2012年10がつ6日 1日目
2012年10月24日 2日目
岸和田駅近くの紀州街道分岐~葛城山越え~JR和歌山線大谷駅近くの大和街道分岐
JR高野口駅5時35分にのり和歌山駅~和歌山市駅~南海で岸和田駅まで、日も短くなったので果たして完歩出来るか心配だが何もトラブルがなければ十分17時には着ける距離である。
岸和田駅8時スタートする、岸和田のダンジリ祭りが今日山手で沢山の人出とダンジリがでて初めて見るがさすが迫力がある。聞くところによると海側の祭りは終わっているが今日明日は山手側であるらしい。初めてのことなのでつい見学に時間を費やしてしまった。
また葛城山から和歌山側に下っていくところで、旧道の山道を歩いていたが途中で道が分からなくなり一時パニック、再びきた道を上り元の山頂のところに戻ったが1時間ぐらいロス時間となった。でも結果的には勇気ある撤退と判断したことがよかったと思う。あのままどんどん山中に入って迷うととんでもないこととなった。時間も2時回った、早く山を下りなければ暗くなるので急ぐ。
山の中は急ぎ足で景色の見る余裕もなく時には駆け足で下る。結果最終的には上広口に下りたかったが間違ってしまって止むえなく笠田駅に着く(2回目で歩きなおし)。5時40分のJRで高野口駅まで帰る。あたりは既に暗く山の中で暗くならなくてよかった。上広口の大松別れ辻から大谷駅まで再び日をあらためて挑戦する。
岸和田駅 8時スタート
笠田駅着 17時20分。
53.828歩 32.29km 2370kl
南海岸和田駅
岸和田駅から歩いて西方向へ、紀州街道に出て岸和田本町の交差点に出る
岸和田市役所が正面に見える、府道204号線の岸和田本町交差点手前の紀州街道との分岐点である粉河越道からスタート
起点の右角に新しい 道標と岸和田市道路元標 「右 紀州街道 左 こなから坂」
紀州街道の道
岸和田本町交差点からスタート起点を見る
204号線を渡り市役所を右に「こなから坂」を上る、こなからとは「小半」で4分の1のこと。坂の勾配が4分1であったから
右に立派な岸和田市役所その向こう側に岸和田城。かつての街道はこの道ではなかっただろうここは岸和田城内に当たるから。
こなから坂を上る、坂を上ると右に大賀医院がありその手前の十字路を右に折れ堀の傍を進んだ
大賀医院を越えた十字路を右に進んだ道。やはりこの道もかつては城内で街道としてはなりたたない
右に 岸和田城
平城で本丸・二の丸の石垣と堀が残る。江戸時代は松平康映から1640年、岡部宣勝が入場し明治まで続いた。
天守閣を背景に堀沿いにある 千亀利不動明王、無量観世音菩薩
天守閣の東側にある 岸城神社 岸和田城三の丸に鎮座している
正平17年(1362)に京都の祇園社を勧請したのが始まり。岡部氏の崇敬篤かった。
すぐ隣には、岸和田戎神社
堀沿いの道
五風荘 に突当り左に折れる岸和田城の濠端に佇む「五風荘」は城主岡部氏の新御茶屋跡に建てた、和風建築の南木荘(国登録)昭和初期の建築
左に折れると南海電鉄本線の高架にでるので高架に沿って少し左に曲がる。
かつては南海線が岸和田城の外堀に当たる。神明門があってそこが粉河越道の起点であったようだが。今は何も確認できるものがない
高架に沿って200mほど先で、岸和田駅南交差点手前50mほどで右に高架を潜る
高架を潜り南への旧道を進む
暫く情緒のある街道らしい上町集落の中を進む。旧新の大きな家が建ち並ぶ街筋
上町町会館手前の信号を渡り進む
左は今池公園かつては同名の溜池であった公園を見て進む
公園と街道はさんで右に 祠
やがて第二阪和国道の高架を潜る
第二阪和の高架の先暫く進むとJR阪和線の手前で左からの広い道路39号線に出る。
合流して踏切を越える。この辺りはかつて「牛バミ池」という溜池であった。踏切のすぐ左に東岸和田駅かつての旧道の雰囲気は一変している
踏切を越えた右角に小堂 道標 「右 かつらぎ 左 土生村 道」
踏切の左の、東岸和田駅
少し先一つ目の信号交差点で左に折れる
左に折れた道
左に折れて数十mで右の土生街並みに入る
だんじり祭りでハッピ姿の老弱男女が目立つ
少し先で左右に通る、熊野街道と交差する。熊野街道と交差し旧土生集落にはいる
その先の街道筋広場に沢山の人出だ各地区でこのように引手の若者が集まるのだ、揃えの白ズボンにハッピなかなか見ていても気持ちがいい
その先街道は変形の五叉路に出る、正面の魚屋の店先角に 道標が立つ。
(南)に折れるのが水間寺方向の道、三ヶ山道、左(北東)ほぼ真っ直ぐへの道は泉光寺道、粉河嶺越道は右から二つ目の筋を右斜めに進む
角に立つ 道標
正面「すぐ泉光寺 西ハ岸和田 道」
左面「東 槇尾寺牛滝」
右面「南 流木水間寺大木」
泉光寺は東1㎞ほどで臨済宗の寺で岸和田藩主岡部氏歴代の墓所。また粉河嶺越道は今は右斜めの南東方向へ進むが、かつては泉光寺方面に進み先で南東方向に進み今の道に合流していたと資料にある。
五叉路から少し西に⦅寄り道⦆右に少し水間寺方向の三ヶ山道を進んだ左に浄土宗 西向寺
境内に天然記念物の西向寺の いぶきの老木が見事
西向寺の少し東南に浄土真宗金清山
更に南に 土生神社 寛治四年(1090)北野天満宮から分霊を勧請
神社から三ヶ山道を戻る途中右に 地蔵尊
祭りの人たちもいなくなった五叉路に戻り街道を進む
街道は数十m三ヶ山道と同じように右に曲がると、すぐ右に分岐して曲がる三ヶ山道と分岐する辻があります
三ヶ山道が右に入るところ
真っ直ぐの旧道を進む
土生の集落を抜けると右からの新道と合流する
新道と合流して左の土生中学校南交差点を渡り新道を進む
左の中島池の堤の下の道を進む
池が切れた信号交差点でまただんじりと遭遇した、何地区かが集まっているので沢山の人出だ
この信号交差点の引き回しを丁度見たがなかなか迫力がある
信号から振り返ると、新道に沿って歩いてきた左側に、小川に沿って旧道と思われる道が残こっている。旧道は途中池の手前、左の辻本石材店の先で消失している。
振り返って全体を(新道と旧道)見る
各地区でこれだけ人が集まるのは、地元でいなくても祭りの時だけ帰ってきているそうです。
交差点を廻るときの写真
神須屋南交差点を横断して進む
暫く進んだ先で右に入る斜めの道があり、ここの八田町への旧道を右に進む右、矢代寸神社がある
八代寸(やしろき)神社
右に入る旧道の左角に 道標 「右 忠臣捕鳥万墓、義犬」墓はここから西南、大山大塚古墳、義犬塚古墳用明天皇二年(587)物部守屋に仕えていた捕鳥部萬との伝承で蘇我氏に滅ぼされるがその時の義犬との話が残る
祭りで道標に紅白の幕が巻かれている
神社の前の街道
すぐ左に 祠
八田の集落を進むと集落内左に大きな民家
その先十字路、右に塚本商店の所で左斜めにカーブ
車道の交差点にでるが真っ直ぐ横断すると土生滝町に入る
土生滝町の集落を進むと左からの道と合流して進む
やがて道は分岐する、右への道は水間寺へ、街道は真っ直ぐ
またも土生のだんじりに会う
右の角に 道標 そのそばには三体の石仏を収める 辻堂 「右ハみつま 左ハかつらき」
その先で左からの新道と合流してその道を暫く進む
土生滝町を緩やかに上りながら静かな街筋を進みます
少し進むと右に下る道が分岐するがどちらの道が旧道かわからない、右の道を進むと右は神社への道で多分左の車道と思うが
左に170号線の外環状線の高架が見える
分岐する道左の坂を上る
左に大きくカーブして外環状線の上を陸橋道で渡る
陸橋道の向こうに鳥居が見えてくる、意賀美神社(おがみ)創建年代は不明だが境内の手洗盤に天平四壬申年八月吉日の銘あり天平四年(732)であり古い神社であることが分かる。
雨降りの滝 神社の前に流れる津田川にある滝で日照に神社に祈ると雨が降ったという
神社の境内から坂を上ると39号線に出る、神社は車道の段丘崖下の森にある
少し先左に、神於山の登山口
ここから河合町まで津田川に沿って蛇行しながら坂を上る、歩道はないが比較的車が少なくていい。暫く歩くと
岸和田市河合町に入り船渡橋の所で道が分岐するので、新道を右に分かれ津田川の右岸沿いに河合集落にはいる
分岐点の橋の袂の角に道標と祠、道標の下部はコンクリートに埋め込まれている貴重なものを心無い
河合集落を暫く進んだ先で左から 槇尾道(牛滝街道支線)が合流してくる、三昧川の田五郎橋を渡り40m重複して歩く。
槇尾道との合流点に二基の 地蔵道標が祠に収まっている 「右ハ 牛たき 左ハ まきのを」
ここで少し⦅寄り道⦆をして合流点を左に三昧川を少し上流に歩くと
左に入ったところからの合流点
左高台に浄土宗 長得寺和光院
お寺の隣に 東葛城神社 創建は不詳、祭神は菅原道真本殿は江戸時代初期の建物
街道に戻り40mほど進むと道はさらに分岐する。右への道はここで槇尾道が分岐して水間方面へ。街道は左の道へ曲がる
分岐する角に、石柱道標と地蔵道標が祠
石柱道標は 「弘法大師・………」 正右左裏面と地蔵道標 「右 水間寺 左 かつらき」
水間方面への槇尾道、河合中央橋を渡る道
街道は河合中央橋を渡らず左に折れてすぐ右に河合橋を見て国道170号線横断して津田川沿いに進む
進んでいくと右に 祠
かなり坂を上りながら山間深く入ってきたのが感じられる。前方に阪和自動車道の高架
高架を潜る手前、右から新道が合流し左へ
高架を潜った先すぐ奥畑橋を渡る
砕石場を見て新道を進んでいく
右に大きくカーブする左に役行者の石像を収める 小堂 大きな台石の上に役行者の石像と青面金剛の石造
暫く進んだ先で八王子橋を渡る
更に暫く進むと相川口バス停手前で左に分岐する右側の細い方の山道がある、ここを進めば牛滝道の大沢集落抜出る
分岐する左の角に小詞に収められた 道標二基と大正10年の石柱型の道標 小型 「右まきのを 左きしわだ」
地蔵型 「右かつらぎ道 左うしたきみち」 石柱型は細かく沢山の字が刻まれており省略
大沢集落への山道
やがて左にカーブして小さな相川集落にはいる
左にカーブする左角に 碑
相川の集落を見る
車道を左に分け右に折れ橋を渡り集落にはいります
緩やかに集落内に坂を上っていきます
右に浄土宗 安福寺
お寺の先突き当たるので左へ
すぐまた道なりに右へそして川を渡ると車道に出るので右へ
橋を渡ったところから振り返る
橋の先で車道に合流するところ
合流したすぐ左に 四基の灯籠が並ぶ八大龍王と刻んでいるのもある。葛城山頂の葛城神社に関係すると思われる
更に坂を上り進む
車道は橋を渡るが橋の手前に地道の旧道が残っている
旧道を入っていくと左に 祠がある
祠の先の道を進むが途中で廃道となっている。旧道はこのすぐ先で右に折れて小さな谷川を渡り新道に合流していた。止む無く引き返す
反対側に出て旧道の出口を探る。旧道跡が残っています
旧道が新道に出てくる辻を振り返る
暫く進むと塔原口バス停がある
ここの分岐は真っ直ぐ進む、右に橋を渡り緩やかな坂を上ると蕎原~秬谷~大木に至る、内通谷を抜ける道
後で資料を見て分かったのだが左手に小さなお堂があったようだが見落とした、堂内には弘法大師の石像を収めている。台石の銘文より遠州の回国行者による回国碑として作成されたもの。また堂の脇に地蔵道標・角柱道標・五輪塔があって、
地蔵道標は 「右 大木 左 葛城」、角柱道標は 「是ヨリ葛城宝仙山まで三十六丁」と刻まれ、延享保五年(1748)に立てられたもの。貴重なのを見逃してしまったので、先達の資料をお借りした。
街道はその先で葛城橋を渡る
葛城橋を渡りすぐ車道を左に分け右に入る
右に入ると塔原の集落で粉河嶺越道の一番奥の集落となる
集落内の旧道
旧道を抜けると左からの車道と合流する。その手前右に 灯籠 車道に出て右に折れる出たところが塔原バス停
塔原バス停前から橋の手前で道は分岐しているが新道は橋を渡って左へ。旧道は右の川沿いに沿って上る
少し先から振り返る、民家の左から出てきたと
いよいよ本格的に登山道に差し掛かる
集落も無くなり真っ直ぐ山道となる
少し先で分岐しているが真っ直ぐ右の道を進む
竹林の気持ちいい道
暫く上ったところで分岐する。
角に自然石の 道標 「右 かうや こかわ 左 やまみち」
新しい 道標 「右 葛城山 左 本谷林道」
ハイキングコースなのだ単車は当然走らないようにしてほしい
新しい三千二百米の道標この辺りに旧水間道が合流していたようだが今では完全に廃道となっていて道も痕跡がない
素晴らしい道、写真で想像してください
急な山道を登っていくと蕎原からの水間街道の終点の分岐がある(水間街道参照)
旧水間街道が合流していたところから200mほどで現在の合流地点。ここに大正二年銘の 地蔵道標が立つ
蕎原方面の遠望
しっかりした山道で歩きやすい
二千四百米の道標
枇杷平
厳しい急坂を登り暫く尾根道を進むと平坦な部分にでて両側に 二基の燈籠が建っている、ここは一里塚跡といわれている。山頂まで二千二百米、常夜灯は天保九年(1838)銘ここから一部で新しくつけられた林道と重なる部分があるが、途中に町石が一部残っている。
常夜灯には葛城山大龍王献灯と刻まれている頭部欠落している
二十丁石・二千二百米の 道標 新しい道標と古い道標
ここには完全に単車止めがされている、当然でこの先ブナ林も控えているのだから
坂の上で車道に出るが横切って階段を上る
新しい二千米の道標を見て横切った前方に階段があります。クマザサが生い茂っている
階段の先の地道を上っていくと再び舗装された車道に合流
ガードレールの切れ目より車道に出て車道を少し歩く
新しい千八百米の道標・千六百米の道標を見て進んでいきます、やがて分岐がありここで車道は左へ、再び山道の右へ入りブナ林を通る
明るくて最高の道を一人占め
千四百米の道標
和泉葛城山の森とブナ林
ここは海抜620mで塔原は250mです。この辺りまでのもともとの森はシイやカシなどの常緑広葉樹でできた森です。今ではスギの植林地やアカマツ林になっていますが、いっしょに生えている樹木には、コジイ・ウバメガシ・アラカシや・タラヨウ・カゴノキなどの常緑樹が多くみられました。この辺りからもう少し登るとシデのなかま、タムシバ・ウリハダカエデなど、少し高い山に生える落葉樹が多くなりやがてブナ林に入ります。
最近では日本各地のブナ林が伐採されその面積が減っています。特に太平洋側のブナ林はごくわずかしか残っていません。和泉葛城山のブナ林は日本全国のブナ林とくらべてもとても大切な森です。このブナ林は1923年(大正12年)に、国の天然記念物に指定されています。四季を通じて美しいブナの森を大切に見守って下さい。(岸和田。貝塚市教委)
ここに車止めをしているが心無い人なら二輪で入れそうなので、もう少し完全にしたほうがいいと思う、自然の山を守るために。
いよいよブナ林に入る
山頂まで千二百米の道標、千米の道標を過ぎていく
ブナ林を進んでいきます、やがて山頂まで八百米の道標が過ぎ山頂に近づいてきた
ブナ林ががまだ続いています
山頂から600mほど下には「玉冷泉」と呼ばれる清水がある存在を示す 天保四年の道標 「玉冷水 是ヨリ拾五間入志ミづ阿里」
六百米の道標
案内標示が立っている
ブナ林綺麗だ
古い四丁石と新しい四百米道の道標
見飽きることのない景色
ブナ林を保護するための柵でもあるし、柵がなければ多分道は無くなるだろう
山頂は間もなく最後の急な石段を上れば山頂の葛城神社へ、初めて一人の登山者に会いました
大正12年国の天然記念物に指定された当時ではブナ林の面積は約8ha、本数は直径30cm以上が1800本とされていましたが、最近の調査では、指定地外の生育面積も減り、本数は直径30cm以上が180本程度になっている。ブナ林内が乾燥し次の世代なるべき若いブナの本数も少なくなっている。現在保護のため岸和田・貝塚・文化庁・大阪府が努力していると書かれている。こんな素晴らしいブナ林をどうか守ってください
山頂の 葛城神社の鳥居
鳥居の傍の両側に鎮座する獅子
像の袂に 永明燈・・ 石
階段を上り進む
鳥居を上から眺める
葛城神社
葛城山石宝殿附玉垣 有形文化財
葛城山は海抜857m紀泉国境中の最高峰にして、西に和泉平野、はるか大阪、神戸、を遠望、大阪湾から淡路島、四国の連山、六甲の山々も眺望できる。東に紀ノ川、正面龍門山の彼方には霊山高野山が望まれる。
葛城山は今から1300年余り前一言主命が山頂をきわめられて以来雄略天皇が狩猟され、その後修験道の祖として知られる、役の小角が山頂を修験道場として修業すること三十年霊術を体得したと伝えられる。
近世に入り岸和田藩主岡部氏により社殿をつくり葛城一言主命八大龍王を祀ったといわれている。以来雨乞いの神としても尊崇され登山参拝する人が絶えない。
八大龍王神社
山頂の展望台
山頂の広場のここまで車でも来られる何故車道を作り開発するのか、季節ともなれば車で溢れるそうだ。一方天然記念物となっているブナ林を守ろうと何か矛盾している行政、これだけブナの木が減少しているのだから早く手を打つべきだ。
山頂より100mほど東に下ったロータリー、左から牛滝街道が登ってくる
葛城街道は右へ下る
車通行止めの柵がある道を東に入る、車道は右に下りていく道がある
少し坂を上る
NTT無線塔の裏側の縦走路を進む
写真には写っていないが通行不可の柵があるにかかわらず、バイクで凄い爆音をたて森の中を我が物顔にスピードで走っているのに出会う、登山者の人と会ったが注意してと教えて頂いた。本当に森を破壊する、危険でもあるし行政は何もしないのだろうか取り締まりを強化してほしい
道は分岐して真っ直ぐ進むと縦走路で鍋谷峠への道、街道は右に下る
枝切が綺麗に整備で来ていて足元まで陽が入る
どうも道が東側の下り道を歩いてしまったようだ、どこでどう間違えたのか車道に出てしまった。
修正が付かないので止む得ず鉄塔を目指して山道を引き返し元の山頂に出て車道を下る。かなりの時間をついやしたが間違って分からない時は、これも勇気ある撤退と自分自身の規則としている。
鉄塔を目指して元の道に戻る
車道を下ります
かなり下って来た左上を見ると、左から三つ目の鉄塔辺りからこの辺に降りてくるのだろう、写りが悪くてよく見えないが
下って行くと車道左に道が降りてきている、多分この道が正しいのだろう。わかっただけでも満足
正しい旧道を逆に登っていきます。
少し逆に歩いて登ってみたがいい道だ、時間があればもっと行くといいのだが時間的に無理で、山中で暗くならないよう細心の注意が必要
でもこの道の先、頂上の何処に出ているのだろうか
元に戻り下る、この道は一応街道だ車道でもあるが殆ど車と出会わない
やがて三ッ塚とよばれている出合辻、右の車道は名手への道、左が街道、真中の道は成高峯(809m)への登山道で正面の山
真中の道の表示、成高峯天空の村
左の道を下る舗装はされている。右の成高峰の東側の斜面を下ることになる
和歌山側は特にあまり目印もなく坂を下るので、写真で想像してください
左手に葛城山の尾根続きの大石ヶ峰や小堂峰等が下津川の深い谷を隔てて望ことができる。
気持ちいい道道を下って行きます
暫く下ると大タワに着く、大タワも四つ辻となっていて
古い道標が頭部だけが残っている。「東かうや 西こ川 南ざい所 北うしたき」真っ直ぐ進むと高野山。
南に細い山道を下れば穴伏川中流域の村々へ。今来た道はかつらぎ山から牛滝へ。また中尾、切畑を経て中歳、粉河へとの道。
再び尾根の東側斜面を緩やかにくだっていく、穴伏川源流の村々や左後方に三国山初めの山々、神野山から灯明岳にかけての峰々が眺められて雄大そのもの、歩いていても疲れを感じさせない風景である。時間があればもっとゆっくり歩いてみたいがかなり時間が無くなってきて焦るので速足で下る。とにかく大松の別れまでは急がなければ。
辻には 道標が立っている、最初の辻にの道標 「左 うしたき 右 まきのを」
遥かさきに山村風景が見えてきた、ようやくと言った気持ちでもまだまだ遠い
次の辻にも 道標 「左 かつらぎ 右 やま」
前方が開け柿畑が多くなってきた
左の道を進む、絶対道の間違いが許されない里に着くまでは
かなり降りて来ま紀ノ川や民家が望める、前方の山は龍門山で左の端が高野山。視界が開けた
やっと 大松の別れの辻 につく右側に弘法供養塔などが六基並ぶ左後方には灯明岳その下には堀越観音の堀越集落が眺められる。
そのうち二基が 道標「牛滝六十丁」寛保三年(1743)銘「
かうや山六里 うしたき二里」享保九年(1724)銘高野山参詣道であったことがわかる
この先すぐに道が分岐して、左の道は少し狭く一気に坂を下るが右の道はそのまま道なりに、ここで間違って右の道を進んでしまった。かなり下まで降りてしまって気が付いたが遅かった。以前歩いた父鬼街道の穴伏しへ出る道に何とか下り。父鬼街道にでていったん帰宅する。
ここから道を間違えて下る、旧道としては間違っていないが、今歩いている粉河越道としては違っている
紀ノ川を真っ直ぐ南に見て下るのを西に歩いて間違いその時は気が付かなかった
西へ進みながら下った
柿の実が熟して色づいている
下の山間の道は父鬼街街道だと思う
名手の町方面
どんどん下って行きます
ようやく名手上に出て以前歩いた父上街道に出た
父鬼街道は歩いているのでここで一旦中止し、JR西笠田駅への道を歩く
粉河越道 1日目終了
2012年10月24日 2回目
大松の別れから大谷駅近くの大和街道まで歩く
前回間違って以前歩いた父鬼街道にでて笠田駅へ降りて行ったので、今日はあらためて大松の別れまで行って大谷駅近くの大和街道の佐野の分岐点まで歩きます。約5キロ。
笠田駅前から8時50分のかつらぎ町コミ二ティーバスで上広口までいって、先日の葛城山への道を逆に30分ばかり上り、「大松の別れ」、のところまでの急坂を歩く。
上広口バス停前から 9時10分
大松の別れ 10時10分 スタート
大和街道との分岐辻 13時 完歩
20,067歩 12,04㎞ 865kl
下り道は枝分かれが多く迷って何度も道を聞く。その間1ヶ所藪道の旧道があったが山仕事の方に聞いて何とか通過、ほぼ廃道となっていた。現在は全く人は利用していない道とのお話でした。納得私を最後に消滅するだろう旧道。
大松の別れの「弘法供養碑・道標」 スタート再度
上から下りてきて右の供養碑の所で右にカーブする
絶景が広がり高野山も見えます
大松別れ辻から東に柿畑の間の道を進む(前回歩いた道と同じ)
右に一軒の家があるその先
鋭角に曲がり下る道があるのでそこを左に曲がる。かなり鋭角で急坂、前回は真っ直ぐ進んだ、大松集落へ進むこととなる
下から見る、十字路があり左に石垣の家が見えるが真っ直ぐ進む
柿畑を見ながら下っていく
右の道を進む左は墓への上り
上り口左にお地蔵さんが並ぶ
右が開けて景色がいい
ミラーがあってその先左への道があるが行き止まり、注意
右、真っ直ぐ進む
少し広場になっている右にカーブ
ようやく民家が
右手に紀ノ川方面の景色が広がる
つるし柿の作る工場で何人か作業されている、道は手前左への道でなく、工場の向こう側を左に曲がり下る。右にミラーがある
工場を左に下る旧道、吊るし柿を作業している工場を振り返る
下っていくと左にカーブして道が右に分岐する、街道左に祠、その祠の前を通り坂を上る
この辺り街道を辿るのは難しい、多分違っているかもしれないが、特に目印もないので仕方ない
鋭角に左に曲がる
左に鋭角に曲がる辻を見る。左上から下ってきた
下ってきた先で、左に鋭角に下りながら曲がる
ガードレールを右にして下っていく
右下にトンネルの出入り口が見えています
右の道
左に干し柿のつるし台がある横を下るそして左にカーブして下る
この下の民家で大きな放し飼いの犬に行きも帰りも吠えられ飼い主に繋いでくださいと言ったが無視された。誤りもしない、犬もそうなら飼い主も非常識。
左にミラーがあります大きく右にカーブする
右に集落
左にカーブして下る
下から下ってきたところを振り返る
更に坂を下って行きます
左にカーブするところ右に 石造りの祠
父鬼街道が左右に通る(以前歩いているので参照)、上広口バス停、11時10分に着く。
朝ここから大松別れの辻に登った。結局往復したことになる。
上広口で父鬼街道を横切って穴伏川を渡り再び古道に入る。父鬼街道を右に行くと、前回歩いた文覚井の前を通り西笠田駅近く穴伏集落に入り大和街道に合流する。
父鬼街道を横切って穴伏川橋を渡る
穴伏川の上流(左)
穴伏川の下流、やがて紀ノ川に合流
川の先少し狭い旧道を進み最近完成した新道を横断
下って来た旧道方面を見る
新道を横断して右に曲がり坂を登り始める左に 大威徳明王の祠
坂の途中よりもう一度、葛城山方向を見る下ってきた道が見えてる
蛇行しながら旧道の急坂を登っていきます
かなりの急な坂を一気に標高をあげます
広口地区からまたかなり標高が高くなった
未練がましいがまた同じように振り返って葛城山からの道を見る。でもこう見てみると結構な道のりだとわかる。
手前の山間の道は父鬼街道
左に曲がる急なカーブ、前方に先ほど上から見たトンネルが見える
急な坂を登り切った右に作業小屋がある。ここが名前はないが峠であったようです
間違って小屋の所右に折れて車の横の道を登って行ったが、途中で柿畑で作業していたおじさんに道を聞くと間違っていた。旧道は右に折れず真っ直ぐ坂を下るとのことだが、果たして下の舗装道まで行けるか分からないよと教得て頂いた。また下って行くと街道完歩出来ないから、行けるところまで行ってみようと下って行きました。
私も躊躇したがここまで来たからには迂回路も分からないので行ける所まで行こうと腹を決める。下り口から荒れている
これからの下り、マキノタワと呼ぶ真っ直ぐの道を下る、道の痕跡は残っているがすでに下っていけるか心配になって来た。心配なのはまだ10月だから、私の嫌いな蛇が出ないかが心配で出ないよう祈るしかない。
大変な旧道のスタート
まずは陽が入らないので薄暗いし足元が悪い、薄気味悪い道だ。
途中少しましな旧道が残る前半はかろうじてこのような道を進む、かつて舗装がされていたのか少し道が残る
ほとんど道が無くなって来た
掻き分けながら道の痕跡を進む、
何とか道跡が残るところもあり、前が明るくなってきたので行けると思った
後半ほぼ終わりに近づいた時唖然とする、竹笹やヤブで完全に道がなくなっている。ここまで来ては戻れないし、この先道に出るまで少しだから突っ切るしかない。
竹笹の隙間を見つけて無理やり進むもう無我夢中。ただ余り右に進むと谷になっているので注意、結果的にこの先も大変だった。この前の笹や藪を突き進んだ。
なんとか笹藪を抜けると今度は前に水道タンクだ現れた。タンクの向こうに道が見えたが、そのタンクを抜けてどうして道に出れるか悩んだが、どのようにして抜けたか夢中で今でもよくわからない。
今考えると引きもできず、前にも進めず切羽詰まった状況であった。もう街道歩きでなくなっていた、その後の街道歩きの反省材料となる。
下の林道に出たところを見る、タンクの手前に抜けてきた。 万歳\(^o^)/折角の旧道少し手入れすればいい道になるのだが、行政もここまでは手が回らないだろう。というより知らないだろうし費用をかける必要もないだろうと思う
多分、間もなくこの旧道跡も自然に返って忘れ去られることだろう。
歩けて良かったと思ている。
林道に出て左に下っていく。後で地図を見ると、上の小屋から真っ直ぐくだってきたが、小屋の所で右に行く道が迂回路の林道でここに出てくる道があった。
坂を下る途中で左山側からの谷川で道がさえぎられる、左に迂回する
右下に坂を下っていく林道が見える
左に迂回して橋を渡り大きくUターンする
Uターンする道
少し下っていったところで、再び橋を渡り谷川の右側に出て下る
その先で道は右への道と分岐するが真っ直ぐの旧道を進む。この辺りは民家もない広浦地区
更に小さな谷川を渡ったところで道は分岐するが左に谷川を見て左の道を進む
暫くは左の谷川に沿って道なりに柿畑の道を下る
もうかなり下って来た、この先で分岐する左の道を進む
農道の高架橋を渡る農道まで来た民家も多くなりもうすぐ
道も広くなり、紀ノ川の対岸の山も近づく
枝道に出るが左側を進み、川とほぼ平行に進む
ここの分岐も左へ下る
ミカン柿畑が続き左に川が迫る
前方に京奈和高速道が建設中
高架工事中の中の道を下る、左にカーブして川に迫る。高速道完成した現在、果たして道はどうなっているか
川に接近して左に正一位葛城大神の鳥居と祠
下ってきたところ
川沿いに進んで下るところを振り返える
やがてJR和歌山線の鉄橋が見えてくる
鉄橋を潜り更に川沿いに進む
川沿いに道から分岐する右への下り道を進むそしてそのすぐ先でまた分岐する、どちらでも直に大和街道に出る
付近は大谷地区の田園風景
やがて、大和街道の東西に通る道に出る、合流地点より振り返る
大和街道沿い、私が出た辻より少し西に明寶山 明光寺(大和街道の西側にその間100mほど)
大和街道に面した正門
お寺の東側の道を少し北に入ると
右に立派な 日切念願地蔵尊地元の人たちに大切に祀つられているようだ
この前の道も左に佐野公園を見て、右にお寺で大和街道にでる
高速道路工事中辺りから大和街道への旧道は、どの道かの資料もないので多分どちらかでないかと思う大和街道から北を見る、右手佐野公園
粉河越道(塔原街道・葛城嶺道) 完歩
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