2011年11月6日
佐賀宿(佐賀城下)~牛津宿
武雄温泉駅パーソナルホテルゆうを出発してJRで佐賀駅へ移動
今朝からかなり強い雨が降っている多分思うように歩けなくて予定が崩れるだろう辛い。とりあえず、6時30分ホテル出発、6時49分発で佐賀駅へ。
8時より残っている佐賀城を中心に市内観光していけるところまで行こう、今晩も武雄のホテルなので最低はここまで歩きます。重い荷物をホテルに置いていけるのでその分少しは負担が軽いです。
午前中佐賀城跡を中心にして主だったところを歩き、その後街道に戻り歩き始める。
今日から5日間世界的な気球の大会が河川敷であるが雨で中止となったらしく残念。沢山の国々の人や見物の人で一杯であった。
16時30分武雄温泉駅近くの街道に着く、もう1駅先の肥前山口駅まで行きたかったが時間が足りなく諦めました。
早めに昨夜泊まったホテルに入り、近くの武雄温泉街を散策して温泉に入り、いい湯でとても気持ちがリラックスできました。もう少し長崎まで頑張ります。
JR佐賀駅より南への中央大通り(シンボルロード)を白山一丁目信号交差点、昨日の長崎街道の起点

早速起点から街道を進むのを中断して、【寄り道】で南方向にある佐賀城跡を中心に回ります。
長崎街道恵比須
安らかで優しい微笑みの恵比寿、長崎街道沿いのエスブラッツ北東角にありました。昨日見落としたようです

佐賀城跡の北東角にある 松原神社 藩祖鍋島直茂とその先祖を祀っています



松原神社の 白磁の灯篭

松原の大楠

佐嘉神社
幕末の名君10代藩主直正・11代直大公を祀る


佐嘉神社境内にある 松根社
直正の幼少期より仕えた家臣、古川松根翁、直正公が亡くなり葬儀後、自刃して殉じた

松根社の純忠の碑

すぐ近くの佐賀城の広い堀

【佐賀城】鍋島36万石栄光の城
佐賀平野の中央に位置した平城。戦国期西九州を治めた龍造寺氏の村中城の地に建つ。龍造寺氏衰退により、その重臣であった鍋島直茂が領主と変わり、その子、勝茂が初代佐賀藩主慶長十六年(1611)佐賀城が完成した。
その後幕末に入り名君10代直正(閑叟)、11代直大で明治維新を迎えた。明治七年の佐賀の乱では激戦の地となった。
佐賀城は、「沈み城」とも呼ばれ、城から遠ざかるにつれても、壮大な天守が見えたという。
佐賀城鯱の門および続櫓(重文)天保六年(1835)の大火後に再建された

平成十六年竣工した 本丸御殿の御玄関と御式台 残念ながら朝早くて御殿内を見学できなかった


御座間 向かって右奥、本丸御殿の中で唯一残っていた鍋島直正の居室

綺麗な水堀


天守台
大火で天守を失った後、幕府への遠慮もあり再建されることはなかった

佐賀城の西堀

西の堀外側に 曹洞宗平安山龍泰寺
龍造寺隆信が永禄八年(1565)創建龍造寺・その末裔鍋島氏の家老村田氏の菩提寺


境内には佐賀の七賢人の一人
大隈重信の墓


石垣は高くないが広大な堀

西の堀際に建つ大きなホテル

城の西側から濠に沿って、北側を東へ県庁の西側に
徴古館(弘道館跡)
昭和二年鍋島家12代当主直映によって、県内最初の歴史博物館として創設された。国宝重要文化財等々鍋島家伝来の宝物公開しています

徴古館の西側、佐賀県警察本部の正面のシンボルロードを北に進み、昨日の起点白山一信号交差点に戻り長崎街道を西にスタートします
白山交差点の左(南西角)に高寺があります。正しくは
臨済宗南禅寺派瑞石山龍造寺(高寺)
和銅四年(711)行基の創建と伝わる古刹。慶長年間、龍造寺八幡宮と共にこの地に移転された。

白山信号交差点で従来の街道は右斜めに進み十間堀川に出て川に沿って少し左(西)に進んでいたが、今は斜めの道が消失しているので少し迂回します。
高寺を左に見て交差点を真っ直ぐ少し進み、一つ目の信号交差点を右斜め(北東)後方に折れます。そして十間堀川とシンボルロードの交差地点まで進み、十間堀川に沿って左に折れます。少し複雑ですが、その左角にお茶の末嶋園があります。旧道の消失した地点を過ぎると左に、龍造寺神社と楠神社が並んでいます
西側に建つ 龍造寺八幡宮・楠神社
寛文三年(1663)創建、龍造寺八幡宮は通称白山八幡と呼ばれる。鎌倉鶴ケ岡八幡宮の分霊を祀る


楠神社は
正二位の楠正成・従二位の楠正行を祭神としています。龍造寺神社境内にあり、佐賀藩士深江信渓は楠公父子の忠心に深く感激して、藩主光茂はじめ多くの人に協力してもらって父子決別の像を彫刻し祀りました。遠方の九州でも楠木父子が尊敬されていました

十間堀川は、旧藩時代、佐賀城下町の外濠の役割をもち、防衛上重要な川であった、川幅は十間(18.2m)あったのでこの名が残り、現在では川幅が狭くなっています。沢山の水路が合流しており豪雨の時は氾濫がしやすかった。現在の十間堀川は東西に流れ、西は多布施十間堀橋から、東は東佐賀町二次井樋まで長さ約1.9m。その間多くの橋が架かっています


龍造寺八幡宮・楠神社を左に過ぎてすぐの橋を右に見て神社の角を左に折れます

神社の角を左に折れるとすぐ左T字路で西に延びる南公通りを越え、小さな川を渡り、すぐ先のT字路に出ます、前述の白山一丁目信号からの道と合流して右に折れます

T字路を右に真っ直ぐ、白山一丁目を西へ

左に 授かり恵比須

途中左手奥に 武家屋敷門 が見えます


江戸恵比須

武家屋敷門を左奥に見て、西への街道を進みます。左に素心庵栗山医院、少し先右にインターナショナル歯科クリニックがあります。その先で南北の紡績通りの交差点にでます、左角に井手塗料店があります、その交差点から街道は広くなり西へ。 数十m進むと南北に通る国道264号線の多布施一南信号交差点にでます
交差点角に 道標 が立っていますが読めませんでした

264号線の多布施一南信号交差点を左(南)に折れます。途中小川を渡り50m程進むと、多布施川に架かる善左衛門橋を渡ります。川を渡った右角に副島理容店があり、さらに左側には佐賀県護国神社が立っています。その前で突当り正面に伊勢町ハイツがあり、正面を右(西)に折れます。すぐ先で、国道264号線の伊勢町信号交差点を横断して直ぐの十字路をさらに横断します。右手前角に吉田企画印刷があります
(注)この付近は264号線の改修で、現在は当時より状況は変わっていると思います。

善左衛門橋近くに 善左衛門恵比須

宇野善左衛門は多布施の資産家、自費で明和元年(1764)7月10日橋が完成。これが多布施川に架かる「ぜんじゃあばし」で明治33年一部修復したが、橋の右側に古い橋脚の部分が残っています。

善左衛門橋を渡り、左に護国神社を見て右(西)に折れます

西に進む右手に方向に 浄土宗大覚寺・蓮生寺・大蓮寺 があります
浄土真宗本願寺派聴松山蓮生寺

街道を進むと左に長崎街道お伊勢茶屋があります
その先突当り正面に 伊勢神社


拝殿正面に一対の肥前狛犬 伊勢神社肥前鳥居

鳥居から街道を振り返る、鳥居に突当り左に折れます

伊勢町。鳥居前で左に折れて数十mで左にナガシマ理容店のある辻、左T字路で右(西)に折れ駄賃小路に入ります
駄賃小路入り口 恵比須
この通りには昔、旅籠・芸者置屋・料亭・駄菓子屋など色々な店が立ち並び、小路を西に抜けると、幕末明治に活躍した人たちが学んだ、純粋社塾がありました

左に 高野山真言宗本願院







本願院を左に見て西へ、突当りに真覚寺があります
浄土真宗本願寺派真覚寺
門前に碑 刀匠初代 肥前国忠吉公之墓 初代忠吉は元亀三年(1572)生まれ、修行の末佐賀城下長瀬に居を構え、佐賀藩の抱刀工となった。日本の刀剣史上、肥前忠吉の名は極めて価値の高い人物

鐘楼と梵鐘 鐘楼は元禄十二年(1699)総欅材の建築。

真覚寺の正面突当りを左に折れます。折れた辺り右が前述の 純粋社跡 です
60m程先で、T字路に出ますので右(西)に折れます

街道は右に折れて進みます、T字路手前右手に、天徳寺があります。T字路の辻で一旦街道歩きを中断して、
南に【寄り道】をします

場所は定かでないが 奉崇と刻まれた石碑

鯛負いエビス

南に進み、天満宮のさらに南に
日蓮宗本行寺

境内にある 江藤新平の墓


成富兵庫茂安の墓


大庭雪斎の墓


本行寺の北にある 北面天満宮

前述の天徳寺のT字路に戻り西に進みます
臨済宗南禅寺派種福山天徳寺

天徳寺からさらに西への街道を進みます。六座町の街並みを西へ長瀬町に入る
途中 金銀座跡の標柱


穀物座跡の標柱

やがて六座町の西端、長瀬町との境に天祐寺川に架かる橋に出ます

橋から右(北)に200m程龍造寺高房の墓があるので(寄り道)してみます


曹洞宗大龍山天祐寺
龍造寺隆信の嫡孫隆房の菩提を弔うため、元主家の家臣であった、鍋島直茂が当寺を建立、元和元年(1615)

街道の橋のところに戻り、今度は左(南)手には、
浄土真宗本願寺派西念寺

その先、小川を渡り西に進む所右手に、日新小学校があります、右の日新小学校の一角に

築地反射炉跡
鍋島直正は日本最初の洋式反射炉を設け、鋼鉄の大砲を造り上げた、調錬場は無くなってますが、日新小学校の校庭に反射炉の跡が残っています


右手に古川和洋菓子司があります。その右T字路を左に折れます長瀬町です

溝の蓋に模様が描かれていますなかなか手が込んでいます。歩いていても楽しいものです


左に折れて、右に森川耳鼻咽喉科左に日新こども園のすぐ先、右手方向に泰教寺が見えます

鋳物師 谷口家の墓所 があります


近くに 楠ノ森稲荷社・天満宮 があります

さらに南に進むと、左に中原内科医院があります、この前を右に折れて西へ進みます
非常に市内中心地の街道は鍵の辻を繰り返し他作りになっています

左角に 道標「ながさき道 こくらみち いさはやとかいばへ」

街道は道標の辻を右に折れて進みますが、この辻で再び【寄り道】で南(左)へ行きます

右に折れる左(南)方向に入ると、国道207号線の南側に
道祖神社

さらに南に進んでいくと 本庄神社 肥前鳥居と石灯籠


境内に佐賀の名木 クスノキ樹齢600年

拝殿前の 石燈籠

本庄神社の全景

本庄神社よりさらに南へ 曹洞宗東光寺

さらに南に進むと 鍋島直茂誕生地碑


佐賀藩の藩祖・鍋島直茂(1538~1618)が誕生した地で、現、胞衣塚だけが残る。戦国武将で龍造寺隆信のもとで武功を重ねた。慶長十二年(1607)、龍造寺政家・高房の死後、多布施に隠居して嫡子勝茂(佐賀鍋島初代藩主)に譲り、81歳で没する
胞衣塚(藩祖直茂誕生地)


さらに南に進むと 妙見神社

もう少し南に進むと、目的地のお寺
曹洞禅宗恵日山高伝寺 鍋島家・龍造寺家の菩提寺



城郭の建物のような重厚な 庫裡

鐘楼堂 藩祖鍋島直茂350回大遠忌を記念して昭和41年に建立

山門

観音堂

本堂






大銀杏 樹齢約100年

開山堂


本堂の北(裏)の広い敷地に墓地が 龍造寺家・鍋島家の墓地入り口



初代藩主勝茂の墓

藩祖鍋島直茂公と室陽泰院の墓



その墓歴代藩主の墓が並ぶ
また同じ墓所内の一角には龍造寺家の墓が並んでいます
16代隆信の墓

12代中興の祖といわれる康家の墓(向かって右)

龍造寺家初代の遠祖李慶公宿阿の墓西行法師の叔父にあたる

その他龍造寺家の歴代の墓が整然と並んでいます
また別の一角には

直茂の御父(中央)鍋島清房の墓
隣、元龍造寺周家の室の墓で、没後清秀に再嫁し両家の親密化を計った女傑

ほか広い墓地には、鍋島家・龍造寺家の沢山の墓が並びます


敷地内の 名木

鍋島・龍造寺両家の御位牌所

境内にある 織部燈籠別名キリシタン燈籠、桃山時代の茶人古田織部が考案したといわれ、数少ない貴重なもの


ゆっくり見学した後、元の長崎街道の辻に戻ります
重厚な旧家が並びます

中原内科医院の前を右に折れて西に進む


右手に刀匠 肥前忠吉屋敷跡の碑


左に 浄土宗明光寺

角に 恵比須像

城下町の 道標 「ながさき道 こくらみち いさはやとかいばへ」 江戸時代中期以降の道標と伝わります


旧長瀬町の街並み

ブロック塀に組み込まれた 恵比寿像

城下の西端、八戸町に入ります

右に 枝梅酒造があります。この辺りの街道は、一軒一軒斜めに構えた家並みで、のこぎり型家並み と呼ばれています。
のこぎり型家並みの一角に二階の屋根下に掲げられている、久保薬局屋根看板、城下で最も古い生薬店といわれ、佐賀の秘伝「牛黄清心圓」の看板が昔を偲ばせています。かんの薬で神経を安定させ、身体を強める薬として徴用された

すぐ先右に龍雲寺の看板が見えます。看板を右に入っていくと正面に 曹洞宗慶聚山龍雲寺 曹洞宗の名刹、天文元年(1532)開創された禅寺

本堂

葉隠の提唱者山本常朝の墓所
本堂の傍に、佐賀鍋島二代藩主光茂に仕えた、山本常朝は「葉隠」石田一鼎の武士道について師事を受け、藩風を加味して武士道を皷吹した、後、草庵を結び、佐賀武士道を論じた。
山本常朝の墓ほかに列に整然と家族一族の墓が並ぶ

龍雲寺より街道に戻り西へ、すぐ川に架かる地藏橋を渡ります

右の川傍の小さな公園の中に

八戸地蔵菩薩
宝暦六年(1756)に長瀬町の鋳物師谷口安左衛門によって鋳造された銅製のものであったが、戦時で拠出され、昭和に入り石像が再建された

地蔵よりすぐ先で国道208号線の交差点を横断します。すぐ右に地蔵菩薩像を祀る 地蔵院

その先右に 浄土真宗西本願寺派長安寺

肥前忠吉一門の墓碑



八戸二丁目 恵比須像

八戸窯恵比須
足元、さらに側面にまで波模様が刻まれ、足までもその一部に見える絶妙なうねりです。また、真ん丸の目の鯛が愛らしく微笑みを浮かべています

恵比寿の辺りがかつて、城下の西端の構口で 木戸番所 がありました

少し先を進むと本庄川に架かる高橋に突き当ります。城下町もここで終わりです。城下町は屈曲の多い街道となっていた。
佐賀城下を時間をかけて歩きました

本庄川に架かる 高橋(復元)を渡ります。八戸町の西の端、旧深町井樋に掛けられていた橋が高橋で、慶長年間に架けられたと伝わる。旧高橋から東へ街道沿いに、高橋宿、鉤の手に折れ曲り、八戸宿に繋がる。この鉤の手のところに番所が設置されていた

高橋を渡ると川沿いに左へすぐ国道207号に合流、左は新高橋、右(西)へ 川沿いの 道標




国道に合流した右角に 若宮神社

右(西)に折れて220m程先右奥に 曹洞宗苗運寺 更に250m程進むと扇町信号交差点に出ます、
その手前右に 天満宮


嘉瀬信号交差点を越え暫く嘉瀬町扇町の国道207号線を進みます。途中、右に田中病院、すぐ先で川を渡り左に西九州トヨタ、向かい北(右)に昭和GSがあります。川から300m程西に207号線を進みます。左にファミマがあり直ぐまた川を越える

川から100m程進むと、国道を左に見て旧道が分岐しています、左に小池病院、右に昭和GSがあります。旧道は左の国道とほぼ並行して進みます

分岐するところ右に 別れの松、刑場 に曳かれる罪人が、ここで見送りの肉親や知人と永遠の別れを告げなければならなかった。そえで別れの松とよばれていた。早朝、白衣にまとった姿で獄舎をでた罪人は、この松のところでしばらく駕籠を止めて見送りの者と別れの水盃を許された。嘉瀬の形状は明治になり廃止されたが、別れの松は代々植え継がれて今日まで残っています

分岐した旧道は100m程進むと川を渡ります。川を渡った先左に分流した川が沿います。嘉瀬の集落を進みます

左に お地蔵さん

さらに200m程先で川を渡り、左国道沿いに佐賀嘉瀬郵便局が見えます。100m程でまた川を渡る、非常に川が多い。川から少し進むと
左、国道207号線の南にある 嘉瀬津神社の鳥居と参道

石碑

更に少し進んだ街道右に 浄土真宗本願寺派嘉慶山正休寺

すぐ先で左からの国道207号線に合流します。合流して100m程先右に 臨済宗南禅寺派法勝寺

合流したところに、俊寛僧都の墓の案内標柱

開山は俊寛、開基は平敦盛または源頼朝、本尊は伝教大師
境内に 俊寛僧都の墓

合流した左(南)手方向には嘉瀬神社の隣に、浄土真宗本願寺派厳浄寺・浄土真宗本願寺派西敬寺・曹洞宗永照寺、右(北)には、日蓮宗妙福寺等々が集まっています。森林公園東バス停があり、街道(国道207号線)の左一帯には広大な県立森林公園が広がっています。
法勝寺の参道の少し先、街道左の公園の一角あたりがかつての 嘉瀬刑場跡 何も残っていない
刑場跡のすぐ先の森林公園前の信号、右へは広い道路ができている

森林公園前交差点から150m程先で、国道を右にみて、左に平行した旧道がありますので入ります

分岐するところから振り返ったところで、右が森林公園

左の道を250m程進みます、途中左に肥前マルキュー整備佐賀工場があります。先は嘉瀬川に突き当り、堤防の上に出るのに鉄の柵に沿って右に国道が合流します。旧道はそのまま真っ直ぐ川を渡っていたが、今は右の嘉瀬橋を渡ります。その堤防から振り返ったところです

突当りの堤防から、かつてこの辺りをわたっていました。右が嘉瀬川に架かる嘉瀬橋

嘉瀬橋から嘉瀬川の河川敷で行われる、アジア最大の国際気球大会佐賀インターナショナルの会場。全くこのような大会があるとは知らなかった。
毎年10月下旬~11月上旬の1週間この河川敷で行われているそうで、1978年から福岡で始まり、1980年から佐賀に会場を移し、毎年十数ヶ国から選手が集まり、110機前後の気球が集まるそうです。競技はどのようにするのか分かりませんが、偶然に巡り合ったが、残念ながら今日は悪天候で条件が悪かったようで飛んでいません。でもたくさんの車や見学の人が集まっています
嘉瀬橋からの眺め



嘉瀬橋を渡り佐賀市久保田町に入ります左下に見える道が、東側からの旧道の延長の道です。少し先で右の国道に合流しています

徳万信号交差点

一番左の西への旧道、左角に長崎街道の案内表示
この分岐の辻左辺りに 追分石 があったようですが見逃しました

お堂の お地蔵さん

公民館の南側に 香椎神社 鳥居は肥前鳥居

久保田宿の集落へ進むこの先で右からの207号線と合流します

合流して300m程進むと久保田宿信号交差点に出ます
この辺りから 【久保田宿】
久保田淑には特に以降は残っていません
交差点からすぐ先右に 祇園社 があります


祇園社の前からの街道(207号線)右手に久保田宿公民館を見てその先で小川を渡る、この辺り右(北)に進むとJR久保田駅へ行きますがもう少し進みます

恵比須像


その先にも 恵比須像 が祀られています

さらに国道を西に進みます、右に植田商店、向かい左にせとぐち内科医院を見て通ります。100m程先で小川を渡り、その先国道の両側を川が沿うことになります。左に五光工業があります。その先少し進んでいくと

境川(福所江川)に架かる橋を渡り。この川が佐賀市と小城市の境界になります。その先西への街道(国道)に碁盤の目のように小川が交差します


境川に架かる橋から750m程左右に量販店や工場、小川を渡りながら西へ進みます
やがて道が分岐する信号交差点に出ます。右への道は207号線、旧道は左の道を入ります

ここから【牛津宿】
長崎街道の重要な宿駅として発達した牛津宿は、河港として牛津川が通り古代より官道が近くを通っていたが、近世初期になり街道は整備された。宿の牛津本町は西町・立町・中町・東町・新町の五町から形成されていた。
うち立町が中心で上使屋(本陣)があった。中町には高札場・問屋場があった。新町は小城藩の米蔵と船着場が作られていました。
分岐したすぐ左に 千手観音

さらに左に 恵比須像

天満街信号の右奥に
浄土真宗西本願寺派正満寺 本尊は阿弥陀如来、江戸時代には 脇本陣 を兼ねていた

この辺りに 郡継ぎ場跡(郡継人馬屋敷跡)問屋場 があった

左に牛津高校校門が見えた角を右に折れる。折れたところから振り返ったところ。校門の辺りに 高札場 がありました、この先少し長い目の鍵の手になっています

右(北)に折れた先から再度、牛津高校方向を振り返る。途中右に本町公民館があります。そのあたりに
上使屋跡(本陣)がありました。新しい町になり遺構は偲べません

右に折れて170m程 本陣跡 を見て進むと正面に鳥居が見えます、その前のT字路を街道は左に折れます

一の鳥居を潜り参道を北に進むと 乙宮神社

神社の前を左(西)に折れて進むと左手に元倉庫 旧玉屋赤レンガ館 があります。現在牛津会館として利用されている

少し進むと、JR長崎本線の踏切があり、手前の道を線路に沿って200m程左に行くと牛津駅に行けますので時間的にいいようで、本日はここで終了します
16時30分牛津駅近くの街道で本日は終わります。
25km。少し駅まで歩きJRで武雄温泉駅近くのホテルに移動、明日またここまで戻ります。この付近の宿泊施設は全て気球大会のため満室で止む得ない


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