2011年10月31日~11月11日
門司~長崎市
2011年10月31日夜自宅を出て、大阪梅田から夜行バスで下関駅まで行ってJRで関門海峡を越えて門司駅経由の小森江駅へ。
2011年10月10日まで歩いてきている山陽道を、一旦尾道で終わり先に長崎街道を歩くこととしました。残したのは、有年~三石までの有年峠越・船坂峠越と尾道から下関までの間です。理由は前述の難所の峠越や、尾道よりの先も峠が多く山中の峠越の難所が多い街道で熊やマムシなどが結構多いと聞いているので12月に歩きます。
【長崎街道行程表】
2011年10月31日夜行バスにて下関駅へ、
【1日目】 11月1日 鹿児島本線小森江駅~黒崎宿
【2日目】 11月2日 黒崎宿~飯塚宿
【3日目】 11月3日 飯塚宿~原田宿
【4日目】 11月4日 原田宿~中原宿
【5日目】 11月5日 中原宿~佐賀城下
【6日目】 11月6日 佐賀城下~牛津宿
【7日目】 11月7日 牛津宿~嬉野宿
【8日目】 11月8日 嬉野宿~JR竹松駅(大村市)
【9日目】 11月9日 竹松駅~諫早城下
【10日目】 11月10日 諫早城下~長崎市出島
【11日目】 11月11日 午前中長崎市内観光
長崎街道完歩
長崎市内観光を終えて、引き続き長崎駅よりJRで彼杵駅まで戻り、平戸街道を引き続き、佐世保~平戸~名護屋~唐津への道を回る予定であった。彼杵の追分から佐世保へ進んだのだが、資料不足で街道の道がわからなく止む無く中止をして戻ることとなった。
何時の日か、改めて彼杵から平戸街道を歩き、唐津から唐津街道で博多・小倉までを歩いてみます。
長崎街道は、山陽道の延長で豊前小倉を起点とするが、近世に入り下関から近い、大里を起点する説もあります。小倉から長崎まで二十五宿、約250㎞の街道です。
長崎街道 〖1日目〗
2011年10月31日夜自宅を出発、大阪梅田22時20分発で下関行き高速バスに乗り翌朝8時25分下関駅着。鹿児島本線下関発8時49分のJR門司駅経由で小森江駅9時13分着。
小森江駅前9時30分スタート。
2011年11月1日
門司~黒崎
いよいよ長崎街道へ。一日中よい天気に恵まれたが予想していたほど進まず、目的地のずーと手前の黒崎宿までであった。すでにホテル予約しているJR筑豊線直方駅から13分の木屋瀬宿にある直方プラザホテルへ移動。JR筑豊本線で直方駅のホテルまで一時間余かかった、明日黒崎まで戻らなければいけない非常に時間ロスとなる。
はや一日目から計画が少しずさんであった、間際であるがホテルをキャンセルして代わりを探せばいいのだが、今までもキャンセルは殆んどしていないのでそのまま踏襲している。
小森江駅前スタート 9時30分
45.817歩 27.49km
山陽本線は下関駅から関門海峡を抜け門司駅に着きます。鹿児島本線はその北の二駅目の門司港駅が始発です。今回門司駅で乗り換え一駅の小森江駅からスタートします。
JR鹿児島本線小森江駅に降り立つ。駅から南側は前に大里という地名が付いています。長崎街道の第一宿です。門司港へは二つの新道(国道3号線と国道199号線)その間を鹿児島本線が通っていて全く旧道は消失しています

小森江駅から駅の海(西)側の199号線を少し南に進み振り返ったところで、筑後久留米藩屋敷跡です。小森江・門司港方向を見たところです。工場が立ち並んでいますこの先旧道は失われているので、小森江駅の西側(海側)の199号線南に300m程歩くと大里本町一丁目信号交差点にでます。信号のすぐ東の筋から旧道を進みます

名前の通り【大里宿】が長崎街道の第一宿です
大里宿は江戸幕府初期の譜代大名の小笠原氏が小倉藩主として寛永九年(1633)に転封して以降に構成されたと伝わる。もともとは小倉城下から九州の下関に渡海していたが、参勤交代の城下内での宿泊をよける政策で江戸中期以降になると九州の大半の参勤交代の大名は小倉城下を抜けて大里宿に泊まり下関に渡海していった。
大里宿は本土渡海の地点として九州の諸大名をはじめ、人々との往来で栄えた、宿場としては小規模であったが、本陣・番所・郡屋・人馬継所・牢屋など宿駅としての諸施設が整備されていました。
当時は宿場沿いの北側はすぐ海岸線で今は埋め立てられ工場などが立ち並らび環境は変化したが、宿場内の道路はそのままの面影を残している。
宿場の東を流れる大川の川口に久留米藩の屋敷が江戸時代末まであった。この屋敷は小倉藩から船入地として借り入れていたものです。(説明板より)
(宿場地図は左(門司側)から右(南)への地図で下側は西側の海岸線)



門司区大里本町一丁目2
海沿いの199号線の一筋東側の街道を進みます。向かって正面の赤い車の左側の道を入ります

ほぼ真っ直ぐ街道は南に進んでいます

すぐ右手に 西山浄土宗柳浦山西生寺 康正二年(1456)創建 本尊阿弥陀如来

この地に元々 小倉藩二代細川忠利の浜御殿(御茶屋)があった跡で小笠原氏の入府により西生寺が移転され本陣とされた、また小笠原氏の歴代藩主の参詣により庇護されてきました

街道を挟んだ向かいには 浄土真宗本願寺派西光山大専寺

西生寺近くの街道沿い右に 大里村庄屋石原宗祐屋敷跡碑
江戸期に凶作に苦しむ農民救済のため私財を投じて門司小倉に新田門司六本松に百拾八町余り開作した郷土の誇りとする功績者


街道左に大里宿 本陣(お茶屋)址碑
江戸期九州諸大名長崎日田代官、オランダ使節等が江戸への往復の途中休泊した小倉藩の施設があったところ

御茶屋跡の碑の傍の 八坂神社の鳥居 を左に入ると

祇園社・住吉社・稲生社の三社が

左に住吉社・中央に祇園社・右に稲荷社が祀られています境内に 道祖神(猿田彦・興玉神等々)などが並んでいます

宿場内右手には、備前屋跡・肥前屋跡・長崎屋跡 が並んでいました

御在番役宅・浜郡屋敷跡碑
この通路の入口右側は浜郡屋、左側は御在番役宅、突当りに御番所があった。浜郡屋では湊出入者及び船泊の検問、取締り等を役人・庄屋等が協議したところです

街道右手の碑の入口

左奥に 浄土真宗本願寺派佛願寺 立派な楼門が建っています、銀杏の巨木も立つ

すぐのところの信号交差点を横断すると、左角に門司大里本町郵便局があります 大里本町地区です

街道沿いに 重松彦之丞屋敷跡碑 脇本陣を務めた宿場内街道沿いには詳細に史跡碑等が建っています。郵便局のある交差点を過ぎた右手大里本町三には肥前屋・長崎屋が並んでいました

そのすぐ先左に 御高札・南郡屋跡
この地に御高札と南郡屋が建っていた、高札場は幕府及び藩の通達を掲示したところで、隣接の南郡屋は藩役人が各村庄屋へ通達と打ち合わせを行ったところ


宿場内の街道を振り返る、199号線より一筋入っただけで、往時の宿場街道の雰囲気が残っています

左に 人馬継所址碑
宿場の主要施設で継立の人馬を常備していた、旅人は料金を支払って人馬・駕籠をたのみ次の宿まで進んだりした場所

左の傍に 一里塚標石址碑

左、一里塚跡碑前より振り返る

街道松の名残

街道松のすぐそばの左に、門司ビール煉瓦館があり、その袂に
大里宿絵図と豊前大里宿跡碑
宿は直線五町五十二間(約646m)の街並み。ここには本陣・脇本陣・番所郡屋・人馬継所・旅籠が建ち並んでいた。またこの西隣には長崎番所が設けられていました


その前街道右手には 赤煉瓦の倉庫跡 でそこに 長崎番所跡碑
寛政十一年(1799)長崎奉行所は大里浦出張所をここに設置した。当時、玄界灘に出没した密貿易船の取締りと、対唐貿易の代物を長崎に送るため、保管中継の基地として設置しました

振り返ったところで、宿場内街道が真っ直ぐ進んできた、向かって右に名残松、左は赤煉瓦の倉庫跡の長崎番所跡、右手前は門司ビール煉瓦館でその右裏手にJR門司駅があります

開発により綺麗な町になっています、綺麗すぎて少し古の街道風景が消えています、振り返ったところです

関門海峡と対岸の下関市の眺望

天気も最高、海も綺麗で素晴らしい眺め

門司駅西側の綺麗な海岸線

これから先の海岸線

199号線の一筋東側の街道を進みます大里本町三丁目に入り、たかだ川に架かるなかはら橋を渡ります

GSがあって199号線の海側にはもじ楽の湯等ハイカラな建物が建並んでいます宿場を抜けて松原地区に入ります

右に 戦没者無縁供養碑


右手の海側は埋め立て地で工場が並びます街道正面に高架が交差し潜って進んでいきます

高架を潜ると松原二丁目で小さな川に架かる橋を渡ると、右に新町浄化センターがあります高架から400m程町並みを進むと左からの鹿児島本線の鉄道敷地に出ますので街道は完全に消失して線路の対岸国道3号線に出ることはできません。
線路敷地内は危険なので止む無く元の交差した高架まで戻り高架を歩いて国道3号線の信号交差点に迂回しました

国道3号線を600m程西に進むと手向山公園東信号交差点に出ます。その先は手向山を潜るトンネルがあります。
かつての街道は右の線路を斜めに超えてきて、新しい国道のトンネル右手の海岸際を線路沿いに、トンネルの先の高浜橋に出ていました。
今はトンネルを抜けるしか仕方ありません、トンネルを抜けると赤坂地区に入ります。
左に手向山公園の小山の入口があるので【寄り道】をします

旧道がないのでトンネルを抜ける、その先左に 水かけ地蔵

江戸時代から信仰を集めた手向山麓の「水かけ地蔵」は現在国道3号線の手向山トンネルの小倉側100m程手前の左にあります。
江戸時代の道は手向山海際の道か、冨野から鳥越峠を通り門司新町にでる八丁越えしかなかったようです。
海岸線の道は岩場になっており難所の道で「地蔵鼻」と呼ばれていました。水かけ地蔵の横には綺麗な湧水が絶えることなく出て、旅人の疲れを癒したそうです。明治期には茶店もあってところてんや草餅を売っていたようです。また慶応二年(1866)の長州軍と小倉藩の激戦地でもあった
手向山の西側を山頂に上っていく中腹に宮本武蔵の養子であった、小倉藩に仕えた
宮本伊織家代々の墓所。白い4基の墓が見えますが、手前から2つ目が 宮本伊織の墓

宮本伊織は宮本武蔵の兄、田原甚兵衛の二男として慶長十七年(1612)播州に生まれ、幼いときに宮本武蔵の養子となる。15歳のとき、明石10万石藩主小笠原忠政(忠真)に仕え、20歳で家老となり、翌年の寛永9年(1632)藩主の移封に従って小倉に移りました。
寛永15年(1638)には、島原の乱の戦功により禄高2千5百石から4千石に更に高禄となり、承応3年(1654)には養父武蔵の頌徳碑を手向山に建立しています。延宝6年(1678)67歳で亡くなる。宮本家の墓は、もと山上の手向山公園の武蔵の碑の傍にあったが、明治20年(1887)に陸軍の砲台が構築されたとき現在地に移転した。伊織の墓は墓地の奥にあり、「忠厳紹徳居士覚霊」と刻まれている。
小倉小笠原藩の家老職であった宮本伊織源貞次より代々の墓所であります。正保二年(1645)五月十九日武蔵は肥後熊本にて没後伊織は養父を偲び承徳三年(1654)藩主より此の山を拝領し、後に手向山とも武蔵山とも称す。現在も墓所は宮本家の私有地管理されています。 (説明文より)
手向山探照灯台座跡の案内板

山頂に上ると手向山砲台の構築と共に、夜間の敵艦の侵入を把握するため、砲台から北西170m、標高50mのこの位置に探照灯を設置した
山頂には前述の 宮本武蔵の碑
武蔵は数年間小倉に在住したと伝わる、寛永十七年には熊本に移り、正保二年(1645)5月十九日に没した。この碑は養父の武蔵を偲んで伊織が承応三年(1654)四月十九日に建立したもので、北九州地方第一の名碑とうたわれている。剣豪の生涯の事跡を伝える碑文は、武蔵と交遊のあった熊本・泰勝寺の春山和尚が記したものである。
(説明文より)

手向山山頂から南西向かって右手の高台が 鳥越峠(八丁越)で慶応二年(1866)七月長州軍と小倉・熊本両藩との激戦地跡

この碑は、作家の村上元三が新聞連載小説「佐々木小次郎」の完成を記念して、旧小倉市に寄贈したもので、昭和26年に建てられた。碑には、元三の句
小次郎の 眉涼しけれ つばくらめ
が刻まれています。佐々木小次郎については、隣の宮本武蔵の碑に「兵術達人名岩流」と刻まれています。武蔵との試合があったといわれる4月13日に近い日曜日に、毎年碑前で武蔵・小次郎まつりが行われているそうです。

(説明写真板)

巌流島 武蔵小次郎の決闘島

望遠で撮った巌流島

手向山砲台跡碑

頂上方向を見る

祠 を見て国道3号線に戻ります

国道3号線のトンネル方向を振り返る。正面が手向山、国道を暫く進みます

右の鹿児島本線に沿って国道3号線を進みます。かつての旧道は線路の南側を少し進み再び、この辺りから線路を右斜めに進み海側の赤坂5丁目の国道199号線の手前に出ていました。そこはもう海岸沿いです。そして高浜橋に出ていました。この付近の旧道は線路と国道でほとんどなくなっています

止む無く国道を進みます
国道は左にカーブして再び右に緩やかにカーブしたところの3号線の赤坂―東信号交差点に出て右に入ると左に
真宗木辺派宝樹寺 宝樹寺を左に見て鹿児島本線の高架を潜ると高浜橋に出ます、橋のところで右への消失した道は線路敷地ですぐなくなります

高浜橋の東詰で旧道に合流して左の高浜橋を渡ります。かつては土橋であったようです。かつては土橋であったようです

高浜橋から振り返ったところ橋から旧道が暫く復活しています

高浜橋から東西の旧道沿いに民家が結構並んでいます。右(東)に200m程行くと線路の敷地で旧道は無くなる。数十m海側には国道199号線が通っているので民家が残っているのでしょう
高浜橋から西に旧道を進みますが、300m程真っ直で民家も両側に立っています、赤坂五丁目です

民家の切れた先は砂利道に変わります。高浜2丁目です。
この先街道は会社の私有地等で消失しているので、右の199号線に出て迂回してもいいが私は行けるだけ行ってみます。左は鹿児島本線で越えられません。

企救の高浜
大里から小倉にかけての海岸は、「企救の高浜」とか「企救の長浜」と呼ばれていた。かつてこの長い海岸線には白砂と美しい根上り松が群生し旅人をなごませたと伝わっています。
万葉集にも
豊国の企救の高浜たかだかに
君待つ夜らは小夜ふけにけり
豊国の企救の長浜ゆきくらし
日の暮れゆけば妹をしぞ思ふ
九州諸大名の参勤交代や多くの旅人で賑わったが、今は臨海埋立造成によってその当時の様子は偲べない。
案内説明板の前から高浜の町並みをみる

大型トラック等の駐車地なのかなんとか私有地の中を進んでいきます

振り返ったところです

左に赤煉瓦造りの建物が見えます、なかなか立派なものです。こちらからは金網で入れないので確認ができない

左に 地蔵

庚申塔 が建っています

地蔵と庚申塔の少し前あたりから旧道が復活しています

右側に国道199号線が接しますが合流せずすぐ離れていきます

左に旧家が残っています 岩松庄屋宅跡

その向かい街道右に 閻魔堂引接庵(いんじょうあん)と称し円応寺の末庵

すぐ先右手に 貴船社

貴船社と前の街道

貴船社のすぐ背後は、小倉港です

少し先で山陽新幹線の高架を潜ります。高架手前右に長浜保育所があります

山陽新幹線の高架下の砂津川に架かる門司口橋を渡ります

門司口門跡の説明

【小倉城下】
今は門司口橋を渡り川沿いを左に折れて鹿児島本線の何本かの高架を潜り、一つ目の新砂津橋信号交差点の西詰で右に折れます、数十mの十字路を左に折れて、更に数十mの左T字路を右に(西)折れます
鹿児島本線の何本目かの高架を潜ります

新砂津橋信号交差点の西詰を右に、数十mの十字路を左に、さらに数十mの左T字路を右に

すぐ右手に 浄土宗生往寺

続いて右手に 浄土宗三省山正顕寺

岩松助左衛門の墓
境内本堂前に珍しい灯籠型の墓。岩松家は代々庄屋を勤めた、幕末に入り、小倉沖で暗礁に乗り上げる船が多く、海上の難所として船人から恐れられていた。
助左衛門は苦境の末、文久二年(1862)灯台建設を発願したが進展は容易に進まず、明治六年宿願の白洲灯台は点灯されたが、助左衛門はその完成を見ることなく、明治五年四月病没した、享年六十九歳でした。

正顕寺の前から街道を振り返る

浅香通りの信号交差点を横断します

瘡守稲荷神社の分社の 祠

やがてコレット小倉伊勢丹に突き当たります。一階の東西の中央通路がかつての街道の道幅を踏襲して、それぞれの入口には街道表示がされていたようで(残念ながらそのあたりを撮影逸しているので後悔してます)。定休日は通れません。デパートの1階の通路を西に進み西側に出ると、小倉駅前の大通りに出ます。右を見るとJR小倉駅、左を見ると都市モノレール小倉線の平和通駅があります。信号交差点で横断します。両側にはコレットから出てきた歩道橋が道路を渡っています。
右手には立派な小倉駅前と、モノレールが南北に交差しています。
この付近の旧街道は新しくなっているが、よく工夫をされています。駅前を左右に通る横断歩道が街道で、向かって進むと常盤橋、戻れば門司口。また街道の上をモノレールがクロスして小倉伊勢丹1階の東側玄関から西側玄関に抜ける店内中央通路が往時の街道の道幅を踏襲して、街道を意識して造られている。定休日はs通路は閉まるので歩けないが、本当に新しく変わっているとはいえ、その配慮が素晴らしい。

横断してアーケードのある商店街を西に進み京町2から京町1に進みます(室町通り)
やがて紫川さくら通りに出ます、少し右にずれて紫川に架かる常盤橋の東詰に出ます
常盤橋 小倉の象徴的な橋

常盤橋は江戸時代初期、城下の東曲輪(主に町人が生活)と西曲輪(主として武士が生活)を結ぶ重要な橋でした。
この常盤大橋を起点として、門司口門から大里や門司への「門司往還」、中津口門から中津や宇佐への「中津街道」、香春口門から香春や秋月への「秋月街道」、到津口門から長崎への「長崎街道」、鋳物師町から若松や芦屋を通り、博多~唐津への「唐津街道」が小倉常盤橋を起点として四方に分岐していた交通の要衝であった。
常盤橋周辺には旅籠や商店が立ち並んで、本陣も何軒かあった。橋の東側の橋本(現京町1丁目)には門構えのある長崎奉行や幕府の役人が泊まった「大坂屋」、福岡藩本陣の「鍋屋」、隣の船頭町には唐津藩などの本陣「素麺屋」、佐賀藩などの本陣「塩飽屋」、久留米・柳川・平戸藩本陣の「皿屋」、京町二丁目(現京町1丁目)小城・蓮池藩の本陣「枡屋」、宝町三丁目(現船場町)大村・島原・鹿島藩の本陣「銭屋」、橋の西側の室町一丁目(現室町2丁目)には小倉藩の「御客館」、
室町二丁目には中津藩の本陣「中原屋」、室町三丁目(現室町2丁目)には鹿児島・人吉・熊本藩の本陣「村屋」があった。この中で門構えの本陣は大坂屋・桝屋・銭屋・村屋だけであった。門構えのない本陣では藩主だけは門構えのある本陣に泊めてもらったという。これだけの本陣があったのでわかるように如何に陸路・海港ともに交通の要衝として賑わったかが想像できます。長崎街道の出発点は、前述のように正式には常盤橋の西詰袂の説が有力。大里から歩いてきた 街道の正式名は門司往還です。が長崎街道で通っています。
橋より京町通りを振り返る

橋の東詰の広場の公園に 伊能忠敬の測量説明案内
復元された紫川に架かる常盤橋、市民の憩いの場である

常盤橋から右(北・海側)側の景色

常盤橋の西詰に出ます、右角に長崎街道と嬉しくなる暖簾の架かったまんじゅう屋さんがあり、客も多くいたのでつられて入りまんじゅうを買いました。美味しかった小倉の町は綺麗な町です、また史跡にも特に気を使われて素晴らしい。一気に好きになりました。時間があれば一日ゆっくりしたいところだが。機会があれば是非ゆっくり来たい

西詰の川沿い広場の公園に 史跡 常盤大橋之跡碑

常盤橋の橋脚 の説明他

石柱は、江戸時代後期に橋を支えていた橋脚の一部で、常盤橋と河岸の 船着き場跡 の石垣が歴史を感じる

常盤橋を振り返ってみる、絵になる風景常盤橋と茶店であった白象饅頭を売る店

常盤橋を象が渡った話
享保十四年(1729)三月、八代将軍徳川吉宗の命により、鎖国の時代に唯一開かれていた長崎港へ広南(現在のベトナム・ホーチミン市)から雄の小象(七歳)が送られてきた。象は江戸城まで陸路を行くこととなり、長崎を出発一行は小倉城下に入りました。その時、常盤橋を渡ったそうです。途中、京都で天皇に拝謁することになったが、位がなくては会えないので「広南従四位白象」という立派な名前を付けた。この角の茶店の「白象饅頭」はこの事と、象が饅頭好きだった事に由来している。その後長い旅をして江戸城で吉宗に会うことができたという。
すぐ先左に 小倉縣廰ノ址碑

常盤橋から400m程先で室町五丁目(現在室町二丁目)の広い道路にでて右に折れます

歩いてきた宿場内の室町街道を振り返る

右折れしてすぐ先の信号交差点の手前で(実際は横断できないので交差点で横断)西側(左)の道に入るのですが交差点で迂回し道路向こう側に見える旧道に入ります。交差点右角(東)にセブンイレブンでそのまま真っ直ぐ行くとJR西小倉駅です

旧道を入るところが 大門跡 でした
すぐ正面先に 日蓮宗海宝山妙乗寺 応永32年(1425)日親聖人により開創された古刹

門前を左に折れます、長崎街道の案内標示

数十mで直ぐまた柴田提灯店の角を右に折れます数十mで直ぐまた柴田提灯店の角を右に折れます


更に60m程進んで左に折れる辻

広い道路の信号交差点を横断します

横断して数十mで右斜めの道を立町(現在堅町一丁目)に進みます

右斜め道を100m程進んだところで南北の広い車道を横断します

横断した先数十mのところで分岐します、右側奥に安国寺正面の山門が見えます。分岐を左側(南)に進みます。門前の一つ手前の分岐です

分岐の右奥の道正面に建つ 曹洞宗安国寺 (寄り道)
足利尊氏・直義兄弟の発願で全国に建てられた寺の一つで、豊前安国寺。
庫裡の前には、元和八年(1622)最上藩の内紛で細川家に預かりとなった、最上光直や寛文十一年(1671)伊達騒動に連座して小倉に配流となった 伊達宗興(伊達宗勝の子で正宗の孫)、小倉藩の儒者篠原級長の墓があります。
また芭門十哲の一人であった森川許六が造ったといわれる松尾芭蕉坐像 もあります

庫裡の前の墓

お堂 には本尊日限地蔵菩薩が安置されています

安国寺の一つ手前の筋の分岐を左(南)に120m程進むと突き当たりますので右に折れます(堅町一丁目)。左側は南北に広い道路が接近。右に折れて50m程で右T字路を左に折れるとすぐ左側にある心光寺の前を進みます。その南隣は公園となっています。
安国寺の一筋手前の分岐を左に

120m程先で突き当たります、右に折れる

右に折れて50m程先の右T字路を左に

左に折れてすぐ左手に(北九州市堅町一丁目)浄土宗心光寺
戦国時代最後の小倉城主、高橋鑑種の正室武姫の菩提寺でその子を祀ったといわれる亀房丸の地蔵堂もある

心光寺の南側に小さな公園があります
少し進むと信号交差点に出ます。横断して南に進みますが、ここで小倉城を見てみたいので【寄り道】します。左に300m程行きます交差点左に折れるとすぐ次の交差点左角にセブンイレブンがあります。更に200m程先の信 号交差点の西側に小倉城跡の天守閣が見えます
街道は信号を横断して真っ直ぐ進みますが、小倉城へは左に折れます

小倉城
関門海峡を控えた小倉の地は水陸両面の交通の要衝として、古くから重要視されてきました。
戦国期に入ると毛利氏が現在の小倉城の周辺に築城。その後秀吉の九州平定後、森吉成(後の毛利勝信)が本格的な石垣を持つ城に着手。その後1600年関ケ原の戦いでの論功行賞で、細川忠興が小倉城を大改修、城郭の完成を見た。細川氏が熊本に移転後、徳川の譜代大名の小笠原氏が入封、幕末まで続くが天保八年(1837)失火により天守が焼失、続いて慶応二年(1866)第二次長州戦争で城の建物がほとんど失われた。
昭和34年鉄筋コンクリートによって四重五階の天守が復興した。
大手門跡碑



復興された 天守閣

元の街道の交差点に戻ります。信号交差点を南に300m程真っ直ぐ進むと、田町信号交差点で北九州都市高速道路1号線の高架に出ます。高架を潜らず手前の高速道の高架下側道を右に80m程進み左に折れて高架下を潜ります

高架を潜ると道は分岐しています、真っ直ぐの道でなく右斜めの道に入ります

右斜めの旧道すぐ先右に 浄土真宗本願寺派萬徳寺
萬徳寺の東側の筋を100m程進みます

右からの道路と合流するところに出ます、左角にローソンがあります。ここがかつての
到津口門跡 で長崎街道の城下への出入口の門跡です

門の外側に左右の土塁と堀が連なり、門の内側には三角形の約千坪もある「勢溜」という広場があり、勢溜の周辺には、萬徳寺・西応寺、明治以降廃寺となった本立寺・明照寺・見徳寺と寺が立ち並んでいた。今は二ヶ寺のみとなっております。

到津口門跡から少し車道を進むと左に歩道橋があります。旧道はもう少し先で左に折れていたが横断できないので歩道橋で車道の東側に出ます。歩道橋のすぐ先の辻を左に折れます。歩道橋からの写真

左に折れる右の建物は福岡地方裁判所です。右にカーブした左は新小倉病院があります

病院が切れたところで左に折れすぐ右に折れる鍵の辻があります。左に折れるところが
清水口門跡 で説明板が建っています小倉城には十ヶ所余りの門があったが、主要な門は門司口門・到津口門・中津口門・香春口門でこの門はあまり利用されていないようで、幕末には土手を門外に築いて通行できなかったようです。門の前の道は旧長崎街道

清水口門跡のすぐ先の交差点左に 浄土真宗善龍寺


善龍寺のすぐ先で信号交差点を横断します、その先左に篠崎中学校を見て400m程進みますと、日豊本線の踏切に出ます

踏切を渡り左に清水小学校を見て200m程先の清水川小学校信号交差点を横断、交差点左角にローソンがあります

信号交差点からさらに220m程先で左からの国道3号線に合流します。この先旧道は真っ直ぐ進んでいたが建物で消失しているので迂回します。3号線を右に150m程進みの真鶴二信号交差点にでて左に折れます、左角に福岡トヨタがあります、100m程進んだ二筋目の十字路に出たところが、旧道の復活地点です

変則十字路になっていて旧道は南西斜めに進む。十字路右角につるや食堂があります

斜めに進んだ左に 浄土真宗本願寺派法輪寺

法輪寺の前から100m程進むと変則の信号交差点に出ます、道なりに右(西)に進むと、左に石段の参道があります高台には 曹洞宗大満寺 があります。


天正年間(1580頃)に創建、本尊は住職一代一度の開帳という秘仏で、現在は本堂の正面に安置しています。十一面観音で行基の作と伝わります。「塩買観音」ともいわれる


傍の街道沿い左に 水かけ地蔵

その先西に坂を下りながら住宅地を600m
程真っ直ぐ進みます途中、清水五信号交差点を越え、右に小倉金鶏郵便局、左に泉台小学校を見て、UR賃貸住宅到津南団地1号棟手前の信号交差点を横断した先で、住宅棟を左に見て右にカーブしたらすぐ信号交差点に出ますので左に折れます


左に折れて150m程進むと信号交差点を横断、左角にセブンイレブンがあります、その先で、槻田川に架かる茶屋川橋を渡り茶屋町に入ります

昭和地区の町筋を進む

槻田川から昭和~荒生田の街並みを900m程進みます。途中左に小野外科内科医院、右に明専寺があります。荒生田に入った街道右に 祠

石坪町信号交差点を横断します

その先300m程進むと右前角に小公園があるところで右から296号線が接近してきます。かつての旧道は小公園から右斜めに296号線の左を進み、400m程先の四条橋信号交差点を斜めに通り北側の公園に出ます。公園を抜けて板堰川を渡り、三条橋信号交差点の北側数十mの十字路に出て、旧道が復活していますが、その間の道は消失しているので、右の296号線を600m程先の三条橋交差点まで進みます。

296号線

公園内に 荒生田の一里塚跡碑 があります

296号線を進み三条橋信号交差点に出て、右に折れ板堰川を渡り、すぐの三条橋北信号交差点に出て次の十字路を左に折れる道で旧道不復活します

この付近に、三條の国境石の標柱があったようですが逸しました「自是西筑前領 自是東豊前小倉領」
十字路を左に折れてすぐ右に 高見神社の大きな石碑が建っています

右の 高見神社の参道 ですが街道から参拝しておきます

参道のすぐ先で道が分岐しています、真っ直ぐ下る道と、右に坂を上る道が分かれます。旧街道は右の坂を上る道です。大蔵1丁目地区です。150m程坂を上り左にカーブしながら150m程坂を下ります。
その分岐の角に 長崎街道跡の標柱 が建っています。右の道です


150m程坂を下ると、旧道はウエルでデコート大蔵のマンションビルで行き止まりますので、止む得ず左に下り296号線の一段高い側道道路を少し西に進む

296号線の大蔵信号交差点の少し西側の石段に出るので下って296号線より引き継いだ62号線に出ます

すぐに左、大蔵公園前信号交差点です

交差点の過ぎた左高台に 曹洞宗桂昌寺 が見えます。この辺りの新しくなった道が広く、なかなか対岸にあればよるのが難しい

その先右手に高炉台公園があります。中央一信号交差点で道は分岐しますので右の真っ直ぐの道を進みます

右奥に八幡小学校、道路沿い右に三嶋小児科医院があり、そのすぐ先の中央三信号交差点に出て横断します

中央三交差点より200m余りで右からの戸畑バイパス3号線と合流する、戸畑バイパス西信号交差点に出ます

かつての旧道は3号線の北側に出て、正面右に見えるベスト電器との間辺りを抜けて5号線の高架下を進み西へ、春の町団地を通って高架下より3号線の西本町一信号交差点に出ていたようです。春の団地のところで一部新道はあるようですが旧道は消失しています
3号線で5号線の高架を潜った左の高台に見える 浄土真宗東本願寺派浄信寺

5号線の高架を右上に見ながら少し3号線を西本町一信号交差点まで歩きます。高架の右側にはスペースワールドがあります

3号線を進みます

やがて西本町一交差点に出て左(南西)に折れたところから交差点を振り返る。交差点の南側に、豊山稲荷神社・豊山八幡神社 があったが寄れませんでした。やはり右を歩いているか、左を歩いているかによって、国道が車が多いので渡れない

交差点の西南角に大正四年(1915)建設の 旧百三十銀行八幡支店があり、現在ギャラリーとして活用されています

交差点から400m程進んだ先の尾倉二信号交差点を越えた右奥に 浄土真宗本願寺派光隆寺

すぐ先で広いロータリーに出ます。北に広い道を400m程行くとJR八幡駅です。ロータリーの左(南)側に八幡図書館があり、その前に国境石が移設されて立っています
国境石二基 「従是 東豊前国小(倉領)」 「従是 西筑前国」
古くから北九州市地域は、ほぼ中央から東西に豊後国と筑前国の二つに分かれていた。その国境線には、小倉藩と福岡藩によって建てられた国境石が沢山ありました、現在十三基が残っているその二つがここに移されています。二基とも上下が欠けています


ロータリーを右に南西に抜けるとすぐ先右に北九州地域救命救急センターがあるところの辻を右に入ります

右に入る辻

右手に八幡病院を見て信号交差点を横断して進むとすぐ広い車道に出ます。車道のすぐ右手に信号があります、形としては車道を斜めに渡り北側の道に出ます

数十mで中央分離帯のあるさくら通りの車道を注意しながら横断して進みます。前田地区に入ります

250m程先右手に 真宗真照寺 があります

前田地区の町並み

左の公園内に 前田の一里塚跡

公園の前の街道から振り返る

そのすぐ先で左からの道に合流して右方向へ

すぐ先で3号線に突当り3号線を左(西)に進みます

右手に教会があります

その先3号線を暫く重複、陣山地区を進み陣山一・陣山二と信号交差点を越えて陣山二信号を越えた左角にセブンイレブンがあり、さらに170m程先でバス停のところで右斜めに折れます

すぐ先に見える、鹿児島本線・黒崎バイパス高架道路を潜り左(西)斜めに田町を進む

高架を潜ったすぐの左斜めに入る田町の旧道
旧道に入る入り口の左に

黒崎湊の常夜灯
嘉永二年(1849)に航海安全を守る灯台として黒崎湊の入口に建立されたもので、今は消滅した黒崎湊の存在を示す貴重な遺産で、洞海湾にはかつて黒崎湊と若松港があった

城石村開作成就の碑
洞海湾が深く入り組んでいる藤田の浜の沖(現JR黒崎駅の北側)を埋め立てて水田を作る計画は、貞享四年(1687)から始まり完成した。その業績を記念して石碑に刻まれている。この辺りが 東溝口跡 でした

右手に道伯山があり 黒崎城跡 でもある
福岡城の支城として、慶長五年(1600)関ヶ原の戦功により黒田長政が筑前国52万石の大名として襲封した。主城として福岡城を築き、支城として黒崎城・若松城・大隅城・鷹取城・小石原城・左右良城の六支城を築いた。そして黒田二十四騎の一人、井上周防之房が城主となったが、元和元年(1615)幕府の一国一城令により廃城となり、わずか十数年の六支城は廃城となりました
高架を抜けて50m程進んだ右手に入る道の正面の山が黒崎城跡の道伯山(標高63m)が見えます

西への町筋

右に 高野山真言宗福寿山自在院

すぐ先街道沿いに 神蹟山海蔵庵
寺の歴史は古く延喜年中に聖武天皇の建立と伝わり、藤田浄蓮寺に所属する。本尊は阿弥陀如来で脇に六観音を祀られています

【黒崎宿】に入ります
およそ1.1㎞の宿場。寺前に 黒崎宿東溝口址の碑
番所のことで、元和元年(1615)黒崎城を廃し、城の南側にあった堀を埋めて溝口を開き、番所を設けたのが始まりで、黒崎の宿を抜けるには東と西にある溝口で検査を受けた。東の溝口田町には四人、西の溝口熊手には三人の役人が昼夜交替で詰めていました

東溝口跡から150m程進んだ十字路を左(南)に折れます
この十字路を左(南)に折れます左角には北九電子があります

100m程で再び黒崎バイパスとJR鹿児島本線の高架を潜ることとなります

左に折れた角は 町茶屋八幡屋(脇本陣)跡、隣に町茶屋関屋(脇本陣)がありました。一軒置いて高架の手前右に御茶屋跡(本陣)があった。特に黒崎宿の御茶屋(本陣)は広大であったそうです。 黒崎宿の旅籠は安政七年(1860)現在で関屋・八幡屋も含み二十一軒あったと記されています
高架を越えたすぐ先、3号線藤田二信号交差点の手前右には 桜屋跡
小公園となっている桜屋跡には、主人古海東四郎正顕と五卿にまつわる歌碑二基と説明板が建てられている


藤田二信号交差点を横断します

3号線を横断したすぐ先の十字路を右に折れます

右(南西)に折れた宿の商店街(銀天街)の街道

十字路を右に折れる左角に 黒崎宿人馬継所跡碑

右に折れる前に十字路を少し真っ直ぐ進み【寄り道】をします
すこし左の筋を入っていくと 春日神社 絹本著色黒田二十四騎画像 が保存されています


神社の傍に 東光寺
藤田浄蓮寺の末庵で、お堂には本尊は薬師如来が祀られています。
お堂の前には、願かけ(癌欠け)地蔵 春日神社の北側にあった、浄土宗浄蓮寺へ寄るのを逸した

元の十字路の街道に戻り進みますすぐ先左に 浄土真宗本願寺派対西山正覚寺


正覚寺のすぐ先右手は 代官所跡・郡屋跡 です

すぐ先の交差点を渡り振り返ったところ

さらに数十mで南北の道路を信号交差点を渡り商店街に入ります

広い南北の車道を斜めに西南へ、商店街を入ります

街道はアーケードのある上市までの商店街です

商店街が200m程続きます

途中左に 興玉神 が祀られています

その先で十字路を右に道なりに進み西に方向を変えます

すぐ先、左に入った先に 岡田宮


境内の巨木、車が小さく見えます

街道に戻り西へ、JR黒崎駅から南に通っている車道と交差します。その手前辺りが 西溝口跡 で、すくまで通りといっています

十字路から黒崎宿の西溝口跡を振りかえる。ここで宿は終わります。江戸時代はこの先西は人家がない寂しい風景であったそうです、今はその面影は全く想像できません

北側の黒崎駅方向

本日は予定していた距離が進めず黒崎で終わります。JR黒崎駅より直方駅へ1時間余りかけて移動、近くにホテルがないし思っていた目標にいけなかったから。木屋瀬宿に近い直方駅、今晩の泊はプラザホテル直方、駅から歩いて13分程の所。非常に時間的にロスですし明日またここまで戻ってこなければいけない。通しで長崎までホテル予約しているので計画が狂ったときは大変。


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