篠山街道 1日目

2014年2月23日 

京都丹波口~桂大橋~樫原宿~老ノ坂峠~亀岡の篠町~亀岡城跡~湯の花温泉~園部町~天引峠~福住宿~八上~篠山城下

自宅早朝に出発~新大阪駅~京都~JR山陰線1駅で丹波口駅へ。丹波口駅7時10分にスタートして、島原を見学、七条通りの新千本通りを出発する。
今日は、沢山の街道沿いの史跡を見て回ったので、予定の湯ノ花温泉まではいけなかったが、何とか、山陰道との分岐点まではいくことができた。

          丹波口   7時10分 スタート
   山陰道の亀岡分岐  17時30分 着
        亀岡駅  17時45分
         52.818歩  31.69㎞  2.376kl

久しぶりによく歩いた。亀岡駅JR18時02分にのり、自宅21時10分着

山陰線丹波口駅
丹波口駅の南から東の島原を少し回りながら篠山街道の起点に進みます

丹波口駅から東に中堂寺通りを島原住吉神社の旧境内地にあった、 大銀杏

袂にある 祠と赤い鳥居

少し場所を移転した新しい 島原住吉神社

島原正門碑

丹波口駅前の中央卸売市場の東南角近くにあり、明治時代に開設された 島原歌舞練場跡 をみて、現在は石碑のみ残る
島原の中を少し歩く 西新屋敷中堂寺町

中之町

歌舞練場跡を南に進むと 輪違屋元は置屋 で現在は茶屋として営業

島原大門  江戸時代の花街、島原の東側入口

西新屋敷中之町  島原の角屋の角に長州藩士 久坂玄瑞の密議の角屋碑 

右 角屋の建物

非常に大きな角屋の建物

角屋の北東角に平安時代外国の使者を接待する施設があった
東鴻臚館跡

新選組刀傷の角屋の碑

篠山街道には関係なかったが、一度行ってみたかったので島原に寄りました。七条通りに戻り西へJR線の高架を潜ります

篠山街道・山陰道の起点スタート
江戸時代、七条通り西の朱雀村は、丹波・丹後に向かう起点であった。現在の七条通りと千本通り交差する辺りが七条口といわれた。京七口の一つで丹波口とも呼ばれた。朱雀村は、丹波路・山陰道の出入口にあたる村で、茶店・煮売り屋・旅籠が並んでいました。

高架を潜り七条新千本信号交差点の少し手前右に

道標 「是より洛中荷馬口付のもの乗へからず」

暫く西に七条通りを歩いて一つ目の七条新千本信号交差点のところから振り返ったところです。向かって交差点の左角、赤い車の角は 西鴻臚館跡

左の大きな建物は、少し進むと左に 松尾大社朱雀旅所

すぐ先、七条七本松信号交差点の手前、左奥に 浄土宗清光山権現寺

六条判官 源為義公の墓所 平安末期の武将(1096~1156)。河内源氏の棟梁。保元の乱にて崇徳上皇方として戦うが敗北し処刑された

七条御前信号交差点手前右に 西山浄土宗真導寺

七条御前信号交差点を越した左に 時宗(浄土門)西蓮寺 空也上人開山近くには

武御前社

さらに 松尾大社西七条御旅所

少し進んだ左に 別格本山正法寺七条別院

正法寺の道を挟んだ北側(右)に入ると右に 臨済宗大徳寺派高源寺

さらに奥(北)に 西山浄土宗光徳寺

七条通りに戻りすぐ先の、西大路七条信号交差点を越えます

交差点より300m程進むと西高瀬川に架かる月読橋を渡ります

橋から川を見たところほとんど水がないようです

橋を渡った先の七条通り

西小路通の信号交差点を渡り西へ

月読橋から380m程進むと、信号交差点があります、旧天神川で左手に細い川が南へ

左の袂に 祠と沢山の地蔵 が祀られています

交差点のすぐ先、京都らしい街並み

少し先に歩いて振り返ったところです

右の中川診療所を過ぎた右手に 灯籠二基と松尾三宮社参道

参道を進んでいくと右手に 愛宕山常夜灯

松尾三宮社(松尾七社の一つ)

 神社の北西の 臨済宗大徳寺派西来寺 の傍に沢山の お地蔵さん

また南側には 臨済宗南禅寺派大梅山長福寺

葛野大路通りには 浄土宗入逢山西方寺 

浄土宗福元院

浄土宗無量山称名寺 が並んでいますさすがに街道通りにもこれだけのお寺があります

南に進んだ葛野七条信号交差点に戻り西進みます。90m程先での一つ目の信号交差点で分岐しているので左の七条通りに入ります

左に折れた少し先右の角に 祠

分岐から南西に170m程進み少し右に方向を変えていきますと、天神川に架かる七条橋に出ます

橋の手前右に 灯籠と祠

橋の手前で天神川に沿った道の、信号交差点を横断して、天神川に架かる七条橋を渡り。橋から右(北)の景色

橋の先右手のローソンを見て西に進んでいきます

右に立派な 祠と愛宕山の灯篭

その先で少し左にカーブしています左手に 浄土宗地蔵院安胎寺 の新しい建物があります

門前の標石

地蔵院を左手に見て少し進んで突き当ります

突当りを左に90度程折れて南へのを220m程進みます

 途中左に 

やがて七条通りが終わり、八条通りの桂大橋信号交差点に突き当ります。交差点のT字路を右に折れて

桂川に架かる桂大橋を渡ります、かつては 舟渡しであった。

桂大橋より対岸右斜め方向には 桂離宮 元八条宮家の別荘 

橋より右の(北)景色

橋を渡った西詰に立つ 大きな常夜灯(弘化三年)もともと桂大橋の南側の舟渡し場跡の岸にあったのがここに移された。基壇には「往来安全」と刻まれている

真っ直ぐ進んだすぐ左に菓子司明治16年創業の 中村軒 名物の麦代餅、歩きながら食べるのに少し買いました美味しかった。

すぐ先右に お地蔵さん

の信号を右に少し入った右手に 春日神社

次の下桂信号交差点を横断します。見逃したが信号の手前左に名物「桂飴」の本家養老亭があり、創業明暦二年(1658)の老舗

すぐ右に旧家があります 

続いて右に 桂地蔵寺京都六地蔵 巡りの一つで、平安前期の小野篁の作と伝わる、六地蔵が安置されている

100m程進むと五差路に分岐、左から二つ目のほぼ真っ直ぐの道を進みます

その先、左に将棋囲碁センターの建物

真っ直ぐ進むと、左角にGSがある五差路の信号交差点に出ます。左南へは広い道路で、街道は右斜めに(西)入る狭い道です

右角に、江戸時代末期の人で親孝行の模範といわれた標柱が立ち「孝子儀兵衛翁の墓 西南七丁」の碑 が立っています。参道を行くと菩提寺冷聲院があります

右の標柱を見て少し先の十字路左角に 道標
「右 西山御坊 よし峯 大原の岩くら」 「左 むかふ町 あわふ ながをか やなぎ谷」

道標から100m程西へ進むと右に、愛宕燈籠が立っている角を左に折れます

左に折れた右手には 浄土真宗本願寺西山別院
延暦年間(782~806)桓武天皇の勅願により、最澄が創建したと伝わる

少し進むとT字路になり右に折れます

 右(西)に折れて150m程進む

阪急京都線桂駅の南側の踏切を渡ります

踏切りを渡り街道は真っ直ぐ西ですが、少し線路に沿って左に入ったところに
臨済宗建仁寺派明鏡山延福禅寺

延福禅寺の南側に 革嶋春日神社

さらに西側には 三宮神社 境内には椋の大木が立っています

街道に戻り阪急踏切を越えたすぐ右に、松尾七社の一つ 松尾大社大宮社

大社の北側には洛西観音霊場22番 浄土真宗本願寺派常楽寺

少し先左に 孝子儀兵衛翁墓参道の道標

道標の先の街並みも旧家が並ぶ

その先一つ目の信号のすぐ先、バス停のある川島粟田町で道は分岐、左の道を少し南に方向を変えて進みます

川島町で街道沿いには、小野邸他旧家が建ち並んでいます
樫原バス停のところで右(西)に方向を変えています

樫原宿
西に進んだところで樫原信号交差点に出ます。ここは、樫原札の辻で 物集女街道山陰道篠山街道 との交差する辻で、古くから栄え江戸時代には京から一番目の宿場町を形成していた。 丹波・丹後に繋がる山陰道・篠山街道と大坂・西国に繋がる物集女街道と交わる樫原はまさに交通の要衝であった

交差点から物集女街道の左(南)の筋

交差点から物集女街道の右(北)の筋

蔵の北側の建物は写っていないいないが 交差点を越えたすぐ左に 郷倉
江戸時代、樫原の年貢米を保管したり、凶作の時の穀類の備蓄をした倉庫。今も市の面影を残している

街道を挟んだ向かい(北)側に 勤王家殉難之地碑
元治元年(1864)の蛤御門の戦いで敗れた、長州藩集義隊の藩士三名がここに逃れてきたところを、小浜藩兵に討たれ地

碑のすぐ横に小さな、小畠川(洛西幹線用水路)が、昔から明智川とも呼ばれ、光秀の伝承も伝わる

すぐ西側には、塀を残してマンションが建っている場所が 小泉家跡 幕末の頃の当主小泉仁左衛門は長州藩御用達の油商であった。森田節斎や梅田雲浜などの武士や学者も多く出入りしていた

郷倉前から樫原宿の街並み

すぐ左に 浄土宗西山深草派紫雲山龍淵寺

辻のお地蔵さん
雲林院延命地藏とよび無病息災、尾願成就、安産に霊験あらたかな地蔵さんとして祀られています。かつて地蔵の前で大きな釜で湯茶を旅人にふるまっていた。
今も7月23日に樫原の人々が健康で過ごせるようにお茶を振る舞い続けている  
揚げ素戸ばったり床机の旧家

石の祠の お地蔵さん

 右に 橿原宿本陣建物 現存する、本陣玉村家住宅

本陣前の街道左に 浄土真宗東本願寺派向陽山無量院 新築された藥医門のある格式高い寺で大名も頭を下げたという。参勤交代時大勢の時は脇本陣として使用された

樫原下ノ町・上ノ町を進むと三ノ宮十字路に出ます

左側に鳥居が建っています、三ノ宮神社の鳥居 です。境内にはクスノキの大木も立っています

三ノ宮神社御旅所

十字路右角には 愛宕山常夜灯・地蔵尊・道標 「左 松尾嵐山道」

札場跡
この辺りに旅籠かわら屋があった。その周辺には、木屋・柴屋・白酒屋・油屋・種屋・うなぎ屋・小間物屋・塩屋等の店が並び、昼間でも三味線の音が聞こえた

道標

鳥居をすぎ分岐の道を、右に緩やかな坂を上っていきます

坂を上ったところ左から池に沿ってきた道と合流します

合流する左角に 

ここで、前述の三ノ宮鳥居の前に戻り、少し進んできた分岐を今度は左の道を歩きました

50m程先で再び分岐となり、左の道は三ノ宮八幡神社を通る 柳谷道 で街道は右(真っ直ぐ)を進みます。両街道を挟んだ角に新池があります

角に大きな 三ノ宮神社の石柱 柳谷道です

右に立派な 

小坂池を右に少し入った右の土手に 指差の柳谷道の道標

前述の合流点に出ました。左に小坂池に沿った道でなく、右の一段高い旧道

100m程進むと車の左側の竹藪の細い道を下ります

旧道は車の先を真っ直ぐ進んで、その先国道8号線のパチンコ店の南側に下っていたが、竹藪・墓地で廃道となっていますので左に迂回します竹藪の中は墓地の様です

墓地の一角に樫原宿の長州藩士三名の維新殉難志士の墓があります 殉難三士の墓

小坂池を左に見て街道右(北)の雑木林の中を少し上っていくと、樫原札の辻で戦死した長州集義隊殉難三名が地元の人によりここに葬られる
墓が旧街道より離れた竹藪に隠れるようにあるのは、その時内々に葬ったのかな

竹藪の中を下っていくと小坂池の横の旧道に出ます
墓入り口に立つ 石柱 「維新殉難志士墓在此丘上」

小坂のところの旧道から振り返ったところ池沿いの道、向かって左の竹藪を下ってきました

池を過ぎ少し進んだ先で、左からの車道が合流します車道を100m程右に折れた先で、国道9号樫原秤谷信号交差点に出ます、信号で横断して9号線を右に折れます。交差点真っ直ぐの道は、明治14年に開通した道です。
それ以前の江戸時代の旧道を進みます

国道を100m程進むと、左にパチンコ・スーパードーム桂店があります。その手前を左鋭角に上る坂道があります
パチンコ店の前から振り返ったところです。向かって右に見える竹藪へ入っていく上り坂の道です

坂の途中から国道9号線の左のパチンコ店を見る

坂を上ると風景が一変竹藪の中に入る旧道です

竹藪と言ったら失礼に当たります、整備された竹林の快適な道を上っていきます

暫く車も少ないしのんびりと歩きます

暫く歩いていくと右に地福寺の標示があります大枝中山町

少し先に地福寺への左への標示があるので入ってみました(寄り道)

元の街道に戻り暫く進みますと右手に 三ノ宮神社への参道があります

石段の参道を右に100m程入ると

三ノ宮神社

三ノ宮神社の横をさらに100m程北に入っていくと

淳和天皇御母陵

街道に戻り静かな里道を歩いていきますと、下狩川に架かる下狩橋に出ますので渡っていきます

橋から右手奥に 西山浄土宗称念寺

その先左に大枝小学校があります

大枝小学校の角で府道142号線に突当り合流右に折れます

合流した先200m程進むと左にセブンのコンビニがあります

コンビニの駐車場に 

更に100m程先右に 兒子神社 の参道があります

暫く進むと桂坂口バス停があります

すぐさきで信号交差点に出ます、南北の道路は桂坂中央通りで右手は上り坂です。交差点から右手の桂坂を見る

交差点を横断して西に進みますその先は沓掛の集落です

右手に交通安全町内一同 お地蔵さん

沓掛集落の右手には沈砂池がありますその先右手に、沓掛会館を見ます

沓掛会館の街道を挟んだ前(南)には 愛宕山大権組常夜灯

沓掛会館の北側には 浄土宗金輪寺 が見えます

少し歩くと右T字路の所、沓掛バス停です

すぐ先右手高台に 大枝神社

大枝神社を過ぎると右に 

さらに右手に 桓武天皇御母御陵参道碑

陵への参道

竹林の参道を入ります

桓武天皇御母陵 光仁天皇皇后

元の街道に戻り右手斜面に 愛宕山灯籠

その上に、大江関跡といわれる関明神の祠

大江関跡を振り返る

関跡を過ぎて暫く進んでいくと府道142号線は、左からの国道9号線に合流します

国道を重複して180m程進み左に小畑川が沿います。国道は大変車が多く危険で注意しますこの先で信号のない国道を左に横断します

正面に京都縦貫自動車の高架がありその西側には京都成章高校、正面は高校敷地内で正面入り口に扉があります
街道は右に折れます。老ノ坂峠への登り口の起点です

坂を上りながら右下に国道9号線、手前小畑川を見ながら進むこと100m程

十字路に出てバス停があり、右は国道の信号交差点が見える。石材店があります街道は左に折れます

高速道を潜り100mほどの先で分岐していますが、右の小田川に沿って緩やかに坂を上っていきます

左奥に京都霊園が広がっています

分岐から700m程小田川沿いに緩やかな坂道を進んでいきます

右側は小田川と高速道が並行して、左は大枝沓掛町の京都霊園です

やがて街道は右に高速道の新老ノ坂トンネルの入口が見えるところで、道は少し左斜めに方向を変えます

左に方向を変え数十m先で道は分岐しています

左の道は霊園内への道で、鉄のフェンスで完全に閉じられています。街道は右の道に入っていきます

分岐のところから振り返ったところです。向かって左が高速道が新老ノ坂トンネルに入るところ

右の舗装された山道を150m程登っていきます

やがて舗装道が終わり金網のフェンスで遮断されています。何のためか分からないが、よく見るとフェンスの右側に回り斜めに上る山道があります

老ノ坂峠に入っていきます

雑木林の中にしっかりした旧道がついています

明智光秀が夜、亀山城から京都本能寺への織田信長を襲撃した、老ノ坂峠越えです

峠の頂上あたりはかなり荒れています峠にはかつて 地蔵堂・茶屋があった

峠の頂上付近で、突然道路が左右に現れます。西部グリーンセンタ―への取り付け道路で、一般道路でありません

道路橋の下から振り返ったところですこの辺りに先日降った雪が残っています
旧老ノ坂峠

道路橋の下を潜っていきます。下りに入りますが荒れてかなり道が狭くなっています

峠を下ると間もなく舗装道路になります

左手に少し入っていきます、小山のような上に  が祀られています
首塚大明神

平安時代初期の源頼光と酒呑童子の伝説が残る(由緒書きが)

街道に戻ると左側に 山城・丹波の国分石(境石)かつては二本の国分石が建っていたようです

左の国分石の前から振りかえる。舗装になり峠から下ってきた、向かって右に入る道が首塚大明神へ

老ノ坂峠を下り始めて国境の立石があるところから丹波国で集落峠町があるが、といっても今は1~2軒の作業場のみです。かつては 峠の里といって丹波の産物の市場でもあり賑わった。旅籠五軒余り並び、煮売り屋・茶屋など店が並び、名物であった編笠餅も売っていた
資料では江戸期の宝暦八年(1758)には25戸、明治初年には38戸の戸数があったと記され。伊能忠敬が文化十一年(1814)測量の途中峠町に宿泊していて、本陣・脇本陣も記されているので宿場として機能されていたようです。当時を全く偲ぶことはできない

集落内で小さな川を渡る

老ノ坂峠町に当時の集落の様子を知る 愛宕燈籠が一基

川を渡ったその先に右に折れる分岐がありますが街道は左へ、右の道は新老ノ坂トンネルの上を越えて、国道9号線の老ノ坂トンネルの東の入口に合流する道です。街道は真っ直ぐ道なりに切通を進みます

すぐまた右に上る坂がありますが上で道は無くなります。街道は真っ直ぐ進む

切通しを抜けると下り坂となります下り坂の途中に 増井の清水跡があって、今は 題目塔 寛永八年(1631)建立があったようですが見逃しました。旅人は喉を潤したことでしょう

坂を右にカーブしながらの下っていくと、正面の京都縦貫自動車道の高架を潜ります

潜る手前で右上にはトンネルの入口が見えます

高速道で旧道は無くなっていますが、高架下を潜り左に折れます、上下線の間の道を200m程緩やかに上ります

突き当たりますので右にカーブして北側(京都方面)の高架下を潜ります

すぐ国道9号線に突当り合流します

9号線に突き当る手前に旧道の道があり、右の国道と並行して進めます。車の多い国道を歩かなくて助かりました

古道が残っていました、このまま保存していただきたいものです

国道は右側(北)を大きく左に迂回しており、旧道はその内側をほぼ真っ直ぐ進んでいます

国道9号線に出ます。街道は数十m右に折れて左斜めに入り明治十五年までの旧道に入ります。それ以後の道は国道と共に左に折れますが。明治十四年から厳しい老ノ坂峠を北に迂回した丹後宮津への道路改設工事が開始、小田川石橋、前述の京都成章高校正門前の橋から、小田川に沿って上りこの地点で旧道の南側に出て、この先の王子神社のところで旧道と合流する。現在の国道9号線に沿ったルートを開削した。
国道に出た道を少し寄り道、左に折れます、国道の右側を100m程整備された明治以降の旧道を進むと、鵜川に架かる王子めがね橋に出ます。(長さ27m・幅5.4m)明治十七年に完成。
鵜川に架かる美しいアーチ式の石橋は親しまれてきたが、時代の波に勝てずカーブでもあり危険で、昭和四十四年隣に鉄骨の橋に架けかえられ現在国道9号線にとして使用されている。  
その結果、前述の峠町の街道や宿場は人が通らなくなり一気に衰退した


国道に沿っためがね橋への道

残念ながらめがね橋の橋桁部分のアーチ状部分が撮れていない 王子めがね橋 と新しい橋

橋から国道9号線と右の鵜川、その右が旧道を見る

明治以降の国道9号線を少し歩いてみましたが国道の道幅狭いうえに歩道がなく車も多く危険ですので暫く歩いて、めがね橋まで戻りました

めがね橋から少し戻った国道を分岐して左に折れる旧道に戻り西に進みます標識が建っています

その辻の立て案内板 山陰古道入口(篠山街道)・占い石三軒屋へ 旧道を少し下り左(西)に大きくカーブし右の山裾を進みます

左にカーブした先の左の棚田を見ながら旧道雰囲気が漂う景色。ゆっくり味わいながら進みます

暫く長閑な田園風景を見ながら進みます

右に折れている辻に出ます、そこに案内板が立っていますが、いまいち判断に迷った

でも私がひねくれ見方をしたのだろう、素直に雑木の中に入ればいい方向的には右の道は違う

竹藪の中に旧道が通っています

雑木林の中の旧道を進むと右手に案内板が立っています

右の大きな杉の木の袂に、大きな石が横たわっています 占い石 この岩に腰を掛けて旅人が何か辻占いをした謂れです

右に川が接近したところ右に大木

占坂を下っていくと三軒屋に出ます、今は集落はありませんが、かつては老ノ坂峠への登口で、旅人の休憩地として茶屋が十軒ばかり茶屋が並んでいたと記されています。景色を見る限り思い浮かべることも難しい田園風景に変わっています

その先で川に架かる橋を左にカーブして渡ります

篠町王子地区を進む

街道右手で合流している川を渡ります

川を渡って250m程進んだところ

左から前述の、明治以降の道が合流します

合流した辻に 山陰古道入口の案内板が立っています向って左が 山陰古道、右が明治以降の道

辻から前述の川の合流している所を見る橋の辺りがかつての 船着場跡 おそらく川幅がもっと広かったのだろう

合流した左側には 王子神社

境内には名木 ツブラジイ常緑高木で幹回り5.23m・樹高28m

王子神社の前の明治時代の道と合流して街道を進みます

王子村から篠村への集落を進みます

途中、王子神社から300m程進んだ北垣内地区で古代の山陰道が右に分岐して篠八幡宮のところに抜けていたようですが、今は農道に変わりよくわかりませんでした

やがて右手の奥に 篠村八幡宮
元弘三年(1333)四月二十九日、足利尊氏は篠村八幡宮において、必勝祈願を願い鎌倉幕府に反旗を翻した。その時、戦勝祈願に矢を奉納し埋納した塚が境内裏手に残る

境内の

そして老ノ坂を越えて六波羅探題を攻略した
境内にある 乾疫神社

 矢塚
傍に、亀岡の名木 ツブラジイ幹回り4.47m・樹高27m

旗立楊尊氏公旗立楊の碑

この横を 古代山陰道 が通っていました

元の街道に戻り北西に進みます亀岡篠郵便局を左に見ます

街筋に旧家が残ります

右手奥に安詳小学校が見えるところで信号交差点を越えます

信号から150m程進むと、道幅が一気に広くなります。

広くなった道の先、信号で分岐しますので左の道に入る。真っ直ぐ200m程進みますとJR馬堀駅です

正面の山は、山上の尾根を京都へ歩く、唐櫃越道 ですビルの奥に見える山は愛宕山で、裏参道 が下ってきています

分岐して100m程駅方向(北)に進み、左に折れて西に真っ直ぐ進みます。馬堀駅近くから篠山迄40㎞程です。左に折れる手前右に馬堀公民館があります

公民館の北東側に 桑田神社

 西(左)に折れたすぐ右手に 臨済宗天竜寺派徳寿院 馬堀駅の南西200m程のところです

すぐ先の信号交差点に出ます、左にコンビニがあります。信号を越えたところ西川に架かる西川橋があります。

西川に架かる西川橋を渡ると、旧馬堀村から旧柏原村に入る、西川にはかつては土橋が架かっていました。ここからは、亀山城下町に入ります

西川を渡り少し進むと左に 常夜灯

その先左に 浄土宗念仏寺(お釈迦さん) 境内にある釈迦堂は清瀧山滋福寺という大きなお寺であり至徳年間(1388~)に兵火にあい焼失その後幾たびかの経過を経て、念仏寺が天正十四年(1586)創建された、その後釈迦堂が再建され仏像をおさめた

さらに西への街並み

柏原町から三宅町に入ると、年谷川(寺川)に架かる年谷橋を渡ります。かつては橋の左(南)50m程のところを渡っていました

橋より右手方向の景色と橋の西詰に立つ 千本松(野橋立)跡
亀山城下町の南東を流れる年谷川、かつてこの両岸の堤防上にみごとな松並木が続いていた。その風景を千本松と呼ばれるほどであったという。一説には亀山城の防御の一つとして、明智光秀が植えたともいわれる

年谷橋の西詰から振り返る

亀山城下は東西に延びている町で、出入口は五か所あった。城下の東から京口・穴太口・清水口丹後口・亀山口(篠山口)の五口であった。今歩いてきたところが京口です

橋を渡って三宅町を150m程進んだ十字路を左に入ると 曹洞宗天龍山昌壽院 本尊は阿弥陀三尊仏

鷹匠町と呼ばれていた標示、ここにはかつて楠正成の子孫が住んだといわれ「楠屋敷」と呼ばれた

街道に戻り80m程進んだ左への道を入ると 三宅神社

街道に戻り100m程先でクニッテルフェルド通りの信号交差点を横断します。少し進んだ左に  
八坂神社(祇園社)

神社のすぐ先から三宅町の街並みを振り返る、藏や虫籠窓のある旧家が並んでいます

東堅町から西堅町にかけてお寺が集まっています

左手(南)奥に 臨済宗聖隣寺

聖隣寺の西側に 曹洞宗幸雲山宗堅寺
明応元年(1489)長徳寺として創建、その後、亀山城主の代々の帰依を受けて宗堅寺と改名されて現在に至る

街道に戻り街道北側の 浄土宗名越派最勝山称名寺

境内の伝 和泉式部之墓
小泉村(東別院町小泉)の清泉寺より江戸時代に移転されたもので、現在、清泉寺には和泉式部の娘、小式部内侍の墓がある

鐘楼 1748年創建

西堅町の街並み

宗堅寺の西側にある 曹洞宗嶺樹院
亀山藩主菅沼定芳の母が先祖の菩提を弔うために、慶長八年(1603)に建立。母の戒名より寺名となる、東隣には夫、定盈の菩提寺宗堅寺がある。ともに御土居の内側に並んで創建された

街道を少し進むと十字路に出ます。西堅町と京町の境で右に折れます

十字路を右に折れる左角に 古世地蔵堂 横町のお地蔵さんと呼ばれ親しまれてきた。平安末期の武将、源頼政の守り本尊と伝わる「矢の根地蔵」が祀られている

地蔵堂の前に立つ 道標
「右 穴太寺 そのべ 能勢妙見 ささ山」「左り 京 ふしみ」 「文化十 京町 大乗妙典行者 酉年□」「南無阿弥陀仏」

左に地藏堂を見てすぐ隣には老舗店の徳和菓子処三吉堂があり、50m程北に横町通りと呉服町通りが交差する十字路に出ます。十字路を越えたすぐ右に、丹山酒造があります

横町通りは短く120m程で十字路を左に折れます。かつては十字路の正面は 亀山城の古世門 がありました

横町通りは右から進んできて、十字路に出たところです、写真は正面右角で 古世門跡、亀山城跡は向かって左へ

街道は十字路正面の古世門跡から左折れして、旅籠町通りに折れます

旅籠町通りの街並み入に入る

旅籠町から新町の十字路まで250m程の間が 宿場の中心地で、本陣・脇本陣・人馬継問屋・旅籠等が並んでいた

街道右の亀岡病院のある辺りに 本陣 があった、高野振り返ったところ

すぐ先の新町の十字路を右に折れます

十字路真っ直ぐは柳町通りです。写真は十字路を右に折れるところを振り返ったところです

新町の十字路を右に折れる80m程で正面に 亀山城の大手門 がありました
大手門前を左に折れます。そこには 高札場 が立っていました。大手門前から新町を振り返る

大手門前を左に折れて本町の本町通りを街道は西に進みますが、大手門前を真っ直進むと現在亀岡中学校・西には亀岡小学校があります。大手門のすぐ北東にある 形原神社

御勘定所跡

高札所跡

本町通りを進むと140m程で亀岡小学校を背にして 日蓮宗本圀寺派長栄山法華寺
寛正五年(1464)開山。亀山城主小早川秀秋の保護を受けて現在地に移る

西隣のお堂の前には、弘法大師常夜灯

さらに西隣に 浄土宗霊松山壽仙院 元亀三年(1572)創建されたと伝わる

さらに西隣に 法華宗鷲林山本門寺
門前東向きに建てられた鎮守堂には大黒天が祀られている

街道に戻ります、西に本町通りをすすむとT字路となります

T字路を右に折れると紺屋町へ進む

100m程北に進むと右手に重厚な建物 関酒造

街道向かいに道を少し入ると 曹洞宗円通寺

円通寺を西に進む道が穴太口です。円通寺前から90m程先でT字路となり左に折れます

紺屋町を振り返ったところ

左に折れて50m程ですぐまた右(北)に折れます

右に折れる左(東)側奥に 秋葉神社 
神社の鳥居の傍に立つ、愛宕燈籠「是より左 妙見山ほうき谷越 廿一ばんあな寺」天保四年(1833)の銘で、道標を兼ねている

北に進んですぐ左に 浄土宗鏡智山大圓寺

お寺のすぐ先右に 愛宕山灯籠

信号はないが結構広い道路の交差点を横断します。交差点右手前角にローソン

数十m先の分岐を右斜めに進みます

左の角に 子安地蔵尊 この辺り三年坂と呼ばれた

右斜めに60m程進むとT字路に突き当るので左に折れます北町です

北町の街並みをお城を背にして北西に真っ直ぐ進みます

160m程北町を進むと、信号交差点手前の緑橋を渡り信号を横断する

交差点を横断した先から振り返ったところです

信号交差点より100m程進んだ左に 浄土宗安行山西光寺

西光寺のすぐ先のみゆき通りの信号交差点を横断します

安町に入ります

みゆき通りの交差点を越えて100m程先で左斜めに方向を変えた右に洋菓子店シオノがあります


亀岡城下は今歩いてきた通り、城下の南側を中心に、東から西にかけ街道沿いに沢山のお寺や神社を配置して、城下の守りとしていた。また街道も鍵の手が何重にも造られ町を形成しています。明智光秀の城下作りが優れていたのでしょうと感じました

一日目本日はここで終了して亀岡駅に戻ります

  



   

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