長崎街道 9日目

2011年11月9日

竹松駅~諫早駅

大村駅近くのホテルを7時に出て大村駅から竹村駅に移動、昨日の街道起点を7時30分よりスタート。
いよいよ今日と明日で長崎街道を完歩するので頑張ろう。
大村宿を少しゆっくり見学したので時間が遅くなった。長い峠越えがあり諫早駅に着いたの が4時。今晩の宿泊地の長崎駅近くのワシントンホテルへJRで移動します。
終わり方に小雨が降ってきた、予報では明日雨とか、最終日は何とか天気になってほしい、というのも諫早~長崎市内までは山越えの道なので大変だ。
歩行距離30km

昨日の起点竹松駅入口信号交差点を進み、左の地蔵さんを見て、更に進むと原口住宅入口信号交差点手前に
首塚の標示 があります

首塚跡
昨日行けなかったので国道より右に80m程入ったところにある、キリシタン殉教者の首塚跡

天正十八年(1549)日本にキリスト教が伝わり、各地へ布教が行われた。大村では、領主の大村純忠がキリシタン大名となり、領内はキリスト教一色となるほど布教したそうです。
しかし、秀吉時代・徳川幕府となり禁教が厳しくなり、大村藩でも弾圧が厳しくなりました。そのような中、島原の乱が勃発し、乱から二十年後に、領内からキリスト教の信者が一人もいなくなったと思われていた。明暦三年(1658)郡村を中心に隠れて信仰を続けていた人たちが発覚する事件が起きた。捜索の結果、603人もの人々が捕らわれ、この事件を「郡崩れ」と呼ばれています。逮捕者のうち406人が長崎・佐賀・島原・平戸・大村で打ち首となりました。処刑者は見せしめのため約1ヶ月間晒されたといいます。さらにキリシタンの魔法で生き返ってはならないと首と胴は別々の場所に埋葬されました。

交差点を越したところ右に桜が原中学校があります。さらに600m程国道を進みますと、大きな桜馬場信号交差点に出ます。その少し手前右に

八坂神社

胴塚跡 の国道を挟んだ反対側(東)に左斜めの道路が交差点に合流してきます、国道との間
千葉卜枕(ぼくちん)屋敷跡と並松宿

長崎街道の並松宿と地域の開発に貢献した千葉卜枕の屋敷跡。この辺り一帯は未開拓な放虎原という原野であった。開拓の後、原野に町が誕生、大村藩はこの新しい町を「並松の宿桜町」と称し、
松原宿と大村宿の小さな間の 並松宿 ができました。街道両脇に桜並木が植えられ、今でも桜馬場という町名が残っています。
今は国道により開発されて宿の面影は偲べない。

交差点の手前八坂神社の前から国道を振り返る

桜馬場信号交差点の手前すぐ右にある、キリスト教殉教者で処刑された首塚に対する
胴塚跡 胴塚は本来この場所でなく、国道沿いのやや北側にありました

桜馬場信号交差点を越えていくと西大村本町信号交差点に出ます、国道はやや右にカーブするが、街道は左側真っ直ぐの細い方の道になります。分岐する正面角に黒川精肉店があります

300m程真っ直ぐ進むと突当りを右直角に折れます

右に折れたやや広い道を南西に300m程進むと信号交差点に出ます

信号交差点の右に行くと50m程で国道の松並信号交差点に出ますが、交差点で少し南に方向を変え真っ直ぐ進み右の国道と150m程並行して進みます

150m程先でT字路にでますので斜め左に折れます、折れた先から振り返ったところです

すぐ先右手に空き地があります松並1丁目

キリスト教殉教者;獄門所跡 放虎原で処刑された131名の首は、塩漬けにされ、獄門所で20日間晒し首に見せしめにされました。前の道は長崎街道です

今は白亜の無原罪の聖母像が建てられ、遠い昔の殉教者の人々の霊を慰めてくれています

獄門所跡、すぐ先の十字路を右に折れ100m程で国道34号線の信号交差点を横断して、更に暫く進んでいくと広場に大きな石碑があります

放虎原殉教地(斬罪所跡)
明暦3年(1657)、大村藩郡村(今の竹松・福重・松原)矢次の百姓兵作が、長崎に出向いた時ふと漏らした言葉によって、潜伏キリシタンが芋づるしきに検挙され、ついに608名となり、吟味の結果、411名が斬罪と決まり、このほか、78名が牢死、220名が永牢、赦免99名となった。
大村では、万治元年(1658)7月、放虎原において131人が処刑されました。この大殉教を「郡崩れ」といわれています。131人の一斉殉教地は、現在の県立大村工業高校の右手前方にあり、銅板のレリーフをはめ込んだ大きな殉教顕彰碑が建てられています。

殉教地のレリーフ

街道に戻り松並から450m程南に進み、杭出津地区に入ります。街道は五差路に出て分岐しているので左の真っ直ぐな道を進みます

更に100m程進んだところです、左に分岐している狭い路地があるので左に50m程進みます。分岐する右手には上杭出津公民館があります

50m程先で右に折れて数十mですぐ広い車道に出ますので注意しながら横断して延長線上の旧道に出ます

横断する道路の右を見たところですここで少し【寄り道】で街道よりはずれます。この道を250m程西に進み二つ目の信号、国道の協和町信号交差点に出て、左(南)に折れて国道を150m程進み杭出津3信号交差点手前を左方向に入ったところに行きますと

狭い道ですが墓地がありその一角に
妻子別れの石
この場所は、江戸時代の大村藩処刑場があった入口に当たり、明暦三年の潜伏キリシタン「郡崩れ」の史跡です。
地面に半分埋まっている丸い石がこれにあたります。131人は、大村牢から200人の警護によりここに連行されました。信者は、家族と最後の別れを惜しむ水盃を交わした場所といわれています。伝えられたことによると、この石はとめどなく流れた悲しみの涙で濡れたので、一名「涙石」と呼ばれ、苔が生えないといわれています。
断罪所はここから800m程北の前述の放虎原殉教地で、当時はそこまで細い道が真っ直ぐに続いていたといわれています。

元の街道に戻り、注意しながら新道を横断して、細い路地を60m程進むと、T字路に出ますので、左に折れます

左(南東)に折れて140m程進むと、再びT字路に出ますので街道は右に折れます。左角に追分石が立っています

ここで再び【寄り道】のため左に折れます
追分の道標 「是より左そのぎ道」

長崎街道は向かって右の道を出てきたところで、右に折れた長崎街道

T字路を左に折れて信号交差点を横断すると、左に本経寺の長い歴史を感じさせる塀が続きます

日蓮宗万歳山本経寺
慶長十年(1605)に創建された。領内に8つの末寺を持つ日蓮宗の本山。キリスト教禁教により仏教への改宗が必要で、肥後の加藤清正の勧めもあり、領内に日蓮宗の第一号として建立された。本堂は1778年に焼失したが、天明七年(1787)に再建された。大村市内で最古の木造建築物
山門
仁王門ともいい、金剛仏二体が安置しています。文政八年(1825)の再建。

本堂
本堂はじめ江戸後期の建物が建ち、近世大名の菩提寺としての形態を残しています。また、本堂に隣接する大村家墓所は、小藩ながら、巨大な形の墓が並び、大名の墓所として荘厳な様相を見ることができます。平成十六年に国の史跡に指定された。珍しいので少しゆっくり見学をすることにしました

大村藩主大村家墓所

整然と種々の形をした墓が並びます

江戸期三代藩主 笠塔婆 純信公 1650年没6mを越す巨大な墓

江戸期初代藩主 五輪塔の喜前公の墓 
キリシタン大名として名を馳せた純忠公の息、禁教厳しくなる中で改宗し大村藩の中興の祖といわれる。1615年没

五代藩主 純伊公 1712年没石霊屋

西太郎左衛門と秀山の墓
喜前公の死に伴い殉死した陶法朝鮮人帰化人秀山とは霊廟の両脇に建っている。死してもなお守っている

七代藩主 純富公の墓
五輪塔、1748年没、一番背が高

十一代藩主 純顕公の墓 石霊屋、1882年没

十代藩主 純昌公の墓 石霊屋 1838年没

八代藩主 純保公の墓 石霊屋 1760年没

九代藩主 純鎮公の墓 石霊屋 1814年没

四代藩主 純長公の墓
卒塔婆 1706年に没在位中にかくれキリシタンの大村藩を揺るがした「郡崩れ」の事件があったときの藩主

五代藩主 純尹公の墓 石霊屋 1712年没
六代藩主 純庸公の墓 五輪塔 1738年没

明治維新の前にした慶応三年「大村騒動」にかかわったとして処刑された 長井兵庫の墓

クルス灯籠と純真公七男の次郎太君

 江戸期以前の十四代 徳純公の墓

おまし様の継ぎ墓

小佐々市右衛門前親と愛犬華丸の墓
三代藩主(21代)純信公の傳役で家老、純信公が33歳の若さで急逝した折、殉死した。さらに前親の荼毘の時、愛犬華丸が火中に飛び込み果てた。これは慶安三年(1650)のことである。華丸の墓には132文字がその経緯が刻まれている。きわめて貴重な史実

海の見える墓地

それぞれ形の違った墓が並び貴重

本経寺をゆっくり見学して元の街道に戻る寺の南側の信号を南西に進み、追分石の角へ戻る

T字路の追分石(北角)をみて南西に200m程進むと、五差路の信号交差点に出ますので、左(南東)に折れます。その左角ミラーの袂にも

道標 刻字が読みづらい

信号を左に折れた南東への真っ直ぐな街道、暫く進むと右手に正法寺

真宗専念山正法寺
境内には 大村藩主十六代純伊の墓や、寺宝として、加藤清正や宮本武蔵の書と伝わるものがあるります

その先左に 真言宗彦流山観音寺跡
天正二年(1574)キリシタンの焼き討ちにあい焼失した。その後再興されたが、明治に入り廃寺となる、この児童公園のところがその跡です

観音寺跡の先で、大上戸川に架かるだいじょうご橋を渡ります

橋を渡ると 【大村宿】に入ります
大村宿は大村喜前が玖島城を築き、大村藩の初代藩主として城下町を形成、大村湾に突き出た自然の要害の地である。城下町の形成は、未開地の原野の中に新道が二筋通された。その道は長崎街道の始まりである。大村宿は本陣・脇本陣が設けられ、本町・水主町が中心となる
大上戸川を渡ると大村宿の水主町に入ります

水主町を南東に450m程進みます

やがて信号交差点に出ます、正面の商店街の入り口アーケードに長崎街道大村宿の看板が架かっています、本町通り商店街に入ります。交差点を左に行くとJR大村駅

交差点右角に、標柱が立っています

交差点から街道の町並みを振り返る左角 脇本陣跡です

本町通り商店街を少し進んでいきます。この辺り左に、問屋場・高札場跡であったようです

さらに進んでいくと本陣通りの小さなモニュメントがあります。長崎街道と新式郵便制度の案内板
江戸時代、小倉~長崎の間、25宿場を結び文明ロードとして発展した長崎街道。明治4年12月5日、九州で最初に長崎郵便役所と16の郵便取扱所が街道沿いに設置され、その後順次、九州全域に広がっていった。ポストが設置されています

右手一帯 本陣跡
建坪200坪あったといわれる大きな本陣であった。本陣の付近には旅籠が並び、茶屋や飲み屋で賑わったところです。今はその遺構は残っていなく偲ぶことはできません

本陣跡を進むと信号交差点に出ます、本町商店街のアーケードがおわります

交差点よりアーケードのあるかつての大村宿の宿場中心の町並みを振り返るが、旧家の建物が残っていません

信号交差点を横断した数十mの右手に 皇太神宮の参道と鳥居 が建っています

交差点の先、西本町に入り150m程進むと、内田川に架かる鶴亀橋が見えます。大村宿はここらあたりまでです

街道は鶴亀橋の50m程手前で左に折れます

左に折れる辻から、宿場を振り返ったところ正面に商店街のアーケードが見えます

左に折れて東本町を東北に進むと 旧長崎街道是より諫早道の標柱案内このあたりは当時諫早丁と呼ばれ、これより諫早への道を 諫早街道ともいいました

左の標柱案内のすぐ先の十字路を右に折れます

右に折れてすぐJ大村線の高架を潜ります

潜ると数十mで内田川に架かる草場橋を渡ります

草場橋を渡り100m程先の十字路を左斜めに横断しさらに70m程先の分岐を左の旧道を進みます。分岐する右手に
旧円融寺庭園(国指定名勝)
松林山大乗院円融寺は、江戸時代初期の承応元年(1652)に創建された天台宗のお寺です。長い石段を上ると、前方に雄大な桃山時代の洋式を残した石庭が築かれています。寺は、明治維新に廃寺となり、戊辰戦争の戦死者を祀る施忠塋が建てられ、後、護国神社と改め現在に至る。戊辰戦争の戦死者の墓碑や、維新で活躍した大村藩の三十七士の石碑があります

長い石段

石段を登ったところ

斜面に残る 石庭

戊辰の役戦没者の碑
大村藩は東北地方での奥羽越列同盟軍との戦いで多くの戦死者を出した。
円融寺跡地に戦没者を祭った 二十三基の墓碑 がたっており、遺髪を納められたと伝わる。この中には刈和野で戦死した十五歳の若い鼓手浜田謹吾のものもある、頭部に銃弾を受けて戦死した。血染めとなった上衣の胸に、母が出征のときに縫い付けてくれた和歌は、地元の人々の感動を呼び、その亡骸は手厚く葬られ、語り継がれたといわれます。
このことが縁で、昭和五十四年、大村市と秋田県角館市は、姉妹都市をむすびました。
      双葉より 手くれ水くれ待つ花の
          君がみために
            咲けやこのとき

大村藩三十七士の碑も敷地内にあります

円融寺跡の東隣に 春日神社 江戸時代初期の寛永十七年(1640)創建

春日神社の高い石段から下を見る

春日神社の石段を下り、街道に戻り分岐を左に折れて旧道を進みますが
ここで街道歩きを中断して、大村城跡に【寄り道】をします。
大村城下は東西に、東から海(城址)に向かって西へ、主とした道が北側の円融寺前から草場小路武家屋敷通、上小路武家屋敷通、小姓小路武家屋敷通、本小路武家屋敷通と並行してあります。
前述の十字路の通が草場小路武家屋敷通です。すぐ先で分岐になっていたところを、左の街道を進まず、右に春日神社の高台を見て下ります。230m程下った左に

旧楠本正隆屋敷
大村三十七士の一人、地方行政官として名を高め、衆議院議長となる。この屋敷は、明治三年に建てられた、旧大村藩内に残る武家屋敷の遺構を代表する建物

楠木正隆記念碑

玄関

春日神社と楠本正隆屋敷の中間あたりの西に延びる道が 上小路武家屋敷通りで武家屋敷群の石垣や塀・屋根が並んでいます

上小路武家屋敷通りを下ったところから見る

さらに下った先から振りかえる

南側の本小路武家屋敷通りに出て、JR大村線を越えて大村市役所方向の海側に出ると、
桜田屋敷跡
この一帯は黒石原という浜辺であったが、慶長四年(1599)玖島城を築くにあたり埋め立て、屋敷地として大村氏一族が居住した。寛文十年(1670)四代藩主大村純長がここに藩校集義館を建て、藩校は古く全国藩校の七番目で九州でも最初であった。後、静寿園から五教館と改称されました

玖島城 への入口を入ります

玖島城跡の 大手門跡 大村神社歴代藩主を祀る神社

玖島城
こんもりした丘に建つ玖島城で、現在大村公園として整備されています。大村湾に突き出した小さな半島に築かれた平山城。慶長三年(1598~99)の大村純忠の嫡子喜前が、それまでの三城にかわりつくった城で、幕末まで約270年間大村氏の居城であった。城造りの名人加藤清正の協力によって完成した。

斎藤歓之助の碑
幕末の三剣客の一人、神道無念流斎藤弥九郎の三男で、嘉永七年(1854)時の藩主純煕に招かれ剣術指南役になりました。門弟千人を有した。明治三十一年66歳で東京にて亡くなる。この碑は門弟が師を顕彰して建てたものです

オオムラザクラ国指定天然記念物で、花びらが60~200枚におよび、その優雅な色合いとボリューム感から「里桜中の名花」といわれる

中祖 大村喜前公遺徳碑
キリシタン大名大村純忠の長男として生まれ、幼くして洗礼を受け、ドン・サンチョとして称した。大村家第十九代となり秀吉に従い、玖島城を築城、関ケ原以降徳川家に従い初代藩主となる。
キリスト教の禁教が厳しくなる中、領地を守るため改宗し日蓮宗に改める。喜前公は領内の基礎を固めるなか、元和二年(1616)四十八歳で急逝して本経寺に葬られた。「中興の祖」として尊敬され、碑は大正四年に建立された。

前述の15歳の少年鼓手 浜田謹吾像

隣に 戊辰戦役記念碑

壮観な石垣が残る

板敷櫓台
大手入口り海側に延びるひときわ高い石垣の中で、扇勾配の見事な曲線を描いて築かれたのがこの板敷櫓台で加藤清正の意見を入れたと記録に残っています

新蔵波止跡

先端の寺島には 市杵嶋神社 海に沿って右にカーブすると

お船藏跡
御座船をはじめ、藩の船が格納された

お船蔵を左に回っていくと、神社の鳥居

さらに海の先端に、木橋を渡りさらに左の竜神橋を渡ると竜神島で先端は玖島崎です

城跡を一回りして、草場小路武家屋敷通りJR大村線手前左の武家屋敷通りの一角に立つ、 斎藤道場跡の説明 幕末の大村藩の剣術指南役として、江戸より神道無念流の剣豪斎藤歓之助を招き屋敷を構えた。歓之助は、ここ自宅内に道場を設け、ここを「微神堂」と称し門弟の指導を行った

JR大村線を越えた草場小路武家屋敷通りを進んでいきます

やがて前述に歩いた、十字路に出ます、左は内田川を渡った橋です。この十字路を右斜めに進む長崎街道に戻りました

前述の分岐に出ます、右に進むと楠本正隆屋敷方向で、寄り道としてこの道鵜を進んでいきました。長崎街道は左の道を進みます

左の入ると、400m程東に進みますが旧道の面影が残っています。400m程の間に緩やかに右に山なりにカーブして、さらに左にカーブし、右に山なりにカーブしながら進んでいきます。やがて墓地の間を進みます。この墓地には、嘉永二年(1849)日本最初の牛痘に成功した、長与俊達(市指定)の墓や。勤王の志士で三十七士の一人、松林飯山の墓、維新を前に慶応三年(1867)29歳で凶刃に斃れた墓があります。墓地のところで、少し変則な辻を右(南)に折れます。すぐ先で十字路を越えて進んでいきます

両側に墓がある、左の平行したの道が旧道残

木に隠れるように建つ お地蔵さん

両側に墓のある間の旧道

前述の変則の辻を右にカーブするところ左に 観音堂 向かいに山口商店がありますすぐの十字路を越えて下っていきます

十字路から暫く南東に玖島2を進んでいきます。やがて小さな川を渡った先で、左からの新道257号線が合流します

合流点から左の旧道を振り返る木場1地区

257号線を少し進むと左に 野田神社

重厚な肥前鳥居

野田神社を過ぎて一つ目の257号線の信号交差点を横断します

信号の先で右側の側道を少し進み、少し進み街道は257号線に分かれ、緩やかに右斜めにカーブします。正面に国立病院長崎医療センタ―の前で左に折れてすぐ257号線の高架道路を超えて東側に出ます

長崎医療センターの前で左に曲がるところから振る返ったところで、右下が257号線が見えます

高架道路から左の眺望、いつの間にか坂を緩やかに上ってきています。亀山坂 と呼ばれています

高架道路から70m程先の分岐を右に折れ100m程先で、左(南東)に方向を変えて亀山坂を上っていきます

亀山坂の上から振り返ったところ、結構急な坂道でしたそれほど厳しく感じなかったが頂上

南東に方向を変えたところで80m程下り坂となる。木場1付近右の下流で鈴田川に合流する支流に架かる小さな橋を渡ります

橋を渡って少し進んだ先から振り返ったところ

旧道は真っ直ぐ民家の前の細い道を、正面の高台の道路に向かって進みますが、少し荒れた道になっています

正面の高台の旧道に出て左に折れます

すぐに、右への細い道に分岐している旧道があります。右の斜面に案内標示がありますので迷いません。案内表示に従って進んでいきます、小さな峠の様です

下ってきたところで案内表示のあるT字路に出ます

T字路から峠道を振り返ったところです

変則の十字路になっています、横断して左斜めに下っていきます。数十m先で右(東南)に、くの字に方向を変えます

東南に方向を変えた岩松地区の街道やがてまた、右の鈴田川に合流する支流に架かる橋を渡ります

橋を渡って振り返ったところです 岩松町地区

橋の先で下り坂となります

下ると右から道路が合流してきます。合流する左手に、岩松公民館が街道沿いに立っています。右に入っていくとJR岩松駅に出ます

公民館の傍には 巌□神社

岩松公民館の背後の山はかつての 狼煙場跡

岩松公民館を過ぎて150m程東に進むと、変則な交差点に出ます右に折れて、60m程で鈴田川に流れる支流の川に架かる岩田橋を渡り緩やかに左にカーブして進みます。左角に公園があります。岩田橋を渡ったすぐ先、
公園辺りが 番所跡

街道右手にエスボアメゾンBが建っています。その前、左の雑木林に入っていく旧道が分岐しています。日置峠 への上り道です

日置峠への旧道は途中で墓地となり消失しています。かつてはこのまま峠道を東に進み、現在の長崎自動車道の手前に出ていたようです。

止む得ないので元の分岐に戻り進みます

分岐を道なりに緩やかに左にカーブしています。右にすみれハイツがあります。

左の墓地で消えた旧道を想像しながら進んでいくと、高速道の手前で、左から下ってくる道があります。おそらくここに出てきていたのだろう。(振り返り写したところ)

高速道の高架を潜らず、右に折れて小さな川橋を渡る。渡ったところから振り返ると、消失した旧道は向かって真直ぐの竹林でその先が墓地の様です。完全になくなっています

高架を左に沿って進みますと十字路に出たところで横断して右(南)に方向を変えます

すぐの鈴田川に架かる白鳥橋を渡ると、T字路となり左に折れます

川を渡り左に折れます、角に長崎街道案内標柱が立っています。そのまま進み、長崎自動車道の高架を潜ります。
高架の袂で堤防道と分岐していますので、右の道を進みます

右に上鈴田浄化センターを見て進む

左に 鈴田一里塚跡碑

一里塚跡碑の前の街道から振り返ったところで左手奥に、鈴田小学校が見えます

鈴田小学校のすぐ先で変則四差路があります。真っ直ぐの道が 天保以降の街道で、それ以前は右斜めの道です。角に案内標示が立っています。真っ直ぐ200m程進みますと鈴田川に突当り南に方向を変えた先で、右斜めの旧道と合流します
私はどうも右斜めの街道を進んだようです。

右斜めの道を200m程進むと途中左に古松公民館があります。やがて34号線の二本松信号交差点に出ます。かつてはそのまま延長線上を進んで前述の天保以降の道とJR大村線の近くで合流していましたが延長線上の道は消失しています

迂回のため信号交差点を右(南)に折れて、すぐのJR大村線の高架を潜り線路に沿って左に折れます

線路に沿って80m程進んだところで、道は右に折れて旧道が復活しています。その左辺りに、天保以前の道(線路敷地で消失)と以降の(消失している延長線上)道が合流していたと想像します、右に折れて復活した旧道を南に進みます

復活した街道

南に110m程進むと右に 大神宮(鈴田村鎮守・古松権現) があります

かつてこの付近には商家二十一軒、軒を並べていたそうです。この先の険しい峠道、諫早越えがあり旅人はここ小さな古松宿で小休止をとってお茶を飲み元気付けたことだろう。長崎街道が整備された、ほん数十年前までは、地元の人が通るぐらいの生活道で、街道が忘れ去られていたそうです。

大神宮の前で東(左)に折れると、すぐ古松川に架かる古松橋を渡ります。  

【古松宿】 の集落を進みます
少し進んだ先から振り返ったところで、正面に 古松大神宮 が見えます

古松橋から150m程、古松宿集落を進むと右角に案内標示が立っている所を右に折れます

右に折れる先の街道

集落内を南東に暫く進みます

右に入った分岐より集落内を350m程進んでいくと、右に上がる分岐があるので右側へ、左の道は先で右に急カーブでUターンして、右側を登った道と交差します。
注(350mの間に分岐がありますが、右側の真っ直ぐの道を進んでこの分岐にきました)

ここで交差します、最短距離を真っ直ぐ上る道で旧道が残っています。交差するところから下を見る

交差した旧道はさらに真っ直ぐ登る、その左に給水ポンプがあります
中里の登り口で案内標柱が立っています

50m程登った上で、右から前述のUターンしてきた道が合流してきます。そこに灯籠のような 石造り物 が立っています

合流した先、150m程登っていくと、再び分岐しています。どちらの道を進んでも、200m程先で合流しますが

資料から見ると旧道は右の道の様です

案内標示が立てていただいているので間違わないです.表示に従って進んでいきます

その先で左から前述の道が交差しますので横断します

交差する手前左角に大村純忠の家臣 渡辺傳弥九の墓(奥)天正時代に従者とともに大雪で遭難したといわれている。手前にも従者の墓石か

上の道に交差するところから登ってきた街道を見る

渡辺傳弥九の墓のすぐ背後に見える交差する分岐、真っ直ぐ左側が街道で100m程登ると

左に小屋があります、分岐辻の変則四差路があります。右の二本の分岐でなく、真っ直ぐの旧道を進みます

道なりに東南に進みますが、ところどころで分岐や枝道がありますので注意してください。
とにかく道なりに進みます。長い峠道ですが旧道は整備舗装されていますが、数十年前までもっと狭く、地道で地元の人たちの生活道路でした。

中里町地区です、少し東に方向を変えたところから山里を振り返る。数十mで右に(南)曲りさらに鈴田峠への道を進みます

振りかえった眺望長い峠越えの山道です

前述の分岐から600m程進んでいくと、左からその道が合流してきます。そこを振り返ったところ

いよいよ峠道への厳しい山道に入っていきます

旧長崎街道の案内標柱が立っています、間違っていないのを確かめられてホットする瞬間です

鈴田峠(日野峠)の標示 多くの表示がされています 伊能忠敬は日野峠と記しています

左から合流してきたところから、250m程進んでいきますと

左から登ってきた道が合流してきます

すぐ先付近に、小休止する 駕籠立場跡 でした今は樹木が茂っていますが、かつては見晴らしの良いところであったようです

更に少し進むと 長崎街道鈴田峠 ここは、大村藩と佐賀藩諫早領の藩境となった鈴田峠です。現在は、大村市と諫早市の境となっています。
境にある大石は、境石・硯石・鬼の足形石と呼ばれ、境の目印となっていました。また、藩境に沿って横に延びる道沿いには、石を積み上げた塚が点々と残されています。これは藩境を示す石塚で、ここから北にある風観岳(標高236.2m)の山頂にはひときわ大きい三角塚が築かれています。(写真)この一帯の旧道は、当時の景観が極めて良く残されていて、平成八年、「歴史の道百選」に選ばれています

素晴らしい街道の峠越です

硯石藩境の巨石は「硯石」とよばれ、
その脇に「従是東佐嘉領」の傍示石が立っていましたが、風観岳の山頂に移設されている。大きなくぼみがある石です

鈴田峠、藩境の往時の姿が偲ばれる。いつまでもこの景観を歴史の財産として残してほしいものです

三方塚(三角塚) 藩境の塚
藩境には大村が丸、諫早が四角の石塚を築いていましたが、ここから北、風観岳の尾根筋に、巨大な三角の「三方塚」が残っているそうで、両者の舫塚(もやいづか)といわれている。三方とは佐賀領大渡野村と諫早領破篭井村と大村領鈴田村との境を示したものです。長崎街道には江戸時代街道沿いには松並木が広がっていたそうです。太平洋戦争末期に完全になくなってしまったそうです。

峠を越えて暫く旧道の山道を下っていきます

樹木で薄暗いも快適な道です

藩境から700m程進んだところで、左に 大渡野番所跡碑 が立っています

番所跡の石垣 も苔むして残っています

更にその先大きく蛇行しながら進みます。
峠を登り始めて、一人として会わない静寂そのものの街道歩きです薄暗いが不思議と恐怖のない峠越です

街道を偲ばせる、苔むした石垣が残っています、昔のままの道筋

長崎街道(大村街道)の説明板と碑
大渡野番所跡碑から800m程進んだところに街道説明板

長い峠の下りを蛇行しながら東に進み、34号線に近づいて、南の方向に道を変えます

街道案内板から下大渡野町に出てきたところです。
振り返ったところで、峠道は高くはないが、非常に長い区間で、当時の旅人の人達は苦労したことでしょう

下大渡野町の破籠井バス停の手前、南への道を振り返る。向かって右(東)への道は34号線に出ます。手前に進みます

やがて破籠井バス停に出ます、道幅も少し広く舗装もされ平坦な道になります

破籠井の里を進みます、平家伝説の里で、平家の落人墓等遺跡 があります。右手にあった 阿蘇宮神社を見落としました

さらに南に進んでいくと、下篭井バス停のところの変則な辻に出ます。この辺りがかつての 一里塚跡 です
バス停のところで、枝道が出ていて、やや幅の広い道が分岐しますので、左(南東)の道を300m程進んでいきます

34号線の明峰中学校前信号交差点に出ます。交差点を横断して真っ直ぐ南東に進む。栄田名地区です

信号交差点がありますが、34号線の右手にある歩道橋で横断して、今歩いてきた街道方向を見たところです

暫く栄田町をすすみます、右手に長崎ウエスレヤン大学・鎮西学院高校・鎮西学院幼稚園と続きます。かつては一帯には民家もなく畑が広がっていたとのことです

坦々と静かな道を700m程右の学校見なが進んでいきます。振り返った写真

鎮西学院幼稚園の切れたところで、道は分岐しますので右の旧道を進みます。分岐を振り返ったところです

右の道の右手には御館山小学校があります

小学校の前から振り返る。学校等が多く集まっている文教地区の街道です。また少し進んでいった右手には、小鳥居諫早病院があります

さらに南に進んでいくとT字路に出ます、その右角に 岩茶屋跡碑 が立っています、ところてんが名物であったそうです

碑の傍には庭先にあった、亀甲文の岩 がありますT字路を左に折れて進みます

左に折れて130m程進みます。途中右手に毎熊精肉店があります

さらにその先70m程進むと変則な五差路に出ます。旧街道は右斜めの道と真っ直ぐの道の間を進んでいたが民家で消失しています。右側の道を進みました

 (先にこの先の街道を説明します)
この先写真を永昌追分まで写真を撮っているのですが、記憶と写真がうまく一致しないので文章で進みます。
右斜めの道を迂回します、迂回道を80m程進むと、ながさき看護センタ―に突き当るので、左に数十m折れます。正面に上田ハイツがある前の道を右に折れて、右にながさき看護センターや長崎県央看護学校・永昌町公民館を右に見ながら120m程進みます。永昌町公民館の東側で広くなった変則な辻を左に十m程折れて、美匠堂表具店の手前の道を右に折れると旧道の復活です。
右に折れて120m程南東に進むと、道が路地になり、永昌追分の辻に出ます、T字路になっていて街道は右に折れます。
かつてここ左角に、永昌追分石(諫早郷土館に移設)がありました。またその辻南側には人馬継立所(問屋場跡)がありました。
追分の突当りを右に折れますが、左に入る街道は長崎街道多良通りです。

すぐに 【永昌宿】で、諫早城下に続きます。この追分は永昌宿の西の端になります。
時間がないので残念ながら寄り道ができません。
また残念ながら、追分の辻が写真に撮れていませんので非常に残念です。 追分で街道は西に向きを変えます

西に進み550m程行くと、小船越町で広い車道に突き当ります

 車道を地下道で潜り南側に出ます

南側に出た街道は

地下道で潜り信号交差点を横断した先から振り返ったところです

緩やかな坂を上ると分岐しますが右真っ直ぐな道を進みます。左一帯には御館山公園で御館山(標高99.9m)があり、頂上には展望台・御館山神社があります。

今日はここで終了、諫早駅まで移動して長崎駅近くの長崎ワシントンホテルに宿泊します。30km程歩きました。

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