熊野古道紀伊路 2日目

2014年6月15日

天王寺~住吉大社~大和川の遠里小野橋~仁徳天皇陵~南宗南側~大鳥神社~北信太駅の東

寄り道)が多く余り距離は伸びなかったが、快適な旧道歩きの一日であった。
     JR天王寺駅  6時20分 スタート
    JR北信太駅  17時25分 着
       32.94㎞  54.909歩  2.392kl

阿倍野交差点の歩道橋よりスタート

あべのハルカス

あべの筋の阪堺線の阿倍野駅を右に暫く進むと阪神高速松原線の高架下を潜ります高架下から振り返る

高架に沿って左に曲り、100m弱先で右に折れます

右に折れた旧道の筋

旧道を進みます

街道筋左に 禅宗 泰清寺

すぐ先で左の一方通行道を150m程入ると 玉菊稲荷神社

街道に戻ります

阿倍野筋5-4の表示がある交差点で右に折れて阿部野筋に出ます。左に折れると、右手に阿倍野署があり、すぐ先交差点の右に、ファミリーマートがありそます。

交差点左に(寄り道)、400m丸山通りを入っていくと突当りの所に 丸山古墳の碑 があるが、背後に大きな東急のマンションが建っていて想像はできない

阿部野筋に戻ります、すぐ先で阪堺線は車道より独自の軌道を進むとすぐ松虫駅があります

分岐するところにある歩道橋より、阿倍野筋

その先で、松虫通りと交差する広い、松虫交差点に出ます。角に熊野街道の新しい 道標

松虫交差点を右に松虫通りを、阪堺線を越え西へ100m進んだ右に

松虫塚 昔から上町台地の上に古墳や塚が多くつくられた

松虫塚は通りかかりの旅人が松虫の声に聞き入り、命絶えたことを哀れんで供養されたものである

松虫通りと交差する広い交差点で阿倍野筋より西側の真っ直ぐ南に進む旧道に入ります。

左に熊野街道の説明碑があります

左に 浄土真宗 廣臺寺

 少し先左に 安倍晴明神社
晴明宮御社伝書によれば、神社は寛弘四年(1007)の創建と伝わる。安倍晴明は、天慶七年(944)この地に生誕したといわれる。社殿は大正十四年再興された

安倍晴明生誕誕生地碑

 神社より少し右に入り阪堺線の傍に行くと東天下茶屋駅がありその傍に 

東天下茶屋駅

東天下茶屋ホームに 馬車鉄道跡の碑
明治三十年(1897)大阪馬車鉄道株式会社が設立され、同三年天王寺西門前から東天下茶屋間が開通し二年後下住吉まで延長された。その後大阪電車鉄道、浪速電気軌道、そして電化の開始により現在の阪堺電気軌道上町線の端緒となった。

街道にもどりすぐ先左に 禅宗 印山寺

印山寺の南隣街道沿いに王子社 安倍王子神社 府下唯一残る王子社

神社鳥居の袂に もと 熊野街道の道標 安倍王子神社の西側を通る、もと熊野街道は渡辺の津とも窪津とも呼ばれた、八軒家を出て、和泉の海岸沿いを南下し、紀伊路に入って熊野三山に至る古道で、平安時代から鎌倉時代にかけて盛んであった、熊野信仰と深いつながりがあった。街道筋には九十九ヶ所の遥拝所があり、これを王子と呼び、旅人はその社頭の参詣し休息をとって次の王子に向かった。(説明文より)

30号線の車道側から見た安倍王子神社

旧道を進むと左に公園がありますその一角に

経塚跡

経塚のすぐ先の十字路を左に【寄り道】をします。左に折れて少し進むとあべの筋にでると、横断したところに北畠公園があります。

公園の一角に伝 北畠顕家卿の墓 があります

後醍醐天皇の建武の中興(1333年)時、若干十六歳で父親房公と共に、皇子義良親王を奉じて奥州に赴任していた。二年後鎌倉の足利尊氏が天皇に反したので奥州より大軍を率いて尊氏軍を敗走させた。
奥州に戻られた後、再び尊氏が京都へ西上し、湊川での戦いで、楠木正成が戦死し、天皇が吉野に逃れ、南北朝の始まりとなる。再度奥州より転戦したが志半ばで、和泉国堺浦の石津で戦場の露と消えた。時に二十一歳の若さの花将軍であった悲運の貴公子。

北畠公園より200m程あべの筋を南に進んだところで、左の細い民家の間を20m程入ると

小野塚と播磨塚
播磨塚は、南北朝の時代に南朝の楠正行に北朝の山名・細川の軍が敗れ多数の戦死者が出た、その中に赤松貞範率いる将兵も沢山いたので、その遺骨を納める塚を築いたといわれる。
小野塚は、小野小町の塚といわれるが、小町が阿倍野の地で亡くなったという記録がないので、小町信仰の塚といわれている。

寄り道を終わり街道に戻るとすぐ先左に 浄土宗 源正寺

その先右からの阪堺線の軌道車道に合流します阪堺線に沿って進みます、北畠駅があります

ここで【寄り道】北畠駅から右400m余り先にある阿倍野神社へ

阿倍野神社  
明治十五年別格官幣社として建立南朝の忠臣北畠顕家卿と、その父親房卿が祀られている。

北畠顕家公像

北畠駅の街道に戻ります、左に晴明丘中央公園の前を通り進みま

暫く進むと姫松駅の姫町交差点に出ます

交差点のすぐ先に左に入る旧道があります帝塚山東1丁目で自転車の出てきた道です

帝塚山三丁目、左に万代池公園があります

池を左に見て右斜めに進み、帝塚山中4丁目で右からの軌道車道に合流します

右奥に帝塚山学院小学校・高校があります

帝塚山四丁目駅です、駅の左側の旧道を進む、暫く右の線路に沿って進む

やがて阪堺上町線は南海高野線と交差して、神ノ木駅で西に分かれる

街道は神ノ木駅を右に見て南海高野線の高架ガードを潜りすぐ右の大阪住吉町郵便局をみて左に折れます。左に折れたすぐ右にセブンイレブンがあり、斜め右に進む

すぐ右に 萬年山西光院 宝泉寺 天元五年(982)源信により開基された寺院 本尊は一光十三佛

門前より振り返る、南海高野線のガードが見える

この先、住吉大社の街並みに入ります。大社の周辺は古くから海上・陸上の要衝として栄えた町で、熊野街道と住吉街道の交差する位置にあった。古くからの町家と社寺が街周辺に建ち並んで今なお歴史的な風景が見られます。

街道左側には 真言宗天王山 東福寺
弘法大師の開創にて、楠木正成の千早城における念持仏の毘沙門天王を本尊とする古刹

境内の 親子地蔵

その先で道は分岐します、左の旧道を進みます角に新しながら情緒のある、芋忠本店の建物

南に進む旧道、その先で十字路に出ます十字路左手前角に

住乃江味噌:池田屋 かつて皇室に献上していた老舗

十字路を右に折れるとすぐ先で、住吉大社の東門に出ます、街道は左に折れる。熊野街道沿いは住吉大社の東側で、表参道は西側26号線の駅なども集中して賑やかな紀州街道側です。
紀州街道の歩いたとき寄っているので、簡単に済ませる

住吉大社西側の大鳥居を潜ると朱色も鮮やかな 太鼓橋(反橋)摂津国一宮として知られ、全国2000社の住吉神社の総社。

太鼓橋を渡り石畳を進むと本殿に出る。神社建築の最古の様式の1つで住吉造りといわれている。

 4棟の本殿 はすべて(国宝)西を向いている、その他多くの国宝や重要文化財があります

本殿

 住吉大社を後にして南に進みます

住吉大社の南の角で大社方向を振り返ると、鳥居とその奥に住吉武道館、南に進みます

左に 大常夜灯

浅沢社
細井川の手前左に 浅沢の杜若(かきつばた)昔、ここから南にかけては清水の湧く大きな池があり浅沢と呼ばれ、奈良の猿沢・京都の大沢と並ぶ近畿の名勝であった。杜若が咲き乱れる情景を多くの歌人に詠まれ万葉集をはじめ多くの歌集に出てきます。昭和に入り清水も枯れてしまった

細井川に架かるひとつ橋を渡ります

橋を渡った左に 大歳神社

50m程先で左に曲がります

左に曲がる右手に 五大力子安地蔵尊 

左に折れた先の街道で80mほど進んだ十字路を右に折れます

すぐに長居公園通りの信号交差点に出ますので横断して南へ

左に墨江小学校があります、この地が 津守廃寺跡 昭和15年この辺りの道路改修や区画整備時に白鳳時代(七世紀後半)の遺物が発見されたことから、古代のお寺があったのではないかと考えられ、津守廃寺と命名された

またかつてはこの小学校付近に 津守王子 があったとされるが場所は不明で、先の止止呂支比売命神社に合祀されている熊野街道の新しい道標 八軒家から十二㎞

小学校のすぐ先右に、清明学院高校の前を通り墨江丘中学校の前に左に 住吉大黒天

右に 浄土宗 願生寺

願生寺のすぐ先の十字路を左に折れ、宝樹寺の前を通り南海高野線を越え府道手前に前述の
止止呂支比売命神社(とどろきひめのみこと)

津守王子はこの神社に合祀されている、碑なし
後鳥羽天皇行宮跡碑
承久三年、後鳥羽上皇が行幸のおり、神社境内に行宮を築かれ若松御所と称された古社

街道に戻る途中の 浄土宗 宝樹寺 お寺の西側の十字路より南に200m程南へ

墨江4丁目で、あべの筋を横断します遠里小野地区にはいります

少し右奥に 真宗 安養寺

安養寺の南に 浄土真宗 西方寺

街道沿い左に 浄土宗 安楽寺

街道右に 浄土宗 極楽寺 本尊は毘沙門天立像(重文)

少し街道を南に進むと左に 道標 字が消えていて読めない

右に大きな旧家の立派な塀が続きます

その先、信号交差点を横断して右に 農神社

左に遠里小野小学校があります100m余りで大和川の堤防に出ます

堤防上の左に 白龍大神・雲上地蔵尊 立派なお堂に祀られています

地蔵尊のある辺りからかつて大和川を渡っていた。左は南海高野線の鉄橋

迂回のため堤防上の道を西に進み、大和川に架かる遠里小野橋を渡り対岸へ約1㎞

この辺りの大和川は川幅も広い遠里小野橋

橋より右(東)の景色堺市に入ります

橋を渡り左に堤防上の道を進み、対岸に出たところから、北側の対岸と渡っていたと思われる大和川。でも大和川は河川改修で大きく変貌しているのでよくわからない

堤防からの道が少し消失しているので、南海高野線の傍に出て迂回します。この先、南海高野線浅香山駅までの旧道ははっきりわからない。

(旧道ではありません迂回路です)
迂回道は、堤防を東に少し進むと線路に突き当たりますので、階段で右に降ります。すぐ一つ目の筋を右に折れて、すぐまた次の辻を左に折れます。①さらに50m程先の十字路を右に折れると、②数十mで十字路に出ます。この十字路の右からの道が前述の堤防から消失していた延長上の道です。この十字路を左に折れて③250m程南に真っ直ぐ進みます。この間は工場ばかりです。

十字路を右に

左前方のトーケン本社の白い建物手前の十字路を左に

トーケン本社を右に真っ直ぐ南へ250m程 

右に、田中食品興業所大阪工場の先のT字路を右に折れます

右に折れてすぐまた左に折れます

真っ直ぐ南に高須町を進みます

すぐ左に南海高野線の浅香山駅がありますこの十字路を左に折れます

すぐに浅香山駅の南側の踏切を渡ります。踏切を横断して右に折れ、線路沿いでない左側の旧道を進みます

南へ真っ直ぐ進みます

今池町3丁目交差点に出て横断しますが、左に浅香山病院があります

今池町3丁目交差点から300m程先の次の信号交差点を右に折れます。交差点左角は高い塀で覆われた大阪刑務所です

右に折れた筋を150m程歩いた十字路を左に折れます

十字路を左に折れる公園左角に 境王子跡碑 境王子跡碑は平成4年に建立され、実際の場所は特定されていないがこの付近と推定。

堺市内は特に歴史の変換が激しく、熊野街道そのものの道がはっきり確定するのが難しいようです。もっともどの街道もそうですが、

同じ角に お地蔵さん

左に折れて、北田井出町、中田井出町、南田井出町の区画整理のなされた住宅地を南下します

やがて車道交差点に突き当たります、交差点を左に数十m折れ、すぐまた右に折れます。正面の森は、方違神社と反正天皇陵です
交差点を左に折れたすぐ右に 方違神社 崇神天皇の勅願により創建されたと伝わる古社です。
摂津・河内・和泉の三国の境に位置し、三国山、三国衛、三国丘と称され、三国の境界にあるため、方角の無い聖地と考えられ、古来より方災除けの神として崇拝されていた。

神社の角を右に折れる

 カラー舗装の綺麗な旧道を南に

神社の過ぎたところで右に 反正天皇陵

墳丘全長148m、仁徳天皇の第三皇子

天皇陵東側の地道を進む

やがて地道の終わるところでT字路となり、右に折れます。

街道は右に折れてすぐ先で左に折れますが、その前に真っ直ぐ進みすぐの辻を右に折れたところ左に
洞宗天王山 紅谷禅庵
大永年間(1521~27)堺の豪商紅屋喜平が、この地に草庵を建てたのが始まり

紅谷庵の北側に 反正天皇百舌鳥耳原北陵

元の辻に戻り、右の三国丘高校に沿って南下します

250m程先左に 向泉寺跡、現在「閼伽井の跡」が残る井跡を見落としてしまった。振り返ったところ

すぐに五差路に出ます、茶色の民家の右側に入ります。右に折れた右手は榎元町公園です。五差路の左角に駐車場があります

右に折れて100m弱で信号交差点に出ます。街道は左に折れますが交差点右から左へ合流する道は、竹内街道と西高野街道で左に三街道重複します

交差点右からの、竹内街道・西高野街道の旧道を見る、正面に堺市役所の高僧ビルが見えます

今歩いてきた熊野街道を振り返る

三街道が重複する旧道

150m程重複して進むと、正面に三階建ての建物で街道が分岐します。左へ、竹内街道が分岐します。もうしばらく、西高野街道と重複して進みます。

分岐する手前右に 高野山女人堂道の十三里石道標と地蔵

分岐点の角にも 道標 「右 西高野街道 左 竹内街道」

少し進むと左に新しい 西高野街道の道標

更に少し先で、南海高野線の陸橋道路を越えます。

更に少し先で、南海高野線の陸橋道路を越えます。

そして中央環状線を歩道橋で渡ります。歩道橋の上で西高野街道は左へ(仁徳陵の北側を)分岐します。熊野街道は右へ(仁徳陵の西側を)分かれます。

歩道橋から今来た道の方向を振り返る

西高野街道の道、右が仁徳陵、下の道が310号線

この先の熊野街道、左の 仁徳陵 に沿って暫く進みます

歩道橋上の分岐、正面が仁徳陵中央環状線が右に離れます、街道は濠に沿って進みます

公園内には、 万葉歌碑・府立大阪女子大学大仙学舎跡碑・銅亀山古墳 等々碑が立つ

銅亀山古墳

仁徳天皇陵が切れる交差点右角に 朝日寺
街道は朝日寺の角の交差点で右(西)に折れます。交差点の東南の一帯は大仙公園が広がります。この付近は大小の古墳が沢山あります

交差点より東側を見ますと、左は仁徳陵、右は大仙公園で広大な堺を代表する公園が広がります

西への道を進みます

500m程進むと、御陵通交差点に横断します

暫く進んだ右に 南通寺

さらに進んでいくと大仙西町2交差点で、第二阪和国道の高架を潜ります。広い道路で旧道の面影を偲ぶこともできません

高架を潜ったすぐ右に 大師堂

ここで街道を一旦中断して【寄り道】のため少し右に入っていきます。南宗寺を中心に沢山のお寺が集まっています。近辺のお寺まわりましたが写真は省略させていたきます。南宗寺の回りだけでもこれだけあります。
大安寺・正明寺・延命寺・専称寺・光澤寺・賢清寺・阿弥陀経寺・本源院・天慶院・海会寺・発光院・徳泉庵・臨江寺・本伝寺。

臨済宗大徳寺派の禅寺 
南宗寺弘治三年(1557)普通国師を開山として建立されたが、元和元年(1615)大坂夏の陣で堺市街と共に焼失したが、当時の住職であった沢庵和尚らによって再建された。堺の茶人たちはこの寺で禅を学んだという名刹。

参道

甘露門(山門)重文

南宗寺のゆかりの人々

座雲亭

千家一門の墓

中央は 利休居士の塔、右に不審庵(表千家)左に今日庵(裏千家)、手前右に官林庵(武者小路千家)の塔はたつ

茶の湯の発展に尽くした、津田家之塔

武野紹鷗の墓 利休の茶の師

南宗寺開基 三好一族の墓

伝説 徳川家康の墓; 謎

津田家・半井家一門の墓

夢界堂南宗寺再興に尽力した堺奉行 喜多見若狭守の位牌堂

もう一つの  徳川家康の墓

唐門(重文)

実相庵 利休好みの茶室

天慶院前に山上宗二一会塚供養塔 利休の門弟随一といわれた茶の湯の奥義を極める。小田原攻めの際、秀吉の勘気にふれ惨殺される。ここに宗二の最期を憐み、供養塔を建て「一会塚」と命名

南宗寺近くの幼い頃の町風景を思い出す 長屋風民家

元の大師堂近くの街道の戻る南宗寺南側の 環濠堀跡

西北への広い道を進むと、阪堺線と交差する広い御陵前交差点に出ますが、そこまでいかなくて、100m程手前、左への筋を左鋭角に入ります。右には山之口橋、左手前角にタバコ店があります

左に折れたすぐ右に、湊幼稚園があります

少し先右に、熊野街道の新しい道標

その先右にも 道標 前方に第二阪和国道の高架が見えます

歩道橋で高架を横断します。歩いてきた旧道を見る

歩道橋からみた、左の旧道を進みます

分岐する正面の木のある角に 一里山地蔵尊

老松町の区画整備された工場や住宅のある道を進みます

広い車道の信号交差点を横断します

石津町に入ります太鼓蔵の横に 地蔵尊 が祀られている 

広い交差点から400m程進みます前方に第二阪和国道の高架が見えてきます右には新しい熊野街道の 道標

道標のすぐ先十字路を右に曲り、高架を潜ったところに 浄土宗 念佛寺

そのまま高架の西側の側道を南に行くと 真宗 願行寺

その隣南側に 真宗 円浄寺 歩道橋で高架の東側に出ます

元の高架手前まで戻ります。高架手前の側道を左に曲がり、高架は潜りません

高架の東側の歩道橋から、石津神社が前に見えます

またこの先、石津神社前交差点で左への旧道を進む道が正面に見えます

石津神社
大きな楠の背後に立派な社殿、日本最古の戎宮当社の起源は古く、延喜式内社です。

神社の北隣にある 永詳寺

石津神社の朱の鳥居前を進みます、石津神社前交差点で分岐している前述の道を左に入ります

分岐から200m弱進むと、石津川に架かる戎橋を渡ります

橋から少し先右にある 

祠から60m程先で左に入る道に出ます、街道はまっすぐですが、少し左に入ります、30号線の車道沿いに

山車蔵の横に 正八幡宮 山車蔵の傍に祠があるのは、祭りの無事を祈るためもあるのでしょう

車道を挟んだ向かいに 浄土真宗 真行寺

街道に戻り200m余り進むと、神石市之町の信号交差点に出ますので横断します。

交差点を横断するとすぐ4筋に分岐します右側斜めの、ペガサス馬場記念病院を右に見て前の道を進みます

病院のブロック塀の袂に熊野街道の新しい 道標

右にペガサス保育園を見ます、さらに進んでいくと、広い車道の風小栗街道交差点を横断します

鳳北町を進みます

左奥に 法性山 専光寺

街道左奥に 地蔵が並ぶ

左(東)から車道が合流する、左角に大鳥大社の杜が見えます。千種の杜と呼ばれる深い樹林の中にある大鳥大社。前の信号交差点に出ます

大鳥神社
延喜式式内社で、和泉一の宮と最高の位置にある。日本武尊の最期に降り立った白鳥伝説でも知られる。大鳥居を潜り参道を進む

本殿は明治38年(1905)に落雷で焼失、1909年に再建された。

大鳥居から正面西への短い距離だが 鳳街道、浜寺公園への道

鳥居前を南へ真っ直ぐ鳳中町を進みます。右に鳳小学校が見ます

やがて阪和線の踏切を渡ると、鳳本通り商店街に入っていきます。

右はJR阪和線の鳳駅です

踏切りを越えると信号交差点で、街道は正面のアーケードの商店街に入ります。駅前を整備改修しているので数年後は様相は変わっているだろう

商店街途中右に 浄土真宗 浄林寺

日曜日であるが商店街には人影が少なく寂しい

日曜日であるが商店街には人影が少なく寂しい商店街途中左にタバコ松屋さんがあり、そのすぐ次の辻を左に入り【寄り道】、鳳南町の30号線信号交差点に出ます、その交差点を横断すると左にNTTがあります。

商店街より鳳南町交差点に出るまでの途中右に 正覚寺 があります

鳳南町交差点からNTT方向を見たところで、場所は特定されませんが、NTT鳳営業所の所に
大鳥居新王子 があったとされています、碑も何もありません

商店街アーケードのある南端に戻ります

鳳南町を進みます、左に西図書館を見ます

やがて上交差点の四差路に出ますので右の30号線を進む

右にイトーヨーカドーがありますその先、上村西信号を過ぎて少し先

左に鳳胃腸病院があるところ、30号線を挟んだ右に、カーポイントオートがある手前の辻を右に入ります。

右に折れた60m程先の変則十字路を左に入ると、すぐ分岐しているので左の道に曲がる

数十mさきで左に折れて道なりに進むとすぐ30号線に出ますが、途中右に等乃伎神社があります

等乃伎神社
古代よりこの地に祀られている、延喜式の古社

一旦30号線に出て、すぐまた小川に沿って右に折れます

小川を左に少し歩きます

一つ目の左の小さな橋を渡りますと高石市です。民家の間の狭い道に入ると30号線に出ます

30号線に出た右は富木交差点です

交差点に出てきたところを振り返る

富木交差点を南西の30号線を進む。交差点から100m程で右の30号線と分岐して左に入ります
左に入った旧道

200m程先で、30号線のバイパスが右から合流します
左に取石池を見てその先200m程先の交差点

右に 日蓮正宗 澄明寺

交差点のすぐ先で右の旧道に入ります

取石の住宅地を進みます、途中、小川に架かる四ッ橋を渡ります

暫く歩くと、堺泉北有料道路の高架を潜ります

高架を越えた先の上町を真っ直ぐ進みます新しい住宅地の建物ですが落ち着いた町並みです

高架から600m程進むと右に 真宗 光受寺

太町に入ると広い交差点に出ます。交差点を越えた右にJA大阪和泉信太、左に信太小学校があります。

本日の街道歩きはここまでとします

交差点を右にJR阪和線北信太駅に向かいます。ついでに阪和線の線路西側に進んでいくと、真っ赤な鳥居が建っています。信太森葛葉稲荷神社の鳥居です

同じ境内に 信太森神社

葛葉稲荷神社
葛葉稲荷神社の狐の伝承が伝わる

葛の葉稲荷のクス  当初からすると樹齢二千年と伝わるが、新芽から改めて大きくなった巨木は約700年と言われる

簡素なJR阪和線の北信太駅へ、ここから和歌山駅に出て帰宅につく。

2日目 17時25分着 終了

次の日はコチラ

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