紀州街道(1日目)

歩いた日程

(1日目) 2010年6月9日  大坂高麗橋~岸和田駅
    高麗橋 6時50分スタート  岸和田駅 18時30分 着
        64.263歩  41.77km  

(2日目) 2010年7月10日  岸和田駅~和歌山城京橋
    岸和田駅 6時40分スタート 和歌山城着
        75.562歩  49.11km

(3日目) 2010年9月15日  和泉鳥取~和歌山城京橋
    和泉鳥取駅 7時00分スタート  和歌山城 16時00分着
    2日目に歩いた中で和泉鳥から歩くのを急いだため十分調査できなかったので補足として再度歩く。

(4日目) 2016年10月6日   和歌山市湯谷~八軒家
    資料を整備していると1日目・2日目で紀ノ川を渡るのに、熊野古道の川辺の渡し跡の川辺橋を渡っていたのに 
    気が付き、江戸中期以降は田井ノ瀬の渡しを渡っていたので再度あるく。

(5日目) 2016年11月3日  4日目に続き八軒家から和歌山城京橋まで補足してあるきました。
    3・4・5日の  合計 50.608歩    32.89km

  3日目・4日目・5日目は、(2日目)の中に重複しています 

 紀州街道は和歌山城下の京橋から大阪城下の京橋まで全長約65㎞。
上記の距離とは全く合わないが、街道だけでなくその街道沿いの史跡等を散策するので実際の距離とは合いません。
藩政期京橋は幕府の管轄する公儀橋で西詰に高札場が置かれていた。東詰には明治九年里程元標が建てられている。
大坂と各地を結ぶ街道の里程計算は高麗橋を起点としていた。紀州徳川家も参勤交代の時には数千人の大行列でこの橋を渡って行ったのだろう
 紀州徳川家は参勤交代の街道として、初代藩祖徳川頼信から六代、宗直までの130年間は藩領のある伊勢の国を通る、江戸初期は大和街道を利用し、紀ノ川沿いに東に進み奈良五條から伊勢南街道を通り、高見山の中腹を越え、伊勢の粥見で和歌山街道をとって伊勢の松坂(飛び地の自領)に向かい、松坂の大口浦から船で尾張、宮(熱田)へそして東海道を江戸に向かっていました。(この街道については大和街道で詳細に記載します)
 7代宗将の頃から、参勤交代の道は大和街道から紀州街道に変わり、京橋を起点に田井ノ瀬近くまで大和街道と同じ道を進み、紀州街道は田井ノ瀬で紀の川の波止(渡し場)で舟橋を渡り、山口宿の山口御殿で休憩、その先、和泉山系を熊野古道と重複しながら雄ノ山峠を越えて泉州に入り、山中渓の村郷山中宿を抜けていた。やがて信達市場で熊野古道は東側の山側を北に進み天王寺へ、紀州街道は西側の海沿いを岸和田城下を抜け堺を北上し、大阪城下に入り天満近くの高麗橋に着く。紀州街道は上方街道・大坂街道とも呼ばれていた。
 高麗橋に着いた行列は、天満八軒家から船で淀川を遡るか、大人数だから京街道を進むのが妥当かも。京街道で伏見を経て大津追分に向かう。西国の大名は幕府を憚り京都市街には入らず迂回した。
 京街道で大津の追分に出る道と、山科から小関越え(歩き済み)で大津の追分に出る道がありますが、通常は京街道で逢坂越えにて大津に出た。大津からは東海道(歩き済み)または草津で別れ中山道(歩き済み)を進み江戸へ向かった。藩の「南紀徳川史」資料によると、紀州徳川家の行列は特に壮大であったという。行列の人数は荷持ち人足も含め2500~3000人にも及んだという。和歌山から江戸への道中費用は往復、約3万両(約6億円)という膨大な費用を出費した。江戸時代約250年間で97回往復したと伝わる。

【1日目】  2010年6月9日
  大坂高麗橋~岸岸和田城下

自宅5時出発、南海林間田園都市駅へ車で向かう、5時38分発の電車で難波駅へ地下鉄に乗り換え淀屋橋駅から高麗橋のスタート地点へ。曇り空であるが6時50分出発。

大阪市中央区 高麗橋の起点
江戸時代を通じて、橋は幕府の直轄する公儀橋であった、西詰には高札場が置かれた。橋の東側は城内で、西側は船場と呼ばれた大坂の商業地の中枢であった。この橋にも様々な歴史がある、享保2年(1717)松江藩士の正井氏が妻と娘の許嫁が駆落ち、この橋で二人を不義密通により討ち果たした。また幕末には大塩平八郎の乱がこの橋で衝突したのが始まり。その時の火災で焼失した家屋が12587戸と乱の発端の原因である貧民救済がかえって人々の生活を困らせた。

橋の東側の袂にある 里程元標跡
明治時代に高麗橋東詰に里程元標がおかれ、西日本主要道路の距離計算はここを起点として行われた

高麗橋を西に200mほど進むと堺筋の交差点に出る。その堺筋にかつては元禄四年(1691)開業した越後屋の老舗の三越百貨店があったが今は無い。

堺筋と高麗橋2の交差点を少し西に進んだ近く今橋に、  銅座跡碑

大阪で最も古い歴史をもつ愛珠幼稚園がある

愛珠幼稚園の東側は、北浜三丁目緒方洪庵が天保十四年(1843)開塾した建物が残る。

前には、 緒方洪庵の坐像

適塾(重文)  この塾から巣立った幕末の塾生の活躍は著しい

高麗橋1交差点に戻る。交差点より、200mほど東先の起点高麗橋方向をみる。

堺筋を南に進んだすぐ先で薬問屋が並ぶ道修町通り交差点を右に入ると道修町の歴史は古い。今でも道修町から発展した田辺製薬、武田薬品工業、藤沢薬品工業、小野薬品、塩野義製薬等々のビルが並んでいる。

少彦名神社  がビルに挟まれたせせこましいところにある大塩平八郎の乱で焼失したためここに移る日本の薬の神様

道修町通りを堺筋に出た交差点、北東角に旧薬問屋小西儀助商店(現コニシ株)がある。現在改装中なのか、明治36年築の風格ある建物。

堺筋はその先、平野町、淡路町、瓦町、備後町、安土町、本町の交差点を過ぎ、船場中央交差点で高架を潜る。

高架の先も、久太郎町、北久宝寺町、南久宝寺町、博労町、南船場、長堀橋と続き308号線を横断する。長堀通りを横断し右に南郵便局がある交差点の堺筋を挟んだ左に、  心学明誠舎跡碑

紀州街道は現在の堺筋を重複しながら長堀川を越え島之内に入る。その先で、東西横堀川、北の長堀川、南の道頓堀川は、人工的に造られた川であった。長堀川は既に埋め立てられて長堀通りとなっている。道頓堀川に架かる日本橋の北側東詰に、 贈従五位安井道頓 道ト紀功碑 大きな碑が目につく。井道頓は大坂夏の陣で大坂方に着き戦死した。

日本橋北詰の道頓堀川に沿った西側は、飲食店や夜の街が並ぶ

道頓堀川に架かる日本橋。藩政期には幕府管轄の十二橋の一つ。北詰には三十石船や金毘羅船の船付場があり、南詰には高札場があった。江戸時代、幕府が管理する公儀12橋の一つ。北詰には船着き場があり、南詰には高札場が設置されていた。

道頓堀川、昼と夜の顔が全く違う

日本橋1丁目交差点で高架を潜る。

かつては日本橋から南の鼬(いたち)川、今は高速道路で無くなっている。今宮橋までを長町と呼ばれる町筋が一丁目から九丁目まで延びていた。旧道沿いには大小の旅籠が並んでおり、特に河内屋庄右衛門家は間口百二十間、河内屋四郎兵衛家は間口七十二間ととてつもない大きな旅籠であった。

街道の西、今は賑やかであるが千日前はかつて 刑場で竹藪が広がる夜ともなれば寂しい場所であった。

日本橋より道に沿って南に進むと、左になにわの台所として人気の高い
黒門市場  明治45年に焼失した圓明寺の黒門付近に、文政五年(1822)頃より魚屋が集まり店を出したのが始まりといわれている。今でも大変な賑わいを見せる

日本橋三丁目の高島屋東別館の前を西に少し進むと、聖徳太子を開山とする

聖徳太子を開山とする真言宗 大乗坊 本尊は、毘沙門天立像(重文)

日本橋筋は3丁目から恵美須町にかけて電気店が並ぶ

日本橋筋が阪神高速環状線の高架を潜る手前を右(西)に300mほど行くと広田神社 今宮村の産土神として古くから信仰された江戸時代は周囲田に囲まれ、小さな杜が遠くから見えたという。

広田神社の南側100mほどで阪神高速環状線を潜ると  今宮戎神社 

神社の西隣には 浄土宗 海泉寺 

阪神高速の高架下の堺筋に戻り南へ進むと、恵美須町交差点に出る。国道25号線が東西に走る、正面には大阪のシンボル通天閣が聳え、交差点を左に25号線を上っていくと四天王寺に続く。向って右に新世界市場があります。

堺筋と分かれ、交差点を右(西)に進む。すこし25号線を進むと、右前方に今宮戎神社が、その手前の戎神社前交差点で左に折れる。最初の辻にかつて 高札場 が立っていた、札の辻 と呼ばれていたところです。

ここで街道歩きを一旦中断、恵比須交差点を左に 【寄り道】をします。
25号線を東に天王寺七坂の一つ逢坂を上ります、阪神高速松原線の高架を潜り、右に天王寺動物園北口交差点、左への道は松屋街筋です。次の信号交差点の右側の高台にある一心寺へ寄ります。

浄土宗 一心寺  文治元年(1185)法然上人が訪れた時から始まる名刹。この辺りは大坂夏の陣の時、徳川家康の本陣が置かれた激戦地。

平成九年に完成した山門で、ガラス屋根と鉄骨組の現代的デザイン

また境内墓地には沢山の著名な墓が並ぶその一部
徳川仙千代墓  徳川家康の八男、重臣平岩親吉の養子となるも、慶長五年(1600)大坂で没す。享年六歳

初代 竹本弥太夫墓

中村宗十郎墓

篠山十四勇士墓・依田新八郎墓
丹波篠山藩松平康重の家臣で元和元年(1615)大阪夏の陣で戦死。同じく篠山藩の家臣で剣客、享和二年(1802)大坂で客死。

酒封じ祈願  本多忠朝の墓 
徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝の第ニ子、大阪の陣に於いて酒が災いして失敗、汚名挽回をきし夏の陣で戦死。死に臨んで深く酒弊を悔い将来酒のために身を誤るものを助けんと誓って瞑目したと伝わる。

お寺を出て東を見ると先に、四天王寺が望める

一心寺の25号線をはさんだ北側に  安居神社 がある

真田幸村陣没の旧跡
元和元年大阪夏の陣で最後の戦いとみて、後藤基次・薄田兼相等と出陣、盟友の武将が戦死する中で、最後まで家康を脅かし戦ったが、五月七日ついに当社境内一本松の下で戦死した。時に年齢四十九歳であった。当時の松は既に枯死したが、社殿復興を機に昭和26年4月24日これを記念して植樹された。例年5月に幸村祭りが盛大に行われる。

真田幸村戦死跡の碑と銅像

寄り道を終え25号線を西へ恵美須町交差点に戻る

江戸時代初期の俳人、小西来山十万堂跡の碑十万堂は号であり晩年住した庵の名前でもある。阪堺線恵美須町駅の西側の線路沿いに十万堂跡を示す碑が建っている。
小西来山の墓は今宮戎の隣の、海泉寺と一心寺境内にある。

紀州街道は恵美須交差点を越えて、次の信号交差点戎神社前の交差点を左(南)に折れて進む。通天閣がよく見える

左に折れる左手前角に 真宗 光受寺

少し進むと右に恵美須小学校がありその辺りに 今宮一里塚 があったが場所は何も残っていない

恵美須西に入る

右に 

やがてJR関西本線(大和路線)の高架を潜る。右には南海新今宮駅が見える

高架を潜ると、萩之茶屋地区 右の西成警察署の前を通りその先、萩之茶屋南公園を右に見て進む。

天下茶屋北で、右に浦上病院を見て広い車道を横断、すぐ先右に今宮小学校がある

小学校前の 一念寺

右に天下茶屋商店会のアーケードがある、アーケードを入っていくと南海天下茶屋駅

商店会アーケードから400mほど進むと、岸里東1交差点に出る

少し先で右に天下茶屋公園、かつてここに大きな店構えの茶店が二軒あった 是斎屋跡(ぜさいや)はその一つで、秀吉が浪々の時に恩義を受けた松下嘉兵衛のため約3300坪の邸宅と名園を贈り、自らも度々訪れたので、天下様の茶屋が転じて天下茶屋と呼ばれたという。

園の一角に 阿倍寺心塔石

安倍寺は奈良時代の寺院で安倍氏の氏寺といわれた。現在の阿倍野区松崎町の松長大明神の一帯にあったといわれている。この石は寺の中心となる塔の基礎石でここに移されている。

公園の街道を挟んだ向かい側に 浄土宗知恩院派尼寺昌芳山 安養寺
近松門左衛門の浄瑠璃でしられる「心中天網島」に登場する、おさんの墓 狂歌師佐藤魚丸の墓等々

安養寺から更に南に街道を200mほど進むと、天神の森が見えてくる

森の中には樹齢600年ともいわれる樟の大木が聳える。また京都の北野天満宮から分霊したという天満宮がある、子安天満宮と呼ばれ親しまれている。森は茶人武野紹鷗の由来をとって紹鷗の森ともいわれている

天満宮

境内に建つ 「天下茶屋あだ討ち供養塔」
慶長十四年(1609)備前の人、林源次郎が父の仇、当麻三郎衛門を討ち、本懐を遂げたと伝わる。「出口橋」別名「くやし橋」「残念橋」が当社の南五十米住吉街道沿いにあった、文禄十一年と十二年(1829)にこの橋の袂に、供養のため二大宝塔が建てられたが、当社に昭和三十三年に移された。

子安石   「孕石」「産石」「誕生石」とも呼ばれ、古来、産婦守護・出産安易の霊験ありとし、多くの人々の信仰をあつめた霊石である。豊臣秀吉も淀君懐妊の時、当社に安産を祈願したと伝わる。

この森の西側で茶店を出していたのが、代々河内屋小兵衛を名乗った芽木家であった。ここも天下茶屋を名乗り、是斎屋が和中散を売り出すと、こちらは軍中散を売り競い合った。紀州家の藩主も宿泊したという御殿もあり本陣の格式を持っていた。

南に街道を進むと 左奥に阿倍野神社がある

阿部野神社   北畠親房、北畠顕家公を祀る

北畠顕家の銅像

境内の 旗上稲荷社

私の恩人の故、的場宏社長が石碑に名が刻まれていて何か嬉しくなった。

そのすぐ先街道は、南海高野線の岸里玉出駅の高架下を潜る。

高架を潜ると阪堺線が左から合流の所を振り返る。軌道に沿って南に暫く進みます

高架から500mほど先で、広い車道南港通りの手前左に 寿光寺

南港通りを横断して200mほど先左に 正覚寺

東粉浜3の 地蔵尊 右の旧道に入る

街道右に住吉署がありすぐ先で、左から阪堺電軌上町線の踏切を渡る。ここで阪堺線と合流、住吉駅がある。合流して西すぐに南海本線住吉大社駅があります。

軌道沿いに 大黒天・・・の 道標

すぐ左に住吉大社の参道が見えて来た

沢山の大きな住吉灯籠が並ぶ

住吉大社

住吉大社は全国二千余りの住吉社の総本宮。創建については神功皇后摂政十一年(211)と伝わる。参道を入り反橋を渡ると住吉鳥居を潜る。本殿が建つ、第一・第二・第三本宮そして第四本宮が並ぶ。本殿と拝殿は文化七年(1810)の建物で国宝に指定されている。石舞台・南門・東西楽所の建物は慶長十一年(1606)豊臣秀頼の命で片桐且元が奉行として創建した重要文化財。
境内には 住吉灯籠 と呼ばれる大きな燈籠が約600基あるのも見もの。

拝殿 

反橋(そりばし)高麗橋から約10㎞、住吉大社の正面の参道にかかる。

住吉大社を後に紀州街道は南に進む

少し先で 御祓橋を渡る

更に長居公園通り安立交差点を横断

右に、 浄土真宗本願寺派 実林寺

左に、 貫教山長法寺 と 祠

安立町内街道沿いに 霰(あられ)松原旧跡
江戸時代中期にはこの辺りまで海岸線があり付近は霰松原とよばれ白砂松原の景勝地であった

安立町中央商店街手前の旧家

商店街を抜けると左に  浄土宗知恩院正音山 阿弥陀寺

豊臣五奉行 浅野長政公所以の 縁之寺

安立の町並みを進む、阿弥陀寺から400mほど進むと大和川に架かる大和橋に出る

大和川に架かる大和橋
藩政期の大和橋は当初、橋長さ七十間(約130m)幅三間(約5.5m)であった。江戸時代大阪では、天満橋・天神橋・難波橋は200m以上あったのに次ぐ大きな橋であった。また大和川は江戸時代の宝永元年(1704)付け替えによる人工川である。元々大阪平野は奈良方面からの沢山の分流により氾濫が相次いでいた。江戸時代にはいり今米村(現東大阪市)の庄屋九兵衛の親子の多大な尽力と苦労により、元禄16年(1703)から1年で竣工、新大和川が開通した。
新大和川の開通により洪水は減り、新田の開発が進む一方農地や住居が川床に沈んだ多くの村があったことを忘れてはいけない。

街道は大和川に架かる大和橋を渡り堺市にはいる
住吉大社からこの大和川の堤まで2㎞ほどで、行列の先頭が大和川を渡り終えても最後尾はまだ住吉大社辺りであったという。

堺という地名は、摂津・和泉・河内の三国の境より由来する。堺は古の昔より奈良・大坂・京都と繋がる交通の要衝で、古墳時代より歴史を刻んできた、その過程において栄枯盛衰を繰り返してきた町でもある。堺を中心に、大きな街道だけでも「竹内街道」「長尾街道」「熊野街道」「紀州街道」「西高野街道」が起点又は通過している。戦国期に入り鉄砲の生産技術をいち早く取り入れると共に、茶道初め芸術文化に多大に貢献したが、元和元年の大坂夏の陣に巻き込まれ約2万戸余りの堺の街を灰塵に帰した。
その後、藩政期に入り町も「元和の町割りで」基盤の目のように整然と区画整理がなされ、町の様相が一変し、江戸時代以前の古いものはほとんど見る面影はなく、かつての堺の街並みが大きく変わった。

橋を渡ったすぐ先で阪神高速堺線の高架を潜る。

並松町の  日蓮宗並松山 風間寺
元和元年(1615)大坂夏の陣で全焼した堺の町を地割りした奉行、風間六右衛門が日蓮宗に特別の敷地待遇をしたと不平が起こり幕府の詰問に会う前にこの地で自刃した。

北半町の広い道の交差点を渡り、旅籠町に入る。中世の時代、外敵から町を守る砦の役割をした環濠。豊臣秀吉により一時埋め立てられましたが、江戸時代になると再び掘られ、環濠は復活しました。
紀州街道の堺入り口には、復活した環濠に架かる橋と大きな門があり、高札場がありました、北之橋と呼ばれ、公儀橋(幕府管轄の橋)でした。長さ七間(12.7m)幅二間半(4.5m)であったといわれています。現在、北之橋付近の環濠は埋め立てられています。

旅籠町からこの辺りは、第二次大戦の戦災を免れたため、江戸後期を偲ばせる古い街並みが 残る。井上邸は堺にただ一つだけ現存する当時の鉄砲鍛冶屋敷で、現在は4棟の切妻造平入りの建物からなっている。
鉄砲鍛冶屋敷井井上邸と石標

榎並屋勘左衛門 芝辻理右衛門屋敷跡
両家は藩政期の御用鉄砲鍛冶として鉄砲年寄りとして中心的地位にあった。他分家の榎並屋九兵衛、榎並屋勘七、芝辻長左衛門を加えた五鍛冶(後には三鍛冶)が鉄砲鍛冶を統制した。
徳川家康より大坂城攻めの鉄砲や大砲造りを命ぜられた。その後、刃物、自転車の製造へと変わっていった。

街道沿い、水野鍛練所の軒下に 

旅籠町から桜之町の街道

綾之町の広い交差点にでて阪堺電軌阪堺線の走る大道筋に入る。大道筋は道幅約50mの大通りで真中をチンチン電車が走る。昔から今にかけて堺の中心をなしている。

大道筋に入る交差点の左、紀州街道標柱

ここで街道歩きを中断して、大道筋の左側を入ると寺町で多くの寺院があるので一部だが見学のため 【寄り道】 をする。
大道筋より左の一筋の所に建つ 山口家住宅(重文) 江戸時代の町家の貴重な建物、現在も居宅として使用されており非公開

浄光院の門前に  熊野権現降臨址・悲田院跡の碑

浄土宗 浄光寺

錦光山浄因寺 曾我廼家五郎住居の跡

真宗大谷派 浄徳寺

融通念佛宗天桜山林昌寺  江戸時代末期の浄瑠璃、三・四代目竹本春太夫の墓碑がある

浄土宗知恩院派正覚山福成寺  堺鉄砲鍛冶 芝辻理右衛門の墓がある。その作の大筒が大坂城に保存されている

浄土宗 大善寺

日蓮宗青陽山 月蔵寺

北辰殿

日蓮宗 経王寺

真言宗御室派伽羅陀山 十輪院

真宗本願寺派 覚応寺 与謝野晶子の歌碑がある

西本願寺堺別院  北の御坊、樫木屋御坊とも呼ばれる。境内中央に樹齢300年を越える大イチョウ
本願寺堺別院は、文明8年(1476)に蓮如が堺の樫木町に建立した信證院に始まる。その後、享保13年(1728)に、現在地に本堂を落慶したが、寛政10年(1798)の火災で表門と鐘楼を残し消失した。鐘楼は元和3年(1617)の銘があり、市内最古の貴重な梵鐘。文政8年(1825)に本堂が再建された、現存する堺市内の最大の木造建築物。

宣春山 高林寺

真宗大谷派 真宗寺 

将軍山 善長寺

法傳寺  門前にあかかべ地蔵の標柱

日蓮宗大法山 成就寺  境内に鉄砲鍛冶の芝辻長左衛門の墓

浄土宗 蓮花寺

妙国寺の傍の道路に変った 道標 「右 そてつ 左 ふし」

法華宗陽光山 本受寺

日蓮宗 廣普山(こうふ)妙国寺
大伽藍を要したお寺であったが、大坂夏の陣で焼失したが、寛永年間(1624~44)には10坊を数えるほどに復興した、しかし昭和20年の堺大空襲で伽藍の大半を焼失した。その時には町の中でもひと際目の引いた、三重塔も失った。ただ創建時のソテツが今も生き 続けている(国天然)。織田信長が安土城建設時移植したが、毎夜「堺に帰りたい」と泣き、怒った信長が刀で斬りつけたところ、ソテツから鮮血が噴出したため、気味悪くなり元に戻されたという伝説の残るソテツ。
本能寺の変の時、徳川家康がこのお寺に宿泊をしていた。

境内の ソテツの大木(国天然)

堺事件  幕末フランス兵との間でおこった「堺事件」において、十一人の土佐藩士がこの境内で切腹した場所。

妙国寺の北隣にある、慶応4年(1868)の堺事件の土佐藩士が葬られたお寺。
真言宗高野派叡福寺三光山 宝珠寺

土佐十一烈士の墓 と道路上の 道標

この辺りで(寄り道)は終わり阪堺電車の走る街道に戻る。まだまだあるがとても時間がなく前に進まない。
一社一社説明板もありよくわかるが殆どのお寺は境内に入れないのが残念だが、この付近からまだまだ南にかけて散策するのもいいだろうと思う。妙国寺の南の泉陽高校の所で西に進み大道筋の花田口交差点に出る。各お寺にはいろいろな歴史があるようで興味が尽きない。戦災で焼失したお寺がほとんどで建物は新しい。

紀州街道の花田口交差点

交差点野の右(北西)角にザビエル公園

花田口交差点の次の交差点、ザビエル公園の南角の交差点を左角に吉野家がある。
ここを左に折れる道が、 長尾街道(歩き済み)

ザビエル公園の先に、大小路交差点がある広い交差点で右に行くと南海堺駅へ。
左への道は、竹内街道・西高野街道

交差点を横断して、大小路駅と宿院駅のあいだ辺り右側歩道の左側に
与謝野晶子生家の跡と 「海こひし」歌碑生家 はこの大道筋に面していた、羊羹で名高かった和菓子の駿河屋です。

大道筋の宿間駅からフェニックス通りを西に進み、一筋目を左に折れて100mほど進んだ左に、
千利休屋敷跡  整備された屋敷跡に利休が茶の湯に用いたという 「椿の井戸」 が残る。

大道筋に戻り街道を500mほど進むと右に、 浄土真宗本願寺派多聞山 善宗寺

振り返って街道を見る。

臨済宗龍興山 南宗寺 臨済宗の名刹、
堺でも有数の大寺で阪堺線「御陵前」駅から旧環濠沿いに東に250mほど入ったところにある。少しゆっくり見学。

大坂夏の陣によって堺市街とともに全焼したが、沢庵和尚によって元和3年(1617)現在地に再興された。総門の前には「南宗禅寺」の石碑が建つ。「龍興山」と書かれた扁額の総門を入ると、二階建ての甘露門の山門(国重文)を通り、石橋を渡ると鐘楼、入母屋造・本瓦葺きでの仏殿建築の仏殿(国重文)の前に出る。その右方に坐雲亭、唐門(国重文)。また古田織部作の方丈の枯山水の庭園(国名勝)、茶室実相庵、千利休遺愛の向泉寺袈裟形の手水鉢、武野紹鷗の愛玩した六地蔵石灯籠などの貴重な文化財がある。
境内には、謂れのある「徳川家康の墓」「津田宗達・宗及親子ら津田一門」「武野紹鷗」「千利休はじめ千家一門」「三好元長・長慶親子をはじめとする三好家一族」「連歌師、牡丹花肖柏」の墓があります。

南宗寺総門 間口二間、奥行一間の四足門、龍興山の扁額が架かる。

甘露門(山門)重文、三間一戸楼門、入母屋造、建物は禅宗と和様の折衷様式、正保4年(1647)の建立

仏殿、 方三間の小規模ながら純粋な禅宗様仏殿。天井には狩野信政の八方睨みの龍が描かれているという。承応元年(1652)の建立で、重文に指定。

坐雲亭 重層の洋式で山内最古の建物。下層三間四方、上層一間四方、内部に徳川秀忠、家光将軍が御成を記した板額が掛かる。

津田家の墓  利休と並び称された津田宗達、宗及一門の碑。 

千家一門の墓 三千家家元供養塔 中央に利休宗易居士の碑、右に不審庵(表千家)、左に今日庵(裏千家)、官休庵(武者小路千家)の供養塔。

武野紹鷗の墓 利休の茶の師

南宗寺開基 三好一族の墓 元長、長慶はじめとする一族の墓。

方丈・枯山水 戦後再建、聖観音菩薩を祀る。庭園は古田織部好みの作、国の名勝庭園に指定。

紹鷗遺愛の六地蔵灯籠

利休遺愛の向泉寺伝来の袈裟形手水鉢

利休ゆかりの茶室 実相庵 利休好みの茶室で二畳台目、平天井と蒲の落天井の二段構成。側壁は瓢形に壁を残し、給仕口を開襖とし、にじり口を点前座より開けるといった特色がある。

唐門 重文、 十七世紀中頃の創建で簡明な構造の向唐門。 

そのほかにも、牡丹花肖柏の碑:室町時代の連歌師。  鐘楼:文政年間に焼失、明治初年に再建。  夢界堂;南宗寺再興に尽力した堺町奉行若狭守の位牌堂。  開山堂跡・伝説の徳川家康の墓;開山である大林宗套和尚並びに中興開山である沢庵宗彰和尚を祀る建物であったが、空襲で焼失床下に卵形の無名碑が徳川家康の戦死埋葬碑の伝説がある。 水琴窟:曹渓の庭に敷かれた那智黒石にキーンという澄んだ水滴の音がする。  禅堂:座禅修行の道場
見学時間が無くなり後ろ髪を惹かれながら見学を終わり街街道へ

南宗寺の塔頭 徳泉庵 境内には松江宗安(銭谷の屋号)堺の豪商、始め一族の墓

臨済宗東福寺派宿松山 海会寺 かつては開口神社の近くにあった古刹で、大坂夏の陣後沢庵和尚の助力でこの地に再興された。本堂庫裡及び門(国重文)

臨済宗大徳寺派龍興山 天慶寺 大坂夏の陣、後復興された。
山上宗二供養塔 一会塚宗二(1544~90)は利休門弟の随一といわれ、茶の湯を極める、「一期一会」の茶の湯の心を後世に伝える。信長・秀吉に仕えたのち、北条氏の茶堂となるが、小田原攻めの際、秀吉の勘気にふれ惨殺される。ここに宗二の最期を憐み、その霊を慰めるため供養塔を建てて「一会塚」と命名した。

街道に戻り進みます。
昔懐かしい長屋建物

南宗寺の南側の広い道路197号線に出て、北西の土居川沿いに進み、大道筋の御陵前交差点に戻る。
宿院交差点のフェニックス通りから御陵前交差点までの、約700mの大道筋の東側一帯にも沢山のお寺が社を並べているがとても回り切れない数である。

土居川に架かる松林寺橋を渡りすぐの御陵町交差点で阪堺線「御陵前」駅から電車道が左に分かれ、右の狭い街道を進む。分岐の所に、阪本のほねつぎが街道入口にある

西湊町に入ると落ち着いた雰囲気のある街筋となる

すぐ左に 船待神社 菅原道真が大宰府に流されるときに、ここで船をまったと伝わる境内に楠木の大木が聳え古社の趣を残す。やっさいほっさいの火祭りで知られている。

街道右に 長源寺

街道左に 浄光寺

更に右に 真言宗明王山 弘詮寺

街道沿いの 

西湊町4の町並み

右の新湊小学校の分岐で右の道を進み、楠木町、柏木町を抜ける

暫く進んだところで西区に入るやがて34号線の広い道路を横断する

浜寺石津町中に入ると右に 地蔵堂

その先右に、石津太神社の標柱 が街道の西側に

やっさいほっさいの火祭りで知られている

五色の石

神社の傍に 真宗佛光寺派 慈光寺

街道沿い右に 西法寺

すぐ先で石津川に架かる太陽橋を渡る

石津川

太陽橋を渡った左角にこの辺り 北畠顕家奮戦の地

敗を渡ると、 川向延命地蔵

三光橋、その手前に 船尾一里塚 があった

浜寺に入ると小さな橋を渡り、すぐの十字路を右に折れて、南海本線を越える。

諏訪森町西3丁の交通量の多い信号交差点に出るので左に折れる。

左に折れて次の浜寺公園北信号交差点から右側に浜寺公園が広がる

道路を渡り、車道と公園の間の歩道を進む昔、高師の浜と呼ばれ松林が続き万葉集でも歌われていた。

公園の中ほどに来ると、長らく街道に沿って進んできた阪堺線も「浜寺駅前」が終点となる。

堺市から高石市へ

堺の浜寺から高石までの海岸は、昔、高師の浜と呼ばれていた。かつてはもっと松が沢山あり、白砂青松の美しい海岸であったという。明治5年、南北8㎞・450万㎡整備されわが国最初の浜寺公園が造られた。その玄関口として1897年に誕生したのが南海鉄道浜寺公園駅である。当時は「東洋一の海水浴場」として賑わったが臨海工業地帯の埋め立てなどで失われてしまった。
現在の南海電気鉄道南海本線浜寺公園駅駅舎(国登録)は明治40年に建てられた私鉄最古の駅舎である。また隣の駅、諏訪ノ森駅西駅舎(国登録)もともに近畿の駅百選に選定されている。しかし、現在南海本線等の立体駅建設に伴ない両駅とも撤去される計画である。
羽衣5付近を進む、左から芦田川が沿って右、市立保健センターの先で芦田川を渡る

芦田川に架かる袈裟橋

伽羅橋交差点ですぐ、南海高師浜線の高架を潜る

その先右に、浄土宗鎮西派金松山海光院 大王寺(大雄寺)昔は大きなお寺であった。

高石神社前交差点で、左の旧道に入る

すぐ右、車道を越えた森に 高石神社

高師浜の町並みを進む

浄土宗鎮西派船留山 不断寺 室町時代中期の文明6年(1474)に創建されたと伝わる。本堂前の松も見事。

高石南、街道沿い右に 大師堂

千代田3に入ると左に 浄土真宗本願寺派日向山 光秀寺 光秀との伝承が残るお寺

桔梗の紋を配している

光秀寺の西南に 真言宗 聖宝寺 門前に高石聖天の石標

旧道はこの先で右からの車道(204号線)と合流、すぐ今度は高石千代田郵便局の手前で右の旧道に入る。川を渡ると堺泉北有料道路の高架を潜る。
高石市千代田5の紀州街道高石市の羽衣・高師浜・千代田地区を南北に通るこの道は、中世には住吉道と呼ばれた。熊野詣での道の一つとして利用された。江戸時代に入り大和街道を歩いていた紀州藩の参勤交代路が吉宗の時代以降からこの道を参勤交代路として歩くこととなった。

長屋門の残る立派な旧家が街道沿いに大きな屋敷で由緒が残るのだろう、高石市千代田5

王子川交差点で旧道は右からの車道に合流して、すぐまた左に車道を分け右斜めに入る。

さらに王子川交差点のすこし先で右斜めに

右に千代田郵便局を見て右の旧道に入るところ

小高い橋を渡る。

堺泉北有料道路の高架を潜る

高架の潜った先、泉大津市助松1丁目左角の民家の軒に 中和泉街道の道標

街道より左の南海本線の北助松駅方向に少し進むと 助松神社

街道を右に入ると茅渟御坊 助松御堂見性山 蓮正寺

助松町の町並みを進む

前方右に大きな旧家の塀が見えて来た、助松町2

街道に面する右側に 田中家本陣 現在も田中家の子孫の方が住んでおられるので非公開

本陣屋敷は、ほぼ100m四方の広大な敷地敷地。長屋門・母屋・座敷・土蔵・納屋・庭園・片桐且元遺愛の石灯籠
元亀元年(1570)上野国新田郡より田中清右衛門重景がこの地に移住。江戸時代には大庄屋となる。元和5年(1619)徳川頼宣が紀州藩主となった後、紀州藩の本陣として修築改修されてきた。

カタカナ地蔵尊

田中家本陣より200mほど街道より左(東側)に入った南海本線近くに 如輪山牛滝塚 樹木に覆われた墳墓で濠池跡がわずかに残る、累代墳墓八十二基が眠る

元の本陣前に戻る見るからに大きな屋敷で、掃除も大変だろうと思う

再び街道を進む

西国三十三度宝篋印塔が並ぶ 地蔵堂

その先で松の浜町に入り信号交差点と高架を潜る

松の浜町で小さな川を渡ると左には松ノ浜駅への道、そこからすこ進み緩やかに左にカーブすると、左からの204号線と合流する。204号線を200mほど進むと右にヤマダ電機がある信号交差点を右に折れる。交差点左にはコナカがある所。ヤマダ電機を右に見て一つ目に辻を左に曲がります。春日町の旧道を暫く進むと再び左に緩やかにカーブしながら204号線に合流します。204号線の向かいにはナフコがあります。
更に150m先の信号交差点、左角に泉大津署がある所を右に折れます、そして一つ目の十字路を左に進みます。

左の204号線と合流して、左に入ると泉大津市役所へ行ける

左に泉大津署の看板のあるこの交差点を右に入る

十字路を左に折れて進む

右に 大津神社

中央商店会に入るここの商店会も人通りが見かけない

アーケードを抜け少し進むと右に 格本山 長生寺

車一台やっとの本町の旧道を進む

信号交差点手前左に  

信号手前角には 日蓮宗 慈眼寺

戎町に入る。

暫く歩いた左に  観海山観音堂

街道沿いの旧家

高津町に入り大津嘉の楯並橋を渡ります。その先の街道の街並み

橋からの大津川、かなり日が落ちてきたようだ

大津橋を渡ると忠岡町に入る忠岡北で交差点を渡る

忠岡中の町並みにどっしりとした 旧家

街道右に 浄土真宗 萬福寺

忠岡一里塚跡  左に忠岡小学校、小学校の西隅、現在跡地に給食食堂が建つ。今は何も残らない。

小学校より先は、岸和田市に入る。磯上町の交差点を横断

街道沿いの左に 

春木元町に入ると、長屋門の残る旧家

春木の町並みを進む

春木本町に入ると右に 浄土宗正福寺

やがて永守橋を渡る

下野町を進む岸和田市の市街地に入って来ました

街道沿い旧家が残る街並み

並松町19の街道に架かる石橋

並松町の右の旧家、この辺り所々に旧家がのこり、街道風情がよい

左角に 道標

北町に入る。

真言宗 高見観音

日蓮宗 圓教寺

日蓮宗 本昌寺

街道を少し左に入ると 浄土宗 西方寺 この街道すじから少し入ると沢山お寺が建ち並ぶ。

南海岸和田駅

きょうは丁度区切りもいいので此処で終わり、南海岸和田駅へよく歩いた一日。どこにも寄らず街道だけ歩けばこれほど距離と時間はかからない。でもそれだけでは面白くないので私は寄り道をしながら歩く。
 午後6時30分 一日目岸和田駅に着く、本日はここまでとする。
     64.668歩  42.03km よく歩いた一日であった。  

⇒次の日はこちら

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