本日もう一日萩市内を回る。まず前回行っている松陰神社からスタート。 重なるところは省略します。
松陰神社全景
向かって右側、松陰神社に沿って進む。
玉木文之進宅への道筋に片山東熊別邸跡碑と説明板。
玉木文之進邸の前で右に折れて坂を登っていくと、椿東(ちんとう)の吉田家一族、松陰の墓所、および弟子達の墓。団子岩の松陰・金子の像。松陰誕生地杉家屋敷跡・生湯の井戸、高杉晋作草庵跡へ
吉田松陰と金子重輔の像
安政元年(1854)、下田からアメリカに密航しようとした松陰は黒船を見ているか、弟子の金子は膝をつき、望遠鏡を持っている。像の高さ3m余り。
高杉晋作草庵の跡碑
文久三年(1863)晋作は東行と号し一時草庵を結んで松陰を偲びながら、妻雅と一時期を過ごした。松陰を如何に心酔していたか。高杉はここで終わる志士でなかった。時が来て、奇兵隊や諸隊を率いて立ち上がった。
吉田松陰誕生の地建物は現存しないが、当時の間取りを示す礎石が配されている。
松陰は嘉永元年(1848)十九歳になるまでこの地で暮らした。杉家は現在の松陰神社の地に転居した。
敷地内の 行啓記念樹
松陰先生産湯の井碑
杉家跡地
舗装道から杉家跡地を見る
墓所
誕生地から望む萩の城下。指月山・日本海と城下の景色は感動的であったことだろう。
墓全体
久坂良迪:幕末の藩医。玄機・玄瑞の父、藩主敬親の信任厚く、晩年には侍医に任じられた。嘉永7年(1854)没 63歳
久坂玄機:幕末の藩医。久坂良迪の長男で玄瑞の兄。大阪の緒方洪庵の適塾に学び、帰藩後医学館(好生堂)の都講となり種痘の実施などに功績があった。安政元年(1854)没 35歳
吉田道子
松陰の姪(杉民治の三女)明治10年(1877)没2歳
杉 敏三郎
杉 百合之助の三男。松陰の弟。生来耳と口が不自由、松陰が特に気にかけていた弟。明治9年(1876)没32歳
杉 百合之助
妻の滝との合葬墓。松陰の実父、萩藩士26石。妻滝との間に三男四女(松陰は次男)。杉家一族の中心として困難の中で誠実に生き抜き、終始松陰を温かく応援し続けた。慶応元年(1865)没62歳
吉田小太郎
吉田家第九代。松陰の甥(杉民治の長男)で、松陰の後を継いだ。明治九年(1876)萩の乱で前原一誠とともに決起し戦死。19歳
杉 民治(松陰の兄)の妻
玉木文之進
松陰の叔父(杉百合之助の次弟)。山鹿流兵学者、松陰を厳しく教育、天保十三年松下村塾を開く。松陰が継承。
文之進は明治九年の萩の乱に門弟数人が参加した責任をとり、この墓地で自決した。明治九年(1876)11月6日、67歳。
玉木彦介
文之進の長男。松陰の従弟。松陰に学び「士規七則」を書き与えられた。高杉晋作挙兵による藩統一の内戦にて、絵堂(美弥市)で戦死。慶応元年(1865)25歳。
久坂玄瑞
久坂家の墓も市内の保福寺からここに移転されている。
杉 清四郎 杉 民治の三男
杉 道助
杉家第八代。民治の孫、生涯松陰を敬慕。大阪商工会議所会頭を十四年間勤める。ジェトロ(日本貿易振興会)の初代理事長も歴任。「祖先の墓より大きくしない」と遺言を残した。昭和三十九年没 81歳
杉 梅子
杉 民治の三女
杉家之墓
杉 相次郎・杉 滝子
杉 滝子は民治の二女、相次郎は養子 この夫婦の子に前述の道助
杉 民治
松陰の兄。父百合之助を助け杉家を守る。松陰の最大の理解者として獄中の弟に書籍を送り続けるなど父と共に松陰を励ました。明治43年(1910)没 83歳
杉 民治の横にある小さな自然石の墓、字が読めなく分からないが、一族の墓だろう。
駒井政五郎
萩藩士。安政4年(1857)から松陰の兵学門下生。のち松下村塾に学ぶ。明治元年戊辰戦争に軍監として出陣し、翌年(1869)戦死。29歳
高杉晋作
口羽良純
萩藩士。嘉永元年(1848)から松陰の兵学門下生のち松下村塾に学ぶ。明治維新後、松本村の戸を務める。どの墓か逸した。
児玉祏之
松陰の義弟(松陰の妹千代の夫)。吉田家11代 庫三の父。明治八年(1875)没56歳
馬場甫仙
松下村塾に学ぶ。下関の外国艦隊砲撃に参加。また、奇兵隊の書記役も勤めた。慶応元年(1865)より松下村塾を再開し、約5年間教えた。明治3年(1870)病没28歳
兒玉太兵衛寛備
松陰の母 瀧の養父。千代(松陰の妹)の義父。
安政6年(1859)病没69歳
吉田大助
吉田家第7代、松陰の養父。松陰実父の杉百合之助の弟。天保6年(1835)没29歳
吉田久満
杉百合之助の弟、吉田大助の妻。松陰の義母、夫の没後は実家森田家に寄寓。松陰を常に見守り、死後も墓参をかかさず供養に努めた。明治5年(1872)没59歳。
吉田松陰
吉田松陰の墓下には、遺髪が埋葬されている。
高さ80センチの自然石の墓碑には「松陰二十一回猛士墓」と刻まれている。万延元年(1860)2月7日、松陰の没後百ヵ日が実家の杉家行われた際、建立された。
門人ら十七名が墓前に寄進した石製水盤、花立て、石灯籠がある。そこには久保久清(断三)・岡部利済(富太郎)・増野乾(徳民)・佐世一誠(前原一誠)・福原利実・品川日牧(弥二郎)・久坂誠(玄瑞)・松浦無窮(松洞)・伊藤知卿・入江致(九一)・野村旨緩・中谷実之(正亮)・高杉春風(晋作)・有吉良明(熊次郎)・天野一貫・作間昌昭(寺
嶋忠三郎)・時山済(直八)の名が刻まれている。
その時の松陰は幕府に斬首された「国賊」にも拘わらず。松陰を慕う者として堂々と自らの氏名を墓に名前を公表することに相当な覚悟を要したと思う。それ以上に師の志を継ごうとしたのだろう。
松陰の墓の傍には、高杉晋作はじめ、維新前後に亡くなった門下生たちの墓も集められている。
阿座上正蔵
安政4年(1857)から松陰の兵学門下生。下関の外国艦隊砲撃に参加。元治元年(1864)禁門の変にて重傷を負い自刃。19歳
吉田稔麿
団子岩の松陰墓地から坂を下ると、
椿東椎原にある 護国山 東光寺の伽藍が見えてくる。
中国の明時代の末から清時代の初めにかけての黄檗伽藍様式です。元禄4年(1691)萩藩三代藩主毛利吉就の建立。全国屈指の黄檗宗の名刹。文化年間の最盛時には全山塔40棟を数えたという。
護国山のの額がかかる朱塗りの総門を潜ると総門 (重文)
二階二重門の三門 (重文)
大雄宝殿手前の左に、4代藩主吉広が寄進した、鐘楼 (重文)
さらに大雄宝殿 (重文)
大方丈書院への通路
通路の頭の上に大きな木彫りの魚が吊るされている
大方丈書院
大方丈書院と庭園
墓所区域に入る
元治甲子殉難烈士の墓所
毛利家墓所に入る手前に元治元年(1864)京都禁門の変の責めを負って、徳山で自刃した益田右衛門介、国司信濃、岩国で自刃した福原越後の三家老。
萩野山獄で処刑された、竹内正兵衛、中村九郎、佐久間佐兵衛、宍戸佐馬介、前田孫右衛門、毛利登人、山田亦助、渡辺内蔵太、楢崎弥八郎、大和国之介、松島剛蔵等の十一烈士。
萩で自刃を命ぜられた、清水清太郎。
また山口で幕府の萩藩征討の責めを感じて自刃した周布政之助等、身をもって難に殉じた藩士のため、明治29年(1896)に建てられた慰霊墓所。
墓所の右に、三墓碑は選鋒隊士の為、明木権現原で暗殺された、桜井三木三、香川半助、冷泉五郎等鎮静会議員の墓
古井戸と殉難士碑
5人の墓碑から本堂方向を見る
5人の墓碑の背後にある、楫取道明の墓
三藩士の墓
萩毛利氏の廟所入口
萩藩主3代、5代、7代、9代、11代並びに各夫人10基の外、枝葉近親者20余基があります。
神道石碑6基、華表5基、重臣諸家より献上した石灯籠約500基が整然と立ち並ぶ。周りには老杉・檜の大樹が生茂る霊域であります。(前回も来ているので簡単に見て回る)
石の門を潜った奥が廟所
全てへの廟所への入り口
再度 内側からの東光寺山三門
三門を振り返る
総門
東光寺を見学終わり松陰神社の方に戻る
伊藤博文旧宅
伊藤博文別宅
東京から移築された別宅の一部
明治40年伊藤が建てた豪壮な木造建築
菊のご紋のはいった灯篭
別宅の室内
廊下の天井は一枚板
伊藤邸の見学終わり、再度 松陰神社へ
杉家内部
松陰神社拝殿
親思う こころにまさる 親ごころ
きょうの音づれ 何ときくらん
吉田松陰歴史館
松陰神社の見学を終わる
浄土真宗 明安寺
北東の市街地より離れた海岸の恵美須ヶ鼻造船所跡
ここで進水した、丙辰丸・庚申丸図
恵美須ヶ鼻造船所跡と反射炉跡の地図
造船所址石碑
造船所址の突堤
造船所突堤から見た漁港
造船所址各所に立札にて跡地が案内されている
造船所址前の右の漁港を見ながら戻る
造船所址付近を振り返る
造船所址より戻り市街地に入る、雁島橋を渡り、前回に続き浜崎町へ再度行きます
雁島橋
橋から右に川を見て河口へ、鶴江の渡し跡から先端の定期船乗り場を右に見て、三角洲の先端を左にカーブして、萩港を右に海岸線を夕陽百景で知られる 菊が浜 からの萩城跡の指月山
海岸線の左に入る女台場に行きます
菊が浜土塁(女台場)
幕末、外国船からの砲撃に備え、奥女中・武士の妻・住民たち、身分を問わず、自らの手で築いた土塁。文久3年(1863)の事。
土塁で「女台場」と呼ばれた。完成時、高さ5m・底辺18m・上部幅9m・長さ100m~300mの土塁が6か所築かれた。現在は高さ3m・幅12m・土塁長さ50mが残っている。
山口県を代表する民謡「男なら」は、この時の作業歌として歌われていたそうです。
「男なら」
男なら お槍かついでえ~ お中間んとなってえ~ ついてゆきたや 下の関
お国の大事と聞くからは 女ながらも 武士の妻 まさかの時には しめだすき
神功皇后さんの 勇々しき姿が 鏡じゃないかいな オオシャリシャリ
(オオシャリシャリは、おっしゃるとおりという意味)
二基の石碑 立っている
女台場を後に、再び浜崎地区に戻る
鶴江の渡し まで戻る。
萩の繁栄を支えた浜崎の港 鶴江の渡しは、対岸の鶴江まで船でいけます
藩政時代、川内に入るには、2本の橋しかなかったので、渡し船が活躍していた。
今でも現役で手漕ぎの渡し船です。無料
問屋町南詰往還
小池家土蔵
荷揚げした荷物を保管した蔵
問屋町筋の 中村屋住宅
昔は船宿であった
柏村住宅
町年寄りを務め、様々な商いをしてきた家
柏村住宅等を西側から見たところで、平入の古い町家が連続して続いている。軒が低く江戸から明治にかけて、魚問屋と廻船問屋を営んでいた。
問屋町筋の最も東端の家は広家住宅
松本川に出る、鶴江の渡し付近
少し北側の浜崎卸売魚市場の前を、浜崎の本町筋に入る。右手に藤井家主屋
江戸後期の建物で、切妻造り二階建ての西棟・東棟からなる。
藤井家を西側から見る
斎藤家
安政3年(1856)の上棟という。海産物問屋で毛利藩直轄の荷受けをしていた。
池部家
明治中期の建物、蒲鉾製造を営む。昭和の初め道路拡幅の為表二間切り取られた。
浜崎では江戸時代の建物が、四十数棟数えるという驚き。
中村船具店
お菓子処の看板が上がる 乙丸商店
旧山中家住宅
浜崎の典型的な町家、2階が高いのが特徴(浜崎町並み交流館)
旧山村家住宅
浜崎伝建地区の中心にあり、船具店として親しまれていた商家。(浜崎町並み交流館)
江戸時代に建てられた大型の商家。平成17年所有者の山村さんが萩市に寄附され、整備されました。
旧山村家住宅は前回時に詳細の写真を載せています。
近くにある、萩藩御船倉も同じです。
この付近に 須子家
造り酒屋と両替商を営み、のちに北国問屋を営んだ浜崎随一の大商家住宅があるのだが、どの建物か分からない
右奥に前回行った住吉神社の鳥居
海上安全の神として、地元の信仰が厚い。
住吉大祭には、豪勢な山車の「お船」が巡行する
梅屋七兵衛旧宅
屋根の上に福永理容店の看板
林家:油屋、ろう屋を営んでいた
大嶋屋:呉服屋から醤油醸造元となる。
大嶋屋
右手に間口が窮屈な 浄土真宗潮音山 泉福寺
鼓楼門が建つ。
吉田家の菩提寺、本堂には吉田松陰一族の家系図が壁一面貼られているそうです。また「松陰二十一回猛士」と記された高さ39センチほどの位牌が安置されている。
また日本共産党リーダーとして名を馳せた、萩出身の野坂参三の位牌も安置されている。
浜崎本町筋より川沿近くに離れるが、旅館 芳和荘
かつては遊郭の建物を使った旅館。中庭を囲む回廊が特徴的、遊郭の名残か。見たところ営業はしていないようでした。大きな敷地の建物。かつては大変賑わったことでしょう。
浜崎本町筋より少し北に入った、浜崎新町に 浄土真宗本願寺派 本性山 泉福寺
浜崎には他にもたくさん伝統的な町家が残っています。浜崎伝統的建造物として指定された建築物が138棟ある。そのうち、江戸期の建物が約40棟。明治の建物が約48棟。大正・昭和の建物が約50棟もあるようです。現在も住まわれている家が多い。
南への古い町並みを見ながら進んでいきます。
浜崎から今古萩に入ると、創業安政5年(1858)
夏みかん菓子の老舗 光圀本店
北古萩町の曹洞宗 享徳寺
萩往還の明木村一升谷で死を遂げた、町田梅之進の墓 が本堂前にある。
本堂
町田梅之進の墓
西側に 浄土宗 梅蔵寺
向かい側にある曹洞宗 海潮寺
明治の火災を免れた豪華な山門が残った。
他に夏みかん栽培を奨励した、小幡高政の墓がある
藩校明倫館の遺構、聖堂を移築した本堂
長井家(雅樂)の合同墓
長州藩高級藩士で「航海遠略策」を唱え、幕府と朝廷との間を周旋したが、最後は切腹。非常に優秀な人財であったという。長井家は長州藩の名門、45歳。
他に、 渡辺内蔵太・妻 喜久子の墓(前回の写真)甲子殉難十一烈士の一人で享年28歳
禁門の変後、保守派によって斬首される。
名越神社とフジ
拝殿
浄土真宗本願寺派 松林山 端坊
拝殿
説明文が読めないが、名鐘
長州藩医学館好生堂之址(好生館)
この後、探しまくってやっと見つけた上五間町の金子重輔の居宅地址
案外探してみると、野山獄・岩倉獄に近い
浄土真本願寺派宗晃天山 光源寺
東への道を進み、松本川近くへ廻っていきます。
萩往還を横断
前回見学したがホテルへのかえる道なので寄る小川家長屋門
楢崎弥八郎居宅地址
前原一誠旧宅址
前回来た時、近くの前原一誠の墓を見学していた時、墓掃除をされていたおじさんと、玄関前でまた会って、暫くお話をしました。前原家の子孫。
萩往還と山口市内・萩市内の見学は一応終わりましたが、まだまだ見落としているところですが、時間がないので終わります。また機会があれば来てみたいと思います。
明日は、萩藩の永代家老益田家の領地、須佐を回り益田市、津和野へ寄って帰ります。
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浅田のテストコメントです。