2021年2月27日
2013年~2015年にかけて歩いた、熊野街道紀伊路(大阪天満三軒家~田辺市)を完歩。随分時間が空きましたが、続いて今回、大辺路(田辺~那智)を歩きます。
自宅車で4時30分出発、JR和歌山駅6時05分発田辺行き普通田辺駅着7時49分
田辺新町の辻~富田坂の登り口草堂禅寺まぜ
北新町 8時40分スタート
JR田辺駅前

駅前より西に7分程歩いた、紀伊路・中辺路・これから歩く大辺路との分岐の辻、北新町
朝早いとは言えないが、駅前の市街地の通りだが人が見かけない

辻より北に進む 熊野街道中辺路の道起点

以前歩いてきた 熊野街道紀伊路への道起点大坂天満まで続く

起点に建つ 道標

北新町の道標の案内板

分岐を少し東に進むと、右に 蟻通神社 があります

神社の正面に石碑
明治二十二年八月十九日二十日にかけて大水害を受け、石柱の上部に高水位に達した線刻が刻まれています。田辺市一帯は大きな被害を被った証です



蟻通神社の森 通称 御霊さんと親しまれ、天平神護元年鎮座とおいわれ、1230年唐破風神門は全国にもまれなる格式高き宮と尊崇されている

少し(寄り道)で神社の裏(南新町)に出ると日蓮宗 本正寺

その東隣に妙心寺派 海蔵禅寺

元の神社の前、湊本通に戻ります。この道は幕末頃に街道として利用されたそうです。蟻通神社の正面の路地を左(薬師小路)に折れます。

左に折れた薬師小路、小路はすぐ右に折れています

以前は「親不孝通り」と呼ばれ、田辺一の飲食店街で、近年は「味光路」と改称されているそうです。

早朝なので静かですが、夜は賑やかなことだろう

飲食街は田辺駅前大通りを横断します

大通りの左を見ると正面に田辺駅大通りを超えると道は分岐しますが、先で合流します

分岐の左側の道を進んでいくと、右手に駐車場となっていて、その一角に 若宮神社

右の若宮神社の前を右に折れて150m程先の車道を横断したところに、藤厳神社(とうがん)・闘鶏神社(とうけい)が鎮座する杜があります

御神木の 大楠
樹齢約1200年、樹高14m、根本周囲11m、胸高周囲8m

藤巖神社(とうがん)
祭神 安藤直次(弘治元年1555~寛永12年(1635)慶長15年(1610)家康の第十子頼信の守役となり、頼信が元和19年(1619)紀州に移ると、紀州徳川家の附家老として田辺に三万八千八百石で封ぜられた。その後明治に至るまで続く。享年81歳で没。位牌は田辺市、墓所は三河の岡崎市


闘鶏神社参道

闘鶏神社 創建は充恭天皇8年(419年)といわれる

弁慶の父と伝わる、熊野別当湛増が、源平の戦いでいずれに味方するか決めかね、神殿で紅白の鶏を闘わせ占い、白の鶏が勝ったので、熊野水軍を率いて壇ノ浦に向かいました。宝物として、義経が奉納した笛、弁慶産湯の釜、湛増の鉄鳥帽子・鉄扇が残る

参道沿いの 新熊野後庵山本願大福院 室町時代の作と伝わる有形文化財の不動明王座像を祀る

元の若宮神社の横に戻り、大辺路を東の路地を進みます

東に直進していくとやがて右手に車道に合流します。合流するところを振り返る、正面の狭い直進の古道を手前に進んできたところ

合流して左に折れ緩やかな坂を進みます

ぶり坂交差点を越えて暫く左にJR線が沿って緩やかな坂を下っていきますが車が多いです

やがて橋谷信号交差点の手前、東山2丁目で旧道は左に入ります、左角にゲオがある

旧道の雰囲気を残す建物

すぐ先で橋谷川に架かる橋を渡る

先ほど分岐した旧国道42号線が交差して歩道橋で横断します

歩道橋からの国道とこの先の旧道(右)歩道橋の右手(南西)には文里港が見えます

少し先で右に名喜里川が沿い、すぐ先で再び国道の名喜里信号を横断して、国道の東側に出ます、

国道を横断して300m程進み右に小橋を渡ります

小橋を渡る手前左に、南海大地震時の大津波潮位線刻の碑が建っています

右に折れ名喜里川に架かる小橋を渡った先の街並み

暫く集落内を進み300m程先の分岐を左に折れると、左に 大潟神社(元若一王子)「ぎおんさんの夜見世」の宵祭りが有名

二の鳥居の石段を上る


石段の最上部の左に、宝永津波の碑 石段の最上部まで津波の線刻があります、街並みはすべて津波に飲み込まれたそうです

神社の正面、一の鳥居の前から「馬道」といわれる坂道の古道が残っています

わずかな古道の道ですが雰囲気が残る坂を上ると、

昭和57年(1982)に開通した国道42号線で削られ、古道の馬道は消失するが、国道をまたぐ路線橋がその先を繋いでいる

路線橋から見た国道42号線

路線橋の先にも馬道の古道が残ります。出来る限りこのように残せる古道は残してほしいですね

坂を上り詰めると古道車道に出ます、出たところで古道を振り返る。案内表示が立っています、

車道を少し進むと倉庫の建物の角に細い石段の登り道があります。そのまま車道を進んでいくと、車道が左にカーブした先で合流します。

石段を上りました、この道はどうも私有地になってしまったようですのようです。になってしまったようです間違っているかもしれません

石段を登り切ったところ右にお墓が一基あり、その前の雑木林の中を少し進みます

雑木林を抜けると、果樹の木や畑があります

果樹と雑木の間の古道跡らしき道を進む

振り返ったところで歩けないことはないが私有地だ、ごめんなさい

抜けると先ほど分岐した車道が合流して車道を暫く歩きます

この先左に進む道は、荒堀池の北側に出てJR線に沿って朝木路線橋で合流する別ルート道があるようです。田辺から富田までの大辺路は特にこの道が本流であるというのが断定しにくい。一般的にマップに乗っている道をできる限り歩きます

さらにその先左にカーブしていく道も前述の別ルート道と合流する道です

左にカーブする手前右に分ける道を進みます案内表示や看板が立てかけられています

街道は右に折れて左にカーブしてまっすぐ進むのですが、私は大間違いをしてすぐの右に下ってしまった。
右下はジョウシン電機やおパチンコ店など一段低くなったところに町を形成しています

少しこの辺りをうろうろして道を聞いたところ間違いと分かり、元の分岐する道に戻りました

分岐する道を左まっすぐ進みます。かつては 新庄峠(朝木峠)で今は開削して面影はありません

分岐から新庄峠の緩やかな坂を250m程進むと、車道は左に大きくカーブして旧道は正面建物の右の細い坂道に入ります

右の坂道を登って行くと、左に工場や促進住宅が見え、さらに東には高速道、その東には前述の荒堀池があります。かつての峠越えの山は開削により開けた平地になっています

坂を上り切ったところ、左に水槽のようなタンクが下から見えていましたが、その右手で舗装道が右に、地道が左の竹やぶ、大辺路は左の竹やぶの中に進みます。古道跡が残る道です

正面角に案内表示が立っています

振り返ったところです

古道が残る 新庄峠

竹藪の気持ち良い古道を下っていきます

途中の案内表示

左手石段のある少し高いところに、かつての 峠の高地蔵跡 今は祠だけが残る、明和8年(1771)の行者像・稲束を供えた市守長者地蔵尊像が祀られていたが、地元の人達がここまで上ってくるのが大変でこの下に今は移されています

左の高地蔵に上る石段を見て下る

雑木林の古道を出てきたところを上に見る。まるで穴から出てきたようです

手すりに沿って下っていきます

下っていくとやがて整備した道に変わり、右手に住宅地が見えてきます、その右手は国道42号線が通っています


この辺り右手に、別コースの大辺路が通っていたようです。朝来駅の先、岩崎あたりでいったん合流していたが消失しています

別コースの道右手を見る

国道42号線を右に見て下っていきます、左に小さなため池や広場になっている場所に出ます、正面の高架は国道42号線が南から東にカーブしてきたところ

ため池と広場の奥に、前述の高地蔵が新しく立派になってこの場所に移されてきています。ここなら地元の人々もお祀りしやすいでしょう

移されてきた立派な、高地蔵三体

国道42号線の高架に突き当たるので、右に折れて42号線にでて左に折れ、暫く42号線を進みます。この辺りもかつては峠の続きであったが、国道拡張工事ですっかりその面影を忍ぶことはできません

暫く峠跡の国道を下っていきます

GSの手前でひだりに入る道があります、すぐ先でまた合流します

合流する国道左に 弘法大師を祀る 大師堂

国道を挟んだ左斜め向かい垣根のある民家の軒下に 弘法井戸 うろうろ近辺を探していたら、民家の主人が怪訝な顔で自宅の庭にあると案内していただいたが、私有地内で恐縮しました

大師堂から少し下って行った右手に、小さな丘の杜があります。糠塚

宝暦年間の 板碑


糠塚の丘の頂に 庚申山の祠峠の毘沙門天神社

反対側が正面か鳥居

すぐに新川に架かる新川橋を渡る

新川橋を渡った袂から、国道の左側の道をまっすぐ進む

正面にJR線を超える歩道橋が見えてきますので、歩道橋で上富田町朝来地区に入ります

歩道橋から見たこの先の街道、分岐している左側の道です

歩道橋より北側を見ると、前述した別ルートの道が荒堀池の北側を通りここに出てきて一旦合流します

朝来駅東側を通る町筋

朝来駅北側の町筋交差点角に建つ
道標 「熊野道 右 大辺路 左 中辺道」「左すぐ 紀三寺」移転されてきた道標のようです

道標の建つ朝来信号交差点で右奥にJR朝来駅、道標を左に折れるとすぐ左手に 櫟原神社(いちはら)


櫟原神社の前を100m程進みます

正面二階建ての民家の手前を右に折れました。まっ直ぐは、前述の別ルート道でここまで重複してきました。南東に進み(伝)朝来伝馬所跡 近くを通り富田川に架かる山王橋を渡り、右に折れ富田川の左岸(南側)を通り、富田橋手前で合流する道。

右に折れてさらに100m程先で車道に出て、右に折れ100m程歩いた先の交差点です

交差点を少し歩いたところから振り返る。正面分岐の左は国道42号線、右は旧42号線で道標からの道、向かって右からの道を出てきました、正しいかどうかわかりませんが。

この交差点と思うのですが、資料ではこの一角に道分け地蔵と道標があるのですが見つけられませんでいた、多分間違ったのだろうと諦めた
国道42号線でこのような場所に、浜松まで377㎞の標示を見て南へ、今は何でもない坂道だが昔は 不動坂 と言われて厳しい難所であった伝わる

国道42号線を進んでいくと、右からJR線、左から馬川が迫ってきます

一番狭まったところ岩崎信号で左の311号線が左に折れます

左の馬川に架かる里田橋を渡ると、すぐ右手に大きな救馬渓観音の看板のところで右に折れ馬川を右に沿って南西に進む


300m程川沿いに進み右の水門のところで右に橋を渡ります

橋を渡った正面の小山は不動山で、石光山不動院 があります

弘法大師の作と伝わる石仏の不動明王が祀られている。不動山の下を富田川が流れ込んでいて、奇岩の景勝地でもあった


不動院への登り口左に 岩崎神社


不動山の頂に 若一王子権現の跡 で新庄に移転したそうです

不動山山麓には 正福寺五輪塔・宝篋印塔・石仏 が並ぶ

左端に天明元年(1781)の 六十六部日本廻国塔

富田川の堤防を進みます

途中堤防の右側の木の下に 石仏


街道跡の堤防を300m程進むと左に、波切不動尊の案内板と お地蔵さん が建っています

お地蔵さんの台石に みちびき地蔵 と刻まれています。(昭和53年建立)

大辺路はみちびき地蔵の前で右に折れ国道を信号で横断。さらにJR線の野田踏切を渡り左にカーブしていきます

野田地区を進む

集落内右コンクリート塀に お地蔵さん

集落を抜けて車道の交差点に出ます、横断してまっすぐ進みました

田畑の中の舗装された道を進んでいきましたが

JR線に阻まれ行きどまりになっているようですが、畦道として残っているかも、わからないので此処でやむなく戻ります。がここまで歩けたら満足

先ほどの十字路の野田バス停に戻り左に折れます。JR郵便局踏切を渡り国道に出て右に折れて暫く歩く

左に富田川を見ながら国道の歩道を進みました

やがて郵便橋信号交差点に出ました

信号交差点から右斜め後方を振り返ったところで、正面の建物の向かって右端に道が出ています、多分あそこに出ていたのかもしれません

交差点の左、富田川に架かる郵便橋を左に見て横断、街道はまっ直ぐ左に富田川を沿って進みます。今歩く道の少し右に並行しての道がありますひょっとしてその道が旧道かもしれませんが。

左の郵便橋に珍しい郵便ポストの橋柱が施されている。富田川の各所に渡し船があったが、明治五年紀南に郵便引継所が開設され、ここから旧十九渕村から安居に至る局へ運ばれたところを記念している

堤防の旧道を700m程進みます、旧平村に進みます 右手に紀の国食品の建物手前で右に折れます 右手に紀の国食品の建物手前で右に折れます


右に折れて100m程進んだところで左にカーブして右手の山沿いを南に上平集落を進みます。

左に 覚王寺 があります

平集落内右手に、かつての 大庄屋野田家 があったようですがわかりませんでした。もしかしてたまたま写っていたこの民家がそうかも、振り返ったところです

集落内の古道(里道)を進む、平の集落内には沢山の里道が分岐していて、どの道が大辺路とは言えなくそれぞれ思いに通ったのでしょう

田畑が広がる場所に出て、やや広い道に突き当たり右に折れました、右に折れたすぐ先で交差点に出ます、その先で高速道を潜ります、交差点を左に折れていくと富田川に架かる白鷺橋に出ます、後ほどここの交差点に戻り白鷺橋を渡るのですが、

もう少し交差点を横断してまっ直ぐ進み血深井堰まで行きます

交差点より1㎞程進んでいくと富田川に突き当たります。左角に祠この辺りに血深の渡しがあった、幅1町程の富田川を舟か舟橋、かり橋、または浅瀬を渡っていた

石造りの祠に石仏 昔の人々の川渡しの安全を見守っていたのか

富田川の 血深の渡し跡

渡し跡から今来た道を振り返る

T字路から旧溝端村に少し進んだ右手に、安永七年(1778)八月と刻まれた 石碑 はじめ数体の 石仏 が祀られています

その少し先左に、昭和11年建立の 天然記念物大鰻棲息地の碑 その傍には、大鰻を抱いた 魚濫観音 が建っています。またその背後の富田川に南富田・西富田を潤す 大井堰 があります



如何にも大鰻が棲息していそうな深い小湾

富田川の上流を見る(白鷺橋方向)、この距離戻ります

前述の交差点に戻り富田川に架かる白鷺橋への道を進む

白鷺橋

白鷺橋を渡り信号交差点を横断した左角に 祠


別ルート道で、櫟原神社のところで分岐したみちは、富田川に架かる山王橋を渡り、富田川の左岸を進み、保呂地区から郵便橋の東方の内ノ川地区を通り田津原地区を抜け白鷺橋で合流している。
もう一つの別のルート道は、本道より西寄りを辿り朝来を越えて、不動山の西側を通り岩崎地区で合流していたようです。
白鷺橋の東袂の庄川口信号交差点を横断して、祠を左に見てすぐ右の国道の西側の道を下ります。
下垣内集落です

富田川に流れ込む庄川に架かる三石橋を渡る

橋を渡った先の下垣内集落

左手高台に建つ 臨済宗東福寺派 最勝寺

庄川の集落を過ぎると右からの国道が合流します前方に富田川に架かる高速道が見えてきます

高速道の手前左に石造りの祠に祀られた お地蔵さん

高速道の高架を潜ると左に 平間神社


平間神社の横の道を左に折れました

平間集落に入っていきます

集落内左に 浄土真宗本願寺派白鳥山 満願寺


前述の「血深の渡し跡」がここ平間集落に渡っていたようです。対岸を見る

集落内の左からの道もここで合流します合流して右に折れると、富田川の堤防上を走る国道42号線に出ますので左に折れる

合流点から集落を振り返る、向かって左の道をきました、右の道の突き当りに満願寺が見えます

国道42号線の突き当り、右に区民会館で左に折れます

左におれて左にあるコンビニを見ながら国道を暫く進んでいきます

1㎞程進むと左に 日神社

仁安2年(1167)創始の大社で富田郷の産土神でもあります。立派な綺麗な神社です。

境内の樹齢約500年の杉の神木樹高約25m、幹回り4.3m

また境内には、摂社若宮神社、稲荷神社、厳島神社 が小振りながら立派な社が建っています

神社のすぐ先で左に折れる細い路地を下ると広場になっています。古道も残っています

その一角更地が 伝馬所跡

伝馬所の旧道を進み右からの国道と合流します振り返ったところ

すぐ先で富田橋信号交差点に出ます。横断して国道の左側の分岐道を下る。右に折れて橋を渡っていくと15分程でJR富田駅へ

この交差点から右の富田駅へは15分ほどでいけます。
時間があるので、明日のため草堂寺まで今日は行っておく。

左の石経集落へ入る道、左手に郵便局が見えます。坂の途中右手にある お堂

石経集落の古道

集落内で高速道の高架を潜ります

民家は比較的新しいが雰囲気が残る旧道


集落内左に、石経地蔵 と享保十九年(1734)の 大乗妙典六十六部塔 がありますその先左に 大庄屋中岩邸 が左手にあるのだがわからなかった

高瀬集落に入り右に折れた左手に真赤な鳥居の建つ神社

200m程進んだところで、右正面の民家のブロック塀にある案内板のところで左に折れます


左に折れて200m程進むと、高瀬川(旧飛鳥川)に架かる飛鳥橋を渡ります

飛鳥橋を渡ったすぐ左の山中に 飛鳥社 神社には珍しい県の民俗文化財と指定されている津波警告板、宝永4年(1707.10.28)紀伊半島大地震による津波被害を忘れないための警告板。江戸時代の中でも最も広範囲に甚大な被害をもたらしている




神社を左に見て100m程先正面に古刹 臨済宗南宗山 草堂寺

お寺に突き当たり右に折れます、その正面に 指さし道標「くまのみち」




太子堂


明日は草堂寺の横から富田坂を上ります

本日はここで終了
歩いて前述の富田川に架かる富田橋に戻り、J富田駅へ

富田橋の西袂の堤防近くに 祠 橋より10分ほど歩き駅に着きます

富田駅 列車が出たばかりで2時間に一本なので1時間半待ちでした。富田には宿泊できるところがなく田辺駅前のホテルに戻ります

田辺北新町 8時40分スタート
草堂寺 15時45分着
38.360歩 23.01㎞
富田駅1日トータル 45.458歩 27.27㎞
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