鳥羽街道(鳥羽作り道)

2011年8月27日

京阪淀駅~京都羅城門跡

今日は鳥羽街道と竹田街道を歩く。いつものように自宅4時15分車で近鉄橿原神宮駅前の駐車場に車を預け5時13分発で京都近鉄桃山御陵前駅へ京阪電車に乗り換え淀駅へ。

鳥羽街道の歴史は古く平安京ができると京の玄関口の羅生門から鳥羽を経て淀までの 鳥羽作り道 が開かれた。淀からは舟で淀川を下り大坂にに至る。豊臣秀吉が伏見城を造るとそれに合わせて、伏見の南に広がっていた巨椋池の低湿地帯に大規模な堤を造り、治水・道路工事を行った。下鳥羽~納所間の桂川左岸に堤防を築き、また伏見~納所間の宇治川右岸に堤を築き、また淀~京橋間の淀川左岸のも堤を築いて、京都=大坂、伏見=大阪間の陸路を完成させた。

羅生門から下鳥羽までの鳥羽作り道と新たに開かれた桂川左岸の堤道が、今回の鳥羽街道で、旧千本通りにあたる。

淀駅6時40分スタート  羅生門跡到着11時30分  24.655歩 14.79km 
鳥羽・竹田街道補足分 8月30日 上鳥羽駅6時45分スタート9時40分桃山御陵前駅の着く  15.434歩  9.26km   

京阪淀駅

淀駅西口側を少し南西に100m程歩いたところの淀本町商店街。朝が早いので人通りもなく学生が手前左のコンビニで数名集まっていた。スポーツで競技に出かける様子

本町商店街に入る前に向かって左に少し行くと淀城址が、現在淀城公園となっている公園の一角にある

                     式内与杼神社

淀屋ゆかりの高灯籠

江戸時代初めの豪商ゆかりの大坂淀屋の高灯籠、初代岡本与三郎はこの地の出身といわれ幕府も一目置く程の財産を有したが、1705年5月財産没収の処分を受けた。が1763年大坂北の地(淀屋橋の南詰め一帯)木綿問屋として再興を果たした。そのとき淀屋ゆかりの者が灯籠を寄進して再興を宣言したと言われている

同じ公園内にある 稲葉神社稲葉神社の祭神と淀藩祭神は淀藩稲葉家の祖である稲葉正成。先妻の死により再婚したのが明智光秀の重臣斎藤利三の娘「福」で後の春日局である

秀吉に仕えていたが、関が原の戦いでは徳川家康に味方してその功により後に大名に列せられた。1628年江戸にて没す。

その後、稲葉家は初代より5代目の正知の時、1723年下総国佐倉より十万二千石で淀藩に入封した。その後明治4年十六代正邦の時に廃藩を迎えるまで、稲葉家が十二代百四十八年間にわたり淀藩主であった。

淀城址の石垣跡と城跡石碑、唐人雁木旧跡の石碑

淀城と堀と石垣

旧京阪国道からの淀城の森

京阪国道納所の交差点国道は真っ直ぐ、鳥羽街道(千本通り入り口)はその左斜めに入る道がある。車のところ。

納所の交差点を左に直角に折れて少し行くと宇治川に突き当たる。ここがおそらく船着き場辺りであったのだろう右は宮前橋

鳥羽街道千本通り入り口。

入り口直ぐの左に鳥羽街道の船着場をしめす唐人雁木旧址の碑。納所交差点で宇治川に突き当たっていた(平成2年の新しい碑)

少し進んだ右に 法行寺。

その先左に 小さな地蔵

小さな 五番ノ橋を渡る

橋を渡った右手に お地蔵さん

更に右手に 念仏寺。

念仏寺の手前右奥に 妙教寺。

妙教寺の境内には「淀古城址 戊辰役砲弾貫通跡」「戊辰の役東軍戦死者之碑」の碑がある。納所は淀城下の中心地であった。江戸時代の淀城址には天守台、堀、石垣の一部が残る。室町時代に畠山政長が築き、後秀吉が改修して側室茶々(淀殿)住んだ城を淀古城と呼んでいるが、全くその遺構は残っていない。ここ妙教寺が本丸跡といわれている。

街道に戻り進んでいくと左手に 祠がある

その先右に大きくカーブする、また左には宇治川が迫っているところの左にある祠

堤防からの宇治川

旧道右手の森の麓に 戊辰戦争の幕府軍戦死者の碑が建っている。鳥羽街道沿いには戊辰戦役の遺跡が残る。

暫く進んでいくと、横大路富ノ森町の家並み

その先右手に 浄土宗阿弥陀寺

街道両側には、街道風景を彷彿させる名残りの大木。

横大路上ノ浜町に入ると左手に 真宗浄徳寺

横大路上ノ浜町の町並み。

少し進んだ右手角に、飛鳥田神社に参道の常夜燈すぐ先右手に 祠がある。

左横大路小学校の北側に 西光寺。

その先右に 常夜灯が建ち横大路草津町。国道79号線の高架を潜る、左が羽束師橋

高架のところを少し左の堤防に行けばサイクリングロードのところに、魚市場遺蹟の碑が立つ「草津の港(現在の横大路)」は桃山時代から多くの鮮魚問屋が軒を連ね、江戸時代には幕府から公設の魚市場として水上交通の拠点として栄えた。現在の京都中央市場のルーツといわれている。当時淀川の三十石船は常に200隻~300隻が出入りし、瀬戸内などからの引き船が夜を徹して淀川を上り新しい鮮魚などを「走り」という問屋の仲士が京都初め近畿各地に運んだという。明治10年京都~神戸間に鉄道が開設されるに至り、集積地は京都駅に移り、隆盛を誇っていた草津の港も徐々に寂れていった。

淀川に架かる羽束師橋とかつての草津の港。現在ではその風景を想像することができない。

元の街道に戻る、高架を潜ったところ左手に 田中神社御旅所がある

田中神社御旅所の隣にある藤田権十郎邸・藤田四郎右エ門邸跡の石碑

その先の信号分岐。道は左の堤防に沿って進む

左が堤防で一段低いところに旧道。下鳥羽南町右手に 一念寺。

堤防からの上流と下流の景色。

その先下鳥羽南三町の右手民家の塀際にある 鳥羽伏見の戦跡の碑

その先右に 天然寺。

境内に 戊辰東軍戦死の碑、隣に 大東亜戦争戦没者の碑

さらに進むと 田中神社御旅所。

右手の下鳥羽北三町に、本願寺

その先右の民家の庭口に 愛宕神社常夜灯。

その先で川側に目を向けると、 鳥羽の大石この石は鴨川の水中から引き揚げられた。なんの石か確固たる説はないが、1662年5月京都を中心に大地震が発生。当時、ここ下鳥羽三町付近の鴨川に「鳥羽の港」があり栄えていた。この大石も二条城の地震による石垣改修工事の石材として使われるため、瀬戸内海の石切り場から水運で鳥羽の港へ運ばれる途中川底に沈み、現在まで眠っていたと考えられる。二条城の石の調査によりこの石とよく似ており今はその説が最も有力。

右奥に下鳥羽小学校をみて、下鳥羽長田町に入り、街道は右にカーブする左手にある。江戸初期創業の「月の桂」醸造元、増田徳兵衛商店が伏見の街並みらしい風情を醸し出している

建物の左手袂に、愛宕山常夜燈と祠がある

増田商店の向かいに 栄昌山常高寺。入口の石碑に 今出川菊亭右大臣鳥羽殿の碑。

直ぐ先右手から広い丹波橋通りが合流する。少し左にカーブするところの交差点

右の丹波橋通りの遠望に、伏見桃山城の天守閣が小さく見える

交差点を左にカーブした右手にある恋塚寺。下鳥羽城ノ越町に茅葺の山門の小さなお寺がある。恋塚浄禅寺と同じ浄土宗のお寺で、恋塚の由来も同じ物語である。茅葺の山門

塚は五輪塔でなく宝筐印塔で袈裟御前恋塚。

暫く進んだ右手に、可愛らしいお地蔵さんが並ぶ。

さらに進むと右に 飛鳥田神社。

千本通り赤池交差点を横断。

暫く進むと金網の向こうにグランドと森がある、鳥羽離宮跡

平安時代、白河上皇が造営した離宮で、東西1.3km、南北1.1kmという広大なものであった。公園内の築山「秋の山」には鳥羽伏見戦い顕彰碑が立っている。鳥羽離宮は1086年白河上皇にはじまり、鳥羽、後白河、そして1221年後鳥羽上皇が鎌倉幕府と承久の乱をおこして敗れ隠岐に流されるまでの135年にわたる院政時代の舞台となった場所です。その後荒廃したが、再び幕末戊辰戦争の勃発により表舞台の歴史に登場した。薩摩軍は直ぐ西の城南宮に陣を構え、大阪から北上してきた幕府軍をここで破った場所でもある。

                       離宮阯

鳥羽離宮跡公園を右にみて2筋目の交差点を街道は左に行くが。

ここを右に折れて、鳥羽街道を歩くうえで(寄り道)城南宮付近を巡る。交差点右手手前に 灯籠。

一筋手前の道を右に折れ200mほど西に進むと京阪国道1号線の渡ったところに、城南宮の西の鳥居と参道がある。

1号線を渡る手前右手にある 祠。ただ1号線の道幅も広くとにかく車の量が多く左の信号交差点に回る

城南宮の参道を進んでいくと、城南宮南の正面の朱色の鳥居。

鳥羽伏見の戦い跡

ここ城南宮から、明治維新を決定づける戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いが始まった。慶応3年(1867)12月9日の王政復古大号令で幕府は廃止され。徳川慶喜は京都二条城から大阪に退いた。しかし慶応4年正月2日、旧幕府兵、会津、桑名両藩の兵が大坂から京に向かった。これに対し朝廷では、薩摩、長州、土佐等諸藩の兵が鳥羽と伏見に繰り出し、鳥羽では城南宮から鳥羽街道の小枝橋に至る参道に、伏見では御香宮神社一帯に陣を構えた。翌1月3日都を目指し鳥羽街道を北上する旧幕府軍は、城南宮から南南西5百mの地点に達し、長時間対峙した。夕闇が迫り強行突破の構えを見せるや、薩摩軍の大砲が轟き、続いて伏見でも両軍が衝突、激戦となったが、4日も下鳥羽から伏見にかけて戦闘が続いたが、仁和寺宮嘉彰親王が錦の御旗を奉じて御所を出陣との報が伝わり、官軍となった新政府軍の士気が高まった。5日、錦の御旗は鳥羽街道を南に進み、旧幕府軍は淀、八幡へ退却、新政府軍の勝利が決定的となった。こうして新しい時代が始まる歴史的な一帯である。

城南宮

平安遷都の際、都の南に国の守護神として創建され、国常立尊、八千矛神、神功皇后をおまつりする。平安時代の末、この地に白河上皇によって城南離宮(鳥羽離宮)が造営されると一層あがめられ、城南祭りでは流鏑馬や競馬が行われた。また後鳥羽上皇の鎌倉幕府との承久の乱や幕末の戊辰戦争の舞台として歴史に名が残る。また神苑「楽水苑」は「源氏物語 花の庭」と称され、四季の風情に富む名園として名高く春秋には、「曲水の宴」が雅やかに行われている。

境内にある 唐渡天満宮

境内の 真幡寸神社。

城南東鳥居。

熊野詣で出立の地、白河、鳥羽、後白河、後鳥羽上皇の熊野詣での際、儀式を行って出立つされた

神苑の庭 曲水の宴が秋春におこなわれている。

本殿

城南宮の見学も1日目は終わり。2日目補足の時に角の1号線交差点からこの近くの史跡を廻り寄り道をした。

火消地蔵尊と西行寺跡。

西行寺

白河天皇成菩提院陵

天台宗の単立寺院で一般に北向不動の名で親しまれている。1130年鳥羽上皇の勅願により鳥羽離宮内に創建され、興教大師を開山とする。北向山不動院

近衛天皇安楽寿院南陵陵

真言宗安楽寿院

鳥羽天皇安楽寿院陵

鳥羽街道を歩く上においてこの地区は寄り道欠かせなかった。もう少しゆっくり見学したいが時間がなくまたの機会にする。

元の交差点に戻り鳥羽街道スタートする。交差点に立つ案内標示。

交差点の北が二は、鳥羽伏見戦い跡の石碑と道標

鳥羽伏見の戦い勃発の地の案内板

明治元年正月3日夕刻、この付近で起きた戦いが「鳥羽伏見の戦い」の発端となった。幕府軍が約2万、新政府軍は約5千の兵力であったが、新政府軍との兵器の威力の差が歴然としていた。新撰組の土方歳三や永倉新八らが加わった。しかし正月6日幕府軍は敗退し大坂城に向け退却した。

石碑を右に見て交差点を進む。鴨川に突き当たる、かつてはこのまま鴨川を渡河していたが、今はすぐ右手50m程先の鴨川に架かる小枝橋を左に折れて渡ります。

鴨川に架かる小枝橋をみる

昔の小枝橋は先ほどの交差点から来て鴨川に突きあたり右にカーブしたが、実際はそのまま真っ直ぐ鴨川を渡っていた。
旧道は小枝橋を渡り直ぐの道を右に折れる、大きな建物の手前辺りが旧道

対岸の堤防の大きな木、この辺りから現在の新城南宮道を横切り旧道に入っていたと想像する。

ここで私は大間違いをしでかした。橋を渡ってすぐの道に何故か気がつかず、その先50m程の大きな交差点をうっかり右に折れて、おかしいと思いながら1時間弱新しい千本通りを進んでしまった。結果的に久世橋通りまで行って、道を聞いたところ、旧千本通りはもっと西であった。止むえず旧千本通りと、久世橋通りとの交差点まで結構時間がかかってしまった、戻る時間もなかったのでそのまま途中で旧道に復活して終点地まで歩いた。

間違った交差点を右に折れた

名神高速道路を潜る。

真っ直ぐな新道を進むこの先単調な長い道のりを久世橋通りまで歩いた

今日はこのまま鳥羽街道を羅生門の終点まで完歩したが、何かすっきりせず、後日竹田街道を歩いた時、先に間違った道を修正、正しい旧道を歩きなおした。

                後日竹田街道の後、正しい旧道を歩く。

小枝橋を渡り直ぐのところを右に折れる旧道。100m程で名神高速道路を潜る

名神高速道路を潜った先の鳥羽街道であるが旧道の面影がなく民家も新しい

暫く歩いたところで、左の民家の脇にある 祠。

その先、左にカーブする右手に 恋塚浄禅寺

ケースに入っている板碑袈裟御前の墓は五輪塔袈裟御前の墓がこちらにもある。

地蔵堂は京都六地蔵の一つ。石仏やお地蔵さんが境内に沢山並んでいる。

恋塚浄禅院を右に見て左にカーブ。

上鳥羽地区の街道を真っ直ぐ進む左手に祠がある

その先直ぐに交差点左手に 行往院

更に真直ぐな旧千本通りの街道の街並みを進む

上鳥羽岩ノ本町バス停近くに2つの 祠。地元の方が清掃されている。

その先、信号交差点を左に折れた直ぐのところにある、 苅萱道心・・・跡の石碑

その先、上鳥羽城ヶ前町、右奥には上鳥羽小学校があり街道沿い左手に旧家

信号交差点右手に 妙蓮寺

信号交差点は久世橋通り旧千本交差点。前回この交差点まで間違って歩きここで合流した。

上鳥羽北島田町付近の街道。

祭りがあるのか街道両側に お地蔵さん

その先の信号交差点

交差点の先、右手に北元上ノ町の お地蔵さん。

この先の信号交差点も直進。

交差点を渡ると右に 祠。更に右手に祠がないがお花が供えられた お地蔵さん

十条通り、十条旧千本交差点を横断するその手前左にある吉祥院和渚宮の常夜燈

少し歩いた上鳥羽唐戸町の右手にある 祠

鳥羽街道の起点、九条通りと旧千本通りとの交差点。この北側に昔、二層の楼門羅城門が立っていた。平安京の正門入り口であった。羅城門から大内裏までは中央大通りである朱雀大路が一直線にのびていた。

正面は 八取地蔵。

九条旧千本通り。

羅城門跡の石碑

羅城門跡から旧千本通り(鳥羽街道)を見る

矢取地蔵の裏側の小さな児童公園の中に、鉄柵で囲まれた羅城門跡を示す石碑だけがここに羅城門があったことを示す遺構である

羅城門跡

平安京のメインストリートである朱雀大路の南端に設けられた。都の表玄関にあたる大門sで、この門を境に京の内外を分けた。816年に大風により倒壊し、その後再建されたが980年の暴風雨で再び倒壊した後は再建されることはなかった。11世紀前半に藤原道長が法成寺造営のため、門の礎石を持ち帰った記述が「小右記」にあり、この頃には門の礎石や基壇のみの姿になっていたと思われる。

旧千本交差点の九条通り、九条通りを東に進んでいくと東寺

                鳥羽街道(鳥羽作り道)完歩






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