2023年12月7日
原町宿~山間部を南関宿~山鹿宿
ホテル6時45分出発、まだ周辺は薄暗い、羽犬塚駅7時~瀬高駅へ・瀬高駅から昨日予約しておいたタクシーが駅で待ってくれていた、昨日の原町の郵便局前まで、タクシー代3000円。 25㎞(寄らずに歩くだけなら)が今日の道のり、日が短いので頑張ろう。
山川町原町の街並み

左の443号を分け右の旧道に入る

その先の旧道

その先の待居川を渡ると、要川公園があります
山川指定文化財 要川と書かれた標柱 源平最後の激戦地との伝承



公園内に お堂と石塔群


古戦場碑

要川公園と街道(443号)を振り返る 山川町重富地区

暫く進み物見塚信号交差点で左からの443号に合流する、右からも新しい道が合流しています。その間の道


その先、左手三峯バス停の先に かさ地蔵と田尻因幡守種貞の供養塔


カサ地蔵と田尻因幡守種貞の供養塔


九州自動車道の高架を潜る

高架を潜ると左に 四里石の標柱


四里石前からの山川町北関地区の街道

左に 熊野神社立派な山門


神社の境内


結構広い神社

山川町北関の街道を進む

右手に 祠

松風の関跡の案内板 寿永二年(1183)にはすでに関があったと書かれている。7世紀の古代官道に設けられていた

案内板の前を右に下るのが旧道

下って右にカーブ飯江川(はえがわ)に架かる井出の元橋を渡って左へ川に沿う


二股を右への道を進む

右手の高台は高速道路、沿って緩やかな坂を上る

上りきると右手、九州自動車高速道路の八女94のトンネルに出るが、このトンネルかと思って右に潜るが、潜った先すでに藪で通れない


更にそのまま高速道を右に沿って進むと、八女96トンネルがあるとの事でそれを潜ると書いているので、坂を進んでいくが先は藪化して道が無くなる山に入る道がかろうじて見えるが、その道だと思うが少し不安なので諦める
やむなく戻って東の443号に出る。そこから今歩けなかった方向を見る。443号線を迂回

国道迂回道

国道を大きく右回りに迂回して高速を潜りみやま市から大牟田市四ヶ地区の湯谷の集落に入る、このトンネルがもしかして八女96のトンネルであったかも

トンネルを潜り左の高速に沿って湯谷に入る

湯谷の集落内右の高台に 浄土真宗本願寺派轉法山明行寺 立派なお寺なので見学、若い住職さんで、京都の龍谷大学を出て修行され、ここに戻ってきて後を継いだとの事で爽やかな気さくな住職さんで、暫くお話をする。
薩摩街道を歩いている方少ないそうで、住職さんと会うのは年間数人だそうです。帰りに地元の美味しいおみかんを頂いた。有難うございました。山間であるが立派なお寺、住職さんを見ていると納得。紅葉もまた綺麗
短い時間であったが、爽やかな気持ちになりました

本堂と堂内、庫裏

隣山の斜面に 神社

お寺を右に進むと左への高速を潜るトンネルがあるが真直ぐ進みます

真直ぐ進んだ先左T字路の地点に 境界石二基 が旧道を挟んで立っている向かって左が古く、右が新しい。江戸時代の筑後柳川領と肥後熊本領の国境を示す。分岐は左の道

右の新しい境界石は、江戸末期に古いのに取り替えられたと思われる。「従是西北筑後国柳河領従柳河札辻四里二十町余」と刻む

左の古い方は、江戸時代初期と思われ、3つに折れて中段と下段が残り補修している。「(従是西) 北筑後国立花(左近将監)領内 柳河札辻ヨリ是迄四里二十町余」このように刻まれていたのだろう
隣に新しい 豊前街道の標柱


境界石のすぐ先が二股になっていて、最初右の道を進んでしまったが、可笑しいと思って戻ってきた。旧道は左の道であった。角をよく見ると鏡の標識の傍に豊前街道の標識があった

左への旧道


やがて坂の上で車道に出ます

坂の上から振り返る

坂の上の道に出た正面に豊前街道の標柱が左を差しているので左へ


広い道を少し進み振り返る、向かって右から家の側を上ってきた

その先の分岐を左に進みますが、この辺りは高速道で旧道は消失

九州自動車道の高架を渡ります。国道443号に突き当たるので右に折れる。この辺り少し道が間違いやすい


九州自動車道を右に国道を下っていきます右手に九州自動車道の南関ICが見えます
この付近に 十一里木の標柱 があったようですが見落としました

暫く広い車道を進むと左に鳥居がある信号交差点で右に折れます

左手に 大津山阿蘇神社・目の神様生目八幡宮の大鳥居 がある

広い交差点の信号を右に折れて、九州自動車道の高架を潜る

南関町関町に入ります

〖南関宿〗 熊本県南関町関町
分岐があり右の旧道に入る

分岐点に 南関御番所跡の標柱

右の旧道の街筋

南関御茶屋跡(国史跡) 嘉永5年(1852)に完成

御茶屋全景
熊本細川藩家・宇土細川家・人吉相良家・薩摩島津家、参勤交代時にもたびたび利用されていた



御茶屋建物



御茶屋の北側の山道を上っていくと 南関城跡(鷹ノ原城跡)があるので行ってみました

上り口に建つ、鷹ノ原城跡・城ノ原官軍墓地鷹ノ原城本丸跡地への案内標柱

城跡への山道

城ノ原官軍墓地の説明と石碑 政府軍77名が祀られている



加藤清正の家臣加藤美作守正次が築城、清正自ら縄張り下城は慶長5年(1600)廃城元和二年(1616)だという

この地が、本丸跡右の方(北東)が二の丸左の方(南西)が三の丸。平坦部だけで約九万平方メートル

本丸跡


堀跡

城跡から下って再度御茶屋の前の広場に出る

御茶屋の前


突き当りの公民館を左に、この地は 高札場跡・手永会所跡


公民館

左の折れて、すぐ前述の分岐した道に合流で枡形になっている

右手に折れた先右に 豊前街道南関宿・乃木少佐宿舎跡碑


右手に 中町の恵比須さんの標柱



右手に 浄土真宗本願寺派舞鶴山正勝寺
室町時代後期永正(1506)の創建、西南の役で官軍の征討総督有栖川熾仁親王大本営跡


突き当りを左折れ右手に 浄土真宗舞鶴山真光寺

少し先左に郵便局、その東側が新しい南関町役場で立派な庁舎

南関宿を抜ける関川に架かる南関橋を渡る橋の袂にあった 豊前街道南ノ関宿構口跡 の新しい碑を見逃した

橋の先の二股は右の旧道

分岐に立つ 旧豊前街道の標柱

その先の車道を横断

迎町の街道

左少し高台に 石仏

そのさき左に 八塚の碑の標柱
碑文が読みづらく帰って調べたがよくわからなかった


藤ノ尾地区に入った右に 姫塚の標柱


最初は網で入れなくわからなかったが、高台の奥に 石碑 がありました。説明もないし詳しいことが分からないが、武士の娘が小原城落城にともない、ここまで逃れてきたがこの地で自害したという。地元に方の手で祀られてきたのだろう

姫塚から暫く歩くと分岐がある。角に 追分の道標と石塔群
薩摩街道と高瀬往還の道標 「右たかせ道・左やまか道」

街道右に小さな 石塔

石塔の傍の木の際に 豊前街道十里木跡の標柱

十里木跡標柱を右に見てその先の旧道を進みます

十里木跡を振り返る

静かな山間の気持ち良い道を坦々と歩く


緩やかな坂道


左に九州自動車道が見えて高速道に少し沿い、左に折れて高架を潜る

九州自動車道を潜ると県道に突き当たるので右に折れる

200m程県道4号を進むと県道は真直ぐ、左の細い道の旧道に入る

南関町小原地区 小原には 小原茶屋跡の表示 があったようだが逸した

分岐はどちらの道か分かりませんが左の道を進んだ

分岐した道が直ぐ合流します

小川の小さな橋を渡り緩やかに左に弓なりに進み、山の裾野の道路へ

左へ進む


街道左にこれより相ノ谷下北区の表示。表示の反対側、これより小原区茶屋東北区と粋な表示が架かっている


旧道は突き当たるので、T字路を左へすぐ443号に出る。443号線の向こう側に南関第三小学校

443号線を右に折れる

左に郵便局を見て暫く歩くと、南関東部工業団地入口信号交差点で向かって右斜め二階建て民家の左の旧道を進む

交差点を横断して坂道を下る

坂を下って緩やかな坂を上る

左からの道が合流する

合流した先の道

真直ぐな坂道を進む

やがて右手に神社の鳥居が見えます 南関町肥猪町(こえいまち)地区に入る南関宿と山鹿宿の半宿(中間)にあった

右手の 八幡神社

すぐ先、右手に 肥猪町官軍墓地


西南戦争で戦死した政府軍の兵士の埋葬地で180基、熊本県内には21ヶ所あるという。仕方ないにしても、激戦地であれば薩摩軍の戦死者もいるはずだが、その墓は見当たらない。勝てば官軍か

官軍墓地・八幡神社を振り返る

その先の旧道


その先、右手に 肥猪御茶屋跡の碑 遺構は残っていない

すぐ右手に 肥猪郵便局跡記念碑

記念碑の横に 豊前街道「左 九里木跡・右 南関御茶屋跡」の碑

街道すぐそばの お堂 二つ


右手に小さな 祠


集落が過ぎたところ分岐の左角に 旧道豊前街道の標柱 分岐を左に入り真っすぐ行くのでなく、すぐ右の お堂 の横に入ります。旧道が少しですが残っているようです


右手に縄をまいた 日露戦争戦没者碑と道路改修碑

三宝荒神の祀られたお堂


そのさき静かな気持ちの良い林間の旧道を下っていく


旧坂を下っていくと新道に出ました

右角に新しい 九里木跡の石碑 「左 山鹿 熊本城 右南関御茶屋跡」傍に「史跡 九里木跡」と書かれた朽ちた白い標柱が倒れていた

正面の旧道を下ってきた地点を振り返る

(※)私はここで大きな間違いをしてしまった。右に折れて新道を下ってしまった。
正しい旧道を後日資料に基づいて追加しました、実際には歩いていませんが。残念取り返しがつかない。
下ってきたところで新道を横断します。すぐ先の二股を左に、その先も静かな林間の道が続く。右手に豊前街道(旧道)標柱。左手に養鶏場。竹林の先、右手に旧豊前街道跡の白い標柱。その先栗林 右手に六本松の案内板、今は枯れて残根が残るという。その先で県道194号に出ます。右角に道標。その先も林間の道を下っていく。開けた場所に出て右折れする角に、白坂の案内板。道は蛇行しながら和仁川の袂に出て、平野橋を渡る、ここに昭和57年流失するまで眼鏡橋が架かっていた。
右へ川沿いに下っていく。左に折れて十字路を横断して真直ぐ。
平野の集落になり、左手に豊前街道平野 池田右京邸跡の石標があり、左にカーブしながら坂道を下ると自動車道に出る。右角に豊前街道の標柱、左角に参勤交代の道(豊前街道)の案内板。この辺りは「窪園」と呼ばれ、数軒の旅人宿があった。
間違った道ここで合流。
間違った道を私は歩いた443号を一応乗せます


左手にイボの神様(イボ石さん)


和水町の肥後梶原バス停傍の信号交差点に出ます


交差点の先、直ぐの和仁川に架かる梶原橋を渡りました

暫く静かな田園風景を見ながら進みました

梶原地区から小次郎丸地区に入る左手に 神社

300m程先、白坂地区で左T字路の443号線を左に分け、右(南)に折れました。右に折れるとすぐ和仁川に架かる松ケ根橋を渡りました

南への道を進んでいく


左手に大きくて立派な体育館が建っています

広い道は体育館までで、その先は少し細い道

左に石碑と説明板 北原松右衛門せきと平野真府
寛延元年(1748)37歳で庄屋となり、85歳で職を辞すまでの48年間庄屋を勤める。弘化元年(1844)97歳で没す。和仁川と十勝川の合流点のすぐ下流に6年の歳月をかけ「堰」を完成させた。この堰により村民の生活が豊かになったという


そのさき右に折れて、大きく東に迂回してきた和仁川に架かる橋を渡る


橋を渡り分岐を左に折れ、すぐの角を右に折れる。左手に お堂 が見えます

平野集落の道を進む

左手に 神社

神社の南側に 中原地蔵

すぐ先前述の間違った道と、正しい旧道の道は右から和仁川に架かる平野橋を渡ってきて、この地点で合流。
間違った道沿いにも結構、史跡が見られた。
正しい旧道は正面の建物の横に出てきていた。建物の横に 参勤交代の道(豊前街道)の案内板

この辺りは窪園と呼ばれ数軒の旅人宿があった。また、西南の役の際負傷した兵士の手当てをし、日本赤十字発祥の地といわれる説明板も建つ

正面の自動車道を横切り自動車道を少し進むと左の山裾に民家が見える、その前に上り道が見えます

左への民家への旧道を入る

民家の前の上り坂の旧道

急坂の上りだが気持ち良い


里人は 肘曲がり と呼んでいる坂道

左に折れた豊前街道の表示


やがて坂を下ると車道に出ます

車道に合流したところを見る

八里木跡とヒジ曲がりの案内板

車道を進む、左から下ってきた

岩村川に架かる寺本橋を渡る

橋から100m余りの分岐は右の道

分岐の手前左に歴史の道、光行寺の案内標示が立つ

光行寺前の街道

真宗玉祥山光行寺 立派な形の良い山門
右手 豊前街道岩村細川家御休憩の光行寺の碑




勝てば官軍至る所に官軍の墓があります
下岩官軍墓地 134基の墓 整然と並ぶ




お寺のすぐ先の分岐は右への道

山道に入っていきます


豊前街道 郡境碑~六本松の案内板 豊前街道 腹切坂 入口


腹切坂は永ノ原台地から寺本に至る200mの急坂で慶安4年(1651)御帳之控にその名が出てきている。
西国の武士が人を殺し、仇と狙う若い武士から逃れようと諸国を逃げ回ったが、逃げられぬと観念、この坂で腹を切ったという。
源平合戦に敗れた平氏の落ち武者がここで腹を切ったという。
肥後細川家より預かった大事な書状を無くした飛脚がこの坂で覚悟の死を遂げたという。
諸説があり腹切坂という名がついたといわれています.

旧坂を上るが気持ちがいい

腹切坂の全容です


案内板ですが影になりよく見えない

案内板ですが影になりよく見えない


腹切坂上り終了時点に、左後方からの道と合流するところに、豊前街道の碑と腹切坂の案内板 がある
こちらからの腹切坂入口


豊前街道永ノ原の石碑 更に100m程先、右からの道と合流する地点に立つ



そのさき右にも 豊前街道永ノ原の標柱

畑の中の街道を進む

その先、右手に 西南の役薩軍の墓の標柱 畑の向こうの森の中に薩軍墓地あるというので行ってみたが、藪に覆われ道が無くなって分からない。冬でこうなのだから、行政も標柱があるのだから整備すればと西郷寄りの私にしたらる。何も官軍と薩軍に分けずに、ちゃんと整備してあげて欲しい



薩軍の墓に入っていったところ、正面の森にあるのだろうが、この先藪で入れなかった。近くに住んでいるなら草刈り機で整備してあげるのにと思った。

そのさきの街道

その先、右手に 西南の役古戦場跡の案内板と ハゼ並木の案内板 当時、蝋の需要にこたえるため細川藩がハゼからの蝋を作り出し、18世紀後半に植えた、現在も10数本樹齢250年のハゼが残っている

古戦場跡は、現在静かな気持ち良い風景で。ハゼや栗林が続く




その先、左に 豊前街道郡境碑の標柱 「従是西北玉名郡」と刻む玉名・山鹿郡境碑が建つ。山鹿市に入る




郡境碑の前の街道を振り返る


その先、左に 豊前街道の標柱 側面には参勤交代と西南戦争の記述がある

西南の役、山鹿口の戦い跡の説明板、この先二つ分岐があるが、左の真直ぐな道を進む

ハウスや田畑が広がる今では長閑な街道


車坂
やがて今は道は改修されているが、車返りの坂と呼ばれた急坂であった

車坂途中右に 西南の役政府軍の跡の標柱
政府軍の台場が置かれ、襲いかかる薩摩軍を攻撃した跡、台場跡の前、車坂の街道


振り返ったところ

車坂を下っていきます

下り切ったところで、国道443号との十字路に出る

十字路手前左角に 史跡西南の役鍋田戦跡(車坂)の標柱 この付近は西南戦争の中でも激戦地の一つと言われる


国道を横断したところから振り返る。横断した先も旧道が続く。

国道を横断した先の旧道、正面の山の道に入る

山道に入る手前より振り返る

陰になって映りが残念だが、素晴らしい道

振り返り撮れた

ようやく素晴らしい山道を抜ける

左に、七里木の標柱、
この道は参勤交代路で、熊本城の札ノ辻(熊本市新町)の里程元標から七里(28㎞)の地です。かつては大きな榎が植えられていた



十字路に出ます右手に 平和之碑 左手に 西南の役戦没者慰霊碑やその記録の石碑 また追分石があり、山鹿市日吉町、松坂町との角に立っていたのをこの地に移転。「右国道兼松道」「左南関道」と刻まれている。左古代の森

西南の役 山鹿口の戦いの碑文 古代の森公園

山鹿口の戦闘状況図の説明板


西南の役山鹿口戦没者記名簿凄い数



移転されてきた 追分石



歩いてきた道を振り返る、向かって左の大きな 石碑は平和の碑
またもこの地点から間違って歩いてしまった。山鹿口の分岐を左に進み、すぐ先で右に折れる旧道が正しかったが

右の新しい広い道を進んでしまった

旧道より西側のみちを下り国道443号に突き当たり出てしまって左に折れた、右手に郵便局があります

国道沿い右手に 史跡西南の役熊本協同隊隊長平川惟一戦死の地碑
肥後細川藩の藩士の子息で、維新後陸軍中尉。征韓論により下野、明治10年の西南の役で熊本協同隊500名ほど率いた隊長として、桐野利秋の四番大隊に合流した。山鹿鍋田口付近で戦死。山鹿の戦いは、田原坂にも劣らない激戦と伝わる。443号線を東に進み鍋田横穴遺跡の岩野川に架かる鍋田橋に至った

前述の碑文や追分石のある十字路に戻り、その先の正しい旧道を資料に基づき記載させていただきます。
十字路を左手奥に、山鹿市立博物館がある。この辺りは肥後の古代の森として整備され、古墳公園になっています。
五輪塔や板碑が集められ、古田川に架けられていた眼鏡橋・大坪橋が移設保存されている。博物館の近くに茅葺の江戸時代の古民家が移設保存されている。
十字路に戻ると、チブサン古墳の石人を4倍に拡大したモニュメントと古墳の案内板がある。特養チブサン荘の前を抜け坂を下る。左にカーブすると、道路改修記念碑・豊前街道の標柱、岩野川の手前左に、豊前街道の標柱と国指定史跡鍋田横穴古墳がある。ここで443号に合流して、岩野川に架かる鍋田橋を渡る。
私に歩いた道と橋の手前で合流、今日は大きな間違いをしてしまった、折角の史跡等前述の分と共に残念。
暫く東に進むと山野川に架かる鍋田橋にでる手前左に
国指定史跡 鍋田横穴古墳




岩野川に架かる鍋田橋を渡り、山鹿市の市街地へ

更に500m程443号を東に進み、吉田川に架かる湯町橋を渡り山鹿市街地に入ります。443号を東に進み、吉田川に架かる湯町橋を渡ります

前方に洋服の青山が見えてきます。今晩の宿は国道を挟んだ左側にあるので、移動時間がなく助かります

本日はここで終了とします
山鹿のホテル 16時 着 50.010歩 30㎞
(補足)
ホテルに入り、暗くなるまでまだ少し時間があったので、ホテルで自転車を借りて、是非行きたかった日輪寺に走りました。
曹洞宗日輪寺
平安時代に天台宗の寺として開山され、鎌倉時代に曹洞宗に改められた。菊池武時、加藤清正、細川忠利ら歴代の藩主に庇護された名刹。境内には多くの史跡があります。
特に忠臣蔵で知られる赤穂義士の内、細川藩にお預けになった、大石蔵之助良雄をはじめ十七士の遺髪を納めた遺髪塔・その接待をした細川藩士の堀内伝衛門夫妻の墓があり、毎年2月4日の義士命日には義士祭りが開催されている。 自転車で近くまで走ったが、場所が分からず日も暮れてきたので諦めてホテルに帰る。ホテルの方に聞くともう近くまで行っていたとの事。またも失敗行きたかったが残念。(でも後日の回に訪問できました)


コメント