熊野古道 紀伊路 5日目

2010年7月10日

和泉鳥取から山口までは紀州街道と熊野街道が重複するので、以前、紀紀州道の時2回歩いているので、その写真等引用します
① 7月10日 紀州街道:岸和田駅~和歌山城(熊野街道布施屋まで重複)
          75.562歩  49.11㎞  チョット歩きすぎて足腰が痛い
② 9月15日 紀州街道:和泉鳥取~和歌山城(熊野街道山口まで重複)
          50.608歩  32.89㎞
① ではほとんど歩くのが主になってしまい、見るところが沢山抜けていたので、
② で再度歩いた。①では真夏にかかわらずよく歩きました。

和泉鳥取駅~山中宿(山中渓駅)~雄ノ山峠~中筋日延~紀ノ川の川辺橋~布施屋

前回の起点街道沿い右の和泉鳥取駅との間に、西約2㎞の波太神社を望む波太神社の伏拝大鳥居が建つ

真っ直ぐ進むとすぐ山中川に架かる山中橋があります。
山中橋から300mほど進んで、再び山中川に架かるなめした橋を渡ります。途中右から64号線が合流してきますが。
ここで熊野街道は山中橋を渡らず、手前を左に入る古道が残っているので鳥居まで戻りそちらに入ります。

山中橋の手前を山中川の渓流に沿って旧道に入ります。右には車庫が並んでいます。入り口に熊野古道の案内標示があります。はっきりした知識はありませんが、藩政期まではこの道を歩き、江戸中期になって紀州藩主の参勤交代には先に歩いた道を使われたのだろうか、どうだったのだろうか?

舗装道を歩いていくと、通行止めの柵が建てられていますが歩いていくには問題がないようです

素晴らしい古道跡の道が残っています

昼なお薄暗い道です

古道の右は山中川の深い渓谷で十分注意が必要です
熊野古道・平安の小径
熊野参詣の、昔のままの面影を今も残している小径。江戸時代には紀州徳川公の参勤交代の道でもあった。参勤交代の道もこの旧道であったのです

一応ロープはあるようです

琵琶ヶ岸懸
昔、琵琶法師が熊野詣でを思い立ち、琵琶を背にこの谷まで来た時、一陣の突風に思わず杖をとられて真っ逆さまに山中川に転落してしまった。法師の亡骸は川底に横たわり愛用の琵琶が途中の崖の木に引っかかっていたという。
その後谷底を流れる水音が「コロン、コロン」と琵琶の奏でるように聞こえるので、人々はこの淵を「琵琶ヶ岸懸」と呼ぶようになったと伝えられている。
熊野古道の山中川沿いに進むこの道は、極めて危険で熊野参詣の難所の一つと言われていました。今もわずかに人一人が通れるくらいの道幅で下は断崖絶壁であり、廃道となっています。(足元が極めて危険です、見学される方は十分注意してください)(説明看板文より)

上から右下を見た崖の山中川道幅30㎝程、川面まで20m程の難所。果たして参勤交代の大名行列が通れたのか少し疑問がわく

抜けたところで左の木々の間を出てきた。入り口からここまで約300m

琵琶ヶ岸懸を抜けた所から振り返る。とても雨の時やその後では危険です

その先正面に自動車道が見えるので右に折れ、右に小さな公園があります

地藏堂王子跡

住宅地に入り住宅地の先で先ほど分岐した64号線が右から合流してきます、右に滑下橋が見えます。

左に折れて100m程で高架道路を潜り、山中川に架かる橋を渡ります。さらに200m程歩いたところで左から迂回してきた山中川に架かる橋を渡る。左の阪和自動車道が沿い道なりに進みます

二つ目の橋を渡って300m程進むと左に 馬目王子跡碑 があります、この付近にあったようです

大阪府最後の王子跡です

すぐ先で阪和自動車道の高架を潜ります

高架を越えた左に登る石段があります、チョット分からないのですが山城があったようで、その登山口のようです 
三澤家奥津城入口の石碑 が立っています

すぐ左街道沿いに  が沢山建っています

田中武八翁碑 山中村庄屋田中家の十二代目を継承。明治に入り地元の発展に尽力

少し先で 【山中宿】に入る    
宿の雰囲気がよく残る街並み
和泉国と紀伊國を結ぶ紀州街道沿いの山間の地にできた集落。現在ではJR阪和線の山中渓駅が、また府道が駅前を南北に通り、西側の山麓を阪和道が走り、山間の集落の雰囲気も変わりつつある。
この集落内の道は、古代の南海道が通り、中世期には熊野街道の道としての古道である。江戸時代(1700年)になると紀州徳川藩の参勤交代のルートが大和街道からこの紀州街道に移り、宿として本陣が設けられ、旅籠も軒を並べた。山中集落はそのような経過から非常に長い歴史を辿って来たといえる。
近代に入り鉄道や高速道の開通により集落の様相も変わったが、旧街道が国の指定する「歴史の道」に選定され旧街道筋を整備、古い旧道情緒が甦った。400mほどの旧街道沿い(集落内)を石畳で舗装された。

暫く進んだ先、前方に、歴史ある山中渓集落が見えて来た。私も比較的近くに住んでいたのに、街道歩きをはじめるまで、恥ずかしいがこの山中宿のことは知らなかった。街道歩きを初めて知った次第です。

集落にはいる入口で道は分岐する。右の道は新道で集落の西側に沿って進んだバイパス。街道は左の道を進む。石畳で整備されている。宿場には本陣があり、旅籠も数十軒あった。

宿に入り少し進んだところで左に入ると 子安地蔵尊の石碑 お堂に安置している子安地蔵尊は平安期嘉承年間に小野薫卿の自作と伝わる。

山中公立小学校跡 明治五年六月、新政府の学制発布により寺小屋に変わり小学校が設置された。

筆神 小学校の手習いで使い古した筆をここに祀った

旧庄屋屋敷

江戸時代中期の建物で、当時の庄屋屋敷である。広い土間、数多くの部屋、太い梁の木組、土蔵、煉瓦づくりのアーチ型の裏門、広い庭園など泉州路屈指の屋敷。
一般には関西では庄屋、関東では名主と呼ばれたそうです。重厚な建物

左手奥の山裾に 山中神社 承暦三年(1079)ごろより祀る古社 八王子社・馬目王子社合祀・八王子社観音堂(奥の院)を祀る

八王子社観音堂(奥の院)の石碑

馬目王子社

宿の街並みに戻る、祭りがあるようでその準備の提灯

道路も旧道らしく整備され、非常に落ち着いた宿場の街並み

旅籠とうふや跡 山中宿には二十余軒の旅籠が軒を連ねていたが、時代とともに姿を消し、最後まで残っていたこの地の「とうふや」も昭和の終わりに姿を消した。今は駐車場

土塀に囲まれた大きな屋敷がある。山中宿本陣跡、建物は建て替えられているが、かつての偉容さが偲ばれる。

板状の石を屋根にした小社 道祖神(塞之神)宿の南の入口に鎮座され、南からの邪神、疫病をさえぎり、蟻の熊野詣でから旅人の安全を守って来た。

南の端、宿への入口真っ直ぐ振り返る、左は新道。すぐ手前右に山中渓駅がある

山中渓駅前から振り返る、正面の道が旧道

JR阪和線の山中渓駅を右に、左にわんぱく王国を見て宿を出ますと、すぐ先左手の山裾に

山中関跡碑 正平二十四年(1369)に関所があったと伝わる。熊野街道の山中関所跡地で東西から山が迫り、間に川が流れ、関所としての立地に適していた。南北朝時代本正高氏が関所を設けたのが最初と伝わる。江戸時代に入り廃止された。

関所の前で左に緩やかにカーブします。歩道がなく車が多いので注意が必要です

この先、新道に改修された道を進む阪和自動車道を潜ります

狭い山間を、阪和自動車道、山中川、街道、阪和線と入り組みながら緩やかな坂を進みます

山中川に架かる芦屋橋、赤坂橋と渡ります

和歌山との県境の70m程手前左への道少し入った左山の斜面に、 桜地蔵

山中渓駅から約1.7㎞のところで大阪府と和歌山県の境となる。そこには小さな境橋が架けられている。

その境橋の袂、大阪府側に史蹟 日本最後の仇討ち場の碑 土佐藩士の広井磐之助が父の仇である同藩士の棚橋三郎を六年の歳月の後、文久三年(1863)に敵討ちを果たした地。これは、日本で許された最後の仇討ちであると伝わる。

少し大阪寄りに立つ案内表示

暫くを進みます

旧道の跡だろうか、わからないのでそのまま新道を進みます

この辺りは歩道も白線もないので車には十分注意が必要

進んでいくと滝畑地区に入り集落が見えてきた手前右斜めに折れて阪和線の第一滝畑踏切を渡る右への旧道があります。

踏切を渡った右に線路の際に 中山王子跡 和泉から紀州に入った最初の王子跡

滝畑集落にはいるがそれほど集落の件数は多くない集落の中ほどで、山中川は右に離れていく

落内を過ぎたところで道なりに左に曲り、再びJR阪和線の第二滝畑踏切を渡る

踏切を渡るとすぐ新道に出るので右に折れる

JR線は間もなく雄ノ山トンネルに入るが、街道は阪和道高架の上下線を潜り峠への道を進む

右の阪和道と並行して暫く進みます

雄ノ山峠(標高181m) 今は自動車道で改修され峠の面影はないがおそらく厳しい峠道であったのだろう、道の左は大きく削られた切通となり、右は深い谷で容易に想像ができる

紀ノ関(湯屋谷)
雄ノ山峠は古代から重要な交通路であり、峠道は平安時代の熊野街道、江戸時代には、紀州街道で(上方、大坂街道ともよばれる)あった。「万葉集」では紀ノ関と呼ばれ、関守がいたことが知られている、また中世には白鳥ノ関とも呼ばれていた。紀ノ関は、山口王子社の近くに位置していたと推定されている。

峠の先で左にカーブしながら下る

紀ノ川・岩出市方面の眺望

下って行く途中斜面に旅の安全を祈る 幸福地蔵尊

JR阪和線の高架を潜る

高架を潜った先で県道を右に分け左への旧道を進む下り道があり。左には雄ノ山川が沿う。

左へ下ったところで振り返ると、京奈和自動車道と阪和高速)ICの工事中

ここから暫くはまだ紀州街道と同じ旧道を進みます。すぐ右に山口王子跡があります

右に、 山口王子社跡 がある傍には万葉歌碑がありますこの辺りから湯屋谷集落に入ります

山口廃寺跡
左の段丘上の標高約36mに位置する古代寺院跡、かつて当寺院の東には、雄ノ山峠越えの旧街道が、またすぐ南には東西に走る官道である古代南海道が通っていた。
伝・小野小町の墓(湯屋谷)
年老いた小野小町が熊野参詣の途中で、この地で亡くなったため、村人がお堂を建てて弔ったという言い伝えがある。小町堂と刻まれた石碑が山口王子社跡の南東約100mの墓地にある。

湯屋谷の集落にはいる左の台地あたりが 山口廃寺跡

街道左に 道標らしきものがありますが詳細はわかりません

湯屋谷の集落を下っていきます

湯屋谷の集落内、街道から100mほど離れた池の南側に入っていくと、池の前会館がありその近くにある 
安楽寺 

隣り合わせに 薬師寺 薬師寺の裏を上ると墓地があり、その中に 伝承小野小町の墓 といわれるのがあわからない

街道に戻り右の山裾、64号線沿いに遠望 霊現寺

その隣に 光明院

さらに64号線より向こう側の山手に霊現寺のひと際目立つ真っ赤な お堂

集落の途中、右の建物の軒に山口神社への案内があります

(寄り道)右に折れて県道を横断して、細い道をさらに西に暫く進んだ先に山口神社があります

山口神社

山口神社の正面の参道を南に下る道ここからも熊野街道に出ます

元の街道の辻に戻り真っ直ぐ南にくだります。振り返ったところ正面左が、雄ノ山峠 で随分歩いてきました

湯屋谷の集落を抜けると右に雄山川が接近する

中筋日延地区に入ります右T字路の辻に出ます、左への道が 上淡路街道 です暫く重複します、街道は真っ直ぐ

東へ進む上淡路街道の道筋で根来寺・粉河寺へ行きます。上淡路街道は西の加太淡島神社から東は根来寺・粉河寺を通って、大和街道に合流する街道です

T字路のすぐ右に、元庄屋の谷本氏宅の 山口本陣の門 を移築したもの

T字路のすぐ先、今度は左T字路の辻に出ます。紀州街道は真っ直ぐ進みますが、熊野街道と上淡路街道がここを右に入り分岐していきます。紀州街道のこの先真っ直ぐ進むと、近世に入り紀州藩の参勤交代の道として利用された山口宿が古い街並みを残しています。(紀州街道を歩いた資料に載せています)

右に折れる角に熊野古道と山口神社への案内があります。山口神社へはこの道が本道でしょう。本来なら上淡路街道の案内も一緒にあればいいのですがないです。
山口宿は江戸期に入手の宿なので、熊野街道は通っていません

角のグロックの内内側(墓地)に 道標 「右 加太淡島神社道」「左 和歌山及紀三井寺」

熊野街道・上淡路街道の西への道を入ります

辻の少し下ったところから振り返ったところで、左の白い建物手前を左に入る道が、熊野街道・上淡路街道で、その先右にカーブしているのが上淡路街道、真っ直ぐ進むのが熊野街道・紀州街道、点前の道が紀州街道でここが三街道の分岐辻です

熊野街道と上淡路街道が暫く重複して進みます。十字路に出て横断します、この手前左に役の行者祠があったのですが、上淡路街道編に載せています。

山口神社一の鳥居の前に出ます

長い参道を進んでいくと、先ほど出てきた鳥居の傍に出ます

さらに樹木の茂った参道を入ります

二の鳥居から参道を下り一の鳥居の街道に戻ります
鳥居から70m程南に下ると、県道粉河加太線に出ますので右に折れます。県道左にローソンがあります。この県道を600m余り西に進みますが車が多く歩道もなく危険ですので十分注意が必要です

やがて右に長屋門のある旧家があります

長屋門のある民家の先の信号で、少しですが右に入る旧道が100m程ですが残っています、その旧道沿いに 覚善寺、その北側に西方寺があります

古道沿いの 覚善寺

すぐ先で左にカーブして県道に合流します。手前右に 石碑(この付近は上淡路街道で詳しいです)

合流したところを振り返ったところ

合流した先250m程先のバス停の前で左に入ります

左に入る街道右には 観音寺(お大師さん)地蔵尊 あります

熊野街道は左に入り、上淡路街道は粉河加太線を進みここで分岐する

左角に西蓮寺があり処で合流します 西蓮寺

西蓮寺より200m程で左にカーブします

上野地区すぐ先左に 川辺王子跡

東に田畑の中の道を進みます

北側を見ると今越えてきた和泉山系、山の中腹を阪和自動車道が見えます。この辺りは一面稲穂が綺麗に広がっています

神波地区に入り右にカーブする右角に神波自治会館があり

熊野古道の導き石が埋められています

南に真っ直ぐ300mほどすすむ、途中左に 無量寺、そして小さな川を渡ります

そしてT字路を左に折れ、20m程で右に折れて南へ進む

小さな川に沿って南に進んでいきます

200m程先で左に斜めに方向を変えて進みます

暫く進むと左 田の際に 中村王子跡 の看板だけあります

左に 力侍神社

八王子神社と力侍神社 が合祀されている

その先、左にスーパーを見て国道24号線を渡ります。24号線横断できないので、近くの信号で反対側に出ます

反対側に出て200m程進むと、

川辺の集落の中にある 地蔵堂 の横に出ます波切不動尊を祀る

地蔵堂のすぐ先でT字路に出ますT字路から振り返る

T字路に出たところで右に折れますが、この辻で再び左から、紀州街道が山口宿を通ってここで合流します。すこし重複して歩きます

右に折れたすぐ左に重厚な長屋門の旧家があります

旧家の長屋門

十字路角の立つ 
道標 西面「左 北大坂道」 南面「新義本山 根来寺 三国一錐もみ不動尊」 東面「右 北 大坂みち」

長屋門の左角の道標を見て十字路を右に折れる右筋の旧道右に折れてすぐ、紀州街道は真っ直ぐ進みますが、熊野街道はここを左に折れる狭い道を入ります

すぐ左へ

左に入ると右に 浄土真宗本願寺派直進山 正念寺

川辺の集落で紀ノ川の渡し跡への道

紀ノ川の堤防が見えてきました

堤防上、この辺りに 川辺の渡し があったようです

紀ノ川の川辺の渡し跡付近から、対岸の 布施屋の渡し跡 を見る(地区の場所によって呼び名が変わる)

堤防を西に迂回するため500m程堤防を歩き川辺橋に向かう

川辺橋の北詰の下に沢山の お地蔵さん が並んでいる

紀ノ川に架かる長い川辺橋、橋の少し上流側にかつての渡しがあった

川辺橋の左(東)上流の紀ノ川

川辺橋の右(西)下流の和歌山市方向

川辺橋を渡り旧24号線の堤防道300m程進むと左に下る道があります

左の紀ノ川を見るこの辺りが 布施屋の渡し場跡
古くは、熊野詣での人々は、紀ノ川の対岸から吐前に船で渡っていたが、やがて紀ノ川の流路の変化により布施屋に渡るようになり、渡し場が設けられた。昭和二十年半ばまで対岸の川辺へ渡る要所になっていました

堤防より100m程下って進むと、マンションビルの手前でT字路になります。この辻右へは、紀州街道で江戸中期までの紀州藩主の参勤交代の旧道の一つの道

T字路の右側、大和街道の和歌山城下への道

T字路左、熊野街道と大和街道の道筋

本日はここで終了して、近くのJR和歌山線の布施屋駅から帰宅する
田辺までは半ばでまだまだ遠い

 

 

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