を下る。山麓の集落喬原の手前のもうすぐ集落というところで道を間違え森林の中をさまよう、とにかく道なき道を下り獣柵を乗り越え集落の道にたどり着く。杉林の雑木やヤブを伐採していたので何とか助かったがこのところ毎回山中で迷っているので今後より一層注意が必要。
更にその上に集落のはずれで食事したところで気が付いた、私が思っていた道でなく、景色が綺麗で史跡もあるということと水間観音へ近いとのことでつい乗ってしまった。結果街道と離れてしまいまた新道で単調な道の上距離も長く大失敗。結局、水間観音まででとても蛸地蔵まではどちらにしても私の距離の読違いであった
日を改めて喬原から旧道を歩きなおす。
             山頂  12時 スタート  
         水間観音駅  15時50分 着
            19.084歩 11.45km 850kl

         本日 牛滝嶺道と合わせた
               44.339歩 26.60km  

水間道は南海本線蛸地蔵駅の北西約500mの本町の紀州街道沿いの光明寺の少し西を起点として、貝塚市の阿理莫神社を通り、東貝塚駅の北側から麻生中で熊野街道と交差し、水間鉄道の石才駅の東側に出て、水間鉄道の名越駅の南側で線路の西側を南に進む、水間観音駅の西側から水間観音の東側を南下し、近木川沿いの山間の道を進む。近木川に沿って上るとやがて蕎原の集落に入り、葛城山頂への旧道を登る街道である。
山頂から粉河越道に引き継ぎ紀州領に入ります。
この道は山間部の各集落と岸和田城下を結ぶ生活道路であると共に、紀州から水間観音等への参詣道として重要な街道であった。

山頂の葛城神社(牛滝嶺道の続き)

葛城山頂の広場、大阪側は見えないが和歌山側は一望できる

眼下にかつらぎ町と紀ノ川

遠望は紀伊山脈が望め高野山も見える

葛城神社の八大龍王

葛城山石宝殿附玉垣(有形文化財建造物)

和泉葛城山は海抜857m紀泉国境中の最高峰にして、西に和泉平野を眼下に眺めはるかに大阪・神戸・淡路島・四国の連山・六甲の山々も眺望できる。東に紀ノ川の流れを見下し正面龍門山の連峰の彼方に霊山高野山が望める。
この葛城山は1300余年前一言主命が山頂をきわめられて以来、雄略天皇が狩猟場とし、その後、役の小角が山頂を修験道場とすること三十年霊術を会得された。
江戸時代には岸和田藩岡部氏の領土として、葛城神社を郷社として崇め、雨乞いの神様として今も雨乞いに参拝する人が絶えない。また葛城山一帯のブナ林は大正十二年天然記念物に指定されている。(説明文より)

鳥居を潜って水間道をスタートする牛滝嶺道は葛城神社の東側を上ってきたが、水間道は暫く下りの途中まで、
粉河越道と重複する。葛城神社のすぐ西側の道を下る

鳥居を潜りすぐのところで道は分岐するが、かつては蕎原方面に抜けていたようだが今は通れないようだ。右を下る。

ブナ林を守るため、柵もできており快適な道を下る

素晴らしい道、写真にて想像してください登りの見る景色もよかったが、また下りの景色も素晴らしい

かなり使われた道と見えてV字道となっている

玉冷泉の道標

単車止めの杭が車道に出る

少し車道を下って行きます

ガードレールのある車道を下下って行きます車道が左にカーブする右のガードレールの切れ目から旧道を下る

ガードレールの切れ目から下る先の山道

カーブしてきた車道が下に見えるので階段を下る

更に車道のガードレールの間を真っ直ぐ下る

快適な旧道を暫下ると道の両側に ビワ平の常夜灯が立っている

山頂からもう2200m余り下った

更に下っていく

この分岐でなくもう少し先です

視界が開けた辻で道が分岐する、真っ直ぐ(右)の道が塔原に抜ける粉河越道で左に進む道が蕎原からの水間道ここで分かれる

分岐点 水間道と粉河越道との分岐

蕎原への下りを進んでいきます

このルート道の方が粉河越道・牛滝嶺道に較べれば、道幅が狭く部分的に歩きにくいです

少し荒れていて歩きにくいが問題はない

車道に出たところ

前方に蕎原の集落が見えてきた水間道の大阪側の最奥の集落

葛城山への登山口の道を見る

登山口の車道に降りて来た所

角に表示

車道と登山口の角左に 地蔵道標 寛永元年(1748)銘の
地蔵道標  「右 やまミチ 左 かつらき」

登山口をふり返って見る、民家の手前を左に上っていく。かつての旧道の登山口はもう少し先から左に入っていたようで、今は廃道となっている

蕎原の集落に進む

結構民家が沢山あります人は少ないが信号もみえる。終点の蕎原バス停・葛城登山口

この交差点は結構シーズンともなると車が走る。交差点左から来て右に急カーブする道が、40号線で葛城山頂越え和歌山側に抜ける道で街道は正面真っ直ぐの道

150mほど集落の中を進むと新道40号線に合流する、手前右に 
地蔵道標 「是よりかすらき山二十六町」台石には永享五年(1748)銘横の道が旧道で塔原へのみちであった

車道に出てすぐ右の菅原神社参道がある 菅原神社

神社の近くに浄土宗 常福寺 ビンズル様と呼ばれる木造の仏像がある久安五年(1175)銘

100mほど進むと中蕎原バス停貝塚市蕎原地区の中心地当たり

右に郵便局を見て進んでいくとやがて二つ目の信号がある

すぐ先で左に分岐する旧道があるので入ります

左に入ったすぐ右に 道標

左に入り50mほど先で道は分岐している、左の道は近木川を渡り左高台にある「ほの字の里」への道となるので、右の道を数十m進むと右の車道に出る

車道に出たところを振り返る蕎原口バス停、近木川の支流極楽橋を渡る

左川向の高台に「ほの字の里」・学校が見える

右に、何かの記念碑

蕎原の集落も終わり支流の先で、右にレストランがあったので珍しくお腹が空いたので休憩がてら遅めの昼食事とした。そこで旧道を聞いたところ私が迷った辻で、歩こうと思っていた道で左の橋を渡っていくと水間観音も近く、史跡も多いよと聞いたので急遽こちらが旧道と思って新蕎原大橋を渡ることとした。結果的には間違っていた、秬谷から大木へ抜ける内通谷の道であった。仕方ないので、とりあえず今日は水間観音まで行くこととした。新道の道、もう一つの貝塚から紀州への古道のようだすっかり綺麗な道に変わっている

40号線を右に分け、左の新蕎原大橋を渡ったところを進む

少し坂を上った左に、ほの字の里へのは入口があります

大川地区~秬谷地区に入り山間の車道を坦々と歩く

かなり進んだところで、左川沿いに沿って大きく右にカーブする手前右のバス停の傍に新しい
記念碑の道標地蔵
木積秋山林道改修記念碑 「東方面 蕎原村・和泉かつらぎ山木積村・蛇谷城址・道隆神社」

右に 宝篋印塔根福寺城跡と殿の墓
別名野田山城とも呼ばれる。天文年間(1532~1555)にこの地の豪族である松浦肥前守によって築城され、後に根来寺領となったと伝わる。山上の根福寺と呼ばれる寺院を中心として山全体に城郭が形成されていた。現在も大門跡や土塁、堅堀等が残り中世山城の名残をとどめている。道路沿いの共同墓地入り口には五輪塔をうきぼりにした墓碑がある。城主の墓とされ、「殿の墓」と呼ばれている。

左の山が城址

暫く蛇行しながら進むと秬谷隧道があり、隧道手前の右回りの旧道を進みます

トンネルの東側の旧道を進んでいくと、左に 遊女の墓 がある文化年間(1804~1818)この地で非業の死を遂げた遊女千代の墓と伝えられている。伝説によれば、貝塚の遊女であった千代が病気にかかり郷里の紀州へ帰る途中、この地で川面に写るあわれな自分の姿に落胆し断食の末、命果てたとう。これを哀れんだ村人たちが墓を建て供養した。馬場の大福寺には位牌が残されている。墓の前の道は貝塚から紀州へ通じる街道として、古くから使われていたようだ。(貝塚市教委)
村人たちの暖かい気持ちで立派な墓が建っている

旧道は車が入れないようにしているこの道はもしかして、歩こうとした道より古い道かもしれない。
街道の名は無いがもう一つの水間道かも 

トンネルを抜けたところを振り返る

トンネルの抜けた一段低い一帯は貸畑のようだ区画に分けてそれぞれの野菜を作られている。結構広い

馬場地区に入り前方に阪和自動車道の高架が見える

新蕎原大橋から5㎞ほど歩いた更に坦々と暫く歩き、阪和自動車道の高架を潜り進むと馬場地区を抜ける
T字路に出て右に折れると真っ赤な近木川に架かる龍谷橋に出る

龍谷橋を渡ると突き当たるので左に折れる。右からの合流する道は水間道で橋を渡り合流して左に折れるのが街道。⦅寄り道⦆ここで水間寺通称水間観音を見学

西南にある上通天橋、正面は水間公園

行基堂(開山堂) 当山開基の行基菩薩が祀られている境内で最も古い建物。再建は17世紀中頃

近くにある 鏡池 池の畔にある 瑞泉堂

弁天堂と通天橋

本堂  
天正13年(1585)秀吉の根来攻めの際、七堂伽藍をはじめ坊舎等すべて焼失、その後再建されたが1784年に火災により焼失。現在の本堂は文政10年(1827)に再建された建物

三重塔
現在の塔は天保五年(1834)に再建されたもので大阪府内唯一の三重塔である。

千日隔夜宝篋印塔  基礎の一面に前かがみになって胸の前に鈷をさげ念仏をとなえて歩行している隔夜僧を浮き彫りにしている  

龍谷橋の北側に架かる、厄除橋 

水間寺を見学し終え、1日目の水間道はここで終わり。日を改めて喬原バス停葛城登山口から歩く。
少し歩いて水間電鉄の水間観音駅へ移動し帰宅。

  水間道の2日目 
      2013年1月12日

前回歩いた続きを歩くが、葛城登山口から水間観音まで新蕎原大橋を渡って、もう一つの迂回道らしい道を歩いたが、この道も一部古い道が残っていた。
今日は再度、葛城登山口より旧道を水間観音まで歩き、前回の道と合流して蛸地蔵駅近くの紀州街道との合流点までで完歩する。
自宅から車で1時間30分かけ岸和田市役所の駐車場までいき、そこから少し歩き蛸地蔵駅へ南海で貝塚駅まで行った、水間鉄道に乗り換え水間観音駅へ、さらにそこから本数の少ないバスで葛城山登山口の蕎原バス停終点までいってここからスタートする。
9時10分スタートし、途中水間観音で前回の歩いた道と合流してここから紀州街道との合流点まで進みます
          葛城登山口 9時10分 スタート
          蛸地蔵駅  14時   完歩
             6.824歩 16.09km 1.206kl

終点の蕎原バス停まで乗り葛城登山口からスタート

右の斜面に小さな 石仏

前回と同じ二つ目の信号のすぐ先で左の道を入り、少し先で右の道に戻る所

左に入ったすぐ右に 道標

再び車道に合流したところを振り返る

合流したところが蕎原口バス停

左川向高台の学校とほの字の里を見る支流の川を渡った右に記念碑の前を進む記念碑の前の街道から振り返る

右、前回食事をしたレストランで前方に新蕎原大橋が見える。前回は左に橋を渡り歩いたが、今回は橋を渡らず、左の川に沿って進む。

150mほど先、左に朱色の橋が架かる長慶寺別院への奥水間橋(寄り道)

橋を渡ると、長慶寺別院 新しい建物となっている

街道に戻り少し進んだ左、近木川の対岸に切り立った岩山が見える

道は川沿いに大きくうねりながら進むと右に 役行者の石像と道路改修碑 前者は安政四年(1857)の銘、後者は明治17年に道路改修の碑

碑の前の街道を振り返る

近木川が分流するところの左に落合橋が架かるところの案内標示

左の橋を見て更に先を進み、右に大きくカーブする左に奥水間温泉。一瞬お寺かと思った

結構大きな設備の温泉

温泉前のバス停から150mほど先で近木川に架かる畑橋を渡り、川の西側に200m進み再び川を渡り新道を数十mすすんだ先で東側(右)に入る、川沿いの新道を右に迂回するような道になる。蛇行しながら北に進む道です。

右に入っていくと 鳥居と祠

鳥居と祠を振り返る

蛇行しながら200mほど進んでいくと再び左からの新道と合流するが、その手前右に小さな民家のような 妙楽寺

新道に合流した少し左に畑バス停

新道に合流するところ、正面には向かいの数軒の集落にはいる橋が架かる。新道はここで右に折れて川の東側に沿って歩くが、かつては川の西側に旧道は延びていたように思うが、今は先で道は消失しているようで右に折れて新道を進む。(間違っているかも)

その先右に 六地蔵が並ぶ享保11年(1726)の銘

そこから木積集落を振り返る、この様に見るとやはり川の東の新道が正しいのかもと思う

振り返ると左への道が途切れているが旧道の名残か。このように考えていると前に進まないので、今の現状で歩くこととする

少し進むと右にカーブする左、川との間に 道陸神社足の神として広く信仰されている。元は、戦国時代この辺りの豪族、松浦肥前守によって近くの蛇谷城内に祀られていたが土地の人々によって移された。「どうろくさん」と呼ばれ親しまれている

金剛蔵王大権現

神社向かいの右手の山頂には 蛇谷城跡戦国時代末の弘治三年(1557)に木積の豪族であった松浦孫五郎によって築かれた

右手に 地蔵の祠 弘化三年(1846)の銘

松葉温泉前バス停で峠橋を渡り川の左側に出る。バス停脇に 道標 「龍王不動明王是ヨリ半丁」

その先で右に大きくカーブします、小さな峠であったようで坂を下る

坂を下っていった右手に三基の道路改修碑

坂を下っていくと正面に阪和自動車道の高架が見える

高架を潜ると街道の情緒が残る民家が並ぶ

上木積集落

上木積バス停の所で右の旧道に下る。合流する地点に小堂に道祖神があったようだが見逃した

右の旧道を下り、右川に沿って進む南山集落を進む

集落内左に徳本名号碑・石仏・石祠がある 

集落内を進み左に川瀬米穀店のある先で突当りとなり左に折れる

左に折れてすぐ先で、右の近木川に架かる新道の大橋を渡る

釘無堂前バス停、橋を渡り右の高台に 孝恩寺

本堂の 観音堂(国宝)一般に釘無堂と呼ばれ、鎌倉時代後半の創建鎌倉時代の代表的な建物。堂内の十九体の仏像および一面の板画一枚は、日本美術史上画期的代表作で重文

貞和二年頃の(1346)五輪塔

かつては一大伽藍を誇っていたが、重なる兵火に伴ない奇跡的にも観音堂(釘無堂)と仏像は免れたのが奇跡

神亀三年(726)、聖武天皇の勅願を受け、僧行基によって建立されたとされる。畿内49院の一つに数えられる寺院。現存の御堂は鎌倉時代後期に再建されたもので、府下で最古の部類の木造建築物で、明治36年国宝に指定された。建立時、釘を使用していなかったところから、別名釘無堂と呼ばれている。また当寺には、平安時代中期の本尊阿弥陀如来をはじめ、地方色豊かな19体の仏像群が重文に指定されている。  (貝塚市教委)

橋から80mほど先、西出鍼灸院の所で右に入る

右に折れたところの旧道

かつらぎ図書館・葛城小学校を右にみて左にカーブして再び車道に出る車道に出た信号交差点を右に折れる

交差点左からは先ほど分岐した車道

交差点を右に折れて100mほど先で、木積南交差点を横断する

更に100mほどで下木積交差点に出るので真っ直ぐ進むが、この交差点の左右の道は槇尾道

交差点の右手前角に 祠と三基の道標

交差点の真っ直ぐの道を入る、左にカーブして170号線に出る。170号線を右に折れる

川沿いに少し進むと、前回のもう一つの水間道が左の朱色の龍谷橋に出てきて合流

更に50mほど先の白い橋が厄除橋で綺麗な橋

水間寺は前回見学しているので寄らないその先で道は分岐する左の細い旧道を入る、右の新道を進むと水間鉄道の水間観音駅の前を通る

厄除橋の入り口には、水間寺の石碑と燈籠が立つ

左の旧道を入る、この左あたり近木川と秬谷川が合流している

右に 塞之神

側溝沿いに三ツ松の集落を進む大きな民家

十字路を横断して進む右、水間観音駅

十字路の先右に 道標 「道陸神社是ヨリ二十五町」

十字路より150mほど先で道は分岐する角に、三ッ松の辻堂 堂内に弘法大師を浮き彫りにする 道標左が三ッ上山大師への道。右が岸和田・貝塚への道

その先で外環状線の高架を潜る

高架を潜ると左に、オークワを見る、潜った先の道を進む

右の線路の向こう側の車道沿いに、パチンコ店の大きな猿の像

右の三ヶ山口を過ぎた集落の中の道

水間観音の 道標 八丁石

八丁の道標の辻を左に入ると浄土真宗長栄山 妙順寺

太鼓楼

街道に戻り先を進む三ッ松の辻、右に行けば三ッ松駅

すぐ右に 

左に木島小学校をみて400mほど先左に浄土真宗大悲山 稱念寺 街道右に入ると森駅

森集落にはいる稱念寺の街道から100m余り進むと左道なりにカーブして突当り、クリーニングローズで右に折れる

右に折れて100mほど先右に、森稲荷神社がある

森稲荷神社 森・清児・三ッ松・名越村の古くからの鎮守

不動堂と廃青松寺  不動堂は森稲荷神社の神宮寺であった青松寺の一部で、堂内には不動明王坐像や釈迦如来来迎図、歴代住職の位牌等が残されている。明治の廃仏毀釈で廃絶された。

三ッ松・名越の集落を進む

森稲荷神社から更に街道を進むこと300mほど先の十字路を左に少し入ると常照寺がある

浄土真宗光明山 常照寺

境内に天文9年(1540)の五輪塔が残る

この辺りには古い民家が残り街道の情緒が残っている

素晴らしい絵になる名越の景観

すぐ次の十字路の先で水間鉄道の踏切を越える

踏切のすぐ左、名越駅

踏切の先に、記念碑と祠

名越駅の西、100m余りの所に高井天神社社地に平安時代後期と推定される、高井天神廃寺がある。ここは秀吉の根来攻めの時、根来衆の砦とされた高井城跡でもある。後で資料でわかったが寄れなかった。

集落を進んでいくと右に 

祠の先の十字路を右に入っていくと浄土真宗願月山 明圓寺

街道に戻り先を進む

左は清児駅で街道右土塀に組み込まれた 道標 時々歩いていると見かけるのだが、貴重な遺跡を無理に壁に組み込まなくてもいいと思うがいかがでしょうか。

水間鉄道沿いの旧道は雰囲気がいい

土塀に埋め込まれた道標の辻を右に行くと真宗 珀琳寺本坊

街道に戻るとすぐ先左に 

左に従軍記念碑

少し歩くと40号線の広い清児西交差点を越える

交差点より100mほど先、右に藤林商店がある前を左斜めに折れる。そして道なりに右にカーブして進む
左にカーブする右角に 

麻生中集落に入る、右奥に浄土真宗 正満寺

街道左には浄土真宗 真成寺

お寺の前の街道 歩いていても飽きない道

交差点から100mほど先で道は分岐する、右の道を進む。その角に大きな二基の石碑と鳥居石造りの祠・牛神
左方向に水間鉄道の石才駅がありここで街道は右へ行くので水間鉄道と分かれる

右にカーブして100m余り進んだところで交差点に出る。右前角は中央小学校。真っ直ぐ進む
交差点の左から熊野街道が合流して暫く重複する

交差点左手前角に石造り 道標地蔵菩薩 「右 はし本道 左 みずま道」天保十五年(1844)の銘

右に中央小学校を見て進む

十字路がありその少し先右に

更に右、熊鷹大明神

その少し先、右保健センターのすぐ先前に麻生中の 熊野街道半田一里塚跡の碑

小栗街道(熊野街道)碑

右の一里塚碑と小栗街道碑の前を進みます

右に、唐問池が見えてくるので真っ直ぐ進むのが熊野街道ここで分岐。左斜めに進むのが水間道

左に曲がった先の水間街道

半田の集落を進む

府道30号線の半田北交差点を横断する

交差点角に熊野街道半田の道標

交差点を渡って右の旧道を進む

その先で分岐するが左の真っ直ぐな道を進み道なりに進んでいくと

この辻も真直ぐ左

更に十字路となりやや左目の真中の道に入ります十字路の突当りに新嘉坡陥落記念碑
傍にはブロックに埋め込まれた 地蔵

その先正面右への道そしてすぐ左へ

旧家の残る半田集落の街道、集落の南側一帯は白鳳時代創建の 秦廃寺跡であった

道教寺に出て右に折れて進みます

真宗川勝山 道教寺、道教寺の西側はすぐJR東貝塚駅

道教寺の東側の道を北東に進む

その先、左に緩やかにカーブしながら府道を渡る

府道を渡った左角に 地蔵の祠道標が立つ 「右 きしわだ 左 かいづか」

その先でJR阪和線の踏切を渡る

その先変則四辻だがほぼ真っ直ぐの道を進む

 150mほど進んだ先で、分岐している右の旧道を進む

右に100mほど進むと、右に溜池がありその先ですぐ左にカーブして分岐した道に合流する

左からの分岐した道に合流するところ

久保集落に入り、旧道は所々に1.5m前後で畦道や分譲住宅内に残っている。

津田川に架かる橋を渡ります

橋より100ほど先右に、射場酒店の所で道は分岐しているので左の道を進む。

分岐で右の道を少し入ると浄土真宗 最勝寺 

元の街道に戻り少し進んだところで左に 阿理莫神社(ありまか)神社の東側を街道は進みます

狛犬等が並んでいます

神社のすぐ北東の十字路を左に折れる

左に折れるとすぐに第二阪和国道の久保北交差点を渡る

交差点を渡りすぐに右にカーブする

更にその先の十字路を左に曲がる。この辺りは新しい住宅が建ち並ぶ

左に折れて200mほど先の信号交差点を右に折れる

右におれて100mほどの信号交差点を左に曲がる

左に曲がった先の道、真っ直ぐ進むこの辺りは旧家が全く残っていない

200mほど先左、中筋内科医院の信号を越えるその先100mほどで少し右斜めに街道は進む辻の左手前に寺田萬寿病院がある。右の長谷川商店の前を進む

更に100mほどで信号を越えるその先右角に子護地蔵尊

やがて南海本線の蛸地蔵駅の西側の踏切に出る

踏み切り右に蛸地蔵駅

踏切手前左に 

踏切を渡った先の情緒ある街筋。かつてはこの道に沿って 岸和田城の外堀があったが今は埋め立てられている

少し進んだ交差点右に 三の丸神社

南北朝時代の創建と伝わり岸和田岡部家の庇護のもと、毎年9月27日いろいろな芸をして領民も城内の三の丸神社で殿様に見せたのが、今日の岸和田だんじり祭りの始まりともいわれている。地元では「さのまるさん」と呼ばれ親しまれている境内の大木

街道の左は、昔懐かしい岸城町の 長屋 今は殆ど見ることがなくなった貴重

その先左に 地蔵道標

祠の先で204号線のタコ地蔵駅下り信号交差点に出るので横断して50mほど進む

204号線を横断して50mほど先の信号交差点で紀州街道が左右に通り合流する。
紀州街道の東への道

紀州街道西への道

紀州街道との合流交差点より振り返る

          水間道の起点は岸和田市本町の紀州街道との合流点

合流点の紀州街道を少し東に浄土真宗  光明寺

光明寺前から西を見て、水間道の起点を見る

水間街道 完歩

 

 

  

 

 


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