2011年11月2日
黒崎~新飯塚
朝5時30分まだ暗いホテルを出て15分ほど歩き直方駅へ、6時04分発JRで黒崎駅へ戻る。
6時48分昨日の起点をスタートする。(早朝から1時間余りの時間ロス)
今晩の泊まりは鳥栖なので、JR鳥栖駅で途中下車して駅のロッカーにリュックを預ける、身軽になって歩けるので今日は楽である。
今日1日の3分の2ほどは堤防に沿って歩いたが、車が非常に多いので気を引き締めて歩く。18時新飯塚駅近くの街道に着く。
6時48分 スタート
18時 着 結果見学しながら11時間余り
33km 55.000歩 よく歩きました
黒崎駅の南口の正面道路を南に進み、昨日の西溝口跡であった交差点にでて西に進みます。100m程進むと小さな川に架かる乱れ橋に着きます。街道は左斜め(南)の道を150m程進みます

信号交差点の車道を横断すると、東曲里町の「曲里松並木」の出入口に出ます

曲里の松並木
現在600本程の松が残り往時の街道風景を幅20~30m、長さ約310mを偲ぶことができます。
江戸時代の松は3本残るのみで、昭和に入って植樹され街道を整備している,でも往時の街道風景が十分偲ぶことができる

江戸時代の古木は無くなりつつあるが、植樹された松は整備され、往時の街道風景の松並木が十分漂っている

離れがたく途中にたまたまレストランがあったので朝早くホテルの朝食がなく、ここでモーニングを食べて一時を過ごしました松並木の街道はまだ薄暗い

古街道の碑 が立っていました

やがて松並木も終わり車道に出ます、左手に幸神一信号交差点があります

左手に沢山の お地蔵さん が祀られています

右手に 幸神

松並木の先の幸神さんの前から街道を振り返る

少し進んだ先左に 幸神の一里塚跡


その先で200号線の車道に合流します

その手前右に 古街道の碑 が立っています

幸町三地区の200号線を300m程進みます左に池が見える京良城町信号交差点で道は分岐しています。街道は右の広い方の車道を進みますが、左に下る道が 伝中世の古道の様で、暫く歩いた先で合流していました。分岐の正面の建物はメゾンモンブラン京良城

暫く200号線を進んだ右には八幡工高校を見て進んでいきます。正面前方に北九州都市高速道路のICの高架が交差しています

高架の引野口信号交差点で左の211号線に平行した増子川地区の旧道に入ります

高架を潜り200m程進んだところ増子川1で、左から前述の中世の古道が合流してきます


そして100m程先で車道との交差点を横断して、左に八幡上津役郵便局の前を通り、小さな川を渡ります。その間左に上津役小学校があります。川から350m程進むと右手に
蛭子神社とお堂 十一面観世音菩薩を祀る


蛭子神社から上の原地区に入り小さな峠になっています

蛭子神社から350mほどで右からの211号線と合流します

合流する左手に涼天満宮があります
上の原の 涼天満宮
菅原道真をお祀りしている菅原神社です。境内の大松の下で旅人が休息したので、「夢想の松」「涼み松」と呼ばれた。今は松は枯れ死してありません

合流したすぐ先の中の原一信号交差点にでます交差点を右に折れる道は、底井野往還(中筋往還・殿様道)
福岡藩の参勤交代道として使われていた

信号交差点を過ぎたすぐ左に 鳥居と祠やから様 が祀られている


底井野往還の分岐交差点より211号線を進むと右に中の原東公園があります、更に続いて右にナフコ・スーパーセンタートライアル店が続きます。211号線は緩やかに左にカーブして下上津役四信号交差点を横断、左にヤマダ電機があります

交差点から170m程進んだ二つ目の町上津役東信号交差点で道は分岐しますので、右の旧道を進んでいきます

すぐ先右に 蛭子神社 があります

神社の継ぎに左 浄土真宗西法寺

左の211号線に平行して南に町上津役西を進む、途中右に八児小学校・中学校があります

やがて北九州都市高速道路の高架を潜ります

211号線を進むと、小嶺信号交差点を横断して、千代一信号交差点を横断します。街道左一帯は小峰台の住宅地、右一帯は千代住宅地が広がります

緩やかに211号線はカーブします。小峰台二信号交差点に出ます。211号線に沿って細い道が郵便局の前を通っています

その手前小峰台二交差点を右に入ります

その交差点の角に案内板が立っています

案内板を右に見て信号を右斜めに真っ直ぐ石坂を上っていきます

石坂を上った街道沿い右の古木

お堂 阿弥陀如来をお祀りした、帆桂新四国第三十七番札所

興玉神 庚寛永三年牛四月吉日と刻まれています

少し進んで振り返ったところです

続いて右に 立場茶屋銀杏屋
長崎街道の黒崎宿と木屋瀬宿の間にあった「立場茶屋」で、参勤交代の諸大名や長崎奉行、幕府巡検使などが休息した。天保七年(1836)10月2日の火災で焼失したのち建て直された。庭にある銀杏の大木には今も火災の焼け跡が残っている

銀杏屋は、長崎街道に残る「上段の間」をもつ、唯一の立場茶屋の貴重な遺構として保存されています


庭には銀杏の大木と立場茶屋火災のとき銀杏の木も焼けたが、根株から芽がでて4本の幹が伸びています

立場茶屋の前から街道を振り返る

立場茶屋のすぐ先を進むと道は左に大きくカーブしていますが、街道は正面旧家の右側の道を 石坂を下ります

石坂の急坂
この急坂は、殿様も駕籠を降り歩いて上ったという。現在は整備されている。時期によってはツワブキが黄色い花を咲かせ目を楽しませてくれるそうです

坂の途中に天保元年福岡城下に生まれ、幕末最期の遠賀鞍手の奉行を務めた人で、明治二年退役後香月に移住した、明治九年没享年四十八歳。この上に一族の墓と共に眠る 各務弥三太夫一徳の墓


江戸時代、この地は長崎街道の黒崎宿と木屋瀬宿の間にある難所で、下石坂への道は現在階段になっていますが、急坂が残っています。黒崎方面への地形は、その面影を偲ぶことはできないが、今は住宅地で開発されていますが、かつて小嶺インターチェンジ付近から山を登り、頂上から「アケ坂」という急坂を下り、さらに「中の谷」の谷底から上石坂の急坂を登るという難所でした。このため大名でさえ駕籠を降りて歩いたといわれています。今は整備され石畳みや一部石段が敷かれています。
この石坂の頂上には、「立場茶屋銀杏屋」があり、その周辺には茶店が並んでいたそうです。(説明文より)

下ったところから石坂を振り返る

石坂を下りたところ左に 興玉神 が祀られています

石坂の先を進むと、黒川に架かる石坂橋を渡ります。橋の先、石坂から暫く真っ直ぐの道を南下して池田地区に入ります

石坂橋から振り返ると、峠になった石坂の急坂が振り返ることができます。今は開発されていますが、小さな峠越えであったが、急坂が続き、往時は難渋したことが浮かびます

石坂橋の親柱が残っています

黒川から550m程南下した先で池田信号交差点を越えて横断すると、右に池田小学校があります。
少し先で歩道橋のある211号線の交差点に出ます。交差点手前左右には池があります。左は井手の日池、右に中の池

211号線の池田小入口信号交差点に架かる歩道橋から、この先180m程重複して進むところを見たところです。歩道橋で渡ります

車道に合流して右に折れて少し進むとすぐ左手に 浄土宗香徳寺


211号線を右に中の池を見ながら180m程進むと馬場山信号交差点で、右斜めの旧道に入ります

右に折れた馬場山地区の道、街道前方に北九州都市高速道路の高架が交差しているのが見えます

高速道手前右手に 大日堂

お堂の周りを沢山の 観音様 が見事に沢山並んでいます。帆桂新四国第四十番札所で本尊は大日如来


大日堂の向かい街道左に少し入った200号線を越えたところには、熊野神社の鳥居と参道があります

高速道路の高架を潜り茶屋の原に入りますと右に

茶屋の原一里塚跡碑 が立っています

その先暫く茶屋の原地区を進みます、左に楠橋消防主張所があります、真名子2地区に入ると、右手に 灯籠と赤い鳥居 がある真名子経倉があります

信号交差点を横断した先で笹尾川に架かる真名子橋を渡ります

続いてすぐながれ川に架かる木屋瀬橋を渡ります

そしてすぐ筑豊電鉄の踏切を渡り木屋瀬に入ります。踏切の左側には木屋瀬駅がみえます

踏切を越えて左に大きくカーブしながら九州自動車道の高架を潜りますと
【木屋瀬宿】に入ります
木屋瀬宿は東溝口から西溝口までの約900mからなる宿場町。宿場の中心には御茶屋(本陣)・町茶屋(脇本陣)、人馬継所・代官所・郡屋・制札所があった、その他宿駅としてのすべての設備が整っていました。
天明七年(1790)の記録によると、戸数400戸・人口1290人、旅籠20軒余り、茶屋など休泊施設が並んでいたそうです。
木屋瀬の名が出てくるのは、六世紀蘇我氏に敗れた物部守屋の孫がこの木屋瀬に配流されたのが始まりといわれる。室町期に入り遠賀川の水運の拠点として重要な地であり大宰府への陸路の道として発展しました。
徳川期に入り宿はさらに整備され、参勤交代の道として木屋瀬宿は赤間道と長崎街道の追分としてますます栄えました。
九州自動車道の高架を潜るとすぐ先の辻辺りがかつての 東溝口跡 あたりです祭りなのは宿場をどりの幕が掲げられてます。溝口跡にはかつては街道沿い岡守用水路の傍に石垣がありその上に瓦葺の土塀が街道両側にあったそうで

すぐのバス停が過ぎたところで左(南)に少し方向を変え宿の街並みを進みます街道宿場の雰囲気が漂う街並みに入ります

左に古民家の江戸あかりの民芸館があります

かつての宿場図

江戸あかり民芸館の前あたりから宿の東溝口方向を振り返る

町並みを少し進んだところで右に入っていくと遠賀川の堤防道沿いに 扇天満宮 もと久保崎天神と呼ばれ、観応(1350)以前に鎮座の古社があります

横に 金刀平宮・庚申社 が並んでいます

扇天満宮の南側堤防沿いの道に、曹洞宗大儀山永源寺 当初は金剛寺と称し、金剛にあったのが、大永三年(1522)この地に移られた。本尊は木造聖観音立像で鎌倉時代の作と推定されています


元の街道筋に戻ります
重厚な古民家が建ち並んでます

右にすずみ医院が見えますが、その手前の十字路を左に入ったところ左側に 浄土真宗西元寺 天正十年(1582)開創

西元寺の道を挟んだ南側に 須賀神社 永享年間(1429~1441)に勧請され、寛永二年(625)再建された


木屋瀬盆踊り(宿場踊)
享保年間(1716~1736)宿の人が伊勢参りをしたとき習ってきた伊勢音頭に、大名行列の供奴の仕草や掛け声を取り入れて作ったものと伝わる、地元では宿場踊と称している。毎年8月13日~15日まで踊られています
木屋瀬祇園宿場祭
神社に古くから伝わる祇園祭、毎年7月12日13日に近い土曜日曜に行われている。昔の山笠は9m以上もあったそうですが、電線架設により大正時代に入り4m程に縮小された。
山車庫

神社の南側に街道左に 浄土宗長徳寺

街並みの十字路に戻ります、十字路を少し進んだすずみ医院の前から振り返る

すずみ医院の前から宿場の先を見ると、100m程で左に折れます。左に折れる手前左には 問屋場跡(野口家)
人馬継や飛脚・荷物を取り扱うところで、問屋場の前は広場になっていて仕事をしやすくしていて、また道幅も5m程に対し7.5mと広く、水害に供えて宿内の一番高いところの位置にあった。前には 制札場 があったようですそのすぐ先で左に折れます、左に折れる辻から振り返る、この辺りが宿の真ん中あたりで、振り返ったところです。


左に折れる右手には、長崎街道木屋瀬宿記念館が立っています。その敷地内がかつての、御茶屋(御本陣)がありました。その南側街道沿いには 町茶屋(脇本陣)が立っていました。本陣の道を挟んだ向かいには、郡屋(家)跡
木屋瀬宿本陣門
福岡藩では筑前六宿の長崎街道沿いの本陣は「御茶屋」と呼んだ。かつての本陣は木屋瀬宿記念館の敷地にあたります。この門は本陣門で大正十二年にこの場所に移設された

続いて右に 町茶屋跡(脇本陣) 長崎屋(中村家)、薩摩屋(石橋家) の二軒がありました

左に折れた筋、右手には 長崎街道木屋瀬宿記念館 旧本陣跡

少し進んだところから振り返ったところ正面が記念館

すぐ先信号交差点を横断した左新町に、代官小路と呼ばれるところがありかつての 代官所跡

街道を挟んだ向(右)かい側に 船庄屋跡(梅本家)

藩政期に、年貢米の集積場(米場)が木屋瀬に置かれ、24隻の川舟に限られその管理を一手に引き受けていたのが船庄屋の梅本家で屋号を「油屋やましも」と称し酒造業を、明治に入り醤油醸造業を営んでいた。建物は江戸時代末期の建築で宿を代表する町屋の一

並んで右に 愛宕山護国院 明応二年(1493)天台宗の末寺として創建火災病気平癒の霊験あらたかだとして参拝者が多かった

愛宕山護国寺前の宿場を振りかえる

続いて右に 旧高崎家住宅 「向う三軒両隣」で有名な放送作家、伊馬春部さんの生家でもある


さらに右に続いて豪壮な建物 村庄屋跡(松尾家)
木屋瀬宿には村庄屋・宿庄屋・船庄屋の三庄屋が置かれていた。村庄屋は村全体を統括し、松尾家は屋号を「灰屋」と称し、問屋役・人馬支配役等も務めていた。建物は江戸末期の建築で、宿を代表する町家の一つ


すぐ先、西溝口近く右に建つ町家建築 村庄屋(旧安田家) 渡し守が居住していたようです


すぐ先 木屋瀬宿西溝口跡
溝口は宿場の出入口にあたり、道路と直角に石垣を組み、その上に練塀を築いていた、扉は設けられていなかった。現在西溝口には石垣が残っています。西溝口の外側にあった元文三年(1738)と刻まれた追分の道標は、北九州市立長崎街道木屋瀬宿記念館に保存されています
長崎街道と唐津街道の赤間道の分岐を示す道標「従是右赤間道 左飯塚道」
西構口跡の石組の一部

長崎街道と唐津街道の赤間道の分岐点で正面右から長崎街道を歩いてきて、手前真直ぐ左に進むのが長崎街道で、進行方向を右に折れて向かっていだ里に折れて進むのが赤間道。少し行くと下記写真の興玉神社でその先は遠賀川の渡し場跡に出ます。
右の 追分道標「従是右赤間道、左飯塚道」と刻み分岐に立っていた。現在道標は北九州市立長崎街道木屋瀬宿記念館に保存されています


辻を右に折れると赤間道で、遠賀川の手前右に 興玉神社 正徳五年(1715)創建

遠賀川を渡る 赤間道 の 渡し場跡 対岸は赤間に至る植木
喪との分岐の交差点に戻る
木屋瀬宿の素晴らしい街並みをゆっくり堪能させていただきました
渡し場跡を右に見て堤防道に合流して暫く、遠賀川の堤防を進みます。合流する手前右に福岡生コン八幡工場があります

堤防の道を進みます、車が多いので十分注意が必要です、ところどころで堤防下の道が歩けます

やがて菜ノ花大橋が右にある菜の花大橋東信号交差点に出ますので、堤防より下に降りた道を300m程歩けます。先から振り返ったところです

菜の花大橋東信号交差点より400m程進むと信号交差点に出ます(感田地区)交差点で分岐しているので左側の道を進みます、この辺りは堤防改修工事等で旧道は消失しています。
信号の先で右の堤防沿いの73号線と、左の迂回する道の間辺りを尺岳川に沿って感田駅付近400m程先に通っていた

左の道を進んでいきます

左の真っ直ぐな道を進んでいくと、筑豊電鉄の感田駅に出ますが、その手前左にあるファミマの手前に道を少し左に入ったところに 柴田丹兵衛の墓 享保十八年(1733)五月、参勤交代の帰路、木屋瀬宿まで来た肥前島原藩の行列が大雨の増水で遠賀川を渡れなかった、家臣の柴田丹兵衛が浅瀬を見つけようとしているうちに深みにはまり遺体が感田に流れ着き、それを土地の人が墓を建て「大道信士霊位」と刻んで弔った

すぐ先で右からの消失している旧道との合流点辺りで、筑豊電鉄の踏切を渡り右にカーブします。すぐ踏切左側には感田駅

道は右にカーブしますが左手に 阿高宮

宮の先すぐの信号交差点を横断した先から振り返る。右に見える杜が阿高宮

信号の先すぐに尺岳川に架かる橋を渡ります。道は真っ直ぐ300m程南に進みますがかつての旧道は、川のところから右斜めに弓型に進んでいてその先左の堤防道の小野牟田橋信号交差点辺りで合流していました。更に旧道は、この信号の突当りを左斜めの河川敷に降りて日の出大橋、現在の橋の下のかつて河川敷の四辻に出ていました。止む得ず堤防を500m程歩き日ノ出大橋東信号交差点まで進みます

小野牟田信号交差点より振り返る。消失した旧道は正面真っ直ぐの道路に向かって左側を弓型に進んできていました遠賀川の手前の川は近津川です


堤防に沿った側道を進みます、消失した旧道は右の河川敷に下り、前方に見える日の出大橋下の河川敷に出ていました

堤防道を進むと日ノ出橋東信号交差点にでます。左(東)に直方のプラザホテルが見えます

日の出大橋の少し上流、東詰寄りの河川敷にかつて四ッ辻がありそこで右に折れて遠賀川を渡って対岸にでていました
別ルートとして
四ッ辻を曲がらず真っ直ぐ河川敷を進んでいた道がありました。日ノ出橋西側寄りの少し下流で遠賀川と彦山川に分岐しています。その彦山川の東側の河川に沿って、東勘六橋を越えて境橋の手前で河川敷を右に折れて彦山川の下境の店屋の渡しを渡り(現:境橋)赤地地区を通り再び遠賀川の東岸に出て、川に沿って左(南西)に折れて進み、平成筑豊鉄道伊田線の踏切を渡り、左にあかぢ駅を見て右に赤地地区公民館の南前の旧道を進み、右からの470号線と交差したあたりで、遠賀川を赤地の店屋の渡しを斜め左に対岸に渡って鷹の巣橋の鷹ノ巣橋西信号交差点辺りで長崎街道と合流する旧道がかつてありました。(直方時代の旧道)
この旧道は、直方町に福岡藩の支藩東蓮寺藩・直方藩四万石(後五万石)の城下町として成立、城下を形成するにあたり、街道は付け替えられて日の出大橋のところの渡し場を渡っていた。この道歩いていません
前述の四ッ辻を思い浮かべ、日の出大橋を渡り、橋の渡った左に大銀杏の木があります。伊能大図では旧道は河川敷の中程で大きく左(下流)に山型に進み、正面左の大銀杏の木のところに出ていたようです

橋の西詰、日ノ出橋西信号交差点に出ます

西詰から振り返ったところ

交差点より少し進むと右に 大師六角堂 城下町の 頓野口跡付近

すぐ先の津田町信号交差点を越えて、次の一つ目の信号交差点、右角に福岡銀行でその信号を左に入る

信号を曲がらず真っ直ぐ次の信号まで数十m行った左に 浄土真宗本願寺派寿光山圓徳寺
寛永元年(1624)黒田支藩の直方藩の城下町形成時に植木村より移転

鬼瓦 は明治41年の本堂建立当初の棟瓦で、重量約400㎏・幅3m・高さ2.5m・奥行54cm三州瓦製の秀作

江戸時代中頃(1700年頃)の直方陣屋城下町
元和九年(1623)福岡藩主黒田長政は、四男高政に四万石を与え支藩を開くよう遺言を残した。当初は東蓮寺と呼ばれた。寛永三年(1626)に町割りが行われ、現在の古町・津田町・殿町の市街地が形成された。この当時は一国一城令により藩主は陣屋(館)に居住したため陣屋城下町と呼ばれていた。東蓮寺藩は双林院の場所に陣屋がありました。延宝三年(1675)には東蓮寺は直方と改められ、その後五万石に加増され御館山に新陣屋を造営し新町の町を形成した。しかし、享保五年(1720)直方藩4代の長清の死とともに直方藩は100年の歴史に幕を閉じました

右角に福岡銀行のある交差点を左に折れて「ふるさと通り」のアーケードの商店街を進みます。交差点を真っ直ぐ進むと筑豊本線の直方駅に出ます

長崎街道は古町の商店街通りで、アーケード街として普段は賑わっている

直方西構え口跡古町南端にあった 構え口の跡

商店街の途中で、古町から殿町の境で車道が交差します、現在の市街地の中心地辺りです。左角に旧福岡銀行南支店の洋風建築の建物があります。大正初めの建築で現在 直方美術館として開館しています

煉瓦造りの旧福岡銀行の建物のある交差点をすぎ、殿町に入り100m程先の一筋目の十字路を商店街のアーケードを離れ右(西)に折れます。右に折れた街道を300m程進みます。元禄期の旧道は右に折れず商店街を真っ直ぐ進み新町の信号交差点で合流していた。
その先、T字路になる手前右に貝島邸跡があります

炭鉱王の邸宅



筑豊本線の手前でT字路なりますので左に街道は折れる。右に行くと直方駅に行きます。
直方駅から線路を挟んだ西の丘陵地には、北から一番北に 浄土真宗本願寺派覚王山西徳寺 南側には 臨済宗大徳寺派積翆山雲心寺、寛永三年(1625)建立の名刹、黒田高政の菩提寺で高政に殉死した若い小姓4名の墓がある。
その南に、池上山白蓮院と号し 浄土宗鎮西派随専寺 更に南に 高野山真言宗東蓮寺 が丘陵地にありますが、寄ってみたいが時間的に無理なので諦めます。
左に折れたすぐ先右、線路の西側の丘陵地には 多賀神社宝永の鳥居 があり大きな 常夜灯 もあります

鳥居の前、街道を挟んだ左に 双林院 があります

西側からの多賀神社の鳥居と参道鳥居を入ると神社へは筑豊本線の陸橋で渡ります
多賀神社


多賀神社の南、市民球場付近一帯は 御館跡(陣屋跡)であった


右の線路西の丘陵地、御館跡を見ながら進んでいくと、新町に入り1丁目の角に、新町北公園があり、ここで左から前述の商店街を真直ぐ進んだ 元禄期の旧道が合流します。合流してすぐ先で新町信号交差点に出ます
左から勘六橋を渡ってきた道路が交差します
合流した左手に 須賀神社 須賀神社の南で新町交差点

線路の西側高台に直方市体育館が見えます

新町1の北公園方向を振り返る

新町信号交差点を越えて南に新町を進んでいきます。新町の街筋を振りかえる
次の信号交差点を越えます、右に行くと平成筑豊鉄道伊田線の南直方御殿口駅

左奥に直方南小学校を見ながら新町3を通っていきます。真っ直ぐの旧道を暫く南に進んでいきます

右手に重厚な旧家の建物があります

その先の五差路で民家も少なくなり城下も終わりです
尾崎口御門跡
直方藩のあった時代(1623~1720)南の出入口跡。その時の土塁跡がその先の無人踏切まで残っています。土塁の袂は竹矢来が組まれ、左右に大規模な土塁を築いていた。そして外側には、外枡形を構成した厳重なものであった。遠賀川の洪水に供えた堤防でもあったそうです。

御門跡のすぐ先で右斜めに入る旧道があります、新町から丸山町に入ります

旧道に入り100m余り進むとT字路となりますので右に折れてすぐの踏切を渡ります。T字路のところから振り返ったところ

T字路を右に折れJr筑豊本線の第二尾崎踏切を渡り左へ進みます

踏切を渡ったところの分岐を左の線路側に進む道。右の前方に貴船神社の杜が見えます


貴船神社の杜を巻くように進み、すぐ先で左に折れて南に集落を進みます



やがて再び左からの筑豊本線の踏切を渡ります、踏切から100m程先で200号線に合流して、右に重複して少し進みます

120m程200号線を進み再び右に折れて筑豊本線の踏切を渡り北側に出ます、その手前右に

線路の南側の200号線の付近は、岩鼻と言って、川に突き出た岩盤を開削することによって直方を通過する長崎街道ができました。それまでは前述の遠賀川の対岸の旧道を通っていました
踏切の手前にある 灯篭

第二岩鼻踏切を渡り振り返った写真、向かって踏切の向こう側が灯篭

踏切を渡り道なりに左斜めに進みます

(この先の道説明)
その先、何本か右への枝道がありますが、道なりに左側の旧道を進みます。やがて踏切より450m程先で少し広くなった二股の分岐に出ますので、左の道を進みすぐの小さな川を渡り、道なりに250m程進むと広いT字路の道路に突き当たります。街道は右に折れて進む。T字路を左に100m程いくと勝野駅前の北側高架歩道橋の前に出ます。
広い道路を右に200m程進んだところで、広い道路の右側に沿った旧道を分岐して進む。
すぐ道沿いにふじコーポが建っています。ふじコーポ手前の分岐から緩く蛇行しながら道なりに300m程進んでいくと分岐に出ますので左の道へ、南西の方向に80m程変えたところで十字路に出て横断すると、すぐまた小さな川を渡ることになります。川より100m程進むと変則四差路に出ます。ここが 南良津唐戸(水門)です


南良津唐戸(水門)
昔から遠賀川は洪水に悩まされ住民は災害に苦しんだ。黒田藩はこれを解消するため寛永六年(1629)に堤防を築きました。唐戸の川上に面した中央の石柱は、回転して、洪水の際には流れてくる、ちり、あくた等をうまく下流に流すよう工夫されていたそうです。またこの唐戸の上の街道は江戸時代の幹線道路で、参勤交代などに多く使われていた旧道でした



かつての街道は水門から南に通っていましたが、旧道は消失していますので、この先どの道を進んでもいいですが、私は止む無く東への道を150m程進み筑豊本線の手前まで歩き、線路の手前で右に折れて400m程左の線路に沿って南に歩くと、470号線の高架道路の下に出ました。
とんとん唐戸橋から西の川沿いを眺めたところ

唐戸橋より東に進み、線路手前の道を右に折れて左の線路沿いを進む。前方に高架道路が見えます

旧道は線路の敷地で消失していますので、細い道を沿って進みます。やがて高架道路の下に出ます、そのまま真っ直ぐ進みますが、高架道路を左に行くと遠賀川に架かる鴻ノ巣橋が架かっています

高架道路を潜り少し進んだところ、今は完全に旧道は消失していますが、前述の直方の街を通る以前の旧道は、遠賀川の対岸(東側)から赤地の店屋の渡しを渡り河川敷を斜めに進んできてこの辺りに合流していました。
今は全くその痕跡をみることはできません

暫くは川を左に見ながら沿っている堤防道です。
かつては「奈良津の大藪」と呼ばれた広大な竹藪で「長藪騒動」の舞台となったところです。
長藪騒動
正徳三年(1713)の閏五月十日の深夜、江戸に向かっていた二人の薩摩藩士が小竹町南良津の土手で五人組の盗賊に襲われた事件「長藪騒動」のとき、負傷した内田仲左衛門はこの御門にたどり着き急報したが、門が固く閉まっていて入れず、再び引き返し町の有力者「龍徳屋」宅で手厚い看護を受けた。
翌日直方藩で事件の顛末を知って驚き、五人のうち三人は薩摩藩士に切られ、残る二人は逃走したが捕縛された。事件は大きな衝撃を与え、武勇の薩摩藩は称賛され、これ以降薩摩藩の参勤交代では龍徳屋が小休み処として、また肥前鍋島藩などもこれに倣ったため小竹の街が「間の宿」と発展するきっかけとなる。以後、看護を受けた内田家と龍徳屋原田家の友諠は長く続き明治に至った。龍徳屋は裕福な商家として大庄屋も務め、現在も龍徳屋酒店として現地に残っています。

200号線の堤防道路に出て、右に筑豊本線。左に遠賀川に沿って進みます

所々堤防に沿った旧道が残っています

幅の広い歩道、また両側をガードレールで防御していただいているので非常に助かります


長崎街道跡の 道標と石佛・お堂 があります


小竹地区に入ると左に御徳大橋が架かっています。御徳大橋西信号交差点を横断して真っ直ぐの200号線の街道を進む


やがて信号交差点があり交差点手前右にJR小竹駅があり、左はふれあい橋が架かっています。さらに200号線を南に川沿いを進むこと500m程で右手に小竹町役場があります

右手の小竹町役場

【間の宿 小竹】
直方から小竹(当時は勝野村)までは、遠賀川の河畔にあり、元和年間に黒田長政によって大規模な堤防が造られた。そして南北百十間程の街並みが形成された。もともと竹が多くそこから小竹の名がついたようです
小竹町役場の傍の杜に 小竹十三仏


役場の前の信号交差点で分岐しています、200号線を左に分け右の旧道で町に入ります

旧道を進んだ先で、旧家が目につきます

左のセブンイレブンを過ぎた先、右に 曹洞宗龍屋寺
文永元年(1364)の創建と伝わる古刹


一風変わった 鐘楼門

小竹の街並みを振り返る、趣のある素晴らしい街筋

すぐ先右に小竹貴船神社

貴船神社 石の鳥居が街道沿いに、村の鎮守で享和年間の創建


前述の長藪騒動で説明しました 龍徳屋の原田家
建て替えられているが、歴史のある旧家で現在酒店を営む

長崎街道龍徳屋の 小休処跡碑

龍徳屋の前から街並みを振り返る

龍徳屋の先の街並み、小竹上町に入ります

右に筑豊本線が接近した右の上町に 上町の六地蔵


横に 庚申塔

すぐに十字路があり、真っ直ぐの旧道を進みます。この辺りには 一里塚跡 もあったようです

十字路を左に行くと遠賀川に架かる口ノ原橋があります、十字路から小竹の間の宿の街並みを振り返ったところ

すぐ左角に 石碑と

右のブロック塀の袂に 郡境石 「従是北鞍手郡 勝野村」

右に坂本医院を見て南に進むと、左からの200号線を横断する、目尾信号交差点を越え右に200号線をほぼ並行して南西に目尾地区を進んでいきます

ちょっと分からないが 宝篋印塔

少し先に 高野奥の院が祀られ 周りに 沢山の石佛 が並んでいます



高野奥の院前の街道

その先で左からの川に沿ってきた道と合流して少し右に方向を変えて、筑豊本線の高架を潜ります

遠賀川の堤防道を左にカーブしながら進みます

堤防で100m程進むと分岐がありますがそのまま堤防道を、さらに80m程先で分岐に出ますので、この分岐を右に下ります

右手に目尾小学校・吉塚精機を見て細い旧道を進みます

小さな分岐は真っ直ぐ進む

石造りの 祠

やがて右からの200号線に合流します、合流して50m程進んだ先で、左斜めに旧道は進んでいたが、消失してありませんので、200号線をそのまま進み鯰田渡信号交差点を越えます。交差点を左に行くと、遠賀川に架かる鯰田大橋に出ます
鯰田交差点から350m程200号線を歩いていくと、右手にある終末処理場への引き込み川を渡り、暫く200号線を進んでいきます

200号線が右に分岐する二股があります、街道は左の堤防道です。分岐したところか400m程進んだところで、

再び分岐して今度は右に下っていくのが旧道です


下ったところで右に急カーブした集落に入ります

右手に広大な敷地の旧家 伊藤伝右衛門邸 があります
筑豊の炭鉱王で妻は歌人の柳原白蓮で贅を尽くした建物。
明治三十年代後半の建築、旧長崎街道に面し広大な回遊式庭園を持つ近大和風住宅。ただ伝右衛門との生活は幸せでなく駆け落ちしている

玄関



伊藤邸の前街道左手には 浄土真宗本願寺派天心山無極寺

伊藤邸の前を過ぎた街道の街筋

すぐ先で200号線と交差する信号交差点に出て左に折れます

左に折れて200号線を300m程進んだ許斐神社信号交差点に出ます、北に少し進んだところに、
許斐神社の鳥居と参道

許斐神社信号交差点で右の旧道に入ります歩道橋で渡り上から今来た200号線を見ました


歩道橋を降りて右の旧道を入ります、左に金澤整形外科医院の前の道です

すぐ右手に 曹洞宗高林寺

高林のすぐ先で左にカーブして南に300m程進むと、左から来る車道、東川津信号交差点を横断します。左角にニッサン


すぐ先の十字路を右に方向を変えながら進み

すぐ先でU字型にカーブして小さな川を渡ります。右にシャトー水江

南への直線を200m程進みます

その先で建花川に突当り渡れないので、左に折れて堤防を80m程

少し左の上流で遠賀川が分流した建花寺川にかかる二瀬橋に迂回します

二瀬橋を渡ると水江信号交差点がありますので、交差点を数十m右に折れて前述の対岸の突当りの延長線上にある、一筋目の道を左(南)に折れます
すぐ先右に 祠

南へ真っ直ぐな片島の街並みを進みます

片島信号交差点を越えた右に 浄土宗竹園寺 があります

さらに300m程進んだ片島一信号交差点で本日は終了とします。
交差点を左に折れて211号線を越えて遠賀川に架かる新飯塚大橋を渡りJR筑豊本線の新飯塚駅まで1㎞余り移動しなければいけなく、また予約しているので新飯塚駅から博多駅経由で鳥栖駅へ、今日の宿泊ホテルトスステーションホテルマツザカに泊まる、約2時間の移動予定の都合で無駄な時間とした。ホテル予約しているので、余程のない限りキャンセルするの嫌なので仕方ありません。


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