2021年2月28日
冨田の草堂寺~富田坂~安居辻松峠~安居の渡しで日置川を渡る~仏坂~周参見
田辺駅7時51分発で富田駅8時12分着
8時30分 草堂禅寺出発
15時37分 周参見駅前着
45.810歩 27.48㎞
大辺路は熊野古道の中の一つですが、この道は近世以前の古道は殆ど残っていないそうです。
熊野詣の上皇や貴族は、大辺路を歩いていない、そのため古い記録が残っていなく確証たる古道を辿ることができない。
そのうえ、海と山が迫りその間の平地が狭く、そこに明治以降、県道、鉄道、国道、最近では高速道路が開削されるたびに、古道は寸断され消失していった。その中でも全く無くなったわけでもなくごく部分的に残っているのが現状です。古記録がないので近世以前に歩かれた大辺路はどの道が正しいといえず、生活道路として共に利用されてきたのでしょう。
だから世界遺産に登録されている道は、海岸線でなく山に入った三つの峠越えの道です。巡礼道として利用されていないため、旅籠や茶店が少なく宿場町等も形成されなかったので旅人にとっては余計利用することが少なかった。
富田駅8時12分より20分ほどかけて昨日の道を進みます。冨田川に架かる冨田橋8時27分、高瀬川(旧飛鳥川)に架かる飛鳥橋を渡り草堂寺に着く

草堂寺の石垣に沿って登って行く 富田坂 富田坂は大辺路の中でも最も厳しい難所であったと謂われています。
石畳の道を登っていきます。今日一日は殆ど山の中です 今8時47分


この登り道は古い歴史を感じさせる、道は浅い切通になっていて石がゴロゴロ転がり歩きにくい特に雨など降れば危険な道だろう。でも喧噪な街中の道より余程楽しい
山の道ですので、説明は出来ませんが社詩音で想像し置てください



草堂寺の富田坂の登り口から約300m、石がゴロゴロした厳しい坂道を上ると左に 四基の石碑 があります。一基は正保四年(1647)の板碑で「南無阿弥陀仏」と刻む、後方には行者が建立した文政六年(1823)「奉納大乗典日本廻国塔」、またその隣には、文政十一年(1828)「日本廻国千人供養塔」があります。そして右方には、「従是奥高瀬組所有山」と刻まれた石碑があります。

石碑の近くに 一里松跡の説明板石碑 からの下りを 子守坂 と呼ばれている

田辺市街地から富田までと違って、山中であり世界遺産道だけに小刻みに案内表示があるので道を間違わないです

案内表示のところで道は分岐していますので案内通り左に下ります

この下り道が 子守坂 と呼ばれた下りだろうか

坂の途中右に(坂を振り返ったところ)馬谷城址の案内板 案内板の背後に山城跡一里塚跡の分岐から100m程子守坂を下っていきます 9時0分

高瀬要害山城址(馬谷城跡)
正面に見える小高い山の尾根上に高瀬要害山城跡がある。昔から地元の人々に「城山」と呼ばれ親しまれていた。現在城跡には3か所の曲輪と空堀と堀切が残っているようです。また跡地には建物があったと想定されています。
築造したのは安宅氏の家臣でであった吉田春季との伝承が残る。(説明文の要約)
案内板の背後、川の向こう側の山城日置川周辺を治めていた安宅氏の出城で、明応三年(1494)築城したと伝わる


高速道路の高架を潜ります

高速道を潜って緩やかな坂を下っていくと谷川に架かる橋があります、越えた左の建物は倉庫のようです

橋の右手前に要害山城跡への案内板が立ちます。城跡まで約260mですが、寄らずに進みます



橋を渡った処を振り返る、案内板は橋の対岸の向かって左手です

暫く谷川沿いの林道を進みます

大辺路富田坂の案内

植林もされて日が入り明るく快適な道です


草堂寺から1.4㎞の地点です

林道もここで終わり富田坂の最大の難所である 七曲がり と呼ばれる、九十九折れの登りが始まる 9時15分

木の根が階段状に道にはみ出している。足元に注意してこけないように歩く

でも本当に素晴らしい道


九十九折れの登り道が気にならないほど素晴らしい古道です、全く人と会わないから少し心細いですが

同じような写真ばかりで申し訳ないが、でも一枚一枚に何か表情が違ってつい映してしまう



左に七曲がりの途中標示板

写真を見て富田坂を想像してください。おそらくウオーキング趣味の方は歩いてみたいと思う道だろうな


暫く写真で想像しながら進めていきます




山の斜面を通っている古道で足を滑ると危険なので十分注意しながら歩きます。やはり雨とか雪道は歩きづらいと思う

冬とはいいながら喘ぎながら背中辺りが汗がにじみ登ってきましたが、坂の頂上辺りに来ているようです


坂の頂部に達する道は比較的なだらかな九十九折れとなります

飽きることのない景色で疲れを感じさせません


右手には田辺市街や田辺湾が望める束の間の景色です

やがて植林地の開けた平坦地に出ます

草堂寺の登り口から3.9㎞地点の標示。まだたいして距離は出ていません


この辺りが峠の 冨谷坂茶屋跡 です幕末から大正八年まで営業していた。それ以前は常設でなく貴人らの利用として臨時的に仮設されていたという。 9時58分

茶屋跡について紀行文喉で存在が確認できる。常設の茶屋としては幕末頃から大正8年頃まで営業していたようで、大辺路屈指の難路であった七曲りを越えた旅人にとって、この茶屋が何より癒しの場であった。また当時使われていた石臼が残されていたようです
今は檜が林立しているが当時は広場になっていたのだろうと想像する

その時に使われていた 石臼 の割れた破これだろうか

当時の賑わいを想像しながら茶屋跡を振り返り後にします

茶屋跡を過ぎた古道の左手に 不動明王立像


この辺りは平均的に海抜400m位の尾根道を進んでいます

右下は切り立った斜面がきつい


茶屋跡から200m程進むと案内表示があり、右に下ると椿・田野井へ下る古道が分岐します。安居辻松峠まで800mの距離。

右の斜面の木の間に枯れ木灘の海が望める。しかし古道は息をのむもったいない


道には古道の跡がよくわかる敷石がところどころに凝っています



木の根が古道に出てきて階段状になり歴史が感じる

綺麗に植林がされています

植林を抜けると、前方に現白浜町と旧日置川町の境界の 「安居の辻松峠」 に達する。 現在10時18分
峠でこの時間、十分余裕をもって12時の安居の渡し待ち合わせ12時に行ける


峠の案内板 草堂寺から4.9㎞地点です

安居辻松峠で道は分岐します、右は田野井への古道

峠の左には形の良い 舟形光背の地蔵立像 右には 一里塚の案内板 が建っています

地蔵の傍に一里松が立っていたが、昭和十八年の山火事で枯れて倒壊してしまった。かつては一里塚松が両側に松の塚が植えられていた。この地点は和歌山より23里(92㎞)地点に当たる。

分岐の道を左に 塩津山(標高419m)方向へ行くのが案内板通りですが、それ以前の古道がまだ歩けると資料にあるのでその古道を歩きます(最短距離)。
左の古道は大きく迂回して先で合流しています。田野井への尾根道を20m程進むと、左斜め後方に下る急坂がありますので下のが正しい


急坂の下りを見たところで、思っていた以上に良い道のようです。
この古道は左に進む分岐の内側を並行しながら一旦北から南に向きを変えて進んでいます

右が急斜面になった古道で滑り落ちないよう注意しながら進みます

道幅は狭くなっているが歩くには何ら問題なく快適です

このような倒木は峠越えの街道ではよくあることです。道を塞いでいるような倒木はなんどもみかけました

素晴らしい古道で全く疲れが感じさせない


右に急カーブするところで、右崖が大きく削られているので要注意です。柵も何もないから木を持ちながら通りました。下に落ちたら這い上がるのが大変です右崖にⅠm程の水による浸食溝ができておそらく大雨でも降ればだんだん溝幅が広くなり、何時の日か通れなくなることだろう、振り返って映したところ

右に落ちないようにか板敷をしていますが、板が腐ってきてあまり役に立たないようです

その先はまた快適な道になっています

綺麗な旧坂の斜面を下っていきます。本当に綺麗です

安居辻松峠の分岐から10分余り歩けば、林道の道に合流します。右下の道が林道です

【大迷走の道を歩く】
ところが私はここで大チョンボをしてしまいました。資料を持っていたのに右の林道に降りたところで、左にまっすぐ進むべきを何も迷うことなく右に下ってしまいました。この道も田野井への古道(林道)でした。
間違って下った林道を紹介します

左に斜面を見ながら、本来は右に斜面を見ながら下るのですが何故気が付かなかったのだろう


途中で斜面が崩れ道をふさいでいますが何とか乗り越えて通りました(世界遺産の道ではないが同じ続きの道でも山でもあるので補修していただきたいと願うが、もうほとんど人が歩かないのだろう)

反対側から見たところ

どんどん間違っていると気が付かず下っています

山は深い


どれだけ下ったのだろう、多分1km余りで、右から安居辻松峠から左鋭角に下らず真直ぐの分岐が尾根道を下ってくる道と合流します。この辻でもう少し冷静になればわかったのだが、少しパニックになった

ここであれ可笑しいと感じましたが、安居辻松峠へ約800mまっ直ぐ尾根道を登る案内表示がありました

少し下ったところから振り返った写真。下から登ってくる人はこの分岐を左に進み安居辻松峠へ登るようです

その先すぐに道が分岐しています。持っている資料では道がジグダグに蛇行するのだが、分岐の資料ではないのでここでやっと不安がよぎりました


何をしているのかこの辻に来てやっと間違っているのに気が付きました。
右に行くと椿・田野井分岐点へ、左に行くと祝の滝へ2.0㎞となっています滝入り口が右になければおかしいのに左になっているので間違ったと気が付いた。
再び元の道を戻るが、間違った分岐から1.5㎞は下っている、戻りは上り坂でダメージは予想以上に大きい。
そのうえ安居の渡しの予約12時30分にお願いしている。余裕で12時頃に着いて、ホテルでつくって頂いた弁当をゆっくり食べようと予定していたが、果たして最悪12時30分に着くだろうか心配。間違った道のり下り上り合わせて3㎞を挽回しなければいけない。
気をとり直して戻ろう
喘ぎながら走るように坂を上って、元の古道との合流点に戻ってきました。左から降りてきて合流したところ

合流点から林道を少し進んだ先で左にカーブすると、左から前述の安居辻松で左に分岐した道が下ってきて合流します。林道に合流したところからここまですぐでした。合流点を映す

合流点左に案内板が立っています。安居の渡しまで約8㎞の下り頑張って時間をできる限り取り戻そう


右に素晴らしい眺めを見ながら下っていきます

細かく蛇行する古道を下っていきます。結構山深い


いいですね、先ほど迷走した疲れ忘忘れる

この林道に沿って、古道が残っていると資料にありますが、時間的にも残念ながらゆっくり探索することができません

林道合流点から2.3㎞地点で三ヶ川ゲートに出ました。安居からここまで軽自動車なら上ってこられるようですがここで通行止めになっています。
ゲート出る手前右手に「祝の滝」案内板があります。間違った道は左でしたが、ここでは滝道は右でした

右に入っていくこと1㎞、約10m飛沫上げて近くの静寂の中に滝音を轟かせていると書いています。残念ながら時間に追われているため諦めました


ゲートを出たところから振り返る。正面の道から下ってきた、滝は向かって左への道

左の川沿いの滝道(薄暗い道です)よく分かりませんが一人では少し勇気がいりそうな道

安居の渡し迄 5㎞あります。橋より滝への谷川を見る 11時25分

暫く平坦な道で三ヶ川に沿って緩やかな下り道を進んでいきます


林道ゲートから川沿いに600m程下った左手の山中に、 三ヶ川の梵字塔(自然石1.4m)があるのですが見つけられなかった。

林道を進んでいきます。このような旧道は中々ないです、大辺路をゆっくり歩きに来てください

梵字塔より700m程旧道を進むと左からの道が出会う三差路の山裾左に

庚申塔
庚申は十二支の「かのえさる」で、六十日ごとに回ってくる。この日は夜も眠らず過ごし、健康長寿を願うという信仰があった。これは道教の教えに基づくもので、その人が生きているときの善悪の行為によって寿命が決まると教えられており、人の体の中には「三戸の虫」がいおて、庚申の口になると寝ているうちに体を抜けだして、悪行を上帝に告げ口すると考えられていたからである。
この場所には、石製の庚申立像と、「庚申」と彫り込まれた文字塔が並んでいる。また現在は破損しているが、石囲いの小詞跡があり、ここには庚申立像やその周囲にある地蔵像などが安置されていたよpで、ここは寺山や三ヶ川の旧集落の入口に当たるので、庚申塔や地蔵像が建立され集められた。(和歌山県説明案内)

三ヶ川の庚申と刻まれた 自然石や庚申立像、二体の石地蔵 が祀られている。かつてはここに石囲いのお堂があった跡

三ヶ川の古道は、川を何度も渡る道なき道であったという。古くから三ヶ川は「水無川」であったという
道は南に下っています

ここまで安居辻松峠より5.8㎞

安居の渡しまで3.0㎞、もう少しだ頑張ろう


ようやく川辺が明るく広くなってきました

大辺路富田坂20地点、長い坂です



ずうと三ヶ川が沿っています、でも谷川であるが「水無川」という通り水はない


この辺り紀州備長炭の焼いていた炭焼き小屋があったようです、三ヶ川の川幅も広くなりますが水は少ないです

切通を抜ける


ようやく安居の集落入口です

三ヶ川バス停で県道に合流します 11時48分 待ち合わせ12時危ない

安居の渡し~仏坂の案内 渡しの先は更に仏坂




三ヶ川に沿って下ってきた道を県道合流点より振り返る。かつての古道は県道に出る手前から左側の安居坂を越えたようですが古道は残っていない。富田坂越終了
安居の渡しへ、日置川へ三ヶ川が右より合流します

日置川の正面、川は左にカーブしています、カーブした先に安居の渡しがありますもう少しです

左の山が 安居坂 で斜面が削られ道路がつけられていますので今は完全に道はなくなっています。今は県道もついているが、かつてはその山道で集落に入った大変な様子がよくわかる

バス停より300m程先で、県道を右に分け左に入ります

その先、安居坂を越えてきた分岐の左に地蔵

徳本上人の舟型名号碑・庚申像・地蔵・墓石像三体

予約時間の12時30分まで後10分、残り700m何とか間に合ったか、早足で歩きましたが足がすごいダメージです
前述の所で間違っていなければ余裕であったが

まっすぐ進んだ道

左の田畑の向こう側には民家が集合しています。

古道の集落内左手奥への参道がありますが寄れませんが 臨済宗妙心寺派医王山 大円寺

参道のすぐ隣左手に産生神 三須和神社 鳥居の左には「並木弘翁領徳碑」

鳥居をくぐって右手

神社を過ぎた街道右手には、町立安居小学校・町立三舞中学校 現在11時58分

学校の向かいには江戸後期に医家として知られる並木家の屋敷跡(現西家)西家はかつて旅館業を営んでいた。さらにその先に旧安居郵便局(現鈴木家)があったが、かつては安居の馬継跡と推定される

さらに古道の右手には「当り屋」「稲葉屋」と呼ばれた旅館があったが、今はこの付近には宿泊施設がない

そして街並みを抜けると、県道と交差して、田畑の中の道を日置川へと向かっている
ところどころに大黒柱のある家の看板が掲げられている

今は広くなっているが、この近くには明治22年の大水害まで人家も沢山あったようですが、水害後は山に近い高台に移転したという

県道が交差した先の左右田畑が広がる。もう少しだ頑張る

安居の渡し場入口に着きました

仏坂は、この川向の背後の山を越えます


今時計は12時05分、予約の12時30分何とか間に合いました。良く歩いたものです
私が歩いた時点(2021年2月)の話です
渡し舟は3日前に予約すれば乗れるそうです(定期に動いていません)。
予約していなければ前述の三ヶ川バス停の交差点で右に日置川に沿って、西に900m程歩き、口ヶ谷橋を渡り、渡しの対岸である仏坂の登り口に迂回してこなければいけなく、対岸の川沿いは非常に道が悪くて危険と資料にはある、まして迂回は1時間程かかるそうで、予約しているので良かった。
「安居」は旧日置川町の中心地で日置川の河口から約9㎞上流にあります。古くから大辺路の要所として賑わい、郵便局も他に較べ先駆けて開設された。今でこそ国道42号線が海岸線を通っていますが、以前は富田坂・仏坂を越すルートが主要でありました。
「安居の渡し」安居の渡し保存会により、2005年10月に50年ぶりに安居の渡しが復活しました。寄贈された舟は全長7.5mの伝統を受け継いだ川舟です。川幅は広くなく乗る時間も短いですが旅の情緒があって一時の気持ちが和らぐ素晴らしいものです。大辺路を歩かれる皆様は是非予約をされて乗ってみてください。
ただ昨今、船頭さんも高齢となり後を受け継ぐ方がいなく、2025年5月現在の状況が分かりませんが。
また迂回する時間が助かります。(参考までに予約電話 0739-53-0194・090-1593-3637 一人500円 営業時間7:00~18:00)但し、仏坂を超えるのであれば午前中がお勧めです、周参見駅迄3時間ほど要します。また渡し跡まではJR日置駅からタクシーが便利かと思います(バスの便が少ないようです)
船頭さんは二人、乗るのは私一人

川幅は短いのですが渡れなければ、大大変

送って頂き船頭さんは帰帰っていきます。有難うございました

対岸を映しましたが、今日は乗る人がいないようで早く帰ってしまいました。

対岸は民家も見えませんが、かつては安居の街並みがあり賑わっていたのだろうと想像します。
今は大辺路を歩く者のための渡しです。本当に感謝いたします

日置川の渡し跡から見る西、川は右に大きくカーブして三ヶ川の合流点に出ます
渡しがなければ正面の山が右に低くなった辺りの橋を渡って川沿いの山裾の林の中を迂回しなければいけない

安居の渡し終了
船頭さんにアドバイスを受けましたが、仏坂越えは渡し跡の登り口から1.3㎞程林道との交差点迄一気に急峻な古道を満喫する坂を上ります。林道の先の仏坂は1㎞程古道が残って歩けるが、その先私有権者の山で整備が進んでいないそうで、4年前に船頭さんも歩いたそうですが、雑草で古道が分かりづらくなっていたそうで、最近歩いた人の話では、やはり雑草や薮化で大変とのことで無理しないほうがいいと、引き返してくるつもりで1㎞ぐらいまでは古道を歩けるのでとの話でした。現在の和歌山県の熊野古道マップは林道を歩くようになっています。(平成31年3月改定分)この様なときは地元の人の話をよく聞くことと街道歩きの経験から自分自身のルールにしていますので、林道を歩きます。多分、富田坂で迷走しなければ時間的にも1㎞程仏坂を歩いたと思いますが、そこで体力をかなり消耗しているので無理をしません。
仏坂越え周参見へ
日置川の安居の渡し舟を数分ですが旅の雰囲気を味わって、仏坂の登り口の案内表示。渡し舟を使わない場合は口ヶ谷橋までの荒れた川の傍の道を約2.5㎞、更に橋から対岸の三ヶ川のバス停の交差点まで迂回するとゆうに1時間はかかるので、舟が出ていれば予約で舟に乗ることをお進めします。

古道は舟着場から南に真っすぐ登ってきたところの案内表示です。桂松跡まで1.0㎞の急な登りが続きます

古道はすぐ林の中を真っすぐ登ります
【仏坂】

渡し場跡を振り返る

世界遺産になる以前は大辺路を歩く人もいなく、荒れた道であったようですが、登録後は整備され丸太階段が組まれ道幅も広くなっています

杉林の中を進み丸太の階段が終わるころ更に傾斜の勾配も強くなり右に方向を変えています。

枝切が綺麗にされているので林の中にかかわらず明るいです

登ってきた古道の旧坂を振り返る

かなりの急坂で喘ぎながら登っています






安居の渡しを指しています、尾根を進んでいます

仏坂の茶屋跡の標示、もう少しです

尾根の一番上に出たところです

尾根上に「桂松」と呼ばれた、一里塚の松跡 があります。この地点は和歌山から二十五里(100㎞の地点)

桂松跡
江戸時代の紀行文にこの名が散見される。古くから知られていた。元禄2年(1689)の「紀南郷導記」に「カツラ松の坂」、寛永年間の「熊野巡覧記」には「峠に桂松有り」としている。また「熊野街道沿村取調私記録」では「かつら松、一里松の内」と記され、桂松が一里塚の松とされていたことがわかる。ちなみに和歌山から25里(約100㎞)の距離である。
桂松の名は、その上部がカツラを被ったようなかたちをしていたことからだと伝わる。(和歌山県)

桂松跡から尾根を進んでいきます

桂松跡から尾根を200m程進むと左に、昭和初期まで営業していた
仏坂の茶屋跡

茶屋は昭和13年頃まで営業していた。ただし江戸時代は必要に応じて設営された。明治以降に人の通行が多くなって常設茶屋となっていった。林道の拡張工事で様相が変わったが、かつては古道沿いに広場があり、そこでは大正3年~明治10年まで毎年偶数月に牛市が開かれていた。この牛は「安宅牛」と呼ばれていた。(和歌山県)
茶屋跡を振り返ったところ

その先を少し行ったところで古道は舗装した林道 安宅~太間川線が横切っています。この林道も世界遺産登録前までは幅2m程の未舗装の荒れた道であったそうです。今は開削され道幅も広くなった舗装道です。
林道が開削されるまでは、周辺は広場で大正三年から約20年間。毎年偶数月の十七日、牛市が開かれていたそうです「安宅牛」と呼ばれ近在の農家から集まった牛が売買され賑わった。
大辺路の古道は林道に下り舗装道を横断して正面に向かって斜め左に階段の着いた坂を上るのですが。前述のとおり、1㎞程は快適な古道であるが、地権者の関係でその先は古道が荒れて迷う危険もあるとの船頭さんの話でした。
私も前述の間違った道のためかなり足に来ているので独り歩きでもあり左の林道を歩きます。
でもどの様なわけか分かりませんが、世界遺産でもあり折角の昔からの素晴らしい古道を整備して歩けないのか、地権者の方とも話し合っているのだと思いますが整備して復活できればいいのにと思いました
行政の大辺路の仏坂のマップ31年3月改定分からは、今から歩く林道を案内表示しています。
安居の渡し1.4㎞の標示

今林道に下ってきた古道を振り返る
林道のこの地点から大辺路の古道と合流する地主神社まで4.3㎞


林道の向かいに仏坂上り口の小さな立て看板が立っていますが。看板の背後の斜めに上る階段の道は、資料では綺麗に柵で足元も整備されているが、今見る限りでは策も壊れ階段の足元も崩れているようです。おそらく歩く人も少なく古道そのものが荒れているのが想像できます。折角の世界遺産登録道なので地権者と話し合って整備してほしいと思います。
今思ったのですが、折角だったのに上まで登って少し入ればよかった、時間さえ気にしなければ足に疲れは来ているが残念。

林道の道を下っていきます。古道でない


下村のバス停、民家が少し見えてきました




坦々と川沿いに蛇行しながら下っていきます。ようやく前方に山中を下ってくる大辺路と合流する入谷の仏坂入口が見えてきました。

合流点にある案内表示、左の橋を渡るとJR周参見駅まで4.6㎞、林道の道案内表示、仏坂茶屋跡迄4.3㎞

合流地点の右手の道を右に入る、仏坂への入谷の上り入口を入ると、左手の山際に

「地主さん」が祀られています。地主神社社なく榊をご神木として祀られている珍しい神社。地元の人の話では天狗を祀っているということで「空神さん」とも呼ばれる。


神木は老木や大木でなく、高さ6m程の枝を四方に張った榊で毎年十月九日地元の人々が神酒を供え酒宴を行うそうです

神社の横から大辺路の下ってくる辺りの道を探したがかなり荒れて道がわからなくなっています。歩けなくて非常に悔しいが。船頭さんが言っていた通り、下からは熟慮した地元の人でなければ古道は分からない、歩くなら途中まで上から冬場がいいかも。
勝手な言い方ですが、地権者の方も、古道を整備してもらった方がいいように思うのですが。下から上方向を見たところ

下ってきた林道

太間川に架かる入谷橋の林道を下ります。古道はほぼここからの県道を踏襲しているようです

橋を渡って太間川を右にしばらく進みます

やがて右からトンネルを抜けてきたJR線が接近する左手ブロック崖に 地蔵


さらに下ると

左手に石積の塀に囲まれた重厚な古民家が見えます

松の本地区に入り太間川に架かる松の本橋を渡ります。その前300m程手前左に階段を上ると太師堂があったのを見逃しました

右手に 徳本上人名号碑 円柱状で台座は大正十二年(1923)の建立碑本体は文政元年寅十月六日と刻む

左に 地蔵

紀勢自動車道を潜りJR線の松の木踏切を渡る

右に梅干し工場がありその先で赤い橋を渡ります、振り返ったところ

左にJR線右に太間川の間の道を進みます

右に太間川に架かる堀切橋を見てすぐ先で左に折れ、JRの線堀切踏切を渡ります

踏切をこえ右に進む左手山裾に墓地があり、明治末まで堀切の文殊坊という庵があったようですが、今は跡形もありません。ただ古い 石塔が三基 草ぶきの中に残っています。
一つは卵形塔で正面に「和光院禅顕密屠竜沙門塔」と刻み、台座に「筆弟中立之」として世話人6名の名前がある、寺小屋で教えを受けた者が師匠の僧の供養に建てたもので「筆子塚」という。
二つめは自然石塔で「廻国善心之塔」文化二年(1805)と刻む。
三つめは左の草むらの中で見えないが自然石の碑で「権大僧都泉両法院霊神」承応元年(1652)の石碑。

石碑のすぐ先で古道は右に折れて進むのだがまっすぐ進んでしまった。(残念)この先の周参見王子神社のところで合流します

珍しい名前のバス停

すぐ先右に 石仏 がたくさん並べられています

左の周参見川沿いに周参見の街中に間もなく入るが、入谷橋から結構長い川沿いの大辺路を踏襲した街道だが、単純だがところどころ古い史跡があるのでもう少しわかりやすい案内板や説明板を掲げてほしい。単純な道だから余計にお願いしたい。


やがて右に杜が見えてきます。 周参見王子神社(若一王子権現者) 熊野から勧請された神社で天文十五年(1546)建立。すさみ町の産生神神社には江戸後期から明治にかけて奉納された絵馬が五十五点あり、約六割が船絵馬で、かつての周参見浦が賑わったのが伝えられている。隣に建つ歴史民俗資料館に飾られているが開館は火曜と土曜のみ


古い石碑だが読めない

王子神社の隣の歴史民俗資料館

神社のすぐ先で高架を潜ります

100m程進んだ先左の周参見川に架かる、遠見橋を渡ります、昔は徒歩または仮板橋で渡河していた。江戸期に入り代官所が置かれ仮橋となった

周参見の市街地本城の街並みを東に

集落を200m程進むと突き当たります正面は周参見小学校で右(南)に折れます


周参見小学校はかつての 周参見代官所跡


代官所は江戸時代初期に設けられた。周参見には伝馬所もあったが場所はわからない

周参見小学校から先、JR周参見駅までの大辺路の古道のルートははっきりわからない。民家が並び殆ど消失しているようですが、資料に基づいて進みます。右に役場・郵便局

郵便局の先数十mで左のグレーの壁の民家の手前の路地を左に折れます

そして80m程入り右に折れる

更に100m程進み左へ

右にJR周参見駅が直ぐ傍に見えます左に 安泰山 萬福寺


萬福寺の背後の山は 周参見城址

境内の 宝筐院塔 お寺は中世の豪族である 周参見氏の菩提寺

寺を過ぎすぐ右手はJR周参見駅

駅の南側の下地踏切を渡り

左に進むと国道42号線に出ます。1回目2日間はここで終わります
安居の渡し場から今日の予定地、周参見駅まで約10.5㎞で下り道だから急げば2時間半で行けますよとの船頭さんの話でした。13時05分頑張って歩くと周参見駅15時29分発のJRに乗り白浜駅16時21分始発の特急に乗れる。ところが富田坂で間違って下ってしまったため気が焦った精神的にも足へのダメージが大きくなっていたので思うように歩けず。
周参見駅に着いたのが15時40分で乗り遅れた。次の電車周参見駅発特急16時29分があると思ったが、残念ながらコロナのため間引き運転で運航休止中と知らなかった。その次の特急は19時14分迄ないとのこと、仕方なく17時17分の普通電車に乗ればが和歌山に着くのが特急より早いとのことで時間待ち、普通電車は田辺駅で乗り換え、更に御坊駅までなので乗り換えやっと20時12分和歌山駅に着きました。周参見駅周辺は休むお店もなく大変な時間ロスとなってしまった。でも久しぶりに二日間街道歩きができたことに満足しています。このようなことはよくあることだから。
次はここから頑張ろう
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