2012年1月28日
九度山橋南から~紀ノ川の南沿いで橋本~五条市~下市町~吉野町六田
自宅より歩き九度山橋を渡り、1日目の起点まで進む。あいにく朝から雨、冬の雨は体にこたえるが頑張って吉野まで歩く。
橋を渡るとすぐ、左の九度山町に入る坂道があるが、少し先の細い路地を左に入る。1日目の起点
左に折れた路地の坂道。
あまり広くない道を歩いていくと右に 高野山真言宗 善名称院(真田庵といわれてます)
真田昌幸・信繁(幸村)父子が蟄居した庵跡といわれる、一般に真田庵と呼ばれている。境内いたるところに六文銭があしらわれています。また境内には真田昌幸の墓や真田宝物資料館があります。(真田信繁大坂入城の道を探るに詳細、ご参照ください)
真田昌幸墓所と地主権現
花は散れども 香は残る 慶長十六年(1611)この地に没す。
この時点ではなかったが大河ドラマに合わせて、平成28年3月13日、九度山・真田ミュウジアムが少し西側にオープン、14年間九度山で過ごした時期も併せて特別展示館としてにぎわっている。
門前の角に 道標
すぐ右の大きな民家で最近、そば処の店が賑わっている。
さらに進んでいくと真田古墳(真田の抜け穴伝説) 私たち小さい時分は、真田の抜け穴として伝えられていたが、実際は、古墳時代後期(六世紀)の横穴式石室を持つ円墳と分かっている。
九度山町の町筋にでる。この道が本来の街道だろう。
街道風情の残る街筋。
右へ入る道の角に 道標 「紀伊西国二拾一番遍照寺」
道標の足元に 対面石。空海伝承の槙尾山(和泉国)にまつわる神聖な石。
少し右に入っていくと 旧萱野家住宅 大石順教尼の記念館。
槙尾山 遍照寺 旧萱野家はもと不動院と称した寺で、元禄十六年(1703)遍照寺祐尊が建てた。現在は民家として九度山町所有となっているが、江戸時代時代中期の建築と推定されている。
町筋の坂を上り切り、そして坂を下ると右に町筋は折れている。
その手前で左に下る細い道があるのでおりますが。このあたりから岸上橋の南辺りまでの旧道は消失しているのでよくわかりません。ただ南海線路に沿った新しい道でなく、北側の低い田畑の広がる辺りの中を通っていたのではないだろうか。
坂の途中左に、いこい茶屋がありそこから60mほどすすむと左の急な坂道を折り返しながら下ります。
下りきったところで、すぐに十字路を渡ると小川を渡る。その先50mほど進んだ十字路を右に折れます。
この辺りかつては紀ノ川の堤防がない時代は荒野のような湿地帯ではなかっただろうか、広い範囲で新しい住宅か工場か田畑が広がります。旧家もなく街道の道はのこっていないと思います。とにかくどのあたりかわかりませんが、真っ直ぐ東に進んでいたと思います。
やがて雇用能力開発機構学文路宿舎に突き当たります。右に50mほど曲がり左の道に曲がります。宿舎の南側の筋を進みます。ここまで見通しの良い結構な道のりです。そして突き当りを右に折れて少し行くと370号線の信号交差点に出て交差点を横断します。右角にお好み焼きの店があります。
横断した先の道。道なりに100m余り進むと左からの370号線に合流します。
右に折れて370号線を進むと、右の高台に南海高野線の学文路駅が見えます。
学文路駅の東側、近世に入り高野山参詣の表参道として栄えた、高野街道不動口(歩きました) の登り口が右にあります。
すぐ先、ここを左に折れる 左角に 道標 があります 「左 高野みち女人堂迄三里 右慈尊院みち是より一里」。
右は高野街道不動坂の登り口です。
左に折れる角に宝暦八年(1758)の 道標、ここは通称「四つ辻」、高野街道の学文路口の起点。
道標の北側の道を北に進む堀商店の前から下ると紀ノ川に出る。ここがかつての学文路の渡し場跡だろうか。
高野街道は京街道とも呼ばれ、京都と高野を結ぶ街道で、東高野街道で山城・河内を通り、紀見峠越えで江戸初期応其上人が橋本を開くまでは、御幸辻で西に進み菖蒲谷から現在の橋本市中心町より西の神野々に抜け、さらに西に進み高野口から紀ノ川を渡しで渡り、慈尊院参道の北の渡し場から町石道を大門に登るのが高野詣での表参道であった。
中世に入ると、神野々で南に進み紀ノ川にでて、学文路の渡しで現在の学文路駅近くの四つ辻の道標がある北側の渡し場から学文路口で南に進み、河根を経て不動坂を上る道が開設され、この道が高野街道(京街道)学文路口(不動坂口)で、当初は裏街道としての役割であったが。神野々を起点とした場合、町石道まわりよりも10㎞ほど近いうえ、町石道の参道に比べて民家も多く次第に表参道としての性格を強めていったが。本格的の表参道となっていくにはまだ時間が要した。
天正十三年(1585)木食応其上人が橋本の町を開かれることにより、街道の道筋も変わり御幸辻の辻で真っ直ぐ南に進み、橋本に出て(江戸期に入ると紀州藩主の参勤交代の大和街道の宿場となる)紀ノ川を東家から三軒茶屋の渡しを渡り、対岸の清水から学文路に至る新しい道が開かれた。途中、清水で定福寺から上る高野山参詣道七口の一つ黒河道もある。
中世以後は、大坂・堺方面からの中・下・西高野街道が開設発達し、四街道は河内長野で一つになりより表参道としての道となっていった。
明治三十四年紀和鉄道(現JR和歌山線)の開通により、高野口駅から九度山・椎出・神谷への道が高野参詣道の中心となったがその期間は短く、やがて大正十四年南海高野線が椎出まで延長され高野下駅ができ、その後、昭和四年南海電車が極楽橋駅まで延長され、翌年ケーブルが山頂まで開通することにより参詣道の交通も時代の流れとともに大きく変化していいた。
渡し場跡から対岸を見る。
対岸は高野街道の一つで神野々から古高野街道。(高野山への道・真田信繁大坂入城の道をご参照してください)
堀商店の前で右に折れる。真っ直ぐ進むと渡し場跡か。
この先簡単に進みますが詳細は高野街道を参照してください。右に折れた町筋の左に、郵便局手前左民家の前に、道標
国道370号線の十字路に出て横断します。
横断した左角に 大畑才蔵生誕地学文路 と刻まれた大きな石碑。
右側にちいさな 祠
街道の名残が漂う街筋。
やがて右に かむろ地蔵(かむろ大師)
かむろ大師の前に、写っていないが 高野山女人堂三里石が建つ。
その先右にカーブして右T字路で左に折れる。
左に折れるとすぐに、370号線に出て右へ橋を渡る
橋を渡り少し進むと、道は分岐するが旧道は左斜めの道。
分岐する左手角に、高野街道六地蔵の一つ 第二地蔵尊。
少しはいいた先で右に鳥居がある。学文路天満宮の鳥居。
清水町南馬場の街並み。
街道沿い左に 成就寺
境内に 船越喜右衛門の碑 嘉永五年(1852)七月、紀ノ川に大洪水があり、当地南馬場地区において氾濫の危険を顧みず、単身船を出して村人を救ったことを後世まで語り継がれている。
右に学文路中学校を見て街並みを進みます。
清水不動寺
旧家が残る街並みで旧道の情緒があります。
右に 社皇王神社 その先で高架道路の下を潜る。高架の道路左へは紀ノ川に架かる橋本高野橋
高架を潜り少し先から振り返ると、大きな立派な旧家が残る。
左に 供養塔と常夜灯と祠。
清水の街並みを進む、少し先右に入ると南海高野線紀伊清水駅。
右角に今にも隠れそうな 道標 「右・・・・・・・・」。電柱の袂に
近くにある お地蔵さん。
少し先左に西行庵が見えてきます 西行庵 平安時代末西行が高野山への途中滞在したと伝わる。奥に高野街道の第一地蔵尊があります。
暫く進むと左に、三軒茶屋渡し跡宝暦二年(1752)の常夜灯二基が残る。
祠と三軒茶屋の大常夜灯 ここから南に高野七口の一つ 黒河口道が分岐する。賢堂から国城山の東麓を超える道で、大和口ともいわれる。
振り返ったところで、少し戻り左に入る道が黒河道。(歩きました)
三軒茶屋渡し場跡から紀ノ川対岸の 橋本東家の渡し場跡を見る。高野街道はここで分岐して対岸から紀見峠越えをする。
堤防に沿って東に進みます。雨は相変わらず降り続いています。
やがて信号交差点に出ます、左に曲がると橋本橋で現在改装中のようです。高野街道はここで橋を渡って左に分岐しますが、河南大和街道は交差点を右に曲がります。橋本橋を渡った対岸のすぐそばを、紀州徳川家の江戸中期までの参勤交代の道、大和街道が通っています。
橋を右に折れた道で、すぐ先左角の中井商店の手前の十字路を左に折れます。
左に折れた道筋右に 祠
向副(むかそい)地区を東に進むと南海高野線の踏切を渡る。その先で突き当たるので左に曲り川を渡ります。
右に朱の鳥居と祠が大小二つあります。
南海高野線は左にカーブして紀ノ川を渡り橋本駅に、街道は北東に暫く進む。
新しい住宅地や田畑の狭い道を進んでいくと、やがて正面、紀ノ川に近づくと左から車道が合流します。
その先で右に上る道があるが真っ直ぐの道の右側建物の下の道を進む。
右に長い塀が続く大きな旧家が、いわれありそうな建物。
今歩いている河南大和街道の旧道ははっきりこの道だとわからないが、たぶんこの道でないかと判断しながら歩いているので、街道筋の遺跡等あまり説明できない。
再び左からの車道と合流、小さな川を渡ります。
少し歩いた先で再び右に緩やかな坂道が分かれているので入ります。
この道もすぐ左の車道に合流します。
暫く真っ直ぐの道を進み、やがて左にゆかり園、その先で小さな川を渡ると右に達磨館があります。そこで右の道に入ると途中で道は分岐しますので、左の道を進み車道に合流して右に進みます。さらに中道地区をまっすぐ進んでいくと右の擁壁に組み込まれたお地蔵さんがあります。
途中分岐して左の車道に出るところ。
中道地区を真っ直ぐ進む。
右の擁壁に組み込まれたお地蔵さん。
お地蔵さんのすぐ先で小さな川を渡り、右に回り込む道が少しの間あります。さらにその先 すぐにも右に回る道が残っています。このようにところどころに新道を作った時に旧道が残っているようです。暫く車道を進むと、やがて赤塚地区に入ります。その手前を右に少し迂回する道があります。
赤塚集会所を過ぎて少し進むと、左に恋野小学校が見えます。丁度右に少し坂を上る道が分かれるので右に入ります。恋野地区に入ります。
少し入っていくと小さな川に橋が架かっている手前右上に 祠。
糸の懸け橋という木造の橋がかけられてます、手前に 阿閃如来を祀る 祠。
恋し野の里中将姫旧跡(奈良時代)
中将姫の父は藤原豊成、母は紫の前で天平十九年(747)八月十八日に誕生した。母とは五歳で死別、継母の照夜の前に幾度の殺害しようとされたが姫は助かり、十四歳の春、紀伊と大和の境の雲雀山で殺害しようと家臣の嘉藤太に命じたが、罪もない姫を助けた。姫は十三仏や里人の人たちに支えられ恋し野の里で二年三ヶ月間過ごした。そして狩りに来た父と中将倉で再会を果たし、奈良の都に帰り、十七歳の時に当麻寺で剃髪し法如比丘尼となって、ぐう糸曼荼羅を織り、宝亀六年(775)卯月十四日、二十九歳の若さで波乱に人生を閉じた。
橋を渡ったすぐ右に 地藏菩薩
北に少し進み車道に出る。
暫く恋野地区を進みます。
やがて交差点に出ます、左には紀ノ川に架かる恋野橋があります、渡っていくと隅田八幡宮へ行けます。
この交差点で迷うところですが、説明している資料もないので、紀ノ川に沿って真っ直ぐの道を進みます。右の山側を進む道もあるのですがわかりません、最終的には五条の丹原の交差点で合流します。(また何時の日回ってみたいと思います)
交差点のすぐ先で、右の坂を上り車道を左に分けます。坂のうえで右に折れ直ぐに左に折れて再び下り、左の車道に合流する。
車道から左に紀ノ川に架かる赤い橋が見えます暫く車道を進みます、この道は比較的車も少なく歩くには楽です。一向に止む気配もなく朝からの雨が降り続いています。
車道沿い右に 勢至菩薩を祀られた祠と碑。中将姫ゆかりの地恋し野の里。旧道らしい入る道があるがわからないので車道を進んでいきます。
東の川に架かる両国橋にでます、手前右に旧道らしい道があります。
旧道であろう道を入るとすぐ右に、赤い鳥居と祠があります。
その先道は消失している。
東の川上流を見る、往時はこの辺りの浅瀬を渡っていたのだろう。
橋を渡ると和歌山県橋本市から奈良県五條市に入ります。渡った右にも旧道跡らしい道があります。
五條市火打町に入り、少し先左に鳥居が見えます。水分・不動大神が祀られている。
大津町に入り道は東に進みます、暫くあるき中町で北に方向が変わります。右に阪合部郵便局を見て分岐を右に折れます。左には阪合部小学校があります。左の道を進むと御蔵橋に至り二見の24号線に出ます。
黒駒町に入ると黒駒古墳があります。
右にカーブして再び東に進みますと右に 御霊神社
南側に 招魂神社
その先進むと擁壁内にお地蔵さん。
御山町に入ります
右に 雲雀山 寶蔵寺
左に 祠
間もなく丹原の信号交差点に出ます。南北の道は国道168号線で、右に行くと 西熊野街道 です恋野橋の所で分岐した道は、交差点少しに出て168号線に合流しています。正面の柿の葉すし店があります。
交差点を横断して、柿の葉すしの横の細い道を下っていきます。
下って少し右にカーブしながら小さな川に沿って少し進み、左の丹生川に架かる橋を渡る。
橋を渡った右側にある 常夜灯
坂道を少し上って上りきると右に 高野山真言宗 満願寺
お寺の前を過ぎるとT字路となり左に折れる、すぐ正面に 御霊神社。
神社の前で右に折れます、神社を左に見て坂を下っていきます。やがて下ったところで、左からの国道168号線に合流します。丹原の交差点から西熊野街道と重複して歩いています。
合流した右側に 国平大明神
この先の道、どの道が旧道なのかわかりませんが想像して歩いてみます。多分、ここまで歩いてきた旅人も、大半はこの先紀ノ川を渡り、五条の本陣交差点へ出たのではないでしょうか。その辻で大和街道に合流して奈良方面や吉野方面へまた葛城山系を越えて河内の国へ出たのではないでしょうか。
吉野を目指して吉野川の南岸を進みます。北岸は大和街道から南伊勢街道へ続いています。吉野方面へ進むルートとしていくつもあるが、総本山如意寺の看板の交差点を右に折れ、左に五條病院を見ながら、辨天宗祖の御廟の前を通り進む道が正しいのか、私はもう少し168号線を北に進み吉野川の点前で右に折れる道を進みました。
この交差点を右に行くのが前者の道、多分河南大和街道や、南方面からの旅人はここを右に折れたかも。国道を真っ直ぐ進みます、五條病院の正門の前を通る。(今は病院はない)
正門のすぐ先で道は分岐します、国道を左に分け右の道を進みます野原町に入ります。
旧道沿いには旧家の建物が残っています。
旧家のすぐ先右に 野原村道標元標
道標の辻を右に行けば近道でこの道も、南から来た場合の旧道だろう。旧道の雰囲気のある街筋になっている。
とりあえず真っ直ぐ進みますすぐ左に 野原戎神社。
野原の町並みを進みます。
やがて野原西1丁目の交差点に出て左からの国道に合流します。
合流して右に折れて少し先の左T字路に出た辻、すぐ先は吉野川に架かる大川橋が見えるこの辻を右に折れる。西熊野街道が吉野川を渡って、紀ノ川対岸の大和街道と合流します。
右に折れる左角、橋のたもとに愛宕神社・金比羅宮
右に折れた町筋、東への道、丁度、智弁学園高校が甲子園への出場達成の垂れ幕。
左に 大稲荷
すぐ先で三叉路に出ます、右には由緒ある屋敷があります。その前の三叉路を左に曲がります。
豪壮な長屋門を有した 岡松家長屋門(県文化財) 旧野原の代官所で今なお広大な屋敷を持つ、長屋門の全面にはかつては松の馬場が広がっていた。消失した主屋は桃山時代のものであったので、現存している長屋門もそれに続く古い建物です。
野原西を進みます。
左に 高野山真言宗 金剛寺本尊は薬師如来小松山福寿院と号し、唐招提寺長老の隠居寺(江戸時代~明治時代)左に 高野山真言宗 金剛寺本尊は薬師如来小松山福寿院と号し、唐招提寺長老の隠居寺(江戸時代~明治時代)。
牛供養塔
先を進んだ左奥に 御霊神社
街道左に松村金物店があり、その前で分岐しているので左の道を進みます。
野原中地区左に畑田上池下池が並ぶ。
野原町走井に入る先ほど分岐した道が右から合流する。その少し先で信号交差点に出るので、左に折れます。
暫く真っ直ぐ進みます、やがて左にスズキアリーナ五條があります。更に少し歩いた右に 西光寺
野原東地区を進み、川を渡ります、牧町に入ります。
左に 威徳寺
お寺の少し先で、車道を右に分け左の道に入ります。左に入るとすぐ先に窮屈なブロック塀に挟まれた 祠 があります。
祠の前で右(北)に向きを変えて田畑の間の道を進む。だが200㎜ほど先で道が消失しているので右に曲り車道に出ます。
車道に出て野原東の真っ直ぐの道を進みます。
やがて吉野川に架かる栄山寺橋に出るので、初めて紀ノ川、吉野川を通して北岸に出ました。橋を渡るとT字路になるので右に折れます。大和街道は正面の山の向こう側を通っています。T字路を左に折れて少し歩くとでます。
やがて吉野川に架かる栄山寺橋に出るので、初めて紀ノ川、吉野川を通して北岸に出ました。橋を渡るとT字路になるので右に折れます。大和街道は正面の山の向こう側を通っています。
橋から右を見ると左にレストラン吉野川が見えます。右の吉野川の上流でこの先歩いていく旧道です。この辺りから和歌山県を流れた紀ノ川が奈良県五條市に入り、吉野川と名前が変わります。
右に折れて進む道です。
左に 道標 がありますが読めなかった多分栄山寺の関係と思います。
左に古社の 真言宗豊山派学晶山 栄山寺 藤原武智麿により養老三年(719)に創建されたと伝わる。本尊は薬師如来。
背後の 御霊神社
八角堂(国宝) 藤原仲麻呂が父、武智麿の菩提を弔うために建立したと伝わる。
藤原武智磨の墓 栄山寺背後の山上にある藤原氏南家の始祖贈太政大臣藤原武智麿が天平9年7月亡くなった後点定され、守戸6烟と、丁12人を賜って守護せしめられた墓所で、延喜式に後阿陀墓とあるものがこれである現今石段の上に元禄6年の建立された墓石がある。
暫くは右の吉野川に沿って進みます。
道は吉野川に沿って右に大きくカーブして六倉町に入ると、六倉バス停のすぐ先で左に折れる辻の角右近くに東福寺があります。少し先左奥に御霊神社が建っています。六倉町を抜けるところで吉野川の大昭橋を渡り吉野川が道の少し南側でUターンして曲がってきました。橋を渡り島野町に入り下島野バス停を過ぎたすぐ先、右に御霊神社、左に地蔵院が建っています。
下島野で左に五條学園をみて島野町を通っていきます。
大昭橋を渡った先、左に 地蔵院
右に 御霊神社
五條学園のすぐ先右にある 祠
島野地区で右に大きく緩やかにカーブします。街道沿い右に苔むした古い石碑が並ぶ。
その先で、短い道ですが左に下りすぐにまた合流します。
合流したところ右に、斜面に組み込まれた お地蔵さん。
続けて右に二基の お地蔵さん。
今度はこの先で左の吉野川沿いに左に大きくカーブして滝町に入ります。
カーブする手前右に 祠
この辺りの吉野川は岩の景観がなかなかのものです。この辺り川の流れも速くなっていて、カヌーの愛好者が結構楽しんでいるようです。
右に 題目碑が建つ。
少し先に 贈正五位天誅組義士橋本若狭生誕地之碑
その先も左にカーブしながら吉野川に沿って進みます。南阿太公民館前バス停右山裾に見える 龍光寺。
左街道沿いには 灯籠とお堂
南阿太郵便局を見て小さな川を渡ります。
すぐ右に 諏訪神社
神社を過ぎた左に吉野川に架かる阿太橋を見て進む。
南阿太町に入る、新しく改修されたされた道路で街道の面影は残っていない。
左の集落を抜ける旧道が残っているので左に入ります。
すぐにまた新道に合流、右に 源竜寺
後でわかったが、源竜寺から左に入る旧道があった。新道より旧道の残る集落を抜けてきた方向を振り返る。
すぐ先右に 牛頭大王
南阿田集会所の前を通ります。
右街道沿いに 道標 古墳の道標だろう読めない。
南阿田大塚山古墳、ここから230m、6世紀前半の帆立貝式前方後円墳(全長30m)中には入れますが懐中電灯が必要と書かれています。
ここに前述の集落を抜ける旧道が出てきていて合流している。雨に降られて少し疲れたので戻れないのが残念だが仕方がない。
街道右に 常夜灯
八田町に入ります。
右の山裾に 福林寺
隣に 日吉神社
さらに進んでいくと右に 石佛
吉野郡下市町・大淀町が見えてきました。
右に衛星センターが建ち、超えたところで信号交差点、街道は真っ直ぐ下市町に入る。
信号交差点を左に折れると吉野川に架かる梁瀬橋で渡るとボーリング場が正面にあります。その一筋向こう側を大和街道(この辺りから伊勢南街道と呼ばれるが)が通っている。
新住に入る交差点を真っ直ぐ、右に吉銘本社工場が建つ、この辺りから吉野町にかけて吉野の材木を扱う工場が多い。
右に 専念寺 応永四年(1397)の創建と伝わる。藤原末期頃の阿弥陀如来坐像がある。
少し先右に 宮前寺
その前で道は分岐しているがどちらの道も新住の集落を抜ける、右は下市から大峯方面への近道。。街道は真っ直ぐ進みます。
新住集落内にも大きな旧家が点在して残っている。
左に 正法寺が見える。
左に 常夜灯と新住の町並み
街並みを進んでいくと千石橋南詰交差点に出ます。
交差点の左は吉野川に架かる千石橋で、近鉄下市駅近くの大和街道に出ます。交差点を右に進むと、下市町並みから大峯山に行く道。昔は修験者の方々が多く通った道で、下市には宿場として賑わったそうです。その名残が今も一部残っています。
交差点右の大峯山への道、かつてはこの下市町は大峯山登山口として賑わった街である。
交差点を超えるとすぐ左に吉野川を背にして 西来寺
少し歩いた左に清い水が出て、昔からたくさんの人が飲み水を汲みに来る。
直ぐ阿知賀地区に入り道は狭くなな。分岐しているが真っ直ぐ。
右手に 白伯大明神・国栖神神社
この阿知賀の道筋も、まだまだ旧家の大きな家が残っています。
さらに進んで右手に 白髪神社
下市町阿知賀地区を進む。
左に お地蔵さん
街道も下市町阿知賀から吉野町六田に入り、いよいよ街道起点ももうすぐです。
奥六田の集落を進みます。
左に 花巴醸造元があります。
右に 祠
その前が鍵型の辻となっています。
辻を右に折れ少し入ると右に 祠
正面奥に お寺
辻に戻り左に曲がると、吉野川に架かる美吉野橋。
真っ直ぐ進む道は吉野への道。
左に曲がった美吉野橋の南袂が、対岸の北六田で、大和街道に合流。
またここはかつて、柳の渡し場跡 で吉野川を渡河して対岸の大和街道と通じていた。
対岸の北六田川の渡し場跡を見る。石に像は修験道の開祖役行者像。
柳の渡し(六田の宿)
この辺りは古くから開けたところで、平安時代に、大峯山中興の祖といわれる、山城醍醐の僧、聖宝理源大師が初めて渡し場を開いたと伝わる。以来吉野山から大峯山を経て熊野へ駆ける、修験者の水垢離場として尊ばれてきました。今の美吉野橋は、大正八年(1919)になって架けられたもので、それまでは、舟や徒歩で川越えをしていました。したがってこの付近は、大和平野や大阪、和歌山方面からの修験者や、吉野山への花見客でにぎわい、また吉野川をくだす、「筏」のたまり場でもあったので、宿屋や茶店が建ち並んで、宿場町としても栄えた。
ここで河南大和街道は終了。辻を東に進む道は、吉野路で(歩き済み詳細は吉野路を参照)
吉野川の左岸の街筋を進むと佐曽・橋屋の集落にはいる、。また橋を渡り右に折れて吉野川の右岸の道を進むと、吉野山の表参道へ。吉野山への右に折れずそのまま進む道は 東熊野街道です。
美吉野橋を渡らず真直ぐの旧道を進むと橋屋の集落を抜け吉野神宮へ。
すぐ先の右への道を入っていくと、左曽川に沿って近道だが結構厳しい。右への道筋(どちらの道も歩き済み)
吉野山への道は、後日掲載させていただきます吉野路を見てください。
河南大和街道完歩
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