2013年4月28日
亀岡城下南へ~年谷川に沿う~東別院町小泉~東別院東掛~清阪峠~茨木市の忍頂寺~茨木市大岩~茨木市福井で亀岡街道に合流~茨木市中河原橋の南で西国街道に合流
昨日は 能勢街道完歩して亀岡駅近くのビジネスホテルポニーに宿泊。
今日は亀岡駅より 清阪街道を茨木市の西国街道中河原の合流点まで歩く。7時15分スタート、少し街道沿いの史跡を見学。国道46号に沿って歩く、車が多く歩きにくい部分が各所にあった。でも清阪街道の難所、清阪峠に挑戦、現在は新清阪峠があり、旧峠は一部廃道状態で歩く人はいないよう。峠の麓で農作業の人に旧道を聞く、50年ほど前よく峠越えをしたと言っていたが今は歩く人がいないが無理すれば通れるかもと、とりあえずダメなら戻ってきますと言って方向を聞いて上り始める。短い峠越えだが途中で藪や竹藪で道が無くなり立ち往生、止む無く引き返すことにした。
これを見ていた別の地元の人が怒った声でなにしてると尋ねられた、理由をいうとなんとか歩けるから途中まで案内してあげると分かるところまで案内してくれたが、とても1人では分からなかった。そこで道らしきあとを教えてくれて上るが、微かに旧道らしき窪み道がある、でも藪が茂り、竹や木が倒れて喘ぎながら上る。短い距離であったが廃道化した道は長く感じ、やっと旧峠に着く。多分私が最後の歩いた人になるだろう。また1年の内では今のこの期間で良かった。それ以外では全く無理であった。
私が近くに住んでいたら、旧道を復活するのにと思いながら峠から下り清阪の小さな集落に入る。下り道は旧道らしい街道が残っている。
もう一つ、東福井3丁目の亀岡街道との辻に着いた時、近くの真龍寺へ寄ろうとした時、更に古い旧道を見つけた、山の尾根道で2kmほどだろうか素晴らしく残っている。ここを少し急ぎ足で往復して完歩となる。大感激の1日であった。
亀岡駅 7時15分 スタート
西国街道合流 17時40分 完歩
49.748歩 29.84km 2.221kl
朝ホテルを出て亀岡駅までの道沿いで、可愛い 祠 を見つけた(西友の北側)


JR亀岡駅前(南側)

駅前から北側を見ると、愛宕山が雄大に聳える

駅前から南の道、正面が 亀山城址 駅前の交差点、清阪街道の起点

駅前に出て目の前の広い道を左に折れる、少し先の右の二筋目で右に折れる

右手にイオンの建物に沿って南に進む 春日坂

この春日坂はかつて亀山城の内堀を埋め立てた跡 左に春日坂球技場

丹波亀山城保津門跡
亀山城下の内外は内堀・外堀・惣堀の御堀と御土居で仕切られ城内から各方面に五つの城門が配置された。この付近は北方面への出入り口としての城門「保津門」があった

内堀跡の春日坂を南に進む

亀山城跡内にあるおほもと教入り口一般は入れない(貴重な史跡が私有地とは情けない)

教団を過ぎて右の亀岡高校の所を入ると 形原神社 この辺り一帯は御館跡、藩主の屋敷があった建坪772坪、また大手門跡でもあった。1748年篠山から入封した形原松平氏を祭神とした歴代藩侯を祀る社。1880年創建

亀山高校辺りの街道は 外在番跡 城番人がおり大手門東側の御館より南側外堀の対岸に位置し、場外警護の役割
鍵の辻になっている通り左右の通り旅籠町通りを越える

東西の呉服町通りで辻をこえていく

東西の呉服町通りで辻をこえていく風情のある街並みで、京町の辻になる


京町筋は 篠山街道・山陰道 と交差、古世門 があった跡である

四辻の右手前角の 古世地蔵堂 源頼政を祀る、「矢の根地蔵」が安置されている

地蔵堂の前に立つ 道標 「右 穴・・寺・・・・・」

京街筋を東に入っていくと 浄土宗称名寺

称名寺山門の薬医門
1698年の建造で城下の寺院では最古、格式が高く歴代住職は紫衣を着ることができた。1686年亀山城からの類焼で焼失した

本堂

伝 和泉式部の墓

称名寺より京町筋を挟んだ南側に 毘沙門奨天と臨済宗聖隣寺

1490年創建、亀山城主であった小早川秀秋が息子の菩提を弔うため米二石の寄進を受けた五箇寺の一つ


聖隣寺の西側にある 曹洞宗宗賢寺(宗賢寺辻子)辻子とは表門口向ける町屋敷かない道のこと。
明応元年(1489)に長徳寺として創建された。天正二十年(1592)亀山城主小早川秀秋が子どもの菩提を弔うために、米二石を寄進した亀山五箇寺の一つです。その後、亀山藩主大給松平成重が夫人の久松寺殿椿岳寿大姉の菩提寺として改修し、久松寺としました。さらに寛永十二年(1635)菅沼定芳が亀山藩主として入封すると、亡き父の定盈の菩提寺として改修し、父の戒名の勝徳院殿長翁宗堅大居士から宗堅寺と改称されました。菅沼氏は定芳の子、定昭が若くして亡くなり、嗣子が無かったことから断絶しました。境内の御土居の上に、菅沼親子と殉死した三名の家臣と乳母の墓が残されている。
また、境内観音堂に祀られている如意輪観音像は、同寺の隠居寺であった、篠町浄法寺にかって所在した妙楽寺の本尊で、傍らの小池から現れたという霊像で、諸病に霊験あらたかといわれています。像底銘から仏師快慶の流れをくむ安阿流法橋賢清が永仁六年(1298)に造像したと云われています。

御土居跡と歴代の墓


曹洞宗嶺樹院 藩主菅沼定芳の母君が先祖の菩提を弔うため1602年に建立

元の京町交差点の春日坂通りに出て南へ進む

右に 祠

大工組
町割りに武家地と町人地からなり、この辺りは1793年の記載では、惣堀の外側にあたり、大工組と記され、与力組の組屋敷が隣接していた
新山陰道の9号線、矢田口交差点(旧古世口)

交差点より春日坂通りを振り返る、正面が愛宕山

南に進んでいくと、鍬山神社の鳥居 が街道をまたがる矢田町一帯で10月23~25日にかけて鍬山神社の秋祭りが11基の山鉾巡行がある

その先真っ直ぐ進む

矢田天満宮の前の街道

左に 矢田天満宮
城下の矢田口から鍬山神社への道にあたる一の鳥居を越えたところにある「矢田の天神さん」として親しまれている


左に年谷川が接近する左に橋を見て右にカーブして西へ進み、上矢田町を進む

正面に 白い鳥居がありそこを左に折れる、手前が新しい道

左に折れると鍬山神社の参道

参道右に 解藤泉

鍬山神社
和銅2年(709)創建と伝えられる古社で、亀岡盆地が湖だった頃、大国主命が、鍬で峡を切り開き農地にされたという国造りの伝説がある。開削に使った鍬が山積みにされたことから鍬山大明神と呼ばれた


向って左が 鍬山宮 右が 八幡宮

神社を後に南へ前方に京都縦貫自動車道が見える


突当りを右に、左は年谷川に架かる上矢田橋


年谷川が右から左に大きくカーブしているので、道は真っ直ぐ、矢田橋・中山橋を渡る

だんだん山・谷が深くなってきた

右に旧道跡と思われる上坂林道、旧道は廃道化しているので、年谷川に沿って進みます

街道は年谷川に沿って蛇行して進む旧道跡のような廃道が右に、ところどころに廃道化した旧道跡があります

工事中 かるた橋を渡る。数年後来たら様相が変わっているだろう



ここにも旧道跡の廃道、歩けそうだが先が分からないのでパス。柵がされています


ちとせ橋を渡り、年谷川が左に沿う

随所に旧道跡の廃道が残る


ここにも廃道跡

旧道跡が川の対岸に残しているようだ

冬場であったらヒョットして歩ける旧道跡もあるかも


旧道といっても舗装がしているので、今歩いている新道の前の道です


左側に旧道の名残として、4号橋~1号橋まで見てきた。少し広場になって左への旧道があるが廃道になっている。ここで亀岡市から高槻市に入る、桧尾橋を渡る

橋を越えた袂に お稲荷さんの祠

振り返る

少し先で道が分岐しているので、右へ進み橋を渡り西へ。暫く進むと左への道は、枚方・高槻へ鍬山神社から道は緩やかな上り道である

暫く歩き左に小泉公民館のところで、右に新道を分け左に入る。東別院東掛に入る

左に入る右手に桜が綺麗な 春日神社


見事な木の根道の参道

春日神社より北の斜面に見える 満泉寺

元に戻り左に入っていく左手に 日蓮宗好堅寺

門前の題目石

分岐道を右へ

畑ヶ田の道を振り返る

再び右の新道に合流する

46号線の新道を左に折れて進む

その先、塚本で右への旧道が残っているので入る

旧道を進む今度は左から新道が合流して右へ

この辺り新しく道がなっているので、景色は山間の落ち着いたっ風景だが、道標や祠はない


右の陰にひっそりと 五輪塔 が立つ

亀岡市街地から10㎞地点

雪よけの急斜面な屋根の民家が目立つ

左に東別院町ふれあいセンター、東掛交差点で左の道46号線を進む

交差点右に立派な燈籠のある 春日神社


本殿より参道を見る

交差点の先で橋を渡る

左斜面に 石仏

その先で、右に東別院小学校の前を通り、しもたに橋を渡る

橋を渡り右にカーブする民家の石垣の袂に、地元の石門心学の祖といわれる 石田梅岩の生誕の地の碑

その先も自動車道を進むが、幸い歩道があるので歩きやすいこの辺り南掛で茨木へ16㎞


この先で道は分岐して右は新道で橋を渡る

道は橋を渡らず川の東側に沿ってあるのでそちらを歩く

正面左が旧道、右が新道

右の対岸の山麓に 真言宗金輪寺 手前が46号線

東側の山麓の民家を見ながら旧道を進む

民家の間を抜けていくが、その先で旧道は消失しているので、今来た道を少し戻り、金輪寺の前に出ている小さな橋を渡り46号線に出る


金輪寺の前に出る

金輪寺
真言宗智山派に属し、本尊阿弥陀如来、脇佛薬師如来、如意輪観音の三体を祀る。
鎌倉時代、当寺より西方1.5㎞の山中に宝山権現があり、大伽藍を誇り、中国よりも多く留学僧を迎えていたが、延元元年(1336)足利尊氏の兵火により消滅した。
その折、当寺の開山僧「祥應尼」が、仏像を背負って下山し楠木正成の菩提を弔うため正平四年(1346)丹波の国高野山(宝山)に金輪寺という仮の御堂を建立したと伝わる。
更に文中三年(1372)楠木家和田氏の寄進により、御堂庫裡を現在の地に建て、山号を祥應山、寺号を金輪寺としたと伝わる。
現在でも、山門の瓦には、楠木家の家紋である菊水の紋が残っている(現在は収納中)当寺の前身である宝山権現は、今は大堂伽藍の名残をとどめる石垣が現存するだけである。
立派な 本堂

お寺を後に南に川を左に見ながら進むと右の草の中に お地蔵さん

京都府亀岡市東別院町柏原、左の天神橋の先に柏原天満宮神社が見えるので(寄り道)

柏原天満宮神社

拝殿


元に戻り、天神橋を左に見ながら川に沿って大きく時計回りでカーブする
その先右の民家の軒先に 石仏

道が分岐するところに標示 右 豊中、左 茨木、56号線に分かれ右の43号線を進む

右に入るところから上り坂が続く

更にその先暫く歩いたところで、左の、たるひ橋を渡りUターンをする
左にUターンして向きを東に進むが、間もなく右90度に折れて南に向きを変える

綺麗な棚田を見ながら快適に歩く


右に お地蔵さん

この先で新道が左にカーブする手前に、右に入る道がある、道は細く民家の手前を上る。
左の新道は新清阪峠へ、右の旧道は旧清阪峠となるが、はたして道が残っているかどうか分からないが、右へ上ることとする

右への旧道の旧峠越、良い道なので安心

民家の先を左にカーブする辺りから畦道となり早や怪しくなってきた

細い畦道となり心細くなってきた、前方は林だ、獣よけの鉄線が張り巡らされている


この先で道が有るような無いような畦で迷っていたところ、地元の人が畑仕事をしていて、怪しまれ何をしてるんだと聞かれ説明すると、確かに峠はあるが途中まで荒れていて地元の者でなければ無理だから、荒れている間をついて来いと言われわざわざ途中まで一緒に案内していただいた。初めは怒られるのかと思ったが非常に親切な方であった、
一人ではとても抜けられなかっただろう感謝感激ありがとうございました。
今では人は通らないとのことで珍しい人だと思っているようでした。道は完全に失われあと数年もすればなくなるだろう。道のない区間、約200mほど微かな道跡を探りながらついていった。
この辺りまで来ると道らしき跡が残る(さすがにその間は写真に撮れていない)


案内をしていただいているおじさんの後ろ姿

ここでおじさんと分かれる、溝伝いに歩けばいいとアドバイスを受ける
丁重にお礼を言って別れました、本当にあるがとうございました

溝伝いに上っていきますがでもかなり厳しい道だ


道跡をよく見ながらゆっくり登る。今の時期であったら熊も出るが、当時はそれほどやかましくなく危害を加えることもないようでした。何がどうして現在の状況になったのだろう、今ではもう歩けないから、旧道もますます廃道化するだろう

かなり荒れていて歩きずらい


登り切ったところで 旧清阪峠(標高300m程) に出たようだ、特に標識もないのでこの辺りと判断する

清阪峠と庚申さん おじさん案内して頂けなければ峠に辿りつけなかっただろう

峠の四方は樹木に覆われ景色は開けない

峠よりははっきりした旧道らしい道が付き坂を下る、以前は使われていたようで道が溝のように掘れています


峠を下り清阪の集落に入る



集落を抜けたところ右に 道標 「右 ・・・」

すぐ左にも 石碑


峠を下ってきた清阪集落を振り返る

やがて左から新清阪峠から下ってきた新道に合流して右へ

旧清阪峠を下ってきて合流する辻を振り返る。二階建ての民家の手前電柱の傍に案内板があるが、それには、北山自然歩道。狩待峠1.4㎞と有るが、旧清阪峠の案内はなく、すでに地図上では廃道になっている。
だからおじさんも変な顔をしたのです。でも思いがけず旧道の清阪峠越が無事に完歩出来て満足。多分渡しの後には歩く人もいないかも。私が最後の峠越かも

右に折れて先を進む

新道に合流後、道は曲がりくねった道を暫く進む

かなり下ったところでやがて、下音羽川に架かる地藤橋を渡り左へ暫く南西に43号線を歩く

暫く歩いて地藤橋方向を振り返る

写真に撮れていないが、暫く進んだところで、新道を左に並行して100mほどの旧道があった。合流した後また100mほど先で、左に橋がある所で、新道が真っ直ぐ旧道が右に入る分岐があったが残念ながら新道を歩いてしまった。その旧道は新道に並行し、蛇行しながら見山局の所に出て左折れし下音羽川に架かる下音羽川橋を渡り、43号線に合流し右折れしていた。そのさきで見山公民館を右に見て進む。この間地藤橋を渡って1.5㎞余り。更に500mほど先で、忍頂寺交差点に出る(何故かこの間写真がないどうしてかわからないが)
忍頂寺交差点、街道は真っ直ぐ進む

交差点の左に、龍王山登山口の道標竜王山は標高510mで八大竜王信仰の山

龍王山登山口の道標

更にならんで 大日如来

忍頂寺交差点のすぐ先、大日如来の所で道が分岐するが真っ直ぐ進む。左に行くと、浄福寺・八所神社・忍頂寺寿命院へ行くが時間的に無理なのでやめる
そのすぐ先50mほどで道が分岐し左の旧道を入る

集落の中を抜け先の突当りで右に折れ新道に合流する

右に折れる左側の角に立つ 祠 その先で新道に合流し南へ

合流するところを振り返る、向かって右から歩いてきた

のすぐ先で、新道の右下に旧道跡の道が残っていたので振り返る

左へカーブし更に右にカーブする左側に

八大竜王山道標

右に笠をかぶった 石仏と小さな石仏が沢山


更に南へ閑静な山間の街道を進む左に友愛会茨木療護園が建つ

右に 天満宮の鳥居 ここを右に900mほど入ればキリシタン資料館があるが時間的にいけなかった

大岩に入り、少し弓なりに橋を渡りながらカーブし南へ進む

その先右にNTTの大岩ビルの前を通る

大岩バス停の所で左への旧道が、民家の裏側にあったが今は消失している

振り返えったところ

その先で右に入る旧道を進む

右に入ったところの旧道

左、大岩集会所の傍に立つ 燈籠

向って右の旧道を歩いてきた辻を見る、数本の 石柱 が立つ。
この辻は、国見集落の北の端で、清阪街道(右)と妙見街道(左の坂道)との分岐点に立つ
道標 「右 あなう 左 ささ山」 奥の 道標 は「八大竜王山 二十四丁」

分岐点から少し南へ街道を進んだところ右に大きな民家があり左奥に 大岩八幡神社

大きな 五輪塔 が立つ、高さ2.25m茨木市内最大で、室町時代1445年のもの

そのすぐ先右に、大きな民家

左に辰見医院の前を通り

新道に出るが、横断して右斜めに進む

風情のある街道筋を右にカーブする

カーブして右にJA茨木市石河の所で、新道の上を陸橋で渡り、すぐ左の道を進む

左に折れた右に 石仏

再び新道に出て右に折れる


新道のすぐ先左に 常夜灯 が立つ

左、山手台住宅地に入る道があるが右への114号に沿って進む

暫く左山手台住宅地に沿って進む
手水ヶ谷バス停に来ると、前方に茨木市が一望できる下り道が続くが全く旧道の面影は残らない

左に大阪経済大学茨木レクレーションハウス・常磐会学園茨木学舎グランドが続く

福井地区に入る右にインターロロジサービス本社

114号線を下っていく


どんどん新道を繰っていきます


東福井3丁目で 亀岡街道 が正面(南)から来て正面右へ分岐する福井の辻

亀岡街道は左へ、右真っ直ぐが清阪街道の辻を見る分岐する角の 道標 振り返ったところ

清阪街道を下ってきて辻の左に 福井城跡の案内板 が立つ、後ろはグランド

福井城跡
山から延びる尾根の先端の台地上に築かれた一種の山城で、この辺りに本丸・城ヶ谷・構えなどの地名が残り、亀岡街道から真龍寺参道に入る中間北側が大手門で、それより北側へ、三の丸・二の丸・本丸・搦手跡と続く。
福井城は建武一年(1334)楠正成の築いたもので、後、応安七年(1374)頼国当国守護となるや守護代を置き、大永七年(1527)二月、細川高國の代に三好元長に攻められ落城

すぐ先南に進んだところで、東福井3丁目交差点で新道の110号線に合流し左に折れる

交差点に出てきたところを振り返る

交差点を右に折れたところで、すぐ先で、右に新道を分け左の旧道(南東)に入る

その前に左に少し広い道が東に伸びているところで(寄り道)をする、山手に上っていけば
高野山真言宗真龍寺




真龍寺を少し下ってきたところで、街道らしき道があり、ヒョットしたら福井の辻から来ている清阪街道でないか確かめるために北へ歩いてみる 清阪街道発見か
歩いて下ってきた新道の東側での道で山手台より

旧道らしい舗装の良い道が続いている

茨木光明聖苑の横を北へ進む

前方の雑木林に入る


いい道が残っている、間違いなく旧道

何も表示はないが低い尾根道のようだ

道が溝の様になっているのは古い証拠


とにかく北に戻っている


結構長い道のりであった、ここで住宅地に入り民家に突き当たり消失している

振り返る 大発見の清阪街道 この道は清阪街道と確信する。亀岡街道はもっと左(西)の110号線に沿っている

山手台の住宅地で行き止まり街道は消失,広い道を左に進み、右一帯に山手台を見ながら、山手台5丁目・山手台6丁目で、先ほど歩いてきた清阪街道に出る
旧道を再再び戻ります、今来た道なので写真だけとする



左に池があります


右に池







元のお寺から下りてきた道に戻りました


燈籠と道標

お寺から下りて来たところで四辻を左に折れると、旧道発見の清阪街道。つづきをもう少し歩きます
集落の中を進む

大きな民家が並ぶ間を通る、正しく街道風景

右に 祠


道は行き止まりで、福井の辻に出る亀岡街道との合流辻でもある、重複しながら左(南)に折れる

右角にある 道標 「右 石河 左 亀岡妙見」ここが 清阪街道の起点 であるが少し先に進む

福井の辻から清阪街道を見る左に 道標


福井の辻を見る、真っ直ぐが亀岡街道、右が清阪街道

左に折れて清阪街道と亀岡街道を南に進む

少し歩いた先で、右に 遍照寺 その道を挟んだ左への狭い道は 福井街道 で短い街道だがこの辻が起点、左電柱の手前左へ

すぐ先で佐保川に架かるにいや橋を渡る

旧にいや橋の 橋柱

橋を渡り左に 道標 「右 妙けん たんば」


更に進んだ左に 道標 「右 ・・・・」

東福井の集落の中を進む

そして交差点を越える

150m程先で右からの110号線に合流して南へ

勝尾寺川手前で合流し、中河原橋を渡る

さまざまな人や物が行き交う 福井・中河原
江戸時代、大阪と丹波国亀山(現亀岡市)を結ぶ鳥居嶺道が通っていた。道は福井の集落を抜け、真龍寺の西から山道になり、国見峠を越えると妙見道と合流し、大岩国見の北で再び分かれ、清坂峠を経て丹波に入りました。
亀山には西国二十一番霊場穴太寺があり、茨木の総持寺が二十二番、箕面の勝尾寺が二十三番の霊場で、この道は西国巡礼道でもあった。また、能勢妙見宮の参詣人も利用しました。さまざまな人々がここを通りました。
明治25年(1892)からの工事で、荷車の通れる道にするために、上福井から佐保川沿いを北上して余野(豊野町)に出る新道ができ、亀岡街道となりました。ほぼ同じころ、上福井から清坂への道の付け替えもあり、これは清坂街道と呼ばれました。
このように中河原橋近辺は西国街道と亀岡街道が交差して、四方に向かう交通の要所であった。(茨木市)
勝尾寺川に架かる中河原橋から旧亀岡街道・清阪街道を振り返る。向かって右が旧道で出てきたところ

勝尾寺川に架かる中河原橋

橋を渡るとすぐ交差点が 西国街道の交差の辻 で東西に通る
清阪街道 は交差点が起点でここで完歩
亀岡街道 は交差点を真っ直ぐ進む

中河原は、佐保川と勝尾寺川が合流する白井河原から西、勝尾寺川南沿いの微高地に集落が形成されている。
集落を東西に「西国街道」が走り、奈良時代には平城京と九州を結ぶ山陽道(大宰府道)と呼ばれ、平安時代には平安京から九州に通じる道となり、鎌倉時代以降も貴族や高僧が、戦乱期には軍勢が往来していた。また、江戸時代には山崎通りと称され、伏見と西宮を結ぶ脇街道として参勤交代の際の諸大名や役人のほか、西国三十三か所詣での人たちも利用した。
一方、難波宮から長柄や吹田の渡しを経て、市内宇野辺を通り山陽道に通じる三嶋路と、丹波の亀山(現亀岡市)から南進して清坂峠を越え忍頂寺、大岩から福井を結ぶ清坂越道の二本の南北道(明治25年新設の亀岡街道)の結節点となりました。
茨木市城内では唯一最大の合戦となった元亀2年(1571)の白井河原の戦いで武勲をたて、戦国大名として四万四百石の所領をもつ茨木城主となった中川清秀が生まれた由緒地(城州生誕説あり)でもあります。
元和3年(1617)福井村から分かれた中河原村は、明治21年(1888)再び福井村に合併後、昭和30年(1955)茨木市との合併で今日至っています。
もともと、当地は福井村と兄弟姉妹の関係で、人、物、文化の行き交う町として発展してきました。 (茨木市教委)
交差点の東南角の立つ 中河原の道標 「中川清秀由緒地」
西国街道と亀岡街道の交差する交通の要地で、中川清秀の生まれた由緒地です。交差点の東南角に立つ


西国街道の西に道筋で右角に道標がある

清阪街道 完歩


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