2012年7月24日
4時50分車で自宅出発、6時35分名阪針インター都祁道の駅近くに車を置きスタート地点を出発。
長谷から室生へ、古代人の信仰の跡
都祁水分神社~笠間峠~赤目口
この道は、伊勢街道の脇街道にもなっていた。初瀬から室生へ抜ける初瀬本街道と違って、 平城京と名張を直線で結ぶ近道。古代には飛鳥より古い「闘鶏国(つげのくに)」があり独自の国を持っていた。その後、大和朝廷に統一された。日本の原風景が楽しめる道。
笠間峠から旧道らしき道を下る、更に旧笠間峠があって一気に直線的に下る急な古道が残っていた。峠の上からの旧道が見つからず一旦舗装された道を3分の2程下ったところで旧道の案内板が見つけたので、そこから2km余り山道の旧道を上り旧笠間峠へ着いた。時間のロスではあったがそれ以上に旧道が歩けた満足感の方が嬉しい。再び旧道を下ることになった。
14時4分完歩、近鉄赤目駅近くの、初瀬街道の分岐点に合流。
45.487歩 27.29km 1.946kl
奈良市針町(旧都祁)針局の西側の T字路が起点
起点の辻、東北に建つ 春日神社


郵便局前より起点の西方向を見る

起点より古道南方向

起点を振り返る

左に今岡歯科医院の先で、名阪道路の高架を潜る

高架を潜り暫く南に広い道路を進む

左前方に都祁中学校の建物

右に 祠

左に奈良市都祁学校給食センターを見ながら田畑の広がる道を進む

左右の長閑な風景


新しい道路は右にカーブしていくが、旧道は真っ直ぐ進む

真っ直ぐ入った、ところで川を渡りそのまま進むが、少し左に入っていくと

田園が広がる先に集落が静かな風景を現している。この地方には大和棟の農家が数多く残る


集落の東に 観音寺

境内の 宝篋印塔

元に戻り南西に真っ直ぐ進む

やがて川に出るが、その十字路の川を渡らず左に折れる。右には都祁水分神社の立て看板と左辻の手前角に石碑が立つ


石碑と左に折れた道、正面の森が都祁水分神社(つげみくまりじんじゃ)

神社入り口

都祁水分神社 水の神様を祀る

本殿の横から(本殿は重文)水の神様、綺麗な色彩


本殿前の 狛犬 は鎌倉時代の作

都祁水分神社参道

神社の入り口で右に折れて、南東に田園の中を進む、青々した稲が美しい

その先で森の中の道を進む

森を抜けたところで左にカーブし、池に突当り池の堤を右にカーブしながら進む

ここで少し⦅寄り道⦆をする。まず池の少し手前の道を右に折れて南に200mほど歩き、バス通りに出たところ突き当たるので、右には来迎寺公民館があるが、突当りを左に折れて、バス停留所手前で右(南)に100mほど入ると、西山来迎寺がある。
善導大師来迎寺の石柱 の道標が何処に立っていたが思い出せないが

来迎寺 の参道と石段来迎寺は古刹だが現在無住


来迎寺


本堂裏手に、100を超す 五輪塔

来迎寺は、寺伝によると奈良大仏の造営にあたった行基の開創と伝えられています。1114年には、この地の豪族多田満仲の一族、僧顕鏡が寺境を定め、1223年蓮阿が本堂を建立したといわれ、阿弥陀如来を本尊とする。

来迎寺から細い道を下りてきて、公民館前に出ますと、燈籠と道標 が立っている
少し先で右に折れ元の道に出る


森を出て左に折れ、右手に池がありますので、その池沿いを右に曲がり進みます
右に曲がり、池の東北端の切れたところで、右に曲がりますが、⦅寄り道⦆するため、左に少し入ります


左に入る細い道があります、そこを入っていくと



小治田安萬呂の墓 飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族

無住の 観音寺と祠 があります。三体の地蔵が祀られています


その北側に 国津神社


元の池の角に戻り、南への畦道のような細い道集落の方へ進む

溝のある四つ辻を右に折れる

右に折れた四辻の先の畦道

その先で突当りを左に折れる

左に折れて、左へカーブ

公民館の前のバス道に出て左に折れる

少し歩いた右、田の向こうの森に神社の鳥居が見える

琴平大神


すぐの右手に、道標 「右 せんだ・・・」

その先、集落に入る

真っ直ぐな集落内の旧道

左に国津神社敬神会館があるので、その前の道を右に入っていくと

国津神社

元の街道に戻り集落の中を進む、大きな立派な建物が目につく

右に都介野局があり、その前から振り返る

左に見える


古代の都祁村
村内には、高塚遺跡など縄文時代早期の遺跡が確認されている。弥生時代の遺跡には東山遺跡、丸尾遺跡など、代表的なゼニヤクボ遺跡では、竪穴住居跡・方形周満墓があり、「ムラ」として古墳時代前期まで続いています。
大和高原で最大級の古墳である三陵墓西古墳が五世紀前半に、後半には三陵墓東古墳が築造 され、「古事記」「日本書紀」にみえる都祁直、闘鶏国造といった被葬者が想定される。両古墳の北側、低地部の緑辺から高床式建物の梯子や土師器が出土し、周辺の尾根筋には六世紀ごろの群集墳が多く作られ、「クニ」のあったことを想像することができる。
大化の改新後、「ツゲ国」は郷里制により都介郷になります。奈良時代には、平城京と伊勢を結び、都介野盆地を通過する当時の国道「都祁山之道」が開かれます。第七回遣唐使の僧、道慈が隠棲した「竹渓山寺」は都介野岳南麓にあったともいわれている。また、甲岡には薄葬令など当時の埋葬規制によって、従四位下の官位まで進んだ小治田朝臣安萬呂の火葬墓があり(国史跡)があり、副葬品からは高級官僚であったことを伺わせる。聖武天皇の伊勢行幸の時に、宿泊地となった「堀越頓宮」も友田にあったと考えられる。
三陵墓古墳群 綺麗に整備された古墳

三陵墓西古墳
都介野岳から北に伸びる尾根上に造られた古墳は、直径約40m、高さ約5m、墳頂部の直径約16mの大型円墳です。一段築成で墳頂部と墳丘斜面には葺石が施され、墳頂部の外周には円筒埴輪と朝顔形埴輪から構成される埴輪列がめぐらされている。築造時期は、出土した埴輪などから古墳時代中期(五世紀)前後と考えられている。平成8年3月22日に東古墳、南古墳とあわせて三陵古墳群として、奈良県史跡に指定されています。ここから見渡すと、水田がひろがり、山裾には茶畑が点在し、都祁の田園風景が一望できる







陵の回りは見渡す限り田園が広がる、山裾には茶畑、竹林などが点在する、田園風景が綺麗

古墳の西側の道を南に歩いて、街道に戻る

三陵古墳前に戦没者慰霊灯がある


前の旧道を東へ進む古墳公園から東に進むと、南白石旧集落に入る。昔ながらの家並みが続く

右に池を見て進む

古い家並みが続く白石の集落


バス停のところ南側に 融通念仏宗 興善寺 高い屋根が印象的だ。また境内の石造り物


興善寺の南側にある 薬師寺


右に辻村商店の先の白石交差点を横断する

南白石旧集落に入る

集落を抜け静かな林間の街道を進む

南白石集落を振り返る

右に 祠

緩やかな上り坂の途中から振り返る長閑な風景

小さな峠道に入る


右に池を見ながら茶畑を通る

峠

峠を越えると宇陀市

宇陀市多田に入るここから途中いくつかの分岐があるが、標識に「上笠間」あるいは「名張」と書かれた方向に進むと良い

右から車車道が合流します

室生多田に入る

左に 春日神社


右に 穴薬師
この石仏群は、室町時代初期のころ、薬師如来の十二神将、七仏薬師に因んで祀られたもので、染田天神と共に文化的価値が高く、特に耳・目・鼻・口・婦人病に御利益があるといわれています。古くから、毎年九月七日に無病息災のための会式が、近所の善男善女によって催されている。


すぐ先、染田口で道が分岐しているので、左の道を進み集落に入る染田、小原、上笠間と集落を進んでいく

右に染田公民館がある辻で、右にカーブしている

左の山裾を背に、道なりに進む


少し先を進むと、右から新しい781号線が合流してくるところを振り返る。

左は山、右に笠間川に沿って781号線を暫く進みます

奥山口のバス停真真直ぐ進む


その先でこのような枝道があるが旧道跡なのかわからないが廃道となっている

少しだけ右右に迂回する旧道

その先で道が分岐するので左の旧道を進む先ほどの道がやはり旧道跡であった、辻を見る


長閑な山村風景が続く

小原西口バス停

左山麓に、八幡宮の鳥居と拝殿、大木が見える

先を進んだところから八幡宮の森を振り返る


暫く道なりに進んでいく


県道改修記念石碑 左に小原公民館がありその先で右にカーブする


781号線に突当り左に折れて進む


前方にやまなみロードの高架が見える、そしてやまなみロードの高架下を潜る

高架下を潜った先の道んでいくと、左の旧道を進みまたすぐ合流する。
余り歩いていて古道という雰囲気がないです。すっかり道路改修がされています

その先に 阿弥陀磨崖仏
阿弥陀如来立像 この阿弥陀三尊は、三m余りの花崗岩に刻まれ、向かって右側には梵字の孔観世音菩薩が、左にはさく勢観世音菩薩が刻まれ、口碑として滝之尾長者一夜の作と伝えられています。碑文より浄土宗の信者と思われる。
石仏が出来た当時の室町時代中期から、明治初期までの、約400年間多くの旅人は道中の安全を祈願してお伊勢詣りをしたと伝えられている。
今も、病気平癒・進学就職・交通安全を祈願し、霊験あらたかな仏様として崇拝されています。


阿弥陀如来立像磨崖仏
磨崖石仏は、花崗岩を彫りくぼめ、中に阿弥陀如来が半肉彫りで現わされている。脇侍の観世音・勢至両菩薩は梵字で刻まれ、阿弥陀三尊を表わしています。天文三年三月十五日(1534)の刻銘があり、室町時代の重要な文化財。

その先を進んでいきます


旧道が分岐するので左の道を進む

東大寺二月堂お水とり 松明・・進の道の木柱


四辻に出るので、斜め右へ横断する

斜め右の道で、案内標示があります

少し先で笠間橋を渡る

左に学校

廃校となっている、角に 石碑 新しい校舎に思うが生徒数が少ないのかな


その先集落を左に見ながら進む


笠間簡易郵便局だが営業してるのかな郵便局を過ぎて10分ほど歩くとV字路となり、県道は右に、「三本松・名張」と記され、左は「峠・青葉」と書かれている方に進む

角に案内標示が立っています

ここからは林間のきつい登り道となる

いよいよ峠への道に差し掛かる


景色が一変し杉林の中の道へ入る、笠間峠越えまで暫く坂を上っていく


暫く歩いた右に、薬持ち地蔵 この峠のお地蔵さんは別名「かけ地蔵」といわれ、足の病気や種々の病に御利益があったといわれている。この伊勢街道を歩く人々に厚く信仰されました。また、この道は、伊賀一ノ井の極楽寺より東大寺二月堂お水取り松明の奉納送り道でもあります。

地蔵の前に旧道らしい道がありますが不明、だがまず間違いなく旧道跡、地蔵の下の旧道を峠に向けて上っていく


左に行くと水田や雑木林となり古い集落も目に付く。この辺りは別荘地で峠近くに分譲案内所がある。
真直ぐ

峠の手前で分譲案内所があり、道は三方に分かれるので、真中の道を直進したが、峠を越えて曲がりくねった道を下っていくが、古道は曲がりくねらなく真っ直ぐ下っていたようだが道が分からないので曲がりくねった道を下る
真中の道を進みました

案内表示が立つこの辺りが三重県の県境。どこが旧笠間峠か分からない、残念ながら期待して歩いたのと少し違っていたようです。気持ち良く長閑な山道を歩けるが古道の雰囲気はない
結果的に新しい新笠間峠越で、旧笠間峠越えの古道は一番右の道を進み、再度挑戦した古道を真直ぐ下るようです。


曲がりくねった真っ直ぐ下りていく、旧道は多分ここで右に折れていたのかもしれない

真っ直ぐの道を下る

住宅地が高台にあるようだ

県境で三重県に入る、この辺りが
【新笠間峠】辺り

この道を下らず別荘地内の旧笠間峠から下りる山道が本当の「都祁山の道」だが分からない
ここからは極端に右左に曲がりながら下る、最初はこの道が旧道と思っていて蛇行しながら 下っていったが、三分の二ほど下ったところで旧道の案内があったので、再度そこから旧笠間峠への山道を登り、下り道は再挑戦した。大変であったが、一応の達成感で満足。写真はその間前後していて判りにくいのであしからず
最初、新笠間峠を下る、県境より曲がりくねったみちを暫く下っていく


普通ならこの下り道が旧道(古道でない思います


折り返しのつづく林間の道を下る、所々で名張方面の町が望める

どんどん下る


名張方面がだんだんはっきりしてきた



蛇行を繰り返しながら下ります


かなり下ったようで名張方面がはっきり見えてきた

くねくね蛇行しながらかなりの道を下ってきたところに、旧道の標示があった。今下ってきた道でなかったようです。新笠間峠から2㎞下ってきたところで分かった。とにかく再度挑戦旧道を登ることとした。このまま諦めて下ってしまったら悔いが残るから
くねくね蛇行しながらかなりの道を下ってきたところに旧道の標示がある。地図上では居る場所がよくわからないが新笠間峠から2㎞下ってきたところで分かった。山道の2㎞は少しきついが、このまま下ってしまうと悔やまれるし、幸い時間もまだ大丈夫だから、案内標示に沿って、何処まで行けるか分からないが旧笠間峠への登りに挑戦してみます。

登り始めるとやはり前述の道とは様変わりの古道です


暫く歩くと舗装の道に出る、当然のことで蛇行していた舗装道をほぼ真直ぐ登っているので、舗装道を横断、右に案内標示があります。

旧笠間峠への案内標示がある、黒田坂 を上り2㎞あります



この先再度下りの時に写真を載せます

深野城跡(城山)
1394~1428に伊勢国司北畠氏の目代山本外記が深野城を築城し、近在を支配した。落城については1576年の北畠氏の滅亡の時点か、1581年の伊賀の乱の時期かである。

再度、登っていくと県境を越えて奈良県室生上笠間集落に出る

登っていくと、旧笠間峠の集落にでた

峠青葉集会所付近、ここの集落上笠間集落に来るには、先に迷った頂上手前、三方に分かれる辻を真っ直ぐ来たが、右に折れると旧笠間峠の石碑にでるのが分かった
【旧笠間峠】(上笠間)付近からの遠望

上笠間の集落


旧笠間峠の石碑



笠間峠石碑 より少し東に進む


県境の所で峠より真っ直ぐ下る旧道の案内標示がある
再度上ってきて旧道を見つけることができた大満足、ここから真っ直ぐ下る。ここから見ると穴倉のようだ。上ってきた道を下ります

下る口だが何か薄気味が悪い


下り口から振り返る

東大寺二月堂お水取り松明調達の道の標柱


曲がりくねった舗装道と違って、やはり古道だ


どんどん快適な道を下ります



古道の石垣跡が残る



舗装道に出ました

再挑戦した黒田坂の所に戻った、旧笠間峠から2㎞です

更に舗装道を横断して古道が続いている。ほぼ真っ直ぐ峠から下ってきた

更に黒田坂を下っていく

黒田坂と深野への案内標示



やっと舗装道に出る向って左が古道、旧笠間峠への登り。最初に蛇行しながら下ってきた舗装道との辻
往復約4㎞余りの道のりで時間をとったが、旧道・古道歩けて大満足

しかしまだ相当標高があるようだ。この先も旧道があったのだろうが、今は消失しているので分からない。舗装道を下る

標識通り下ります

標識があります

左に 石仏や五輪塔、宝篋印塔 が多数並ぶ


間もなく坂の下の集落にはいる

谷出集落入り口、この先集落内の旧道の下りが分からないので適当にらしき道を下り、坂之下交差点に出る

左に 石祠

正面に大きな民家を見た辻を左に

直に右へ

この辺りの旧道が分からないので、分岐を右に進み、少し曲がりくねった道を下る。その先で突き当たるので右に折れる。その先道なりに進むと、右にカーブする左に 坂之下公民館・お堂 がありそこで南東に下っていくと、国道165号線の坂之下交差点に出る。


坂之下公民館の横に出る

公民館の隣に お堂と石碑

境内に、大谷池・坂之下橋・公民館の領徳碑

隣に 石仏

下から振り返る全景、公民館・お堂

国道165号線の坂ノ下交差点に出る。初瀬街道(二つのルートがある)が右から合流してきます

交差点左手前左角に お地蔵さん

交差点へ下ってきた街道

交差点を横断してすぐ宇陀川に架かる坂の下橋

交差点を横断した右角(南西)に、五輪塔

交差点手前右には、福持酒造

都祁山の道 完歩
(補足)
宇陀川の北側の坂之下交差点で初瀬街道の一つのルート道と合流して完歩とするが、南側を通るもう一つの初瀬街道があるのにに合流して、赤目駅まで重複しながら進むこととした。近くにある駅は近鉄赤目駅だから。坂之下橋を渡らず
右に折れて国道に沿った下の道を進む

右に 宝泉寺 釈迦涅槃図が有名

宝泉寺の南側の信号交差点を左に折れて国道を横断。左側には錦生小学校

交差点を左におれる道

宇陀川に出る、ここで165号線に分かれた川沿いにきた初瀬街道と合流。初瀬街道は更に右に川沿いを進む。
初瀬街道は宇多川の北側の道と南側の道はここで分岐して南側は橋を渡る。
ここの辻で 都祁山の道は初瀬街道に合流

都祁山の道 完全完歩
(余禄)
宇陀川に架かる橋の上から左を見る

安部田地区、これより初瀬街道を赤目駅へ (詳細は初瀬街道参照)
橋から少し進むと三方に道が分かれるので真中の道を進む

右角に 道標 「右 赤目の滝」

左に宮崎医院の前を過ぎ田園の景色に変わる

その先の四辻で左に折れる

左に折れた先の田園風景と街道。すぐ先の四辻で左を見る、坂之下橋方向と山の稜線は「都祁山の道」の峠越えの道
街道としてはこの道であるかも

右に 東大寺二月堂お水取り松明調達の道。
「都祁山の道」の古道の峠越にも立っていた


左に 祠

更に進んだ右にも 松明調達の道の木柱

その先、滝川で突き当たるので右へ

先に丈六橋が見える

右に折れた先で突当りを左に折れて丈六橋を渡る

右角に立つ案内標示

丈六橋

橋を渡った右に 水神石碑

橋を渡った左に立つのは 道標か

初瀬街道の宿場風景が残る街道筋

右に 常夜灯が二基 かつての宿場町

初瀬街道の案内標示

宿場の中ほど左に 丈六寺

石造五輪塔
この五輪塔は、俗に良弁僧正の供養塔と称されている、地輪に「正応二年 月」(1289)と刻まれている、鎌倉時代の作。市内の五輪塔では最古のもの。

今日はここまでとして初瀬街道に委ねる。(初瀬街道公開したときにはまた見てください)

暫く、右手の民家から出てきたおじさんとお話しする
宿場内の街並み、国道より外れているので、情緒は残り車も少ない。ここを左に入り、近鉄赤目駅へ
右に入っていくと 八幡神社


丈六地区の氏神として古くから鎮座している。1350年京都より遷座した。天正伊賀の乱(1581)で焼失したが、その後再興。明治の頃、丈六・相楽・檀・長坂の諸社を合祀した。

線路近くにある、石仏

近鉄大阪線の踏切を渡り左へすぐ赤目口駅

都祁山の道 案内板がここにもあります

旧笠間峠、新笠間峠で少し間違ったが何とか終わりました
完 歩
6時35分スタート 14時04分着
45.487歩 27.29km 1.946kl
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